2021年6月28日月曜日

隠喩に抵抗する

一度ここで書いているかもしれない。まあいいや。


子どものころ、年に一度の頻度で、母の実家に帰省した。父親の運転で5時間前後である。ぼくは車の後部座席に弟といっしょに寝転び、ダイナマン、アンドロメロスなどのヒーロー歌謡曲が入ったカセットテープを聴きながら、窓の外を見ていた。


後部座席にふたりで寝転んでいられるくらいのボディサイズだったころの話、ということだ。


見上げる窓には曇り空を背景に、通り過ぎる電柱や店の看板の上端などがちらちらと映っていた。信号の少ない田舎の一本道を淡々と走っていると、電線が振幅の小さな正弦波のようにずっと波打って見える。ぼくはその波の上を滑っていく想像をしていた。


だいぶ大きくなって、インターネットで文章を読むようになってすぐ、電車の窓から遠くの屋根を見ながらその上に「忍者を走らせる」人が複数いるということを知った。ぼくは電線に忍者を走らせたことはなかったが、その感覚はよくわかった。


ぼくが世界をただ疾走しているだけではこの現象は起こらない。


他人の力で水平移動していること。


視線は進行方向に対して傾いていること。


切り取られた窓から見ること。


このような条件が重なったときに、移り変わる風景が一連の「動き」のように見える時間が訪れる。そこにぼくはうねり続ける波を見たし、ある人たちは忍者を走らせた。




他人の力で水平移動している状態で、視線を進行方向からそらして、切り取られた窓から……ああこれはメタファーになるなと思ったのだけれど、メタファーにしないほうがいいのかもしれないなと考えて、今日のブログは早々に切り上げることにする。人生を語るには早すぎる気がしたのだ。