2019年10月24日木曜日

病理の話(377) 学術講演会のマニアックな心構えについて

ぼくは普段、もっぱら、「臨床画像と、病理像とを対比する講演」ばかりしている。

聞きに来る人は、医者や放射線技師、臨床検査技師など、医療のプロフェッショナルだ。素人(非医療者)相手の講演ではない。

病理医であるぼくは、臓器の肉眼像から情報をとるのが得意だし、プレパラートをみてそこに眠っている情報を引き出してくるのが職能だ。いわゆる病理診断。扱うモチーフ全般を「病理像」と呼ぶ。

これに対し、病理医以外の多くの医療者は、日頃、超音波とか内視鏡とかレントゲンとかMRIなどを通じて患者のことを知ろうとする。これが「臨床画像」。

「病理像」と「臨床画像」との接点をさがして橋渡しするような講演をすることで、病理医以外の多くの医療者たちが、日頃あまり触れることのない病理診断になじみ、喜んでくれる。





ところが最近のぼくは、AIをはじめとするヘルスケアの新しいシステムを語る人間として呼ばれる機会がちょろちょろ増えてきた。ぼくは別にAIの専門家ではないのに、である。

AIにもっと詳しい人は、あちこちにいる。なのにぼくがなぜ呼ばれるのかな、と考える。

ぼくを呼ぶ人たちの顔や反応をみてみると、もとより、AIに超絶詳しい人を呼んだつもりはないようだ。

どちらかというと、「そこまで詳しくなくてもいいけど、講演会を形にしてくれるならありがたい」くらいのテンションである。

ああそういうことなんだなーと、ちょっとだけさみしく思う。

「確実に盛り上がる講演なら内容は問いません」という意図を感じる。講演会という形式さえ完遂できれば、内容がさほど高度ではなくても、あまり専門性が高くなくても、コミュニケーションの役にも立つし、十分だ、ということなのだろう。

正直どうなのかな、と思う。




ぼくを札幌から呼ぶということはそれだけ交通費も宿泊費もかかるわけで、せっかくなんらかの形で予算を確保して、わざわざ休みの日に少なくない人数の医療者が集まってくるわけだから、それをコミュニケーション目的の学芸会のように終わらせてしまうのはもったいない気がする。





で、まあ、そういうことを考えながら講演のプレゼンをつくっていると、世間で言われているような「伝わるプレゼンの作法」だけではどうも足りないような気がしてくるのだ。




まず、「テイクホームメッセージを1個にしなさい」という、近頃誰もが指摘するプレゼンのセオリー。

真に受けてはいけない。ぼくはそれは聴衆をなめていると思う。

そもそも札幌からぼくを呼ぶのに、8万円とか10万円とかかかっているのだ。それだけの金をかけておきながら、講演から持って帰れるメッセージがプレゼンの中に1つって、そんなぼったくりみたいなことが許されるとは思えない。

少なくともぼくが講演を主催したときに、遠くから呼んだ演者が、28pt以上のフォントでスッカスカに作ったオシャレ紙芝居みたいなパワポの中に持ち帰れるメッセージが1個だけ、みたいなしゃべり方をしたら、なんとつまらないものを聞いたのかとがっかりしてしまうと思う。

そんなもの、講師を呼ばずとも、PDFで配れば事足りてしまうではないか。ていうかスカイプでやれよ。





……実際、PDFで配れば事が足りるであろう講演は世の中に多い。「何を聞いたか」「何を学んだか」ではなく、「誰がしゃべったか」「どの学会に出たか」を重視する立場で講演会をやるとそういうことになる。芸能人とかプロスポーツ選手とか作家などの著名人が講演するならそれでいいだろう。しかし、学術講演がそれでは困る。

「人間はそこまでまじめに人のプレゼンを聞いていないし、終わったらすごいスピードで忘れていくのだから、フォントは大きめに、内容は絞って、言いたいことは減らして」。

こんなもの、「講演会で勉強したくない人たち」に忖度しすぎだ。勉強したい人たちのことをなめている。




賛否両論わかった上で言うけれど、ぼくの講演のプレゼンは、とにかく情報量を多めにしている。フォントも、デザイン性は大事だが、絵本を作っているわけではないのだから、見た目の美しさにこだわるばかり情報を減らすようなことはしない。敷き詰めるときには意図をもって敷き詰める。会場の後ろから見えないようなプレゼンは作らないが、コピーライターを気取った体言止めばかりのプレゼンには学術的な魅力を感じない。

商品を印象づけて売るためにやる、営業プレゼンといっしょにされても困る。




個人の経験に基づく感想にすぎないが、学術講演には、話し手の熱意を受け取って明日の診療に活かしたいと念じる暑苦しい聴衆が必ずいる。

それは必ずしもいっぱいいるとは限らない。100人の参加者がいれば、5人も混じっていればいい方かもしれない。

けれども、ぼくはそういう「本気で勉強したい人」にこそ向けて学術講演をやるべきだと信じる。

「とにかくわかりやすい」を一義にする気は無い。

メモを取りながら本気で、プレゼンのすべてを持って帰ろうとがんばる若い医療者が、どんな講演会にもたいてい数人潜んでいる。メインターゲットは彼らだ。彼らが、一生忘れられないレベルの情報の洪水を浴びせかける。それこそが、金をかけて呼ばれてしゃべる人間の責務だと思う。

最大公約数のためになんてしゃべらない。

会場に出てきている人間たちの、可能性の最小公倍数にあわせてプレゼンを作る。





だからプレゼンはとにかく濃いめに作るのだが……。

ぼくもオトナなので、そうやって自説ばかりを振り回していても誰も喜ばないということもよく知っている。

そこで、パワーポイントのプレゼンは濃厚に作る一方で、しゃべり方はできるだけ簡潔に、それこそ「テイクホームメッセージにまっすぐ進んでいるようなかんじで」、しゃべるように心がける。

1.目から入ってくる情報を豪華に。

2.耳から入ってくる情報はシンプルに。

つまり視覚と聴覚の情報をずらすのである。そうすることで、「会場内になんとなく来ていたコミュニケーション目的の、あまり勉強する気は無い人たち」にも、それなりに楽しんでもらうことが可能となる。





どうも世の中の一部の医療系プレゼンターはこれと逆の作り方をしている。シャレオツでパワポ1スライドあたりの情報量がやけに少ないものを数枚出しながら、逆にスライド内に書いてないことを含めておもしろおかしく漫談のようにしゃべってやろう、というタイプ。

1.目から入ってくる情報をシンプルに。

2.耳から入ってくる情報を豪華に。

パワポはコピーライター型。しゃべりは明石家さんま型がいいと思っているのだろう。

ぼくに言わせればちゃんちゃらおかしい。

こういう人のプレゼンを見ていると、「聴覚よりも早く全貌を認識できる視覚がヒマになってしまう」のが気にくわない。目のやることが終わってしまっているのに、耳からはのべつまくなし、情報が飛び込んでくる。しょうがないからプレゼンターの顔ばかり見る。おっさんの顔を凝視する時間が長いプレゼン。基本的に苦痛だ。

こういうプレゼンは、「何をしゃべっているか」ではなく「誰がしゃべっているか」を強調したいときには役に立つだろう。

でも繰り返すけれどぼくがやりたいと思っている講演は逆なのである。やる気のある人と内容を共有したい。




というわけでぼくは世の中のプレゼン作法とは異なるやり方で講演をする。「いやーすごい濃厚なプレゼンでしたねー」と言われた人はそもそも相手にしていない。どれだけ込み入ったプレゼンを作っていようと、しゃべりが理路整然としていれば、講演が終わった後に必ずぼくの元に猛ダッシュしてきて質問をしてくる熱心な人が何人か現れる。




……と、まあ、ここまで偉そうなことばかり書いてきたが……。

実は上記はあくまでぼくが「理想とするかたち」であって、実際のぼくは、

1.目から入ってくる情報を豪華に。

2.耳から入ってくる情報も豪華に。

の、豪華×豪華でプレゼンをしていることが圧倒的に多い。そんなことだからしゃべりすぎるタイプのコミュ障とか言われてしまうのだ。プレゼン道は険しい。