2019年10月23日水曜日

脳だけが旅をする

出張先ではAMラジオがかかっており、部屋は奥まっていて、壁は分厚く、ポケットWi-Fiの感度は悪く、持ち込んだノートパソコンでインターネットに接続するのにだいぶ苦労する。だめだ。電波が0本しか立たない。圏外とは表示されないが検出感度以下。「悪性は完全には否定できない」みたいなどっちつかずのレポートを書く場末の病理医のようだ。だめならだめ、いいならいいと言ってくれ。無精髭を掻き毟る。

珍しい病気の論文を探したい。ネットなしで診断を進めるのは厳しい。据え置かれたマッキントッシュを立ち上げた。

ぼくはマックが使いづらいと思っている側の人間だ。単に使用経験が足りないだけなのだが。シフトキーをおしながら文字入力をしても大文字アルファベットが表示されないのが不便。「英数」「かな」の文字が下品。長いWindows生活の末に指先にしみついた高次運動メカニズムが誤入力を連続して引き起こす。キータッチをするのにいちいちあそこを押してからあそこをおすという随意運動。不随意よりも随意がめんどう、ということがある。意図しないと文字が打てない環境で、ぼくは露骨に身悶える。



遠くからサンボマスターが聞こえた。サンボマスターももはや歌謡曲扱いなのだろうか。



ネットで病名と病理組織像を検索する。Googleにそのまま入れても求める情報は出てこないとわかっているので、Google scholarやPubMedを用いるわけだが、マックのブックマークにこれらが入っていない。Google chromeでログインして共有ブックマークを使えればすぐなのに。世界が便利に向けて猛ダッシュしているときに歩みをゆっくりにしたら相対的に不便になるという恒例であろう。



ラマチャンドラン「脳のなかの幽霊」を少しずつ読み進めている。視覚というものは、単に外界の光景が上下逆さまになって網膜に像を結ぶという光学現象ではなくて、もっとずっと高度な組み合わせなのだということが延々と語られていく。アーキテクチャとテクスチャを分けて考えるという近年のAI病理診断の発想も、もとをたどればラマチャンドランなのかもしれない。世にあるものがどんな形をしているか"what"と、それがどのように存在してどう動いたり止まったりしているか、あるいは何の機能に向かっているか"how"を、それぞれ大脳の違う場所が認知してあとで統合しているという説明。そうだな、ぼくはすでにそのことをよく知っている。別の本で読んだ。けれどオリジナルはここにあったんだな。

ラマチャンドランが語る内容は20年前には最新で、その後、多くの若者たちが彼のあとを追いかけてより強固な科学を作り上げているから、今読むと、「まだそこにいるのか」と思う記述も出てはくる。けれども、それよりもむしろ、「ぼくはそんなこと知らなかったぞ」と驚く内容のほうが圧倒的に多い。

はるか先を歩いていたつもりなのに、ずっと昔に見落としていた路傍の花にいまさら目を奪われている。




効率悪くなかなか進まない目先の仕事にうんざりして、出張先のデスクでぼくはスマホを手に取った。なぜかスマホの電波だけはきちんと立っている。タイムラインをのぞくと今日は「阿・吽」の10巻が発売される日だというではないか。デスクを離れて窓際に寄っていき、ポケットWi-Fiを空にかざしながら頼りない電波の中で即座にKindle版をダウンロードする。読む。圧倒される。

「華厳」の2文字が胸骨を強めに殴りつけてくる。

ぼくはそのまま最新刊を読み通したあと、窓際に立ったまま、スマホで論文を検索する。すぐに見つかる。PDFをダウンロードする。すぐに読み終わる。つまんねぇなあ。最新の技術。つまんねぇなあ。指先が勝手に開いていく未来。意図して歩くことをやめてはいけない。犀のように。犀のように。