2019年7月16日火曜日

harakiri kocoronoツアーというのが昔あっての

5年前、10年前の自分が考えていたことはたいてい、誰かに対する配慮が足りていない。

自分の目から全く見えていないところを、気遣うことができなかったからだろう。

いろんなものが見えてくることで、ああ、ここにこんな立場の人もいたんだなと、恥ずかしながら気づきませんでしたと、少しずつ気配りができるようにはなってきていると思う。

でも、今も、多くのものが見えていないままだ。だからずーっと配慮は足りないままだと思う。

気付いたところから少しずつ、ごめんねごめんねと直していく。修正パッチまみれになって年を取る。




あまねく世界を見通すことは一人の人間には無理だ。ネットワークが配備されてすみずみまで電気がいきわたり、あらゆる路地に光が当たって、はじめて、あーこりゃ全部見るなんて無理だなってことがわかる。

Google mapの全画面をみたことがある人が世の中にいるだろうか?

気配りつったって配る気も無限ではないのだ。





こういうことを書いて、だから自分はもう気配りはあきらめる、と結論するとさすがにひでぇなと思う。永遠に気配りを進化させていこうと決意することはたぶん論理的ではない。けれども感情的には気配りをあきらめてはだめなのだと思う。

ただ、他人の気配りに期待することはやめよう。ぼくはそう思った。

ほかの誰かが、自分の何かに対して全く気を配っていないときに、不快だとか辛いとか思うことが傲慢なのではないか、と感じ始めたのだ。

ああこの人は、ぼくのここにあるものが見えていないんだろう、それはしょうがない、だってこの人はぼく以外にも見るものがいっぱいあるんだもの。

そう考えないと、自分に対して気を配っていないあらゆる人に腹を立て続けなければいけなくなってしまう。





日替わりどころか秒替わりで、瞬間・瞬間ごとに、違う人のかけらが突き刺さってくるSNSに暮らしている。自分が目にするものの9割9分は自分に対して気を配っていない。あたりまえだ。だからいいのだ。それがいいのだ。自分に気配りをしてくれ、気を遣ってくれ、配慮してくれ、と、甘えて叫んだ声に誰かが答えてくれることはない。各自が自分のもっている「心」を、自分の目に見える範囲で、気まぐれ半分、優しさ半分くらいで、ちょっとずつおすそわけするくらいで手いっぱいなのだ。人間の心配りなんてものには、もう期待しない方がいい。





それでも配ってほしいと願うならば、それはもう、人間の気や心のキャパシティを超えているのだから、社会とか、複雑系とか、AIとかに、心を与えていくしかないのではないか。

人間より心が広いものを作り出せば、あるいは、誰もが心を配られる世界というものが、見えてくるかもしれないではないか。





こう書くと、AIブームが嫌いな人に対する配慮が足りない、とののしられる可能性がある。