2016年10月13日木曜日

病理の話(7) 細胞だけではわからない世界

肝臓という臓器には、いくつかの病気が現れる。大きく分けると、「肝臓全体が侵される病気」と、「肝臓の一部分に出現する病気」だ。
前者の代表は、肝炎。
後者の代表は、がん(悪性、放っておくと命を縮める)や、血管腫(良性、放っておいても問題ない)である。

病理診断はこのいずれに対しても、強力な診断能力を示す。しかし、強力なだけであって、絶対ではない。

ぼくは、様々な臨床医達と何度も会話をするうちに、以下のように告げるようになった。

「肝臓病理診断とは、めちゃくちゃすごい画像検査、くらいのレベルに”過ぎず”、最終診断を与えることはできないと考えてください」。


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「がん細胞を見れば、がんとわかる」
これは、形態診断学という世界の、絶対のオキテのように信じられている。しかし、「インテリヤクザ」の項でも書いたように、ときには、
「ぱっと見ただけではそれががんかどうかわからない細胞」
というのが存在する。

肝臓には、そういうやつが、たまに出てくる。
「がんと似たようなカタマリを作る、がんではない病気」というのが、まれながら存在する。
カタマリの中から細胞を採取してきて、がんじゃないことがすぐに分かればラクなのだが、これがまた、揃いも揃って、「細胞を見ただけでは判定が付かない」ものばかりだ。


FNH(限局性結節性過形成)という病気がある。病気と書いたが、これは症状を引き起こさないし、患者さんの命にも別状はない。ただし、カタマリを作る。

このカタマリ、治療する必要がない。手術で採らなくてもいい。ただ、がんと区別が付きづらいため、「もしも、がんだったらヤバイので」という理由で、しばしば手術で採ってくるはめになる。診断が難しい。

こんな、がんに似たカタマリが、どうしてできるのか?

肝臓には、多くの血液が流れ込む。血液の一部は、肺でたっぷりと酸素を充填した「動脈血」である。さらに、腸管でたっぷりと栄養素材を充填した「静脈血」もやってくる。この2通りの血流を受け入れて、酸素や栄養素材を複雑にジャグリングするのが、肝臓だ。

酸素は、肝細胞自身が生きるために必要。
栄養素材は、肝細胞の仕事相手。肝細胞によって様々に処理される。

「人体最大の臓器」である肝臓は、人呼んで、加工工場(実はゴミ処理場でもあるがここでは省略)。とにかく複雑なイン・アウトを絶妙にさばいていく、「人体最強に仕事ができるヤツ」である。

これらの血流バランスが、比較的まれに、乱れることがある。異常というよりも、体質に近い。

肝臓の一部に、酸素ばかり豊富で栄養の少ない「動脈血」がごっそり流れ込む。そして、栄養素材たっぷりの「静脈血」があまり流れてこなくなる。動脈血と静脈血のバランスが、狂ってしまった状態だ。肝臓全てがおかしくなるわけではなく、たいていはどこか一部分だけが……せいぜい直径2cm前後の領域だけが、狂う。

こうなると、何がおかしくなるか?
普通は均等に配列している肝細胞たちが、動脈血流が豊富な領域において、妙に増えてしまう(過形成)。自分が生きるための酸素ばかり与えられ、自分の仕事の対象である栄養素材があまりやってこないと、ま、たぶん、すっげぇラクになっちゃって、生きやすいんだろうな。だから、増える。

細胞の数が増えると、周りに比べて細胞の密度が高くなる。満員電車の中に人が満ちるとドアからはみ出そうになるかの如く、パンパンに詰まって、カタマリとなって、周囲を押し広げる。あたかもがんのように、「腫瘤(≒カタマリ)」を形成する。

なあに、増えている細胞は単なる正常肝細胞だ……がんではない。なら、病気をわざわざ手術で切って採ってこなくても、皮膚から細い針を刺してやって、腫瘤のごく一部だけを採取して、顕微鏡で見れば、がんじゃないことはすぐにわかる。

……とは、なかなかうまくいかない。満員電車の中では、普段善良な人々の怒号や悲鳴、怨嗟の声が満ちるのと同じように、細胞の密度が上昇すると、まるで早期のがん細胞のような像を示すことがある。進行がんの細胞がコテコテのヤクザだとすると、早期がんの細胞は町場のチンピラ。満員電車の中で舌打ちする一般市民と、コンビニで舌打ちする場末のチンピラを正確に区別することができるか?

このように、細胞だけを見ていては、がんか、良性細胞なのか、区別がつかない場合がある。では、どうするか。肝細胞だけではなく、その周りにある「血管」、さらには「間質(スキマの部分)」などを、丹念に見る。これにより、細胞そのものの変化に加えて、「血流の異常」が起こっていないかどうかを探す。これは、顕微鏡だけだと、本当にめちゃくちゃ難しい。

だから、「肝臓が得意な病理医」は、CTやMRI、超音波などの画像を見て、血流の変化を読むのである。病理医なのに画像をすごく読む。もちろん、放射線科医にはかなわない、肝臓内科医にもかなわない、だから、彼らと協力して、一緒に読んでもらって、肝臓に何が起きているのかを、細胞だけでなく血流のダイナミズムを加味して、総合的に診断する。

「病理検査」+「画像検査」+「血液検査」+……。これらの「検査」が総合した先に、「診断」がある。


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顕微鏡で見ているのは、時間を止めた世界だ。検体を取り出してきた瞬間から、血流は全て止まっており、ホルマリン固定によって細胞の活動も全て停止している。これにより細胞は細かく観察できるが、FNH(さっきの良性のカタマリのことですよ)のように、「血流のバランスが乱れることによってできてくるカタマリ」を診断しようと思ったら、細胞だけではなく、「そこに何が流れ込んでいるのか」というダイナミズムを考えなければいけない。

放射線科医が造影CTや造影MRIを駆使して予測した診断に、病理医が顕微鏡を駆使して答えを出す。そんな一方通行の診断は、こと、肝臓においては、既に過去のものとなりつつあるのかもしれない。顕微鏡も一つの検査に過ぎないという視点、画像もあわせて全員が等価で話をしようというスタイル、「顕微鏡はマジで超役に立つし、病理がないと診断なんてできないけど、病理だけでは決められないんだよ」。

顕微鏡をひたすら見て、専門技術を磨くことで、顕微鏡を用いない人にとっての「ツール」となりたい……。これは、病理医のプライドであり、揺らいではいけない部分だ。できることとできないことを、分ける。自分の役割を、探す。立場を守って生きる。チーム医療の根幹が確かにここにある。

けど、ぼくは、まだ顕微鏡に対してそこまで絶対の信頼がないのかもしれない。画像系の研究会やカンファレンスで、病理診断そっちのけでCTやMRIの解釈を尋ねたりして、肝臓内科や放射線科の医師に笑われる。

その笑顔が、どういった種類の笑顔かを、子供の頃よりは読み解けるようになった。勘違いかもしれないが、縁の下から時々顔を出すぼくを見る彼らの笑顔は優しいように思う。