2022年1月31日月曜日

1月21日の作業スペースの雑感

 先日このようなものをやった。


https://dryandel.blogspot.com/2022/01/blog-post_58.html?spref=tw


金曜日の朝に時間ができたので、ブログ書こうと思い、そういえば柞刈湯葉をはじめとする作家やマンガ家などがやってる作業スペースをやってみようかなと思い付いた。ブログの記事作成画面を開いて、タイトルに「作業スペース」とだけ入れ、本文を書き始める前にTwitter Spacesをはじめて、ツイートでSpacesの開始告知をしたら書き始める。Spacesは音声配信サービスだから、映像は一切うつらない。デスクに置いたスマホから、ぼくがキータッチする音だけが狭い世間に垂れ流されていった。


まずはいつものとおり、思った通りに書き進めて行く。この音声を誰かが聴いているということを意識すると、思考とぼくとの間に薄い雲がかかって視界が悪くなりそうで、「なるべくそちらを意識しないように書く」。もちろん、おわかりのとおり、そんなことをしたら、必要以上に意識することになる。自然と、直近の言葉に反応して連想で文章をつないでいくような、口語文に近い文章ができあがっていく。「無言で話す音」の配信。


「誰かの目線」に照らされることで心の表面が焼け、痛覚閾値が下がり、ちょっとした刺激にも敏感に反応してしまう。日焼けした肌が、ちょっと触っただけで痛みを感じやすくなるのに似ている。まあ、音声サービスだから目線ではないんだけど、たとえ話ではなく本当に「目」を感じた。


15分くらいで書き終わり、句読点をそろえて、語尾がダブっていないかなどの軽い調整を行って、記事を投稿する。さいしょは予約投稿にして1週間後くらいに公開しようかと思っていたのだが、これ、今すぐ公開したほうがおもしろいだろうなと思ってすぐに公開した。


その後、やはり音声アーカイブを残しておいて、音声を聞きながらブログを読めば、「打鍵している音がどの文字にあたるのかがわかった」かもしれない。無理かな。





書き終わって記事を公開したあとにすぐに思ったことは、

「推敲なしの文章」

を世に出す怖さみたいなものだ。ただし続きがある。「まだ推敲する前の文章」であっても、指の発する音だけ聴いていれば、なんだかそれっぽさを感じるものだなあ、ということをほとんどタイムラグなしに続けて思った。ものすごく、「書いたなー!」という気持ちになるのがおもしろかったし、危険だなとも思った。誰かが聴いているという事実だけで承認を得られた気分になり、ほんらい、自分の書いたものの出来によって喜んだり悔しがったりする部分が摩耗してしまって、どんな内容のものが書けたとしても「まあ、今回は公開執筆だったからこれでよし。」みたいな気分になってしまう。


昔から、生放送特番で大きな筆で習字をする人に聴いてみたかった。こんなテレビカメラのないところで、あなたがもっと本気で書道にだけ打ち込んで、何度も何度も書き直した作品と比べて、クオリティはどうなんですか? と。そこで返ってくる一言目をぼくは今予想している。「作品の出来うんぬんじゃなくて、こういう場で何かを書くことで、普段使わない脳の一部分が刺激されたような気持ちになるので、それが収穫だと思うんですよ」。こんな感じなんじゃないか。うさんくさいな、と思っていた。


ただ、実際に自分でやってみると、普段発火させていないシナプスに火を付けることが、脳の実質で「延焼」するのではないかという気持ちになる。Spacesにて作業音を配信した、ということとは直接関係の無い、それこそ生放送の習字のエピソードをふと思い出すような……はからずも今「ふと」と書いたが、この「ふと」の部分がなかなかAIで模倣できない脳の独特な部分ではある。連想と言うと繋がっている感覚があるが、それよりももっと、ジャンプするような、だだをこねていつもと違うものを引き抜いてくるような、恣意的にランダム化するような「ふと」の部分。脳に「ふと」を起こさせるための技術のひとつとして、作業配信みたいなものが存在するのかもな、ということを思った。


先日、文化放送「壇蜜の耳蜜」を聴いていたところ、中国で、エアロバイクをこぎながらハンバーガーを食べられるマクドナルドの店舗がオープンしたというニュースをやっていた。こいでから食えよの一言なのであるが、あれもまた、人間が「ふと」何かを思い付くための実験なのかもしれないな、という気分で今はいる。

2022年1月28日金曜日

病理の話(621) 誕生という中動態

日本語のもんだいですけど、「生まれる」ってよく考えるとなかなかうまくできている言葉ですよね。(お母さんが)「産む」という能動で出産すると、赤ちゃんはまさに「産ま-れる」と受け身になる、まあそれはいいと思うんですけど、ここに「産」という字を使わずに、「生(い)きる」の生をあてて、「生まれる」って書くことができるのが、ははあーテクいなーと。


生きるのは能動……かとは思うのですが、「生かされる」という言葉があることを考えると、ほんらいゴリッゴリの能動態でliveを言うなら「生く(いく)」になりそうなものです。生きるというのは「生き(という状態)で居る」を縮めたかのような語感で、つまりは能動とか受動のような行動による変化をあらわすというよりも、状態とか存在そのものをあらわすような言い方に思えますね。


いや国語のくわしいことはぜんぜん知らないしググってもいないので、おおはずれなのかもしれませんが、「言葉からそのようなニュアンスを感じる」という話ですのでご放念ください。その上でさらに申しますと、「生きる、という状態」を濃縮したような漢字である「生」を、「産ま-れる」という本来は受動態のことばにあてて「生まれる」と読めるというのもなんだか意味があるような気がするんですよね、具体的にはその、「赤ちゃんは産まれるときにひたすら受け身で、この世に放り出されるみたいな感じで考えているかもしれないけど、実際にはもうすこし、能動と受動が混じってるっていうか、そういうのを超越した部分でこの世に在るんだぞ」みたいなプライドを感じるんですよね。考えすぎかもしれませんけれどね。



で、今日のブログは「病理の話」なのでここから医学の話に接続するんですけれど、赤ちゃんが「産ま-れる」ときって、もちろんお母さんのおかげで産んでもらえることは間違いないんですけれど、じゃあ赤ちゃんがただ受け身で待ってるかっていうと、そういうわけでもないんですよ。医学的には。そんな話をします。


赤ちゃんとお母さんを連結して、母親から栄養や酸素を赤ちゃんに提供しつつ、お母さんの血がそのまま赤ちゃんに混じらないようなフィルターの役割もしっかり果たしているという特殊な臓器をご存じですか?

そう、胎盤ですね。

胎盤はふつうにバケモノ臓器です。他の臓器にくらべて圧倒的に早熟で、突貫工事で一気に作られます。それまでお母さんのお腹の中になかったものが、たかだか2か月そこらでムクムクと大きくなるんだからすごいスピードです。しかも、急に作ったにもかかわらず、めちゃくちゃ複雑で繊細な「赤ちゃんとの情報交換プラスフィルター」という機能を発揮。赤ちゃんとお母さんの血液型が違っていても拒否反応を起こさないのはひとえに胎盤の力です。そして無数の血管を持つのに血栓とかぜんぜん作らない……いや、正確には、たまに血栓はできてるんだけどそれがちゃんと処理されていて、お母さんや赤ちゃんに悪影響を起こさないようになっている。で、この胎盤、赤ちゃんが十分に育って出産が終わるとものの数時間ではがれて落ちて痕跡もほとんど残さないようにできている(次の出産のときにはまた一から作る)。ちょっと都合が良すぎますよね。オーパーツかよと。

胎盤がなければ、お腹の中で別の生き物を育てるという超タスクは遂行できません。いやー、母の力ってすごいなあ……

……い、いえ、ちょっと待ってください。胎盤はお母さんが一人で作るものじゃないんですよ。胎盤の中には、「赤ちゃん由来の成分」がめちゃくちゃ入っています。つまり胎盤ってのは、「赤ちゃんとお母さんが共同で作り上げるもの」なんですね。すごくないですか? まだろくに内臓とか脳とかできていない段階で胎盤を作り始めちゃうんです。


となると、赤ちゃんは、お母さんに「産んでもらう」一方で、みずから「生まれようとする」力を持っているんですね。この言葉、すごくないですか? 「生ま-れ-ようとする」ですよ。能動なの受動なのどっちが好きなの、ってなものです。中動態なのかなあ。生命ってのはこの世に出てくるときからすでに中動態だってことかあ。



※日本語の細かい話とか「態」についての学術的なことはよくわからないので恐縮です。でもまあそういう記事なのでごかんべんください。どうしても訂正したいポイントがあるよって方は、どうぞ新たに記事を作っていただければ、いずれ見つけて読みにいきます。リプライとかは要りませんが。

2022年1月27日木曜日

顎ago

サザエさんが夜遅くに帰ってきたマスオさんに「疲れた疲れたと言いながら飲んで帰ってくるのね。わからないわ」と言うマンガがある。するとマスオさんは「痩せたい痩せたいと言いながら焼き芋食うのとおんなじさ」と返す。

それと話はまるで違うのだけれど、「わからないわからないと言いながら後生大事に持っている本」がある人はしあわせだなと思う。ロシア文学とか哲学とか、あるいは翻訳に成功していないパピルスとか(そんなシチュエーションにいる人がどれだけいるだろうか)。



今の短い二段落を書いていて思ったのだが、どうもぼくは子どものころに読んだマンガの言い回しを今でも引きずっている。ドラえもんの「ばかだねえ。じつにばかだね」を、そのまま使うことはないにしろ、たとえば電車に乗っていて橋を通過するときに「橋だねえ。じつに橋だね」とひとりごちて、こっそりクスクス笑っていたりする。当然その次の瞬間には、『ぼのぼの』のアライグマくんのセリフ、「どうしてみんな橋を見るとあっ橋だとか言うんだよ。バカみたいだぞ」というのを思い出すのである。

時代をいろどる名作は、絵がうまいとかストーリーがよいとかはもちろんのこと、節回しも図抜けているので、こうして何年経っても脳に残っており、ぼくのしゃべり方の構造の「梁」になっている。ところで、今「名作」と書いたが、思い返すと覚えているのは必ずしも超有名作ばかりではない。

ドラえもんを表紙にあてがいながらも実際には藤子不二雄が描いていない学習マンガ、というのがうちにあった。「ドラえもん 日本のなぞとふしぎ」(ドラえもんふしぎシリーズ)というのをよく読んでいた。しらべてみると1980年の刊行である。この中に、たしか『のんきくん』の片倉陽二っぽい絵柄の人(本人だったかもしれない)が書いたドラえもんの話があって、ドラえもんとのび太がピラミッドに潜入して進んでいき、奥底でみつけた配電盤的なコンソールのところで、なぜか見つけた説明書きにしたがって、

「左のレバーを右に、右のレバーを左に倒し、真ん中のスイッチを押すと」

としゃべりながら操作をすると、そのノリを引き継いで

「余がめざめる」

と声がしてミイラが棺から起き上がる。このシーン、じつに35年以上覚えているのだからちょっと引く。そして、覚えているだけではなくて、

「○○を○○に、○○を○○し、○○をすると、(別の人があとを引き継いで)○○が○○。」

の構造は、ぼくがかつて某所で書いていた小説などでときおり登場させた。なんか覚えがある。



物覚えがよい? いや、違うと思う。だれにもあるはずだ、子どものころに読んだ本だけは覚えているとか、本とは限らずたとえばテレビとか、親や先生や同級生などが言っていた口調とか。

なぜそんなものを覚えているのかと考える。

たぶん、あのころは、一度遭遇したものをいっきに飲み込んで消化してしまうのではなくて、まず何度も見て、周りを動き回って、手をあててなで回して、こいつはぼくの中に取り込めるものなのか、取り込むとしたらどこをどのようにかみ砕くべきものなのかと、今よりはるかにくり返しくり返し吟味していた。

鬼滅の刃も呪術廻戦も数回ずつしか読んでいないが、ドラえもんも三國志もドラゴンボールも10とか20というオーダーではない回数読んでいた。トイレにおいてあったサザエさんやコボちゃんやいじわるばあさんもそうだった。そうやって、「そっち側を解読するための回路」をどんどん作っていったから、いまや、脳からほかの機能を取り出そうと思っても、どのシナプスをどう発火させても過去のドラえもんルートやサザエさんルートがピカピカ光ってしまうのだろう。

思い起こせば息子も小さいころは、気に入ったフレーズを何度も何度も口にしていた。大人からすると「もういいんじゃない?」と言いたくなるくらいに何度も口にしていた。ああやって外界の手触りを確認していたのだろう。先日、夜更かしをしたという息子に何をしていたのかとたずねると、小説を読んでいたと答えた。ぼくはその小説を読んでいないのだが、これから読んだとしても、彼ほどにはかみ砕けないのだろう、大人になるとアゴが弱くなるというのは本当だなと思った。

2022年1月26日水曜日

病理の話(620) どうしてそんな色になるの

いやーいつも困っちゃう。外科医や内科医、研修医などに聞かれる質問の中でも、一番難しいなーと思うやつだ。


「先生、この病気、なんで黄色いんですか?」


そう、色についてである。


「病気の色を聞かれる」というのは独特なシチュエーションだ。たとえば「風邪はどんな色ですか?」と聞かれても答えられないだろう。おなじように、高血圧はどんな色ですか、とか、糖尿病はどんな色ですか、という質問も成り立たない。

世の中には共感覚と言って、何かを知覚したときに別の知覚を同時に感じ取る人もいるらしく、ドレミのドは青色だみたいなことを感覚するらしいけれども、そういうタイプの人でもない限り、「風邪は何色ですか」と問われるとびっくりする。え、鼻水は黄色いです……みたいに、ちょっとピントをはずした答え方をしてしまうだろう。

でも、色を答えられるタイプの病気もある。何かというと、がんなどの「カタマリを作る病気」だ。

腫瘍(しゅよう)細胞が満ち満ちに増えて、5 mmとか1 cmとか、大きくなると10 cm, 20 cmくらいのカタマリをつくることもある。そのカタマリはボールのように丸いこともあるし、細胞の性格によっては一部がかけてしまうこともある。

これらはよく手術でとってこられる。手術でとったものを見るのは病理医の仕事だ。とって終わりじゃない、そこからも綿密にいろいろ調べることで、よりよい治療を追加できるのである。

カタマリにナイフを入れて、割面(きりくち)を観察する。そこにはもちろん、色がついている。性状をよく見ながら、どこを顕微鏡で見たら診断がしやすいかを考えて、適切な場所を適切な枚数のプレパラートにする(技師さんにおねがいする)。


すると、その切り出し方を見ていた外科医や内科医、研修医などが言うのだ。


「先生、この5 mmくらいの病気ですけれど、大腸カメラで見ていたときにちょっと黄色かったんですよね。なんで黄色なんでしょうか?」



きみら、5 mmの病気もちゃんと見つけててえらいなあ。しかしなあ、なんでって言われてもなあ……。



そもそもあなたはトマトがなぜ赤いかを答えられるだろうか? 「赤い色素が入っているんじゃないの?」。もうすこしいろいろ調べた人だと、トマトが赤いのはリコピンという物質が入っているからだよ、と答えるかもしれない。

しかしだ。「リコピンはなぜ赤いんですか?」と言われたら困るだろう。

なぜって……たまたまその……光の波長のアレで……そう見えるから?



病理医も似たような問題に直面する。たとえば、ある病気が黄色みを帯びていたとき、顕微鏡で見て、そこに脂肪が存在すれば、われわれは「ああ、脂肪が含まれていると黄色いんですよ。」と答える。ところが、脂肪がなぜ黄色く見えるのかとまで聞かれてしまうと……ウッ……よくわからない。ぼく自身、「リコピンは赤い色以外をすべて吸収してしまうから、赤色だけを反射するため、赤く見えるんですよ」と説明されたところで、「じゃあなぜ赤い色以外をすべて吸収できるんですか?」としか思わない。だから、脂肪が黄色いからだよ、と説明をするときには、いつも困ってしまう。

「この研修医は、どこまで疑問を掘り下げるタイプかなあ……」

とハラハラしながら、「ああそれは、顕微鏡で見ると脂肪が含まれているんですよ。」と、いったんそこまで答えて、様子をさぐる。するとほとんどの研修医は、

「ああ、なるほど! 脂肪が含まれているからなんですね」

と、そこで納得してくれるんだけど、いつもモヤる。えっ、そこで疑問終えていいの?





こうしてひそかに一人ハラハラしているので、いろいろなシチュエーションに強くなった。たとえばとある病気のカタマリは、一部に黄色い部分があるのだが、じつはそこを顕微鏡で見ても「脂肪が見えない」。すると、若い病理医のタマゴなどは疑問に思う。


「先生、ここ、顕微鏡で見ても脂肪がないんですけど……なぜ黄色いんでしょうか?」


そういう質問も何度か受けたぼくは、答えを用意している。


「ああ、それはですね。ここで細胞が壊死(えし)していますよね。細胞がいっぱい死ぬと、細胞膜を作っているリン脂質二重膜、つまり脂質が、残骸となってこの部分に残るんですね。脂肪以外の残骸はマクロファージに処理される速度が早くて、脂肪成分だけが比較的長く残るんです。だから、脂肪の黄色が強調されて、こうして見えてくるというわけなんですよ。」


ここで病理医のタマゴは感心する。「へえ! なるほど! 脂肪なんですね!!」


でもじつは内心ハラハラしている。「じゃあどうして脂肪は黄色く見えるんですか?」これを聞かれたらぼくは病理専攻医の自律神経に衝撃波をあたえて失神させてその場を去るしかない。でもまあ、めったに聞かれない。ハラハラ損だ。




そして、「黄色みをおびた病気」がいつも脂肪を含んでいるわけでもないので難しい。たとえばかつてカルチノイド腫瘍とよばれた腫瘍は、脂肪を含んでいないのに黄色く見えることがある。これがなぜ黄色いのかをいつもうまく答えられない。神経内分泌顆粒が黄色いんじゃないッスかとか適当なことを言って上級医の自律神経に衝撃波を与えようと思ったのだが、さすがに上級医は、自分の神経をうまく守っているらしくて、衝撃波が届かなかった。オールシングティーポット(万事休す)である。そのきゅうすじゃない。

2022年1月25日火曜日

ためらいの綱

ラジオ系の企画にさそわれたのだが、さすがに時間がないということでお断りさせていただいた。かつて、北海道のとあるラジオ局から深夜に番組をやらないかと言われたことがあったが、そのときも多忙を理由に断った。もったいない……と思えるお断り、これが2度目。

本当は、音声コンテンツこそが性に合っている。でも収録の手間を考えると無理だ。ツイッターくらい断片的に取り組めるならいいのだが、音声はそういうわけにはいかない。

今回声をかけてくださったのは、けっこう有名な音声アプリである。最初はまあやってもいいかなと思った。しかし、Twitter Spacesのようなお気軽不定期音声モノですら最近時間がなくてなかなかやれていないことを思い出して踏みとどまる。なにより、自分のタイミングで不定期にやっていいとは言われたものの、ある種の「箱」というか看板を多少なりとも背負ってしゃべるというのは、義務や恩義が増えすぎてしんどいと感じた。全方位からお気楽に眺められているPodcast「いんよう!」ですら、収録はいつもスケジュールぎりぎりである、やはりこれ以上コンテンツを増やすことはできないと思った。



コンテンツ? 自分のやっているものはコンテンツという言葉を使って表現するべきなのだろうか? 自分がやりたくてやっているだけのこと、あるいは、他人から頼まれていいなと思ってやっている類いのものを、いちいち企業の手法的に「コンテンツ」と名付けるほどのことか? まあそりゃ定義から見直せば、むしろこちらが本来のコンテンツという言葉にふさわしいとかなんとか言えるだろうけれども。

どうも少しずつ「毒されている」なあと感じる。こういう言葉を使うとまた頭の中にすぐデトックスとかブレインストーミングみたいな言葉がやってきてわあわあと騒ぎ出す。




以前にも書いたことがあるが、かつて一瞬だけ「コーチング」をやってもらったことがある。あまり性に合わずやめてしまった、というか、ここで性に合わないと書いたところ当のコーチがその記事を読んでいて、そんな気分でやるならやめたほうがいいと言われてやめることになったのだけれど、その短い付き合いの中で、言われるがままに自分の思考様式を図式化したことがある。

「ぼくはどうやって物事を考えているんだろう?」ということを、自分の脳に聞きながら掘り下げていくと、そこにある風景が見えた。

ぼくのまわりに4体のぼくがいる。右前方・左前方のぼくは、それぞれ「中心のぼく」の腰にまいた綱を引っ張りながら、右にウインカーを出したり左にウインカーを出したり忙しくぼくを牽引している。これに対し、右後方・左後方のぼくも、同じく中心のぼくの腰に綱を巻いてつながっており、それをくいくいと引っ張ることで、中心のぼくを留め置こうとする。真ん中にいるぼくはオロオロしつつ、4人のぼくが前だ後ろだとうるさく議論してるところを、まるで車の屋根にのっかった状態で、前後左右2つずつのウインカーをぜんぶ見ているような気分で、さてこのあとぼくはどっちに行くのだろうな、なんてことを、どこか他人事のように考えているのだ。

このイメージはコーチングの最中に引き出されたもので、というか、こういうイメージでもなければコーチは納得しないのではないか、と半ば「接待」気味にむりやり脳内で召喚したイメージだったのだけれども、結果的にこの「綱4本にひっぱられる感覚」は、思った以上にぼくの根源的なものであったなと今になってあらためて思う。



そして今回の音声コン……音声アプリのおさそいは、前2人がわりと引っ張ろうとしていたのだけれど、後ろ2人も同じくらいの強さで止めた。「なぜ止めたか」は彼ら4名がワイワイと激論しているのでうまく聞こえない、ただ、なんとなく今回は前後が均衡してしまった、というのがお断りした本当の理由だったのだと思う。さっきは「多忙を理由に」と書いたし、おさそいのDMにも多忙をいいわけにしたのだけれど、実際、もし脳内の4名のぼくがみな「進め!」と言ったらぼくはいくら多忙でもこの話を引き受けていただろう。そうならなかった理由……右後ろにいるぼくが、「そろそろ乱反射するような活動のエネルギーを少し落としたらどうだ」と、確かにつぶやいた。ぼくはその声が、腰に結びつけられたとても太い綱のように思えて、それ以上どうしても前に出ることができなかった。

2022年1月24日月曜日

病理の話(619) 月曜日が特にしんどい

月曜の仕事が多い! 毎週、頭っから激務でたいへんである。

月曜日にできあがる「病理診断用のプレパラート」は、ほかの曜日よりも多いのだ。水曜日や木曜日と比べると2倍以上ある。

昔からずっとそうだったというわけではない。これには、現代の病理学特有の「理由」がある。



いまどきの病理診断(患者から採ってきた検体を顕微鏡などで見て、細胞の性状や遺伝子の異常などをとらえて診断をすること)においては、検体の内部にふくまれるDNAやRNAといった「遺伝子の情報」を、いかに状態良く保存するかが大切だ。


これらは、細胞の骨組みをつくるタンパク質や脂肪とくらべると、もろく、放っておくとすぐに壊れてしまう。遺伝子の情報はいまや診断するための強力な武器だから、なるべく壊さずに検索したい。


そのために必要なのが「ホルマリン固定」と呼ばれる化学処理である。ホルマリンは、細胞内の物質をそのままの形に……まあ言ってみれば剥製(はくせい)みたいにすることができるので、体から採ってきた細胞をなる早でホルマリンにぶち込むことが重要である。このとき、質のいいホルマリン(10%緩衝ホルマリン)でないとだめだ。そしてしっかり24時間は浸かっていることが大事である。なお検体のサイズが大きいときには、ホルマリンが奥までしみこむように「隠し包丁」のような切れ込みを入れたりもする。


そして、ここからがさらに難しい問題なのだが、細胞はホルマリンに長く漬けすぎてもだめである。ひとつの基準として72時間以上、つまり3日以上ホルマリンに漬け込んでしまうと、タンパク質やDNAはともかく、RNAの情報は格段に得るのが難しくなる。


ところが、たとえば金曜日のおひるに患者から採取した組織をホルマリンに漬けて、土日をまたいで、月曜日の昼に「検体処理」をしてしまうと、その時点で72時間に達してしまう。72時間というのは意外とすぐなのだ。

まあ72時間を1秒でも超えたら全部だめというわけではないのだが……。ハッピーマンデーなんかがあるとさらに厳しい。


そこで、現代の病理検査室では、しばしば、土曜日の午前中にも検査技師が出勤してきて、金曜日に採取された検体の処理を行う(もちろんその分は代休を取ります)。こうすることで、ホルマリンに漬かる時間が長すぎず、短すぎずの状態を達成できるのだ。




で、そうなると、困ったことがひとつ起こる。


患者から採ってきた検体をホルマリンに漬けて、翌日に処理、さらにその翌日にプレパラートが完成するというフローを考えると、

 「木曜日に採ってきた検体→金曜に処理→月曜日にプレパラートができる」

まあこれはよいのだが、

 「金曜日に採ってきた検体→土曜に処理→月曜日にプレパラートができる」

ということになってしまう。


そう、休日出勤を挟むことで、月曜日にできあがるプレパラートの枚数が、受付日時でいうところの二日分になってしまうのだ。


その分、火曜日にできあがるプレパラートは少なくなる。だったら、半分くらいは火曜日に回せばいい、と思われるかもしれない。実際、そのようにしている病理検査室もいっぱいある。


……しかし、患者から採取されてきた検体がプレパラートになっているというのに、「見もしないで1日置いておく」というのが、ぼくはどうもできなくて……。結局、月曜日にヒイヒイ言いながら診断を全部終わらせる。


個人の努力でなんとかしてしまう系の業務は、ヒヤリハットを増やすので、あまり無理をしてはいけない。それは本当だ、しかし、どうも医学の仕事というのは、「ちょっとくらいなら無理してでも患者のためになんとかしたい系」のものが多くて、こればかりは、はいそうですかと仕事をクールに振り分けるわけにもいかない。まあなんかうまいこと抜け道がないかなーとか思いながら、今週も月曜日はハードな仕事にいそしんでいる。

2022年1月21日金曜日

作業スペース

TwitterのSpaces機能を立ち上げたところである。タイトルは「ブログを書く音」にした。現在2021年1月21日(金)、朝の7時17分である。出勤後、いくつかメールの返事などをすませ、本日の予定を組み終えて手術検体の診断を1件終えたら少し時間が空いたので、今回の企画を思い付いた。


特に何もしゃべらず、無言で、ブログをいちから書き始めて書き終えるまでの間、キータッチの音をひたすら配信してみる。


似たようなことは、すでに多くの作家やマンガ家がやっている、という。先日Podcast「いんよう!」の中で触れた。その後、柞刈湯葉の有料noteだったと思うが、「執筆音配信のときには音がよく聞こえるように無駄にキータッチばかりしている」という記載を目にして、けっきょく何を配信しているのかわかったものではないなあと笑ってしまった。とりあえず今回ぼくの配信は、ほんとうにいちからブログを執筆してその音をただひたすら流している。今、視聴者数は……50人くらい。朝からおつかれさまです。




こういう「実験」をしょっちゅうやっている作家というと、まっさきに浅生鴨を思い付く。彼の実験は、絶妙に「聞いた人が眉をひそめる」塩梅で行われている。稚内で本を売るとか豪華革張りの本を受注生産するとか、そもそも、じぶんで出版社をやってしまうというのも実験ではあるだろう。あるいは遊びというか。

「どこまで本気なのかわからない」と他人に思われる・思わせるための行動。に、見える。


そういうのは少し距離を置いて見る。「わあ、すごいことやっていますねえ! 尊敬するなあ!」とすりよっていく感じではない。その実験、いったいどうなるんだろう、という科学者の気分をとても刺激されるのは事実だ。しかし、科学者は、他人の実験を目にする場合はもちろん、実験のシステムを自分で組み立てた場合も、実際に実験が行われるときには一歩離れて冷静に眺めなければいけない。感情を込めて「うまくいけ! がんばれ!」と念じてしまうとかえって失敗する、というか、実験に無駄な恣意が加わってしまう、肩入れしすぎてはだめなのだ、だから距離を置く。浅生鴨がやっている各種の実験も、「おもしろいなあ! どれどれ!」とにじりよると、実験そのものに影響を及ぼしてしまいそうで、ぼくはそれが怖い。だからなんか楽しそうなことをはじめたなあと思っても、近づき過ぎない程度に距離をとって、でも目を離さないようにしている。


そしていざこうして、自分でも「実験」のようなことをやってみて思うのは、自分が見世物になるときに刺激される神経を20%くらい、自分が未知の扉をこじあけるときに刺激される神経を20%くらい、自分がやけに冷たい気持ちになってひどく落ち着いて物事を俯瞰するときに刺激される神経を60%くらい刺激されるなあ、という体感の部分だ。「実験してみた」の渦中はこういう気持ちになるのだなあ、というのを心のホワイトボードに殴り書きしているところである。



「見られていると書けないタイプの文章」はおそらく存在する。Twitter Spacesだからキータッチの音を聴かれているだけなのだが、それでも、なぜか書きづらいフレーズみたいなものがあるようで、ぼくは普段よりも少し脳に圧を……選択圧をかけながら文章を考えていることがわかる。今、Twitter Spacesの配信をやめたら自由に書けるのかというと、たぶんそういうことでもなくて、「人の受け取り方を意識する部分の脳実質」が普段よりも少し強めに発火していることを、Twitter Spacesに作業音を垂れ流すことであらためて自覚しただけで、普段からおそらく、「誰かが読むこと」を意識してはいるのだろう。ろくに更新告知もしない程度のブログなのにな。



Twitter Spacesは最近、録音アーカイブが残せるようになった。せっかくなのでぼくも今回のアーカイブを録音しようかと思ったけれど、自分が打鍵した音をあとで聴き直すというのが超一級の狂気に思えてしまい、けっきょくアーカイブを残すのはやめた。そろそろTwitter Spacesを閉じて、この記事を公開する。

ユニクロには中間色の服ばかりがならぶ

息子が頭痛っぽいというので枕を送った。そういうところ、似たのだろう。ぼくも中学・高校時代は「ストレートネック由来の頭痛」に悩まされていたから、わかる。

自分の頭痛を「解釈」できるようになったのは大人になってからだ。当時は、勉強をすれば肩が凝り頭が痛くなるものだ、それは因果関係だ、と認識していた。けれども、当時よりもはるかに机に向かっている今、ほぼ頭痛も肩こりもないわけで、「座学=頭痛」というのは間違いだったのである。

「解剖学的な知識をふまえて、体のパーツを使いこなす」ことはじつに効果的だ……と、自分の専門分野で不特定多数にマウントをとることもできるが、じっさいには、「なんか使っているうちになじんだ」みたいな側面が大きい。

中年というのはすなわち、体が手になじむ年齢なのだろう。もっとも、だいぶガタが来ていることもまた事実である。


体だけではない、言葉もたぶんそうだ。昔は棘のある言葉を今より多く使っていた。前のめりに本を読むことで首を痛めるがごとく、前傾姿勢で言葉を発することでかえって自分を傷つけるようなこともあった。でも、今は、自然にしゃべったり書いたりしているときにいつの間にか自傷的・自罰的な気持ちにおちいることはほとんどない。言葉の性質をふまえて、母語を使いこなせるようになった……というよりもやっぱり、じっさいには、「なんかしゃべりかたがなじんだ」という感じである。

体がなじむように言葉もなじんでいく。一方で、ガタが来るのはどこか? ノドか。指か。脳か。



「馴染む」という字を見ているとふしぎな気持ちになる。馴致(じゅんち)という言葉はじゃじゃ馬グルーミン☆UPで知ったのだったか。染まるという字も含んでいる。「なじんだわあ」なんて言うといかにも中動態なのに、字面は馴らして染めてしまうのだ。強い意志を感じる。だからだろうか、漢字のふんいきを知らず知らずのうちに嫌って、ひらいて、「なじむ」とひらがなで書いていた。ネチネチと字面をながめると、ひらがなで書いたほうがより「なじむ」気がする。

これは理屈ではない。時間経過とともに、自分のフィーリングに乗るか、乗らないか、みたいな微調整の結果が、体にしても言葉にしても、日ごろなんとなく使っているやりかたの中に反映される。



では、若い頃の、自分にも周りにも傷を付けながら動き回っていたころの体の使い方や言葉の使い方、あれがまるでだめだったのかというと、まあだめだった部分もあるだろうがゼロイチ思考でばっさり切り捨ててしまうのもどうかと思う。触れたり叩いたり切ったりしながら自他の境界を確認していく上で、ストレートネックの首をもたげて何かをにらみつけるような動きがぼくの何かをひらいたり閉じたりしたこともきっとあったのだ。それは評価だけしていればいいものではないし、かといって総括して糾弾すればいいというものでもない。取り戻せないものにも、おそらく色のようなものはあった。染まる前の、染める前の、ネイチャーカラーみたいなものがきっとそこにはひそんでいた。息子の首は早くよくなってほしい。しかしその首の調整がしっくりくるにはおそらくあと10年くらいかかる。そしてその10年は息子にとっても体を微調整し言葉を選ぶ10年になるはずなのだ。

2022年1月20日木曜日

病理の話(618) 研究をはじめます

今年の正月は、少し気を抜いてゆっくりできた。年末にさまざまな仕事が一段落できたからである。

そして、年明けからは新しい「研究」をスタートさせた。


研究と言っても、マイクロピペットを持ってマイクロチューブの中に酵素を入れるような、いかにも「マッドサイエンティスト的」な実験は、ぼくはしない。

「答え」がはっきりわかっているような、クイズを解くのとも違う。

ある病気の、まだよくわかっていない部分に対し、「ぼく(病理医)がプレパラートを見てみることで、何か新しいことがわかったりしないかな……」という感じで取り組んでいく。

「この病気を病理医に見せたら、どんな意味を感じ取るだろうか?」という、臨床医のモチベーションに駆動された、「臨床研究」である。

研究と書いたが、イメージとしては開拓に近いかもしれない。

つまりぼくは未開の原野を開墾する屯田兵なのである。



比較的珍しい病気。年に数回くらいしか、診断の機会はない。これはぼくの勤める病院に限った話ではなくて、全国のどんな病理医も、これまでそれほど多く経験してきたわけではないはずだ。

有効な治療法があまりない。命にかかわるような病気ではないが、長年症状が続く。

この病気をさまざまな人が研究している。診断の精度をあげ、治療を開発し、治療の効果をどのように評価していけばいいかを検討する。

検討の過程で、とある臨床医が、ある「所見」に気がついた。この病気の患者にある検査をして、ある画像を取得すると、そこに特徴的な像が浮かび上がることがある。

病気がある「像」を結ぶとき、その像を形作っている要素を細かくひもといていけば、細胞に行き当たる。ミクロの世界のこまかな構造が、積もり積もって、マクロな「像」の形成に繋がっていくのだ。

そこで、臨床医は、ぼくに声をかける。


「こういう特徴的な病像を示すことがあるんですよ。この部位から細胞を取得しておきました。いかがでしょう、病理医から見ると、なにか、特別なものが見えますか?」




……もし、ぼくの目に「特殊な像」が見えれば、それは福音だ。今度から、この病気の患者さんに出会ったら、このような病像の部分から細胞を採取することで、病理医が何かを評価できる可能性がある。


一方で、もし、ぼくの目に「何も特殊な像が見えなくても」、それはひとつの結果なのである。この患者にとっては、細胞を採ってきて病理診断をしなくてもよい、という判断も大切なのだ。




さあ、どうだろうか。ぼくは、この珍しい病気の患者「2名」から採取された、複数のプレパラートを見て考えている。




……どうやら……今のところ……何も特殊な像はみえない。つまり病理医が役に立てる部分はないのかもしれない……。


しかしあるところで、ふと気づいた。あ、これは、H&E染色ではよくわからないけれど、あの「免疫染色」をする価値があるのではないか? ということに。


「免疫染色」という手段で、細胞を違うやり方で染めると、人の目に見えてくる情報がまるで変わる。この病気の患者から細胞を採取することで、ある興味深い結果を見出すことができるかもしれない。



こうして新しい臨床病理学的研究がはじまった。今年のうちに、学会報告を2回、論文での報告を1回できるのではないか、と考えている。さてそううまくいくものだろうか。がんばらなければならない。

2022年1月19日水曜日

科学はまだまだである

「文學界」の2022年2月号で、哲学者の千葉雅也さんが以下のようなことを言っていた。

”文学的という言葉を、今日の科学的趨勢に対して弱腰に使うのはよくないと思っています。むしろ文学的な心とか無意識は、より複雑な構造を持っているがゆえに現在の科学の分析力の低すぎる解像度ではとらえきれない、と考えるべきでしょう。だから、心や無意識はより進んだ科学でないとわからない。科学以上の科学が必要な領域なのであって、科学ではとらえられない、ぼんやりとしたものである、というぬるい話じゃない。もっと精緻なものであり、科学はそこに向かって邁進しなければいけないぐらいに考えてますよ。”

のけぞって感動した。すごいな。



科学の追いついていなさ。科学はこれからも継続的に発展していかないと「そもそも低解像度すぎて役にたたない」という感覚を、ぼくは最近忘れかけていた。現代の科学は行くところまで行っているなあ、あとは些事に対する微調整だけだなあ、くらいの感覚であった。科学がこれだけ育ち切った今、科学が担当できない部分についてはもはや、科学以外でなんとかするしかないよなあ、くらいのあきらめすらあった。

けれども、違うんだな。「科学はそこ(心や無意識の解明)に向かって邁進しなければいけない」という言葉は、なんというか、ぼくの暗闇だった部分に光を当てた。そうか、まだまだなんだ。

科学者の仕事は多いなあ。








最近、ぼくも家人もノドの調子がよくない。咳がとれない感じである。幸い、例の感染症ではない。冬の乾燥によるものだろう、そういえば毎年目にする症状だ。

日ごろ、窓が結露するのがいやで、冬期も寝ている間は暖房をとめて換気扇を回している。こうすると朝方になっても結露は抑えられる。しかし、厳冬期に結露が起こらないということはつまり極度に乾燥しているということだ。ノドには決してよくないだろう。

そこで、ここ数日は換気扇を回すのをやめた。するとノドにはだいぶいいのだが、窓にはテキメンである。毎朝、すべての部屋の窓に激しい結露が出る。結露なんてただ濡れるだけじゃん、というのは大間違いで、窓についた水滴はそのまま垂れ下がって窓のサッシを傷める。だから、毎朝窓の水滴を拭き取る。

これがもう、理屈では運用できない作業の最たるものだ。

いや、頭ではいろいろ考えるんだけど、結局、手を動かし続けるしかないので、理屈がだんだん溶けていく。

たとえばマイクロファイバーのようなタオルは意外と吸水性が悪い。拭いても細かな水滴が窓に残ってしまう。古いタオルのほうが吸いがよい。そういうのは少し考えれば、理屈でわかる。しかし、窓と水分の量が半端ないので、吸水性がよい悪いにかかわらず、普段使いしている雑巾系の布を、とにかく物量的に投入して次々拭いていかないと、出勤前の短い時間では窓拭きが終わらないのだ(いちいち絞っている場合ではない)。あちこちの窓を拭くのに数枚の雑巾・タオルを次々とりかえながら一気にやりとげる。理屈ではない。まず運用することだ。

窓を拭く動きにもコツのようなものがある。上から下に拭いてしまうと、上部の水滴が下部に落ちてくるので窓の下のほうがびしゃびしゃになるから、下から上に拭き上げるのがいい。しかし、こうやって言語化した動きばかりでなんとかなるわけでもない。体の角度、手の震幅の細かさなどは、拭いているうちに少しずつ「効率的な体勢」に更新されていく。朝一番の身体の動きよりも、拭き終わるときの動きのほうが毎日必ずいい感じになっている。

今朝も無心で窓を拭いていたのだが、一瞬だけ思考が復活した。「ああー現代の科学ってまだまだだなあー、窓の結露すら効率的になんとかできてないじゃん……」。しかしこの思考もまた終わりなき腕の反復運動に飲み込まれてとろけて消える。科学はまだまだである。科学は邁進しなければいけない。

2022年1月18日火曜日

病理の話(617) グリフォンを運用できるスタッフの腕を買う

病理医の仕事のひとつに、「病理診断」がある。


※いまインターネット上で病理医と名乗る人間の半分くらいは、「病理学の研究」をして給料をもらっており、必ずしも「病理診断」をしていない。したがって、病理医イコール病理診断をする人ではない。でも、残りの約半分くらいの病理医は、「病理診断」をすることで病院の中に仕事を得ている。


この病理診断だが、近い未来には、AI(人工知能)でかなり助けてもらえるようになるだろう。それはもう、間違いない。

このため、病理医以外の医者、内科医だとか外科医などは、AIがそこそこの結果を出してくれるならわざわざ人間の病理医を雇う必要なんてないよな、ということを、わりと本気で考えている。

でもぼくはそうではないと思う。どうも話を簡単に切り取りすぎているなあ、と感じる。


ひとつ極論をする。病院の中に、コンピュータではなくヒトの病理医が必要な理由は、「病理診断をしてほしいから」ではなく、「ほかの医者と異なる目線で、ほかの医者と違う理路で考える診断をできる人が病院内にいることで、いろいろ役に立つから」だ。


これを説明しようと思うとき、パトレイバーを例に挙げるのがわかりやすい。読んでいない人は読んでから出直してきて欲しい。できれば全巻読むといい。


機動警察パトレイバー(小学館/ゆうきまさみ)の中に、グリフォンという、「敵」が登場する。ワルモノが乗り込むロボット(作中ではレイバーと呼ぶ)だ。そのへんは、ま、読めばわかる。


パトレイバーの舞台はゴリゴリの日本だ。工事現場などで作業用のロボット(レイバー)がいっぱい運用されているほかは、現実とあまり変わらないので、近未来どころか、今となってはやや昭和的な過去が描かれている。技術が発達すれば当然、その技術を悪用した犯罪が起こる。ではレイバーがあるからと言っていきなり宇宙戦争が起こるかというと、そんなわけもなくて、酔っ払いが工事用のレイバーに乗って近隣の建物をこわして警察にしかられた、みたいな、良くも悪くも「俗っぽい」光景を楽しく(?)読むことができる。


そんな普通の日本に、ゴリゴリのワルモノレイバー「グリフォン」が出てきて、警察や自衛隊のレイバーをぶっ壊してしまうのだから、ああ、マンガだよなーと思いたくなるところだが、この作品のすごいところは、「なぜグリフォンなどというワルモノレイバーが、この日本に必要なのか」をきちんと説明しているところにある。


グリフォンという犯罪専用機には買い手がつかない。それでも、企業が多額の投資をしてグリフォンを作り、悪事を行う理由とは、「グリフォンというすごい技術を搭載したレイバーを作ってアピールすることで、そのグリフォンをメンテナンスできるほど優秀なスタッフを売り込むため」なのである。最新鋭の警察所有レイバーを軽々とあしらうほどのレイバー技術は、軍事産業をはじめとして多くの世界が注目する。そんなグリフォンをいちから作り出せるスタッフを雇用できれば……。


グリフォンそのものが重要なのではない。グリフォンを扱える技術者たちの腕が重要なのだ。


ぼくは、病理診断と病理医の関係も、これに似ているなあと感じることがある。「病理診断ほど複雑で、わからない人からみると突飛に思えて、発想がどんどん飛躍していくようなタイプの思考を必要とする診断」は、言ってみればグリフォンである。グリフォン的な超級レイバーをコントロールできる病理医の脳には価値がある。


病院では、「ちょっとこの症例難しいから、人を集めよう」というやり方をすることがある。医学部を出て医師免許をとって長年修業をした医師であっても、一人で人体の難しさと向き合うのはたいへんだから、複数の専門家を呼んで議論をする。このときに、「病理医」を呼んでくるといろいろいいことがある。なにせ、日ごろからあの「グリフォン」を扱っているのだ。きっとその思考技術が役に立つだろう……。


AIは病理診断の一部をやることができるかもしれないが、臨床医の話し相手にはならないし、論点に違う角度からスポットライトをあてるようなコシャクな議論もできない。A=A、B=Bと、正解がある問題に答え続けるだけなら病理医は人である必要はないし、病院に病理医は必要ない。でも、答えがわからないほど複雑な問題にみんなで立ち向かうにあたっては、AIでは足りない。コンピュータでは会話が進まない。


グリフォンそのものが大事なのではない、グリフォンを使えるスタッフが大事だ、それといっしょで、病理診断そのものをやればいいというだけではなく、病理診断を行える脳が大事なのである。

2022年1月17日月曜日

本能のレベル

「キズを見つけてふさごうとする本能」みたいなものがある。


「ふさごうとする」の部分ではなく、「キズを見つけて」の部分がより根源的に本能だ。


人間の脳は欠落を見つけるのが得意だと思う。


もっと言えば、ざっとまわりを見回して、何も「欠け」がない状況であったとしても、キズや穴のたぐいが見つかるまで探してしまう。


お正月明けのツイッターのタイムラ インで、「実家に帰ったら親が文句ばかり言っており、引いてしまった」のようなツイートを散見した。


親は人間である。人間なので、身の回りにある「欠け」を日々探している。すきあらば塞ごうとする。そして、塞げる穴ばかりではないのだ。だから結局は、「欠け」を指摘するに留まる。自分の周囲の欠けを指摘して不快をあらわすことを、一般的に「文句」と呼ぶ。


そして、子もまた人間である。「親が文句ばかり言っている」というキズを指摘してツイートしている。


いずれも塞げる欠落ではないのだ。しかし、それでも、本能だから、つい指 摘してしまう。





今の短い文章の中で、「タイムラ イン」と、「指 摘」の部分に、半角スペースをしのばせた。


注意深い人は気づいただろう。


そして、世の中の多くの人は、注意深いのだ。違和感に気づくところまでは脳が本能でやってくれることが多い。


ただしその欠落、気づいたところで、そうそう塞げるものではない。対処不可能な不安定さにも気づくくらいの「注意」を人間が備えているというのは、なんともおもしろいものだなあ、と感じる。



2022年1月14日金曜日

病理の話(616) 細胞の持っている道具にフォーカスする検査

顕微鏡で細胞を見ていて、こいつのこと、もう少し詳しく知りたいなと思ったときに、病理医が用いることができる「武器」がひとつある。


免疫染色、という。


正確には「免疫組織化学」と言う。ある化学反応を利用した技術で、いわゆる色素を振りかけることで色をつける「染色」ではないので、免疫染色という呼び方はどうやら誤用らしいのだけれど、多くの人が単に免疫染色と呼んでいる。別にだれも困らないのでぼくも免疫染色と呼ぶことが多い。


これはどういう技術かというと……細胞が持っているさまざまな道具の中からひとつを選んで、それに色を付けることができる。


たとえば、細胞が「HER2」というタンパク質を持っている場合、HER2の免疫染色をすると、細胞の表面にあるHER2だけに色が付くので、顕微鏡をみると「あっ、こいつHER2持ってる!」とすぐわかる。しかも、「細胞膜の部分にある!」というように、そのタンパク質が具体的に細胞のどの部分にあるのかまでわかる。


これをやると何がよいのか? さまざまなメリットがあるのだが、たとえば、その細胞が「どこ出身か」がわかるのだ。


がんは転移する。どこかのリンパ節に存在するがんを見たとき、そいつがどの臓器からやってきたのかを見極めることは、治療のやりかたを考える上でとても大切だ。


がん細胞を見て、その顔付きだけで「出身地」がわかればいいのだけれど、なかなかそうもいかない。日本人の顔を見ただけで北陸出身か近畿出身かを見極めるのはまず無理だろう。そこで、免疫染色を使う。


たとえばTTF-1という名前のタンパクが、細胞の核にあれば、そいつは高確率で肺もしくは甲状腺からやってきたと推測できる。


GATA-3という名前のタンパクが、細胞の核にあれば、そいつは乳腺由来か、もしくは尿路(膀胱など)からやってきたのではないかと考える。


ほかにも、免疫染色によって、その細胞が「めちゃくちゃ増えまくるタイプか、そうでもないか」や、「より悪性度が高いか、そうでもないか」などを見極めることもできる。とても便利だ。



ただし免疫染色には弱点もある。基本的に、HER2とTTF-1とGATA-3を一緒に染めるような「同時に複数のものを染める」という検査にはあまり向かない。

これはたとえ話を使うとわかりやすいかもしれない。

渋谷の交差点を歩いている人をカメラで撮影し、その人たちがメガネをかけている場合には、顔の上に★マークをつけるシステムを考えよう。

無数の人が居る中で、メガネをかけていると顔に★がつくので、わかりやすい。

このシステムに、さらに、サンダルを履いていたら足下に★マークを付けるシステムを重ねよう。

画面が★だらけになるが、まだぎりぎり、判別は可能だろう。

そこで、さらにさらに、ネックレスをしている人の胸元に★マークを……。


こうやっていると、だんだん、画面が★だらけになっていくだろう。あるひとつの、ここぞという項目だけをハイライトするから役に立つのであって、なんでもかんでも強調するとかえって分かりづらくなってしまう。


参考書の難しい部分に蛍光ペンを引きすぎて、ほとんど全部の文章に線を引いてしまうと、マーキングの意味がなくなるのと似ている。


どこにどれだけ★を付けたら便利なのか……。どの文章に蛍光ペンでマークしたら勉強がはかどるのか……。

これをきちんと考えるのが重要だというのはおわかりだろう。病理医は、免疫染色という強力な武器を使う前に、どれをいつ、どのように使うかをきちんと考えなければいけないのである。

2022年1月13日木曜日

脳だけが旅をする

自分の中に、「すでにレーンが組み上がっているなあ」と思うことがある。新しい情報にアクセスし、それがスッと頭の中に、何の抵抗もなく入ってくるときなど、特に思う。


他者の情報が自分の中に入ってくるなんてのは、ほんらい、とても異常なことではないか。人体に異物が入って来たら、免疫が対抗する。それといっしょで、もともと自分の中になかったはずの情報が入ってきたら、違和感という名前の免疫が応答するはずなのだ。


「えっ、どういうこと?」という引っかかり。摩擦。自分の中にそれまでなかったものに対する一次反応。他者の思考に対してぼくの脳は、これまでの状態(ホメオスタシス)を保つために抵抗し、炎症が起こって、浮腫(むくみ)が周囲に波及し、熱を持って、痛みを伴い、腫れ上がって赤みが出る。細菌やウイルスに限らない、情報だってこのようなプロセスを辿るのが自然だ。


実際、4,5歳くらいの子どもをみていると、思考の自然免疫みたいなものがしっかり働いていることがよくわかる。「なんで?」「どうして?」の攻撃は、外界に対する脳の免疫反応だ。しばらくすると、強すぎる免疫はコミュニケーションを阻害するということに気づいて、成長とともに「なんで?」のサイトカインが目立たなくなるが、脳内ではあいかわらず、外界に対する驚きが火花としてスパークする時期が、長く続く。それはきっと、思春期以降まで延々と続いていく。


しかしそれも30代くらいまでだったのかもしれない。ぼくの場合、ここ数年、自分がまるで知らなかった情報に触れても、「えっどうして?」と思う前に、「まあそういうものもあるかなあ」と、スッと受け入れてしまう機会が増えた。

最初はこれを、「思考の免疫が弱まっているのかな」と考えていた。しかし、逆のパターンもある。違和を感じるまでもなく、「あっ、その考えはないわ」と、強力にはね返してしまって一切自分の中に取り入れない情報、みたいなものも年々増えている。

となるとこれは、「食えるものは食える、食えないものはそもそも口に入れない」みたいに、免疫以前に決まり事として、さいしょから仕分けしている状態に近い。


脳内にいろいろなレーンが組み上がってしまっている。自分なりの「常識」が凝り固まったと表現することもできる。レーンに乗せた情報に対しては、思考の免疫による精査を加えることなく、「まあそういうものだよ、ゴックン」と飲み込んでしまうし、レーンに乗らない情報については味見もしない。常識の範囲で接種できるものだけを食べて暮らしている、それで栄養価としてはまったく問題がないので、とくに困るわけでもない。


ある種の情報がまったく脳に侵入してこないならば、それは、この先のぼくの思考がほとんど、「過去のパターンどおり」に進んでいくということにつながる。


中年はよく、「旅をしろ、旅によって自分の知らない風景に触れろ」というのだが、そういう人たちの多くは、「旅をしていては触れられない情報」を最初から排除している傾向にあったりして難しい。一日中テレビを見たりマンガを読んだりせずに旅ばかりしているからそんなものの言い方になるんだよ、みたいな人もいる。


偏りに自覚的でありながら、かつ、免疫を取り戻す。ずいぶんと難しいバランス感覚で、考え込んでしまう。免疫は加齢とともに衰える。万能のワクチンがあればなあ、と思う。そんなものがあったらノーベル医学生理学賞である。……いや、平和賞か。

2022年1月12日水曜日

病理の話(615) 細胞の号令

いつもどおりマニアックだが、今日はさらに深度もけっこう深い話をする。



がん細胞のまわりには、いろいろと、がん細胞以外の細胞が存在する。その一部は、いわゆる取り巻きであり、太鼓持ちだ。がん細胞の機嫌を伺うように周りに付き添い、あるいはがん細胞から「恩恵」を受け取り、もしくはがん細胞のために身を粉にして働いている。はたまた、がん細胞がいるからなんとなく集まって来た、という野次馬みたいなやつもいる。そして、がん細胞と戦う警備員や警察官のような細胞も混じっている。

味方も敵も、おおにぎわいなのである。


したがって、顕微鏡を見るとき、白い背景の中にがん細胞だけが「ポツン」といるわけではないのだ。そこには背景があり、地図でいうところの「地」がある。さまざまな環境、文脈があって、そこでがん細胞が思い思いに分布し、あるいはがん細胞どうしで構造をつくり、さらにはがん細胞と周囲の細胞とで関係をむすんでいるのである。


このことを利用すると、病理医は、がん細胞を探す前に、「ああいうタイプのがんかもな」と気づくことができるようになる。




たとえば「とあるT細胞性の悪性リンパ腫」という病気がある。この病気は、「B細胞性の悪性リンパ腫」よりも、がん細胞のまわりに、好酸球やマクロファージといった「野次馬」がたくさん出現していることが多い。また、血液検査をすると、とある特殊な検査の値がすごく高くなっていたりもする。これらはいずれも、がん細胞がのさばる過程で、さまざまな「号令」を周りにかけることによる。ホイッスルを吹くと言ってもいいだろう。ただひそかに数を増やして陣地を広げていくのではなく、ピイーピイー、ブカブカドンドンと大騒ぎをしながら増えていくのだ。それに誘われたほかの細胞たちが、がんのいる場所に出現してくるので、病理医は、検査データを見て、顕微鏡をぱっと覗いた瞬間から、


「あれ、これ、もしかして、T細胞性のリンパ腫か、あるいはホジキンリンパ腫みたいなやつかもな……」


と、あたりをつけることができる。



で、今日言いたいのはじつはこの先の話だ。


若い病理医や医学生などといっしょに顕微鏡を見ているときに、プレパラートを顕微鏡にパチンとセットして見た瞬間にぼくが「うーんT細胞かな、ホジキンかな」と言うと、そこで若い人たちはとても驚くのだ。

「ま、まだ、拡大してませんよね、もう見えるんですか」

と。そこでぼくの機嫌が良くてやさしいときには、上記のような説明をする。「いやいやそういうわけではないですよ。でも当てずっぽうでもないです。なぜなら、がん細胞を見る場合には、細胞そのものを拡大するのはいいとして、それ以前に、地の状況を把握しておいたほうがわかりやすいからです」とでも言って、種明かしをする。

しかし、ぼくの機嫌が悪い、もしくは単に疲れている、いそがしい、あるいは……「ちょっと驚かせてやろう」と思うときなどには、このように答える。



「そうですね。見えますよ。まあこれからもっと精密に見ますけれどね」



こうするとたいてい尊敬される。べんりである。でもあとでいたたまれなくなって種明かしをする。すかさず軽蔑されてバカにされてなめられて師匠としての格を失って、ツイッターで「ヤンデルって嘘ついてハッタリかますんですよ」とか言われてぼくは泣く。

2022年1月11日火曜日

ポップの重力呪文でこの雪を潰したいという妄想

先日、雪かきってしんどいけど痩せないよね、というツイートをした。そしたら「なぜですか?」という質問や引用RTがけっこう届いた。


ツイートしたときには、「理由は不明」と書いておいた。でも、じつは、ある程度推測はできている。


雪かきに限らず、30分~1時間半程度のそこそこハードな運動を「週に1,2回やった程度」では、痩せるためのカロリー消費には届かないのだ。それくらいだと、体の基礎代謝の影響にのみこまれる程度のカロリーしか使えていない(逆に言えば、基礎代謝はバカにできない)。まして、運動で体のラインを変えようと思ったら、もう少し使うべき筋肉をきちんと意識して負荷をかけないととだめである。


そう、答えは、「足りない」のだ。雪かきのかわりにジムで単発で30~1時間走っても結果はいっしょ。もっと継続しなければいけない。でも雪かきは冬期だけ。おまけに、雪が降るタイミングによってやったりやらなかったりである。「この冬はあんなに雪かきしたのに痩せなかったなあ」って、そりゃそうなのである。


痩せるという言葉にも2通りの解釈がある。「目に見えて絞られた状態になる」というものと、「目に見える数字がわかりやすく減る」というものだ。後者の数字とはつまり体重であり体脂肪率のことだと思うのだけれど、「太っていないボディイメージ」を手に入れるために参照するのが体重だと、けっこうずれる。体重の多い少ないよりも、体のあちこちにある筋肉の引き締まり方によって「美しく見えるかどうか」を目標にしたほうが、実際のところ、コントロールがしやすい。おまけにこの「美しいかどうか」は主観なのでどうにでもなってしまう。


継続的におすすめできる運動とは、雪かきのように腰を痛めそうになるしんどいものではなくて、やはりランニングでありウォーキングでありラジオ体操なのだ。だいいち、もし雪かきが体にいい動きを内包していたら、雪国の理学療法士たちや整形外科医、さらにはNHK北海道のディレクターなどがめざとく見つけて、「雪かき体操で健康になろう!」という特集をとっくに組んでいるはずである。



ではそのような雪かきをぼくはどうやって乗り切っているかというと、心を無にする精神訓練の一環としてとらえているし、本当のところは、乗り切れていない。いつもぶつぶつ文句を言っている。雪雲に。冬空に。地軸の傾きに。

2022年1月7日金曜日

病理の話(614) がんゲノム病理学の勉強

文光堂の『がんゲノム病理学』という教科書を買った。この本、じつはターゲットがけっこうはっきりしている。


「分子専門病理医」という資格を受験したい病理医向けなのである。


病理診断をしていく上では、まず、病理専門医という資格がある。この資格がないと絶対に診断ができないというわけではないのだけれど、肌感覚として、この試験にすら受からないようなレベルのやつが病理診断をできるわけがないので、9割9分の病理診断医はこの資格を取得するし、ま、ふつうに受かる。

その病理専門医という基礎資格をとったあとに、さらに上位の資格としてとるのが、「分子専門病理医」だ。2020年くらいから一般に受けられるようになった新しい資格である。なお、ぼくは持っていないし、じつはこの先とるつもりもあまりない。


だったら教科書だって買わなくてもいいじゃん、と言われそうなのだが、それはそれ、これはこれ。


ぼくはもともと、病理医と一緒に働く外科医や内科医、皮膚科医、小児科医などの読んでいる本を読んで、「同僚のきもちを理解するために、彼らの使っている言葉を学ぶ」ことをやるタイプの病理医だ。

したがって、「分子専門病理医の資格は必要ないけれど、大学などで分子専門病理医がどういう気持ちで働いているのか」を知るために、教科書を読んでおくことには意味があると思うのである。




さて、実際にどういうことが書いてあるかを、軽く抜粋しながらご紹介しよう。


”遺伝子変化の実例: 「PMS2 c.780_801 delinsGGATAC p.Ala262fsTER40」と書いてあった場合、PMS2遺伝子翻訳領域における780~801番の22塩基が欠失し6塩基GGATACが挿入された結果、本来のPMS2タンパクの262番(アラニン)を1番としてカウントした際に40番のコドンが終止コドンになった、という意味になります。”


ぼく「おーなるほどー今までなんとなく雑に読んでたなあー」


”遺伝性腫瘍は同じ臓器に発生する非遺伝性がんに比べて悪性度が高いというのは誤りで、多発・再発しやすい、若年発症という傾向はあるが、必ずしも悪性度や予後は悪くない。」


ぼく「確かに確かにー」


”ゲノム解析不可の原因(肝胆膵外科症例)としては、DNA integrity number (DIN)が3.0未満の症例が6割を締めており、HE標本をみると細胞融解像が確認される”


ぼく「はー専門用語だとそういうことになるのかー」



みたいなかんじである。病理医ならチョロいし、最近医学部できちんと勉強した学生や研修医なら普通に読めますが一般におすすめできる本ではないですのでお気を付け下さい。責任編集の田中伸哉先生は20年前からロックフェラ大学の花房研究室まわりの学術業績についてめちゃくちゃ詳しかった(留学していたのだがそれにしてもすごかった)ので、序盤のがん研究の歴史を読むと、あー、田中先生がずっと言ってたエピソードがこんな本になったんだなあと感慨深いものがある。


なおたまにおもしろエピソードも載ってるぞ。ゾウは染色体が56本もあって、人間の44本より多いのに、がんになりにくい。なんで? と思ったらTP53が20コピーもあるんだってさ、へぇー!!

2022年1月6日木曜日

みかんシワシワ

ワクチン3回目を打ったが、副反応は注射部位周囲の軽い痛みのみ。翌朝は早い時間から雪かきをして出勤した。今、特に腰まわりがバキバキだが、これはあきらかに「雪かきの主反応」であってワクチンの副反応ではなさそうである。


職場の近い範囲を見回しても、2回目以上に強い副反応が出た人はいない。2回目と同じくらいの熱が出た人はいたが、さすがにみんな慣れていて、その人が休むことに理解は及んでいる。みんな粛々と、言われたタイミングで、言われたワクチンを打って、何事もないかのようにふるまっている。


ギャンギャンうるさいのはごく一部の、延々とSNSに張り付いている人たちだけだ。


ただし、個々人に話を聞くと、もちろんそれなりに「考えるところがある」というのは伝わってくる。

みんな、安心と不安の両方の気持ちをもったまま、それでもなお、「全体としてぼうっと眺めてみてみると」、粛々と、言われたようにワクチンを打っているのだなあ、ということが、個別に話を聞いてみるとよくわかる。





人間の脳はほんとうに不思議だ。ぼくらは、自分の脳のブラックボックス部分によって、たとえば「おいしいものをたべた!うれしい!わーい!」というように、一本道の連鎖反応、できごと→感情→行動の因果関係みたいなものを、当然のこととして味わわされている。世の中に、因果関係のすじみちが満ちている「かのように」、みずからの脳に錯覚させられている。しかし、たぶん、本当は違う。ぼくらの脳はきっともっとずっと複雑なことを、複雑なままに、放っておいている。そこに一本の通路はないのだ。因果は絡みあう蜘蛛の糸であって単一のベクトルではないのだ。


ぼくの手元に、みかんがある。朝の雪かきがひどくて、朝飯を食うヒマがなくて、出勤中に車の中で食べようかなと思って、冷蔵庫の中から取りだしてきた朝ご飯だ。でもこれを眺めているのは夕方。みかんおいしそう。食べたい、という気持ちは朝からあった。しかし、車の中でみかん食べたらお腹のあたりにみかんの白いヤツ(アルベド)の粉みたいなのがかかるだろうからいやだ、という気持ち、ついたからなんだってんだよ、そんなの車をそうっと降りてからほろって落とせばいいじゃないか、という気持ち、運転中にみかん食ってる中年ってどうなの、という気持ちなどがいろいろないまぜになって、それらを、脳は統合しようともせず、雑多なまま、ふわりと受け入れて、「とりあえずあとにしよう、あとでみかん食おう」と、選ぶ……というか、クルクルまわったルーレットの針が止まったところに向かってなんとなく一歩を踏み出した結果、夕方のぼくの手元にみかんがある。


ワクチンを打つというのもこれと似ているような気はするのだ。


さらに言えば、一定の確率でワクチンを打ちたくない人があらわれる「理由」も、必要以上に不安を煽る人が出てくる「理由」も、逆にワクチンを絶対打ちなさいと強い言葉で言いすぎてかえって嫌われてしまう医療者がいる「理由」も、一本の因果で説明できるものではなくて、みんな、複雑ななにかから「なんとなくはじき出された暫定的な結果として」ここにそうやって多様に存在しているんだろうな、という確信のようなものはある。

2022年1月5日水曜日

病理の話(613) ケアとキュア

年始なのでフワッとした話をします。別に年始じゃなくてもよさそうだが。


ふだん、健康で暮らしている人たちは、病院で何が行われているかについてそこまで興味はないと思う。そうやって、病気のことを忘れている人を、むりやりとっつかまえてきて、「病院では何をやっていますか!?」と質問したら、たぶんその人はかなりの高確率で、


「びょ、病気を治す……」


と言うだろう。


病気を治す、「悪くなったところを良くする」。これが、病院のお仕事として一番わかりやすいことはまちがいない。英語では「キュア」という言葉をあてる。

ただし、病院の中で行われていることは「キュア」だけはない。「ケア」があるのだ。

バファリンは半分がやさしさでできているというが、ビョウインは半分がケアでできている。


ケアは、病気を「直接治す」行動ではない。病人をいたわり、サポートする行動全般をさす。

ケアは病魔を直接攻撃するものではないが、闘病生活を楽にして、患者が病気を乗り越えていくための体力と気力を補う。

病気をいかに克服していくかを、戦争にたとえると、キュアは、病気に向かってマシンガンやナパーム弾を撃ち込むことだ。これに対し、ケアは、兵士に食事を行き渡らせたり、野営地を整備して良質の睡眠を確保したり、物資の移動を行って軍隊の中に行き渡らせたり、お笑い芸人を呼んで慰問をする、などにあたる。ケアがなければ戦争そのものが成り立たなくなる。ケアがしっかりしていれば、もし万が一、キュアがいまいちだったとしても、軍隊が大崩れすることはあまりない。



「ケア」という言葉は、日本語ひとつで表すのがちょっとむずかしいので、一般的にそのまま「ケア」と呼ばれることが多いのだが、むりやり日本語にすると、いたわること、サポートすること、やさしさを行き渡らせること、という意味になるだろう。ぼくは「手当て」のイメージを持っている。手を当てるだけで病気は治らないけれど、手を当てるだけで大人も子どももみなほっとするだろう。ケアは「手当て」と同じ効果を、手を当てたり当てなかったりしながら成し遂げていく。キュアのことばかり考えて、患者に対して手も当てないような医療はどこか冷たく感じる。



病院の中で、「キュアの指揮を執る」のが医者だ。病院=医者がはたらくところ、みたいなイメージもあるけれど、実際には、病院の中には医者の10倍くらいの看護師がいるし、栄養士がいて、理学療法士や作業療法士、言語聴覚士などさまざまな資格者がひしめきあっている。事務職員や清掃職員などもふくめて、病院の中で「なんらかの仕事をしている人たち」の大半は「ケアの担い手」である。

そして、「優れた医師」もまたケアを担う。この「優れた医師」というのがポイントだ。普通の医師だと、キュアに忙しくて、キュアに目がくらんで(?)、ケアまで気が回らなかったりもする。



昔、『病理医ヤンデルのおおまじめなひとりごと』(大和書房)という本の中で、「患者は入院する前には名医を探すが、退院したあとには名看護師に感謝する」という格言を紹介したことがある。いい言葉だろう。ぼくが考えたんだけど。キュアを求めて病院に来て、良質なケアに支えられて、キュアもなんだかいつの間にか行われていて、気づいたら治っている、というのが、「病院で起こっていること」なのだ。みんなもキュアだけじゃなくてケアのことをもっと知って欲しい。プリキュアの新作でプリケアが出てくればいいのに。

2022年1月4日火曜日

レーズンパンは見た目で損してると思う他者

目や耳、指先、鼻、舌。人間にはたくさんのセンサーがあって、これらで世界を感じ取っている。


感じて、考えて、「反応」を運動神経に流し込んで、筋肉を動かして世界に介入する。


すごい仕組みだが、おなじことはロボットでもできる。ルンバなんかセンサーを使って周りを認識してゴミを吸って動き回っているからな。


ぼくが、「高性能なロボットではない理由」を説明するのは難しい。



もっとも、ぼくの「センサー」は、ロボットが持つセンサーとまったく同じ働き方をしているかというと、たぶん、違うと思う。たとえば、目。光を取り入れるというのも難しい考え方だ。光を手でもって脳に運んでいるわけではない、光のほうから飛び込んで来る、しかし光って四方八方に飛び散っているだろうに、そのどれがうまいこと目に飛び込んでくるんだか、考え続けているとぼうっとしてくる。よく考えるとここですでにメカニズムがあいまいである。

ついでに考えると、センサーというのはどこからどこまでのことを言うのだ?

網膜の細胞が反応して、電気信号を出して、神経を伝って、脳に届いて、それがナンチャラ変換をされて……。このどこまでが感覚器とよぶべきものに相当するのだろう。



ぼくから見た空の青さと、ロボットが認識している「青」とはおそらく同じ意味ではない。それと同じで、ぼくとあなたが見た空の青さが同じであると信じる根拠もない。

このことを、「クオリア」みたいな雑な概念ひとつで知った気になって、遠い目をするのは、まあ雑学趣味としてはよいかもしれないが、思索をそこで終わらせるのはもったいない。



「世界はぼくによって、ぼくなりの意味を発見される」

「ぼくではない誰かは、ぼくとは違う、その人なりの意味を世界に見出す」

このあたりのことは、センサーのたとえではうまく説明できない。


もう少し具体的にかんがえてみる。

たとえば、ワクチンという言葉を、あるいはワクチンの現物を目にすると、ぼくは「人体の免疫の一部を強化して、特定の病原体に対する抵抗力を強める便利な道具」という意味をとりだす。

しかし、同じワクチンという言葉から、「権力に虐げられる民草の象徴」という意味をとりだす人もいる。得たいのしれないものを体に入れられて、何が起こったかもわからないし、「打てと命令されているような気分になるのが不快だ」と、怒り出す人もいる。

ぼくとその人の「センサー」にはほとんど違いがないはずだ。でも、なぜこうまで受け止め方が違うのかと考えるとき、「センサー」の理屈だけでは説明しきれるものではない。「世界の意味は受け止める人によって多様にひらく」、これを感覚器センサーと脳プロセッサのたとえで説明しきろうと思うと無理が生じる。



世界はそこに人がいてもいなくても、無数の意味をすでに内包しており、たまたまそこを通りかかった人、虫、犬、あるいはルンバが、「取り出せそうな意味」を勝手に取り出して自分の中にしまいこむ。あるいは、世界の中から自分にマッチした意味の部分だけを取り入れて自分を拡張する。視座が違えば世界の提示する意味がかわる。ぼく以外の誰かが、世界からどのような意味を受け取っているのかということを、しっかり考えると、とたんにその「誰か」がとほうもない「他者」に思えて、震えが来る。



そういう本を今、がんばって読んでいる(この記事が公開になる年明けには読み終わっているだろうか)。ぜんぜん意味がわからなくて笑える。とてもおもしろくて、何度も何度も同じ一行を読んでいる。「まるで意味を取り出せない世界」なのだ、となればぼくは、この本から意味を取り出せる自分になりたいものだなと思う。


http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27028.html