2016年9月26日月曜日

脳化するまでの旅

とある研究会が終わり、懇親会で2軒ほど飲んだあと、若く才気走った人間を連れて、とあるオシャレバーに行った。マスターはぼくと同い年なので38歳である。この世界だと若いけど、社会的には中堅。そういう年齢感覚は、たぶん、医療業界の人だとなんとなくわかってくれる。いい年して若手、稼ぎ頭だけど下っ端、という年齢だ。

この日、後輩をなぜバーに連れて行ったかというと、
「生意気かもしれないですけど、私、将来の進路に悩んでいます」
と生意気なことを言ったからだ。38歳であるぼくは、年下の人間が「悩んでいる」と言ったらなるべくいやらしい雰囲気で
「じゃあ話を聞こう。なあにぼくはまだ酔っていないから大丈夫だ。極めて安全だ。」
と言うべきだ。言った。

そして後輩はトイレに籠もった。静かにジャズピアノが響く店内にときおり出産を思わせる遠吠えが混じった。夜も遅くほとんどの客は帰った。ぼくは同い年のバーテンダーといくつか話をしていた。その中でちょっとだけ印象深かった話、そしてすごく印象深かった話がある。後者のすごく印象深かった話は、印象が強すぎて、アルコールのせいもありうまく文章にできない。きちんと脳化できなかった。だから、前半の、ちょっとだけ印象深かった話の方をする。

バーテンダーはこう言った。

最近、若い見習いとかバイトの面倒を見るんですけど、その最中にふと、
(自分が新しいことにチャレンジする意欲みたいなものが、変わってきてるな、減ってきてるな……)
と思ったんですよ。なにか、新しいことをどんどん探していこうとかじゃなくて、店をきっちり守っていかなきゃいかんのかな、そういう年齢なのかなって。将来的にはもっとお店も小さくして、しっかりと古典的な仕事をやった方がいいのかなとか、思うんですよ。

ぼくはその話を聞きながら、昔から自分が好きで読んでいた作家とその著作、そして旅のことを考えていた。

昔から椎名誠をよく読んだ。彼は小説も書くが、椎名誠の小説というとアドバードと武装島田文庫を読んだ程度で、あとはもうほとんどエッセイだ。中でも旅のエッセイが好きで、たぶん既刊は全部読んでいる。「本の雑誌」のサイトで椎名誠の全仕事みたいなのを見た時に、やっぱり全部読んでるなと思ったから間違いはない。

そして、ぼくは彼の行動とかモノの考え方を探るうち、彼が好きでよく読んでいるという「冒険もの」にも手を出して、時々読むようになった。けど、あまり多くは読めていない。

途中で辛くなってしまったからだ。他人の「旅に対するチャレンジ」を読むのが辛い。過酷な冬山登山、人類未到の地を踏破していく探検、海原にボート1艘でこぎ出す冒険、いずれも、読むと本当に心が震えるんだけど、読んだ後のことを考えてしまってなかなか買うまでに至らない。読み終わると猛烈に辛くなる。

辛くなるのはきっと、「もう遅い。もう追いつけない」という自分の声を自分で聞くのがいやだからだ。

ぼくは他人のチャレンジに猛烈にあこがれる。冒険に限らない、スポーツでもコンピュータでも音楽でもなんでも、すごいものを見ると心が沸き立つように思う。けど、自分ではもうできないなとあきらめたときに、なぜだか一番骨身にしみて堪えるのが「冒険」なのだ。理由はわからない。血液型がB型だからとか、そういうどうでもいい理由付けでかまわない。

わからないけれど、他人が冒険をしている姿を見聞きすると、悔しくて、やるせなくなってしまうのだ。先日は野田知佑の「ユーコンを筏で下る」を読みながらぼろぼろと泣いた。うらやましくて悲しかった。


件のバーテンダーは、札幌ではいろいろと新しいことにチャレンジして、多方面に仲間を作り、オーセンティックなバースタイルを踏襲しつつも意欲的な取り組みに果敢に取り組んできた第一人者である。その彼が、今、新しいことにチャレンジするのが辛くなってきた……というと言い過ぎかもしれないが、少し「守るところ」をやっていかないといけないという気持ちになっている。

ぼくとは違う、ぼくよりもすごい、それはともかくとして、ぼくはなるほど、と思った。老いか。慣れか。疲れか。違うと思う。違うなら何か、と言われるとそこはまだ言語にはなっていないので困るのだけれど、そう、「言語になっていなかった部分が、一通り言語になってしまった」のかもなあと思った。そのときのぼくは。

酔いが深くなり、左脳が大きく肝臓が小さそうな人間が出てきたので「解散しよう」と告げると、人間は礼を述べるでもなく詫びを述べるでもなくこう言った。

「まだいろいろ目指すべきだと思うんですけど、今の環境だとそれができなさそうなんですよ。」


この出来事があってからしばらくの間、ぼくは肝臓が小さく前頭葉のしっかりしていそうな人間に何と返事をしたらよかったのか、わからないでいた。

昨日、テレビを見ていたら、イモトアヤコがアルプスの名峰アイガーに登頂していて、ぼくはそれを見て泣きそうになってしまい、そうだ、ブログを書こうと思った。脳しか旅に出られない。脳だけが旅をする。そういうことです。次からはもう少し短いお話を、ゆっくりと書いていく予定です(フラグ)。