2019年10月2日水曜日

病理の話(370) 病理医のワークライフバランス

病理医になる途中、たまに、全然家に帰らない日が、ある。どこまでもどこまでも勉強してしまう。気づいたら朝、みたいな。

そういう時期を経験した病理医が、そこそこいるとは思う。



これは、臨床医が「仕事が終わらず帰れない」のとはニュアンスがちょっと違う。

「勉強が終わらず帰れない」。やっていることは勉強であってタスクではない。誰に強制されているわけでもないし、さっさと帰ったっていい。けれども、なんだか、気持ち的に、帰れない。

マンガ『フラジャイル』の中で、夜通し顕微鏡を見て”ゾーン”に突入した宮崎先生がいたが、ああいう感じかな。





正直、病理医は、体育会系で自分をいじめたからといって成長が保証される仕事ではない。特に、誰かから強いられて、徹夜しないと終わらない業務を与えられて、いやいや顕微鏡と向き合っていても、まず成長なんかはできない。脳はスパルタでは伸びない。

それでも、なぜか、キャリアのどこかの段階で、「あっ、もう少し……もう少し勉強してから帰りたいな」と思う日がある。なんでだろうなあ。

ワークライフバランスをきちんとたもって、自分をしっかり休ませたり、大事な人のために楽しく過ごしたり、そうやりながらでも、十分に病理の勉強はできる。成長なんてゆっくりでいい。そんなに急いで脳に知識を詰めこもうとしても、できるわけがない。疲れないスピードで、じっくり、フレックスで育っていけばいい……。

わかってるんだけどな。本当に不思議だ、独身だろうが家庭があろうが、なぜか前触れもなく、ギュンっと「帰りたくない感情」に襲われる。

おもしろいことに、「あっ今日帰りたくないかも」と気づくタイミングはたいてい、「いつもならさっさと帰って家のことをやるはずの日」である。だから、もう少し勉強したいなという欲望を抑え込んで、帰ることにすると……。

哀しいくらいに「病理診断医としての自分」がぐらっと揺れる。あーままならない。

いつも、よかれと思って休んでいる、自分。楽しく生きているつもりの自分。家族を大事にしている自分。趣味を満喫している自分。

同じ自分のはずなのに、たまに、「今は脳を学問に全振りさせてくれ!」と思いたくなる。なぜ? 理由はもう、よくわからない。病理医ってのはそういう性格の人がなる仕事なのだ……というと、言いすぎかなあ。




ぼくは若い病理医志望の人に、最近、こう言うようにしている。

「あなたは、”ゾーンに入る” ことがありますか? めったにない? しょっちゅうある? しょっちゅうはちょっと怖いな、人として。

完全に個人の感想なのですが、自分がゾーンに入りそうだなと思ったときに、スッとゾーンに入っても周りに迷惑がかからない頻度を把握しておくといいでしょう。毎回ゾーンに入ってたら自分壊れるよ。けど、ときどき、ゾーンに入りたくなるんだこの仕事は。そういうものなんだ。だから、ゾーンに入る自分を、ときどき、許してあげるほうがいいと思う……。

この仕事、たぶん、どこかでゾーンに入る自分を楽しめると、うまみがぐっと増える。

ゾーンに全く入れないまま病理医として育つの、思ったより、大変かもしれない。自分の性格にもよるけどね。

変なアドバイスだけれど、ワークライフバランスって、日常の繰り返しの中でバランスをとるだけじゃなくて、『ハレの日に自分をどう偏らせるか』ってとこまで含めてバランスなんですよ、きっとね。」