2022年6月30日木曜日

病理の話(672) コミュニケーションするかしないか選べるということ

病理医の仕事において、「主治医とのコミュニケーション」はかなり大事だと思っている。顕微鏡を見て考えたことを診断書(レポート)に書き、病名や分類を正しく伝えることで、ぼくは、はじめて医療の役に立てる。


しかし、中には、「人とあまりコミュニケーションしたくないから病理医を選んだ」という人もいる。顕微鏡を見て、教科書と見比べながら、ひとり静かに考えて仕事をすることに魅力を感じてこの世界にやってきた人。


たしかに……そういう働き方もまた、可能な世界だなあと思う。



最終的に主治医に診断内容を伝える段になっても、たとえば箇条書き、リストの穴埋めみたいな感じで、日本語を練り上げることなくチェックを入れていくようなやり方もある。

「毎日主治医と電話で相談しながら病理診断をする」というのは、別にスタンダードではない。ぼくがたまたまそうやって働いている、というだけのことだ。


このことは、病理の世界を考えて行く上で、けっこう大事なポイントかもしれない。


ぼくは、自分の執り行う医療のポリシーとして、「コミュニケーションを重視する」ほうだけれど、これはじつは、「コミュニケーションを絶対善と考えている」わけではない。

コミュニケーションをとるのが苦手な、あるいは、嫌いな人に、「この世界でも必ずコミュニケーションを取りなさい、そうしなければ病理医としては働けない」と言いたいわけではない。

というか、むしろ、病理医とは、臨床医の仕事とくらべて、「コミュニケーションを多くとる・あまりとらないを選べる仕事」である。



ぼくは自分の病理診断を多くの人と共有し、臨床医のもつ疑問を吸い上げて一緒に悩むことがこの仕事の醍醐味だと思っている。

しかしその一方で、たとえば病理AI(人工知能)の研究をしているときは、ひたすらバーチャルスライド(PC上にとりこまれた病理画像データ)とにらめっこをし、論文を読み、書き、少数の共同研究者とだけSlack上でディスカッションをするだけである。1日ほとんど無言のまま働いていることもある。

たぶんこの「コミュニケーションをとる回数を減らせる」ことも、間違いなく病理医の特性のひとつである。




よく若い医者に言う言葉がある。

「君ら臨床医が、手技や処置を覚えるために毎日汗をかいているのを本当に偉いと思う。そして、ぼくら病理医は、その技術研鑽の時間をほとんどすべて、読んで考えて書くことに使える。だから、病理医は、どんな臨床医よりも、読んで考えて書くことが得意じゃなきゃいけない。そうしなければ臨床医と同じ免許を持って働いている甲斐がない」

この中に「コミュニケーション」という要素はあまり入っていない。

ぼくはたぶん、病理医に特有の、「プレパラートと参考文献としかコミュニケーションしない時間」のことも、たぶん好きなのだ。



だから、コミュニケーションが苦手だなと思っている人にも、ぜひここを味わって欲しいなと思う。

2022年6月29日水曜日

集中力ブームの終焉をめざして

「気が散ることの効能」はおそらくあるだろう、という話をする。


われわれ人類には、おそらくけっこうな幅のバリエーションがある。同じヒトと言ってもわりと違う。

たとえば、

「集中して何かをすることができる人」

「どうしてもひとつのことに集中できない人」

とがいる。

両方いる。

この世の中に、両方いるということは、すなわち、「どちらかが社会生活上圧倒的に不利なことはなかった」ということなのだと思う。

仮に、どちらかがすごく不利だとしたら、適者生存の過程で淘汰されてきただろう。

「両方いる」ということはつまり、正味で見てみると、「どちらが有利とは言えなかった」からなのだろうな、ということを考える。



とはいえ、この世は「集中力勝負」なのでは? という疑念がいまだに拭えない。

学歴にしても、クリエイティブにしても、あるときにガーッと集中して成果をあげられればよし、途中で気が散ってしまえばそれまで、みたいな話ばかりを目にする。

小説でもマンガでもそうだ。

主人公はたいてい、「何かに没頭する者」として描かれる。最初は気が散っていたとしても、話の流れのどこかでは何かに熱中し、何かを克服していくのだ……。

そして、そのようなストーリーが頭に擦り込まれるから、なおさら、ぼくは「この世は集力勝負なのでは?」という錯覚に陥っていく。



気が散ることの効能はおそらくある。それはたとえば、「何かに集中するというのは、そのまわりにある繊細なニュアンスを無視することだ」というたとえ話で語ってもいいし、考え事をしながら歩いていて電柱にぶつかった、というような実例で語ってもいい。

学習についても同じなのである。ごく短い期間で、大人が決めたカリキュラムに沿って、必要とされるものだけを学ぶときには集中は便利だし、そうやって社会のある程度決まったレールに自分をフィックスさせるといいことがあると、小さい頃から社会に教え込まれてきたからこそそれが一番だと思っているだけで、実際には、「学校の教育はそれはそれとして、ときどき関係ない部分に気を散らしていくこと」ができないと、思考の範囲がどんどん狭く、画一的になっていくばかり。

欲しいのが金と名声だけならばそれに集中すればよい。

しかし、光景に対して驚くことや、情感をなでまわして違和を愛でること、偶然飛び込んできたものを取り込んで自分の境界をぼんやりさせることなどは、集中していては、できない。



気が散る人間を大事にすべきだ。気が散ることは誰あろう社会にとって大事なムーブである。集中の跳梁を許すな。集中ばかりに金を投じるな。


ぼくが今ベストセラー作家だったら、「散漫力」という新書を書いて一儲けするだろう。気もそぞろになりながら、「はじめに」を書き終わったあとに旅に出てしまうくらいに気が散ったままの状態で、「注意が散漫でありつづけることの効能」について、語り倒すのだ、大いに脱線しながら。編集者は胃に穴が空くかもしれないがそれは集中しすぎることによる副作用なのである。

2022年6月28日火曜日

病理の話(671) AIによってなくならなそうな医療

昔から伝わるさまざまな診察技術がある。患者のお腹のどこかを押すと痛がる、だからそこに病気があるだろう、くらいにわかりやすければ医学生でなくともすぐ覚えることができる。しかし、診察というのは奥が深い。

「患者を左側臥位にする(左向きに寝かせる)」

「右下腿を伸展させる(右脚をピーンと伸ばしてもらう)」

「股関節を過伸展させる(脚を伸ばしたままおしりの方向に(医者が)手で押して反り返らせる)」

「右の下腹部に痛みが出れば腸腰筋に炎症がある」

くらいのものが山ほどある。これは大変だ。患者と医者が協力していろいろ手順を踏まないと、筋肉の異常ひとつ感知できないというのだから難しい。実際、昔の医者はこういうのをひとつひとつ覚えて、ベッドで患者に診察をしていった。


しかし現在このような手技は、(いくつかは便利に用いられているけれど)少しずつ廃れつつある。……なーんて言うと、歴戦の内科医や外科医は間違いなく怒るのだが、現場の実状としてはこの30年で大幅に廃れた。「名医」でないかぎりできない診察、というのが増えてきていることは間違いない。では現代の医者は診察なしにどうやって医療を行っていくかというと――

超音波やCT、MRIを使う。

画像検査をすれば良い、という考え方だ。

しかしこれがまた泣かせる話につながる。

「診察だろうが画像だろうが見逃しはある」

ので、めんどうなケンカが起こる。


臨床現場ではたまに「画像では見逃していたが、名医があとから丁寧に診察したらわかった」みたいなケースがあるのだ。そういうときは、名医が鬼の首をとったように、

「ホラ! 若い医者はすぐ診察を軽視して画像に逃げるけれど、こうして、画像で見つからない病気だってあるのだ!」

と説教をする。しかしこれはぶっちゃけずるい言い方である。なぜなら、逆のパターン、すなわち「診察では捉えきれないけれど画像検査では見つかる病気」も山ほどあるからだ。

けっきょくのところ、身体診察と画像検査というのはお互いが補い合うものである。どちらかをやればどっちかは省略できるという類いのものではない。

となると今の医者は、診察も覚え、画像も覚えるしかない。覚えることが増えていけば自然と……少なくとも「空前絶後の記憶力」がない限り、必ず何かを取りこぼす。

では空前絶後の記憶力を持っている医者というのはどれくらいいるのか? じらさずに答えを言えばそういう人はいない。「いない」。大事なことなので2回書いた。人間の脳には限界がある。これは自明である。円周率を5万桁暗記できる人が世の中にはいるらしい(適当に書いていますが)。それがどうした。現在、円周率は100兆桁まで計算されている。つまりは人間の脳なんて「世の中の真理の一部分をかするのが精一杯」である。

では膨大な診察技術と、増え続ける画像診断学にどうやって対応するのか? 人間の脳がすべてに対応するのは無理、であれば、一部をコンピュータに肩代わりしてもらうことになる。こうしてさまざまなAI(人工知能)技術が臨床現場に入ってくる。


AIがいれば人間は働かなくていいと思っている人の数はだいぶ減ったと思うが、まだいるようだ。ところが話はそう楽観的ではなくて、AIと脳とを両方全開でぶんまわしてもなお医療というのは奥深く、AIのサポートなしでは厳しいのはもちろんだが、AIだけでも対応はできないのである。実際に開発に携わってみればわかる。診断精度が99%のAIも、1%外すのだから怖くて怖くて。

診察、画像診断、それらを統合するAI、どこまでいっても、「ああ、なんかまた増えたなー」というのが現状の医者の実感なのである。ただまあ今までの画像診断と比べてもAIはかなり強力だ。モビルスーツでいうとガンダムくらい圧倒的である。だからといってガンダム一機では戦争は終わらずアムロもシャアも延々と新機種で戦い続けていたのだ。AIはガンダムである。「最後の(戦争を終わらせる)ガンダム」というのがいないことを考えれば、AIがすべてを置換する未来はこないだろうなということが遠回しにわかる。


将来もっともっとAIが進歩するとどうなるか? 未来のAIはきわめて合理的な判断として、「診断を確定させるために○○科の医師が診察をしてください」などと命令を下したりもすると思われる。「エコープローブをこの位置にあててください」とか。将来、医者という職業がこなす仕事の一部は順次AIに置き換わっていく、これは間違いない。診察が少しずつ画像に駆逐されているのと似ている。そして診察が今でもなくならないのと同じように、人のやる仕事も一部は残るだろう。

昔ながらの内科医は言う、「今なお診察はとても重要だ」と。まったくそのとおり、しかし、きれいごとはともかく、今の若い医者は診察がへたくそなまま医者になり、それでなんかうまいことやっている。

AIというのもそうやって、診察や画像診断を少しずつ、少しずつ置換していく。

最終的に医者の仕事はどこにたどり着くかって? 患者とていねいに腹を割って会話をして、日々の生活をどうしていくべきかと落としどころを相談するカウンセラーとしての役割……これはAIにはなかなかできない。「人間味」がいるのだ。ペッパー君にはぼくらの気持ちはわからない。もっとも、患者とのトークスキルは看護師のほうが高いけれど、「医者が偉そうにしゃべること」で納得する患者もいるので、医者が話すという役割はなくならないだろう。

あともうひとつ。現代の患者の苦しみをどうやったら解消できるだろうと、病気や症状を研究して、新しい診断や治療のありようを開発していく仕事。これが一番なくならないだろうと思う。


https://news.yahoo.co.jp/articles/a54a52c5b8953447331184ecb799f621bc44fc82 

上記はスイスの研究機関による報告……のヤフーニュース。これによると、

【ロボットやAIによって消えるリスクが低い仕事】

 1位 物理学者

 2位 神経科医

 3位 予防医学専門医

 4位 神経心理学専門家

 5位 病理医

ということだ。1位が学者である。学者の仕事はAIでは置換不可能だろうというのはわかる。2位以下は医者・医療従事者だが、神経科医・予防医学専門医・神経心理学専門家というのはいずれも、「難治もしくは長い目で患者と関わる必要があり、患者との関係が複雑になる科」なのですごく納得できる。その次に出てくるのが病理医だ。

ここにはいわゆる内科医も外科医も、産婦人科医も小児科医もランクインしていない。手術はAIに代わられる。あるいは、AIが指導し、手先の技術は専門の技術職員が担当する、ということでいける。「手術士」みたいな資格が別に登場するのだ。手術士になるには勉強も大事だがとにかく手先の技術が必要。e-sportsのランカーレベルの人が就職する人気の職業になるかもしれない。それは医者である必要はない。外科医の仕事は細分化されていくだろう。手術のために診断をする仕事と、入院患者を病棟で管理する仕事、そして、AIが対応できない「緊急オペ」……いや、緊急オペこそAIの出番だろうし、ロボット手術が当たり前となった昨今、緊急時だけ上手に手が動かせる「医者」というのがなかなかイメージできない。徒弟制度で大学卒業後からすぐにシミュレータで手先の訓練をしまくるタイプの職業が新設されるべきではないかと思う。外科技術が医者の手に残る可能性は低いかもしれない。そう考えれば、このランキングの中に外科医が入ってこない理由は納得できる。

そして第5位に病理医が食い込んでくるというのがおもしろいし、ぶっちゃけぼくには納得できるのだ。病理診断AIがこれだけ開発されている今、それでも病理医という職業が残る理由。それは病理医の本質が「学者」だから、あるいは、臨床医とトークすることで進めていく仕事だから。

元論文を読んでみたかったが、有料なのであきらめた。ほかの論文では病理医がなくなると書いてあるかもしれないから、ま、今日のはあくまで「話半分」で。

2022年6月27日月曜日

全部は無理だ

たまに講演のプレゼンや論文のプレスリリースなどをツイートすると、「本名出てますけれど大丈夫ですか?」というご心配をいただくことがある。「病理医ヤンデルでググれば本名くらいすぐ出てくるので大丈夫です」と答える。

もっとも、ぼくがTwitterをはじめた11年前とは違い、いまは「ググることすら面倒」な時代なのかもしれない。流れてきた断片的な情報だけで判断することに誰もが慣れきっている。

学者や研究者などが、記者会見やインタビュー記事などで「自分の発言を切り取られた」と言って怒るのがかつては風物詩だった。でもちかごろは、切り取られるのが当たり前だということが知れ渡ったためか、かえってそのような「切り取りによる悪」みたいな言質をTwitterで見る機会が減ったように思う。

今、自分の発言を恣意的に削られて改竄されたと怒っている人達の多くは、そういう切り取りがなくても何か別の理由を見つけて怒っているような人ばかりだ。切り取られるのがデフォ。一部分でしか語られないのが前提。

そのことをとっくに学習しているはずなのに、あえてまだ知らないふりをして、怒っている人たち。

昨日、自分の学術的発言の一部をマスコミが切り取ったと激怒していた人が、今日、芸能ニュースを見て「あの芸能人はむかしからおかしいと思っていた」と、情報の一部だけを見て知った気になる。

誰もがググらない。

深意に興味がない。

それでいい気がする。

それに備えるほうがいい。

ぼくの自宅をつきとめるために後を付けたストーカーが先日逮捕された。

部分しか見ていないのに全部見た気になっている愚。

かなしい笑い話である。

ぼくをググったところでそれはぼくの全部ではない。

じつはググっても「浅い愚」が「深い愚」になるだけなのかもしれない。



一部しか伝わらないことを前提として動く。ただしそこには全力をかける必要がある。「どうせ伝わんねぇから」という気分だけ伝えてしまってはいけない。そういう広告、そういう人間を見ることがあるが、みな、くちびるの周りに妙に脂分が多い、代謝の狂った表情をしている。ああはなりたくない。「ああ」というのもまた一部分でしかないのだけれど。

2022年6月24日金曜日

病理の話(670) 切り方によって見え方が違う

誰がおもしろいかはぜんぜんわかんないけどぼくがおもしろい話をする。



胃カメラや大腸カメラを使って、粘膜にある病気を切り取ってくる治療法がある。病気がたとえ「がん」であっても、小さくて周りにしみ込みすぎていなければ、この方法で、おおがかりな手術をやらずとも、臓器をまるごと取らずとも、治せる。便利だ。


こうやって取ってきた粘膜を、病理医が調べる。

病気がどのようなものなのかをきちんと見て、再発のリスクが高そうか、じつはこっそり周りにしみ込んではいないか、などを検討する。

まず、取ってきた粘膜を一眼レフでばっちり写真に収める。このとき、マクロレンズ(花とか虫などを接写して撮るやつ)を用いて、なるべくきれいに大きく映すのが大切だ。




黄色い部分は内視鏡医が病気だと思っている領域。白い部分は「正常の粘膜」。病気だけをギリギリ取ると取り残したときに「再発」してしまうので、のりしろというか余白というか、とにかく、病気の周りのなんでもない粘膜をも数ミリ一緒に取ってくるのがコツである。

矢印をつけた部分だけ色が少し違う。

この部分は、内視鏡医もすごく気にしていた。カメラで見たときにも、病気の端っこの部分だけ、様相がちがっていたのだ。

だったらそこにはきっと何かが起こっている。

それを解き明かすために顕微鏡で観察しよう。ただし、直接粘膜を顕微鏡に載せてしまっては、拡大倍率をあまり上げられない。虫メガネ的な拡大では光量が足りないので拡大に限度があるのだ。何百倍にも拡大して観察しようと思えば、検体をうすーく切って、下から強い光をあてて、透過光を見る方法でなければうまくいかない。

そこで検体を処理する。具体的には、取ってきた検体を、短冊状に細かく切る。


こんなかんじだ。


短冊状に切って、パタンパタンと横倒しにする。

これを臨床検査技師が、カンナのような道具でうすーくペラペラに切って、ガラスプレパラートに載せて色を付けることで、ようやく顕微鏡で観察できるようになるのだ!


……いや、ちょっと待ってほしい。上の図、お気づきだろうか?



よく見ると……特に調べたかった場所、オレンジの矢印の部分が、短冊の切れ目のちょうど間に入ってしまっている。

これでは、カンナをかけて作ったプレパラート上に、オレンジの部分が出現してこない。

つまり、顕微鏡で観察することができない。




病理診断は「観察したい場所を的確に標本にする」ことからスタートする。いつもこうやって短冊に切ってるから大丈夫だろう、ではだめなのだ。病変をちゃんと見て、「ここに勘所があるだろうな」と予測して標本を切らないといけない。

たとえば今回の例ならこのように切るべきなのである。


一番見たいオレンジ矢印の部分(興味領域とか関心領域と言う)を通るように切る。しかも、病気の部分をなるべく多く観察できるように向きに気を付けて少しななめに。さらには、病気の情報を少しでも多く見るために、オレンジ矢印の部分を中心に、「観音開き」にすることで、1つの切り口の両側を見る。

こうすれば、内視鏡医も病理医も、プレパラートからより多くの情報を得ることができるのだ。




えっ地味……って思った?

でも、これをやってない病理医は、診断は正確かもしれないけれど、臨床医の細やかな疑問に答えられないってことだから、すごく大事なんですよ。ぼくはおもしろいと思うなあ。




2022年6月23日木曜日

感情言語化研究所の運営

「たたらじ」というYouTubeラジオを聴いていた(この回 https://youtu.be/Sv4qkoWcIR0 )。冒頭のられられられ~んで数人の心が折れるとは思うが、だまされたと思ってそのまま聴いてほしい、必ずおもしろい。我々がやっているポッドキャスト「いんよう!」が理系メガネで世の中を3D視するようなラジオだとすると、たたらじは世のカーテンのひだの裏に言語ドローンで入り込むラジオである。作詞家・シンガーソングライターの畑亜貴さんと芸人サンキュータツオさんはどちらも言語受容体が過剰発現している人類のバリアントで、天変地異によって人類が滅びるときにはおそらくお二人とも普通に死ぬと思うが、天変地異ではなく人類に依る理由で人類が滅びるときにはお二人は他者とは違う視座と言語センスによってなんとかして生き残るのではないかと思う。


上記で紹介した回がほかの回とくらべて特におもしろいというわけではなくて、単にこのブログを書いている時点での最新回なのだけれど、最新回をひとまず勧めておけば間違いないというくらい、毎回クオリティが安定している。この回では、冒頭のハイタッチのくだりなどで一笑いし、ご飯に塩ごま油をかけるくだりやピーマンとウインナーを炒める代わりにキャベツを用いるか問題にいつしか没頭してしまうのだけれども、その後、リスナーからのとあるおたよりに対し、「リスナーの感想によって自分のやりたかったことが言語化される」という現象に言及したくだりでぼくは他にやっていた仕事の手が止まってしまった。


たしかにそういうことがある、と、時を止めて思索をフル回転させなければいけないくらいに受け止めたのである。


世はクソリプ全盛時代で、SNSの功罪のうち罪の部分では必ず「何かをすると外野から余計な人が飛びかかってくるので無視しましょう」と対策が講じられていたりもする。ぼく自身、なぜこいつは背景の文脈を知ろうともせずに瞬間的に一部を切り抜いて自分なりの解釈をごり押ししてくるのかと不思議に思うこともある。しかし、一方で、自分をすみずみまで見るには鏡を少なくとも2枚用いなければいけないように、自分自身や自分の行動を自分自身ですべて言語化するというのは無理であり、他者のリアクションがあってはじめて見えてくる自分があり、まれに、「自分で何がやりたかったかわからないままやっていたこと」の原理を他者から指摘される、などというミラクルが起こることもある。発信者がいて、配信スタッフがいて、送られてくるお便りのどれを読むかを決める人がいて、読む順番があって、読むための抜粋もあって……といろいろ制限と縮約をかけているにせよ、リスナーからのお便りによって音楽家が「なるほど私はたしかにそういう曲を作りたかったのだ」と気づく瞬間というのは真に尊い。至高の発信者・畑亜貴でなくとも、我々もそれに似た至福を味わいたいと思ったらやはり外界との連絡を絶ってはいけないなあと考え込んだ。世間との過剰な接続を定期的に切断しつつも、形状やサイズに流動性のある窓をいくつか解放しておくことの必要性。


現在はクソリプ全盛時代であると同時に、過去最高に「言語化全盛時代」でもある。無論、発信に対するハードルが下がったためであり、受信数が爆増して他者の言語に触れる機会が増えたことも大きいだろう。もっとも、発信に用いるのは言語だけではない。踊ったり着飾ったり裸をさらしたりといった身体性に依って発信することもできるし、歌ったり絵を描いたりという非言語的な表現に依って発信することも可能ではある。ただ、TikTokが踊るツールだと思っているのが中年だけで実際には短時間のトークが花盛りとなっているのを見てもわかるように、自分の中から湧き出てくるものを表現する上でもっともカロリーが少なくてすむのが一般的には肉声で発話することであるから、やはり主役は言語なのだろう。ことあるごとに「どう言葉にしたらいいか」が命題として脳内液晶パネルに表示されるのも当然のこと。

その上で、「たたらじ」を聴いて思うこと、言語化とは「何かを完璧に言語化した瞬間が気持ちいい」という一面だけで駆動されるわけではなくて、「何かを言語化していく過程で、それまでもやもやしていたものの正体が一回り大きなもやもやによって支えられていることがわかる」ときの脊椎をなめられるような畏怖に近いぞわっとした何か、あるいは、「コアの部分を言語化したと思ったらそこから伸びる無数の触手的何かを言語化しなければいけないことに気づいた」ときの顔がフラッシュする感覚、つまりはそう、「うまく言えた! けど、となると……」の、「となると」の部分に、アドレナリンを放出する何かがあるのではないか、ということである。


自己啓発本的なブログを読んでいると「言語化しましょう」という結論がエゴのタツノコの如く湧き出てくるのだが(タツノコプロは自分勝手な作風の名作アニメをたくさん世に出してくださいました)、うわー言語化できたーと喜んでいる「発信者」はたいがい言語化し終えることはない、というか、何かをひとつ言語にするとそれをとっかかりにしてまた次の「言語化したいもやもや」が出てこなければ嘘である。それはきっと植物の生長みたいなもので、すでに刻まれた年輪の部分には生きている細胞はほとんどいなくて最外殻の部分にこそアクティブでバイアブルな細胞たちが複雑に増殖をたくらんでいる状態。言語化という行為は「これだけやってもまだ言い表せない!」と、言語化できるかできないかのキワの部分に向き合うときにようやく生命の脈動を喚起するものだ。つまりは感情言語化研究所というものがあったとしたらその研究活動は大学機関のように無限に終わることはないのである。もっと大学に予算を。

2022年6月22日水曜日

病理の話(669) それは丸亀製麺と一緒である

ある病気を顕微鏡でみるとき、病理医はどれくらい細胞のありようをチェックしているのか?


一例として、とある「がん」にかかった臓器を手術で採ってきたケースを考える。


まず、「がん細胞」そのものを見る。がんは正常の細胞とくらべると、形になんらかの「かけ離れ」がある。診断書では「かけ離れ」とは書かずに「異型(いけい)」と書くがおなじことだ。細胞のボディが普通より大きい/小さい、濃い/薄い。細胞の核が大きい、色が濃い、中に見える核小体がやたらと目立つ/でかい。こういった「かけ離れ」をチェックする。

そして、がん細胞がどのように配列しているかをみる。正常の細胞は、部位や働きによって、決まった配列をとる。ジグソーパズルのように平面を埋め尽くすように配列することもあれば、パイプや試験管のように管の形をつくることもある。がん細胞だと、この配列に乱れが出る。ジグソーパズルだが普通のものと面積が違うとか、パイプかと思ったらやたらと分岐しているとか、そういう「かけ離れ」をもチェックする。


これらの細胞異型(いけい)は、がん細胞がどれくらい通常の細胞から隔たっているかを現す。そして、かけ離れが強ければ強いほど、基本的に、がん細胞の「悪性度」は高い。悪性度というのはつまり、どれだけ早く体に悪さをするか、みたいなものだ。


病理診断はこれで終わりではない。


どれだけ早く悪さをしそうか、だけではなく、具体的に悪さをしているところをもチェックすべきである。犯罪捜査では職務質問(悪そうなやつに声をかける)も大事だが、現行犯で犯罪の現場をおさえることも重要だろう。


具体的な悪さとはたとえばこういうことだ。がんがどれくらい広い範囲で正常の臓器を破壊しているかをみる。あるいは、がんがどれくらい「深い」ところまでしみ込んでいるか、という言葉を使う場合もある(これを深達度という)。

さらに、がんがリンパ管や静脈、末梢神経といった、元からあるインフラの中に潜り込んだり、それらを伝って移動しようとしたりする場合がある。これらを現行犯逮捕しておくことが重要だとされる。

リンパ管や静脈、末梢神経を伝った先で、臓器のまわりにあるリンパ節と呼ばれる構造や、臓器の周囲にある別の臓器にしみこんでいるならば、それもチェックする。



だいたいこれくらいの内容を、H&E染色という基本の染色を中心にして病理医は検討する。さらに、近年は、免疫染色や遺伝子検査といった手法をもちいて、がん細胞の「持ち物チェック」をする場合もある。パスポートを見て国籍をチェックしたり(原発部位の確認)、拳銃や麻薬を所持しているならばそいつはだいぶ悪いやつだろうと見定めたり(がんに特異的な抗原の検査)、スマホを見てどことやりとりをしているかを暴いたり(サイトカインやホルモンなどの伝達物質の調査)する。


これらのすべてを毎回行う必要はないが……。

最近の病理診断は、「どの病理医がやってもある程度クオリティが保たれる」ことを重要視している。できればどの病理医も、ある程度決まった項目をがんばってチェックしたほうがいい。最近は臓器ごと、病気ごとに、「病理医はこれこれの項目をチェックするように」というリストが設定されている。

リストを目にした医学生や臨床医は、しばしば、「なあんだ、病理医ってのは箇条書きのリストを埋める仕事なのかあ」なんて失望したりする。でもこれってすごく大事なことだ。

そもそも医療において、ある病気が「一流の病理医でなければ診断できない」という状態はダメである。全国津々浦々でおなじ診断が行われなければいけない。今目の前にいる患者の中にあるがんを「過去に別の病理医が診断したのと同じやりかたで」診断して比べられることこそが「いい医療」なのだ。これを難しい言葉で「均霑化(きんてんか)」という。全国の誰もがいつでも同じ種類の医療を受けられるように均(なら)すこと。

丸亀製麺は全国どこで食べても同じ味がするというのがすばらしい。医療も丸亀製麺なみに「どこでも同じ味」である必要がある。そうでなければならない。安くて早いことも大切だし。丸亀製麺は医療の目標である。

病理医は、孤高の天才であってはいけない。いや、天才でもいいんだけれど、他の人とまるで違う診断をしてしまうと、それは「これまでの医療の経験を活かせないし、これからの医療にも活かせない」ということになってしまう。だから、いい病理医ほどチェックリストをないがしろにしない。なあに、本当に頭のいい病理医ならば、リストを埋めた後にアンケートのように一言そえる診断コメントの中に、臨床医をうならせるような輝きを秘めるものなのだ。

2022年6月21日火曜日

天職と本道

メインストリームを外れていく感覚を味わっている。いやいやお前はもともと「本道」にはいないだろう、とつっこまれそうだが、世の中のメインかどうかではない。自分の中にある道の話をしている。


今年44歳になるぼくは医師免許をとってから足かけ20年。これまで心の目が向く方にふらふらと歩いてきた。それは心許ないダウジングのような作業で、どっちに歩いたら自分がいちばんワクワクできるのかという基準と言えば格好はつくが、現実には両手に持ったナゾの金属が開くか開かないかに自らの進路を委ねてきたような、これに本当に従って良いのかという疑念と常に戦わかねればならない不安な微調整のくり返しであった。

しかし幸か不幸かぼくのダウジングは打率2割程度ではあるがそこそこ役に立った。これでよいのかと首を捻った病理診断科への就職も今となっては天職としか言いようがないし、真夜中に根を詰めて家族を失ってまで続けた臨床画像・病理対比の仕事も確実に自分の歩ける範囲を広げてはくれた。後悔も膨大だがきっとどちらに向かって歩いてもぼくは後悔しただろう。それはしょうがない、過去に戻ってもあきらめる気にはならないが、今となってはそういうものだったと達観するしかなかった部分もある。

そうやって歩いてきた道のりは確実に「ぼくのメインストリーム」であった。たしかにここを歩いているのはぼくであるという、不安と葛藤、そして決意のようなものがいつもミルフィーユのように折り重なってぼくと併走した。

ただ、近頃のぼくは、まだもう少し歩けるかも知れないと思える自分の本道を、外れるではないにしろ、少し歩むスピードを落として、ときに道ばたに呆然と立ち尽くして、あるいは路傍のベンチに腰を下ろして少し遠くを見たりしている。

理由のひとつは、歩き続ける足腰がやられてきたからだ。まだ早い、と正直思った。

しかし、この道を他に歩く人もいるんだということを思うと、まだ歩けるまだ歩けるとここから20年がんばるのも捨てがたいけれども、そろそろ道の脇にそれて道を管理するほうの仕事に回ってもいいのかもしれないという気持ちが強くなってきて、抑えがたくなった。

サポートこそがぼくの本当の天職なのではないかという思いがある。


ぼくはかつて病理医を軍師にたとえ、「戦場で敵を破る将軍に指令を与え、直接自分で武器を持って戦うわけではないが、知恵を以て戦場を支配する仕事」だとうそぶいたことがある。そういうのがぼくが本当にやりたい仕事なのだと自分を納得させてきた。しかし今になって思うこと、自分の本来の「気性」が必ずしも「軍師」すら望んでいないということ。

ぼくはおそらく道の整備が好きなのだ。若い頃は、自分の仕事が「縁の下の力持ちだね」と言われてしまうことに多少の違和感を持っていて、「バカ言うな、縁の下じゃない、ぼくらがいるのは総司令室だ」と虚勢を張ってきたけれど、本来のぼくは縁の下のような秘密基地スペースが大好きで、つまりは、みんなが言っていた通りだった。力持ちかどうかはともかくとして、ぼくは縁の下が落ち着くのだ。


今の居場所は「自分が歩こうと思ってきた本道」ではない。いや、居場所はそこでいいのだkれど、歩くのは誰かにまかせようかなという気持ちになりつつある。この道が一番いいと思った気持ちに嘘はない。「この道が最高だから、さあ、いろんな人はここを通ってくれ! ぼくはこの道が最高だと思うけれど自分ではこれ以上歩かずにここを整備するよ」と、神社の参道を掃き清めるようなことをやりはじめている。手にしっくりくるのだ。ほうきが。

2022年6月20日月曜日

病理の話(668) 頭の中でポジとネガを入れ替える

画板に画用紙をはさみましょう。

あの……上のところに、指を挟んだら痛いタイプのでかいクリップがあるでしょう。トムとジェリーに出てくる、チーズを取ったらシッポをバチン! と挟む罠みたいなやつ。あれに画用紙をはさみましょう。

白くてちょっと粗い「地」の紙に、風景を模写していきましょう。

あなたの前には大きな木があります。それを描きましょう。

鉛筆であたりをとるところからはじめましょう。

木を描くときには、葉っぱの外側の輪郭を描くだけではなくて、幹や枝も描き込んでみて、その上に葉っぱを重ねていった方が、立体的な樹木のありようがよりリアルに描けます。そうそう、根っこもあることを忘れないでください。もちろん土の中は見えませんが、きちんと大地に根を張っていることを意識して木を描いた方がいいです。


葉っぱが光合成をしてつくった栄養が、枝を通って樹木全体に行き渡っていきます。

根っこから吸収された水分も、幹を通って葉先まで行き渡っていきます。



……と、こうして、画用紙の白い「地」の上に、木という「図」を描いていくわけだ。

自分で手を動かして描いた木は、幹、枝、葉、根、さらにはその木に留まる鳥や虫たちまでも、なんとなく思い入れがあるし、どこがどうなっているのかをしっかり考えることができる。

で、このとき、忘れがちなのが、じつは「地」の評価である。

木の背景となる空間を、白のままにするのか、青く塗るのか、それとも夕焼けの色に塗るのか。後ろにも森があることを意識させるためにうっすらと灰色っぽく、あるいは濃紺や深緑に寄せた色を付けるのか。

熱心に木を描くことだけ考えていると、背景をどうするかがおろそかになる。そして、描き込まなかった背景の部分は、あとから思い出して付け足そうと思っても、「そもそもちゃんと観察していない」ので、うまく描き込めないし記憶に残らない。



なんと、病理診断にも同じ現象が存在する。

顕微鏡で見た細胞が、木の幹や枝、あるいは葉っぱに相当する構造を作ることがある。導管とよばれるダクトのような構造や、腺房と呼ばれる「葉っぱに相当する」構造はさまざまな臓器に認められる。乳腺、膵臓(すいぞう)、肝臓、唾液腺(だえきせん)。

これらを観察して異常をみつけだすのが病理医の仕事なのだが……。

病理医になって10年未満くらいの人は、「図」の評価が精一杯で、うまく「地」(背景)を観察できていないことが多い。

図を頭の中で描くのに必死で、地まで意識がおよばないのだ。

そして、この、地の部分にも情報がかなりある。



炎症細胞がどれだけいるか、はわかりやすいほうだ。木に対する虫や鳥みたいなものと考えるとよいだろう。しかしそれだけではない。

浮腫(ふしゅ=むくみ)がどれだけあるか。膠原線維(こうげんせんい)が増えていないか。それらの元になる線維芽細胞(せんいがさいぼう)がどれくらいあるか。細かな血管はどうなっているか。

これらを見極められるようになると、病理診断のキレ味は2倍くらいにアップする。さらに言えば、「病理プレパラートから発想した基礎研究」にもめちゃくちゃ役に立つ。

ただ、言うほど簡単ではない。「図」を解析するのはちょっと勉強すれば誰でもできる(学生でもできる)、まあ、極めるにはそれなりの訓練がいるにしても、見て考えるだけならそんなに苦労はない。しかし「地」の解析はかなり難しい。

「地」に目をやるというのは、写真のポジとネガを入れ替えるくらいの「脳の切り替え」を必要とするからだ。あっ、ネガフィルムなんて今は死語なのかな?




先日日本から出た、とある研究論文。

https://www.nature.com/articles/s41467-022-30630-y

心臓の中にある「心筋細胞」という「図」と、その背景に存在する「線維芽細胞」という「地」との相互作用が心不全というよくある病気において重要なのではないか、とするものだ。

このような「地図両方をみる」研究は、骨髄や消化器などでは10年以上前から行われていたのだが、心臓でもやれたんだなあと思うと感慨深いものがある。ただ、言うほど簡単な話でもない。ネガに目をやれる研究者がいたんだな、それはすばらしいことだ。

2022年6月17日金曜日

ストレスと名医

窓際においてあるミニチュアサボテンは買って3年目になるだろうか、サイズは変わらないが花の咲く頻度は少し減った。あまり針が多くないタイプだったなずなのだけれど、前と比べて少し針が伸びてきたように思う。


昔どこかのブログかツイッターで、「サボテンはストレスが多いと針をいっぱい伸ばす」と書いてあった。ごめん、この環境、ストレスなんだな、君にとっては、と、少しいたたまれない気分になった。


「ストレスというのは本人が自覚できないものである」とは國松先生の弁である。これストレスだわ~、というのではなしに、いつのまにか自律神経の調節が狂ったりサボテンの針が伸びたりするのだけれど自分的にはあまり気づかない。外から見ていると、「へえ、そこが変わるんだ」というふうに、ストレスに応答した体の微調整のようすがわかることがある。そういうものこそがストレスだという。いちいち納得できる。


だからストレスを取り除くというのは難しいのだ。いや、「だから」でつなぐほどの話でもないのだけれど、どれがストレスかなんて自分ではわからないことが多いと思う。

上司がストレスだ、知人がストレスだ、家族がストレスだ、などと、原因がある話ばかりを語りたがるのは人間の性だ。しかし本当のところ、あれとあれとあの色の絵の具を混ぜるとなんだか毒々しくなってしまうとか、あるいは、あの食べ物とあの食べ物を同時に食べると「食べ合わせ」が悪くなって胃腸がやられるみたいに、セットで、組み合わせでストレス化することも結構あるのではないかと考えている。

取り除いたら楽になった、と、原因と結果が一対一で対応するようなものばかりならどれだけ楽だったろう。あの刺激を避ければこの反応がなくなる、といった、自分がまるでロボになって、センサーの上にフタをすればすべての刺激から守られる、みたいに、簡単にストレスを取り除けたらどれだけ人間は単純だったろう。そういうものではないのだ。たぶん、ほとんどの場合。


じゃあどうすればいいの、と焦る心に渡す処方箋。「特段どれに気を付けるというのではなく、ただ、全体的に低刺激にして様子をみる」。ああ、まるで、二言目には運動しなさい睡眠をとりなさいとしか言わずろくに薬もくれない「名医」の言うことと同じではないか。

2022年6月16日木曜日

病理の話(667) 自分を見るのと今を見るのと

胃カメラや大腸カメラによって、患者の胃や腸の中をぐるぐる見回す検査がある。そこに何か病気らしいものがあるとき、スコープの先端からマジックハンド的な鉗子(かんし)を伸ばして、粘膜の表面をちょんとつまんで採ってくることができる。


これを生検(せいけん)という。なぜ生きるという漢字を使うかというと、biopsy(バイオプシー)の和訳だからだ。Bioを「生」と翻訳している。バイオロジー=生理学、おバイオハザード=お生危険。


bioは「生きる」。では、psyの部分は何か? 調べてみるとこれはpsyではなく「opsy」らしい。現代英語のoptical(オプティカル、視覚的な)などにも通じる、「見る」という意味である。


すなわちbio-opsyで「生きているものを見る」という意味になっているようだ。なるほど、「患者が生きているうちに見る」という意味が込められていたんだね。納得。




病理診断学はもともと、解剖検査からスタートしている。今から150年以上前は、生検をされることはなく、というか、そもそも人体のことが今よりぜんぜんわかっていなかったから、とにかく人体の秘密を解き明かすためには解剖が必要だった。Biopsyなんてやってもわからなかったころの話。

解剖検査のことをAutopsy(オートプシー)と呼ぶ。ではAuto-opsyの「auto」とは何か?

じつはオートバイのオートといっしょである。オートバイクとは(エンジンで)自走する自転車の意味。つまりオートには、「自分」という意味がある。セルフ、ともちょっと似ているかも。

香川県ではあちこちに「セルフうどん」の看板が立っている。あれを「オートうどん」としてもわりと近い意味に……ならない気もするが……ま、大枠としては、そういうことだ。



解剖が「自分を見る」という意味だというのが、考えてみると少し意外である。いやいや自分のことを自分で解剖はできないでしょう。ブラック・ジャックじゃあるまいし。ブラック・ジャックは自分を手術こそできたが、解剖はしてない(当たり前である)。

では「自分を見る」というのはどういう意味なのか?



たぶん、「人間が自分たちの体のことを知るために、自分自身のありようをそこに見る」という意味がこめられているんだろうな。動物や魚を狩って、それをさばいたときに内臓や筋肉を目にするように、人間自身のこともきちんと見よう、自分たちのことを見極めよう、という意味。それがオートプシーの語源なのではないかと思う。


で、自分を見るにしても、最初は、死んだ状態でしか調べられなかった。麻酔があったわけではないし、どこかを小さく切り取ってくる外科手術の技術もなかった。しかし、医学の技術が進歩して、患者を生かしたまま、死ぬ前に、「今まさに生きている患者のことを見る」という意味での「バイオプシー(生きたものを見る)」が、あとから爆誕したのだ。




ぼくが昔から鼻で笑ってきた警句に以下のようなものがある。



内科医は何でも知っているが、何もできない。

外科医は何でもできるが、何も知らない。

精神科医は何も知らないし、何もできない。

病理医は何でも知っているし何でもできるが、遅すぎる。



これを取り上げて、「病理解剖なんかしても患者はもう亡くなっているんだから、遅すぎるよねー」みたいなことを言う人がたまにいる。医療者にすらいる。


いやいや、それ、オートプシーの時代の話でしょ。150年前だぞ。


バイオプシーは生きている間に患者を見るのだ。遅いことなんかない。


……じゃあ、病理解剖が「遅すぎる手技」なのかというと、じつはそうでもないんだけど、その話はまたいずれ。

2022年6月15日水曜日

後ろ向きな利己

気の進まない仕事をいくつかこなしながら、こういうのを下に押しつけるようになったらやべえなと思いつつ、この年齢でこのストレスをずっと受け続けていると心臓あたりに悪影響が出そうだからちょっとくらい負担を下に持ってもらっても大丈夫かな、なんてことも考えて、でも結局最終的には「そんなことを考えているヒマがあったら自分でしっかり泥をかぶるべき」といういつもの結論に至る。利己と利他のはざまで圧を感じながらバランスを取っている。ただしさすがに疲労が蓄積してきたとみえる。体が悲鳴を上げ始めている。


先日、胸の苦しさで目が覚めた。起き上がってうずくまっていると痛みは遠ざかっていった。狭心症にしては持続時間が長い気もしたが、心筋梗塞にしては治まるのが早い。体を起こすと楽になるというのも、心臓にしてはおかしいと思った。心当たりはある。前日、寝る前にちょっと腕立て伏せをした。めったにしない運動。その筋骨格系の痛みがベースにあり、日常のストレスによる自律神経の不具合が重なって、痛みを感じる閾値が狂い、寝返りの都合で多少胸元が進展されたときに過剰に痛みを感じた、といったところではないかと思う。ぼくは冷静な医師なのでここまで考えて安心を、

……できなかったので翌日循環器内科を受診した。ただしその経過も決して一本道ではなかった。ぶっちゃけはじめは病院になんか行かずに普通に出勤してしまえ、と思って実際普通に出勤した、まあ、出勤先も病院なのだけれど、そこは話がこんがらかるから置いておくとして、とにかく朝からいつも通りバリバリ働いているうちに、最近の労働時間は心疾患で頓死してもおかしくないレベルなんだよなとふと気づいてしまって、じわりと不安が増してきた。もう胸は痛くなかったが、不安というか焦燥感は昨晩よりもむしろ強まったようにも感じた。胸を触るとなんとなく肋間神経痛的な痕跡を感じつつ、記憶の中の痛みが蘇るような気がして、ついうつむき加減になった。そして胸はともかく疲労がひどい、それはもしかすると夜中に目が覚めたために単純に寝不足だったからかもしれないけれど、なんだかもうこれは無理なんじゃないかな、といろいろとあきらめて、仕事を他のスタッフに振って、どうしても自分でやらなければいけない仕事だけを片付けて、昼すぎに病院(まあ勤め先なんだけど)の外来を受診した。けっこう待たされた。症状のない職員は後回しになって当然である。

血圧を測ってやや高いと言われ、採血して尿をとって心電図をとりレントゲンを撮影、この春あたりに赴任したと見える顔を存じ上げない循環器内科医にやさしく説明を受けた。トロポニンIもCKもWBCもまったく上昇していない。心電図上も見るべき異常は無く、経過を考えても心エコーまではしなくてよさそうだということになった。あいかわらず血圧とコレステロールだけが高い、そろそろ薬を飲みますか、ええ、飲みます、とそんなかんじで診察は終わるかと思われたが、念のため「冠動脈CT」まで撮った方がいいでしょうとの判断に至った。現時点での病名は「狭心症(疑い)」、しかしまあたぶん違うんじゃないかなとぼくの本能が告げている。胸の不安は少し去り、このブログを書いている時点でまだ画像の結果は出ていないけれどたぶん最終的には血圧と脂質異常の薬をもらう「かかりつけ医」をひとりゲットしてこの騒動は終わる気がする。ぶっちゃけ「なぜ胸が痛んだのか」はわからないままだが、それをわからないから不安だと考えるほどぼくは医学知識が乏しくない。病名など付かなくてもいい。あのヤバいやつやこのまずいやつでなければ、今の所はこれでいい。おまけに、結果として、これから内科的な処方をきちんと考えていけるわけだし、ま、受診した甲斐はあったということである。(追記:その後結局狭心症(疑い)病名は外れることなく、現在は発作があったときの薬を携帯しつつ、血圧が高め安定だったので血圧の薬も飲むことになりました。)


以上はごくありふれた「かかりつけ医を得るまでのこと」。そのきっかけはあくまで自分に起こった些細な……しかしその瞬間は自分的にかなり決定的な出来事なのではないかと疑わせるような強い不安であった。振り返って見れば、ぼくのあのときの不安は過剰だった、もう少し様子を見てもよかった、何もせずに時間の経過にまかせても結果は変わらなかった。しかし、


「この不安と一人で戦うのがいい加減めんどうだな」


と、中年らしい疲労をもって何かをあきらめたことが結果的に、「薬をもらい続けるために長く付き合うことになるだろう主治医」へとぼくをつないでくれた。


利己と言っても前向きな利己と後ろ向きな利己があるのではないかと思う。ああ、もう、めんどうだからあとはお医者さんなんとかしてくれ、にたどり着くことなしに、ぼくにこれらの薬を飲む日が来ただろうか? ぼくは自分の体調を「前向きに」おもんぱかって医者に行くような人間だったろうか? そうは思わない。ぼくはあくまで、「あーもうめんどうだからプロにまかせて楽をしよう」という、ひどく後ろ向きな利己精神によって、ブツブツ文句を言いながら医者にかかったのだ。これまでぼくら医者は一般市民に向かって積極的に「気軽にお医者さんに行ってね♥」と医療啓蒙などをやってきたが、当の自分は、「病院に行くめんどうくささ」と「病院に行かないめんどうくささ」とを心で戦わせて、「病院に行かないほうがよけいめんどうじゃねぇか」までたどり着かなければ決して受診なんてしなかったのだから、ちょっとなんか、みんなごめんね、でもこういうのが人間じゃないのかなあ、と、言い訳したり開き直ったりをくり返しているところなのである。

2022年6月14日火曜日

病理の話(666) ファスト文化と病理学の教育

世のファスト文化はますます加速している。YouTubeにもNetflixにも倍速視聴機能が標準で搭載され、誰もが便利に使っている。

先日、某通信系予備校のオンライン講義すら倍速再生が可能だと聞いて、たまげた。

娯楽はまだしも、教育・学習でも早送りするのか。いや……まあ、わかるのだけれど。


倍速視聴が流行る理由はさまざまに語られる。よく言われるのは、コンテンツ数が多すぎて、友人・知人との会話の「あれ見た?」に「見た~」と返すのが(通常の視聴のやり方だと)難しくなった、という話だ。

「あれ見た?」からはじまるコミュニケーションは思いのほか多い。共通の話題があれば仲良くなれるというのは、現代の日本に限らず普遍的な理屈だろう(先日読んだ人類学の本にもそういうのがあった)。

若い人たちは、倍速視聴や切り取り文化を駆使してはじめて、クラスメートや同僚と共通の話題を得てやりとりができる。ファスト映画などの(ときに違法な)やり方が、取り締まられながらもなくならない理由も、肯定するわけではないが理解はできる。



しかし、「動画を倍速で見るのに慣れたから、講義で講師のしゃべるスピードが通常だと遅く感じてしまう」というのもすごい話だ、そこには飛躍があるように感じる。

教育も倍速でやってしまってよいのだろうか?


「昨日の三角関数見た~?」

「(切り取り+倍速視聴で)見た見た、要は余弦定理が神」

「それ」

「わかる」


地頭がいい方々はそれでもいいのかもしれないが、倍速で入力したものがそのまま倍速で脳内構築されるわけではないと思うので、「ファスト教育」は長い目で見ると効率が悪そうだ。


でもいったん短い動画に慣れちゃうと、もう、学会や研究会の講習動画とか、かったるくて見てられないのかもしれない。となると……これからの学術教育は、倍速対応していないとだめ?


いやー、病理組織学の講習を倍速でというのは、さすがに無理があるんじゃないかなあ。情報密度が高すぎるよ。


今どきの若い人は倍速で情報を入れるのに慣れているはず? でもそれは多数のコンテンツを一時的に脳内に格納して、コミュニケーションに用いたらすぐ廃棄していくような、回転数の早い情報消費に慣れているだけのことなんじゃないの? 2年前に流行った映画(例:鬼滅の刃)の話とか、常速で反復視聴するようなゴリゴリのオタクを除けばほとんどの人はやってないじゃない。



うーん。問題をもう少し細かな粒度できちんと観察してみたほうがいいかもしれない。


そもそも若者のすべてがコンテンツの倍速視聴に慣れたわけではなかろう。たとえば音楽なんていうのは速度をあげるとまるで別モノになってしまうから、流行りの曲を聴こうと思ったらそこで必要なのは速度変更ではなくて「サビだけ切り取る」である。つまりは切り取り文化。若い人の中には、「べつにあらゆる動画を倍速で見ているわけではないですよ(笑)(ただし一部しか見ないけど)」という人だっているだろう。

すると、学術講演を1時間やりますと言ったときに必要なのは、学会にお願いして動画に倍速視聴ボタンを付けてもらうことだけではなくて、「切り抜き動画を作ったらどうか」という話になるのである。講演を切り抜くだって!? そんなバカな! と声を荒らげる講師もいそうだけれど、そもそも講師の側だって、「Take home message」と称して、講義の最後にここだけは覚えておいてくださいとメッセージを発するではないか。切り抜き文化自体は別に新しいものではない。ただし、それを以前よりも鋭く利用する視聴者が増えているということをもっと我々中年の側は考えておかなければいけない。


あと、鍵になってくるのは書籍かな、とも思う。自分のスピード、自分の編集でコンテンツを摂取できないとストレスに感じる人にとって一番いい入力方法は書籍だろう。読むスピード、ページをめくりはじめる場所、どこをすっ飛ばすか、すべてが読み手に委ねられている。倍速編集も切り取りもしなくていい(それでも切り取りが求められることがある、何かといえば、書評である)。

動画は便利だが、作り側の意図したスピードや編集点と視聴者側とがマッチしないと情報がフルでは伝わらない。通常速度での通し再生をする機会が減ってしまった今の若い人たちの動画は、コミュニケーションと娯楽のためにひらかれているが、教育的にはどうかと思う場面を目にする。

だから、本だ。きっと本だ。やっぱりいい本を作り続けよう。



……ここまで書いていて思いだした。


「神脳」と呼ばれる教育系(あるいは秀才系?)のYouTuberが、何時間も勉強しているシーンをただ耐久配信している動画、というのがある。学生さんが、自分が勉強する横にスマホを開けば「神脳」も一緒に勉強している、という状態をつくるのに使っている。けっこう人気だ。

じゃあ病理学を教える講師も、いっそライブ配信で病理学の勉強をする姿を実況すればよいのか。

切り抜かれて終わりそうだ。「ヤンデル先生ロビンス病理学通読まとめ」。見どころ少なそう。

2022年6月13日月曜日

熱心と平和

緊張する会に出ている。ウクライナの内視鏡医向けの勉強会だ。キーウ時間の朝8時から会ははじまる。日本時間だと14時開始(サマータイム時)。

ぼくは今回講師である。使うのは英語。ぼくの英語はおぼつかないから、いつも会がはじまる前の日常会話の部分で、とても緊張してしまう。実際に会がはじまってしまうと、ご機嫌伺いも社交辞令も必要なくなり、もっぱら内視鏡と病理の用語だけを話していればいいのでむしろ気が楽だ。仕事で使う単語だけならなんとかなる。しかし、会の前後がつらい。世間話がしんどい。

Zoomになって、懇親会がなくなって、本当に助かっている。会の前のキリキリと胃を刺すストレスがだいぶマシになった。

もっとも、Zoom文化がなければ国際講演に呼ばれるたびに海外旅行ができたのにな、と、少し残念な気持ちもないわけではない。ただし、仮に今、Zoomがなかったら、ウクライナの勉強会は開催されなかったろう。さすがに今この時期にウクライナを訪れることはできないだろうから。

逆に言えば、この時期にもかかわらず、Zoomならできるやろとばかりに医者の勉強会が開催されていることに、少し驚いている。





日本における医師の勉強機会はここ20年でずいぶんとさまがわりした。もともと、製薬会社の接待の一環として、医師たちには潤沢にタクシーチケットが配られ、勉強会までの交通は万全で、きれいなホテルが会場となり、高価なお弁当が供されて、医師たちは運営に何のストレスもなく症例検討やディスカッションをする、というのが典型的な「研究会」であった。そこにはいわゆる古き悪しきもちつもたれつの関係があり、癒着ぎりぎりの甘やかしがあった。

しかし、20年くらい前から、医師のそういう「特権」的な部分が社会に問題視されるようになり、少しずつ接待が控えられるようになった。7,8年前からタクシーチケットが出なくなると、若くて忙しい医者たちは自腹で研究会に出席するのがめんどうくさくなったと見えて、さまざまな会の出席人数が減り始めた。

正直、「うまみ」がなければ、業務時間外にだれがわざわざ勉強なんかしてやるかよ、みたいな考え方をしていた医者たちがいたと思う。無論、そこまで「悪い顔」ではっきりと「すねた」医者は少数だったと思うが、多くの医者は、もともと忙しい日々の中で、タクシーチケットと弁当があるなら……と、なんとか気持ちを奮い立たせて勉強しようとがんばっていて、それはなんか、責められるようなことでもなかったと思うし、そういうありがたみが減ったことで、わかりやすく、がっくりとして、仕事が早く終わった日には早く帰って自分のペースでゆっくりYouTubeでも見ようかな、というムードになった医者が多かったことはやむを得ないと思う。

そしていよいよ熱心な人しか研究会に出なくなった(熱心な医者、というのはつまり、時間外でも熱心に勉強しようとする医者、という意味だ。たいていの医者は勤務時間内は勤勉である。しかし、アフター5にも熱心な医者は医者全体のだいたい三分の一程度、と言ったところだろうか)。そんなタイミングで世界を感染症が襲った。「集まれなくなった」ことで、あらゆる研究会・勉強会の類いはいったん仕切り直しとなった。歴史ある(しかし製薬会社にとって金食い虫でもあった)会のいくつかはなし崩し的に休止となった。医師たちも現場の感染症対策で忙しくなって研究会どころではなくなった。

その後、感染に対する動き方がわかってきて、ふたたび勉強ができそうだなと思った頃には、研究会文化はほとんど焼け野原となっていたが、かわりに降って湧いたのがZoomのブームであった。

Zoomは基本的に自分たちでできる。製薬会社にホテルを取ってもらう必要がないし、タクシーにも乗らなくていい。開催時間だって自由自在だ。司会も自分たちでやればいい。ただ告知の問題はあって、医者が医者どうしの横の繋がりで、メールベースで人を呼ぶしかないのだけれど、研究会というのはZoomでやればほとんどできてしまうということに気づいた熱心な医者たちは、次々と研究会を立ち上げた。

結果、今は……研究会が多くなりすぎてしまった(笑)。製薬会社がやっていた数よりはるかに多い。さほど熱心でなくても気軽に出られる研究会は、しかし、毎日のようにどこかで誰かがやっていることで「過剰」となり、「どれかひとつに出ればいいや」となり、結果的に、お互いに客を食い合うかたちになって、ほとんど全部の研究会の規模が縮小した。熱心な医者の数は増えても減ってもいないか、あるいは、少し増えているくらいだと思うのだけれど、みんなけっこうちりぢりだ。まるでJ-POPの市場を見ているかのようだ。それぞれがサブスク的に、個々にチューンされたお気に入りの元に集っていく。ランキングが無意味なものになる。

ポイント・オブ・ノーリターンの先にぼくらはいる。もう、古き良き研究会、ひとつの会場に800人も1000人も集まって、休みの日だろうが真夜中だろうが、決着がつくまでいつまでも激論をするような研究会がやれる時代ではない。おそらく、「熱心かどうか」の定義すらも変わっている。リアルの会場に人が集まらなければ意味がないと考えているベテランもまだ多いが、たぶん、それは「過去の熱心さ」なのである。ぼくらは今、「どうやれば一番熱心に医学をやれるか」というところから手探りのやり直し中だ。





ウクライナでの研究会は今これを書いている最中、まさに佳境である。台湾の講師が技術的な講演を終えて、これから症例検討がはじまるところだ。前半の2時間が終了して、あと2時間! 長い! ここからはぼくも出番がある。

日本から遙か遠く、ウクライナで開催されているZoom研究会、参加者数はわずか55名だ。しかし、55名もいる。日本で開催されている全国クラスの研究会に匹敵する。これだけ集まるなんてすごいことなのだ、昔とは熱心さが違うし、そもそも、かの国はいま戦争中なのだぞ。休日に朝からZoomに張り付いて、母語ではない英語のセッションで必死で勉強しようとしている「熱心な」医者たち。これで気合いが入らなければ嘘だろう。ここで熱心にならなければ嘘だと思う。

2022年6月10日金曜日

病理の話(665) その倍率では伝わらない

「顕微鏡を使って細胞を見て診断をする」と言うと、たいていの人は、顕微鏡の視野(のぞいた部分)いっぱいに細胞が大写しになるところを想像するのではないかと思う。


実際、細胞をどんどん拡大して、「核」まできちんと見ることができるのは、医療業界広しと言えども病理医をふくめたごく一部の医療者しかいない。したがって細胞を超拡大するというのは、この職業の「強み」であることはまちがいない。


しかし……そうやって見た細胞のようすから診断を書いて、主治医をはじめとした「他の医療者に情報を伝えるとき」に、最強拡大で細胞の写真を撮って見せる行為は、あまり役に立たない。


それは「細胞に近寄り過ぎている」ために、かえって、「日常の医療からは遠ざかってしまっている」のだ。この感覚、おわかりだろうか?




たとえるならば……そうだな、とある仕事のことを考えよう。


その仕事では、「航空写真」を撮って、ある町が変化していく様子を観察する。飛行機に乗って、毎年、決まった場所・決まった高度・決まった角度から、町の全貌を一眼レフでバシャッと証拠に残している。

するとある年から、町の様子がかわりはじめた。ある地域において、家がなくなって、かわりになにやらあやしい集会施設のようなものが作られているのだ。もちろん、航空写真であるから、近隣の住民が何を話しているか、ざわついているかどうか、その集会施設のまわりで小競り合いがあるかどうか、といった情報はわからない。

あくまで、家がなくなって別の建物が建っている、ということがわかるだけだ。

飛行機の上にいる人は少し落ち着かない気分になる。あそこ、何が起こっているのかなあ、と。

そこで別に人を雇う。地上で現場に近寄っていって、そこにある建物をより近くで見て、なんなら中にいる人たちに会って実際に雰囲気を聞いてきてもらうわけだ。



もうおわかりだと思うが、飛行機に乗って町を眺めているのが臨床医で、町を歩いて人に近寄っていくのが病理医である。



病理医は、その集会所を作ろうとしているヤクザ集団(細胞)を間近に観察することができる。ヤクザひとりひとりの風貌(細胞形状)、しゃべりかた(周囲に対する接着能や浸潤傾向)、ドスとか拳銃と言った持ち物(細胞が有しているタンパク質の種類)を、チェックすることができる。

「あっ、こいつら、悪い目的でここに建物を作っているんだな」みたいなことを、接写的に観察することができる。

そしてその内容を、飛行機に乗っている写真家であるところの臨床医に話すのだ。


「えーとですね、現場にドスがあります。だからこいつら悪いっすよ!」



でも……じつは、飛行機に乗っていると、「ドスがあるからなんなんだよ」という気持ちになることがあるのだ。なにせ、見ているもののスケールが違いすぎて、そこは親身になれないのである。

つまり病理医が、細胞の強拡大写真を写真に撮って臨床医に伝えても、「うん、それ見せられても、なんというか、飛行機に乗っている限りは役に立たないわ。」となるのだ。



そこで現場の病理医は少し工夫をする。近づいて取材して「こいつらヤクザだな」と決めるのは確かに病理医の仕事。そして、この内容を飛行機の上に伝える際には、こうする。


「ヤクザであることはこっちで確認しました。ここから見ると、回りの家とはだいぶ形の違う、ヤバそうなでかい建物を今も必死で作ってまして、たとえばこの南側のほう、周囲の土地を地上げにかかっているんで、そのうち回りの人が追い出されて更地にされて、ここにもヤクザの家が建つと思いますよ」


少し描写のスケールをマクロ寄りにする。




病気を見るにあたっては、俯瞰も接写も両方大事だ。それぞれ、得られる情報が異なる。そして、俯瞰はわりと多くの職業が担当するのだが、接写はできる人が少ない、特殊技術である。だからといって、病理医の口から出ることばがいつも「接写についてのこと」だと、飛行機に乗っている人たちはピンとこない。ここには語り方が必要なのだ。テクニックが要る。俯瞰と接写とを橋渡しするような思考が必要で、そういうのがきちんとできる病理医は、教えるのがうまいし、なにより、診断すること自体への興味が複雑に豊かで、たぶん、総合的な診断力もハイレベルなのである。

2022年6月9日木曜日

気が散るままに

でかける前の15分で『エストニア紀行』を少しずつ読んでいる。ちかごろは、日中はもちろんだが夜もなかなか本を読めないので、ここ1週間くらい、朝の読書。


未整理の「脳の床」に散らばったチラシや文庫本のたぐいを足でどける。ぜんぶを片付けることはあきらめている。自分が通れる幅の分だけ、通り道にしておくイメージで、雑然たる脳の一部をその場しのぎ的にならして、そこに大事な本を一冊置いて、座り込んで、読む。

まだ、まわりで思考がざわついている。ざわめく声のひとつひとつに耳を傾けずに、ぜんぶをひとまとまりのノイズにしてしまって、耳の機能を意図的に下げるようにして、あれこれをわすれて本を読む。だんだんノイズは聞こえなくなり、声を発していたあれこれ、ごみごみとした脳のすみずみに生息する動く切り絵のようなものたちが沈黙し、座って本を読むぼくに視線を向ける。ぼくは小さく音読し、紙はこまかく振動する。


何かひとつのメッセージを届けようと思って書かれている本の、9割以上は読む気がしない。1割の読めた本は、ぼくがたまたま欲しかったメッセージを都合良く発信してくれていたもので、でもそれは単なる「かみ合わせの妙」でしかないので、偶然によろこぶ以上のうれしさはない。いつしか未整理の本を愛するようになった。何が言いたいのかわかりづらい、おそらく具体的に何かを言いたいわけではない、あるいは何も言いたいことなどないのかもしれない、そういう本をいつしか選んで読むようになった。ぼくが信頼している本読みたちも、ぼくにはそういう「矢印が絡みあったままの本」を選んで手渡してくれるようになった。書き手が必ずしも「書きたいことがない」と思っているわけではないのだ。そういうのはハナにつく。書きたいことはあるのだ、おそらく、それは言語化されないにしても。しかし書いているうちに混じってしまうのだ。遠くにおいてあこがれるように眺めているもののことを書きたい、しかしちらちらと気が散って周囲に目をやると、遠くのあこがれよりも近くの無名の石のほうが細部まで詳しく見えてしまうので、ついそちらのことを詳細に記載してしまっているような本。



『エストニア紀行』にはおそらく書きたいことがちゃんとある。しかしぼくは大枠としてのゲシュタルトをいいなと思うと同時に些細なところに何度もひっかかっていて、それがとても楽しい読書である。ニットのワンピースをくるくるとまるめてトランクに入れておくと便利なのだそうだ。

2022年6月8日水曜日

病理の話(664) 客観性を高めるコツのようなもの

病理診断は「客観的でない」と考える人がいる。

わりとごもっともなご指摘だ。

報告書の字面だけ読んでいると、「核が大きいからおかしい」とか、「細胞の異型が強いから異常だ」のように、大きい小さい、強い弱いといった比較で診断がなされていることも多いから、余計にそう感じる。

少なくとも「何と比べて大きい」とか「何と比較して強い」と言わないとだめだよね。

まあ病理医は無意識に対照を置いて比較しているのだけれど、報告書でそこを省略していることも多いので、かなり主観的に見えてしまいがちである。


できるだけ客観的に、病気を評価できたほうがいい。それは間違いないことだ。


ただし、診断の主観性というものは、病理診断にかぎらず、普遍的につきまとう本質でもある。

いやそんなことないだろ、たとえばPCR検査では陽性(+)と陰性(-)とがゼロイチで決まるじゃないか! などと噛みついてくる人もいるかもしれないが。……いや、その、(+)とか(-)を決めるにあたっても、じつはグレーゾーンがあり、「閾値の設定」があって、完全に客観的にビタッと確定するというものではない。検査の結果の字面だけ見ているとあたかもビシッと一義に決まっているように見えるけどね。ほんとうはもうすこしあいまいなのだ。そのへんは臨床検査医学をきちんと学ばないと実感できないことでもある。



そもそもの話をすると、患者が病院にくるきっかけだって「主観」で決まっている。どこかが痛い、しびれる、だるいというのは、結局のところ客観視するのが難しいファクターだ。本人がつらいと言ったらそれを尊重するのが医療なのだけれども、はたからみて「あーこの人は10段階でいうところの4段階目の痛みを訴えているなあ。」なんて評価することはできないのである。ドラクエのようにHPが数字で見えたら楽かもしれないが、現実の人間は、「HPが200あってもMPがゼロで、しかも職業が魔法使いなので詰んでいる」みたいなことがままあるし、往々にして、HPもMPもカウントそのものは隠されていて誰にも読めないのである。


江戸のころから医療といえば「さじ加減」と言われる。加減の度合いがあまりにはげしいと、患者はふるえあがるだろう。自分が選んだ病院によって治療がうまくいったりいかなかったりしたらたまらない。「医者ガチャ」なんて引いていられないのだ。だから、医療者はいつだって「エビデンス」を大事にして、なるべく客観的な指標をもちいて医療をたいらにならす。どこのだれがいつどのように病院にかかっても、同じクオリティで結果が期待できるように。

しかし、ざんこくなことだが、「さじ加減」は今でも存在している。ただしどの病気にどれだけ薬を入れるかといった「大枠の部分」ではない。さじ加減が存在するのは、たとえば、

「この患者さん、不安そうだな、まあこの薬を2週間飲めばそれでだいたいうまくいくとは思うんだけど、いちおう2週間後にもういちど病院に来てもらって、どうなったか話を聞いた方がいいかもしれないな。本当は2週間後にここに来ても来なくても、病気自体はコントロールできそうだけど、患者さんの不安を解消するためには、もう一度来てもらおう」

みたいな部分なのである。患者の主観と医者の主観とが、「主観同士でよろしくやっている」状態になることで、医療の中の、科学だけでは説明しきれない実学の部分が、なんとなくうまく回るようになったりするのだ。やっぱり医療の一部は今でもさじ加減が大切で、客観だけの冷たい診療ではうまくいかないのであった。



と、病理診断からはじめた話をいつしか医療全体に広げまくってしまったが、それはともかくとして、「病理診断の客観性」についてである。ここはなるべく客観的に担保したほうが、多くの人に不安を与えなくて済む(不安とはまた主観的な話だが)。

そこで、病理診断を客観的に行うための「コツ」みたいなものを最後に書いておく。コツというか具体的なライフハックに近いかな。





病理診断をする際には、プレパラート内の「ここぞ!」という視野を写真に撮る。そして、その写真を、病理医が100人集まる会場に持っていって、プロジェクタでスクリーンに投影して、「ここにこういう像があるから、私はこう診断しました!」と言えるかどうかを自問自答する。


「あ、言えるな」と思ったらその診断はだいぶ客観的だ。


「うーん、これで説得しきれるかなあ」と思ったらその診断はかなり主観的だ。





……え、それだけ? と思うかもしれないがこれってかなり使いやすい。自分が場面と時間とをずらしてその標本に向き合い、主治医以外の専門家に説明してもなお、診断がきちっと確定しているなら、それは「時間を超えた客観性」があり、「場面を超えた客観性」があると考えるのである。えーそれって逃げじゃないの? 違う、逃げじゃない、というかむしろ、これってマジで大変なことなのだ。違うTPOに暮らす自分を説得できないような診断が他人を説得できるわけがあるまい。そうやって、自分に厳しくしておいて、客観性を具体的に高めていくのである。

2022年6月7日火曜日

怒りというバグ

某犬が某イベントで「(仕事中に)怒ってもいいことなんてひとつもないですからね」と言っていて、まったく同意見だ。これは、「怒らないほうがいい」という比較・選択の話ではなく、「怒ってはいけない」という禁止・禁忌の話である。職場では絶対に怒らない方がいい、と言っていい。例外はあるだろうが、それを言ってしまえば万物に例外はあるのでいちいち書いていられない。


部下あるいは同僚に対して、ときには自分より上の人間に対しても、仕事で何か困ったことをしている人に、「なんでだ!」と怒りをぶつけてモノゴトが改善することは絶対にない。「なんでだ(怒)! こうしなさい」とか、「なにをやっているんだ(怒)! ああしなさい」と言いたくなるとき、序盤の「なんでだ(怒)」の部分は、状況をよくすることに何も寄与していない。怒られたほうは、(怒)のあとにある「こうしなさい」「ああしなさい」を参考に自分を修正していくしかないからだ。むしろ、(怒)という感情が先行することで、受け手の側はまず(怒られた)という感情で心が満たされてしまうから、後半の「こうしなさい」「ああしなさい」が入ってくる余力がなくなる。


「しかし何度言ってもワカラナイ人には怒るしかないだろう」という反論が来そうだが、そもそも何度言ってもわからない人がいたとしたら、怒ったところでわかってはもらえない。その枠組みでは教え方が足りていないか、教わり力が足りていないか、その両方が足りていないか、とにかく不足しているからだ。「わかる」「わからない」というのは教育の問題であり、理解・コミュニケーションの話でもある。「わからない」ならさらに効果的な教育手法を用いなければいけない。なのに、そこで怒りという強い攻撃性を持つ伝達手段を用いてしまうというのは、単純に選択ミスだ。怒りでディスコミュニケーションが解決できるというのは錯覚に過ぎない。

「何度言ってもワカラナイ人には怒るしかないだろう」を詳述すると、おそらくこうなる。


「何度言ってもワカラナイ人には(私の力ではどうやってもわからせることができないから、その人を教育することはあきらめるしかないし、ムカムカと腹が立つからせめて)怒る(ことで憂さ晴らしをする)しかないだろう」


言ってもわからないから怒るしかない、という言葉は、ぜんぜん論理的じゃない。


だからぼくはツイッターではもう怒らない。ぼくが怒るのは基本的に、感情を受け止めてもらえそうだなとぼくが信頼して、甘えている人だけだ。そんなの、近しい家族くらいしかいない。しかし家族には怒りたくない、なぜなら家族をいやな気分にさせてもいいことはないからだ。こうして「怒る」という行動を用いるタイミングはどんどん減っていく。




世の中には、怒りという感情には人の目を集める効果があるのだから利用すべきだ、とか、怒りを通じてしかコミュニケーションできない人もいる、などの理由で怒りを武器として選択する人たちもいる。そのような「計算尽くの怒り」は果たして上品だろうかという話で、まあ、下品なのだけれど、人間はたまに下品でいたいという謎の欲望を持っている。

ついでに言うと、「計算して怒っている」と自称する人をしばらく観察していると間違いなく惰性で怒っている。単に情動が失禁してしまっているだけなんてこともよく見られる。いつも怒ってばかりいる人は脳の弁がガバガバになってしまっている。パッキンを買い換えたほうがいい。

感情をせき止めずにリアルタイムで垂れ流しにする不随意な行為。言ってみれば外界からの刺激に対して脊髄反射で手足をぴょこんと動かしているのと一緒だ。食虫植物が葉っぱを開いたり閉じたりするのと違いがない。人間が脳を発達させることで得た能力のひとつに、「刺激にすぐに反応せず、過去の記憶と照らし合わせたり、複数の情報と掛け合わせたりすることで、脳内に刺激をプールして、よりよい行動を選択する」というものがある。つまりしょっちゅう怒っている人というのは脳が機能しなくなっているのだと思う。全部がポンコツにならなくても一部が機能しないということはよくある。電子機器といっしょだ。なまじほかがちゃんと機能していると信じている人は、自分が怒りまくっていることをエラーだとは考えない、でもそれ、じつは脳の機能という意味ではバグっている。


さて、自分の話に引き戻すと、ぼく自身もまだまだ怒りをあらわにすることはあり、あとから振り返って「このバグは修正しないといかんなあ」という後悔に苛まれる。できれば家族には怒らない自分でいたいがうっかり職場でやらかしそうになることもある。ここで自らの不快をきちんと表明しておかないといずれまた同じことをくり返されても困る、みたいな「うそくさい魅力をはらんだストーリー」に飲み込まれてしまうことがあるのだ。冷静に振り返ってみると、「不快を表明する」ことと「怒る」ことはイコールではないのだけれど。

2022年6月6日月曜日

病理の話(663) 信頼されなかったときの思い出話

時期も場所も明かせないが、かつてこんなことがあった、という話をする。


今ぼくが勤めている病院ではない某所で、「A」という科から提出されたある臓器の病理診断をした。それから1,2か月経ったある日、A科の部長クラスの医者から、ものすごく腰の低い電話がかかってきた。


「先生……誠に申し訳ないんですが……」


からはじまったその電話は、いかにも平身低頭という雰囲気である。電話口で、「これはただごとではないぞ」と身構えた。


「じつは先生に診断して頂いた病理の結果を、当院に外からやってきている『カリスマ医師』が読み、その……いろいろと面倒なことになっております。いや、私たちにも、その医師には頭が上がらないんですが、結局はその……申し上げにくいのですけれども……」


ここまでを聞いて真っ先に疑ったのは、ぼくが「誤診」したのだろうか、ということだ。と言っても、病理診断の良し悪しを臨床医が判断できるわけではない。つまり単純な診断に対する疑問ではなく、もう少し込み入っている問い合わせなのだろう。たとえば、「古い取扱い規約にのっとって報告書を書いてしまった」とか、「現在学会で推奨されている免疫染色をせずに診断を書いた」などの、細かいミス。そういうのは、病理医よりも、臨床医のほうが気づきやすい。


しかし、どうやら電話の続きを聞くとそうではないのである。


「(そのカリスマ医師が)この病理診断はおかしい、間違っている、と言っておりまして……」


予想に反してそのカリスマはぼくの診断そのものを疑っているのだった。プレパラートを直接見ているわけでもないのに、なぜ? と、当時のぼくはわからずにいた。


今なら、わかる。


病理医が標本をみる前に、臨床医はCTやMRI、内視鏡、超音波などの「画像」や、血液検査などの「各種検査」で、患者のことをかなり知った状態になっている。要は、病理診断などせずとも、「臨床医なりの診断」が下されている。臨床医の考えがある状態で行われるのが病理診断であり、その結果はしばしば、臨床医の予想を裏切ったり、期待を超えたりする。つまりは、「ずれる」。


そのずれを許容できないタイプの「カリスマ」だったのだろう。たぶん、自分が事前に下した診断と、患者から採ってきた検体をみたぼくの病理診断とが、合わなかったのだ。


しかし、それにしても、である。


普通は、「事前の予想と違っていたら、自分でその病理医に問い合わせる」のが筋である。


しかしそのカリスマは、わざわざ、「A」科の医師たちの前で、「こいつの病理診断は間違っているぞ!」と騒いでいるようなのだ。


なにをしたいのだろうか? A科の部長は、続けて言った。


「というわけで、先生におかれましては本当に失礼な話なのですけれども、病理を某大学の病理学講座に送って、コンサルテーションをしてもらいたいのですが……そういうことは可能でしょうか?」


ぼくは少し拍子抜けした。これはつまり、「セカンドオピニオン」を求めたいということではないか(セカンドオピニオンは患者だけの権利ではない。主治医と病理医との間でもあり得る関係である)。ならそう言ってくれればいいのに。ぼくは安堵気味に、答えた。


「もちろんです、それはもう、どんどん某大学に意見を求めて下さい」


するとA科の部長は、それだけではない、と断って、(電話だから見えないけど)背中を小さく丸めながらこう付け加えた。


「その……(カリスマは)これからはA科の検体は全部某大学に送りたい、とも言っているのです」


なるほど。それでさっきからこんなに申し訳なさそうな態度だったのか、と、ぼくはようやく話の要点を理解した。

カリスマはぼくに二度と病理診断をしてほしくないということなのである。だから、本来の流れであれば、A科の病理診断は今後もたまにぼくが担当するはずなのだけれど、これからはもう、A科の診断はぼくの元には届かないぞ、というお断りの連絡なのだ。


さすがにぼくは少しがっくりとした。「はい、わかりました。それはもう、主治医の方々が安心して病理診断を依頼できるところと組むのが一番ですので、ぜひそうなさってください」


電話を切り、病理標本を移送する手続きを行って、しばらくうつうつとした毎日を過ごし、いつしか、その悔しさも薄れていった。





だいぶ経ったある日。

くだんの病院の検査技師長から、ぼくあてに荷物が届いた。

開けてみると、そこには、例の「大学にコンサルテーションをお願いしたプレパラート」が入っており、大学病院であらためて診断した結果が同封されていた。

あれやこれやを忘れつつあったぼくは急速に記憶を取り戻しつつ、少し震える手で「コンサルテーション結果」を開いた。



そこには「前病理医の診断と同じです。」からはじまる診断意見文があった。



所見を読む。ぼくの判断とまったく同じであった。大学に所属する2名のサインが手書きで添えられていた。

小さく息をつく。よかった。ぼくは誤診してなかった。そしてすぐ、次の感想が思い浮かぶ。

(あのカリスマはどういう気持ちでこれを読んだのだろうか。)

何がしゃくに障ったのかわからないが、ぼくの病理診断を受け入れられずに、大学へのセカンドオピニオンを求め、その結果がぼくと同じだった。さて、そのカリスマは、はいそうですか、では私が間違っていましたと考えるだろうか?

考えないだろう。きっと。

慎重さを来すためにセカンドオピニオンを求めただけならば、結果は受け入れると思う。しかし、どうも、あのときの電話の雰囲気だと、カリスマは「慎重のために」セカンドオピニオンを頼んだわけではない。

ぼくという病理医「ごとき」によって、自分の臨床診断が覆されたことが許せなかったのではないか。

ぼくという「ザコ病理医」が間違っていることをコンサルテーションによって証明し、大学でなければ間違うような病気を、自分は臨床的にばっちり診断できるというお墨付き――それはおそらく、「プロフェッショナル仕事の流儀」とか「情熱大陸」とかで語られるようなエピソードにもなる――を、欲しかったのではないか。

それが手に入らなかった今、そのカリスマは、謙虚になるだろうか?

そうは思わない。

たぶん、よけいに、ひねくれるだろうと思った。



検査技師長からの手紙には、なんと、もう一通のコンサルテーション結果も入っていた。ぼくが知らないうちに、ほかにも、過去の診断に「疑義がある」ということで、コンサルテーションが行われていた。そしてそちらの結果も、

「前病理医の診断と同じです。」

であった。

見返してみると、2例とも、事前の臨床診断と病理診断とが食い違っていた。





端的にぼくからの目線だけでまとめれば、

・失礼なカリスマがいて

・ぼくの診断を疑って、大学の権威にすがって

・でもぼくの診断があってて、カリスマが間違っていた

という、わかりやすい「カタルシスもの」として語ることはできる。

でも、ぼくはどうも、そういう気にはなれなかった。



この2件の裏で、カリスマが、患者に話をしている姿が思い浮かぶ。手術前の説明で自分の見立てを話し、きっと私が考えた通りの病気だが大丈夫だ、まかせなさい、と言っておいて、帰ってきた病理診断が自分の考えと違って、置き所のない怒りに襲われている姿。病理診断報告書を片手に、患者にどう説明すべきかと、ぶつぶつ悩んでいる姿。そして、「この病理医がおかしいので、大学に相談をしますから」と、さらに自分のカリスマ性を誇示するような説明をする姿。最終的に、大学から、「前の病理医に賛成」と書かれた手紙が返ってきたとして、その手紙を……


まるめて、ゴミ箱に捨てる姿。




そもそも診断が難しい病気なのだから仕方がないところもあるにせよ、もしぼくが考えたとおりの人物像であったならば、そのカリスマはずいぶんと、「不機嫌によって周囲を右往左往させた」のではないかと思う。その「周囲」には、A科の部長も、検査技師も、そして、もちろんのことだが患者も含まれる。




いろいろな人に迷惑をかけた原因の一端は、ぼくにある。そもそも、ぼくが「臨床医に尊敬・信頼されるレポート」を書いていれば、このようなことは起こらなかったはずなのだ。

カリスマが自分の診断のまちがいを認めるだけの「説得力」を診断文に込めていれば。

文面で脱帽・納得させていれば。

あるいは、臨床診断がむずかしくて病理診断と食い違う理由を丁寧に解き明かすだけの「やさしさ」が垣間見えれば。

さらに極論すると、ぼくが「大学病院の病理医並みの権威」を持っていれば。

そもそもこんな話しにはならなかったかもしれない。

まあ権威に帰着させるのも違うか。でも、たとえば、「A科の部長」とぼくとがもっと深い信頼関係を結べていれば、カリスマがいかに騒ごうとも、部長が「まあまあ、あの病理医はいい人なので、診断に疑問があるなら直接おたずねになってはいかがでしょう」と取りなしてくれたかもしれないのだ。




このことがあって以来、ぼくの病理診断に対する態度は少し変わった。

「自分の診断が正しいこと」は、大前提。そこは最低限のポイントだ。

その上で、「病理報告書をめぐって、主治医がどんな感情になっているか」にも気を配らないとだめだ、ということを考え始めた。

「ぼくの診断が合っているか否か」とは別の部分で、主治医と患者との関係や、診療の方針が変わってしまうことがある。ずれてしまうことがある。

身にしみた。




セカンドオピニオンの結果を見て肩を落とすカリスマの心に寄り添うことは、当時のぼくにはできなかった。

今なら、できるだろうか。自信はない。世間一般に広まっている「寄り添い」と比べるとずいぶんとドロドロ汚くてめんどくさいなあと思う。でも、やった方がいい……やれたらいい。

医療という難しいものを相手にする者同士、もっと、仲良く、うまくやれたらいい。あれ以来のぼくはときどきそう考えている。

2022年6月3日金曜日

うっとなる作品

ブルーピリオドの12巻には「チューニング」という言葉が出てくる。アフタヌーン連載時にもここで「うっ」となった。どういう文脈で出てくるかというと、


会話するときに、相手にしっかり「チューニング」してしゃべってくれる人はすごい


という意味で出てくるのだ。


教師が生徒を指導するとき、友人どうしでお互いに何かを注意しあうとき、あるいはもっとフランクに、誰かと誰かが疑問や意見を交わすときに、相手がそれまでに用いてきた言葉、育ってきた環境、立ち位置などを加味して、「そこに波長が合うようにチューンする」と、聞いているほうは「なんてわかりやすくしゃべってくれる人なんだ!」と、ものすごく感動する。

そういう話が出てくる。そこで「うっ」となった。今もなっている。



これを読んで、チューニング最高! と言いたくなるわけではない。

相手に合わせてしゃべれる人はカリスマ! と言いたくなるわけではない。

むしろその逆なのだ。そこで「うっ」となる。

ブルーピリオドというマンガ自体、「相手にチューニングするのがうまい人」に対する疑念、うさんくささ、「宗教」のあやしさみたいなものを丁寧に描いているので、おそらく多くの読者もまた、「チューニングがうまい人としゃべりたい~」というストレートな感想は持たないし、持てない。この作品の凄みはそういう細部にある。違和感をないがしろにしていない。読者が、「チューニングバリバリでしゃべってくれる人の言うことに騙されてはいけないのかも……」みたいな読み方「も」できるように描いている。そこで「うっ」となる。「うっ、どっちだ?」みたいな感覚になる。



この、「うっ、どっちだ?」というのも、たぶんブルーピリオドの裏テーマのひとつだ。「若さ」が選択をするときのこと。あるいは、「若さ」が自分の人生を「選択のくりかえしだ」と感じてしまっていること。実際には、本当は、二択や三択でビシッと決まるような、ギャルゲーの選択肢的な場面なんてほとんどないのだが、「若さ」はいつも、過去を何度も振り返りながら、あとで振り返って見ると立ち上がってくる「選べなかった選択肢」をくり返し考えようとする。

どっちもクソもないのだ。本当は。わりと。



ブルーピリオドは何重にも「うっ」となるマンガだ。基本的には若さを描いているのだが、「若さを振り返りたくなる年齢」で読むと、本当は存在しなかった「後付けの選択肢」を自分の過去にも見出してしまって「うっ」となるので、あるいはこれは中年が読むべきマンガなのかもしれないなと思う。読んで「うっ」となる作品は貴重だ。何の役に立つかという話ではない。「うっ」となるものを摂取するということ。

2022年6月2日木曜日

病理の話(662) 病理解剖の効能

患者が病気によって亡くなったあと、主治医と患者家族が話しあって、病理解剖を行うことがある。


病理解剖を執刀するのは病理医だ。主要な内臓をとりだして、それらを肉眼的にくまなく検索し、勘所についてはプレパラートを作成して細かく顕微鏡で見る。プレパラートには免疫染色などの詳細な検査を追加することも可能。


つまり……病理解剖をする理由をまとめると、


・病理医が(いろいろなやりかたで)みる


ためということになる……。






いや!


そうではないのだ!


最近気づいたのだが、

病理解剖の「いっちばん特殊な部分」は、「病理医がみる」ところにあるのだけれど、「いっちばん大事な部分」は、たぶんそこじゃない。

「病理医がみる」ではなくて、

「病理医みる」というのが、病理解剖の最大のメリットなのである。ここを詳しく説明する。




病理解剖が終わって、ご遺体をご家族のもとにお返ししたあと(傷をきれいに縫い、洗って、包帯を巻き、着物を着ていただき、エンバーミングした状態でお返しする)、病理医はかなり長い時間をかけて臓器の検索を行う。切り出し、プレパラート作成、検鏡……。そして、報告書をしたためる。

この報告書が出たあとがポイントだ。

報告書を受け取った主治医は、病理医と、そして「その患者にこれまでかかわった人たち」とを集める。

なんなら、「かかわってないけど病院内のほかの部門でがんばっている医者たち」も集めることがある。

とにかく多くのプロを集めて、病理医が検索した病理解剖の結果をもとに、カンファレンスを行う。

カンファレンスでは、「患者の生前に起こったこと」を主治医がことこまかにまとめて発表する。

いつから病気に悩んでいて、どのタイミングで診断がつき、どのような治療をして、それによって病気がどのように良くなったり悪くなったりしたか、途中で何かの副作用に悩まされることはあったか、メインの病気以外のトラブルはなかったか……そして、どのように亡くなったか。

これをうけて、病理医が、解剖によって得られた知見を発表する。すでに報告書に文章でまとめてはいるけれど、豊富に写真を提示しながらきちんと口頭でプレゼンをすると、伝わる深さはまた別次元のものとなる。

主治医と病理医が、それぞれ違う角度から患者をみまくった結果を、カンファレンスの列席者が、「岡目八目」の気分で検討し、「そこではこういうことも考えられるのではないか」「病理で他にこういうことはわからなかったのか」などと質問をする。



そう、病理解剖は、解剖しておわりではないのだ。「解剖まですることになった人」を、プロの医療者たちが、よってたかって何度も深掘りして考えていく、そのきっかけが「解剖」という特殊手技であるだけのことなのだ。


カンファなき病理解剖の意義は半減する。まあ、半分しかなくてもけっこういろんなことがわかるので、主治医が忙しいとか、病理医が足りないという状況では、半減していようがなお衰えない意義を求めて病理解剖をやったりするのだが。


カンファがあると、病理解剖に至った患者のあれこれは、非常に深く検討されることになる。その結果は、この先「ある患者」と同じ病気になる人への対処法として結実することもあるし、医療者たちにとっての大きな教育の材料ともなるし、さらに言えば、


「患者の経過の最中、主治医、スタッフ、そして家族がどうにも腑に落ちなかった部分への答え」


をあきらかにしていくことにつながる。



A病ならばB薬、のように、診断と治療が一対一対応していたならばどれだけ楽だったろう。

医療は決して一本道ではない。だから、振り返って見てみると、あそこではなぜこのような変化が起こったのか、あのとき患者はなぜ妙に良くなったのか、あのときあの治療はなぜあまり効かなかったのか、といった疑問がいっぱいあるものだ。

そういった疑問を、「病理医による解剖」だけで解き明かすのは、実際、難しい。しかし、「解剖までして、濃厚なカンファをみんなでやる」ことまでたどり着けば……かなりのことが見えてくる。


これが病理解剖の効能。これが病理医が病院にいる大きな意味なのだ。

2022年6月1日水曜日

変わった社会

思慮深い教員と話していると、「変わった学生」に対する大人達・教師側の反応が見えて、興味深い。



一例として、

「あの子は変わった学生ですから要注意ですよ」

といった言葉が教員室内でささやかれている場面を考える。非常によくあることらしい。



その学生が「変わった」と言われる理由は、「よくわからない理由で授業を休もうとする」であったり、「課題の提出が遅れたときの言い訳がへん」であったり、「講義に対する注文の仕方が独特」であったりする。


おかしないいわけや申し開きをする、教師の言うことを聞かずに刃向かってくる。


ところがこれらはよく考えるとお互いさまだというのだ。少なくとも、ぼくと話しているその教員は、そのように示唆している。



学生が「よくわからない理由で学校を休む」ことに対して、すべての教員がその理由をわからないわけではない。「ああ、そういうことはあるよね」と、学生の気持ちを理解する教員もいる。しかし、学生側の理由をあっさりと「自分にはわからない」と断じる教員もいる。


「課題が遅れた理由はそれなりに理解できるから、次に期限内に提出できるようにするための対策をいっしょに考えよう」と接する教員もいる一方で、「決まりは決まりなのだから期限内に出せなければそれは普通に悪であり減点」ときっちり裁く教員もいる。


教員側に出された注文に対し、「この注文が出るくらいには問題意識を持っているのだな」と、注文の裏にある心の動きを探りに行く教員もいれば、「教員に対して意見をする時点で学生として不適格」と言わんばかりの態度をとる教員もいる。




このように列挙されると私はいろいろ考えてしまうのだが、そこですかさず話し相手が言ったのが、次のような言葉だった。


「つまりこれって、教員側が変わっているんですよ。変人という意味でなく、『千変万化』の『変』です。教員も人間なので、当たり前のように多様です。学生に対する態度が、教員ごとに『変わって』いる状態ですよね。逆に言えば、教員室で話題にものぼらない『普通の生徒』とは、なるべく多くの教員に目を付けられないように個性を殺して気配を消している学生です。変わった教員の目に留まらないようにすることが、教員室から見た『普通』になる。」


なるほど。私はうなった。できるだけ自分の物差しだけで全てを判定したい人が教員をやると、自分の基準から外れた学生を「変わった子」として片付けてしまうのだろう。まったく困ったことだ、そういう人は教員に向いてませんね、と私が言うと……話し相手は、わりとはっきりとした口調で言った。


「必ずしもその教員の『とが』として片付けるべきでもないと思います。それだと、教員側が多様であることをもまとめて否定してしまいます。学生の多様性を受け止められないことは確かに問題ですが、返す刀で教員側の多様性を縛ってしまうのも、やり方として過剰ではないでしょうか。」


私は思わずだまりこんでしまう。そこまで考えていなかったからだ。話し相手は続けて言う。


「いろいろな受け止め方をする人がいるのが社会であり、相手と自分とが違う価値観で生きていることに気づけない・気づかないままの方がラクだという価値観でしか生きられない人もいます。それによって害を被る人がいることに目をつぶってはいけませんが、かといって、そういう生き方しかできない人をすぐに否定するのも不寛容です。」


でもそれでは結局、「変わった学生だよ」と言われたほうがかわいそうではないか。


「はい、そうです。教育現場に限らず、社会ではかわいそうなことがいっぱい起こりますね。だから、そういうかわいそうなことを言われた人に対しては全幅のサポートをしなければいけません。そういうものだよね、と言ってあきらめてはだめです。そして、『罪悪感なく他人にかわいそうなことを言ってしまう人』にも、責めるよりもむしろサポートをしなければいけません。」



呆然としてしまう。しかしゆっくり考えて、こうして文章にして読み返すと、言いたいことはかなりわかる。「ひでえ大人はいるよな!」と言う言葉の持つ暴力性、というところまで私はこれまで考えていなかった。そのひどさを無視しろというのではない。そこを「ひどい」で考え終えてしまうことが短絡だ、ということなのだろう。わかってきた気はする。ただし、わかりはじめたばかりでもある。