2019年2月21日木曜日

病理の話(296) 患者に二択を求めてはいかんのですがね

世の中には、白黒はっきりさせなければいけない医療と、グレーな部分を大事にしなければいけない治療とがある。

……この話をすると、必ずといっていいほど、

「いやいや、白黒はっきりさせたがるのはよくないでしょ。

むしろ世の中はすべてグラデーションでしょ。

医療ってのはヒューマニズムなんだから(?)、

AかBか、みたいな二択で決められることの方が少ないでしょ。

考え方を柔軟にしなきゃ。」

みたいな絡み方をしてくる、「ファジー最強論」を唱える人が出てくる。

でも、現実には、「白黒はっきりさせなければいけない場面」はすごく多いのだ。




たとえば、この薬を「飲むか飲まないか」。

手術を「するかしないか」。

いわゆる治療の選択肢において、究極は、二択なのだ。

「ぼくはこの薬を、80%飲みます。」というやり方は認められない。

「私は胃の手術を6割までやってもらいます。」ということはありえない。

やるならやる。やらないならやらない。

だから、医療において、特に「診断」においては、最終的にはこの病気が「AなのかBなのか」、あるいは、「AなのかAでないのか」という二択を攻める必要がある。




治療だけじゃないぞ。

ゲスくて現実的な話をしようか。

「がん保険」に入っている場合、自分のかかった病気が「ある種のがん」か「ある種のがんではない」かによって、払われる保険金額は変わってしまうだろう。

「ある種のがんである確率が40%ですので、保険金を40%分払ってください」ということは認められない。

そう、医療だってビジネスだ。

お金の支払いというのは、基本的に、「AなのかBなのか」、あるいは、「AなのかAでないのか」という二択で決まってくるのだ。





ほかにもいろんな例が挙げられるのだけれど、結論を急ごう。

医療において、診断の究極というのは「AかAでないか」にある。

でも実際には生命は、(ご存じのとおり)ファジーだ。

ファジーでグラデーションがかかっていて、あいまいで、誰もが人とは違う物語を持っている。

そんな中で、「Aです」「Bです」と、ビシッと決める作業をする人は、すごくドライに思われる。冷徹に思われる。人でなし。鬼。悪魔。編集者。





医療者も患者も同じ人間同士だ。

だったら、お互いに、グレーなところを大事に抱えて、無理に二択に落とし込もうとせずに、毎回きちんと会話をして、すりあわせたほうが、勘違いが起こらなくていい。不信感もわきにくい。




だから医者はときに答えを濁す。複数の可能性を提示する。確率でものをしゃべる。誠実に。

患者はときおり困る。

「がんなの? がんじゃないの? 結局どっちなの?」

そういうときに、沈着冷静に、割り切って、ビシッと言ってくれる人がいればなあ……。






というタイミングで頼られるのが病理医、という側面がある。

ぼくらは細胞を見て、「がんか、がんじゃないか」を決めるという仕事を(主に)している。

二択を延々と説き続けて、突きつけるのだ。

この二択が「現実に即していない部分がある」なんてことは先刻承知である。

それでも、「もしあえて二択にするならば、どっち?」と、医者も、患者も、尋ねたいときがくる。

そのときに、「ファジーさをすべてわかった上で、こっちだよと踏ん切りをつける」のが、病理医の役目の一つなのかもな、なんてことを思う。