2019年9月30日月曜日

病理の話(369) 病理診断ネットワーク

病理医はもちろん日本全国にいるのだが、その所在はだいぶ偏っている。たとえば東京には何百人もの病理医がいて、特に若手はけっこう余っているとすら言われている。まあ実際にはたからみて、現場の話を聞いていると、それほど余っているようには見えないんだけれど、やっぱりほかの地方から比べると頭数はそれなりに多い。

しかし、地方はひさんだ。

北海道などはまだマシなほうで、100人もの病理専門医がいる。

……いや、待ってくれ、人口550万人が暮らす北海道に、病理医が100人しかいない! たいへんだ!

くわしい計算ははぶくけれど、たとえばアメリカだと、人口が550万人くらいいれば基本的に病理医は500人くらいいてもいいのではないか、とされている。それくらいいても経営が成り立つということだ。なのに、北海道には100人しかいない。

そもそも単純計算で、一人5.5万人を相手にしろってことである。横浜にあるサッカーの大きなスタジアムを満員にした状態で、病理医がたった一人で、ハーフウェーラインあたりからそれを見渡して、ホイッスルを吹くのだ。「きみたちの病理はぼくにまかせろ」!

そんな無茶な審判をやらされる方の身にもなってほしい。

おまけにこの100人、半分が60歳以上だろうと言われている。この数字が出たのが今から7,8年前だからみんな7,8歳分年を取ったぞ。

あんまり言いたくないけどそろそろみんなs……疲れて引退したいと思っているぞ。



似たような構造は、ぶっちゃけ、「東京以外」のほぼ全ての府県で起こっている。

人数はいつも偏っている。山陰の某県なんて、県内に病理医が一ケタしかいないって話だぜ。やばいぜ。



病理AIが病理医の仕事を奪うというならさっさと奪ってくれないとぼくらしんじゃうよ、というのが正直なところである。




しかし、病理AIの正体がわかるにつれて、いろいろ、なんか、見えてきた。どうもAIによって仕事がラクになっても、人間が病理医として働くことは依然として必要らしいのである。

かつてぼくが著書『いち病理医のリアル』に書いたような、人には人にしかできない仕事があるよ的な話もそうなのだが、それ以前に、

・学問

・科学の発展

・心のケア

においては、AIは手が出せない。だから人がきちんといないとこの仕事の全部は回らないのである。

病理医は患者に合わないから人間らしい心を持っていなくてもいい、なんて言っているのは、今や、病理医とまともに働いたことがない一部の医療者だけだ。たしかに病理医は患者とは顔を合わさないけれど、医療者たちとガンガン顔をつきあわせてコミュニケーションをする。だから病理医も人間なのだ。……こんな大前提をいちいち確認しなければいけないくらいに、病理医という仕事の知名度はかつて低かったわけだが、今はフラジャイルという優れたマンガがあるから、このブログの読者も大半はきっと、「そうそう、病理医ってコミュニケーションだいじだよね。」って、わかっていただけると思う。



……岸……? 知らない人ですね……。




「ガンガン顔をつきあわせてコミュニケーションをとる」というところに、実は病理医の仕事をやっていく上でかなり大きな要素が潜んでいる。つまり病理医はほかの医療者と同じように、ある程度は群れていたほうがいい。

顕微鏡を見ながら。

臨床医の相談に乗りながら。

カルテをおいかけ、検査データを把握し、各種画像診断に思いを馳せながら。

ぼくらは同時に、コミュニケーションをとり続ける。

たった一人で顕微鏡診断に邁進するなんてのは、本来、病理医の業務の一面でしかない。

「誰かと語り合い、科学を極めながら、臨床医学の精度を上げる」ことこそが、病理診断医の職能だ。




ただねえありがたいことにね。

このコミュニケーション、直接対話じゃなくてもいいかなーとは思うね。

たとえばスカイプでかなりいけるね。

顕微鏡画像を画面共有なんかできると最高だね。

でも、顕微鏡画像は患者の大事な個人情報だ。それに、600倍まで拡大した画像をじゃんじゃんネットにアップロードすると容量がパンクしちゃう。

だから、病理の画像をやりとりする専用のシステムをきちんと構築しよう。

もちろん画像をみながら病理医同士が相談できるようなコミュニケーションツールをきちんと備えて。

オンラインゲームをやるみたいに、病理を極めていくんだ。

そうすれば、どんな田舎に住んでいても、常に世界中の病理医の知恵を借りながら、仕事をしていくことができる。

もちろんそのときに、自分の脳の一部を世界に貸すことも必要だけれど。

そうそう、自分の脳を接続する先の一部はAIであってもいい。

モニタの向こうに生身の人間ばかりが必要なわけではないよ。

でも、きっと、迷った症例とか、人間が責任もって何かを決めなきゃいけない症例では、「迷いのないパーセント表示」しかしないAIよりも、人間同士がコミュニケーションをとって背中を押してくれたほうが、押された方も悪い気はしないだろうな。





……などという話になっているのが、今の病理医をめぐる環境です。ぶっちゃけこれほど楽しい職場はないと思うのだが……。

2019年9月27日金曜日

生命の定義

ゲラゲラ、朝から自分のやってるウェブラジオのアーカイブを聴いて笑っている。すごいな今の一文。幸せしか感じない。

自分がしゃべってる音源聴いて笑う……すばらしい費用対効果……。




何かをしゃべったり書いたりするときに、受け手の気分とか事情とか前提知識のタイプとかを全く考えずにスッと出すフレーズは、本当に不親切で、最高だ。

無加工の情報を世に出しても、検索の力によって、数少ない「同志」たちが、抜き身の情報を喜ぶ変態たちが、集まって来てきちんと消費してくれる。

最近はほんとに、いつどこで自分がノーストレスでロウデータを口から出せるか、みたいなタイミングを、虎視眈々と狙っている。

伝わりやすいように、みんながわかりやすいように、共有してでかい何かを作れるように。

わかる、大事だ、そういうのがんばらないといけない、そして、クソみたいな手間がかかるよね。




Googleホンヤクが真っ先にやるべきは、英日翻訳とか日英翻訳とかではなくて、日日翻訳だ。

自分がどれだけわかりにくいことを心のままにつぶやいても、Googleを介することで世の大半の、偏っていない人々にきちんと伝わるような言葉に言い換えてくれるシステムがあるなら、見てみたい。

そして、Googleが言い換えたフレーズを見て、酒を飲みながら、

「そうじゃねえよ、そんな簡単に言い換えたらおもしろさが一ミリもつたわんねぇだろ! ばっかだな!」

とか絡みたい。たぶん最終的に、ぼくの話が伝わる相手は、Googleの集合知性だけになる。誰もがそうなる。すばらしいディストピアだ。いや、ユートピアか?

2019年9月26日木曜日

病理の話(368) かぜってなんなの

さて今日のぼくはかぜをひいている。

今回は鼻水も出ないしのどもさほど痛くない(全く痛くないとは言わないが)。

しかし、頭が重い。くらくらとする。

頭重感(ずじゅうかん)という濁点多めの言葉があるが、まさに文字通りのにごった重苦しい雰囲気だ。



こういうのを「頭が痛くなるかぜ」とかいう。かぜといってもいろいろだ、お腹を下すときもあれば、鼻水がとまらないときもある。関節が痛くなるときも、熱がぐっと上がるときもある。




ぼくが医学生だったころは、かぜというものは「急性上気道炎」であるとならった。すなわち、鼻水、のどの痛み、せき、鼻づまり、くしゃみ、など、上気道(肺よりは口や鼻に近い部分にある、空気のとおりみち)に症状が出る炎症。原因はウイルス感染である、と。

なるほどなー、かぜにも医学っぽい名前がちゃんとついてるんだなーと感心したものだ。

つまりはウイルスが外から飛んできて、鼻の粘膜とかのどの粘膜にくっついてそこで増える、で、炎症を起こして、鼻水がでたり、のどがはれて痛みが現れたりするわけだな。

しかしその後、うーん、なんかちょっとへんじゃないか? と思うこともあった。

かぜイコール、ウイルスによる急性上気道炎だというなら、なぜ熱が出るのか?

鼻やのどのところで免疫とウイルスが戦っただけで、全身が熱くなって汗のかきかたが変になったりするのは、ちょっと派手ではないか?

頭が痛くなるのはなぜ? 関節が痛いというのは? いくらなんでも、鼻やのどにウイルスがいて関節が痛むというのはおかしくないか。




いろいろ調べていると、その後、「ウイルス感染」についてはその後の医学がもう少し深く詳しく解き明かしている、ということがわかってきた。

たいていのウイルスが鼻やのどから体内に侵入するのはほんとうだ。

ただ、そのウイルス、どうも鼻とかのどに留まっているというわけではないようなのだ。

いわゆる、「ウイルス血症」という状態になって、全身……とも限らないようだが……をめぐろうとする。

だから人体の免疫はあせって、警備員を呼ぶために、アラームを鳴り響かせる。

血液の中に、免疫細胞が活躍するためのメッセンジャーたちが流れる。サイトカインと呼ばれたりする物質がそれだ。

そして、全身のあちこちで、ウイルスを倒すためにいろいろな変化がおこる。



鼻から侵入するウイルスを倒すために鼻の粘膜が激しく反応して、血管内から水気を出して外来異物を洗い流そうとしたり、水気にのっけて炎症細胞を現場にときはなったりするだけではなく……。

体温を上げることで外来異物を攻撃したりもする。

侵入された通用口だけにアラームをジャンジャカ鳴り響かせるのではなく、どうも、全館放送で対応しているようなのだ。

そのアラームを受け取る場所と、アラームに呼応して出てくる体内の警備システムが、ウイルスごとに、毎回異なる。

だからかぜにもいろいろあるようなのだ。



かぜなんてものは放っておけば2,3日、長くても5~7日程度で人体の免疫によって正常に戻される。

逆に言えば、人体のアラームおよび警備システムはすごく優秀なので、大多数のかぜウイルスは体内で勝手に処理してくれる。

けれども、ま、そうはいうけど、今こうして自分がかぜをひいていると……。

治るとはわかっているけれど、あーしんどいな、なんとかよくなる方法はねぇかなと、ここまで積み上げてきた医学知識を総動員して、自分の体を少しでも楽にする方法がないかと必死で脳内を検索することになる。ぼくだって患者なのだ。




そして結論はすぐに出る。

薬を飲んでも無駄。かぜウイルスに効く薬はない。

水分をとって寝る。たっぷり休む。こうして人体の免疫システムに十分に戦ってもらう。

これが一番効果的だということを、医者であるぼくは、よく知っている。

夜空を見上げると月がきれいだ。月に祈る。「はやくなおりますように。」

祈りにエビデンスはない。しかし、ま、月に祈るくらいならだれも損しないので、それくらいはやってもいい。医者の太鼓判である。

2019年9月25日水曜日

こういうのをたぶん孤独という

たま『さよなら人類』の冒頭、二酸化炭素を吐き出したあの子のくだりに続いて登場する曇天模様の空の下というフレーズ、なんの違和感もなく受け入れていた。リズムがいい。75調で。

けれど自分では使わない言葉だな。

今ぼくがいるのは飛行場の待合室だ。大硝子のむこうに、曇り空。分厚く立ち込めた雲、どよんと沈んだ天気、いろんな言い方があるけれど、脳内予測変換ソフトから「曇天模様の空」が自動で弾き出されてくることはない。だいぶ探し回らないと出てこない。このフレーズ、ぼくに、なじんでいないのだろう。





とここまで書いて思い出したが、先日ツイッターで、「飛行場とはまたずいぶん古い言い方ですね」と笑われた。そうか、空港か。飛行場の待合室ではなく、空港のロビーというのが普通の言い方だろう。飛行場の待合室、だと、旧ソ連時代の極東にありそうな、茶色がかったグレーの建物を想像してしまう。大硝子ってのもずいぶんとがばがばした言葉だ。今のぼくの内臓辞書、だいぶバージョンが古くなっている。




釧路空港で札幌丘珠行きのフライトを待っている今だからだろう。脳内マインクラフト的仮想世界は、リアルタイムでインプットされる情景をもとに、外界からのロウデータに内臓辞書由来のタグを付けて振り分ける。「飛行場の待合室」とか「鈍色の滑走路」とか「気だるそうなプロペラ機」とか「草臥れた背広の男」といったタグが次々と画像に添付されていく。老婆が乳飲み子を抱えて便所の前で茫としており、やがて母親らしき女が手拭きを乱暴に手提げにつっこみながら現れて、むずかりはじめた幼子にiPhoneを渡すと周囲にDA PUMPの仮面ライダーの曲が鳴り響き、ぼくはふと我にかえって親子孫を二度見する。ちっちぇえあかんぼうは、ミニオンズの服を着ていた。ババアと言ってもまだ50代じゃないか。母親はにこやかに踊り出した。子供がゲラ笑い。ここは日本、時代は令和、パーティーピーエーアールティーワイ。りょ。




2019年9月24日火曜日

病理の話(367) 意中だけではなく意外までみる

医者が患者を前にして、顔に手をそえて下まぶたをキュッとおさえて、まぶたの裏が白くなっていないか、白目が黄ばんでいないかと診察をする。両手首をにぎって脈をとり、同時に手のあたたかさや汗のかきかた、肌の水分量などを把握する。前から聴診器をあてて心臓や肺前面の音を、背中から聴診器を当てて肺の後ろ側の音を聞く。



こうした診察は「アナログ」だ。腕の差が出る。そして、ちょっと抽象的なことをいうと、「見ようと思っていないものも、見る」やり方である。




ぼくは最初の数行で、目を診察する際に

 ・まぶたの裏が白くなっていないか
 ・白目が黄ばんでいないか

という2つの項目を書いた。しかし実際には、白目に充血がないかどうかも「なんとなく見ている」し、眼球が細かく震えていないかもみるし、顔をさわったときの感触からも様々な情報をとる。高血圧や糖尿病の雰囲気が、目から「なんとなく伝わってくる」こともあるそうだ(ぼくは目の診察をしないのでそのへんはよくわからないけれど)。

つまり「雰囲気」をざっくりと見ている。見ようと思わなくても目に飛び込んでくるものがあり、医者はそういうものを知らず知らずのうちにまとめて把握する。




疲れて帰宅してマンションのドアにカギを差し込もうとしたらなんだかうまく回らない。もしや、と思ってドアノブを引くとなんと空いている。カギを閉め忘れたか? あるいは合鍵か……?

ぼくは中に人がいるのではないかと怯える。そうっと音をたてずにドアをあけて、いつでも警察を呼べるようにスマホを手に持ち、そろりそろりと、

「部屋の中に誰かいないかどうか」

を確かめに歩を進める。

そして、部屋の中に入ると、そこに、なんと……

橋本環奈!

わあ! まさか!

なぜここに橋本環奈!!!




シチュエーションとしてはあり得ないが、この反応は人間としてごく当然の、ありふれたものだ。

部屋に入る前には、中にいるのは包丁を持った中年男性か、ほっかむりをした中年男性か、あるいは拳銃を両手にもった中年男性か、とにかく中年男性をイメージして、それも暴力的な、反社会的な雰囲気をまとった中年男性をイメージして、「そういうおっさんがいないかどうか」を確かめるために、慎重に中をのぞきこむ。

「おっさんがいるかも!」

しかしそこにいたのがテヘペロ感あふれた橋本環奈だったからといって、私たちの目が「今はおっさんを探していました。」とばかりに、橋本環奈を見落とすということはあり得ない。

「何かを目指して見に行って、たとえ違うモノが見えても、その瞬間に対応する」のが脳である。

これは地味にすごいことだと思う。




医者の診察もいっしょなのだ。貧血を探るために目の診察をしたからといって、そこで黄疸を見逃すことはないし、あってはいけない。

アナログな診察というのは、得られる情報が思った以上に多い。

あれとこれを見るための診察です、と言いながら、実際にはその数倍、いや、数十倍以上の情報を、無意識のうちに集める。

以上は、ほとんどの医療者が知っていることだ。

「診断ってのはさ、試験勉強みたいにアレとコレだけ覚えときゃできるってもんじゃないんだ、もっと全体の雰囲気とかをちゃんと見なきゃいけないんだよなー」。




ところが話が病理診断に及ぶと、どうも話が単純化されてしまう。

「病理ってのはあれだろ、細胞をみてさ、がんか、がんじゃないかを見るんだろ」。

まあそうなんだけどさ。

ぼくらが顕微鏡で、あくまでアナログに、細胞をみているとき、そこから得られる情報は、もう少し多い。

おっさんを探しに行くと橋本環奈、ということも、顕微鏡の世界にはある。

美輪明宏のこともあるし、マツコ・デラックスのこともあるし、安田顕(onさん)のこともある。

おっさんだけ見てるわけではない。





橋本環奈の無駄遣い、という非難の声が聞こえてくるようだ。

2019年9月20日金曜日

レボルバーじゃなくてリボルバーではないですかと問い詰められたこともある

顕微鏡が壊れたので、修理をお願いしている間、代替機を使っている。

今までフルオートの電動レボルバーでラクをしていた。ボタン一つで自動的に倍率が切り替わり、しかも拡大倍率に応じて瞬時に光量や絞りの調節をしてくれるのだ。上位機種なのでピントもある程度合う。

しかし、代替機は手動だ。接眼レンズも、コンデンサーも、指で動かさないといけない。

苦痛である。



医学生とか病理医以外の医療者たちは日頃から手動の顕微鏡を使っているだろうから、電動顕微鏡の便利さにあぐらをかいているぼくが今こうして面倒くさがっているのをみると、贅沢だと思うだろう。

でもまあこれはしょうがない。

電動効果は大きいのだ。プレパラート1枚につき、だいたい1秒くらいは時短できる。

1秒かよ、とあなどってはいけない。年間5000例をみるぼくはプレパラートでいうとだいたい20万枚をみている。まあ、いかにもそれっぽく計算したように読める文章を書いたが、実際には何の根拠もなく適当に書いているんだけれど、でもたぶん、20万枚くらいだろう。そういうことにしておく。

プレパラート20万枚に対して1枚1秒ずつ得をしたと考えれば、年間20万秒だ。すなわち3333.3333...分。これはつまり55.5555時間。従って2.3148148148...日。

ほら、プレパラート1枚ごとに1秒というのはつまり、年間2日ちょっともうけていることになるんだ。うるう年より効果が高い。大晦日と正月しか休めなかったときに1月2日と3日にまだ休めると言われたら幸せな気持ちになるだろう。

電動顕微鏡はこうして、ぼくに毎年2日ずつの余暇をくれているのである。

それが今回壊れた。

正月休みを半分に減らされたような、地獄の感傷がぼくを襲う。




手動でレボルバーを回していると、これまで出張で訪れたさまざまな病院でのことを思い出す。

ぼくは病理診断をするためにあちこちの病院で単発的に働いたことがあり、当然、その病院ごとに顕微鏡の種類が微妙に違った。

ハンドルの動きがにぶく、アブラが切れていてプレパラートの操作がしづらい顕微鏡もあったし、Nフィルターの一部が汚れていていまいち光量が定まらない顕微鏡もあった。マイクロメーターを紛失しており細胞間の距離を測れない顕微鏡もあったし、光軸がずれていて視野を動かすたびに寄ってしまう学生実習レベルの残念顕微鏡もあった。

物言わぬ相棒たちをずいぶん手荒にふりまわしてきた。かれこれ数百万枚のプレパラートをカシャカシャズルズルとみて、プラマンで点をうち、デジカメで写真を撮ったりしてきた。いざ言葉にしてみるとなんだか不思議な人生だなあと思う。




ぼくが喫茶店のカウンターでひとりコーヒーを飲んでいたとしよう。二つ隣くらいに思い悩む大学生が腰をおろし、うかない表情でマンデリンなど飲みながらマスターとふたこと、みことしゃべっている。漏れ聞こえてくる内容からすると、どうも彼は就職先に悩んでいる。どういう職業を選んで良いか決めかねているようだ。マスターがしっかり見ていなければ見落とすレベルの目配せをこちらにツッとよこす。めざとい大学生はこちらを向いて、マスターの意図にのっかる形で勇気をだしてこうたずねてくる。

「大変失礼ですがどのようなご職業におつきですか?」

するとぼくはすこし考えてからこう答える。

「顕微鏡……をみてます」



へんなの! 小説家だったらシチュエーションが特殊すぎてこんなシーン書かないよ。たまたま喫茶店で横に座ってる中年男性が病理医で、顕微鏡に詳しくて解剖もできるとか、どう考えてもそのあとミステリーに連結されるじゃん。




でもぼくは実際そういう偏屈な職業について、今こうして電動顕微鏡が手動になったといって愚痴を書いているわけで、どうも、ふしぎな歩みの途上にいるのだなあ、という気持ちがじわじわむくむくとわいてくる。顕微鏡が直るまでには1週間くらいかかるという。たぶんこの日記が公開されるころ、まだぼくの顕微鏡は古びた先代機のままである。

2019年9月19日木曜日

病理の話(366) 医者の世界での先生と生徒

人間は経験を積むごとに、考えることが上手になっていく。

毎日サッカーボールを蹴っていれば少しずつリフティングが上手になるように。

ただ、サッカーのほうはどうか知らないけれども、思考の方には確実に、「上手になるコツ」がある。

たとえば、今医療現場で行われているいくつかの「勉強会」は、このコツを踏まえたものになっている。というかコツを外した勉強会は自然に消滅していく。出てもつまらないし役に立たなければ、人は集まらない。





毎日、患者と話し、きちんと診察をして、治療を繰り返していれば、それだけで医者は上達していくものだ。しかしたいていの医者は、心のどこかで、「それでは足りない」と思っている。

サッカーがうまくなりたい子が、ときおりサッカースクールでJリーガーのコーチを受けたいと思うように。

医者もまた、自分よりうまく診療している人間のコーチをうけたいと思う。

あるいは、自分と同じくらいのレベルの医者が体験した「レアな失敗談」とか「苦労話」を聞きたいと思う。一緒に考えてみる。

そうするときっと、自分の病院でだけ研鑽するよりも、もっと早く、うまくなれるのではないか……。




だから「勉強会」や「講習会」に出る。科にもよるが、好きな人は2週間に1回くらいのペースで出ている。

逆に、まったくそういう会に出ないタイプの科、ひたすら自分で努力を繰り返すタイプの医者もいる。けれども最近は、勉強会や講習会がなかったとしても、ウェブで動画講習があったりする。

完全に自分の経験だけで研鑽を積む医者はだいぶ減ってきている。




おもしろいなーと思うのは、そういう会で医者たちがしゃべる言葉使いだ。

お互いに先生先生と呼び合うのである。

どうみても生徒、みたいな人も先生と呼ばれる。

先生という言葉の本来の意味は完全に消失してしまっている。「ミスター」くらいの意味で「先生」を連呼する。

うける。

病院でいつも先生と呼ばせているはずの医者。

勉強熱心で尊敬できそうな、まさに「先生」タイプの人ほど、勉強会で先生先生と連呼しながら生徒をやっているものだ。





ちなみに画像系の研究会や勉強会に病理医が呼ばれるとき。そこでは病理医は文字通り「先生」扱いをうける。

ほかの医者たちが難しいと思った理由、診断を間違えそうになった理由などを、病理医が解き明かす役割を与えられるからだ。

勉強会や研究会を外からみていると、まさに、「病理医だけは真の先生」みたいに見えることがある。

これをもって、Doctor's doctorなどという生意気な二つ名がついたんだろうな。

そのように確信する。





けれども当の病理医であるぼくは……。勉強会や研究会で病理解説をするときはいつもあせだくだ。

臨床医たちがするように、お互い先生先生と呼び合ってはいるけれど。

「おれたちの勉強の足しにならないことをいってみろ、てめぇの鼻の穴から大腸カメラをいれてやるぜ」

くらいの厳しい目線に常に囲まれた状態で、病理の立場からコメントをしなければいけない。

もうみんな、先生って呼び合うのやめようぜ。

同志とかにしないか? なあ!





2019年9月18日水曜日

ソリティアってそういう意味だったのか

一冊、あまりおもしろくない本を読み終えた。残念であった。

献本じゃなくてよかった。献本だったら、感想を伝えなければいけない。けれどもこの本の感想を伝えるのはちょっとしんどい。忌憚のないご意見を、とは言うけれど、つまんなかった、とはやっぱり言いづらい。

まあこういうこともある。このあとは、本を職場のおくまったところにある本棚に挿してしまえば、おそらくもう、開くことはない。

ただ、今回は少し、表紙をみて、奥付をみて、考え込んだ。




この本がつまらなかったということは、ぼくと、この本の作者や編集者たちとがずれているということ。

これはけっこう売れている本だ。ならば、ぼくは「世間」ともずれているということ。




もちろんいっこうにかまわない。誰がおもしろいと言ったから読む、というベストセラー礼賛型の選書も決してきらいではないけれど、読書というのは究極的には個で完結していさえすればよい。天知る地知る我がこの本を知る、これで何の問題もない。ずれていていいのだ。Lonelyと言ってしまうと孤独だが、池澤夏樹さんいうところのsolitude(孤高)であればよいのだ。

Lonelinessとsolitudeの違いをググってみた。なかなかよいフレーズが出てきた。


Language has created the word "loneliness" to express the pain of being alone. And it has created the word "solitude" to express the glory of being alone.
言語は一人でいることの寂しさを表すために「loneliness」という言葉を作った。さらに言語は、一人でいることの喜びを表すために「solitude」という言葉を作った。
パウル・ティリッヒ(神学者)1886 - 1965



読書とはまさにsolitudeに行えばよいのである。逆にいえば、ぼくが孤高の末に感じた「事実」をあまねく世界にあてはめることもまたできない。ぼくがつまらないと思ったことはぼくの中にsoloで立ち上がってくるもので、一般論として拡張できる類いのものではない。




しかし、この本の作者も編集者も、発行人たちも、30年とか40年とか生きて、なんらかの価値観を心に築いてきた人々なはずで、その人たちがおもしろいと、世に出してみようと、出すべきだと感じるものが、なぜぼくには刺さらないのか、よくかんがえるとこれはなかなか不思議である。

同じ国で似たようなものを食って生きているホモサピエンス同士の間になぜこれほどまでの差が付いてしまうのか。

そこまできれいに分かれるものなのだろうか。

カレーのにおいを30分ほど嗅いだら人間はたいていカレーが食べたくなるものだ。長い遍路の途中でしばらく「同行」したものに対しては愛着がわき、評価がやさしくなり、肩入れし、境界線が甘くなっていくのが人の常。

しかしひとつの本を2時間ほど手に持っていたにも関わらず、ぼくはこの本との間に溝しか感じなかった。

カレーと本はなにがそんなに違う?




たぶんこの本には「ツバがとんでる」んだろうな。

ぼくは孤独に、そんなことをかんがえた。

料理人のツバが入り込んだカレーだとわかっていたらそこまで腹は減らない。

著者がナワバリを固辞するような本。自分の臭いを全編にまき散らしている本。

ぼくは本の中に張り巡らされた迷宮を歩き、ことばをひとつずつ拾って、ぼくの中で大事に組み直すつもりでいたのに、そこにもあそこにも、マーキングがしてあり、おすすめの道順みたいなものが書いてあり、著者がぼくになすりつけたい臭いみたいなものがぷんぷんと漂っていた。

それがいやだった、のかもしれない。




もちろんここですぐ気づくのは自分の書いた本のことだ。

ぼくこそ、見事に、書く物すべてにマーキングをしている。読む人とぼくとの境界をとろけさせることばかり考えながら、できれば読み手にぼくのにおいがうつるような、そういう文章を好んで用いている。





なんだ同族嫌悪か。

Soloとか言いながら。





同族嫌悪の頭文字はDなので、ぼくは本棚のDの棚にこの本をしまい込む。

おそらくもう取り出すことはない。Dの棚にはけっこうな量の本が突き刺さって、うらめしそうに、同じ臭いのする持ち主を無言で眺めている。

2019年9月17日火曜日

病理の話(365) カレーの恩返し的主観

「病理医によって、病理診断の文面がかわる」ということがある。

なんだ、病理医のくだす診断ってのは、「主観」かよ。「胸先三寸」かよ。

そうやっていやがる人もいる。人が変わったら診断が変わるなんてとんでもない、とばかりに。

でも、ぼくからすると、そもそも体調不良とか病気というものは極めて主観的なものであり、病なんて主観のかたまりなんだから、これを相手にする医者が客観だけで何かを語ろうとすることのほうが不誠実なのでは? と反論したくもなる。






胃カメラで胃をのぞいていた内科医が、不安そうな患者の横でモニタに目をこらす。

胃粘膜に、ぼんやりと、5mm程度の、赤みがやや強い部分が目に付いた。

(うーん。

胃炎かなあ……。でも、かたちが少しきたないなあ。

形状がぎざぎざしている。

普通、胃炎だったら、まわりにも同じような「赤み」がぽつぽつと見えてきていいのに、今回はこの1箇所だけおかしい。

となると、もしかすると、ごく早期のがんかもしれないなあ。)

なんてことを考えている。

内科医は、ここで、できるだけ客観的に診断しようと試みている。

病変の色調や形状、大きさ、分布など。

誰がみても納得できるような「客観的な言葉」をなるべく使う。

でも。

内科医が患者に胃カメラを飲ませるという判断は、客観的事実だけではなされない。「よし、飲ませよう」と決断するときには必ず主観が入る。

もっといえば、患者がその病院で胃カメラを受けるに到った理由。ここにも大量の主観が入り交じる。

胃もたれを感じた。いつもと違うかなと不安になった。知り合いが胃がんだと言われて自分もしらべてみようと思った。

医療というのは主観まみれだ。




主観と客観の末に、内科医は胃カメラのさきっぽで胃粘膜をつまみとる。

小指の爪を切ったときのカケラよりも小さいくらいの、ほんのひとかけ。

これを病理検査室に出す。細胞をみてくれ、と頼む。




そこで診断を書く病理医が、

「Group 1(がんはない)」。

あるいは、

「Group 5(がん)」。

と、極めて客観的な答えを出して終わりにするかどうか。




まあ仕事としてはGroup 1と書けばそれで十分なのだ。最低限求められた仕事としてはこれで事足りる。

しかし、中には、診断に「患者や内科医の主観をフォローするための、主観」をまぎれこませる病理医もいるのだ。

それは決して、事実をねじまげるという意味ではないので気を付けて欲しい。

たとえばこうだ。




「Group 1. がんではなく良性の胃粘膜です。
 背景にピロリ菌がいます。胃粘膜はピロリ菌の存在によって、炎症をうけて荒廃しています。ピロリ菌感染に伴う胃炎と考えます。なお、場所が前庭部(胃の中にも住所がある。前庭部というのはわりと十二指腸側)なので、ぜん動運動による刺激が加わって、発赤部の周囲が軽度隆起して目立った可能性があります。」

この長ったらしい文章は、実は病理医の職務としては本来必要なものではない。病理医はあくまで、「がんか、がんでないか」を判断すれば給料分の働きとしては許される。しかし、「なぜ内科医がこの病変を病理に出そうと思ったのか」に思いを馳せて、そこをフォローしようとしている。これを読んだ内科医が、患者にどういう顔で説明をして、患者がそれをどういう顔で聞くだろうか、ということを想像して、文章を主観的に足しているのだ。






「病理医によって、病理診断の文面がかわる」ということがある。

なんだ、病理医のくだす診断ってのは、「主観」かよ。「胸先三寸」かよ。

いや、それは、言葉がたりないと思う。

病理医が診断文に主観を入れるのは、カレーにスパイスを足すようなものだ。あくまでカレーはカレー。ライスはライス。そこはいじらない。しっかりと作る部分は作る。

しかし、それを味わう人に、「ぼくが作るからにはもう一手間かけて、さらにおいしくしてやるぜ」という心意気をもって接し、味変用のスパイスを足す。これこそが、病理医がときに用いる「主観」だ。

2019年9月13日金曜日

脳だけがここで待つ

今、書き終わって校正ゲラを待っている原稿が4つある。

看護学生向けの教科書、消化管病理の教科書、肝臓画像・病理対比の教科書、そして新書。

いずれも書いている間はどっぷり暗黒だった。はぐきがはれたり口内炎が5000個できたりした。時間の流れは一方向ではないのだなと思った。金曜日のあとに木曜日がきて、その次に水曜日がきて火曜日がきて、月曜日がやってきてまた火曜日に向かう。いつまでもいつまでも平日が続いていく。冷静に振り返って、もうああいう執筆には戻りたくないなと思う。

けれども、書き終わってしまった今、ぶっちゃけ、てもちぶさただ。





やるべき仕事はある。そもそも診断がたっぷりある。

書かなければいけない論文もある。誰に頼まれたわけでもないけれどぼく自身が書きたいものがある。

もう少しすると毎週どこかで講演をする。秋の出張がはじまる。

学会での発表や病理解説の仕事もいろいろある。今年はe-learningの収録とかもする。

だからもう本を書いている場合ではない。

それでも今、てもちぶさただなーと感じる。





ほんとはこの感情は「てもちぶさた」ではないのだとも思う。

依頼されて本にできるような内容が、ぼくの中に、もうない。

それがわかるのだ。手に書くものがないのではない。脳に書けそうなものが見つからないのである。

のうもちぶさた。







自分の持っているなにかを、本にして、書店に置いてくれただけで、これはもう果報者以外のなにものでもない。

亡くなった祖母の位牌にすべての本を供えている

ほこらしいし、ありがたい。

カタチになってしまった本をみる。自分の脳のバックアップをとって、外付けメモリの中に入れたような気分だ。

だからもう、脳に入っている情報は消去してしまってもいい。

本に書いた部分を順番に消去していく。するとどんどんスキマが空いていく。

これが「のうもちぶさた」という感情の正体だと思う。

今ぼくの手元……脳元……に、ものがないことを、ぼくは、さみしく歯がゆく思っている。





身軽ではある。

2019年9月12日木曜日

病理の話(364) ホネのある細胞

細胞の中には、細胞をパンと張って形を保っている、柱のような物質があるという。

ぶっちゃけ、ぼく自身はその「柱」をきちんと観察したことがない。

正確には昔見ているんだけど、当時はあまり興味がなかったので、どうやって見えたか忘れてしまった。

だから今から書くのは又聞きの話だ。自分で見て書いているわけではない。机上の空論と怒られるかもしれない。人のふんどしで相撲を取るとなじられてもしかたがない。

人のふんどしで相撲を取るのはいやだな……。

相撲取らなくても付けた時点でだいぶいやだな……。



まあいいや、ふんどしじゃないし。




細胞なんて、いかにもふにゃふにゃしてそうだ。

あるいは、プリンとかスライムのようにぷるぷるしているイメージがある。

ただ、細胞はそれぞれ、ただそこに居るだけではなくて役割がある(中には『ただ、居る、だけ』の細胞もいていいと思うのだが……)。役割を果たそうと思ったら、ある程度、しっかり立っていてもらわないといけない。隣同士手を繋いで、何かのカタマリを作ろうというときに、ふにゃふにゃ腰砕けでは困る。

そこで細胞には骨組みがある。

正式には「細胞骨格」という。うーんまんまだ。そのまんま。




この細胞骨格が、細胞の種類によって少しずつ異なるということを見つけたひとがいた。

なんだそりゃというかんじなのだが、冷静に考えてみるとあたりまえなのである。




細胞といってもいろいろある。先ほどから述べているような、隣同士で連結して、レゴブロックのように形をつくるタイプの細胞……上皮細胞……は、骨格がしっかりしていないと困るのだけれど、ソシキのスキマをすり抜けながらパトロールをして、悪いばいきんとかが入って来たらやっつける孤高の戦士たち……炎症細胞……などは、骨格がさほどしっかりしていなくてもいい。

孤高の戦士というか警備員たちは基本的にまわりの細胞とくっつく必要がない。血管の中をシュンシュン動き回ったり、ときに血管の壁にはりついて待機したり、いざというときには血管の壁に空いている隙間から外にとびでて、ばいきんたちとバトルをしなければいけない。

こういう炎症細胞たちはニンジャみたいな動き方をするので、骨格はむしろやわらかいほうがいいのである。




で、われわれ病理医は、この、「くっつくタイプの、レゴブロック型の細胞」がしょっちゅうがんになるということをよく知っている。なので、レゴ細胞(上皮細胞)がもつ、特有の細胞骨格を検出するワザを持っている。

免疫染色という手法で、サイトケラチンという骨格を染める。これがぴかっと染まったら、その細胞は、上皮細胞であるとわかる。

サイトケラチンを染める作業はかなりの頻度で行う。ぼくが病理医として働いていて、一週間のうちに一度もサイトケラチンを探さないことは、めったにない。それくらいよく使う。

ただ、この免疫染色という手法は、細胞の骨格……ほねぐみを、そのかたちのままに光らせてはくれない。

染色、すなわち染め物なので、色がバシーッと濃くついてしまうと、かえって細かい構造とかはぬりつぶされてしまう。普通の顕微鏡で観察できる限界というのもある。

だから普段は、なんとなく、「サイトケラチンがばしっと細胞に染まったら上皮だよ」なんて、お茶を濁したことを言っている。




けれどほんとうは……。

電子顕微鏡で見たりすることで……。

上皮細胞の中に張り巡らされている、サイトケラチンの骨格が見えるはずなのだ。ああ、ぼくが今、学生時代に戻って、今と同じ好奇心をもって、サイトケラチンを可視化した共焦点顕微鏡あたりの画像をみていたら、きっとワクワクするだろうに! もう覚えていないんだ、ざんねんだな、もったいない。




なんてことをここに書いておいたら、全国の医学生の中から1,2人くらいは、明日の授業が楽しくなるだろうか? ならないだろうな、やっぱ。


2019年9月11日水曜日

食うからじゃね

ニンテンドースイッチとか3DSなどをやる時間があまりなく、かわりによく本を読む。今はそういう時期なのである。皮算用が進む。

「この曜日のここで本を読めるから、合計すると、1週間で○時間の読書ができて、1冊本を読むのに3時間とかんがえれば、合計○冊ずつ読み進めていけるはずだ……」

するとたいてい途中でいやになる。ノルマクリア目的で本を読んでいるなーと思うと休息にワンピース1巻から読破したい欲や、藤田和日郎全作品リレーマラソンしたい欲などがわきあがってきて、計画はすべてSay頬にキス。読書に対する猛烈な欲は少し緩和されて、マンガを読みまくったあとはしばらく本を読まない時期に突入する。なにごとも、あんまり計画でがちがちにしてしまうのはよくない。




……どうでもいいけどSay頬にキスじゃなくて水泡に帰す、だ。




水泡に帰すというのはおもしろい言葉である。

「これまで積み上げてきたものが無駄になること。」Web辞書などではそのように書いてある。感覚的にはよくわかる。水面でパチンと消えてなくなってしまう無常感を言い表したいのだろう。経済用語でバブルというときも、やっぱり泡が水面にでてきてはじけたところが思い浮かぶ。泡のもろさ、はかなさをイメージした言葉。思い浮かべているものは必ずしも水泡ではなく、ときにシャボン玉の泡の場合もあると思う。

「努力が水の泡」という表現は、感覚的にとても理解しやすい。

しかし……わからないのは「帰す」のほうだ。

なぜ帰る? 水の中に。あるいは泡の中に。

水泡になる、とか、水泡と化す、ではだめだったのか。




もともと泡で生まれたナニモノカが物理的に精製され、その後、ふたたび泡のようにもろくなる、とでも言いたいのだろうか。

でも古今東西、「泡から生まれた」というモチーフがどれだけあるだろう。

人魚姫も泡になって消えた。

泡から生まれた泡太郎という昔話も聞いたことがない。

泡指姫……なんだか風俗にありそうな名前だ。

泡はふるさとではない気がする。まあ「生命、エネルギー、進化」という本では深海の熱水鉱床付近で生命が誕生した可能性について書いていたし、あながち泡がふるさとという意見も見過ごせないのだけれど……。

生命はもともとみな海から生まれた、とかそういうことを言いたいのだろうか?

母なる海に帰った、みたいな?

「水泡」のはかなさを表現する上で「帰す」を使うニュアンスが不明だなと思った。




しかし、ふしぎだなーと思って「帰す」で検索をかけていると、ぼくのような国語の素人にも、だんだん、言霊みたいなものがぼうっと見えてくる。

「灰燼に帰す」。

「烏有に帰す」。

ほかにもいくつかの慣用句が出てきた。これらに共通するニュアンスは、「おうちに帰りましょ」ではなくて、「消える」という意味のほう。

つまり「帰」には「帰る」以外のもう少し深い意味があるのだ。おさまるところにおさまる、とか、消えて無くなってはかなくなる、みたいな。




「帰」という漢字はもともと「歸」と書いたらしい。だから現在の部首であるりっとうなどから意味をそのまま取ることはできない。

Webでしらべた限りだと、「歸」という言葉は、左半分が神に供える肉、それと足(止)、そして右半分が掃き清める意味のほうきを意味するらしい。

掃き清めた場所で肉をおそなえする、ということ。これだけだと、「帰る」というイメージが湧きづらいが……。

何かが移動して何事かが生じ、その後、本来あるべきところにいろいろおさまって、どうもありがとう、神様お肉をあげるよ、きれいにしとくからね。これが「帰」ということばの本来のニュアンスなのかもしれない。

儀式的だな。どこか、「死」とか「消滅」に対する感謝をにおわせる言葉かもな。





こういうことをちまちま検索しながらさいごに「水泡に帰す」という言葉に戻ってくる。水泡だけでなく、帰すの方にも、消滅のはかなさ、別れのさみしさみたいなニュアンスが込められている。

……でもそんなことを意識していなかった昨日のぼくも、「水泡に帰す」という言葉自体はそれなりにうけとめて、勝手にせつない意味で読んでいた。日本語ってのはふしぎだ。

メカニズムがわからなくてもテレビは見られる、みたいなものか。言霊を言語化していない状態であってもぼくらが繊細な言葉を使えるメカニズムというのはどうなっているのか。

ゲシュタルト的認知のなせるわざなのだろうか。





ぼくはこれからどれだけの量の本を読むのか、あるいは読まないのか。

それはわからないけれど、少なくとも、世の中の単語や慣用句のひとつひとつに込められた深い意味とか語源をぜんぶ知ることはないだろう。

多少なりとも知っておきたい。世のメカニズムをおさえておきたい。そう思って、届かないなりにも前に進もうと思って、今週はこれだけ本を読もうと心に決める。計画する。とりかかる。挫折する。水泡に帰す。捕らぬ狸の皮算用だ。




なぜ、皮なのだろう。どうして肉ではないのか?

2019年9月10日火曜日

病理の話(363) タネと土壌の関係

Seed and soil theory(タネと土壌の理論)というのがある。

がんの転移に関する有名な理論だ。

今日はこの、タネと土についての話をする。




がん細胞は、体のどこかで発生したあと、本来の細胞であれば寿命を迎えて死ぬタイミングでも死なず(不死化)、本来の細胞であればそろそろ増えるのをやめてほしいのに増え続け(異常増殖)、本来の細胞と同じような役割を果たそうとしない(分化異常)、など複数のやばめな特徴をもってどんどん増える。

そして、増えただけでは終わらず、周りの正常ソシキを破壊し、さらには全身いたるところへ

「転移」

する。この転移が大変やっかいなので、一般にも有名である。




がんが、生まれついた臓器をはなれて体のほかの場所に飛び去って、新天地であらたに勢力を拡大するためになにが必要か。

古い医学者たちは「きっとがん細胞が通る道があるのだろう」と考えた。

たとえば、小腸や大腸で吸収された栄養は、門脈という特殊な血管をとおって肝臓にはこばれる。これはつまり、小腸や大腸から肝臓へのルートがあるということだ。

大腸に発生したがんも、しばしば、肝臓に転移する。これはもうぜったいに、「栄養をはこぶためのルート」をがん細胞が悪用して、そこを通って肝臓に達しているのだろう、とみんなが考えた。

この考え方、間違ってはいないのだけれど、100%正しいスーパー理論ではない、ということが、この20年くらいの医学研究により明らかになりつつある。





たとえば肺がんはしばしば副腎に転移する。あるいは、脳にも転移する。

肺から副腎に直接向かうルートというのは見いだされていない。あるかもしれないけれど、そんなところにルートつないでどうするのか、という気もする。

肺から脳に向かうためにも、一度心臓を経由しなければたどりつけない。

大腸がんが肝臓に転移するときに「ルートがあるから」と説明している以上、肺がんがほかの臓器に転移するときにも「ルート説」を採用したくなる。

でもどうやら、ルートがあるからそこに転移する、ということでもないようなのだ。




そもそも肺がんが血流にのって全身にちらばるとき、転移する先は、どんな臓器であってもいいはずなのだ。だって血管はあらゆる臓器に張り巡らされているのだから。

でも実際には、肺がんが転移する先にはある程度の法則性がある。




このことを説明するためにあみだされた理論が、冒頭で少しふれた、「タネと土壌の理論」である。Seed and soil theory.

がん細胞をタネに例える。このタネは血流にのって、全身のいたるところへたどり着く。

しかし、たどり着いた先の「土」がタネにとって「合わない」と判断した場合、タネはその場所で増えようとしない。

タネが落ちればどこででも発芽するというものではないようなのだ。

がん細胞というタネはそれぞれ個性があり、この臓器だったら育ちたい、この臓器ではうまく育てない、という好みがあるらしい。




そこで研究者たちは考えた。

がんはどんどん増えて、全身をめぐる。このとき、全身の土に改良をくわえて、がん細胞というタネが全身あらゆる臓器に「見向きもしないような土壌の性質」に変えてしまえば、がんの転移を防げるのではないか?




この考え方を元に、一部の抗がん剤の開発が続けられている。ただ、どうも、なかなかうまくいかないようではある。

雑草を思い浮かべて見て欲しい。雑草というのは、石垣のすきま、除草シートの脇、どれほど環境が悪くても、しぶとく生えて育つだろう?

どうもがんも、雑草に似たところがある……ようなのだ。だからといって研究の手を止めよう、あきらめようとは思わない。医学者たちはあきらめが悪いので。

2019年9月9日月曜日

コンセントを複数形にしたら

一部の職業人は、「この知識があるから給料がもらえる」という強みみたいなものを持っている場合がある。

医者もそう思われていて、「医学知識がある」というのがメシのタネであり、プライドでもある。

「医学知識」というのがウリである。

「医学知識」というのがコンテンツである。




ただ、実際に医者が給料をもらっている理由は、コンテンツの特異性とはあまり関係がない気もする。

ある瞬間に、知識がなくても、さびついていても、パッと出てこなくても。

「必要な資格を持った上で、あるイスに座って、時間を割いて他人と会話していること」

「必要な資格を持った上で、ある手術場に立って、電気メスをもち手を動かしていること」

こっちのほうが、より具体的に給料が発生する理由であったりする。




特異性のあるコンテンツは、その場にいる資格を得るためには絶対必要だ。

ただ、

「コンテンツを持った状態で、ある勤務地にたどり着いた流れ」と、「その勤務場所にいてくれること」のほうが、実務の大半を占めていたりする。




外科医が会議中にえんえんと、院内サンダルに結んだ糸を使って、糸を結ぶ練習をしているシーンをみる。外科医は切る仕事だと思われがちだが実際には縫う仕事であり、結ぶ仕事だ。だって、血管を切ったら結ぶか焼くかしないと、血が出て死んでしまうだろう? だから外科医は必ず「結び方」の練習をする。毎日毎日……。

で、この、「糸の結び方」は、高学歴と何か関係があるか?

医学部6年間で磨いた医学知識と関係しているか?

ぶっちゃけまったく関係していない。糸を結ぶことに関しては医学知識というコンテンツは何の意味も持たない。

医療現場における多くの手技はこれといっしょだ。

注射。麻酔。脱臼の整復。デブリードマン。

知識がないよりはあったほうがいいが、それよりも、繰り返し体にしみこませた「手技」こそが必要とされる。

これらの、いかにも「医者然」とした行動の大半は、医学知識という「医者しか持っていないコンテンツ」とはあまり関係がない。

しかし、医者がやらないといけないのだ。なぜかというと医者は、知識というコンテンツをもってその場にたどり着いた文脈(コンテキスト)を持っているから。

持たなければいけないものを持って、その場にたどりついたこと自体が人々に安心と信頼を与えるのだから。





で、まあ、ぼくは最近よく考えるのだけれど、医者が自らを恃む「コンテンツ」をしばしば文章にして世に発信するとき……。

「コンテンツ」をぼくらは誇りに思っているし、ほかの誰もが持ち得ない大事な強みだと知ってはいるけれど……。

「コンテンツ」を持ちながら実際、「コンテキスト」でたどり着いた医療現場で、ぼくらは日々、わりと手技に邁進していて、あんまり「コンテンツ」を使い切ってはいないんだよね……。

ぼくらは、ほんとにその「コンテンツ」、さくっと語れる?

ぼくらはその「コンテンツ」、わりと誇りに思っているけれど、実際、きちんと言語化して、毎日使う武器として育て上げている?




「コンテンツ」を文章にして語ろうと思ったら、世に語って受け入れてもらえるだけの「コンテキスト」を別に作っておかないと、あまり届かないのではないかなあ。

「コンテンツがあるからニーズがあるだろ」というのは、ちょっと、暴論なのではないのかなあ。

2019年9月6日金曜日

病理の話(362) ガラスプレパラートの奥行き

細胞を顕微鏡で観察するといろいろわかる。

……と、書くとなんだか簡単そうにみえるのだが……。

実はこの「顕微鏡で観察する」というひとことの中には、だいぶ技術が詰めこまれている。



まず、顕微鏡というのは基本的に、強烈な虫メガネである。

どんどん拡大倍率をあげていけば、どんどん小さなものが見えてくる……のだが、実は、そう簡単でもない。

拡大倍率をあげればあげるほど、視野が暗くなってしまうのだ。ある領域内に降りそそぐ光の総量は、拡大をあげればあげるほど少なくなるからである。

これを解決しないと、ある程度以上の倍率は目でみることができない。




指紋をみるくらいの拡大倍率でよければ、自然光を外からあてて観察すれば十分に見られるのだけれど……。

そうだなあ、具体的に言うと、たとえば、あなたの手とか指とかに、うぶ毛が生えていませんか?

そのうぶ毛、とっても細かいでしょう?

でもうぶ毛の根元……毛根……には、少なく見積もっても200個以上の細胞がぐるりと取り巻いているんですよ。

細胞ってそういうサイズなんだよね。指紋を拡大するとかいうレベルではない。



うぶ毛の毛根部分を超拡大して細胞ひとつひとつの構築まで見ようとおもったとき、虫メガネ型の拡大鏡を使っていては、光量が足りなすぎるのである。だから、光を強めに当てなければいけない。

しかし表面からガーンと光を当てると、ハレーションを起こしてしまうし、微妙な色調差が飛んでしまう。




そこで、ミクロの世界を光学的に観察する際には、表面から光をあててその反射光をみるのではなく、裏側から光をあてて透過光をみるのが一般的となった。

細胞の裏側から光をあてるためには、細胞が指とか手にのっかったままだと都合が悪い。

だから、細胞が乗っている部分を、うすーく切り出してくる必要がある。




こうしてつくられたのがガラスプレパラートなのだ。ガラスの上に、4 μmという薄さの、ペラッペラの「かつらむき」をのっけて、後ろから光を当てる。そうすれば、細胞レベルのミクロであっても観察ができる。




ただし4 μmまで細胞を薄く切ってしまうと、向こうが透けるくらい薄いため、今度は色味がなくなる。ほとんど透明にしか見えない。

そこで今度は細胞に特殊な薬液を使って、色を人工的に付けてやる。なるべく細胞内の構造にコントラストがつくように……。




こうして、うぶ毛の毛根レベルを拡大するために、いろいろな工夫が開発された。ものをうすーく切る技術、半透明の薄い膜になった組織に色を付ける技術……。

すると、これらの技術の副次的な恩恵がいくつもあらわれてきた。




小さい世界を観察するために組織を薄く切る。つまり組織はいつでも、表面からではなくて「割面」をみるほうがいいとわかった。すると自然と、私たちは、組織の表面より断面に目が行くようになる。

木を外から見るのではなくて、ずばっと切って年輪の部分をみるクセがつく。

すると切り株の断面には、年輪以外にも、根から葉へと水分をおくる管が走っていることがわかる。

断面を見ようと思うことで、断面でしか観察できない新しい科学に注目が集まる。





薄いぺらぺらの組織を観察するために人工的な薬液で色を付ける。細胞を少しでも見やすくするためにいろいろな薬液を調合して試す。

すると、薬液を変えることで、細胞のさまざまな成分を個別にハイライトすることができることに気づく。

色づけして観察することで、色を変えて初めて見えてくる新しい構造に注目が集まる。





今日の記事でぼくが言いたかったのは最後に太字にしたところだ。

何かを達成しようとして新しい技術を作ると、必ず、「技術を作ったときには想定していなかった、副次的な効果によって、当初考えていたよりも多くの科学が発展する」。





さあ、今後、AIを導入して病理学をすすめていくと、どういうことが起こるだろうか?

2019年9月5日木曜日

自問自答の自をどこまで拡張するかという話

「誰に何を届けたいか」みたいな話をずっと考えていると、この短い文章の中にも、3つほど「ん?」と思うポイントが含まれていることに気づく。

・誰に

・何を

・届けたいか



まず「誰に」。

特に誰にも届けたくないけどとりあえず自分がしゃべりたいのだ、ということが、ままある。

強いて言うならば「自分に」届けたい瞬間がある。聞いてくれる相手は誰でもいいのだ。だってその人をどうこうしたくて書くわけじゃないのだから。書くことで、自分がどうにかなりたいときがある。




次に、「何を」。

実はなんでもいいのだ。書いて出して認められるという過程だけが必要なのであって、届けるべき具体的なものはぶっちゃけ何であってもかまわない。強いて言うならば「届くもの」を書ければそれに越したことはない。




そして、「届けたいのか」。

そもそも届けたくないのかもしれない。「誰に」とも、「何を」ともかぶるけれど。届けることが目的ではないことがある。





ということはだ。

「誰に、何を、届けたいのか」という疑問のことを考えると、

「自分は、なんでもいいから、書きたい」という全滅的回答が得られることになる。





自分が医者だと公言している状態で発信する情報は、世の中的には、ある種の色メガネで観察されており、

「患者(や一般の人々)に、医療や健康に関する情報を、届けてくれるはずだ」

と期待されている。そういう前提で、ぼくが内心、

「患者に届けようと思ってないし、医療情報ばかり届けるつもりもないし、というか、届け物をするつもりがない」

と思っていては、そりゃあ、伝わらないし、得るものもないだろうなあと思うのだ。





以上のような机上の空論を何度も何度も繰り返しているうちに、もう少し自分の思考を丁寧に言語化しなければいけないなと思って、もうちょっとやさしく考えてみることにした。




・誰に

・何を

・届けたいか




ぶっちゃけ世の中の誰かに何かを届けたいと思うことは少ない。ただ、自分と思考回路がちょっと似ている人であるとか、自分と同じような悩みを同じように持っている人であるとか、自分がやさしくしたいなと思っている人と、共通の話題で会話をすることは、けっこうアリなんじゃないかなと思っている。



何をきっかけにして会話をするのでもいい。ただここで語る何かが、誰かに届けようという気持ちできちんと研磨したものであるとき、受け取り手が「それ、わかりやすいね」「なるほどよくわかったよ」と言えるくらいに錬成されたものであるとき、自分が持っていたその何かは、以前よりも使い勝手がいいものに変わっているだろう。



一方的にこちらから相手に届けるようなことでなくてもいい。ただ、物事というのは、距離を詰めたり遠巻きにしたり、拡大したり俯瞰でみたりしているうちに、細部も全体も両方みえてくるものである。となると、自分の手の中で後生大事にしておくよりも、誰かにあずけてそれを外から眺めてみるとか、あるいは誰かの手から投げ返してもらうとかしたほうが、結局、自分にとっても、その場にいる「誰か」にとっても、詳しく観察された「何か」になるだろう。





以上をまとめると、ものを書こうとするときに頭の中に流れてくるお決まり疑問文、

「誰に、何を、届けたいのか。」に対する答えは、



・自分が拡張されたときに接続するかもしれない他人に、

・自分や他人が持っていて、あるいは持ち始めていて、今以上に使いやすくしておきたいものごとについて

・届けたり届けられたりを繰り返しながら何度も眺めていたい。



ということになるだろう。

であれば情報発信においてどういう姿勢をとるべきかはおのずと決まってくる。



すでに完全に自分のものとなっていて、この先扱い方を変える気がなく、それについて自ら驚いたり感動したりする気もない、自説やステータスの類いを話すことはつまらない。

一方的に自説を述べるばかりで、かえってきた反応によって自分が変わる可能性を排除していると、情報発信としてはおもしろくない。




だんだん自分が宗教対話の人みたいになっている気がする。もう少し言葉を練ってわかりやすくしたほうがいいだろう。誰のために? なんのために?

2019年9月4日水曜日

病理の話(361) チンピラになった瞬間をみる人の存在

筑波大学の野口先生にお目にかかる機会があり、おもしろいお話をいっぱい聞かせてもらった。中でも印象的だったのは、「がん」の研究についての話だ。大変勉強になった。

その話をもとに、今日は記事を書いてみることにする。




巨大なラボが大量のお金を投入して、最新の機械を使って、ものすごい量のがんを検索し、「遺伝子変異」を調べる時代だ。がんの研究はカツオの一本釣りではなく地引き網のように、猛烈な量を一気にさらうようなやり方が主流になりつつある。

ネクスト・ジェネレーション・シークエンサー(次世代遺伝子変異解析装置)、略してNGSと呼ばれる装置を聞いたことがあるだろうか。ケンチャンラーメンがいつまでも新発売なのといっしょで、NGSもいつまでも次世代機なのだが、まあツッコミはともかく、金はかかるが強力な機械であることに間違いは無い。まじでエポックメイキングである。物療が投入できるようになると科学は一気に進む。

しかし、物量作戦で一気にがんを調べる研究には、落とし穴もある。




がんの研究に用いられるがん細胞は、すでにある程度進行して、「転移」や「播種」、あるいは「再発」などがあることがわかっているものが多く用いられている。進行したがんは、例えるならば、”細胞のチンピラ”が、国際マフィアとなって全世界で同時多発的に悪行を行っている状態だ。この、マフィアの構成員たちを大量に調べ尽くすことで、がん細胞の特徴を見極めようとする。

一見とても合理的だ。悪であることがはっきりしている人々を調べれば、悪の特徴がみやすいだろう。

でも、このやり方、成果が出やすいかわりに、弱点もある。




人間だれしも、ヤクザであろうが、生まれた直後は善良な赤ちゃんである。これが人生のどこかで少しずつ足を踏み外して、不良→チンピラ→かけ出しの組員→ヤクザの幹部とレベルアップ(ダウン?)していく。

このいちばん最後の部分、「できあがってしまったヤクザ」を調べると、目つきは鋭いし刀傷がほっぺたについているし、背中には大量のいれずみがあって車は黒塗りで、拳銃と白い粉をもって、と、コッテコテの特徴ばかりが抽出される。だから研究はうまくいきまくる。研究者達は大喜びで、マフィア研究に明け暮れる。

けれども、保安とか警備とか警察のことを考えるならば……。

できれば、ヤクザがヤクザとなる前に……チンピラに毛の生えた程度の小悪党の段階で、捕まえて、更正させておくことがのぞましい。

「早めに捕まえれば社会に迷惑かける前になんとかできるべや」

ということである。

早期発見・早期治療。

「早期のがん」や、「がんになる直前」、あるいは「がんになって間もない時期の研究」をしようと思うとき、すでに徒党を組んでしまっているマフィアをいくら調べても、あまり成果があがらない。これは”盲点”である。

マフィアのボスがいまさら教室のロッカーをバットで殴ったりするか?

しないだろう。

気の弱そうな男子学生をつかまえてちょっとジャンプしてみろとかいうか?

そういうことは学生時代にやり終わっている。

ヤクザの親分みたいなやつを捕まえてきて遺伝子検索をしても、そこには「悪の道に入るきっかけとなったできごと」が見つけにくい。




がん研究というのは奥が深い。マフィアをしらべることが悪いというわけでは全くないのだ。そこにはとても大きな意義がある。しかし、そこだけがすべてでもない。誰かがチンピラをとっつかまえて更正させる役割を担わなければいけない。

となると、である。

がんという「反社会勢力的存在」を、その進行度によってわけて、研究のやり方も変えていく必要がある。

ここには、「がんを分類する」という作業が必要なのだ。

「今まさにチンピラとして悪行をはじめた瞬間のがん細胞」だけを集めてくれば、そいつがなぜ悪の道に一歩を踏み出したのかという「根本の原因」(たとえばドライバー変異と呼ばれるもの、あるいはエピジェネティックな変化など)が見つかる可能性が増える。




で、この、分類を何によってやるかというと……まあ……病理医がプレパラートでみるやり方が、すごいいいよね……という話を、野口先生とした。

めっちゃくちゃおもしろかった。あと有名な彼のジーンズ姿を間近でみられたのもよかった。

2019年9月3日火曜日

和が師のwon

すごく頭のいい病理医たちが講演するのを聴いた。会場で静かに興奮していたら、質疑応答で座長から指名されて、質問させられた。しかも2名の講演で、2名の座長から。

ぼくのことは、そんなに当てやすいのか。

SNSとは縁のなさそうな座長なのに、ぼくをまるでツイッターのようにいじり、無茶振りをする。

なぜだ。

つまりぼくはもはやそういうキャラなんだな、SNSがなくても。




もしツイッターがなかったらみたいな思考ゲームをあちこちでみるのだけれど、「SNSがなかったら」みたいな雑な仮定はちょっと現実感がなさすぎるのでやめる。

たとえばツイッターがもうちょっとだけ違うなにかであったなら、どうなっていたのだろうか。

ツイッター社の企業理念が微妙にずれていたら。コアターゲットが違っていたら。あるいはURLが一部ちがうとかアイコンの鳥がかわりに豚であるとか、そういう微妙な違いがあったら。

きっとぼくの周りに起こってきたことが今とまるで違ってしまっただろうし、おそらくぼくはそのパラレルワールドに気づくことすらなかったに違いない。

今ぼくがこういうキャラでこういうことをやっていることにも、やっていないことにも、SNS、あるいはそれ以外の複合的なつながりが薄く弱く影響している。

座右の銘、恩師、記憶に残るできごと、みたいなものが嘘臭く感じられる現代、ぼくを含めた多くの人々は、瞬間的に通りすぎた単語の一部をとりいれて代謝して栄養にし、日替わりの師匠に薫陶を受け、記憶というブラックボックスからのアウトプットだけを享受している。




だからこそ、だろうか。

極めて頭のよい病理医たちが、いずれも、心に抱えた大事なことばを持っていることに、ぼくは脱帽した。自分が複雑系であることを十分に理解してなお、「恩」を明確に言語化してわれわれに伝えてくる先達は、尊いなと思った。



2019年9月2日月曜日

病理の話(360) 2秒早いという口癖

大学院時代にとても世話になった人(現・某教授)の口癖が、

「こうすると、2秒早い」

だった。

たとえば実験の手技、たとえば病理報告書の作成、たとえば解剖、たとえば事務的な手続き……。

さまざまな場面で一工夫をしてみせて、ぼくがそれをみて「なるほど」というと、すかさず冒頭のセリフを言った。

「こうすると、2秒早い」

ぼくはこれを覚えておこうと思った。




病理診断医として働き始めて12年ちょっとが経過した。

この仕事はプレパラートとか死体とかパソコンばかり見ているから、人とコミュニケーションしなくて済むからいいよな、みたいな口さがないことを言う人もだいぶ減った。

実際、働いていると、さまざまな人と会話しないと仕事がうまく進まない。




先日、ある特殊な検査を必要とする場面で、ほかの病院の病理医とやりとりをした。その際、向こうの病理医が、

「では標本をそちらに送りますね。そちらでご確認のうえで、こちらでできることがあったら指示をください。」

と、極めて適切な連絡をくれた。

でもそのときぼくはとっさに、

(ぼくが先方の立場なら、標本を相手に送り付けて確認してもらう前に自分で見て、自分でできる処置を先に進めてしまうのに。

そうしたら、患者のもとに検査結果が出る時間が、2日早くなるのに。)

そう思った。



もっとも、患者のもとに検査結果が1日、2日早く届くことにあまり意味がないケースであったことは確かだ。

一刻一秒を争う検査というのはある。けれども、すでになんらかの治療を始めていて、検査結果がどうあれここ2,3週間のうちにやることは変わらないタイプの検査、というのも、けっこうある。

今回もそうだった。

ぼくが、この局面で、「2日早く検査を出す」ことに、大きな意味はなかった。それはよくわかっていた。




けれども、ぼくは、

「ありとあらゆる検査を2秒ずつ早く終わらせれば、いつかその2秒が積み重なって、だれか一人の患者の決定的な診断の遅れを回避できるかもしれないという幻想」

に、取り付かれている。

だから、先方の病理医には大変もうしわけない話なのだが、心の中でそっと、

(こいつは、2秒遅い病理医だ)

と、レッテルを貼った。ぼくにはそういう汚らしいところがある。