2019年3月4日月曜日

四面体まであと一歩

毎日、気づけば、応援をしている。見知らぬ人の応援。

いいねをおしたり、リツイートをしたりして、応援をしている。

顔も知らない人の、たかだか80文字程度の何かを読んで、そうかあがんばれ、うまくいくといいね、とつぶやき、応援をしている。



自分が生きたかもしれない人生、そして自分のものではない人生に、心の投資をする。

そうすることでぼくは、

自分が何かを成し遂げていないとき、

「人が何かを成し遂げる過程に絡んでおこう」とする。



他人の喜びは自分の喜びではない……。

でも、他人ががんばっているときに自分がいっちょかみしていれば。

その他人が成功したときに、自分も、成功の立役者のひとりとして、1%くらい、あるいは、0.1%くらい、成功者の気分のおすそわけをもらえるかもしれない……。





こんな底意地の悪い発想が自分にあるのではないか、と、しばらくの間、心を探っていた。

「情けは人の為ならずという言葉を都合良く解釈してはいないか?」

「その応援、一味になりたいという下心あってのものではないか?」





応援される方もよくわかっているのだ。そんなことはとっくにわかっているのだ。

ぼくらは大人だから、自分たちの利己的な一面をよく知っている。

応援することで気持ちよくなるなら何よりじゃないか、と、人の応援を見ながら考えることもある。

だったら自分だって、どこまでも利己的でいいじゃないか、どんどん自分のために誰かを応援していけばいいじゃないか。

ぼくは「自意識サーキット」で耐久レースをする。

何周も何周もしている。

自分のため? 他人のため? 自分のため? 他人のため?

自分の「いいね」が持つ、きれいな意味と汚い意味を、ときどきピットインしながら、何度も通過していく。




ぼくがすでにいいねを押した回数は多い。ツイッターだけでも87000回くらい押している。

ぼくは87000回のおすそわけを期待していたのかもしれない。

けれども、どれだけの数のいいねが、実際におすそわけとしてぼくに帰ってきたのか。

もはや全くわからない。




この世にはおすそわけの曼荼羅みたいなネットワークが張り巡らされている。

とっくにわかっていたことだ。

どちらかがどちらかに一方的に与える関係など、観察しようもない。

いいねを押す人と押される人、みたいな、

「与える人ともらう人」という関係は、

実は元々存在しないのではないか……?




サーキットを離れて空に飛ぶ。

「いいね」はもしかするとケアのかたちなのではないかと思い立つ。

「居るのはつらいよ」を読みながら、ケアについてずっと考えていた。

ケアはする人とされる人に分かれる……と、こないだまで思っていた。

けれども、「勉強を教える生徒のほうが教わる生徒よりも勉強になる」ことがあるように、

ケアもまた、「ケアをしているほうが癒やされる」こともあるのだという。

「する」ではなく、「ある」「いる」という医療。

「ただ、いる、だけ」の、重み。そして、力。




「いいね」もまたケアなのか。

押す人も、押される人も、「いいね」の両端にいて、共に「いいね」を支えているだけなのではないか。




ぼくは診断・治療・維持でいえば、診断畑の人間だ。

診断・治療・維持。

デシジョン、セラピー、ケア。

医療におけるさまざまな「評価と分類、決定」(診断、デシジョン)を司る場所にいて、

患者に能動的に何か変化を与える「介入」(治療、セラピー)に強く影響を与えながら、

今、ずっと気になっているのは、「居続ける」(維持、ケア)。




ケアのカギは「いいね」にある。

ぼくはこのピースをきっちり深めていきたい。

その先に、ぼくの仕事が今よりずっと迫力をもって立ち上がってくるのではないかという気がしているのだ。