2019年9月18日水曜日

ソリティアってそういう意味だったのか

一冊、あまりおもしろくない本を読み終えた。残念であった。

献本じゃなくてよかった。献本だったら、感想を伝えなければいけない。けれどもこの本の感想を伝えるのはちょっとしんどい。忌憚のないご意見を、とは言うけれど、つまんなかった、とはやっぱり言いづらい。

まあこういうこともある。このあとは、本を職場のおくまったところにある本棚に挿してしまえば、おそらくもう、開くことはない。

ただ、今回は少し、表紙をみて、奥付をみて、考え込んだ。




この本がつまらなかったということは、ぼくと、この本の作者や編集者たちとがずれているということ。

これはけっこう売れている本だ。ならば、ぼくは「世間」ともずれているということ。




もちろんいっこうにかまわない。誰がおもしろいと言ったから読む、というベストセラー礼賛型の選書も決してきらいではないけれど、読書というのは究極的には個で完結していさえすればよい。天知る地知る我がこの本を知る、これで何の問題もない。ずれていていいのだ。Lonelyと言ってしまうと孤独だが、池澤夏樹さんいうところのsolitude(孤高)であればよいのだ。

Lonelinessとsolitudeの違いをググってみた。なかなかよいフレーズが出てきた。


Language has created the word "loneliness" to express the pain of being alone. And it has created the word "solitude" to express the glory of being alone.
言語は一人でいることの寂しさを表すために「loneliness」という言葉を作った。さらに言語は、一人でいることの喜びを表すために「solitude」という言葉を作った。
パウル・ティリッヒ(神学者)1886 - 1965



読書とはまさにsolitudeに行えばよいのである。逆にいえば、ぼくが孤高の末に感じた「事実」をあまねく世界にあてはめることもまたできない。ぼくがつまらないと思ったことはぼくの中にsoloで立ち上がってくるもので、一般論として拡張できる類いのものではない。




しかし、この本の作者も編集者も、発行人たちも、30年とか40年とか生きて、なんらかの価値観を心に築いてきた人々なはずで、その人たちがおもしろいと、世に出してみようと、出すべきだと感じるものが、なぜぼくには刺さらないのか、よくかんがえるとこれはなかなか不思議である。

同じ国で似たようなものを食って生きているホモサピエンス同士の間になぜこれほどまでの差が付いてしまうのか。

そこまできれいに分かれるものなのだろうか。

カレーのにおいを30分ほど嗅いだら人間はたいていカレーが食べたくなるものだ。長い遍路の途中でしばらく「同行」したものに対しては愛着がわき、評価がやさしくなり、肩入れし、境界線が甘くなっていくのが人の常。

しかしひとつの本を2時間ほど手に持っていたにも関わらず、ぼくはこの本との間に溝しか感じなかった。

カレーと本はなにがそんなに違う?




たぶんこの本には「ツバがとんでる」んだろうな。

ぼくは孤独に、そんなことをかんがえた。

料理人のツバが入り込んだカレーだとわかっていたらそこまで腹は減らない。

著者がナワバリを固辞するような本。自分の臭いを全編にまき散らしている本。

ぼくは本の中に張り巡らされた迷宮を歩き、ことばをひとつずつ拾って、ぼくの中で大事に組み直すつもりでいたのに、そこにもあそこにも、マーキングがしてあり、おすすめの道順みたいなものが書いてあり、著者がぼくになすりつけたい臭いみたいなものがぷんぷんと漂っていた。

それがいやだった、のかもしれない。




もちろんここですぐ気づくのは自分の書いた本のことだ。

ぼくこそ、見事に、書く物すべてにマーキングをしている。読む人とぼくとの境界をとろけさせることばかり考えながら、できれば読み手にぼくのにおいがうつるような、そういう文章を好んで用いている。





なんだ同族嫌悪か。

Soloとか言いながら。





同族嫌悪の頭文字はDなので、ぼくは本棚のDの棚にこの本をしまい込む。

おそらくもう取り出すことはない。Dの棚にはけっこうな量の本が突き刺さって、うらめしそうに、同じ臭いのする持ち主を無言で眺めている。