出張するたびに各地で小さいおみやげを買ったり買わなかったりして、結果的にこの15年でもっさりと小物が増えている。こんまりなら不整脈を起こして全部捨てるだろう。でもぼくはこんまりではないので、ノイズを残した暮らしを許容している。
かといって小物を集めることに熱心かというとそうでもない、ストラップやキーホルダーの山には特段の愛情を注いでいない。その中に埋もれつつも異彩を放つ「近江神宮」のお守り。これ、どこだっけ? しばらく考えていてあっと合点がいった。これは「ちはやふる」関連だ。
クラウドファンディングで、近江勧学館の畳を張り替える募金をしたときに、返礼品として送られてきたのが近江神宮のお守りだった。そうかそうか。細かく記憶にないわけがようやく腑に落ちる。自分で選んだものが商品ではなく心意気だったから、かえって物に記憶が定着していないのだろう。お守り自体を見てもありがたみがわくとは言いがたいが(失礼)、クラウドファンディングが成功して良かったねという気持ちは今も持っている。別に矛盾した感情だとは思わない。お守りとはそれくらいの熱量でなんとなく側に置いておくものだろう。
畢竟お土産の類いというのはどれもそうかもしれない。売店で小物を探すとき、その物自体に思い入れがあるわけではなく、旅行の最中に感じた「記憶に留めておきたいできごと」を、後日なるべく褪色少なく脳内に召喚するために、儀式のための宝具、捧げ物として、アイコンとしての何かを形あるものとして手元に置き、いざとなったらその小物を見ることで召喚術を発動する。物自体はどうでもいいのだ。宮古島の交通安全人形に愛着はない。すだちのキューブにもさるぼぼにもキノピオのコインにも情念がかき立てられることはない。これらはCMソングのようなものだ。CMが何を売っていたかは忘れても、CMでよく聞いた歌のことは覚えていて、そのとき自分がどういう見た目で誰と何をしていたのかを思い出したりする。CMソングを歌っていた歌手自体が好きだとも思わない。でも、往時を思い出してついでに歌手本人にも拍手のおすそわけをしたいと自然に思うことはある。
このジンベエザメは息子と日本一周をしたときのものだろう。サメになんの愛着もないのですっかりほこりをかぶっているけれど、MP1くらいの消費で当時のことを断片的に呼び寄せる。Google photoに撮っておけばもう少し紐付けも簡単だったのかもしれないが、そういう賢いことを考え付くころには人生バトルは佳境を乗り越えてしまっている。