2019年7月10日水曜日

病理の話(342) 顕微鏡の役得と滅びの準備

病理医は患者から採取してきたあらゆるものを顕微鏡でみる仕事をしている。病理診断に使う顕微鏡は非常に高価な専門機器であり、おいそれと個人が買って使えるようなものではない。

ぼくの使っている顕微鏡は450万円もする。ぼくの乗っている車よりもはるかに高いのだからがっくりする。顕微鏡の横っちょには、病院の持ち物であるという意味の固定資産管理シールがべたべた貼ってある。メーカーの人がときどきやってきてレンズをきれいに磨くなどのメンテナンスをしてくれる。自分の顕微鏡と言いながら実際には自分のものではない。あくまで病院のものであり、多くの人が関わって大事に扱う虎の子である。

これほど高い顕微鏡はさすがに性能がいい。見ていて酔うなどということはまずありえない(両眼の光軸がずれて乱視気味になっていると酔ってしまう)。

プレパラートの拡大写真を撮ることも自由自在だ。顕微鏡にカメラが組み込まれている。というか、高い顕微鏡を使わないと、プレパラートの写真を撮ることは事実上無理である。虫眼鏡+iPhoneで撮れたら苦労はないのだが。




そんなわけで、ぼくはしょっちゅう、臨床医や技師などの依頼を受けて、プレパラート写真を撮っている。「ミクロ写真家」というと少しかっこいいかもしれない。ただしモデルは細胞や血管たちだし、構図はわがままな細胞たちが勝手に決めてしまう。しがない雇われカメラマンである。

細胞を、400倍、600倍と拡大して写真を撮る。病院の中にいる誰もがそんな道具を持っていないので、すこし誇らし顔で撮影をする。

たとえば消化器内科医が、小さな胃癌や大腸癌を、胃カメラや大腸カメラを用いて切って取ってきたとする。彼らは、病変を切除する前にさんざん胃カメラなどで観察した様子と、とってきた細胞の性状とが、どれだけ関連しているかを、知りたがる。

胃カメラで表面に見えた細かい模様の差が、実際の細胞の性状差としてあらわれていれば、それはすごいことだ。だって、顕微鏡をみる前に、胃カメラをみただけで彼らが細胞を予測できたということなのだから。

かつて、顕微鏡でしかうかがうことのできなかったミクロの世界を、胃カメラや大腸カメラでみることができたらかっこいいではないか。

臨床医たちは、ぼくが撮影したプレパラート写真をみて、細胞の様子を観察しながら、ここまでは予測できた、この部分はわからなかった、と、議論を繰り返していく。




つまりぼくらがミクロ写真を撮る理由は、いずれ顕微鏡診断というものが必要なくなる世界にむけての、礎(いしずえ)作りなのだ。

450万円の顕微鏡を借りて我が物顔をしている病理医が、いずれ、胃カメラや大腸カメラの診断進歩によって、お役御免となる日を願って、細胞の細かい変化を写真に撮り、彼らのみてきたものと照らし合わせる作業をしているのである。




「画像・病理対比」は、たぶんマゾのやることだ。ポストアポカリプスな世界観が好きなマゾのやることだ。いずれ自分たちが不必要になることを願って、ライバルに手を貸し続ける行為に近い。

……まあ、見れば見るほど、対比すればするほど、顕微鏡の世界のおもしろさにどっぷり浸かっていくことになり、まさかこのせいで自分が滅びることになろうなんて、対比している間は思いもしないのだけれど……。