2021年6月30日水曜日
ちょろい召喚魔法
2021年6月29日火曜日
病理の話(550) どうしても自分で見たいという臨床医の話
たとえば消化器内科医、中でも胃腸内科の医者たちは、外来で患者と対話をし、病棟に入院した患者の診療計画を立て、ときには内視鏡室で患者に胃カメラや大腸カメラを施行する。
この、仕事のごく一部……。
最後の「胃カメラや大腸カメラを施行する」の続きとして、「カメラの先から伸ばしたマジックハンドで、粘膜をつまんで採ってきた場合」に、ようやく、病理が役に立つ。とってきた「細胞」を見て診断を下すのが、病理医の仕事だからだ。
逆に言えば、消化器内科医はそうそうしょっちゅう病理に用があるわけではない。
「細胞をとらなければ仕事にならないシーン」というのは、そんなに多くないのである。
たとえば患者が「胸焼けがする」と言ったら、まずやるべきことは詳細な聞き取りだ。事情聴取? いや、医療面接、と言おう。問診という言葉もあるとおり、話を聞くことは「診」である。診療の要。
どういうタイミングで胸焼けがするのか。朝目が覚めたときか。食前、空腹時か。食べ終わったあとか。毎日するのか、たまになのか。胸焼けと本人が表現しているのは、胸の違和感とは違うのか。どれくらい症状は持続するのか。どういうことをするとその胸焼けは良くなる・悪くなるのか。たとえば水を飲んだら落ち着くか。
最近の暮らしぶりはどうか。体重は増えたか。お酒はどれくらい飲むのか。タバコはどれくらい吸うのか。
これまでにどのような病気にかかったか。家族から何か体調について言われたか。
さまざまな情報から、患者が抱えているトラブルが総合的に浮かび上がってきて、医者は処方を考える。
「細胞をとって検査しましょう」という結論が毎回出てくるわけではない……というか、胸焼けのケースでは細胞をとる意味はあまりない。
同じようなことは、「便秘」にも言える。便秘で苦しんでいる患者の腸から細胞をとっても、わかることは(その時点では)あまりない。
もちろん、さまざまなシチュエーションの「あや」というものがあり、あっ、これは細胞とる案件だな、と主治医が判断したら、胸焼けだろうが便秘だろうが、即座に細胞が採取されるのだが、それは比較的まれだということだ。
胸焼け、胃もたれ、便秘、下痢。頻度が高いトラブルでは、一般的に、消化器内科医は病理に用がない。
となると、彼らにとって、「病理」というのはたまーに訪れる相談室みたいなイメージだと思う。
さて、そんな胃腸の医者たちが、いざ病理に何かを頼むとき、すなわち意を決して相談室を訪れるとき、ここにはある種の「文脈」が存在する。
「できものの正体を確定する」とか、「色変わりした粘膜の理由を知る」と言った感じで、病気がある程度目に見えているときに、その性状を判断してほしいという明確な目的がある。これは言ってみればシチュエーションが限定的だということだ。
すると、一部のドクターは、「いつもの自分のテリトリーと微妙に違うからさー、あとはそっちでやっといて」、てな気分になったりもする。ここから先は病理におまかせ、とばかりに。
病理診断報告書が書類でやってきたら、ささっと確認して、患者への対処を考えて、またいつもの「病理抜きの日常診療」に戻っていけばいい。
そう考える医者は、実際、多く存在する。
でも、一部の熱心な医者は、「せっかくだから病理にお願いした患者の一部も、自分で見ておこうかな」という気になるんだそうだ。
病理医に任せっぱなしにするのではなくて、自分でも顕微鏡を覗いて細胞のあれこれを知りたくなる医者。たまにいる。割合にすると、3割と言ったところかな。もう少し少ないかもしれない。2~1割くらいかも。ただし優秀な医者ほど、自分の患者に対する情報の評価を人任せにしない傾向があるように思う。ぼくは優秀な医者と付き合っているシーンしか記憶に残らないので、ほとんどの医者は自分の患者の細胞を自分の目で確認しにきているように錯覚しているけれど、ま、レアなほうかもしれない。
さて、病理に細胞を任せきりにしないタイプの医者は、病理医とわりと頻繁にコンタクトをとる。「こないだのあの人の細胞、見に行っていいですか?」というお決まりのフレーズをよく聞く。また、早朝や深夜に病理にいると、標本庫のほうの灯りがついて、誰か来たかなと思って見に行くと臨床医が自分の患者のプレパラートを探している、なんてこともある。そのあとは病理検査室にある共用の顕微鏡でじっくり細胞を見てなんだか感心して帰って行く。
ぼくはそういう臨床医たちと一緒に働くのが好きだ。一流の臨床医は、自分が扱う疾患の病理診断についてはある程度詳しくなっている。さすがに病理医のぼくより詳しくなれることは滅多にない(だから病理医という専門職が成り立つ)のだが、ぼくよりもはるかに身近に患者を見ている彼らの目線は、ぼくが細胞を見るのとはひと味違った光を発する。まして、横に病理医が一人ついて、軽く細胞の見方をレクチャーすれば、その臨床医はどんどん細胞が意図するところを読みとっていけるようになる。
臨床医にとって、「なぜ患者があのようになっているのか」を、自分で細胞を見ながら考えていく作業というのはとてもアトラクティブだと思う。そういう熱心な医者が、「なぜそう見えるか」を学ぶ際に参照すべき教科書というのは、最新のエビデンスに基づくガイドラインだけでは不十分である。細胞のことを知り尽くし、臨床の空気もよく知っている、ハイブリッドな著者が書いた「医療現場のナラティブ」を語った本でなければ通用しない。そういう本は探すのに骨が折れるが、全国津々浦々で臨床医とともに頑張っている病理医の本棚には、わりとこの特殊なタイプの医学書が多く並んでいる。
ぼくはこれまで様々な病理検査室で「病理医が選んだ本」を見て覚えてきた。病理医であれば必ず置くタイプの組織診教科書とは別に、ああ、これはおそらく、病理検査室を訪れる臨床医のために置いてくれている本なんだろうな、というのが見えてくることがある。そういう病理検査室の運営をしている病理医は、みな話がうまく、頭が良く、業績が豊富で(単にインパクトファクターが高いだけではなくカバーするジャンルが広かったりする)、何より人に好かれている。目指したいものだ。目指すしかないだろうと思う。
2021年6月28日月曜日
隠喩に抵抗する
一度ここで書いているかもしれない。まあいいや。
子どものころ、年に一度の頻度で、母の実家に帰省した。父親の運転で5時間前後である。ぼくは車の後部座席に弟といっしょに寝転び、ダイナマン、アンドロメロスなどのヒーロー歌謡曲が入ったカセットテープを聴きながら、窓の外を見ていた。
後部座席にふたりで寝転んでいられるくらいのボディサイズだったころの話、ということだ。
見上げる窓には曇り空を背景に、通り過ぎる電柱や店の看板の上端などがちらちらと映っていた。信号の少ない田舎の一本道を淡々と走っていると、電線が振幅の小さな正弦波のようにずっと波打って見える。ぼくはその波の上を滑っていく想像をしていた。
だいぶ大きくなって、インターネットで文章を読むようになってすぐ、電車の窓から遠くの屋根を見ながらその上に「忍者を走らせる」人が複数いるということを知った。ぼくは電線に忍者を走らせたことはなかったが、その感覚はよくわかった。
ぼくが世界をただ疾走しているだけではこの現象は起こらない。
他人の力で水平移動していること。
視線は進行方向に対して傾いていること。
切り取られた窓から見ること。
このような条件が重なったときに、移り変わる風景が一連の「動き」のように見える時間が訪れる。そこにぼくはうねり続ける波を見たし、ある人たちは忍者を走らせた。
他人の力で水平移動している状態で、視線を進行方向からそらして、切り取られた窓から……ああこれはメタファーになるなと思ったのだけれど、メタファーにしないほうがいいのかもしれないなと考えて、今日のブログは早々に切り上げることにする。人生を語るには早すぎる気がしたのだ。
2021年6月25日金曜日
病理の話(549) チールニールゼンとの戦い
超絶マニアックな話ですので肩の力を抜いて2,3回ジャンプして体をほぐしてから読んでください。
「肺がんの疑い」がある患者の話をする(架空の患者だ。しかし、今日の話に似た経過をたどる人はそれなりの頻度で存在する)。
肺に影があることがわかった。レントゲンだとわかりづらいが、CTだとはっきり見える。せいぜい、1 cmと言ったところか。小さい。
その影は、内部が空洞化している。穴のへりの部分に、何やら「できもの」が取り巻いているように見える。まるで小さなドーナツだ。
※実際にはドーナツの形ではなく、中が空洞になったピロシキやポットパイのような形状である。しかし、CTは輪切りにして断面を見る検査なので、ドーナツのように見える。
「ドーナツ」の周囲は毛羽立っており、なんらかの細胞が、周りの肺に向かって染み込んでいるところを想像させる。
もしかするとこの病変はがんではないかと考える。がんがマリモのように育ちながら周りに染み込んでいく過程で、マリモの中心部が荒廃して脱落し、内部がポットパイ的に空洞化することがある。
しかし、がん以外にも、このような形をとる病気はいくつかある。その代表が結核だ。
結核というと、咳をして、血を吐いて、沖田総司、みたいなイメージがある。しかし実際にはさまざまなスタイルをとる。必ずしもゲホゲホ咳き込んでいる人ばかりが結核なわけではない。無症状の結核というのも近年じわじわと増えてきている。
この小さな1 cmの病変が、がんなのか、結核なのか。
まるで治療法が違う。
1 cm程度のがんならば、肺をそれなりに大きく切り取り、肺の近くにあるリンパ節まで切り取る「手術治療」を選ぶことが多い(特に今回の、空洞をつくるようながんならば)。
しかし、結核だったとしたら、肺を切り取っても根治しない。抗生物質を投与しなければいけない。
大きな手術をするか? 抗生物質中心の治療をするか? がんか結核かでぜんぜん違う。じゃあ、どうやってこの二つを見極めるのか。
じつは、体に傷をつけないで行う検査では、この2つを厳密に見分けられないことがある。血液検査をしようとも、CTを丹念に見ようとも、「がんっぽい」「結核かも」まではたどり着くのだが、確定診断まではいかないのだ。
そこで……まず、手術をする。
ただし、激しく大きな手術をするのではない。1 cmのポットパイが含まれたところだけを、小さく切り取る。
そして、病理医にわたす。手術の真っ最中に。
病理医は小さく切り取られた肺を、ビニール袋で包んだまま、袋の口から手だけ入れて、ナイフでそっと切って、病変を目で見る。
空洞の中からとろりと、何かがとけて出た。そして……空洞の中に残る、ぼそぼその、チーズのような物質。
「あっ……結核の可能性が高いな」と判断する。結核の病変には乾酪壊死(かんらくえし)と呼ばれる、独特の変化が出るからだ。
手術室にそのことを伝える。外科医は病理医の見立てを信じて、この病変が「おそらく結核であろうと判断」し、それ以上傷をひろげることなく、肺の一部を切り取っただけで手術を終了とする。
もし、病理医の見立てが「がん」だったなら、外科医は手術をそのまま続行して、残りの肺をだいぶ大きく切除し、リンパ節もとった。
でも、病理医が「結核っぽい」と言ったから、肺を切る作業はそこまでにして、手術を終えた。
切り取ってきた肺の一部は、ホルマリンに漬けられる。しばらく置いておけば、結核菌の感染性はなくなり、安心して標本作製作業に入れる。
病理医は、プレパラートになった病気を、顕微鏡で、じっくり見る。まずは対物レンズを2倍にあわせ、4倍に拡大し、10倍、20倍、40倍、60倍まで観察。これとは別に、接眼レンズでも10倍の拡大がなされるから、最終的には60×10=600倍の視野での観察となる。
そこまで細かく観察して、いったい、何を見るのか? なんと、「結核菌」そのものだ。チール・ニールゼン染色という特殊な染色を使うと、結核菌は目で見られるようになる。
病理医がチール・ニールゼン染色で赤く染まる結核菌を見つけることができれば、手術中の見立ては正しかったということだ。ここまで、CTで空洞をみつけ、手術中に中を直接見て、チーズのような乾酪壊死まで確認したけれど、これらはいずれも、「犯人が引き起こした犯罪の痕」でしかない。犯人そのもの=菌体を直接観察したわけではない。
だから、病理医は最後に、結核菌を直接目で見て逮捕しなければいけない。
この作業は、相当しんどい。
目で見て明らかに病変がある1 cm大のカタマリ(内部は空洞化)。たった1 cmだが、600倍という高い倍率で観察すると、100視野か、200視野か、とにかく相当じっくり見ないと、全貌を見られない。
おまけに、この1 cmの範囲に、目でわかるような結核菌は……せいぜい、1個か2個、くらいしか見つからないのがザラだ。
体感でいうと、ウォーリーを探せの一番難しいやつでウォーリーを探し出すよりもちょっと難しいくらいの作業になる。しかも菌体はドチャクソに小さい。病理医になって10年未満の人だとほとんど見つけられないこともある。コツと根気と経験が必要な作業である。
病理医は、手術中に、「これは結核菌のしわざだ」と見抜いて、外科医に手術をそれ以上勧めなくていいよと進言している。だからその責任をとって、しっかりと犯人捜しをする。この作業はけっこうしんどい。ぼくはチール・ニールゼン染色を見る時間帯は午前中と決めている。疲労が溜まってきた夕方にチールを見るのは相当しんどくて、見逃すリスクが上がると考えているからだ。心を落ち着けて、体に元気がみなぎっていないと、結核菌探しははかどらない。そうやって、自分の判断に、責任をのっけてケリをつけるのである。
2021年6月24日木曜日
まちカドかがく
『まちカドかがく』を読んでいたら普通におもしろくて笑ってしまった。文庫の体裁で作ってもらって、いわゆる「普通の本」の顔をして本棚に収まっている。
編集者の介入がなく、それぞれの著者がそれぞれに書いたことがそのまま載っているだけ。文フリで出した同人誌のままである(ただし校正は入れていただいた。また、浅生鴨さんの前書きと後書き、対談を新たに載せてもらったので完全にイコールではない)。本としての完成度が低くなる部分があるとしたらそれは「編集の不在」によるものだよなと内心気を揉んでいたが、できあがったものを読んでみても違和は感じない。物語には物語の、論考には論考の、味わいと奥深さがきちんとそこにある。硬くなっていた肩をもみほぐす。
ぼくの書いた文章はボリュームでいうと10分の1くらいしかない。一番稚拙なぼくの小説が全体のクオリティを下げずに済んだ、と結論してもよい。ただ、ぼくは自分の書いたものを読みながら、いや、これは人に勧めても大丈夫だ、と途中から少し胸を張った。小説としてとりわけ優れた技巧があるわけでなく、市場との摺り合わせも一切行っていないが、ここには確かにぼくの精神世界が存在している。そんなものを自分が短くも書けたことに、なんというか、満足感というか達成感があるし、ぼくが普段使っている脳をそのままドライブさせて生まれた文章を世に出すことは、ツイートをしたり仕事相手と議論したりするのと同じように、これがぼくの回路だと世に話しかけるコミュニケーションの一環である。自分の回路、それはおそらくブラックボックスで中は見えない迷路なのだが、ここに何を流し込んだらどういうものが出力されるのかをさまざまな方法で見ることがひとつながりの人生になるのだと思う。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784991061462 (まちカドかがく 版元ドットコム)
版元ドットコムを貼っておいてあれだがKindle unlimitedに入っているとなんとこれ無料で読める。どういう仕組みなんだ。すごいな。
ぼくの書いた小説『FFPE』は、病理検査室で用いる専門用語であるFFPE (formalin fixed, paraffin embedded)、すなわち「ホルマリン固定+パラフィン包埋」に対する言葉遊びである。ホルマリンをフィクションに、パラフィンをプロットに入れ替えて、Fiction fixed, plot embedded。
ぼくらは日ごろ、外界からやってきた現象を五感で受け止めて脳に運び、各人が育てた虚構(フィクション)の中に浸漬して変性させて固定する。物理世界のそのものずばりを認識しているわけではなく、必ずお手持ちの物語をブレンドして変化させてから認識しているということだ。このことは、クオリアでもイデアでも物自体でも何でもいいが、科学と哲学がくり返し指摘してきた。
外部の刺激は変性させられるだけでなく、都合のいいように並べ替えられる。すり減るほどに日常遣いしている各人固有のプロットに沿って、ストーリーとして組み上げられる。アニメの絵コンテの順序を入れ替えるようなことが誰の脳でも起こっている。「もともとの配置」とは多少なりとも異なった物語が人それぞれに脳の中で完成する。矛盾など自覚できるはずもない。「言った言わないの議論」が進化の過程で解決できなかったのはなぜだろうと昔から不思議に思っていたが、なんとなく最近その理由がわかった気がする。一度理解したことがあるプロットに埋め込むことで、ぼくらは生(き)のストーリーにナレーション narrationを付けて読むことができる。それをナラティブ narrativeと言う。
Fiction fixed, plot embedded. 病理診断ではFFPEを遂行してしまえば検体の時は止まる。文字通り固定され、永久標本と呼ばれ、病院の倉庫で何年でも保管可能となる。では精神のFFPEを行わない、行えない人間がいたら、その人はいったい精神の倉庫をどのように整頓するだろう。じっさい、書いてみて、ははあぼくはこんなことを考えたかったのか、なるほどそういう回路を持っているよなあ、と我ながら感心したものである。『まちカドかがく』のFFPEでぼくは芥川賞を狙ったが、残念ながらノミネートには漏れた。一世一代の作品であり、せめて多くの人に読んでほしいなと願っている。
http://www.hanmoto.com/nekonosuf (まちカドかがく ネコノスの書店FAX用紙)
2021年6月23日水曜日
病理の話(548) モノクローナルジャスコ
体の中では、さまざまな細胞が複雑に入り乱れ、フクザツに活動している。この様子をイオンモールに例える。
イオンモールの中には服飾、雑貨、アウトドア、飲食など多彩なお店が揃っている。ただしこれらは完全にランダムに配置されているわけではなく、2階のあっち側には服の店が多いとか、3階のこっち側にはフードコートがあって飲食店ばかりだといったように、場所ごとに店の種類がある程度偏っていて、きちんと傾向がある。シャツを買いに来た人は、近い範囲で違う店をたくさん回れるから便利だし、お腹がすいたらフードコートを見回せば選択肢が多くて選びやすい。
ただし、「同じような店がある」とは言っても、「同じ店がある」わけではない。ユニクロが2階にも3階にも両方あるなんてことはないし、丸亀製麺が5店舗横並びということはない。それだとお互いに足を引っ張り合って売上げが落ちるだろう。
体の中でもこれと似たようなことが起こっている。たとえば胃粘膜においては、粘膜の表層で胃を保護する腺窩上皮という「防御型」の細胞と、胃酸の主成分である塩酸を作り出す壁細胞という「攻撃型」の細胞、ペプシノーゲン(胃内でペプシンという消化酵素に変化する)を作り出す主細胞という「攻撃型2」の細胞などがいりまじっている。これらはそれぞれ、同じ胃という臓器の機能を担っている以上、「同じジャンルの店」であるが、売っている商品は異なっている。アズールとコムサイズムとイッカはいずれもファッションの店だが雰囲気はすべて違うだろう。一方で、胃には呼吸上皮は存在しないし肝細胞も存在しない。まるで違う仕事をする細胞は存在しないのである。フードコートにモンベルやニコアンド・・・があっては不便だ、それと一緒。
また、胃の中で、腺窩上皮だけがごっそり集まるということは起こらない。防御をしつつ胃酸もペプシンも分泌するからこその胃であって、防御ばかりを固めても役に立たない。ヴィレッジヴァンガードが15店舗横並びになったフロアがあれば、(Twitterに写真をあげればバズるかもしれないが)少なくとも売上げ的には厳しいはずである。
では、現実に胃を眺めていて、「ある一箇所に似たような細胞ばかりがどんどん増えている」という状態があるか。正常である限りそういうことは起こらない。逆に言えば、病気だとそういうことは起こる。誰もが知っている病気である「がん」がまさにそういう状態だ。
がんでは、ある一つの細胞が遺伝子の異常によって際限なく細胞分裂をする。ふつう、体内にある細胞は一定の寿命を持っており、細胞分裂するタイミングも回数もきちんとコントロールされているから、無尽蔵に増えまくって徒党を組むことはない。しかし、がんは「無尽蔵に増える」。元はたった一つの異常な細胞なのだけれど、とにかく増えまくる。その様子はあたかも、イオンの中でGLOBAL WORKばかりが妙に元気になってフロア全体を埋め尽くすようなものだ。ライトオンは滅びる。ジーユーも生きていけない。フードコートのペッパーランチもマックも撤退せざるを得ない。なんならトイレもなくなるし駐車場も破壊される。
GLOBAL WORKという単一起源のお店だけが増える状態を、「モノクローナルな増殖」と呼ぶ。モノ=単一(モノラルとかモノアイのモノ)、クローナル←クローン(同じような遺伝情報を持つ細胞のこと)。ほんとうは手分けして必要な数だけそこにあるはずの細胞が妙にカタマリを作って増えてしまう。顕微鏡でその雰囲気を早期に見出すことができれば、イオンの統括マネージャーはGLOBAL WORKがフロアを埋め尽くす前に店を潰してかわりに靴下屋か何かに変えてしまうことができる。こうしてイオンは守られる。ただし場末のイオンにおいてはフロアの反対側でジャスコモールがモノクローナルに増えていることを見逃してはならない……。
2021年6月22日火曜日
鑑別診断の技術
楽天ファッションアプーリ ラララ 楽天 ファッション アプーリ と歌って踊っているCMがあるのだが、あれずっと浜辺美波だと思っていた。ん? と思って検索したら清野菜名だった。くらべてみたら別に似ていなかった。「若い女優さんがみんな同じに見える現象」がついにぼくにもやってきたのだ。つまりは違う世界で暮らす違う種になっている。
ぼくはハムスターの顔の差がわからない。みんな同じハムに見える。ハムスターはヒトの顔をどれだけ見分けているだろうか。チンパンジーくらい賢ければヒトを見分けるのだろうか。でもぼくはチンパンジーも見分けが付かない。象もカブトムシも、犬ネコであっても、誰が誰やら区別できない。それはつまりぼくが「違う種」だからなのだろう。ヒトであるぼくはヒトしか見分けられない。訓練しない限り。
しかしぼくは今、女優さんの見分けが付かなくなっている。住む世界が違うということか。食べるものも暮らしぶりも違うといえば違う。言葉も通じない可能性もある。意思疎通できるかどうか怪しい。目で見て区別が付かないことに種としての断絶を感じる。
昔は見分けていた物がだんだん見分けられなくなる、という現象を感じることもある。スマホゲームがどれも一緒に見える。走る車もだいたい同じに見えている。道行く青少年たちの見極めもあやしいものだ。心的なストレスによって認知がおぼつかなくなる現象もあるとは聞くのだけれど、ぼくの場合、現時点でツイッターのアイコンは瞬時に峻別できるし細胞診断にも問題がない。40代半ばくらいの人間は滋味をもって見分けが付く。科学読み物の文体、オルタナティブロックのベース音。脳が「ここだけちゃんと見ておきなさい」と専門化していると考えた方がしっくりくる。昔はそうじゃなかったのだから脳は可塑的だということだ。ぼくはここしか分けなくてよくなった。ぼくはここだけ分けて毎日を暮らしている。ぼくはここを分ければいいのだと、脳が心を言いくるめにかかる。
2021年6月21日月曜日
病理の話(547) 親水せんのかーい
体の中からとってきた細胞を、光学顕微鏡で観察するうえでは、「うすーく切って色をつけて、下から光を当てて見る」のが最強である。最強? なにが? と聞かれると困るのだが、ほどよい倍率をすばらしい解像度で見るためにはこのパターンがもっとも優れている。
この、
・薄く切る
が非常に難しい。カンナのおばけのようなミクロトームという刃物で、シャッと切った厚さはじつに4 μm(マイクロメートル)だ。完全に向こうが透ける薄さである。石川五ェ門もびっくり、技師さんの技術はすごい。
ただ、いくら技師さんの技術がすごくても、体内からとってきた組織がフニャフニャだったり、逆にゴツゴツしていたり、あるいはいびつに歪んでいたりすると、そう簡単には薄く切れない。
例え話をする。ここに、栗の実、カマボコ、ほうれん草、ナルトといった具材がある。これらを、「いつも同じテンションでカタンカタンと包丁を上下に動かしているペッパー君的ロボット」に、きれいに切りなさいと言ってもまず間違いなく失敗するだろう。栗はふっとび、ほうれん草はしなっと包丁を受け止めてうまく切れない。
そこでどうするか? すべての具材を茶碗蒸しにして固めてしまうのだ。煮こごりでもよい。
「基材」に埋没させてしまえばいいのである。そうすればペッパー君のカタンカタン包丁でもまとめてうまく切れるだろう。
ということで、体内からとってきた細胞も、茶碗蒸しならぬパラフィンという物質に埋没させる。パラフィンは溶ける温度が60度くらいで、常温では固体になるので便利なのだ。溶かして流して固めればすぐに「細胞茶碗蒸し」が完成する。
ただしここで……注意点がある。体内からとってきた組織をそのままロウで包むとうまくなじまない。なぜなら、パラフィンは「非親水性」だからだ。水をはじく。
ロウソクのロウをスキー板の裏に塗るとよくすべるようになる(北海道民にはおなじみ)。これといっしょで、簡単にいうと、ただパラフィンで組織を包んでもなんかはじかれてスキマができてしまう。
だからパラフィンの中に組織を埋没させる前に、まず脱水を行う。といっても細胞をしぼって水を出せば組織はかんたんに壊れてしまうので、ここでなかなか手の込んだことをする。エタノールに浸すのだ。それも何度も何度も。そうやってだんだん水分を取り除く。最終的にはエタノールをさらにキシレンやトルエンなどの有機溶剤に置き換えることで、完全に水分がいなくなったら、ようやくそこでパラフィンを流し込む。すると組織の中には(外だけではなく内部にも)しっかりとパラフィンが流れ込むのである。
こうして、組織は慎重に脱水されながらパラフィンで埋められて茶碗蒸しになる。これをようやく技師さんがスライスする。透明な膜のような顕微鏡標本ができあがる。でもこれはペラペラに薄くて、そのままでは顕微鏡で見てもなんだかよくわからない。
だから次は色を付ける。細胞の形状がわかりやすくなるような染色を行うのだ。しかしここで次の問題が出てくる。じつは、染色は「水彩画」なのである。水を含む染色液を使うのだが、パラフィンが含まれた検体は水をはじいてしまう。アァー今度はパラフィンが邪魔やんけ。
ということで今度は脱パラフィン(脱パラ)と呼ばれる作業を加える。ペラペラの組織をキシレンにひたしてパラフィンを流しとり、次はエタノールにひたして、そう、さっきと逆の行程を踏んで、だんだんと組織が水になじむ環境に返していく。最終的にエタノールの濃度を下げていくことで水溶性の染色液で染めることが可能になるのだ。
というわけで、細胞からは水を奪ったりまた戻したり、反復が行われて、ようやく細胞には色が付く。
最終的にこれを顕微鏡でみるのだけれど、多彩な行程を通った4 μmのスライスは、そのままだと表面がわずかに毛羽立っている。この些細な毛羽立ちは、顕微鏡で観察するとこれがまあ見事に邪魔で、光が乱反射して、なんだか陰影が強調されてしまってうまく見られない。そこで、検体の表面からオイル的なものをたらしてカバーガラスをかける(スライドガラスの上にカバーガラスをかけたことがある人は多いだろう)。このオイル的なものを封入剤と言うのだが……なんと……いやむしろ予想通り……封入剤はオイルというだけあって(たいていは)非親水なのである。
またかよ! 染色しおわった組織は水になじんでいるから、そのままだとオイル的なものをはじく。だから、再び細胞から水をのぞくためにエタノールをぶっかけて、キシレンで置換して……とやってようやくプレパラートが完成するのである。
親水→疎水→親水→疎水。ドリルすんのかいせんのかい的反復のすえに、ぼくらはとてもきれいなプレパラートを使って、ようやく細胞に何が起こっているのかを見定めにいく。
2021年6月18日金曜日
怒らないことだ
たとえばあなたが、「いわゆるニセ科学を信じている人」を見たとする。
そこで、
「ニセ科学は論理的に破綻しているのだから、ていねいに、やさしく、しっかりした論理の科学を語り続ければ、いつかそのアヤシサに気づいて、ニセ科学を捨ててくれるはずだ」
と考えること自体は、いいと思う。
でも、そのやりかたはたぶん、あまり通用しない。
そもそも、「丁寧に論理を追いかけていくやりかた」でニセ科学を捨てられるような人は、そもそも最初から、ニセ科学に自分の身を委ねない。
「論理が破綻していようがいまいが関係ない。ニセ科学のほうが自分に安心を与えてくれる」
という考え方は現実に存在するし、
「正しいほうの科学が別にあることなんて、とっくにわかっている。でも、正しさはこれまで自分を傷つけてきたから、正しさを基準にしてもいいことはない」
という考え方もある。
*
科学が人を救うとき、そのありがたみは、小さいころから「論理を積み重ねることで得をした経験」がある人ほど強く感じられるように思う。
「なるほど、理路整然としているとこんなに美しいんだ」
「そうか、論理が通っているとこんなにモヤモヤしないんだ」
「へえ、適切な科学によってぼくはこれだけいい気分になれるんだ」
「知らなかった、科学によってぼくはこんなに得をしているんだ」
でも、このようなうれしい体験がなかった人はいっぱいいる。
論理の正しさが自分にとって今やなんの意味ももたらしていないと発言する人たちがいる。
先日。あるウェブイベントを見た。
そこでは登壇者たちが、マスクをせず、近距離で、長時間にわたって、アルコールを摂取しながら自然とおしゃべりをしていた。
ひとりがこのように発言した。
「いつまでこの厳しい世の中が続くんでしょうねえ」
するとひとりがこのように返した。
「緊急事態宣言は伸びちゃったからねえ。宣言が終わればまた日常が帰ってくるんだけど」
科学的にぼくはつっこみたくなった。緊急事態宣言の有無が問題なのではない。宣言が終了したからといって、ワクチン接種が進むまでの間は、「かつての日常」を取り返してはだめなのだ。というか、そこで油断してかつての日常を取り戻してしまう人が多いから、リバウンドがやってきて、次の波が襲いかかってくる。
しかし、このつっこみは、脳の外に出ることはなかった。
登壇者はみな、いわゆる高学歴であった。整然とした理路を持ち合わせてもいた。少なくとも、「科学」を疑うようなタイプの人びとではなかった。
でも、今の彼らにとって、「論理的に正しい日常生活」には何の魅力もなく、対話とアルコールを前に「感染症理論」が何かの救いになることもない。
「ただ、緊急事態宣言でお店が閉まることがつらい」のであって、宣言が開けたらそれは酒を飲んでいいということなのだから、ウイルスがいようがいまいが飲み食いをする。これは彼らの中では筋が通っていることであり、限りなくニセ科学に相似した素敵な拠り所なのであった。
非科学的なことを目にして怒りをためこむ自分を俯瞰する。ぼくは何に怒っているのか。何をはがゆく感じているのか。
科学をはずれた人が結果的になんらかの損をすることを惜しむならば、心に湧き上がる感情は怒りではなく悲しみのはずだ。ぼくが怒っているのはなぜなのだろうか。
それは、「科学」という、自分が拠り所にしているものを、他人が踏みにじっていると感じたからなのではないか。
ぼくは価値観の相違に耐えきれずに、自分の過去を肯定するために怒りという感情を召喚しているだけなのではないか。
何を言えば科学の子は役割を果たせるのだろう。
少なくともこの怒りはあまり役に立たないのではないかと感じた。メタな視点から見た自分の体温がスッと下がっていくのを確認した。
ていねいに、科学を語ることは、これから情緒を積み上げていく子ども達のためにも必要だ。大人だって現在進行形で経験を上乗せしていくのだから、科学を語ることは続けていいだろう。
でも、「科学に寄っかかれなくなっている人たち」にそのアプローチはどうやら通用しない。
……スマホが一時の癒やしをくれたことに、いちいち感謝する人は少ないように、科学の恩恵は心の中で摩耗し、偉大な医療の歴史は偶発的な日常にかき消されて忘却される。
怒らないことだ。敵対しないことだ。拠り所になるために。
それしかないのだと思う。自分が怒りそうなとき、そこには、「論理の破綻」がある。
2021年6月17日木曜日
病理の話(546) 時間のために生きている
2021年6月16日水曜日
教育はあきらめました
デスクで雑誌を読んでいたら研修医がやってきて、一緒に顕微鏡を見ながらいくつかの病気の解説をした。
テンポ良く勘所を教えていく。なるべく簡単に。
ただ、今日は、研修医のリアクションが、少し鈍いと感じた。
もしや、これでも難しいのかもしれない。
どこからどこまでが「基礎」だったろうか? 脳が迷う。
顕微鏡の視野を無意識にどんどん動かしている自分に気づく。気持ちを落ち着けて、ゆっくり目に、なるべく同じことを何回もくり返しながら説明をする。
……これでよかっただろうか。わかってくれたろうか。
この研修医が、「どこまで知っているのか」が読めない。
毎年毎年、何人もの研修医を教えてきたのに、今年はなんだか、「とらえどころがない」。彼我の間に距離があると思った。
あ……ついに……。
もしかすると、もしかしなくても、今のぼくは、自分の学生時代に「この人なにを教えてるんだかよくわからないけれどまあすごそうだな」と感じた、すごく目上のエライ人、あれになっている。
「なぜ初心者のときの気持ちを忘れてしまうのだろう」とふしぎに思ったときのことをギリギリかろうじて覚えているけれど。
とうとうぼくはこっち側にやってきた。「若い人の気持ちがわからない側」に。
端的にさみしい。
ここかあ。こんなところだったのかあ。
いずれ、医学生や研修医の気持ちがわからなくなる日は来るだろうとは思っていた。でも、それより先に、まず非医療者の……一般人向けの説明ができなくなるだろうと思っていた。自分から遠くにいるところから順番に疎遠になるだろうと。
でも、どうやら違う。「中途半端にこの世界に入りかけている人」に対するさじ加減が真っ先にわからない。素人向けに病理を説明するほうがむしろラクだ。医学生や研修医相手のほうが、むしろどこまで専門用語で話していいのかがわからなくて、難しい。毎年、学部学生への講義も行い、研修医教育にもコンスタントに携わり続けていたわけで、ブランクなどないのに、急にきつさを感じる。老化みてえだ。
あとは若いもん同士でやってもらうしかない。しょうがないので、ぼくはもう、若い人たちのことは考えずに、どんどん先に進んでいきます。教育はあきらめました。よろしくお願いします。
……ってわけにもいかないのでいちから教科書を読んでいる。「ここからか。ここから書かないとだめか。」
学校や塾、予備校の先生ってのは、すごいんだな。毎年同じレベルの人に教え続けている。自分はどんどん賢くなっていくはずなのに。
2021年6月15日火曜日
病理の話(545) 見た目の派手さが未来予測に役立たないことがある
「原則」と「例外」のことをよく考える。
たとえば、「細胞核がでかくてゴツゴツしていれば、その細胞は悪性(がん)である」というのは、ほとんどの場面でかなり正しい、病理学の大原則だ。
細胞核には遺伝情報(DNA)が入っている。その細胞が正しく増え、正しく育ち、正しく仕事をするために必要なタンパク質は、すべてこのDNAというプログラムをきちんと読むことで作り出される。そんな大事な核がおかしくなっているならば、その細胞は「正しく増えていない」、「正しく育っていない」、「正しく仕事をしていない」ということだ。
しかし、何事にも例外はある。「核がでかくてゴツゴツしているのに、がんではない」ということもある。
たとえば結節性筋膜炎 nodular fascitisという病気がある。この病気は皮膚の下にできて、急にでかくなって周りに染み込む。患者も医者もぎょっとする。細胞をとって調べる。すると、そこに登場する細胞の核はいかにもでかくて、ギラギラしていて、「悪そう」なのだ。ここで「がん」と診断すると、皮膚の下でしみ込みまくっている病気をとるために、かなり大きめの傷痕が残るような手術をすることになる。
しかしこの病気は、なんとも不思議なことに、しばらく様子を見ていると急速に小さくなって消えてしまうことが多い。少なくともこの結節性筋膜炎が理由で命をおびやかされることはないとされている。
病理診断の原則どおりに診断するとかなり高い確率で誤診する。このことは病理医の間では非常に有名なので、「皮下結節でこういうがんみたいな像を見つけたら逆に気を付けろ」という教えが広く知られている。
「派手で悪そうなのにがんではない」ケースがある一方、「細胞核がおとなしいのにがん」という、真逆の症例も存在する。胃がんの中には、細胞核だけを見てもまずがんと診断することができないものが含まれている(かなりまれである)。細胞が作り上げる高次構造がどこか正常のものと異なる、という、熟達した病理医でなければ気づくことすらできない「違和感」をヒントに、さまざまな手法でがんと診断するのだが、かなり難しい。このこともまた、病理医の中では近年よく知られるようになった。基本的には「よっぽど胃がんを専門的に勉強していないとまず誤診する」ので、「もしや例の難しいやつか?」と思ったら、この病気を専門としている病理医にコンサルテーション(たずねること)をしなければいけない。
例外はめったに起こらない(だから例外という)。しかし、そのめったに起こらないことに備えていなければならない。災害対策と似た部分がある。今日も明日もおそらく大地震はこないだろう、だからといって、家具を固定したり保存食を確保したり家族の避難場所をあらかじめ確認しておくといった作業が意味ないなんて、ぼくらは思わない。「例外」は怖いのだ。その一発で命を奪われるかもしれない、だから備える。診断というのはそもそも未来予測の行為であるが、診断者にはもうひとつ、メタな視点で、「診断を間違うかもしれないシチュエーションを予測して備える」という資質も必要なのだと思う。
2021年6月14日月曜日
終わりは決めるものではない
2021年6月11日金曜日
病理の話(544) セル宮ハルヒの消失
人間の体の中にある細胞は、日々、入れ替わっている。昨日と今日と同じ顔をしているように見えるあの人も、細胞レベルで見るとほんとうはけっこう変わっているのだ。メンテナンスの結果である。細胞は消耗品なので、放っておくとどんどん劣化するから、定期的に入れ替える仕組みが備わっている。
その仕組みのひとつは「タイマーをセットして時間が来たら死ぬ」というものだ。すなわち細胞には寿命がある。どの細胞もいずれ死ぬ。それにあわせて新しい細胞が産まれて、欠落部分に静かに滑り込む。
新陳代謝というやつである! ただこれにもさまざまな仕組みがある。
臓器によるが、「細胞が老化するごとに少しずつ前線に移動させられる」という、全盛期の○○軍でもやらなかったような非道な仕組みが備わっていて驚く。たとえば皮膚や食道粘膜がそうだ。少し深いところで産まれた細胞は、成熟しながら表面に向かって行き、もっとも老いた段階、あとは剥がれて死ぬだけという段階で、最表層に達する。いつ剥がれてもいいくらいに老いている(成熟している)ので、表面にばい菌がくっついたり、外力を受けて傷がついても惜しくないのだ。「人の盾」として戦って死ぬのである。……書いていてなんだこのハラスメントは! と憤ってしまうくらい残酷なメカニズムだ。悲しい。「老兵は死なす、利用し尽くされて去りゆくのみ。」ウウーッ悪魔! 鬼! 生命!
一方で、あらゆる細胞が老化とともに最前線で兵士となって戦って死んで行くわけではない。たとえば赤血球。こいつは血液の中で働き始める時点で「核」を失い、自律的に自分を保つ力を失うので、120日くらいで壊れて死んでいくのだけれど、このとき、血管のあちこちで好き勝手に破れて壊れられると目覚めが悪い(?)。いやまあそういうメンタルの話ではなくて普通に赤血球の中に含まれている鉄分がもったいない(リサイクル精神)。そこで、脾臓という「関所もしくは税関にあたる臓器」が登場する。全身をぐるぐる回る赤血球は、基本的にはランダムにさまざまな臓器に配達されてはまた心臓に戻っていくというのをくり返すのだが、一定の確率で独特な迷路のような脾臓を通過する。このとき、若くピチピチして張りのあるお肌をした赤血球は、入り組んだ脾臓をなんなく通過するのだが、老いてやや形状が不均一になったゴツゴツの赤血球は脾臓の迷路でトラップされてそこで破壊されるのだ。ウワーッ老兵フィルター! 倫理的にアウトな選別! 生命!
細胞死をめぐるメカニズムはほんとうに奥が深い。ゾンビ映画などで「もし俺がゾンビになったら躊躇なく撃ち殺してくれ」みたいなのがある(らしい)けれど、細胞の場合はゾンビになるどころか「ゾ…」くらいの段階で自爆したりする。その自爆もひどいのだ。激しく爆風を放って死ぬと周りに迷惑をかけるから、FFシリーズのデジョンみたいな感じで中心に向かってキュンと縮んで小さく死んでいく。テレビのバラエティでモデルあがりのタレントさんが親指と人差し指をねじれの位置に組み合わせながら「キュンです」と決め顔をするシーンがあるけれどあれを見るたびに指と指の間で細胞がアポトーシスを起こしてキュンと死んでいるんだろうなということを思う。今のはうそです。
2021年6月10日木曜日
想定内の免疫
その日、議論の相手はどんどん機嫌が悪くなっていった。
学会のとあるセッションに集められた数名は、それぞれの立場から、あるテーマに沿って話す必要があった。視聴者のリアクションがわからないいつものZoomウェビナー方式。今扱っている話題が盛り上がっているのかいないのか、しゃべっている側からすると見当もつかない。リアルの学会であれば、会場のうしろのドアからそっと去っていくオーディエンスを数えて、ああ、このセッションは他人から見るとつまんねぇんだな、と俯瞰することもできたけど。これ、楽しいのかな。わかんねぇな。インターネットの交流は人びとの距離を近くするという。「そんなに顔を近づけたら何も見えないじゃない」。誰だ今の。
登壇者は(強い専門性を有するぼく以外は)みな座長のコネで声をかけられた人ばかりだ。「友人」の頼みを断れなかったばっかりに、自分の専門性とは異なるジャンルのセッションに出て、テレビのコメンテーターばりに知った口を聞かなければいけない。厳しい。苦笑するもの、眉根を寄せるもの、時間を経るごとにフラストレーションが流れて外気に触れて固まって岩になっていく。ごつごつしていてろくに歩けない火山のふもと。
「だったら出演を断ればよかったのに」は正論である。「なぜ人はタバコを吸うのか」、「なぜ休肝日を守れないのか」、「なぜ太る太ると騒ぎながら夜中のコンビニでアイスを買うのか」。おなじことである。
この日、ディスカッションの最中にもっとも機嫌が悪かった人は、もっとも話題についていけなかった人で、かつ、もっとも自分の人生を肯定したい人だった。ぼくはこの「自分を肯定するために他人を否定しなければいけない呪い」にかかってしまった人が、ネットの文字ではなく地声でしゃべっているところを久々に見た。ツイッターと現実の区別がついていない人だったのかもしれないし、ツイッターなんてやっていないだろうな、とも思った。他の人のやりかたを自分が「選ばなかった理由」を大声で周りに言って語らなければ自分の歩んできた道の正当性が証明できないタイプの人。こんな人がいてもディスカッションが盛り上がるわけはない。なぜならこの人がやりたいのは多様な意見を掛け合わせることではなくて自分の意見が最強だとみんなに認めてもらうこと、ただそれだけなのだから。根本的にパネルディスカッションに向いていない。「単独講演」以外では輝けない。そういう人もいる。そういう人が活躍することで助かる人たちも世の中にはけっこういる。だから悪いことではないのだ、ただし、この場にはそぐわない、というだけ。それ以上でも以下でもない。「それ以上でも以下でもない」と言えばきっと激怒するタイプの人。「私はそれ以上でありお前はそれ以下である」がキーワードの人。
議論が終わった後、座長へのメールで、ぼくは件の人をねぎらった。「忌憚のないご意見をいただきディスカッションがとても盛り上がりました、ありがとうございましたとお伝えください」。それに対する返答は、「問題ない、想定内」だったそうだ。負け惜しみ……に聞こえるが本人の中で更新され続ける「真実」なのだろう。あんなに感情むき出しでマグマを垂れ流していたことが想定内。じつに見事な俳優だ。金曜10時のドラマに出たらいい。
後日、ディスカッションの内容がオンデマンド配信されたのだが、その中にくだんの人の発言はなかった。すべてカットされていた。まあ、ぜんぜん想定内じゃなかったんだろう。これにもきっと後付けの真実が、静電気に集まる発泡スチロールの小玉みたいにプチプチくっついていく。
自分が給料をもらっているところだけが「学術」だと思っているタイプの人、世界が滅びても自分の家だけ無傷で建っていると信じている人。もちろん電気もガスも水道もないのだが、井戸を引けばいい、火打ち石を叩けばいい、川で水を汲んでくればいい、むしろなぜみんなそうしないのか、と叫び続けている人。私の体はここからここまで、それ以外は他人、ときっちり線を引いている人。自己と非自己を明確に分けて免疫機能にハッパをかけている人。常在菌がリンパ球にコロされない理由なんて考えたこともない人。自分が部品だと考え付いたことがない人。
何も間違っていない、なぜなら、世の中の誰もが間違ってはいないからだ。
ひとつだけその人が間違っているのは、「自分以外のすべてが間違っている」と信じて疑わないことだけれど、おそらく、鏡を見るだけの時間はあったのだろう、そうでなければオンデマンド内で異物であった自己を削除しようとは思い付かなかったに違いない。ぼくは動画をカットしなくていいのにと思った。そういう人も含めてのネットワーク。そういう人も含めての世界。あなたは人ではなく腸管内常在菌のほうかもしれないし、ぼくも人ではなく皮膚常在菌のほうかもしれない。それでも免疫は寛容である。
2021年6月9日水曜日
病理の話(543) マカロニ診断
うわさによると、最近は高校くらいで原核生物と真核生物のちがいを教わったり、細菌・古細菌・真菌の違いを覚えさせられたりするらしいのだが、ぼくは自分が子どもだった頃にこれらをきちんと勉強した記憶があまりない。本当に習ったかなあ?
「原核生物」と「真核生物」という言葉をはじめて教わったときのことを思い出したい。字面から、何を思っただろう?
「どちらも核があるんだな、原核と真核っていうくらいだから、核のタイプが違うんだろう」、というメッセージを受け取ったのではないか。少なくとも昔のぼくは。
でもそれは間違いである(昔の自分にダメ出しをする)。原核生物には核がない。核がある生物を真核生物と呼ぶ。だったら「無核生物」と「有核生物」と名付ければいいのにと思うけれど、名付けにかんして親以外の人はあまり文句をつけないほうが身のためである。
無核……じゃなかった、原核生物の代表は細菌だ。細菌の内部にはむきだしのDNAが入っている。DNA以外にも、細菌が活動するためのさまざまな酵素(タンパク質)などが含まれて渾然一体のワンプレートランチとなっている。DNAというマカロニがほかの具と混じって、1枚のお皿の上に置いてある。
DNAってめちゃくちゃ大事なので、そこは分けようよ、ぼくはワンプレートランチはよくないと思うな、トレイの中に仕切りを作ろうよ、とお子様ランチ化をすすめた生物がいた。それが真核生物である。DNAだけをまとめておく場所を核という。ほかにも葉緑体とかミトコンドリアとかリボソームとか、細胞の中で区分けをした。トレイの中に複数のお皿やボウルが置かれ、メインディッシュとサラダとライスがわけられた状態が真核生物。ちなみにぼくの頭の中では今、「葉緑体はサラダだよな……」という気分だ。色の影響は強い。
細菌・古細菌以外のほとんどの生命は真核生物だ(逆にいうと世の中には大量の原核生物が住んでいる)。人間も、真核細胞がよりあつまってできている。ヒトを構成するすべての細胞には核があり、核の中にはかならずDNAというマカロニが入っている。
もし、細胞がダメージを受けたり、増殖活性が高まったり(増えようとがんばりはじめたり)、さらにはがんになったりすると、この核にけっこうな変化が出る。マカロニの量が増えたり質が変わったりする。一番わかりやすいところでは核のサイズがでかくなる。ビュッフェ方式では種類豊富なおかずを取ってきた方が健康的なのに、がん細胞のトレイの中にはでかい皿がドーンと置いてあって中にマカロニばかり大量に盛り付けられている。
トレイに占めるマカロニの比率=細胞全体に占める核の比率を、細胞質(cytoplasm)を分母に、核(nucleus)を分子にとって、N/C比と呼んで評価する。例をあげると「がんはN/C比が高い」という病理診断の原則がある。マカロニ増えてんなー、という細胞の見方をする。
病理医は毎日このN/C比を見ている。そして、一流の病理医になると、マカロニだけではなく、ミトコンドリアというお肉のプレートやゴルジ体という春雨のプレートあたりにも目を配るようになる。トレイのカタチが崩れてきているなあとかマカロニがゆですぎじゃねぇかなとかマカロニに振りかけられているコショウがいつもより相当多いねとかお箸何本のっけてんだよ、みたいなことを目でみて判断するようになってくる。これはわりとマジな例え話である。
2021年6月8日火曜日
農薬をまいたことはない
聞いた話なのだが今年の春、札幌では7週連続で週末に雨が降ったそうだ。それでぼくはいまだにトマトやナスの苗を植えることができないのか……と勝手に納得する。なんとなくやる気がしなかったのはぼくのせいじゃなくて空のせいだったのである。
耕して1か月以上経つ畑は畝のままだ。二度ほど雑草を抜いた。雑草を抜く暇はあったんだな。おかしいな。雑草を抜いたとたんに雨が降ったんだっけな。さっさと苗を植えておけばよかったかな。でもしばらくの間、寒かったんだよな。
畑とは言っても細長く狭く、苗だって10本も植えたらいっぱいいっぱいなのだけれど、夏の終わりくらいまでちまちまミニトマトや大葉やパプリカを収穫するくらいのことはできる。そろそろ苗を買ってこなければ。でもこの先の土日は予定でいっぱいなのであった。飛行機に乗らない暮らしは変わらないが、遠方との仕事の数は確実に戻りつつある。
ぐずぐずと言い訳をくり返す自称偉い人のメールを読んでいた。ここで老婆心ながらそういうことはおやめなさい的な指摘をすることも、なぜか今回のぼくはできる立場にある。しかしさすがにやめた。ぼくが指摘したところで、相手が人間性を修正し、今後、その人に引きずり回される若い人たちの被害をも未然に防ぐことができるだろうかというと、きっとそんなことはないだろうと思った。
疾病の予防には一次予防と二次予防と三次予防とがあって、一次予防はそもそも病気にならないようにすること、二次予防は病気を早期に発見すること、三次予防は病気がそれ以上進行しないようにすることである。むりやり畑仕事に例えるならば、一次予防は農薬をまくこと、二次予防は雑草をむしり葉に付いた虫をつぶすこと、三次予防は虫に食われたトマトを摘み取ることになるのかな。……ちょっと違うかも。「偉くなってからもなお言い訳をしている」というのは三次予防の対象ではある。となると間引けばいいのか。間引けばいいんだろうな。
苗を植えないまま初夏がはじまりかねない。自分のことについては言い訳をいくらでも思い付く。そういうものだ。間引かれた苗の気分になる。ほかの茎が立派に育つためにお前は摘むよと言われた脇芽の気持ちになる。偉くなって実まで付ければ、自分が剪定されるとは思わないが、ぼくはまだ実が付いているトマトの枝をうっかり間違えて折ってしまうこともある。それはもはや予防になっていない、ある種の新しい疾病みたいなものである。
2021年6月7日月曜日
病理の話(542) 競歩で診断
血液部門の技師さんが駆け寄ってくる。早朝。まだ始業のチャイムは鳴っていない時間。
「先生、FAXできた第一報です。これ、やばそうですよ」
ある患者から採ってきた検体の、遺伝子検査やフローサイトメトリー検査などを外部ラボに外注してあった結果が速報された。黙ってデスクで待っていればそのうちこの結果は主治医やぼくの元に届くのだが、この技師さんはいつも結果を自分で見て、早足でぼくのところに持ってくる。
そうするとぼくが早く次の行動に移れることを知っているからだ。
「これどういう意味ですか?」
立ち上がってFAX用紙を受け取ったぼくは、うろ覚えの知識で判断をくださないために必ず技師さんにそう尋ねる。
「これはですね……系統Aと系統Bの性質があって……」
技師さんもわかったもので、毎回必ず丁寧な説明をする。
聞いたぼくは本日できあがる予定の組織診断用プレパラートを探しに行く。まだ薄切と染色が行われていない。それほど第1報が早かったということだ。すかさず指示を書き足す。
「HE染色と特殊染色2枚といつもの未染6枚 ではなく 最初から免疫染色をします。LCA, CD20, CD10, CD34, TdT, MPO...」
これにより出勤してきた病理技師は理解して、標本作製の行程をアレンジする。
次にぼくは走ってデスクに戻って、血液部門の技師さんと一緒に教科書を開く。「これか……」「これだと思います」
「あとで主治医に電話しておきますね。この標本いつころ上がりますか」
「今日の午後には上がるでしょう。できたらすぐ教えに行きます」
あらゆる会話は早口で、しかし滑舌よく、あらゆる行動は早足で、ただし走ってはいけない。病院内だからだ。どれかが30分遅れることで、挟まる行程がどんどん後回しになり、結果的に診断が1日単位で遅れることがある。ほとんどの患者は1日どころか1週間以上は「待てる」。しかし年に1度は、そのたった1日で治療の効果ががくんと落ちるケースがあるものだ。それを知っている臨床医は病理医に矢継ぎ早に電話をするものだし、それを知っている病理医はほとんどの時間、競歩で病院内を歩き回っている。
2021年6月4日金曜日
譜面
ものもらいか。白目が赤い。こすったら浮腫んだ。「むくんだ」と入力して「浮腫んだ」が出てくると瞬間的に「ふしゅんだ」と読んでしまう。充血した白目がフルーチェのように見える。「ふ」に絡み取られた朝だ、と思う。
風土、雰囲気、フードコート。風光明媚、腐女子、不審者。「ふ」はTwitterのテーマである。フォロー。フィードバック。不安。風俗。ふんだんに用いられたお野菜。ファクター。筆。
筆はあまり追いかけていないなあと思った。タイムラインに書道家が見つかることが少ない。画家はいるのだが。筆という漢字自体、「執筆」という熟語の中で見ることのほうが圧倒的に多い。最後に筆を見たのはいつだろう? 息子の書き初め? そもそも息子はあのころ、書き初めをしていただろうか? 筆ペン。仕事の「切り出し」でも使う、筆ペン。最近見ていない。どこかに無くしてしまった。
「無くしてしまった」に、「どこかに」を付けたのは、不如意。
フルアーマーダブルゼータガンダム。子どものころは「最強」だと思っていた。今思い出すと、あんなゴテゴテだとすぐ撃墜されるだろうなとか、いやいやかえって空母みたいに活躍できるかもな、とか、発想が膨らんでいく。フィンファンネルのほうが強い。
不思議。不可能。
藤子不二雄。
藤子・F・不二雄。「ふ」がみっつもある。Fは違うか。
ふくらし粉。「ふっくらふくらむ」は、どっちが先でどっちが後? 「ふくらむ」があるから「ふっくら」って言うの? 「ふっくら」がまずあったから「ふくらむ」という言葉ができたの?
ふとん。
不可逆。
ふい。
Follow-up(経過観察)。ものもらいの様子をみながらふとんに入る。もう夜でいい。ふかふかしている。
2021年6月3日木曜日
病理の話(541) アミロイドーシスという難病
ふつうに暮らしていてまず耳にすることのない病名に「アミロイドーシス」というのがある。この病気はかなり深刻だ。体のあちこちに、「アミロイド」と呼ばれる物質が沈着してしまうことで、さまざまな不具合をきたす。特に、心臓の筋肉にアミロイドが沈着してしまうと、それが原因となって心臓のはたらきが弱ってしまうこともある。
このアミロイドというのはいったいなんなのか。すごくまじめに説明すると、体のあちこちで使われている部品のカケラが「ダマになったもの」なのである。なんじゃそりゃ。まじめに説明しているのにどこか気が抜けてしまうが、本当なのだ。
人体で使われている部品のカケラがダマになる? どういうこと?
毎日われわれが暮らしている部屋を思い出してみてほしい。ほこり、あるだろう。キッチンのシンクを思い出そう。配管、詰まるだろう。お風呂場の排水溝のことを思い出そう。髪の毛、溜まるだろう。うちはそういうのに厳しいのでぼくは毎日お風呂場で髪の毛を拾っているし、シンクは妻が毎日きれいにしてくれている。具体的な情景はいいとして、この、「夫婦がまいにちがんばらないときれいな状態は維持できない」ということをわりと真剣に思い浮かべていただきたい。人体だっていっしょなのだ。
体の中にさまざまな営みがある。栄養がやってきて、部品がつくられ、体が維持され、要らんゴミが体外に出される。無数のそういう仕組みによって、ヒトが成り立っている。そうは言ってもだ、どこかにゴミは溜まるものである。うっかり隅っこのほうが汚くなることだってある。うちの掃除といっしょだ。しかし、人間は本当によくできているので、そういうゴミすら許さないほどの精巧なメカニズムがある。「要らんものを探して集めて捨てるシステム」が複数存在し、体内にはゴミの類いは残らないようになっている。
それでも……まれに間違いが起こってしまう。
たとえば長年ある部位に炎症をかかえている人は、炎症を起こし続ける際に使う部品の断片がどこかに溜まってしまうことがまれにある。また、とある特殊な名前の腫瘍(がん)にかかっている人も、がんが作り出す異常なタンパク質の一部が体のどこかに蓄積してしまうことがある。
このときも、別に人体は掃除を完全にさぼっているわけではない。溜まったゴミを体内の清掃システムが片付けに動くのだけれど、ゴミがある条件のもとで「ダマになってしまう」と、清掃部隊がそいつらを運びきれなくなる。合体したゴミがでかすぎてどうにもならなくなるのだ。これがアミロイドーシスという病気のめちゃくちゃ雑な説明である。
例え話でやんわりと説明しているがこの病気は一言でいうと悲惨だった。なにせ治療法がなかった。カタマリになったゴミが全身のあちこちに蓄積していくことを止める手段は「ゴミの元になる活動を止めること」。炎症があればおさめる。腫瘍があれば倒す。そう簡単にいけばいいのだがなかなかうまくはいかない。もし炎症や腫瘍をおさめても、一度くっついてダマになったゴミを解きほぐす方法がなく、溜まったものはそのままにしておくしかなかった。
しかし近年なんとこのダマをときほぐす治療法が出てきたというのでぼくは数年前に文字通り声をあげておどろいた。医学の進歩すげぇー! 今なおアミロイドーシスは大変な病気であり、厚生労働省の難病指定も受けているのだけれど、このままどんどん医学が進歩すれば治せない病気ではなくなるかもしれない。大きすぎる希望は持つだけでもつらいものだが、適切な期待をもってアミロイドーシス研究者たちにエールを送りたい。
……ところで、男性の精巣や精嚢(精子をためるふくろ)の中には、アミロイドが溜まっていることがある。それも、まったく無症状で、いっさい体に悪影響を及ぼさないままに。「病気とは言えないアミロイド沈着」であり、いちいち見つける必要もなくアミロイドーシスという名前も付けない。とっても精巧な人体の清掃システムも、精巣のすみっこまでは及んでいないようだが、それによって体に悪いことが起こるわけでもないのだからまあよいのだろう。ぼくが自分ちの床下をさすがに掃除する気にならないのといっしょ……だろうか。
2021年6月2日水曜日
現生人類の居住様式に関する仮説形成法
郵便振替の払込書。手書き。通信欄に、「入会申し込み希望」やら「会員番号」やらをチマチマ書き込まなければいけない。めんどくさい。
いまやほとんどの送金はネットバンクで、スマホかPCから行うようになっていて、ゆうちょ銀行であってもネットバンクからの入金は可能だ。払込書を使って送金する必要なんてほとんどない。でも、「通信欄への記載が必須」な手続きだけは、ぼくの使っているネットバンクでは対応ができない。
そんな旧態依然とした手続きがどこに残っているかって?
学会である。地方会である。学術集会である。
アカデミアには金がないから、郵便振替以外の送金方法を使っていないことが多い。みずほとか三井住友とか三菱UFJに口座開設して会員に入金してもらうことができるのは金をもっている団体だけだってことだ(聞いた話なので詳しくは知らないんだけれどどうやらそういうことらしい)。
日中にほかのスタッフに声をかけて、最寄りの郵便局まで歩いて行かないといけない。この手間はけっこうたいへんだ。
「夜中までやっている郵便局」があるのはわかっている。でも、「夜中まで仕事をしている中年男」なのでそのサポートはあまり意味がない。「土日に開いている郵便局」だってあるのは知っている。けれど、「土日に働いている病院人」なのでやっぱりあまり意味がない。季節は春。仕事中にごめんごめんと手刀を切りながら、正面玄関から堂々と病院を出て外へ繰り出す。残念ながらこれはとても気持ちのいいことである。
北海道にも梅雨が訪れるようになって10年くらい経つだろうか。一時は蝦夷梅雨(えぞつゆ)という言葉の認知度を高めるべく努力をしたりもしたけれど、毎年のように九州や山陽を襲う豪雨被害、内地に向かって急カーブする台風などを見ているうちに、めんつゆだかしろだしだか知らないがそんなのどっちでもいいわという気持ちになってくる。
ここまで書いて研修医カンファがはじまるところだ。カンファで30分過ごし、そのあと1時間くらい電話やメールの応対に追われた。そしてこのあとぼくは、払込取扱票を3枚握りしめて病院を飛び出して、陽光の中へと歩み出す。いまどき入金に郵便振替を使っている学会が3つもあることに身震いする。まったく困ったものだ。皮膚が喜びビタミンDが作られる。窓の大きな職場で働いているけれど、本来、人は屋外で生活するのがデフォルトなのではないだろうか。この体の喜びようを見れば、仮説はなかば実証されたようなものだ。