2021年9月29日水曜日

会わなければ伝わらないもの

特にこの2年くらいは白髪の本数がすごいスピードで増えており、「多少混じっている」ではなく、「白髪が多いタイプの老い方をしている」。Zoomの画面だとよく見えないようなので、感染症禍が一段落して出張が再開したとしたら、おそらく人びとはおどろくだろう。

ぼくが主任部長になったのが去年の4月なので、一番偉くなったストレスで白髪が増えた、みたいな雑なストーリーを考える人たちも出てきそうだ。わかりやすいナラティブが添えられている現象は余計に説明しなくてよいから楽である。

いっそ、このまま状況がどうなろうと、私はもうオンラインでしか仕事をしませんよと宣言してしまうのもありかもなと思っている。遠隔でしか連絡を取れない病理医というのはキャラクタとしてそこそこ良い線行っているだろう。

「病理の仕事はぜんぶオンラインでできますよ。ウェブミーティングもウェブ講演も、リアル会場でやるよりよっぽど多くの人に見ていただけますし、むしろオンラインでやるべきだと思います。交通費もかからないから各方面に喜ばれています。そうそう、直近に出した本は、一般書も、教科書も、ぜんぶメールで作りました。編集者に会わなくても本は作れますね。白髪も増えたし、もう、あまり人前に出たくないです」

と言えば、断られることはまずないのではないかと思う。




昔、GTOというマンガがあって、天才生徒の菊地が「砂クジラ」という名前のキャラクタとたまにチャットで話をしていた。砂クジラはチャットでしか出てこないのに存在感があってかっこいいなと思いながら読んでいた。その後、彼は普通に本編に登場するのだけれど、ぼくは「しゃしゃり出てこないで、ずっとチャットの向こう側にいてくれたほうがかっこよかったのに」と思った記憶がある。

会いたいね、会いたいよ、やっぱり直接会わないとだめだよね、という人たちと仕事をすると、「やっぱり会うと違うよねー!」という大声が八方に響き渡るせいで、チリチリと鳴り続ける微弱なアラーム音を聞き漏らすんじゃないだろうか、とか、そういうことも考えている。


おそらく少し先の未来のぼくは、これまで以上に、「会わなければ受け取れない人」のために人と会う。ぼくと同じ感覚を持つ「会わなくてもコミュニケーションはできる」という相手とは、ツイッターオンリーだろうが、ゲームのチャット欄だろうが、深くしみ入る話ができるだろうから、これからは前以上に会わなくていい気がする。なんとなく人間は直接会った方がいいのかな、という思い込みがぼくにも確かにあったけれど、Zoom生活でよくわかった。会う必要はない。会わないほうがいいとすら思う。

ネット全般が苦手な人。ネットで仕事をしたことがない人。ネット上に友達がいない人。そういう人たちと仲良くしていくためには、「会うしかない」。たぶんそれでいい。別に会うこと自体がひどく苦痛だと言うわけではないのだ。会ってもいい、会ってかまわない。相手が望むなら、ぼくは四の五の言わずに、「会った方がラクだろうから会う」、それでいい。ただしぼくと同じような人間が相手なら、会う必要は全くないということだ。



誰かと一緒の空間を過ごす、特に、一緒に飯を食うという行為は、「今はあなたといっしょにご飯を食べていること以外のことはしていないですよ」という、ある種の「縛り」を介した契約なのだと思う。縛りがあるから契約が強くなる。そういう契約をする相手はよくよく吟味すべきだ。たとえば、「会って話してみないと相手のことはわかんないよ」と平気で口にする人とは基本的に話が続かない。相手のことをわかろうとしてコミュニケーションしている人は怖い。わからなくてもいいじゃないかと思う。こちらのことをわかろうとしてくる人と契約することが純粋に単純におそろしい。できるわけもないことをやろうとしている。詐欺師ほど大きな声を出す。


いろいろ考えていくうちに、ぼくがかつて一人で飲みに行くのが好きだった理由がなんとなくわかる気がした。「誰かとわかりあうために飯を食う」という行為に興味がなかった。カウンターを挟んで、飲食のプロが提供するものを、クリーンな契約の中で味わう、それ以外の意思疎通をしなくていいことが癒やしだったのだ。そうか、なるほど、そうだな、その意味で言うと、ぼくは感染症禍が落ち着いたら飯に会いたい。まだ見ぬ飯に出会い、飯とコミュニケーションをとりたい。実際に会って食べてみないと飯のことはわからない。インターネットではだめなのだ、やはり飯というのは実際に会ってみなければ。人? いえ、そっちは大丈夫です。