2019年1月11日金曜日

舞台照明のすごさを思う

ある意見Aを発する人が「主演俳優」として舞台に立っているものとする。

あなたはそれと異なる意見Bを持っていて、舞台に殴り込んで「もう一人の主演俳優」となるべく立ち回る。

このとき、それぞれの俳優が

「相手を殴り倒すこと」

だけを考えていた場合、それはもはや舞台ではない。

「観客」のことを考えていないからだ。

自分の正義を押し通すことに夢中になるあまり、観客からどう見えるかが頭からすっとんでしまうと、舞台の完成度は著しく下がる。端的にいえば見苦しくなる。



観客の心に何が届くか、どう届かせるかということを考えると、俳優がもつ「論理」とか「正義」をただ振りかざせばよいというものでもないのだろうという気がする。

論理を届けようとするあまりに、なにか卑怯なことをしていないか。

相手の言葉をさえぎってばかりいないか。

自分ばかり正しいとアピールしすぎていないか。

そもそも、論理とか正義というものはひとつに決めることができるのだろうか。

「あきらかにおかしい」「あきらかに間違っている」というのは本当にあきらかなのだろうか。

あなたがそうやってとうとうと論理を語る姿は、観客にどう映るか。

あなたはきちんと考えているだろうか。

ぼくは、きちんと考えているだろうか。




論理を装備して舞台上の相手を殴る「演じ方」は本当に有効なのだろうか?




かといって、「語る姿が、観客にどう映っているか」ばかり考えすぎるのもうっとうしい。

言葉の正確性とか、論理の妥当性をないがしろにして、観客にうけのいい言葉ばかりを選ぼうとする俳優。

観客からみると、そういうことはそれなりに伝わってくる。

ああ、こいつのことばは、舞台上で見栄えよくするためだけに発せられているのだな、ということを、なんとなく察する。




観客がどう思うだろう、ということを意識しつつ、論理をきちんと保って「演じる」ということ。

これは本当に難しいと思う。

ぼくは今、自分から「観客性」が失われつつあると感じている。

「発信する立場の自分」が大きく肥大し始めている。

情報の受け手に回っているタイミングであっても、つい「自分だったらどう発信するか」に気を回している。

こうなってくるとまずいのかもな、という危機感がある。

どれだけ眺めて、いつどのように演じるのか、そのバランスが崩れ始めたとき、人はあわてて変なことを言い、つくろい、惑う。




ぼくは今、「患者」が主演俳優である舞台に、どう立とうとしているのか?

そもそもそこに立つことが正しいのか?

正しいかどうかという視点自体が適切なのか?

舞台に上がるとしたらそれは誰のために、何のために上がるのだろうか?

観客席にいるとしたら、ぼくはそこで何をするのだろうか?




答えがあることとないことがそれぞれある。

現段階でいえることは、

「敵を設定して演じる役者は、バトルものでしか活躍できない」

ということくらいで、あとはまだ、よくわからないことが多い。