2019年6月28日金曜日

病理の話(338) 誰に向けてレポートを書くのか

今回の記事は特に研修医あたりをターゲットとして書く。




……と、いうように、記事にはある程度のターゲット設定がある。誰でもやってることだろう。札幌のすし屋についてのブログを書くならターゲットはおすしが好きな人。ナマモノがいっさい食べられない人は、すし屋についていっぱい書かれたブログはあまり読まないと思う。

もちろん例外はいくらでもあるだろう。自分ではおすしは全く食べないけれど、札幌にお客さんがやってくるときに、おすしを食べたいと言われたから急いでお店を探している……みたいなニッチな人も、記事にたどり着く可能性はある。

だからといってブログ記事の最初の部分に、

「みなさんこんにちは! おすし好きですか? おすし食べられない人もいますか? おすしが好きな人は自分がおすしを食べるときのことを、おすしが食べられない人は誰かにおすしを食べさせるときのことを、おすしで商売している人はすし屋がどれくらいもうかるのかってことを、考えながら今日の記事を読んでみてください!」

とは書かないと思う(こんな記事も読んでみたいとは思うけど)。



やっぱり書き始めるならこうだろう。

「おすし、おいしいですよね! 今日は札幌のステキなおすし屋さんをいっぱい紹介しますよ!」






病理診断報告書、すなわち病理のレポートも、これと同じだと思う。

どんな人が読むかはわからない。ターゲット外の人が読む可能性はある。

だから、病理に対して知識がある人も、知識がない人も、読みやすいようにレポートを書くというのはきわめて大事なことだ。レポートをバリアフリー化しておく、みたいな。

けれどもその上で、やはり、病理レポートというものは、

「病理診断に興味がある人がよろこんでくれるように書く」。

「病理診断に期待している人をターゲットとして書く」。

これがいいんじゃないかなーと思うところがある。





どうせ大多数の人は専門的な病理レポートなんて読まないだろ? 良悪だけわかってりゃそれで大半の臨床医は十分なんだからさ!

とか。

あとで責任問われないように、Aという意見とBという意見とCという意見をひたすら併記しよう。この所見はAにマッチするけれど、この所見はBにマッチするし、しかしこの所見がCを示唆するから……

とか。

これって病理診断を大事にしている、病理診断に興味がある、病理診断をよりどころにしている、本来のターゲットたる人を、ないがしろにしたレポートじゃないのかなーと思うのだ。





すべての文書は当たり前だけどコミュニケーションである。ツールというよりも、文書そのものがまさにコミュニケーションの現場そのものだ。病理医というのは患者や医者と直接しゃべる機会がそれほど多くない(多い人もいるけどさ)。だからこそ、文書の中に、自分の思いの丈をほどよく書いておかなければ、それはやっぱり、伝わらないのである。病理に興味がない人もいるからさあ、とか、病理にあまり難しいこと書いても臨床医はわからないだろうしさあ、とか、そういう言い訳はおいといて、とりあえず、病理医自身は、何を思って何を信じて何を伝えたいのか。




という内容の今日の記事を、ぼくは今日、病理医に興味がありそうな研修医をターゲットとして書いた。

2019年6月27日木曜日

ビジーフォーって元祖ご機嫌だよな

今となっては何をやりたかったんだかまったくわからないんだけれど、なんかしみじみおもしろかったインターネットシングスがあるので、今日はその話をします。



デスクに向かっていた。右手でツイートをふぁぼりつつ、左手で、右腕のつけねに生えていた

”うぶ毛のくせに一本だけ、髪の毛みたいに太いやつ”

を抜いていた。分化異常だなーとか思っていた。

そこでふと、なぜか、思い付いたことがあった。

「ウガンダ・トラって人いたな」

いや今もいるけれど、なぜか突然、ウガンダ・トラという人のことを思い出した。

ふと、ウガンダ・トラのことが、うかんだ。

ここでフフッダジャレやん、と終わらせてもよかったのだけれど、そこから先、少し気になることがあった。

ウガンダ・トラって人はいたけれど、では、ウガンダにトラは生息しているのだろうか?

気になりますよね?

さっそく調べてみました!

Googleに「ウガンダにトラはいるか」と入力して……検索!

検索の一番上に表示されたのは……

















 イ ン ド ラ イ オ ン

 ウ ガ ン ダ で も ト ラ で も ね え






で、まあ、ここから、普段であれば、「○○病はどうやって治るか」みたいなGoogle検索の危険性、みたいなことをじゃんじゃん語るほうに進んでいくのがこのブログなんだけれども、ぼくは昨日、歯医者で歯石を激しく取ってもらったせいで、歯茎が少し腫れていて、機嫌がわるいので、そういう頭のよさそうなことはまったく言わずに、ひとつ、今日、気になったことを書いて終わりにします。











「ウガンダ」の理由はわかった。「トラ」の理由がいまだにわからない。

2019年6月26日水曜日

病理の話(337) 免疫組織化学マニアックス

ピンホールメガネ的な原理で、むかしの人は細胞をみる手段を手に入れた。

おっおっ拡大したらなんか見えたぜ、からよくぞここまで発展してきたなあーと思う。

たいしたもんだよね人の脳。

ただ、細胞を拡大すればするほど、中身が気になり始めた。

極端なことをいうと、どこまで拡大しても細胞の「中」に何があるかがよくわからなかったのだ。

ミジンコとかミドリムシみたいに、拡大することで中がすけてみえる程度のものでガマンしてればまだよかったんだけど。

ぼくら、もっと、ほんとに細かいとこまで見えたら楽しいんじゃないの、みたいなことを考えちゃったんだね。

考えたから工夫した。

細胞が見やすくなるように色つけてみるべや。

一色じゃなくて二色で染め分けてみるべや。

ケミカルな物質をいろいろ探っていくと、植物由来のオーガニックな色素が、たまたま細胞の核とよばれる部分をめちゃくちゃそこだけきれいに染めることがわかった。もう小躍りした。

小躍りしてなんかいろいろ細胞のことがわかって、これで科学はめっちゃ発展するだろうって思った……。




ところが、細胞を拡大してよろこんでいた人とは別に、細胞をとかしてよろこんでいた人もいたんですよ。

拡大すると構造がみえるじゃん。

とかすと成分が分離してきたんだよ。

最初はほら、水とアブラがわかれたんだ。細胞をいっぱいすりつぶしたものをごっちゃにまぜて、なんか分離作業とかしてたら、水っぽい部分とアブラとがわかれてきた。

おー細胞ってひとつふたつの成分でできてるわけじゃないみたいだぞ、となった。

でここからが人類のえらいところでね。

水とアブラだけじゃなくて、もっと細かく、いろいろわけたの。

主に物質の重さとか比重とか電荷とかが違うってことを利用してね。

成分をどんどん抽出したんだね。人間って抽出するの大好き。すぐエキスとっちゃう。エキスってエキストラクトって意味だからほんとはすりつぶしたってだけの意味なんだろうけど。すりつぶしたらそこから「有効成分」みたいなのを探して通販に出すの大好きだから。ついめちゃくちゃ細かくわけちゃった。

そしたら、細胞の中には、無数のタンパク質があるってことが明らかになった。

水とアブラだけじゃなくてね、タンパク質、ほかもろもろがあることがわかったんだな。

しかもタンパク質を種類ごとにわけることもできたんだな。




あのねえ細胞を顕微鏡でいっくら拡大しても、タンパク質そのものなんて見ることはできないのよ。

ラーメンが目の前にあって、それを顕微鏡で拡大してさ、うまみ成分が見えてくると思う? 煮干しから出てきたダシの部分と、豚骨からしみ出たコクの部分と、そんなものいっぱいごっちゃごちゃに混じり合ってるから、いっくら顕微鏡でみたって、そのままみたんじゃ絶対にみえてこないわけ。

でも成分を抽出すると出てきたんだよ。成分がさ。ていうかいろんなタンパク質がさ。




そこでね、「顕微鏡班」と、「すりつぶし班」がね、それぞれ好き勝手に、別個の研究してたってぜんぜんおかしくなかったと思うんだけれど……。

彼らは、あれだね。

貪欲だったんだよね。

バラエティ班はバラエティだけ、報道班は報道だけやっててもよかったのにさ。

つい、夕方の大型情報番組、みたいにして、バラエティ的な切り口も、報道的な切り口も、両方やっちゃおう、夕方ビッグバン!みたいなことをはじめたんだよ。




何をしたかっていうとね。




細胞に溶け込んでいるタンパク質、そのままだと、ちいさいし、紛れ込んでるし、わけわかんないから、そこにタグをつけてみた。

タグ。

光るタグ。

ある細胞だけを認識して、くっついて、光るものを用意して、細胞の中にほうりこむわけ。

すると細胞の中でもそのタンパクがあるところだけが強調してビカッと光ってくる。

Google mapでね、札幌 スープカレー とかで検索するとさ、地図の中に、スープカレー屋さんのところだけ、ピンがささるじゃない。ああいうかんじよ。

で、興味のあるタンパク質のところだけを光らせた状態で、顕微鏡をみるんだ。





するとそのタンパクが細胞の中にある状態で、タンパクが光っていることをみることが可能になるんだよ。まあー、これはこれは。すりつぶさなくてもいいじゃない。ていうか、すりつぶすよりももっと、細胞のどこに何があるかがわかって便利じゃない。

まあいっぺんに複数のタンパク質を観察するとわけわかんなくなるんだけどな。札幌 スープカレー ラーメン ジンギスカン で検索したらGoogle mapもぐっちゃぐちゃになるべさ。それと一緒だ。





で、まあ、この、特定のタンパク質を光らせて顕微鏡でみる、みたいな作業を、昔はすごく金かけて、特殊な輝かせ方をさせて、必死でやってたから大変だったんだけど、今はさらに方法が洗練されてね、今では光るっていうか、茶色だったり赤だったり残念な色になったからあんまりおしゃれじゃなくなったんだけどもさ。

そうやって顕微鏡でタンパク質のことを直接みにいく手法のことを、免疫組織化学っていいます。以上おしまい。解散。ラーメン食って帰れ。

2019年6月25日火曜日

正座しとけ

ときおり人間の精神を簡単に語ろうとするツイートを目にする。

絵、模式図、マンガ。

目にするときには既におおくの人にリツイートされたあとだ。

多くの人がこれはおもしれぇなと認めたものが目の前に回ってくる。

よくできている。



人間の精神のありようを言い表したツイートを見ていると、あれを思い出す。

夜空。

星座。

夜空の星の明るい部分をつないだら、ひしゃくの形に見えた、ってのに、似ているように思うのだ。

おおー。

よくこれだけ無数に星がある中から、意味がありそうな配列というか組み合わせを見いだしたなあ。

ほかにも山ほど線は引けるけれどな。だって星はこんなにあるんだぜ。

でも、なんか、一回そこで線を引くと、確かに、これらの星がほんとに、グアッと、前景になって、目立ってくるもんなあ……。

最初に見つけた人、すごいなあー。

最初に星座を固定した人の発言力、すごいなあー。





まあなんかそんな感じなのだ。

「ADHDの人の特徴は」とか。

「うつになりやすい人まとめ」とか。

「○○型性格にありがちなこと」とか。

うん、そことそこを線でつなぐと、それっぽくストーリーになるよねえ。





ほかにも星はあるんだ。

そして、星はたぶん、つながれるためにそこに生まれてきたわけじゃない。

だいいち、その一等星と、その二等星は、何千光年も離れていて、たまたま地球から見たときに近くに見えるってだけなんだ。





わかりやすく結ぶと仕事をした気になる。

何もかも。どんな人も。ぼくも毎日、何かと何かを線で結んでいる。

ブログを毎日更新していたら。

何かうまいことが言えるような気持ちになっている。

これもきっと、星を点で結ぶような勘違いなのかもしれない。

2019年6月24日月曜日

病理の話(336) はたらく細胞という勇者

ずーっと、医療情報をどう伝えるか、という話を考えている。

……いやうそだ、ずっとは考えてないな、たまにだ。

そこまで頭の中、医療情報の教育とか啓蒙にあふれてはいない。

すっごい体調いい日だとして、1日1回考えることがある、くらいかな……。

でもまあ考えてるほうだよ。

もっと考えている人はいるだろうから、あんまり大きなことは言えないけど。




その程度のぼく。

その程度のぼくが、医療情報発信において「最強」だと思っているのはマンガ・アニメの「はたらく細胞」だ。

何度かネットラジオ(いんよう! https://inntoyoh.blogspot.com/ )でも話したし、「よう先輩」の受け売りの部分も多いんだけど、やっぱあれが啓蒙力としては群を抜いていると思う。




免疫、という得体のしれない言葉、漢字の画数は少ないけれどめったに書かない単語から、人々が連想できるイメージというのは漠然としている。わかってるようなわかってないような。


好中球、Tリンパ球、マクロファージ、などと細胞の名前を列挙されてもポカーンであろう。

これは別に素人だから、とか、医療の教育を受けていないから、とか、そういう問題ではない。そもそも医療現場で働いているぼくらだって、知っているような顔をして、実はあいまいであやふやだったりする。

たまに言われることだけど、そうとう優秀な医者であっても、現在の複雑化した医療情報を人に話すときに、自分の記憶だけでスラスラ語れることはまずない。

何も見ないで語っているように見えても必ず相手の目線が届かない死角でスマホをスッスとフリックしているものだ。

たとえば腎臓の機能と電解質とホルモンの関係。

あるいは神経診察の詳細理論。

ピロリ菌陰性胃における食道胃接合部癌のリスク因子。

膵管胆管合流異常症における胆嚢粘膜の変化とそのフォロー方法……。

これを全部暗唱している人がいたら本物の大天才である。

そして、そんな本物の大天才であっても、きっと、甲状腺PTC-CMVとHTNが同じような超音波画像を呈する理由については即答できないはずなのだ。




で、今、いったい何を書いているんだろう、と読者が多少の立腹をしたところで、あらためて、「マクロファージのはたらきかたは?」という質問を投げかける。

「ハァ!? そんなの知るかァ!」

これが普通だ。

非医療者だけではない。医者にとってもだ。

こっそり後ろで検索しなければ、普通は答えられないレベルの質問だったのだ……

「はたらく細胞」が出てくるまでは!





マンガ「はたらく細胞」を読んだことがある人、あるいはアニメ「はたらく細胞」を見たことがある人であれば、

「あーなんかお掃除してるよね。お掃除が得意そう。」

「けっこう攻撃力強いんだよね。スッとやってきてめっちゃ殴ってるね。」

「たしか骨髄の中で赤血球を教育してなかった?」

みたいなことをサッと答えることができる……(ほんとである)。

たぶん、子供でもだ。

これがいかに異常なことか、想像してほしい。





人間は、そう簡単には文字の羅列を記憶できない。それが大事な意味を含んでいるとわかっていても、概念図をいくら描かれても、登場人物が異常に多い群像劇というのは、そう簡単には覚えられない。

相関関係が多すぎるとそう簡単には覚えられない。この一文を口に出すと実はちょっとダジャレっぽいです。




ところが、そんな複雑系に「ストーリー」とか「人格」が加わると、なぜかわからないのだがぼくらはその群像劇を一気に覚えることができてしまう。そして「絵」や「声」が果たす役割が、非常に大きい。

たとえばぼくはもともと司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んでいた。けっこう好きで、何度も読んだ。でもぶっちゃけ坂本龍馬を含めた一部の人間のことしか覚えられないでいた。

けれども、小山ゆうの「おーい!竜馬」を読むと、何十倍もの登場人物の、ふんいき、しゃべり方、どんな立派なことをしたか、何をやらかしたか、みたいなことを一気に覚えてしまった。

NHK大河ドラマ「新選組!」が放映されたあと、世の大半の人々がそれまであまり知らなかった山南敬助や井上源三郎、伊東甲子太郎などに、おもいっきり感情移入してしまうという事件が起こった。これも「一緒」だと思う。





ストーリー、キャラ。これらを支える、絵、動き、声。

こういったものがあると、人間はけっこうな規模の複雑系をまとめて覚えることができる。





ほかの動物よりもはるかに高度の社会性を構築することで我々人類は生き延びてきた。

群像劇の極みである社会を保つ上で、ひとたび【ドラマ】を見たら、すかさずそこに潜む複雑な関係性を理解し、想像し、斟酌して忖度して、感情移入して、所属することができるというのは、生存に必要な本能なのかもしれない。

ぼくらの脳はそういうふうに最適化されているのではないか?








「なーんだ、だったら、医学教育においては、難しい概念をぜんぶマンガにすりゃいいじゃないか。アニメにすりゃいいじゃないか。はたらく細胞だってできたんだろう?」

とんでもない。

ぼくらは「はたらく細胞」をみて度肝を抜かれたのだ。そこ擬人化できるのかよ! と。

考えても実現できなかった。理屈はわかっていたが実現ができなかった。

やれるものならやってみたい。

電解質だって。

神経制御だって。

自己免疫システムだって。

発がんについてだって。

ぜんぶ擬人化して、ストーリーにして、声をあてて、演じてほしい。そのための脚本を用意したい。

けれども難しいよ……。






ほんと、「はたらく細胞」というのは、ぼくら「医療情報発信を志すもの」にとってのラスボスなのだ。

ラスボス?

違うか。

一緒に戦ってくれるんだもんな。ていうかぼくらよりよっぽど強くて優秀だ。やさしくてたよりになる。みんなに愛される。

そう、はたらく細胞というのは勇者なのだ。ラスボスなんかではない。





けれどもいつか倒したい。

2019年6月21日金曜日

だまってふぁぼらせろ

これを書いているのは6月12日(水)の夜。とにかく今週はめっちゃくちゃに忙しい。参ってしまった。

まあ理由ははっきりしている。

軽い風邪をひいた。

軽い風邪だから、熱はない。朝起きたときにのどがちょっと腫れたくらい。

これで済むなら問題ないなあ、風邪だとも思えないくらいだな、と、最初は思った。

……ところが、とにかく、仕事の効率ががくんと下がってしまった。これは誤算だった。

脳のクロック数が落ちるタイプのかぜ、というのがあるんだ。Viremia(ウイルス血症)というのはまったく困ったものである。よりによって脳にくるとは。

人体内蔵ウイルスバスターがせっせとウイルスを退治する際に、脳内CPUの一部を使ったのだろうか?

一気にあちこちハングアップしてしまった。

まずはっきりと差が出たのはツイートだ(笑)。

思わずめったに使わない「(笑)」を使ってしまう。文字通りぼくは苦笑した。

だってぜんぜんツイートできないんだもの。今回の風邪、ほんとにまったく、脳が一大事だったのである。




ぼくは日ごろ、仕事の合間にツイートをしても仕事には悪影響を感じない。

でも風邪をひいていた2日間は違った。

ありていに言えば、気が散るんだね。

ほんとに気が爆散してしまう。

「仕事中にツイッターをするなんてとんでもない!」

まるでぼくじゃないみたいだ。




だるい体をひきずりながら、猛然と顕微鏡をみる。診断を書く。この間ツイッターなし!

夏から秋にかけての臨床画像・病理対比のプレゼンをつくったり、新作学術講演のプレゼンを仕上げたり、原稿を書いたりする。この間ツイッターなし!!

信じられない。お前にせものじゃないのか。




ぼくの集中力は元来、そこまで長時間続かない。

海女さんが息継ぎをするように、定期的に海面に浮上するかのごとくツイートをして、また深海にもぐっていく、そういう働き方が一番ぼくに合っている。これは15年はたらいてぼくが見つけた最適解だ。

しかし、風邪をひいたぼくは、全く息継ぎをしないままに次々と仕事を仕上げていく……。

あれ? もしかしてぼく、風邪ひいてるくらいの方が有能なのか?




そんなわけないのである。交感神経がフルスロットルで応援してくれていたとかそんなところだろう。夕方になるとげっそりと疲れて口もきけなくなった。




やれやれ……一日を振り返ってみると、

「あんなに働いていたはずなのに、いつもほど仕事が進んでいない」

のだ。頭を抱えてしまった。抱えついでに、少しだけ頭痛もある。





やめだやめだ。さっさとおうちに帰ってビールを飲んで寝た。






さて、今日。水曜日。おかげで風邪は治ったが、2日間かけて、ツイッターもせずに必死で働いたくせに、全く仕事が終わっていない状態を作り上げてしまったことをふりかえり、ぼくはしみじみ思う。

「必死で働いたってだめだ。」

「ツイッターやりながら働けるくらいに脳を整えておくことこそが、一番大切だ。」

これは別に逆説でもなければニセ医学でもない。

いたってまじめに言っている。

人間にはそれぞれ、一番体にあった息継ぎの方法というのがある。それをぼくは今さら確認したにすぎないのだ。

ぼくからツイッターを奪うな。仕事が進まなくなるぞ。

2019年6月20日木曜日

病理の話(335) 確かデンジャーと書いてあったやつだ

「面の皮の厚い奴だ」みたいなフレーズがあるけれど、実は、面の皮はうすいほうだ。

こないだある医学雑誌を読んでいたら、面の皮(顔面の皮膚)は、たとえば腕の皮膚に比べると、ステロイドの吸収が13倍くらい早いのだそうだ(ごめんなさいうろ覚えですので数字は適当で)。

つまり面の皮ってのは基本的に薄いんだな(だからこそ、皮が厚いといえば罵倒のセリフになるのかもしれないね)。




「ステロイド?」となった人はごめんなさい。そういうお薬があるのです。塗って使うことがあるのです。

このステロイドという薬はとても使い勝手がよく、いろんな病気に利く。

だからついいろんな場面で塗りがちなのだが、実は正しく使わないと、効かない。効果はあまりあがらないのに副作用だけが出たりすることもあるという。

だから正しい塗り方をきちんとわかった上で使わなければいけない。

正しい塗り方を知るためには、ステロイドを塗ったらどれくらい吸収されるのかという知識が必要になる。

したがって、面の皮が腕の皮より何倍吸収がよいか、みたいな話を、皮膚科医は覚えていなければいけないらしい。

はぁーたいへんだなぁー。




その本にはこう書いてあった。

「皮膚科医というのは、目よりも、口が大事なんです」。

皮膚を目でみてどう診断するか、という技術よりも、やさしい口調で丁寧に、患者にことこまかにステロイドの塗り方などを指導できるほうが大事だ、ということらしい。

へええー、なるほどなあー。

ぼくはとても感心してしまった。

病理診断に対してぼくが普段からなんとなく思っていたこともこれに近いのだが、そうかなるほどな、そういう言い方は、いいなあ。

「病理医は細胞を正しく見極める目も必要ですが、それ以上に、細胞のようすを正しく伝える口……ていうかキーボードに正しく打ち込む指が必要なんですよ!」

……なんかちょっと違うかな……?





ところで人間の体の中で一番薄い皮はどこだかご存じだろうか?

実は、きんたまの皮である。

陰嚢の皮膚は、腕の42倍も薬を吸収してしまうらしい。

「水曜どうでしょう」で、カナダの強烈な虫よけスプレーを股間に噴射した大泉さんが悶絶しているシーンがあったが、あーあーそうかーあれは42倍だったからかあー、と、今更ながら腑に落ちた。

なんという記憶方法なのかと我ながら笑ってしまうが。

2019年6月19日水曜日

パッショナルコンピュータ

チョコパンって10回言ってみて。

チョコパンチョコパンチョコパンチョコパン
チョコパンチョコパンチョコパンチョコパン
チョコパンチョコパンチョコパン。

今1回多かったよね。

そう?

まあいいよ。

そう?

じゃこれは何?

ぱちょこん!




というわけで機内でパチョコンを開いている。Wi-Fiが使える飛行機が増えて助かっている。でも別に仕事をしているわけではない。ほんとは仕事でもすればいいのかもしれないけれど、そこまで熱心にやろうという気にはならなかった。

札幌に帰る途中の飛行機である。

さっきまで、日本臨床細胞学会に出ていた。今回は主に単位をとるための出席だったので、あちこちで講演を聴き、スタンプラリーをめぐるように受講証明書を集めた。

少しぐったりとしている。機内の冷房がきつい。

だらだらとネットをみている。スマホでみればいいのだが、もう充電が心もとない。ノートパソコンのほうが、まだ持ちそうだ。





遠くの席で子供が泣いている声がする。





自分の子供が小さかったころ、自分の子供以外の子がどこかで泣いている声に異常に敏感になった。

あれはおもしろいよなー、本能なんだろうなー、子育て中は、どこかで子供が泣いていると、すべての意識がそっちに持っていかれるようになるんだ。それは自分の子供でなくてもだ。

不快というよりも、なんだろう、敏感になるというか……。

子供が少し大きくなった今、遠くで泣いている子の声は、ふたたび単なる「泣いている子の声」に戻った。

もう、何も思わない。神経過敏は一過性だったのだ。





「自分が興味をもつ分野に対して敏感になる」という現象はたまに起こる。

たとえば、最近好んで読んでいる死生観とかチーム医療、ケアの文脈に対して、ほんとうにさまざまな記事が目に飛び込んでくるようになった。同じくらいの情報は以前にも世にあったはずなのに、そのころはあまり見えていなかったのだろう。これはつまり「敏感になった」ということだろう。

けれどもなんだろうな、さっきの、「遠くで泣いている子供の声がやけに耳に入ってくる」みたいな、脳の奥の神経1,2本にさわさわと触れるような敏感さと比べると、なにかちょっと真剣みというか焦燥感のようなものが足りない。

ぼくはほんとはもう少し、気持ちがなでられるような落ち着かない気分になるような、そういうものが読みたいのかもしれないな、と、開いていたブラウザの大半を閉じながら、ぼんやり考えた。





毎日のようにどこかに何かを書いて捨てていく暮らし。

たまにふと思い立って自分の書いたものを見返すと、明らかに「この日は文章に乗っている熱の量が普段の3倍くらいある」と感じるところがある。

そういうときに自分が何に突き動かされているのか丁寧にさぐる。

どうも、「焦り」に似た、腰回りの落ち着かないようなあの感覚があるのではないかな。

つまりは、読む方も、書く方も……。

ぼくは何かに焦っているときに、どうも、あやうさと、謎の充実感を得るようだ。





焦燥感って10回言ってみて。

焦燥感焦燥感焦燥感焦燥感
焦燥感焦燥感焦燥感焦燥感
焦燥感。

9回しかなかったよ。

焦燥感。

よし。じゃこれは何?

ぱしょこん!

じゃぱしょこん閉じて。

はい。

2019年6月18日火曜日

病理の話(334) なんでや全身関係ないやろ

病理医は「全身あらゆる臓器の病理」に詳しい、ということになっている。

実際、病理専門医の資格試験を受ける時には、脳腫瘍から皮膚の病気、肝臓に肺、乳腺に大腸に胆嚢に、とにかくありとあらゆる臓器に発生する「病気」とその「見た目」、さらには「顕微鏡でどう見えるか」、「遺伝子にどのような異常があるか」を学ぶ。だから、病理専門医である限り、過去に一度は「全身に習熟した状態」になっている(最低限の知識に過ぎないとはいえ)。

けれども、たとえば今のぼく……。医者になって16年目のぼくは、全身あらゆる臓器の病理に詳しいわけでは、ない。

残念ながら。



自分が今勤めている病院で、頻繁に扱う臓器の病理については、詳しい。

胃、大腸、肝臓、胆嚢、胆管、膵臓、乳腺、甲状腺、肺、リンパ節については、詳しいといっていいレベルだ。

子宮、卵巣、膀胱、腎臓、尿管、精巣、唾液腺、皮膚などについては、まあそのへんの医者よりは詳しいが、病理医としてはわりと普通……だと思う。あまり大きなことはいえない。

脳や軟部組織については、もはや「苦手」になりつつある。10年くらい新しい情報をあまり仕入れていない。普段みないからだ。

細かいところでは、「腎腫瘍は頻繁にみるのだが、腎生検はみない」なんてのもある。

「肝腫瘍はいっぱいみているが、肝門部病変だけはみる頻度が少ない」というのもある。

どちらも、「当院では扱っていない」からだ。

同じ理由で、小児の病理もあまり詳しくない。

ムラが出てしまっている。




「病理」というだけでだいぶマニアックなのだが、その中にもさらに専門性がわかれており、ぼくは病理の中でもこことここ、というように、どんどん偏っている。

毎日とんでもない数の医学論文が出され、医学は常に過去をとんでもないスピードで置き去りにして進んでいく。

詳しかった分野から、何かの理由でふと離れてしまうと、1年経った頃にはもうついていけない。





これは病理に限った話ではない。

よく言う笑い話(このブログにも書いたことがある)として、

「整形外科医はそれぞれ専門分野がある。1丁目の佐藤先生は、人差し指のさきっぽの関節のことに詳しい。4丁目の鈴木先生は、中指の根元の関節に詳しい。そして、二人とも、小指の関節は診たくないと言っている」

なんてのがある。

これはいくらなんでも冗談だろう、と思っていたが、先日実際に整形外科医に話を聞いてみると、

「実際、肘に詳しい整形外科医の中には、膝を診たがらない人がいるぜ」

といわれて驚いてしまった。





臓器ごとに専門が細かくわかれた今の時代、世界中を探し回れば、たいてい、どんなマニアックな部位にも専門家が控えている。インターネットがあるから大助かりだ。

ただ、あらゆる医者が苦手にしている分野というのがある。

それは、「複数の場所に異常が出る病気」だ。




たとえば、頭皮と肺と腎臓に同時に病変がでる病気、というのがある。

この病気に「皮膚の専門家」が出会った場合、肺や腎臓にも病変が出るということを知らないと、診断できない。

この病気に「腎臓の専門家」が出会った場合、頭皮とか肺に病気があるかないかを気にしておかなければ、診断名にたどりつけない。

口でいうのは簡単だがこれはけっこうたいへんなことである。

最近の病理医は、臓器ごとに細かく細分化された専門にすがって生きている。だから、複数の臓器をまたいで病変が出現する病気については、いつも……というほどではないけれど、ときおり……ビクビクしている。

ぼくも、ときどき、思いついたように、専門外の教科書を読みながら、いつか必ずやってくる「専門外」に備えている。

やっぱ全身あらゆる部分が診られるのが一番だよなー、などとうそぶいたりもする。

……でもそんなことほんとに可能なのだろうか……と、図書館にあふれる膨大な本、雑誌、さらにはPubMedにさんぜんと輝く「掲載医学論文 全3000万本」という数字をみて、たじろいでしまう。

2019年6月17日月曜日

グレーゾーンの続きでぇす

いろーんなことで素人と玄人の境界がぼやけてきている。最近などは、もうそういうもんだよな、と腹をくくるしかない部分がある。

たとえば医療のプロとアマチュア、なんてどこで分けたらいいんだ? 大学で専門的な知識を6年間学べばそれでプロの医者と呼べるだろうか? 「医人」とでもいうべき人間が、医師免許をもたずに、人々に寄り添うシーンを多く目にする。

「いやー医者は医者でしょ。やっぱさあ。」

そうかなあ。

例えば、ぼくがこうしてブログに毎日ああでもないこうでもないと書きながら多くの人に読んでもらえるなんてのは、「プロの物書き」という概念が溶けつつある現代だからこそできていることだ。

かつての素人ってこんなに読んでもらえる場所はなかったとおもうよ。

かつての玄人はこんな品質の文章を簡単には世に出さなかったと思うし。

文章、音楽、マンガ、なんでもそうだ。プロ顔負けの素人がごっそりいるし、食っていけない玄人だって山ほどいるではないか。

医者だけが、たかだか国家試験ひとつで、「プロです」と名乗り続けていられると思ったら大間違いだ。

素人と玄人の境界がぼやけ、個人と社会の境界がぼやけ、いろいろなものの線を引きなおす。

あるいは、線が存在しないものとして考える。

あるいは、線ではないけれど移行帯みたいなものはあるよ、くらいの気分でやっていく。




いろーんなことで素人と玄人の境界がぼやけてきている。最近などは、もうそういうもんだよな、と腹をくくるしかない部分がある。

「腹をくくる」と書いた。腹をくくるというのは境界線を引く作業だと思う。

ここからはぼくが担当する、と、足元の土にギッと線を引いて、内側で構える。それが「腹をくくる」だ。

素人と玄人の境界がない世界で、ぼくは玄人としてやるからな、と、自分で宣言して、その内側でシャドウボクシングをしながら、備える。

あるいは逆に、ぼくは素人なのだ、と、線の外に出て、外をぐるぐると走り回って、線の中をときおりちらちらと眺めて、うらやんだり、あこがれたりをする。




自虐とか謙遜はひとつの芸だ。たまに、「そんなに謙遜せずに堂々と行動してください」みたいな的外れなことを言ってくる人がいるが、昔の価値観に凝り固まりすぎだと思う。

自虐と謙遜は境界線を引き直したときの「副反応」みたいなものにすぎない。そこに本質はない。

ぼくが自分を一段低く見積もって「素人だ」と発言するとき、素人と玄人がとろけた世界で、宣言して素人側に回るだけの覚悟を示したのだと、わかってもらわないと、そこが伝わらないと、やりにくくってしょうがない。




極論するならば、「玄人だ」と宣言するほうが簡単で、効果も高いが、それだけではカバーしきれない部分というのが、世の中にはおそらく、ある。

2019年6月14日金曜日

病理の話(333) グレーゾーンをどう語るか

國松淳和先生の「仮病の見抜きかた」は芥川賞の候補作になるべき作品なのでぜひ読んでほしい。

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784307101974

この本はブンガクなのであるが、ゴリゴリの医学書でもある。

医学書? そんな、小難しい医学の専門知識を使ってミステリとかやられても、ワシにはさっぱりわからんで! という反応も予想されなくはないのだが、ぼくは最近思うのだ……。

ぼくら、ルミノール反応がどうとか、死後硬直がどうとか、くわしいことはまったく知らんけど、刑事ドラマ普通にみてるやんけ、と。

京極堂が何言ってるかぜんぜんわかんなくても、憑き物落としの空気感は、十二分に楽しんでるやんけ、と。

たぶんこの「ゴッリゴリの医学書なのに芥川賞GO」というニュアンスも、ふつうに世間には通じるのではないかと思う。

だからあなたが医療者じゃなくてもぜひ読んでみてほしい。おもろいで。理不尽さもある。爽快感もある。



最近は、医学情報だからってなんでもかんでも、噛んで含めて子どもに教えるように……読者を子ども扱い・素人扱いして平易に語らなくてもいいんじゃないかナーとか、考えており。






さて今日の話は、國松先生の本に出てきたあるフレーズから連想したものである。

詳しくはネタバレになるので書かないが、この本のある章において、國松先生は、「グレーゾーン」みたいな部分のことを重層的に語るのだ(とってもすばらしい表現なのでぜひ体験してもらいたい)。

医学というか医術には「グレーゾーンをどう扱うか」という大きな命題がある。

あなたはかぜです、ズバーッ、見事に診断が確定して、その瞬間にふさわしい治療が決定する、というクリアカットな臨床ばかりではない。

優れた臨床医というのは、白黒はっきりしない中間色の部分に対する「さじ加減」が見事だ。

ただ……同じ医療者と言っても、病理医の場合は、どうも事情が異なるように思う。




臨床医が、粘膜から細胞を採取して、病理に提出する。

「これはがんですか、あるいはがんではない、なんともない粘膜ですか?」と、まさに、白黒決めてくれ! という願いを込めて、病理検査室に検体を搬送する。

ここで病理医が、「グレーです」というと……

冗談ではなく、ほんとうに、ありとあらゆる医療現場が「困惑」するのだ。





病理に出しても決まんないのかよ!

直接細胞みても決まんないのかよ!





そう、われわれ病理医は「ジャッジメント」をする立場である。臨床にはグレーゾーンがあることをわかった上で、それでも、細胞がシロかクロかだけは二択で決めてよいだろう、という裁判官だ。

しかしご想像のとおり、病理医も、「こりゃグレーだな」と言いたくなる瞬間は経験する。




たとえば細胞をみて、細胞核が異常に大きくなっており、かたちもいびつで、正常の核からすると明らかに「かけはなれている」としても……。

周囲に強い炎症がある場合には、この「かけはなれ」は、がんだからかけはなれているわけではなくて、炎症のせいでたまたまそのときその場所だけかけはなれてしまっているだけかもしれない、みたいなことがある。





そこで病理医はこう書くのだ。Group 2, indefinite for neoplasia, と。

Group 2というのは「白黒決められません。すみません」という意味。

Indefinite for neoplasiaというのも、「腫瘍かどうかわかりません。すみません」という意味。





で……みんなが困惑するときに……こう……どこまでその「グレーさ」を雄弁に語れるかどうかに、病理医の底力が出る、と言っていい。




ダメレポートの例はこうだ。

「Group 2, indefinite for neoplasia.
がんの可能性も炎症に伴う反応性変化の可能性もあります。決められません。再検してください。」

こういうレポートは、結局のところ、「グレーでした。」しか言っていない。

なぜグレーと判断したのか。同じグレーにしても、白よりのグレーなのか、黒よりのグレーなのか。

そういったことが書かれていない。要は依頼してきた臨床医に対してまともに向き合おうという気持ちが足りないのである。

医療者が患者に優しくするのはあたりまえのことだが、同業者、医療者同士でも優しくしなければ、ぼくらは人としてなにかちょっと足りねえんじゃねぇかな、って思う。





よいレポート……というか、四苦八苦が伝わるレポートはたとえばこんな感じである。

「Group 2, indefinite for neoplasia; suspected of tubular adenocarcinoma.

 ある程度の領域性をもって、核の腫大、核縁の不整、クロマチン量の増加を呈する異型核をもつ細胞が、正常と比べて大小不同性が際立つ腺管を形成して増殖しています。周囲の正常粘膜との間に境界(フロント)があるように見えるため、癌である可能性をまず考えます。ただし背景に強い炎症が出現しており、炎症の強い部で核異型が強くなる傾向が一部に垣間見られるほか、フロント形成がはっきりせずグラデーショナルに非腫瘍粘膜に移行するような像も一部にみます。

 以上、得られた細胞所見からは、癌のほうをより強く疑いますが、非癌の再生粘膜である可能性がわずかに残ります。「癌>>炎症に伴う再生異型」です。内視鏡所見上、検体が採取された部が病変の真ん中あたりにあるにも関わらず、非癌粘膜が大量に混在している点も気になります。臨床的にピロリ菌除菌後であれば非癌粘膜の混在は十分ありえますが、そうなるとなぜ大量の炎症が出現しているのかが解釈できません。臨床像をあわせた追加検討が必要です。再検の是非については直接電話連絡します。」

そしてこのレポートを登録・送信したあとに、直接臨床医に電話をかける。





グレーがグレーであるという「文脈」を共有しないと、医療者に依頼されて働く医療者としては誠意が足りない。

文脈の共有というのは、ときに、過剰な干渉にもつながる。うっとうしいと思われてはもったいない。

日ごろから、「ぼくがこの病院で病理医をやっています」という自己紹介を欠かさず、臨床医ときちんと関係を築いていないと、病理がグレーになるたびに電話をするという「うっとうしさ」の理解が得られない。

……グレーね。

褐色とかでもいいか。

あっ國松先生のネタバレになるからもう書かない。とにかく、「グレーゾーンの医療」には、(患者にとってはたまったものではないので申し訳ないのだが、正直)やりがいがあり、武者震いする部分が、確かにある。

2019年6月13日木曜日

A字で堂々と

書いたり読んだりの暮らしには満足しているが、いかんせん、下っ腹がやわらかくなってきているのが気になる。

基本的にうちで本を読んだりスマホをいじったりするときには必ずV字腹筋をしながら読むことに決めた。

V字腹筋も、ずっと動いているタイプのやつではなくて、いわゆる「V字で固定した状態」を保つやつだ。

ものの15秒もがまんしているとプルプルしてくる。

プルプルしながら本のページをめくったり、スマホをフリックしたりしている。

一度、このブログも書いてみようと思ったのだが、ちょっと無理があった。

脳から「腹筋を維持せよ」という信号が出るわけだがこれにけっこう集中力が必要らしく、そのためか、腹筋をプルプルさせながらだとどうにも文章が落ち着かない。なにより、フリックミスが増える。

だからまあV字腹筋をしながら書くのはあきらめて読むだけにした。




けれどもV字腹筋をしている最中に読んだ本の内容はいまいち思い出せないのだ。あの大事なシーンで腹筋が限界を迎えて横向きにコロンと転げたなあとか、あの教訓めいた説話の項目でぼくは腹筋と対話していたなあとか、そういうことばかり思い出してしまう。




かつて、サカナクションの「klee」という曲をはじめて聴いたときに、たまたまあるマンガを読んでいたのだが、それから何十年も経つのに、ぼくはいまだにiTunesでサカナクションのあのアルバムをかけて、kleeがなり始めると、そのマンガのあるシーンのことをはっきり思い出してしまう。

シナプスどうしがそうやって接続してしまったのだろう。

kleeという曲の世界観は、そのマンガにはまるで似合わない。完全にバグだ。なお、マンガの作者は「高橋しん」である。





本を読むときには余計な環境負荷を加えないほうがいい。

本に集中できなくなる。

おまけに腹筋だって、本を読みながらでは鍛えられないのだ。

ぼくは、こないだ、ずーっとV字腹筋をしていたはずだったのに、本に夢中になるあまり、気づいたら、L字になっていた!

2019年6月12日水曜日

病理の話(332) 誰のための病理診断なのさ

医療の世界では、「なんとなく習慣でやっていた仕事」みたいなものはけっこういやがられる。

たとえば、「念のための検査」とか、「念のための投薬」。

昔のお医者さんはやってたからさ。安心のためにね。何かあってからじゃまずいから。

そういう、だらけた、なしくずし的な医療というのは、すごく厳しくカットされるようになった。

でもこれって言うほどかんたんじゃないのだ。





例えとして、冬のインフルエンザのことを考える。

多くの人が熱が出たと言って病院をおとずれる、冬。市町村はインフルエンザ警報をがんがん鳴らしている。

そんなおり、とうとうぼくにもやってきた。あいつが。

38度以上の熱があって、全身がだるくて、ごほごほ、ずびずび、ぐったり。

まあインフルなんだろうなー。

そう思って病院に向かう。

すると、鼻の穴にほそい綿棒をつっこんで、インフルエンザの迅速検査をされる。なかなか不快な検査ではある。

検査の結果は……陰性! インフルエンザの証拠は検出されなかった。

じゃあインフルじゃないってことかなあ。

すると医者は言う。

「まあ検査は陰性だったんですけどね、検査って100%正しいわけじゃないんですよ。あなたの場合は、症状を考えると、インフルエンザである可能性がかなり高いと思いますから、インフルエンザの薬出します。」




……検査した意味、あったか……?





や、ま、繰り返しになるのだけれど、この場合、ぼくがやられた検査がまったく無意味だったとはなかなか言えない。難しい理屈もある。けれども結果的には、

検査の結果を見ても、見なくても、結局はほかの症状とかから総合的に判断して、インフルエンザである確率が高いからインフルの治療ゴー!

となったわけで……。

なかなかフクザツな気分になるではないか。




今まで、「なんとなくやるべきだと思っていた検査」、「やった方が良くわかるんだからやるべきだと思っていた検査」の一部は、その後、さまざまな情報を元に冷静に考えてみると、

「やってもやんなくても結果に影響を与えないことがあるなあ」

ということがわかりはじめた。インフルエンザのキットが絶対にだめだと言いたいわけじゃないよ。悪しからず。でも、「絶対にこの検査をやらないとだめ!」みたいな判断も難しくなっているということだ。






さて……。

話は「病理診断」に向かう。それも、「顕微鏡診断」の話だ。





今、病理医というマニアックな職業人が主戦場としている、顕微鏡診断の世界。

顕微鏡をみて細胞の挙動を直接観察することで、ぼくらはとても多くの情報を手に入れるのだが……。

その「細胞の情報」がほんとうに、患者や医療者にとって、役立つものなのか、ということを、ぼくらはすごくきちんと見直さなければいけなくなった。

さっきのインフルキットみたいに、「陽性であっても陰性であっても、診断や治療の方針に影響しない」場合がある。

あるいは、「陽性だろうが陰性だろうが、その他の検査で得られるデータのほうが貴重である」場合もある。




このことがはっきり見えてきたのは実はAI(人工知能)の参入が見えてきたからだ。

AIは、細胞をみている病理医が一番エライ、みたいな価値観をもたない。

そのためか、ありとあらゆる臨床情報を、AIにぶちこんで、患者が今後どうなるかを予測させると、どうやら、細胞の情報が必要なくなっている場合があるようなのだ。

細胞診断が無駄だと判断される未来がくるかもしれない……。

そうなったら、顕微鏡診断しかできない病理医は廃業するしかない……。




けれども、そう落ち込むことでもない。

AIによって、逆に「病理医が細胞だけみてくれれば、その他の検査は必要ないという場面」も浮き彫りになってくるからだ。





医療の現場に無数にころがる選択肢のうち、どれが一番「患者の将来を正しく予測できるか」を判断するのはなかなか難しい。

検査A,B,C,D,Eが取りそろえられているときに、AとDだけやればいいと気づくためには膨大なチャレンジが必要だ。しかし、どうも、AIはそういう「どの選択肢が一番効率的か」を判断するのは得意なようである。





ぼくはAIの開発に携わらないかと声をかけられたときに、いろいろなことを考えた。

顕微鏡診断の一部を終わらせながらも、病理医がこれまで以上に活躍できる未来、というのは、それなりに高確率で、見えてきたような気がするなあ……というのが、考えた中では一番希望的な観測だ。

ほかにもいろいろ見えてきたものはあるけれど、それを書くのはまた別の機会に譲る。

とりあえず最後に書いておきたいのは、病理診断というものは病理医が飯を食うために行うものではなく、患者と医療者の未来のためにあるべきものだ、ということだ。

2019年6月11日火曜日

かこさとしがすごいよ

いつからかツイートの半分くらいが本の話になった。

ぼくのフォローする人間およびぼくをフォローしてくる人間たちは、基本的に、

「本はそんなにいっぱいは読まないけれど、多くの人がおもしろいおもしろいと読む本であれば、まあたまには読んでみてもいいかなー」

というタイプが一番多いように見受ける。

ほかにもいろんなタイプの人がいるんだろうけれど。

なんとなくリアクションをみてるとそう感じる。

本の話をすると、たいていは誰もいやな思いをしないし、興味がない人も「本の話ばっかりするなよ」とか言って怒り出したりはしない。

いやな思いをする人、怒り出す人、そういうのが少ない話題というのは、ツイートしたあとのリアクションがおだやかで、ぼくの心を削らない。

本の話がいちばんいいんだよ。





ぼくはツイッターに人生の8%くらいはかけている。ここから得られるものを大事にしているし、ここに注ぎ込むものにもそれくらいの熱量を込める。……でも今書いていて思ったのだが、人生全体の8%というよりは、人生に上乗せした8%かもしれないなー。

100%で生きている毎日に「税金」をのっけて108%生きている感じだなー。

となるとあまり無駄遣いはできないな。手間だってかかっている。せっかく余計に支払うのだったらそれを有効活用したいな。

あまり自分が腹を立てたり悲しくなったりする内容にはしたくないな。

支払ってなお損するみたいな気持ちになるからね。

となると周りの人を怒らせたり悲しませたりする内容をつぶやいてはだめなのだね。とにかく自分のためにね。






本の話に消費税を払い続けたおかげだろうか、自分の知らない世界の優れた人々を目にする機会は以前より多くなった。

自分の職種とか趣味に近い本も読むけれど。

近年は安楽死、ケア、当事者研究みたいな内容の話をよく好んで読んでいる。このへんはツイッターをはじめる前にはほとんど読んでいなかったと思うなあ。

病理医というのは医者ではあるけれど、ぼくは読書でまで死のことを読もうとは、以前はあまり思っていなかったはずだ。

そしてもちろん、子供のころはまず読まなかった内容である。大人になってようやく読めるようになったのだな。



……でも、冷静に考えてみると、ブンガクとか絵本なんてものは元来、死生観を大切に扱うジャンルなのであった。まったく読んでないわけではないんだ。

子供のころに「中動態」とか「早期緩和ケア」とか「無責」みたいな専門用語を読む機会はなかったけれども、人はなぜ死ぬのか、人はどのように死ぬのか、みたいな話は読む機会があった。

直接死に触れずとも、「何かをおおらかに観察するやり方」みたいなものだったらいくらでも触れることができた。





かがくのとものもと」という、至高のクロニクルを読んでいて、思った。

「〇〇になりたい人はこれを読め」っていうタイプの啓蒙や教育って意味ねぇなー、って。

一見、自分のやることに関係がなくても、伝え方が優れているものをただ読むだけで、なんだか、いろいろ、つながっていくものなのかもしれないなー、って。





あんまり難しいこと考えずに本の話してゲラゲラやっていきてぇなー。

2019年6月10日月曜日

病理の話(331) 細胞の形状がどうおかしいかを人に伝える技術

病理医が細胞をみて「がんだ!」と言ったらそれは基本的にがんなのである。

もっと正確にいうならば、いったん病理医が「がん」と名付けたものを、それ以外の人間が「いや、これはがんではない。がんによく似ているが違う。」というように、意見をひっくり返すことは極めて難しい。

なにせ実際に病気そのものを見ているわけだから。強い。

CTとかMRIで、病気の「影絵」だけをみて、がんかもしれない、がんではないだろう、と診断する行為はあくまで「推理」である。では答え合わせをしましょう、といって細胞を採取して、細胞そのものをみて、「がんでした。」といえば、事前の推理などは歯が立たないのだ。




……とは言ってみたものの。

病理医だって人間なのである。自信がなくなることもある。また、錯覚だってすることもある。

「細胞が悪そうにみえた」からがん。では、その、「見え方」というのはどうやって決めているのか? なんだか話を聞いていると、ひどく主観的ではないか?



いやー病理診断ってのは客観的ですよ。そうやって病理医が抗弁すれば、もはや臨床医たちは反論ができない。

そうか、では客観的に病理診断してください。よろしくお願いしますよ。

疑念に満ちた目で、病理医を見つめることしかできないだろう。



病理医の診断に疑問を持ってしまうと、日常診療がちょっとだけつらくなる。だから、優れた臨床医ほど、「なぜあなた(病理医)は、これががんだと思ったのですか?」という疑問を、躊躇せずに、口に出す。直接病理医にぶつける。

そこで病理医がどうこたえるか。

きちんと、自分の診断の根拠を、臨床医に伝えることができるかどうか。

ここに、「病理診断が信頼されるか否か」の分水嶺がある。




いくつかの例をあげて説明する。今から出す例は、すべて、「Q.」と「A.」でできている。「Q.」は臨床医からの問い。「A.」はそれに病理医がどう返すか。


【例1】

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核異型がはっきりしているから、がんです。」

まずこれが一番最悪のパターンだ。

「核異型」という言葉が専門用語なので、この時点でたいていの人は、「あーなんかわからない基準に従ったんですね」と、理解することをあきらめてしまう。

仮に、「核異型」という言葉の意味を知っていたとしても……。というかこの言葉はそれほど難しい言葉ではない。ありとあらゆる細胞の中には「細胞核」というのが含まれている。「異型」というのは、「正常からのかけ離れ」という意味だ。つまり「核異型」というのは、「細胞の中にある核が、正常からどれくらいかけ離れているか」という意味の言葉だ。

したがって、「核異型がはっきりしているから、がんです」は、「核が、正常と違うから、がんです」という意味になる。

こんな答え方をする病理医は、ダメなのだ。

はっきりダメ出しをしてやるべきだ。

「核異型がはっきりしているからがんだって? じゃあその核は、正常と比べて、どう違うんだ? はっきりしているというが、どれくらいはっきりしているんだ?」

そう、この回答には、「具体的にどのようにかけ離れているか」、「どれくらいの程度、かけ離れているか」という、種別や量の概念がまったく含まれていないのである。

あるのは「はっきり」という、病理医自信が確信をもったのだろうなあという極めて主観的な言葉だけだ。



【例2】

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、すごく大きくなっている。核腫大があるから、がんです。」

今度の病理医は少し丁寧になった。

細胞ががんであると判断するために、説明のなかに「何が」「どのように」を加えた。

「核のサイズが大きい」。

しかしこれもまだ主観的だ。「すごく」というのはどれくらいなのだ。




【例3』

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。だからがんです」

だんだん具体的になってきた。「正常の細胞よりも2倍以上大きい」というのは、主観というよりは客観に近い説明方法だ。「すごく」というと「どれくらい?」と尋ねたくなるが、「2倍から3倍以上」となれば、より具体的にイメージしやすいだろう。

たとえばこれくらいのことを、日常的にレポートに書いていてくれれば、臨床医は「病理医の目の付け所」をよく理解するようになる。



ただ、これを読んだあなた方の一部が今感じたような……

「核が大きいとがんだってのはわかったけど、それはなぜなの?」

という疑問には、答えられていない。

だから、ほんとうに臨床医と仲良くやっていこうという病理医は、ときおり、臨床医に対してこのように説明を加える。




【例4】

「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。細胞核というのは、細胞の中にあるタンパク質の量や質をコントロールし、細胞の動きをつかさどる『染色体』の入れ物です。この入れ物が大きくなり、色合いも濃くなっているときは、染色体が非常によく使われていることを意味します。細胞が激しく増殖しようとしているときや、細胞が異常な活性を示しているときに、核は大きくなります。直径にして2倍になれば、断面積は4倍、体積は8倍大きいということ。核の直径が2倍でかいということは、染色体の入れ物が事実上は8倍でかくなっているということです。そんなことは、正常の細胞ではほとんどありえません。おまけにこれだけ増殖活性(といいます)が高くなっている細胞が、1つ、2つではなく、ある程度のボリュームである場所に固まって増えている。あちこちにぽつぽつと散らばっているのではなく、ある1か所に領域として固まって異常が起こっているということは、その場所の細胞たちがみな、同じように増殖異常をきたしているということになります。これは偶然ではありえません。領域全体が、異常増殖を示す細胞、すなわち腫瘍であると断定できます。腫瘍といっても良性と悪性がありますが……」




まあこうやって毎回説明できれば完璧ではあるだろう。

でもこんな文章を毎回病理診断報告書に書かれては、読むほうもたまったものではない。

くどい。

長い。




そう、完全な説明というのは厳密すぎるのだ。

日常診療の中で、毎回、客観的な判断の根拠を不足なく書き連ねると、過剰になってしまう。

過不足なく書ければいいのだが……不足はわりと簡単に埋められるけれど、過剰を避けるのは思った以上に難しい。

ということでぼくが考える現時点での最善手……。

「病理医が、ある細胞のどこがどのようにどれくらいおかしいのかを、臨床医に過不足なく伝える方法」

は、たぶん以下のようなものだ。



「Q. 今回とってきた細胞は、がんだと言われましたが、根拠はありますか?」

「A. 核のサイズが、正常の細胞と比べて、2倍から3倍以上になっています。だからがんです」(※なおこの病理医はどんな診断のときにも必ず客観的な指標を用意していて、ここに書いた以上の根拠と基準をきちんと持っているのだが、報告書を読む臨床医にとっては報告書があまり長文だと大変なので、とりあえず日常的な病理診断報告書はシンプルに書いているが、いざというときには長文で説明してくれるし、そもそもとても気さくで、電話をすればいつでも応じてくれるし、病理検査室を訪れればいつでもニコニコ応対してくれるし、知りたいことがあればどこまででもじっくりと答えてくれるので、今回の件についてもあとでじっくり話を聞こうと思えば聞ける。なお実はすごくいいやつなので、用がなくてもたまに話しかけたくなるタイプであるとする。)

2019年6月7日金曜日

それほどでもないよ

そういえば最近ようやく出張のときに時間を余らせることができるようになった。

仕事にかける時間が短くなったからだろう。

仕事が早くなったというよりも体力がもたなくなった。

あまり長時間集中していても途中から効率がまったく上がらなくなる。これ以上はいくらやってもだめだな、というポイントがみえる。すると自然と時間が余るのだ。



もちろん時間の使い方がうまくなったというのもあるかもしれない。けれども単純に疲れやすくなったというのが大きいかもしれない。

こないだ、京急蒲田のあたりでポカっと4時間ほど余ってしまった。

だから京急川崎まで移動して、そこで映画をみた。今までだったら何もできないとわかっていてもとりあえずバッテリーが差せる喫茶店を探してパソコンを開いてみたりはしただろう。でもそういう努力はしたくなかった。もうできないのだ。

川崎ではプロメアというアニメをみたのだがおもしろかった。堺雅人が声優で出ているというから絶対見たかった。新谷真弓が出ていたのでさらにうれしかった。ぼくがいうのもあれだがアニメには強烈なケアの文脈がある。




出張の最中に映画をみるなんて……。

本も読まず、原稿を書くでもなく、映画をみるなんて……。

われながら……いいご身分だな……




などとは全く思わなくなった。

この「我ながら、どう思うか」の変化はでかいように思う。





「休む」「あそぶ」「ゆるむ」に対して罪悪感があると、なんかいろいろだめだったのだ。そういうのがスポンと消えてなくなって、ようやく、なにやら人生に湿度の高まりが出てくるというか、ひとつのカメラだけではとらえきれない大きな演芸場の全貌が見えてくるというか、まあよくわからんけれどぼくは少しマシな人間になったのではないか、という気がする。もちろん比較の問題だ。誰かとくらべてマシなのではない。昔のぼくと比べてマシだということだ。




40をこえてようやくぼくは、時間の「あまり」とか、行動の「むだ」を楽しめるようになった。あちこちでいろんな人が言っていることだけれど、こういうところでにこにこできるようになると、人生はたぶん、楽しい。

……楽しくなったかどうか、自分ではわからないけれど……。

まだ今のところ、「必死であまらせ」たり、「頑張ってむだを捻出したり」しているから、これがほんとうに楽しいかどうかは、あまり自信がない。

けれどもそろそろ「ぼくは楽しいよ」と声を張っていかなければいけないような気もする。

このへんで納得しないで、いつ納得するんだよ、という気持ちが、なくもないし、そういう社会的な要請に基づいた「楽しいよ」ではなくて、うん、もしかすると、ぼくは今楽しいのかもしれないなあ。





2019年6月6日木曜日

病理の話(330) プレパラートをつくるコツ

子どものころに、学研の科学雑誌などのふろくで顕微鏡がついてきたことがある。これを読んでいる方の中にも経験者がいるのではなかろうか。

仕組みはとても単純だ。ボディはチャチで軽い。子供用の顕微鏡。

これでまずは、おまけについてきたプレパラートをみると、きれいな模様が見られて大興奮する。

次になにか……小さなものを……見ようと思っても、子どもが見つけることができる「顕微鏡でみる小さなもの」などそうそう思い付かないのだった。

たとえば髪の毛をレンズの下に入れてみる。

……髪の毛くらい分厚いと、下から透過してくる光をさえぎってしまい、視野には真っ黒い影しかうつらない。

髪の毛でもだめなのかよ……。

困って、ティッシュの繊維であるとか、ぼろぼろになった落ち葉だとかを入れる。

サランラップにマッキーで字を書いたもの、なんてのも意外とよく見える。




そう、下から光をあてて、上から覗くタイプの顕微鏡では、半透明のものしか見ることができないのだ。

ある程度厚みがあると、光が遮られてしまい、影絵になってしまって細胞の中身などは全くみえなくなる。




人体の中からとってきた臓器を顕微鏡でみるときも、これと全く同じだ。

とってきたものをそのまま顕微鏡でみることはできない。

虫眼鏡のような見方では細胞は観察できないのである。

だから、とってきた臓器を、「半透明」にする必要がある……。

でもそんな都合のいい薬品は世の中には存在しない。

そこで昔の人は一計を案じた。




とってきたものを、うすーく切るのだ。

カツオブシを作るように。カンナをかけるかんじで。

臓器の表面の部分から、特殊なカンナで、シャッシャと、薄い膜のようなものを採取する。

具体的には、「厚さ 4 μm」という極薄の膜を作る。

元あった臓器からこの薄い膜を切り取るためのシステムが「薄切装置」だ。

この装置はいまや、病理検査室にいる臨床検査技師さん以外は、なかなか使いこなせない。昔の病理医は自分で薄切ができたというのだが、ぼくは、この薄切ができない。というかぼくより若い病理医はたいてい薄切ができないだろう。



さて、あるカタマリにカンナをかけて、4 μmの膜を取り出してくるためには、そのカタマリの表面部分に見たいモノがなければいけない。

カタマリの内部に見たいモノがあるときに、表面からカンナをかけては大変だ。削っても削っても中身が出てこない。

だから、薄切装置を使う前に、とってきた臓器を「割る」必要がある。

病変が表面に出てくるように、ナイフで臓器を切る。

切って、病変を目で見て、よーしここを顕微鏡でみるぞーと、あたりをつける。

そして病変の大事な部分だけを、「切って、出して」くる。

この作業のことを「切り出し」という。




プレパラートを作って細胞をみる一連の技術の中で、一番テクニカルなのは薄切、すなわち技師さんの仕事だ。ここは熟練の技術が要る。

そして、一番頭脳を使うのは、実は「切り出し」の部分である。

肉眼で病変を見極める段階で、病気のことがよくわからないと、顕微鏡をみても実はよくわからない。そもそも、顕微鏡でどこを見るか決められなければ、顕微鏡診断自体がはじまらないのだ。

顕微鏡をみるためには顕微鏡以前のところでワザと頭脳を使わなければいけないのだ、という、なんだか教訓みたいなお話である。

2019年6月5日水曜日

むきの反対はふむきではなくゆうき

香川県観音寺市にある「大阪大学微生物病研究会(阪大微研)観音寺研究所瀬戸センター」というところにいる。

観音寺市は、香川県の左端にある。ほぼ県境だ。愛媛県がすぐそこ。

そんな、香川のはしっこの海に近い場所に、妙にきれいで豪華なビルが唐突に建っている。

今いるのは、講師控室がわりの小さな会議室だ。3階にある。写真だとなんだかそんなに高さがない建物みたいにみえるが、視界の後ろ側にニョキっとビルがもちあがっている。



早く着きすぎたので、ポケットWi-Fiのスイッチをいれてパソコンをたちあげた。

1時間後にはじまる研究会で講演をするが、予行もしたのですることがない。持ってきた本は1冊をのぞいてすべて読んでしまった。帰りの飛行機に1冊とっておきたいからここでは読まない。急ぎの原稿は昨日の夜に大急ぎで終わらせてしまった。こんな空き時間があるなら、今書けばよかったな、と少し後悔している。

暇をもてあましたのでブログを書くことにした。最近はあまり旅先でブログを書かないようにしているのだけれど。なんだかあとで読み返すと、わかってしまうのだ。旅先ではメンタルの一部が過敏になっているせいか、文章も少しナイーブになっていて、ぼくはあまりそういうのが好きではない。もっと淡々と書けるようになりたい。無理だというのはわかっているけれど。




このビルはきれいすぎるなあと思いスタッフにたずねてみると、せいぜい5年しか経っていないのではないか、と言われた。ここは国内のインフルエンザワクチンの6割が作られているといううわさもある。水も空気もきれいだからもってこいなのかな。そういうのは関係ないのかな。

それにしても建物がきれいすぎる。

研究所なのかと思ったが建物の多くは実質「ワクチン工場」なのかもしれない。

なんだかいろんなメーカーの思惑が入り込んで建てられた「殻」という空気がある。

「具体的に働く人たち」の気配が希薄だなと思う。まあ土曜日だからなあ。

研究所という場所が365日不夜城であるべきだ、というのは、枯れた中年の固定観念なのかもしれない。土曜は閑散としていていいのかもしれない。アメリカっぽい。

あるいはここではない建物に研究員がごっそりいて働いているのかもしれない。人間、半径10メートルくらいしか見渡せないわけで、あまり無責任なことは書けない。

けれどさっきから人の気配がないんだよな。





無駄にきれいな会議室には絵が飾ってある。

この絵はこれから何年かけて、何人の目に留まるのだろう。








あと1時間すると、四国あちこち+岡山から、膵臓や胆道の画像診断に興味があるひとたちがここに集まってくる、という。

なんだかまだ実感がわかない。窓の外は明るく曇っている。時間が経過するふんいきがない。









スタバってこんなロゴだったっけ。

いつも一人でいたいと言っているわりに、見知らぬ場所でちょっと一人になると、途端に、「さっきまで自分が暮らしていた世界の法則と、今いる場所の法則が、ちょっとずれはじめているのではないか」という妙な恐怖がわいてくることがある。

ぼくはいろんなことに向いていない。物思いにふけることに。ひとりでコーヒーを飲むことに。休日に出張先で出番を待ちながらブログを更新することに。

大丈夫か? そこのドアを開けて、外に出たら、実はぼく以外のすべての有機物が消滅してはいないか?








2019年6月4日火曜日

病理の話(329) 流通量をみて悪人の存在を推定する名探偵

がんをはじめとする多くの病気を調べる際に、「造影検査」というものをやる場合がある。

ぞうえいけんさ。

濁音からはじまるコトバなので、重々しさがある。

今日はこの造影検査の話をする。



血管の中に、CTやMRIで検出できる「造影剤」というものを流す。

すると、全身の血管に造影剤がいきわたる。

血管を道路に例えてみよう。

血管という道路の中には、赤血球などの血球が、自動車よろしく走り回っている(なお基本的に一方通行だ)。

この道路に、ビッカビカに明るく輝く、油性インキを流す。

街の上空にドローンを飛ばせば、街の中に張り巡らされた道のところだけがピカリと光って、ハイライトされる。

光るのは、大きな道路だけではない。

臓器の中に細かく入り込む、京都の小路のような細かい生活道路まで、すべてにいきわたる。




なお実際の血管はドライな道路ではなく、内部に血液が充満しているウェットな水路だ。

ここにインキを流せば、血流の速度によって、ビカビカの広がり方も変わる。これも重要な情報となる。




さあ、人体をくまなく観察するために、ドローンならぬCTをとってみよう。

血管から造影剤を入れる。そんなにいっぱいはいらない。きちんと調整されているからね。

すると血流に乗って、全身の血管に、造影剤がいきわたっていく。

たとえば肝臓という大きな臓器の中にも、いきわたっていく。

肝臓に流れ込む幹線道路のような「肝動脈」が光る。

幹線道路から小路に入り込んで、肝臓全体の細かい血管が光る。

たいへん細かい血管だ。網目のように肝臓に入り込んで、肝臓全体が明るく輝く……。




ところがある日。ある人の肝臓を見ていると。

全体がじわじわ造影剤によって光っていく中で、明らかに1か所だけ、「周りよりも早く光り始める」部分がある。

ふつう、肝臓という街に入り込む道路の数は一定で、肝臓の中では右も左も均等に、だいたい同じ量の血液が流れ込んでいるから、造影剤だって、均質にいきわたる。

ところが今回、一か所だけ、造影剤がすごく早く入り込んでいる領域がある。




ここに何が起きている?




造影剤が早く入り込むということは、そこになんらかの異常があるということだ。

たとえば、「周りよりも優先して道路をひき、大量の血液を誘導して、大量の栄養をかすめとっているやつがいる」かもしれない。

正常の細胞よりも圧倒的に多くの栄養を食ってしまう、燃費の悪いヤツ。

その代表は、がんだ。

がんというのは、ろくに働かず、まわりに迷惑をかけ、無制限に増えようとするチンピラである。ヤクザである。こいつらは周りの迷惑をかえりみずに、みんなが同じ量だけ配給されて受け取っている血液を、自分だけ独占して大量に使おうとする。

だから造影剤を使うと、がんのところには造影剤が早く多く流れ込むことがある。




がんそのものをCTでみるのはけっこう難しいのだけれど、道路や輸送に目を向けて、物流をハイライトすることで、「あそこで何か無駄遣いをしているバカ野郎がいるな」と、がんを見つけることができるのだ。なかなかの名推理だと思う。




ただ気を付けなければいけないこともある。

たとえば、生まれつき、肝臓の中の「道路の配置」がちょっと乱れている人、というのがいる。

悪人が栄養をかすめとっているのではなくて、「道路の建設でちょっとミスっちゃっただけ」という人がけっこういるのだ。

これは「血管腫」という病変である。造影剤の流れ方がそこだけ変わってしまうから、造影CTをすると、そこだけ周りと比べて変化がでるけれど、がんではない。放っておいても何の問題もない。




そう、造影剤を使った診断というのは、あくまで、「輸送量をみて、そこに悪いヤツがいるのではないかと推理する検査」という側面がある。実際に悪いヤツそのものを見ている検査ではないので、解釈はなかなか難しい。それだけに、造影CT, 造影MRI, 造影超音波などの検査をきちんと解釈するには熟練の技がいる。これらに長けているのは放射線科医だ。ぼくは彼らのことを激しく尊敬している。




おまけだが「実際に悪いヤツそのもの」を見るのは基本的に病理医の仕事である。

2019年6月3日月曜日

育たなかった舌と育った舌の話

鳥貴族行ったことない。たぶん、ぼくが大学生のときには札幌になかったと思う。

安い居酒屋については、大学生時代に行った店ばかりが良く見えてしまう。「自分がオトナになってから札幌にできた居酒屋」には、それほど行く気がしない。だから鳥貴族未経験マンだ。

「もういい年だから汚い店に行きたくない」とは思わない。ただ、「どうせ行くなら昔なじみの汚い店がいい」と思う。



最近、一緒に飲む相手が、「お互いに気を遣う相手」であることが多くなってしまった。

こういうとき中年は不便だなと思う。

先日東京で飲んだときは、妙にこじゃれたイタリアンの店でビールを飲んだ。グラス1杯に含まれるビールの量が少なすぎてこっそり一人で笑ってしまった。飲みすぎることなく、乱れることなくすごすことができ、その意味ではあのグラスで正解だった。

でもぼくは汚い居酒屋が懐かしくなり、途中でなんだか悲しくなってしまった。

そんなタイミングで横にいた人が突然口笛をふいたので驚いた。あの口笛はいったいなんだったんだろう、と思うし、飲み会で口笛をふくなんて小粋だなあ、と思った。それはいい人生だろうなあ。どんな店でも関係ないんだ、口笛を吹きながら飲める人は、うらやましい。





いい年して汚い居酒屋でホッピーを飲む、みたいなことを必要以上に持ち上げて語るのはあまり好きではない。そういう、「一周回ったステータス」的なものがあることは事実だと思う。

たたき上げ、雑草魂、ハングリーさ、苛烈な青春時代、などのアイコンとして用いられることがある、ホッピー、土手煮、ウーロンハイ。

「もっと高い酒を飲めるけど俺はこれが好きなんだ。」というセリフににじむ、名状しがたいマウンティング感覚。

ぼくは学生時代にずっとウーロンハイならぬコーヒーハイ……甲類焼酎のボトルの中に砂糖とコーヒー豆を入れた安酒……を飲んでいた。

懐かしい味だ。今飲んでも絶対にうまいだろう。

でも、今、飲む機会はない。




ぼくはどちらかというと打たれ弱いし疲れやすい。

老眼・腰痛・白髪・肌荒れがではじめた今日この頃は、やっぱりきれいで落ち着いた店で飲みたい。

ぼくの中に積み上がってきた文脈とか理念みたいなものは、「そろそろいい服を着て、落ち着いたいい店で飲むべきだ」と語りかけてくる。

実際、きれいな畳の個室でゆっくり飲む日本酒は、学生時代に飲んだどの酒よりもいい味をしている。




けれどもいい味がする酒を飲むというのと、しみじみおいしく時間ごと飲むというのはおそらくイコールではないんだ。




ぼくは最近気づいた。しゃれた場所で飲んでいるときのぼくは、「しゃべりすぎる方のコミュ障」になっている。

世間すべてが敵になり、自分のテリトリーを守るために言の葉を弾幕のように張り巡らせて、相手から何かぼくの対処できない話題が出てこないようにその場を操縦しようとしている。

一緒にいた人たちが笑いすぎて体をひねりはじめてからおもむろに、「はぁ、なんの話でしたっけ」で締めるお決まりのパターン。

繰り返しだ。メンツは目新しくても会話は目新しくならない。




裏返ったステータスづくりだと思われてもいい。

「俺はこういう安い店で飲めるようなフランクな男なんだ」というアピールに見えても関係ない。

ぼくは、文脈を捨て、理念も捨て、ほんとはコーヒー焼酎を飲んでいたいんだと思う。

コーヒー焼酎や、マイヤーズ少々にコーラを注いだラムコークを、だまってひとりで、3時間でも6時間でも、ずっと無言で飲みながら、暗く小さな飲み屋でマスターと2人、しずかに水曜どうでしょうを見ていた、あのときの口数少ないぼくが、一番ぼくだった。

これから出会う人たち、一緒にはたらく人たちのことは、きっと、「昔のああいう店に連れて行っても、怒らないかなあ」という目で見てしまう。

気づいてしまったら、もう、忘れることはできない。




誰かがしゃべっているのを聞きながら、本当はそこに混ざりたいのに混ざれないというアツアツの気持ちを手の中で右、左、と跳ね回らせながら、その気持ちが室温になじむまで、いつまでもいつまでも黙ってサザンの古いアルバムを聴いていた、学生時代の飲み方を、ぼくは最近よく思い出すようになった。

ぼくはもともと、しゃべれない方のコミュ障だったんだなあと、たまたま見つけたウェブアーカイブを掘り出しながら、この文章を書いたり消したりしている。