2021年5月31日月曜日

リアルを大事にしたいので

ウェブで学会に出たあと、帰宅しながら別の研究会の幹事会議に耳だけで参加する。役員交代が終わり法人化に向けて進んでいる気鋭の研究会は議題が多く、家についてもまだスマホからは激しい議論が聞こえていた。スーツを脱いでジャージに着替えて、イヤホンをスマホに挿す。イヤホンにはクリップがついていて、前屈みになっても目の前にケーブルが垂れ下がってこないように服に留めることができる。空を見ると、ぎりぎりガマンしているという雰囲気。ぼくは会議を聞きながら草むしりをはじめた。3週間放置してあったから、あちこち伸び放題だったのだ。


会議の中ではぼくも何度か発言しなければいけない。この研究会はこれから多くの他業種にアプローチする必要があるので、Twitterを用いた公報に力を入れたいのだそうだ。会の代表から声がかかる。「公報、SNSについては市原先生が大変お詳しいと思うのですがいかがでしょうか?」ぼくはこのときのために考えてきた言葉を口に出す。


「末端の小間使いとして何でもさせていただきますので、事務的な作業についてはおまかせください。ただし、できれば多くの偉い先生がたに、ツイートの内容をときおりチェックしていただき、方向修正をお願いできればと存じます」


すると「偉い先生」の一人が泣き言のように言った。


「申し訳ないんですが、今年から来年にかけて学会が目白押しで、ほとんどお役に立てないかと思うのですけれども……」


そこで準備済みの原稿(第2幕)を差し込む。


「はい、○○先生は、もうぜんぜん、大丈夫です、細かい仕事はこちらでやっておきますので、お手は一切煩わせませんので、ときおりSlackとかGoogle documentとかで、チラッとみて気になったところで『そこは市原はちょっとやりすぎなんじゃないの?』の一言をかけていただけるくらいでもうぜんぜん大丈夫です」


偉い委員は笑う。「そういうのは得意です」。そうして会議は先に進んでいく。ぼくが律速段階になってはいけないということをずっと考えている。




草むしりが終わって家に入り、横になって本を読んでいたらいつしか眠ってしまった。夕方に目が覚めて、今日は晩飯を「外食」にしようと思っていたんだったなと気づいて、かねてよりマークしていたテイクアウト専門店をググってメニューを見る。「外で買うご飯」のことを外食と呼ぶようになって1年が経つ。やや高めにも見えるが、この揚げ物はおそらくそれなりのサイズがあるのだろう。電話で予約して取りに行けば早いのだろうけれど、現物をきちんと見てみたいという思いもあって、店に直接行ってみることにした。テイクアウト専門店の店頭で注文し、車の中でできるのを待つ、これなら三密回避は達成できるだろう。もう長いことそうやっている。最後に店の中で「座った」のがいつだったのか思い出せない。


車を飛ばして店にたどり着いた。UBER eatsとペイペイのロゴが貼ってある、お弁当屋を思わせる店内には男性の厨房担当者と女性のバイトらしき人がいて、でも女性も何やら揚げ物をしているときがあり、分業が完全に行われているわけではないようだった。注文は女性がとってくれた。お決まりになったらご注文をどうぞ。メガネが大きい。空気がたっぷり入ったボブ。そして大きめのマスク。この顔をアイコンにしたら顔の地肌部分は2割も目に入ってこない。ゆったりとした大柄の白いワイシャツにゴワゴワ硬そうな白いエプロン的何かを羽織っていて、首から下の白い光が顔に反射して全体的に白くなっている。ぼくは「私立探偵濱マイク」で映画館の受付に座っている井川遥を思い出す。「3種盛りを2つ……ここにある6種類をそれぞれ入れてください」と告げたら井川遥は少し考えて言った。「あ、この大きく書いてある1つがメインのメニューです」。なるほど、ほんとうは7種類あるのだが、1種類がメインすぎてフォントも強調も違っていたためにぼくの目からはかえって外れてしまっていたということを、この井川遥はぼくの注文の仕方からきちんと見抜いて的確に指摘したのだとわかった。すごく頭がいいなと思った。ぼくはこの店が気に入ったし、20年前のぼくだったら確実に目の前の井川遥に恋をしただろうと思った。最近そういうことをまれに考える。過去の自分、もしくは息子だったらこの子のことが好きになったろうな、という回路を整備してそちらに思考の水を流し込むことで、停留、滞留を防ぐような感覚。



車の中で待ちながら、朝からやっていた学会のセッションのことを考えていた。セッションにはディスカッサントがいて、ぼくは会を回す役割をしていた。お題はなんとSNSなのである。時代も変わったなと感じたし、SNS関連のセッションでぼくにでかい役割を渡すこの学会のことが少々心配にもなった。印象的だったのはSNS全般に否定的な考え方を隠そうともしないディスカッサントの一人が思わず漏らした、


「私はリアルを大事にしたいので、SNSはやりませんしテレビもまずみません」


というセリフだった。「SNSをやり、テレビを見ている人は、リアルを大切にしていない」と信じ切っていないとこの言葉は出てこない。ぼくは今おそらくリアルに生きていない人間としてその目に映っているのだろうなと思った。「他人のリアルを想像しきれない人たち」というのは今この瞬間にも地下の至る所で軋む活断層である。


ディスカッサントは、自らをダイノソーに比した。絶滅しかかっていると言えば自虐に聞こえるだろう、それでこの場は収まるだろうと考えているようでもあった。自らを「旧時代の覇者」に例えていることに無自覚なのがおかしかった。おそらくどこまでもぼくはその人の中で殴られ続けるのだろうと思った。「こういう人はこうに違いない」と強固に組み上げられた虚構の外側にぼくの皮膚が塗りたくられ、雑な想像で「SNSに惑溺してリアルをおろそかにする馬鹿者達」という3Dモデルを空間に生成し、それを永久に殴り続けることで、フラストレーションという名のエントロピーが低下し、ある種の「秩序」ができあがって、骨格標本が往時のかたちに組み上がる。博物館でみる恐竜の骨は、往時に思いを馳せるのに役立つが、じつのところ、昔の生き物たちがどういう肌の色をしていて、どういう声で鳴いていたのかを、専門学術のないぼくは想像することが難しい。



井川遥が無料のレジ袋にぱんぱんに詰めた揚げ物を手にしたタイミングで、ぼくは店内に戻る。厨房では流暢な日本語をしゃべる男性が電話で注文を聞いている。ニラやニンニクのにおいは数日ほど車に残るだろうけれど、今日ここに来ていなかったらぼくはきっと悲しくて仕方がなかったろう。笑顔の井川遥に頭を下げて、恐竜ですらないクロマニヨン人は車のイグニッションを回す。

2021年5月28日金曜日

病理の話(539) 言葉の端々に不安が見えたらそれをきちんと指摘する

病理医の仕事のひとつに、臨床検査技師とタッグを組んで、「細胞診(さいぼうしん)」をするというのがある。一般的に「病理診断」と言われるものは組織診(そしきしん)であり、細胞診(さいぼうしん)とは微妙に異なるスキルが要求される。


病理医の中には、組織診(そしきしん)だけをすれば自分の仕事は十分だ、細胞診(さいぼうしん)なんてやりたくない、と言って、細胞診用の資格(細胞診専門医)を取得しないまま働いている人もいる。そういう考え方をぼくは否定こそしないが、かなりもったいないことをしているなあ、という目でみている。魔法使いが、メラ系(炎系)の魔法を覚えているからヒャド系(氷系)の魔法は覚えるつもりがない、と公言しているようなものだからだ。両方覚えていればメドローア(極大消滅呪文)を使えるかもしれないのに。


まあ、細胞診をおろそかにする残念な病理医の話は置いておこう。




細胞診の中で比較的知名度が高いのは、子宮頸がん検診だ。子宮の入り口の部分をブラシ的なものでこすって、そのブラシをガラスプレパラートの上にこすりつけることで、子宮頚部の表面にある細胞をガラス上にばらまく。無数にある細胞を目でチェックする。その中に通常とは異なる細胞が見つかったら要注意だ。それは「異形成」と呼ばれる、がんになりかけている細胞かもしれない。


ガラスの上に大量にくっついている細胞の中から異常な細胞だけを的確に見つけ出すのは、「ウォーリーを探せ」に似た難しさがある。これを担当するのは臨床検査技師、それも、「細胞診検査士」という特別の資格をもった技師たちだ(この資格試験がマジで難しい)。卓越したスキルによって、渋谷のスクランブル交差点の中にまぎれた数人のチンピラをビシッと特定する(※イメージです)。


見つけ出したチンピラが「たしかにがんである」か、「がんになる前の異形成と呼ばれる病変である」か、「がんはがんだが扁平上皮癌ではなく腺癌である」のように、どの種類のワルモノなのかを判定するのも基本的には臨床検査技師の仕事。

ただし、この「ワルモノを分類する」ことについては、臨床検査技師だけではなく病理医も関与する。ひとりで判定することはない。ふたり以上で判断をくだすのだ。それだけ責任が重い行為だと言える。



病理医は「細胞診専門医」として「技師の指導」を行う……ということになっている。しかし、じっさいには、スクリーニングで無数の細胞を日々みている臨床検査技師のほうが、細胞診にかんする感覚・センスは圧倒的に優れている。病理医が横から口を挟むよりも、細胞診検査士の資格をもった技師がきちんと読み切ったほうが基本的な精度は高い。


そこで、現場では、技師が最初から最後まできっちり細胞を見たあと、最後に集合顕微鏡と呼ばれる複数名でいっしょにのぞき込める顕微鏡を用いて、技師と病理医がディスカッションをして診断をくだす。


集合顕微鏡


ここで技師は、自分が見たプレパラートの中にあらかじめ水性ペン(人によっては油性ペン)でマークを打っておき、顕微鏡を自ら動かして、横にいる病理医に「自分が気になった細胞」を見せてプレゼンを行う。


技師「ここですね。背景は比較的きれいなのですが、やや腫大した核と、koilocytosisを示す細胞。核縁にしわがよっており、クロマチンは軽度増えています。N/C比からは表層型の細胞と判断できます。こんな細胞がプレパラートの中にちらほら……」

病理医「はい、いいですね。では診断は」

技師「軽度異形成でよろしいかと思います」

病理医「OK, それで行きましょう」


病理医がやっているのは「はい」とか「OK」と背中を押す仕事だ。ほとんど技師の判断である。しかし、ここで病理医が技師に「応答する」ことには一定の意味がある。

たとえばこういうことがある。



技師「ほとんど……おかしい細胞はありませんでした。ただしこことここ、2箇所だけ。N/C比は高く、クロマチンも増えていて、核膜も不均一に肥厚している細胞が、重積している……ちょっとおかしく……重積している、ように、見えます」

病理医「なるほど」

技師「そしてこちらはもう少し異型が弱いのですが……まあ、似たような……」

病理医「はい。では診断は」

技師「はい。腺癌と診断します」

病理医「……ん???」



病理医は最後に引っかかってしまっている。

技師のプレゼンは、あまり自信がなさそうに聞こえた。細胞診断の過程で、どこがどうおかしいかを技師の言葉で言語化したところ、「ほとんどない」とか「ちょっと」とか「弱い」とか「まあ」といったように、言葉的には「これじゃあがんと決めきれないなあ」という雰囲気がにじんだ。

しかし、最後に病理医に診断を聞かれた技師は、いきなり自信を取り戻して「はい、腺癌です」と言い切ってしまっている。

ここで病理医が待ったをかけることはとても重要だ。

技師が無意識に、心の中で、「強い診断を出すことに躊躇している」のであれば、その躊躇の理由をきちんと言語化してもらわないといけない。


病理医「今の説明を聞いていると、少し自信がない部分もあるのですか?」

技師「そうですね……細胞は間違いなくがんでいいと思うんですけれど……採取されている量が少ないときにはやはり慎重になりますよね」

病理医「では、がんと診断を確定させるのではなく、『がん疑い』にして、もう一度細胞を採ってもらいましょうか?」

技師「いえ、でも、少ないにしても、これだけ様子のおかしい細胞が出現していたら、がんでいいと思うんですよ! 特にこの核小体は異常ですね。これは正常ではまずあり得ない」



会話の中で、技師はだんだん自信を取り戻している。根拠も、だんだん揃ってきている。

病理医「では我々の連帯責任でこれを腺癌と診断しましょう。じつはぼくもこれは腺癌で間違いないと思っています。ただ、あなたの今のプレゼンがやや不安そうだったので確認しました」

技師「はい、腺癌のレポートを書きます」

こういう「ゆらぎ」が起こることは、ままある。診断という強烈な線引き行為(ここからここまでが病気ですよ、と線を引くようなものだ)には、複数人の目と言葉による綱引きが必要だ。


究極的なことをいうと、「迷いを残したままのレポート」を書くこと自体は構わない。主治医や患者から見て、「ああ、これはプロが迷うほど難しいんだな」と感じられればそれは立派な報告用紙である。しかし、「内心迷ってたけどエイヤッって診断しちゃった」はめっちゃくちゃに危ない診断である。ここを見極めるのは病理医の大事な仕事であると思う。


2021年5月27日木曜日

5%の言い訳

「クラファンの宣伝のときだけ出てきてわいわいnote書いてツイートしてRTして、クラファン達成したら引っ込んで二度と出てこない医者アカウント」の是非を考えていたら夜が明けた。それもまた善意なんだろうと結論して是のハンコを捺す。ちかごろは5時を過ぎると世の中が明るくてうれしい。札幌に春が来た。自宅からおおよそナナメに位置する職場まで、碁盤の目に走行する札幌の市街地をジグザグ突き抜けていく無数のルートを、毎日少しずつ変えながら出勤していたが、ここんところ「3回くらいしか信号につかまらないルート」を見つけて出勤がラクになったのでもっぱら同じルートで通勤している。早朝、だれもいない片側二車線道路を法定速度でのろのろと走っていると、横を猛スピードで追い抜いていくアウディやBMWがいて、たまにジープのこともあるのだが外車はなぜ早朝に時速80キロで走りたがるのか? そういう車が800メートル向こうの赤信号で停まっていて横にスッと追いつくとき溜飲が少し下がる。燃え殻さんの『夢に迷って、タクシーを呼んだ』の表紙のイメージが浮かぶ。車の中も外も油絵のインクまみれ。網膜の前後に塗られた色の組んずほぐれつを言語に置き換えることができない猿ぐつわ状態で、ハンドルを指でタンタンはじく。問い詰めたい人たちから問い詰められる場面のことを思う。先日、ある人から、「本を出したところこのような手紙が編集部に届いて」と相談を受けた。そこには著者に対するピントのずれた中傷が書かれており、思わずぼくは使い古された語彙で「交通事故にあったと思って忘れなさい」とアドバイスをしたのだが(交通事故が忘れられるものだろうか?)、最後のところに署名とともに、○○市○○ ○○病院と住所代わりに勤務先が書かれていたのが気になった。検索をかけるとたしかにそのような病院があり医師の名前も見つかるのだが、いまどき病院の名前は書いて科の名前を書かないというのは珍しいなと思った。おそらくこの人は戦前もしくは戦後すぐに医師免許をとったタイプなのだろうと無駄にプロファイリングをする。医療に対する知識をアップデートをできていないのかもしれないと思わせる記述がいくつか見つかる。具体的にどういうことが書いてあったかをここでは言わないが、たとえていうと、ある年齢より上の医師で最近の医学業界を知らない人は、医学博士と博士(医学)とを分けろという、そういう話にこだわる人は一定以上の年代だと見る人が見ればわかる。最近の学位は博士(医学)であって医学博士ではない、と強めに叱責してくる人には複数会ったことがあるしDMでも見たことがある。アカデミアから学問をもって任命されたものの呼称にこだわるのは大変よいことだけれども、近年のアカデミアがそのような呼び分けなどとっくに忘れ去っていることを、各種の学術雑誌や医学書からなぜ読みとらないのかと不思議に思う。Windows WWIIくらいの超絶古いOSで動いていてインターネットに接続しておらず、Windows updateが一切稼働しないまま30年以上ほうっておいているパソコンを見ている気持ち。ファミコンはよかったよな、買ったらそれっきり二度と進化しないソフト、だから何十年経っても同じゲームが遊べるんだ。インストールして半月で飽きたニーアリィンカネーションを10年後にやりたいと思ってももうプレイする方法は残っていないだろう。アップデートの功罪を思い出に沿ってひとり問答していくと、たしかに、齢80を超えた頃には自らの20代の記憶にすがってやっていくしかないのかもな、というエクスキューズに納得してしまいそうになる。それはそれとして、自分の五感で構築した仮想世界を他人の脳に移植するような卑猥な真似をよくできるものだ。平均的な性交の数億倍傲慢である。ここで平均的と書いておかないといけないくらい、世の中は正規分布していて、つまりは中心をはずれた5%の部分がいつも誰かの言い訳に使われる。


信号が青になる直前から外車はじりじりと前に出始める。ここの信号は歩車分離だから、横の信号が赤になっても前の信号はすぐ青にはならないで、かわりに横断歩道が全部青になる。ぼくはそれを知っていて、横の車がフライングで発進しかかっているのを見て、こいつ歩行者信号が青のタイミングでまだ動いてるけど大丈夫かな、と少し気を揉む。横の信号が赤になり、四隅の歩行者信号がすべて青になって、とうぜんすべての車用信号はまだ赤のままなのだけれど、隣の外車は猛スピードで走り去っていった。歩行者が誰もいなくてよかった。早朝なのだから人がいないし、まあ誰も困ってないと言えば困ってないのかもしれないけれど、はみ出ものをスマホで撮影してTwitterで晒すわけでもないぼくは今ここで何かの役に立っているだろうかともう一度ハンドルとタンタンと叩く。

2021年5月26日水曜日

病理の話(538) ガタがくるということ

人間がもっている臓器はすべて「一生モノ」であり、どれもこれも生涯使い続けなければいけない。だから、どうしたってガタがくる。時を経ることで臓器がどれくらいへたるかというのをみなさんに実感してもらいたい。人間の体のパーツは経年劣化する。


さあ、どのパーツの話をしようか。本当は、心臓の話をしたい。


心臓にガタがくるというのは事実だ。ただ、この、「心臓は経年劣化します」って、文字にすると怖すぎる。本能が「そこをあんまり想像してくれるな」と叫んでいる。いきなり心臓の劣化の話を書いて読んでもらうのはハードルが高い気がする。


そこでまずは、もう少しイメージが湧きやすい臓器を使おう。なにかというと、皮膚である(臓器と言うと驚く人もいるが皮膚はたしかに臓器である)。皮膚はわかりやすく経年劣化する。なんてったって、目に見えるからね。


赤ちゃんの肌の、みずみずしいもちもちプリプリ感。水分を豊富にふくみ、組織自体がやわらかくて、傷がついても再生力が強く、色素沈着なども来していない状態。


これが、長年にわたって紫外線をはじめとする外界からの刺激を受けることで、破壊と再生、ターンオーバーをくり返し、少しずつ変化していく。表皮の再生スピードが落ち、真皮内には弾性線維が増えて硬さを増し、毛根の活動周期も落ち、メラノサイトの分布とメラニン産生能力・回収能力にもムラが現れる。


それでも100年「保つ」のがすごいと考えるべきなのだろう。テレビ、冷蔵庫、パソコン、どんな家電でも100年は使えない。自律的に再生できる人間の臓器というのはほんとうにすばらしい力を持っている。


でも、できれば、100年生きてもきれいな肌で居続けたいものだ。皮膚の経年劣化を食い止めることは、審美的にすばらしいことだが、体の健康を保つ上でも大切である。皮膚が元気であれば、小さな傷口から細菌が侵入して感染を引き起こすのを防ぐことができる。


有効なのは紫外線対策である。日焼けをきちんと防ごう!





……このように、「皮膚の経年劣化とその予防」はわりとわかりやすく書ける。イメージを喚起しやすい。なんなら、今日のブログが「病理の話」だということを、みんな忘れているのではなかろうか。あんまり医療の話題っぽくない感。

日焼けを防いで皮膚を若いままに保とうという話は、「美容」や「健康」、さらには「日常系」の話題である。病気がどうした、病院がどうしたという、しかめっつらで医者が説教する話ではない。もうちょっと、しとやかで、常識的な感じ。

ところがこれが心臓となると、とたんに「病気」「健診」、さらに「生活習慣病」ということばでくくられはじめる。

しかし話は似ているのだ。皮膚にとっての紫外線予防が、心臓にとっては減塩食や適度な運動にあたる。



「ほらぁー、すぐ医者はそうやって食事と健康のことばかり言う(笑)」



でもさあー皮膚ですら年取るとボロボロになっていくんですよ。毎日バックンバックン動き続けている心臓だってメンテナンスしないとボロボロになるの当たり前じゃん。おでかけのときにUVカットするのと同じように、お食事のときに塩分カットする、それがどれだけ大事かってことなんだよ。



上は日本循環器協会のツイートから借用した。勝手に使うなと怒られたら全力であやまっておもねってなんとか許してもらうのでこのまま使う。

「心不全は4回予防できる」

このキャッチフレーズは強烈だ。いままで「日差しを避けるように塩分を控えて運動をしよう」とキャッキャウフフしゃべってたのに、背中に液体窒素を注ぎ込まれたような気分になる。



「予防」はあなたの人生に役に立つ。「タバコ吸ったってがんにならない人もいるじゃん」という逃げ道を用意して予防をおろそかにする人がいるけれど、長年外で日差しをさんさんあびて働いていた人が、年を取ってなお肌がツヤッツヤなことがどれだけあるだろうか? まずないだろう。経年劣化は止められない。メンテナンスは大事なことだ。




今日の話はこれでおしまいなのだけれど、最後に、最近ぼくが考えていることをひとつ。

「病気の話」ではなく、「日常の話」としてやるべき予防医学こそは、日常にぴったりひっついているツイッターと相性がいいはずなのである。病理医のアカウントが膨大な量のフォロワーを集めている場合ではない。ほんらいは、日焼けを防ごうと呼びかける皮膚科医のアカウントや、食事と運動に気を配って心臓の寿命を延ばそうと呼びかける循環器内科医のアカウントこそが、ぼくの役割にとってかわるべきなのだ。糖尿病内科医とか。腎臓内科医とかね。きみらもっとしっかりしろ。いつまで病理医の後を追いかけているんだ。


日本循環器協会: https://twitter.com/J_Circ_Assoc

2021年5月25日火曜日

編集者の効能

本を買うスピードを落として、かわりに本棚にある分厚い医学の成書を頭から読む時間にあてている。これまで辞書的に使っていた本たちを通読することで、時間がどんどん解けていく。掛け値無しに楽しい。


「ぜんぶ読む楽しみ」をわかってくれる人は多い。実際にやるかどうかはともかく、「ああ、それができたら楽しいかもね」と感じる人はいっぱいいる。ツイッターではどちらかというと「読まずに積んでおく楽しみ」を語る人が多い印象があるが、「隅々まで読む楽しみ」についてももっと語られていいと思う。



学生時代、ハリソン内科学やロビンス基礎病理学を通読するタイプの医学生が周りにいた。じつを言うと、かつてのぼくはそういうのを「うさんくせえなあ」という目で眺めていた。必要な部分を拾い読みすればいいのに、なんでわざわざ、小説でもない教科書を全部読むのだ? 隅々まで読んだというタイプのマウントをとるためだけに本が消費されている、と感じた。


この感覚が今も多少は残っていて、「読み終わるためだけに読む」ことについては自覚的に回避している。ひとつの本にまとまっている内容にいつまでもかかずらっていることは、「ある種の偏り」を産むように思う。本に没頭するとき、人は精神的にも肉体的にも前のめりになるが、それはつまり傾いているというだ。あれもこれもと読んだ方がバランスはとれるし、つんのめることもない。


それでも。


一冊読み通すというのはやはり気分がいい。ある種の背徳に似た快感がある。こんなにひとつの意志に身を委ねてよいなんて、という誘惑。古い記憶にためらいを覚えつつも、端から踏破する楽しみに心を浸す。



医学書をきちんと読み通そうと思ったことにはいくつかのきっかけがあるのだが、その一つはおそらく「編集者たちと知り合った」ことだ。


成書の多くは、章ごとに違う著者が筆を執る。執筆者たちはお互いの原稿すべてに目を通していないことが当たり前だ。しかし、担当編集者だけは、どんなにクソでかい医学書であっても、本の全体を読んでいる。


多くの編集者たちと知り合うに至って、ぼくは編集者たちのように「通読」をしてみたいなと思うようになった。内容の豊穣さはもちろんなのだが、章立ての妙、相異なる執筆者たちをまとめあげる語調、フォント、デザイン……。本を多角的に読めるようになるに連れて、本を隅々まで味わうという「通読の楽しみ」も増した。


医学生にはおすすめできない、彼らには本質的にそのような「本をだらだら楽しむ余裕」がないのだから、マウント目的以外ではなかなか通読なんてしている暇がないだろう。しかしぼくはもう、トウの立った中年だ。娯楽のためだけに医書を読む資格は身につけた。役に立つか立たないか、そんなことを度外視した部分で、何かがぼくの心を細かく振動させてくれる。

2021年5月24日月曜日

病理の話(537) サイコロのイメージ

某看護学校での講義で、学生さんに質問されたことがある。


「先生、何歳からやってたら子宮頸がんになりやすいんですか?」


なかなかパンチのある質問だ。ふつう、「先生」にはあまり用いないタイプの言葉使いである。笑ってしまった。


ぼくは、この人から質問を受ける直前、授業中に、以下のように説明していた。


「子宮がんは、比較的頻度の高いものが2つあります。ひとつは子宮頸がん、もうひとつは子宮体がん。

このうち、子宮頸がんは、ほとんどの場合、ヒトパピローマウイルス(HPV)というウイルスによって引き起こされます。HPVは主に性交渉によって感染するウイルスです。

したがって、比較的若年のころから性交渉歴があり、しかも複数の相手と性交渉をくり返していると、HPVに感染するリスクが高まり、結果として子宮頸がんを発症するリスクも上がっていくと考えられます。

だからHPVワクチンは性交渉を開始する前の年齢で、若いうちに打ったほうが効果的だと言われています。

もっとも、現在のデータでは、20代であっても30代であっても、性交渉をしたあとでも、ワクチンを打った方がメリットが大きいとする意見が強くなっていますけどね。みなさん(※看護学生)も、ぼくの話を聞いたらなるべくワクチンを打つようにしてください。最近になって多くのデータが出そろい、大きな声で『打った方がいいです。』と言えるようになりました。まあ、今までも小さな声では言っていたのですが……」



この話をうけての、「先生、何歳からやってたら子宮頸がんになりやすいんですか?」である。じつにクリアな質問だと思う。


ぼくは「リスクが上がっていく」という話をしているのだが、学生さんは、「どこかに目安となる年齢がある」と感じたわけだ。○歳より前に性交渉をすると子宮頸がんになりやすく、○歳より後ならならない……のように。


で、ぼくは追加で、以下のような話をした。



「○歳まで待てば大丈夫、みたいな話は言いにくいんですよ。がんに限らないんですが、あらゆる病気は、原因がはっきりひとつに決まっているんじゃなくて、複数の原因の併せ技と、あと……言い方は悪いですが、『運』によって発生するんです。


イメージとしては、面が10万個くらいあるサイコロを毎日振り続けて、『はずれ』と書いてある目が出たら、がんに向かって一歩近づく、みたいなかんじ。


『はずれ』と書いてある面の数は、10万ある面のなかで、2,3個くらいなんですよ。ふつう、めったなことでは出ませんね。でも、人間の体の中にはとんでもない数の細胞があるし、これらが一斉にサイコロをえんえんと振っている。だから、いつかははずれが出ます。


でも、はずれが出ても、それがイコール『命をおびやかすがん』につながるかというと、そうではない。がんの三歩手前にたどりつく、くらいなんです。確実ながんになるには、まだまだ、サイコロを振り続けて『はずれ』が蓄積する必要がある。


いよいよ、めったなことでは起こらないなあ、と思ってほしいんです。


じっさい、世の中にいる人の大半は、長い人生の中で1回くらいしかがんになりませんし、まったくならない人もいます。まあ、2回、3回とがんになる人もいますけれど。


ただ、このサイコロ、『はずれ』の面の数が一定ではないんですよ。とった行動によって、増えたり減ったりする。


HPVに感染すると、子宮頸部の細胞がもっているサイコロについては、はずれの数がぐんと増えます。


すると、サイコロを振るたびに、はずれが出る可能性がちょっと上がる。


もちろん、サイコロにはほかにも目がいっぱいあるんで、2個あったはずれが10個になったくらいでは、まだまだ、はずれが出ることはめったにないでしょう。


でも、はずれの面が増えたサイコロを長く振り続ければ振り続けるほど、いつかはずれにたどり着く可能性は上がりますよね。


それが、『若くしてHPVに感染すること』の、ほんとうの意味です。


○歳より早くHPVに感染すると絶対に子宮頸がんになる、なんてことはない。ただ、若いときに感染すると、それだけ多くサイコロを振ることになるよ、ということなんです。」



この話を説明しながらぼくが内心考えていたのは、それでも、「性交渉自体を悪だと思わないでほしいな」ってことと、「全身の細胞がふるサイコロの『はずれ』をバカみたいに増やすのってタバコだよな」ってこと。


まあそういう話もいつかするだろうな、と思いながら、授業をすすめた。学生と向き合う時間はたっぷりあるのである。

2021年5月21日金曜日

気持ち悪くない700

ブログのアクセス数は、はじめたときからほとんど変わらない。少ない日で1日700人(ユニークユーザー)、多めの日で1日900人。ぼく以外の誰かがツイッターでURLを載せてつぶやくとアクセス人数がパンと跳ねて2000とか3000とかになる。けれどだいたいそこまでだ。フォロワーが8万人だったころと、13万人を超えた今、ほとんど変わらないのがおもしろい。


これがnoteだと、どんな記事を書いてもアクセス数が一ケタ違うし、少しタイトルを工夫するだけで二ケタ変わる。でもこのブログとnoteとで中身の書き方を変えているわけではないし、よりSNS的な媒体を使えば見た目のアクセスが増えるというだけのことで本質的な差ではないのだろう。前にまてぃさんは「noteだと記事から記事へどんどんリンクが貼られるからアクセス数も伸びるのだ」と言っていた。そういうこともあるのだろう。


広告のことを考えている人にとってアクセス数やインプレッションほど興味を惹くものはないが、ぼくにとってnoteの「アクセス数の伸びやすさ」は、「往復書簡(文通)の相手のことをみんなに知ってほしい」という欲望をうまく満たす以外にはあまり役に立たない。自分ひとりで何かを書いてあれほどしっくりこない媒体も珍しい。本の紹介はOK(たくさんの人の目に触れて欲しい)、イベントのレポもOK(たくさんの人の目に触れて欲しい)、しかし自分の思考が交流電源状態となって行きつ戻りつするさまを、本質的な部分を超えるほどに多くの人の目に触れさせてもおもしろいことは起こらない。断片的な素材であるツイートならともかく、ある程度の長さの文章を構成まで考えて組み上げたとき、触れさせるなら他人の脳まで進達しないと意味が無いと思う。残念ながらぼくが一人で書いたnoteは脳に届かない。なぜなのかはよくわからない。だからnoteで一人の文章を書く気はしなくなった。二人だとコミュニケーションのニュアンスが出てくる分、これは脳まで届くかもな、という文章が出てくることはある。不思議な塩梅だなあと思う。


思い付いたままに書くけれど、noteはどこか信用しきれないところがある。「カイゼン」という片仮名を使う企業は個人的に最後の5%の部分を信じられない。もちろん反論はあるだろう、95%も信頼できれば上出来だ、という言い方は合っている。しかしnoteには本質がないんだと思う。もっとも、ぼくは元来、本質じゃない上澄みの部分を幅広く展開していくタイプのコミュニケーションが一番得意であり、世の大多数の人もきっとそうなので、だからこそ、noteやTwitterのような上っ面だけの交流媒体がこんなに活況を呈する。それをわかって使っている。便利であればよいのだ。


ブログのユニーク視聴者数のベースである「700」というのが、ぼくが情報を直接見てもらえる人数の上限なのだろうと思う。誤差はあるにしろ。YouTubeの視聴者数も、同時接続だと多くて700人くらいだし、学術講演をしてもいっぺんに聞いてもらえる数はせいぜい1000人が限界だ。こういう話をすると、「つまり君が有料版のツイッターを使ったりnoteでサロンを開いたりしたら700人くらいは人が集まるってことだよね、ひとりから月1000円とったら70万円だよ、税金をものすごいとられても40万円くらいは手元に残るじゃないか」みたいなことを言う人がいるがふたつの意味で間違っている。ひとつはサロンを開いたら契約してくれるのはたぶん7人だ。そしてもうひとつ、ぼくはnoteでも課金欄を真っ先に消去したし、Twitterに投げ銭機能がついたらその日のうちに設定で投げ銭をできないように設定する。これは理屈ではない。気持ち悪いのだ。20代のころから投げ銭に慣れているようなナチュラルボーンクラウドファンディング世代ならいざ知らず、立派な40代であるぼくが編集者もつかない場所でブレインストーミングをしている内容に金が飛んできたら、遠からず、金が思考を校正することになる。気持ち悪いのだ。もちろんぼくだって、学者、たとえば哲学者が「思案の練習台」みたいなツイートをするところを見ると投げ銭をして応援したいなと思うことはあるし、noteでも他人の努力に対して「たしかに見たぞ」とお金を置いてきたことは何度もあるが、自分があれをやられて平静でいられるとは思わない。気持ち悪いのだ。


自分があまり気持ち悪くならない程度に、気持ちを少しずつ変成させていくことを数年続けていて、ぼくはわりと自分がいいほういいほうに変わってきているような気はする。しかし、変わっても変わっても待っているのは700人なのだ。それが興味深いなと思うことはあるし、これについては気持ち悪くはない。

2021年5月20日木曜日

病理の話(536) 丹念に言葉を読んでいく

昨年、『皮膚病理のすべて』という本が3つ刊行された。I, II, III。

Iは「基礎知識とパターン分類」編、

IIは「炎症性皮膚疾患」編、

IIIは「腫瘍性皮膚疾患」編である。

このIIIが出たタイミングで3冊とも購入した。ただし公費(我が科の研究費)を使用したので自分で買ったわけではない。こういう大判の教科書は、病理の部屋に置いておけば、ほかの病理医も、皮膚科医や研修医なども読みに来るので、科の財産として備え付けておくのである。


真ん中にある色鮮やかな3冊に注目。


ただ、じつはこのたび、筆頭編者の真鍋俊明先生より、これとは別に献本をいただいた。真鍋先生は『皮膚病理のすべて I』のじつに2/3をご自身で執筆なさっている。



ありがたいことで、恐縮している。普段、知らない人からの献本は受け取らず、事前に連絡なく送ってこられた場合には自腹で送り返すこともあるのだが、今回はやりとりの末にいただいた本であったのでありがたく頂戴した。これはいい機会だな、と思ったのでゆっくりと通読している。

そこには一流の病理医による細やかな病理学がこれでもかこれでもかと書かれていた。



ぼくはもともと、真鍋先生の書かれた『皮膚科医のための病理学講義 ”目からウロコ”の病理学総論』(金芳堂)や、真鍋先生とそのお弟子さんちが書かれた『外科病理診断学 原理とプラクティス』(これも金芳堂)を愛読しているので、真鍋先生の書かれるものには親和性が高いのだけれど、それを差し引いてもなお、今回の本は頭から順にゆっくり読むごとに発見と静かな感動がある。

今回、特に何度も目に焼き付けるように読んでいるのは、専門用語の数々だ。それも、ぼく自ら何百回も病理診断報告書に書いたはずの言葉たち。

過角化。錯角化。顆粒層肥厚。Acanthosis. Spongiosis. Ballooning. Mucinosis. 棘融解。ディスケラ。空胞変成。裂隙、水疱、小水疱。膿疱と膿瘍……。

使い慣れたがゆえに使い方が雑になっていた言葉を確認して脳内に練り込み直す作業が苦痛でなくなったのはいつからだろうか。少なくとも20代のときにはこういう本の読み方はできなかった。



人間、いちど専門性を身につけてしまうと、かえってその領域の古典的な本を読もうとは思わなくなるものだ。応用が利くように、他分野、辺縁領域、自分とは少し離れた場所にあるものばかりを読むようになる。そんな折、こうして真っ正面から、病理学ど真ん中の本を読むとあらためて自分がいかに「途上」にいるのかを思い知らされる。経験的に、世の病理医のうち、40代より上の人びとはだいたいみんなとてもよく本を読む。その意味が自分なりにわかってきたタイミングで、病理検査室の本棚をあらためて見やる。これを全部読み直したらきっと仕事の役に立つんだろうな、という気持ちがふつふつと湧いてくる。そしてたぶんそれをぼくはやるべきなのだ。病理医というのは病院の中では「勉強し続ける担当」なのである。患者に直接会わない分、それで浮いた分の時間を学問に振り分けてよいのだ。臨床医よりも本を読まなくなったら、この仕事をやっている甲斐がない。これが職務なのである。

2021年5月19日水曜日

通り過ぎてきた嘘の数

昔ぼくがやっていたZ会の通信添削答案を、母親がとっておいてくれていた。カロリーメイトの空き箱を横に半分に切って作った手製の答案入れが、紙袋の中にいくつも入っていた。

高校2年、3年のときの答案。自分の字が今よりはるかにきれいで四角い。たしか通っていた塾の講師に「きれいな字で書いたからって点数が上がるわけではないが、汚い字で間違って読まれて点が下がることはあるし、なんかその、人として読みやすい字を書くように努力はしたほうがいいよ」と言われたのだった。それをぼくは少なくとも高校3年間の間はまじめに守っていた。

Z会の通信添削ではペンネームを用いる。ここに書くのは恥ずかしい。「将来恥ずかしく思うだろうと気づけないギリギリのラインの恥ずかしさ」がある。この恥ずかしさは、ここ20年間のインターネットにおいて、ある種の文脈として強調されたものであり、昔はそこまで恥ずかしくもないものだったとわかってもいる。黒歴史という言葉が生まれる前には黒歴史という概念自体がどうあったのか。文芸を探れば出てくるだろうがそれはあくまで現代に伝わった印刷物の表現の範囲内での理解であり、その時代にほんとうに流れていた空気がどうだったかをまるごとコピーしているわけではない。極端なことをいうと、紙がなかったころ、思い出話が口伝以外に根拠を持たなかった時代には、きっと黒歴史なんてものは存在しなかった。言った言わないの話が今よりもうちょっと不毛だったかもしれないが。

通信添削なので赤ペンの向こうには生身の大人がいたはずである。おそらく今のぼくとおなじくらいの年齢だったのではないかと想像する。今のぼくより若ければ本業が忙しかろう、かと言って大学生が添削するには書かれているコメントが優秀すぎると思った。世の中には優秀な大学生はいくらでもいるけれど、Z会で無数の会員に添削するほど優秀な大学生が潤沢にいたかというとそうは思えなかった。

当時のぼくは、通信欄にけっこうあてもないことを書いている。自我の発露だけを目的とした、プリクラに似た加工が過剰な生意気な日記。これに添削者はきちんと的を射たコメントを返していたので笑ってしまう。ぼくは確かにこのとき高校生で、大人になった自分があとを振り返って幼さを感じるなんて思ってもいなかった。

高校2年の段階で志望校は北海道大学医学部となっていた。これはこのまま3年の最後まで変わらない。ただし第2志望はそのときどきによって違った。東北、北九州、首都圏の私大、これらはいずれも行く気がなかった大学なのだがたぶん偏差値がどのように出るかを見てみたかったのだろう。そもそもぼくは北海道以外の大学に進む気がなかった。

時折、模試の結果によって計算された偏差値が書かれた紙が入っている。その偏差値はどれもこれも高すぎるように思えた。しかしちょっと考えたらタネがわかった。ぼくは、当時、「できた答案だけ返信した」のである。通信添削というのは期限内に返送しないと採点してもらえないし偏差値も付かない。やってみて難しくてちっともわからなければ、翌月まで待てば回答が送られてくるのでそれを使って復習をする。いつも数学が難しくてわからなかったので、添削までたどりついた数学の答案はちょっとしかないし、添削されているものはどれもこれもできがいい。当たり前である、できたと思ったから出したのだ。しかしこれをあとから振り返って、「なんだ、俺ずいぶん偏差値良かったんだな」と考えてしまえば事実誤認が発生する。別に誰も困らないので誤認してもよかろうが、タネまでぎりぎり覚えている時期に思い出を発掘したために、かつての自分を過剰に美化することができなくなった。

ある答案にぼくは「正月ですね」と書いて余白に筆ペンでネズミの絵を描いている。添削者はそれをみて「絵が上手なのですね」と返事をしているのだけれどこの絵はおそらく当時のぼくが買い求めた年賀状の絵柄をそのまま真似したものだ。ツイッターであればトレス疑惑で炎上しただろう。そしてきっとぼくと同い年くらいの添削者は、この図柄が真似ッコであることくらい見抜いていたに違いない。当時のぼくはそれに気づかなかったのではないかと思う。気づかないままに通り過ぎてきた優しい嘘の数を思う。きっとそれは数学的に有意だったろう。

2021年5月18日火曜日

病理の話(535) 発生学という巨大山脈

いつかやらなきゃなあと2年くらい考え続けていることがある。それは、胃腸の病理学について体系だった本を書くことだ。

すでに依頼は引き受けており、「あと5年くらいは他の仕事が忙しくて書けないからちょっと待ってください」と伝えてそれっきり放置してある。でも、1週間たりとも忘れたことはない(※最初は1日たりとも、と書いたのだがけっこう忘れている日もあるので正しく書き直した)。ここ2年のぼくはいつも胃腸の病理の教科書を頭の中で書いては消し、書いては消し、としている。



そもそもぼくはすでに胃腸の病理学について、すでに一冊の本を書いて出している。「Dr.ヤンデルの臨床に役立つ消化管病理」。王道かつ実践的な本。

https://www.yodosha.co.jp/yodobook/book/9784758110693/

胃カメラや大腸カメラを使う臨床医や、バリウム・大腸CTを扱う放射線技師、消化管超音波検査にたずさわる臨床検査技師などが読めるように病理のことを書いた。そしてもちろん病理医にも活用してもらいたい。一切妥協していない。簡単に書こうと思うあまり細部をぼやかしていることもない。濃いし多いししっかりしている。


しかし、今回の依頼者は、「この本とはべつに病理の本を書いて欲しい」と言う。正直、ぼくは「もう書いたよ」と思った。でもそうではない、と言う。さらに違う領域を書くべきだと言う。


専門性の高い消化管専門病理医のためだけに、「成書」を書いてくれ。臨床の診療にお役立ち~、ではなくゴリッゴリの学術をやってくれ。


それはかなり大変だなあ。

正直ひるんだが、断らなかった。指名があるというのは大変に光栄なことだし、大きな期待を受けた執筆に向けて自分のレベルを上げていくことがそのまま日常の診療レベルを引き上げることにもつながる。

ぼくは依頼のあったその日から、次の「成書」の構成をずっと考えている。



進捗状況。頭の中の教科書は、第1章のところで足踏みしている。ただし、2章、3章、4章、5章、6章くらいまでは脳内ではほぼ書けた。実際にはキータッチをする時間が必要だし、写真を選ぶにもぼうだいな時間がかかるし、文献を過不足なく揃えるだけでも異常な時間がかかるから、脳内で書けたからと言って実際の執筆作業がスルスル進むわけではないのだけれど、それでも1章以外の部分は今のぼくなら1年もあれば書けると思う。依頼の期限の5年まであと3年も残しているから、余裕ではある。

しかし問題は1章だ。ここが手強い。どうしたものかと2年間うろうろしているし、まだ終わりが見えてこない。さいしょのさいしょでつまづいている。



1章には、「発生学」を書くつもりだ。

発生学は病理学とは少し違う。正常の人体が受精卵からどのように育って「分化」していくか。病(やまい)の理(ことわり)よりも前段階の部分である。

胃というのは大変不思議な臓器である。発生学的にいうと、もとは小腸だ。胎児が母親のお腹の中にいる間、かなり早い段階で、小腸の一部分に「小腸以外の性質」をもった細胞が次から次へと現れてくる。

この「次から次へと現れてくる」というのが、近年の「胃がん」を考える上でじつはキーワードになる。正常の胃粘膜だけではなく、胃癌細胞においても、さまざまな性質をもった癌細胞が「次から次へと現れてくる」し、そこを消化管専門病理医は知恵と技術で鋭く射貫いていく。このとき、発生学の知識が病理学にも適応できる。

先達たちもそんなことはよくわかっているので、「胃」病理の教科書ではたいてい、発生学の話がきちんと書いてある。それでもぼくは多くの教科書を読むなかで、発生学についてはまだまだ述べられ切っていないのではないか、というひそかな確信があった。自分が教科書を書くならば発生学の部分を大幅に強化すべきだろうと考えた。


そしてこれが本当に手強い。なかなか脳の中に全貌が見えてこない。医学書・教科書では「全貌が見えないうちに書き始める」ということは基本的に不可能である。これはぼくだけの話だろうか? いや、そんなことはないと思う。


発生学というのはそれだけで学問のいちジャンル。巨大な山だ。そして剣が峰を「病理という山」と共有している。しかし、発生学山と病理学山の最高峰点はいっしょではない。病理というとんでもない山を登るだけでもきついのに、発生学の頂点まで登っていかないといけない、これは病理医であるぼくにとって2年ではどうにもならないほどに厳しい登山である。

すでにある発生学の成書や、多くの病理医たちが書いた優れた教科書を、何度も何度も読みながら、「なぜ自分はこの登山道を選んで病理という山を登ろうと思ったのか」を考えていく。「なぜその道が他の登山者にとっても優れているのか」を言語化しないと教科書の執筆がはじまらない。


ちなみに「胃の病理を考える上で発生学を濃いめに書いておいたほうがいい」程度のアイディアなんて、普通の病理医ならば当たり前のように思い付くものである。それでもこれまで世に「これぞ」と思った本が存在していないのは、それがいかに厳しい登山であるかの遠回りな証拠になっている。


果たして今回の本ばかりは書き終えられるかどうかわからない。そもそも執筆を開始できないかもしれないな、と思いながら、2年間、考え続けている。あと2年ほど考えてから執筆を始められれば理想的だが……。今回はきつい、かも、しれない。望むところではある。先に誰か書けそうな人がいたら書いていただいてよいですよ。そしたらぼくはそれを読んで勉強して日々の診療に活かす。

2021年5月17日月曜日

しびれる展開に

頚椎症が治ってきた。よかった。やはり治るものなのだなあ、と思う。近頃はまた本を読む量を増やしている。まあ頚椎症があったからと言って、ぜんぜん本が読めないかというと、そうでもないのだけれど、つまりは首に優しい読書の角度というのをきちんと守っていれば問題ないのだけれど、読書中に無意識に体勢を変えてビリッとしびれる、みたいなことが頻繁に起こるとどうしても読書量が減る。

そう、ぼくはわりと読書中にゴロゴロじたばた動くタイプだった。頚椎症がなければわからなかったことだ。



感染症禍で、人は意外と自分の顔に手を当てることが話題となった。マスクをしているとそこに持っていった手に気づくことができる。あるいは、Zoomのように、似たような画角で異なるおっさんの顔を毎日眺めていると、どいつもこいつもべたべた顔を触っているなあということがわかる。人間ってこんなに顔を触っていたんだね、ということが、なんらかの制限、なんらかの痛み、なんらかの視野狭窄によって明らかになる。



人間はセンサーのカタマリなのだが、逆にいうと、そのセンサーが本能的にワークしていないときにはけっこうやらかしている。


最近思ったこと。ぼくは椅子から立ち上がって歩き始めるときに、わりと足の小指とかくるぶしなどを机や椅子の脚にゴンとぶつけることが多い。日常、高速で職場の中をスイスイ歩いていても別に手や足を機材や本棚にぶつけることはないのに(つまりセンサー自体はちゃんと稼働しているのに)、自宅の食卓でご飯を食べてからさあ歯を磨いてでかけようと気もそぞろに立ち上がったときによくゴツンとやる。こないだ目に涙を浮かべたのも早朝だったなあ、なんで同じタイミングで同じ所にゴンゴンぶつけるのかなあと考えて、そうか、ぼくは朝食後のタイミングでは椅子と自分との境界が曖昧なのかもなあ、なんてことを根拠もなく思った。


センサーがはたらく範囲でぼくらは世界を認識している。スポーツや映画をみて「しびれる展開だ」と言うとき、ぼくはセンサーを自分よりはるか遠い場所に飛ばしている。飛ばしたつもりになっている。つもりになれるものこそが真のエンターテインメントであろう。

2021年5月14日金曜日

病理の話(534) 違う目でチェックして見つけるヤバみ

病理診断においては「ダブルチェックシステム」が用いられていることが多い。


あるひとりの病理医が、患者からとってきた組織・細胞をプレパラートにしたものを、顕微鏡でみて、診断を文章で書く。

この文章を主治医に送るまえに、「もうひとりの病理医」が、あらためて、違う目でプレパラートを見直し、診断文をチェックする。これがダブルチェックだ。



ダブルチェックでは背筋が凍るようなミスが見つかることがままある。

たとえば、診断文について。



「人食い的な炎症所見のみを認めます。」


ええっ! カニバリ! 怖ぁ!


ではなくてこれは「非特異的」の誤変換である。ほかにも管政権(肝生検の誤変換)、帰省中(寄生虫の誤変換)、関西ボウガン(肝細胞癌の誤変換)などが有名なところだ。こういうミスがおおまじめな診断文の中に入り込むことは、あってはいけないのだがよくある。そして主治医にとっても患者にとっても非常にいやな気分になる。絶対に防ぎたい。


でもこれ、病理医がたった一人でやってると思いのほか防ぎきれない。年間5000人以上のレポートを書く中で、ほんとうに、なぜ気づかなかったのだろうというミスが起こる。経験的には、レポートの中で改行されるタイミングに誤変換があるとスッと見逃してしまいがちだ。


昔は病理診断報告書を印刷して病棟や外来に配っていたので、印刷物を眺めて「あっ、ここ間違ってる!」と気づくことがよくあった。セルフダブルチェックである。一部の作家などがよく、いったん書き上げた原稿を印刷したり、横書きのWordファイルを縦書きにしたりすることで感覚を変えて読み直す、ということを言うが、病理診断もPCのモニタで眺めるのと印刷物で眺めるのとではやはり印象が異なり、誤変換にも気づきやすい。


ところが今の時代はペーパーレスで、PCモニタ上で入力して送信し、主治医もモニタ上で読むことがざらなので、このチェックの機構がはたらきづらい。やはり人力によるダブルチェックは大事である。




ところで、ダブルチェックについて今のように「誤変換・誤記載」の話をすると、病理診断をやりはじめたばかりの若い医者が、


「えっ、ダブルチェックって、小さながん細胞を見逃すのを防ぐためじゃないんですか?」


みたいなことを言う。まあ確かに、ふたりの医者がみることで、ひとりめの病理医が見逃した小さい小さい異常に気づけるということはある、「かもしれない」。


かもしれない、である。そういうことは(少なくともぼくの周りでは)めったに起こらない。なぜか?


それは、「ひとりめの病理医がまずめったに見逃さない」からだ。小さながん細胞を1つ見逃すというのは、職務の根幹にかかわる大事件なのである。1年に1度ペースでそういうことがあったらプロとしてだいぶヤバい。10年に1度、魔が差したとしかいいようがない感じで、ほんとうにスキマにはまり込んだかのように悪夢のような偶然が重なって見逃すということはありうる。でもそのときこそふたりめの病理医は絶対に見逃してはだめだし、そこで見逃すようならこの仕事で給料をもらっている意味はほとんどない。


「10年に1度の見逃し」をふせぐためにダブルチェックをかけていくことはとても大事である。それをわかった上で言うが、実際にダブルチェックをしていると、ひとりめの病理医が犯しやすいミスとしては圧倒的に「書き間違い」や「書き忘れ」が多い。見えてはいるんだけど書いてない、なんてのは、構造としてはかなりでかいミスなので、これだってきちんとチェックしないといけないけれど、ひとりめの病理医が「そもそもがん細胞を見落としている」ということは滅多に起こらない(起こったらまずい)。




あ、今の話は、ひとりめの病理医が「まだ経験5年未満の若手」の場合は別です。若手は毎日見落とす。それを正すのはチェッカーというよりも指導医の仕事である。

2021年5月13日木曜日

ほんとうに職場がよかった

休日出勤すると申請を出さなければいけないので、休みの日に職場にくるときにはIDをタッチしない(出勤簿に記録しない)。こっそりデスクに向かってパソコンを立ち上げる。

もっとも、このさきうちの部門に後期研修医がやってきたら、休日に顕微鏡を見たければちゃんと申請をして残業代をつけなさいと指導するだろう。ぼくもボスがいたときには残業代を申請していた。仕事が遅く、必死だったとき、そうやって上が優しくしてくれたことを今でもいい思い出として抱えている。


でも今はやらない。理由はうまく説明できない。



休日にやること。会議の準備、プレゼンのブラッシュアップ、論文を読んだり書いたりすること。医学雑誌の原稿を書くこともある。

病理診断は平日に終えているので、休日に診断をすることはない。診断能力と診断件数とが釣り合っていないと休日にも顕微鏡を見なければいけなくなるが、幸い、そういうことはない。時間外の診断は精度が落ちる。精度が落ちて困るのは患者と主治医だ。あまりに診断が時間外にずれこむようだと、部門で仕事を振り直さなければいけなくなる。時間外でやるならアカデミックなことに限る。時間外でやるなら患者に迷惑をかけない仕事だ。


なんか少しずつ論理が破綻している気もするが、理路整然としたことばかりしゃべっている人間はつまらないので、たまにはそういう日もあっていいだろう。「理路整然としゃべる人間はつまらない」と言った人間がどれだけ人を傷つけ歪ませるかということを、世の中はもう少し真剣に憂えたほうがいい。




この間の休日、学会発表の準備をしながらYouTube LIVEを見ていた。コメントしたけれど拾ってくれなかった。SNSらしさの中で小さく傷ついたりわずかに喜んだりをくり返している自分は極めて素の状態である。ぼくはだんだん職場で素になれるようになった。ここがたどり着く場所だったのか、と思う。ほんとうは家がよかった……と文章にして見たけれど、自分で読み返してみてもいまいちしっくりこない。

2021年5月12日水曜日

病理の話(533) ときおりやってくる分類マニア

病気の原因をいくつかに分ける、というのを久々にやってみる。

ありとあらゆる病気をざっくり分類するのだ。さあいこう。


A) 人体外からやってきたものによって、体が攻撃されて痛めつけられる

B) 人体外からやってきたものを叩くための警察システムが過剰防衛して、体が痛めつけられる

C) 人体を維持しているシステムが(経年)劣化する

D) 人体をプログラムしている遺伝子がおかしくなることで、細胞の制御がくるう


だいたいこんなものかな。それぞれの病気の例をあげよう。箇条書きのほうが、かえってわかりやすいと思うので、今日は箇条書きにしてみるぞ。


A) 人体外からやってきたものによって、体が攻撃されて痛めつけられる

 ケガ。
 塩酸をかぶる。
 やけど。
 タバコによる肺気腫。
 食あたり。
 新型コロナウイルス感染症。


B) 人体外からやってきたものを叩くための警察システムが過剰防衛して、体が痛めつけられる

 花粉症。
 ぜんそく。
 IgA腎症。
 新型コロナウイルス感染症(ここにも入る。ウイルスだけが問題なのではなく、そのウイルスを排除しようとする人体内の奮闘も、人体を痛めつける原因となってしまうのだ。戦争が本土決戦になると、敵のミサイルも味方のミサイルも国土を破壊してしまう)


C) 人体を維持しているシステムが(経年)劣化する

 腰痛。
 動脈硬化。
 白内障。
 アルツハイマー型認知症。

D) 人体を維持しているシステムのバランスがくるっている

 更年期障害。
 子宮内膜症。
 勃起不全(ED)。
 胃酸過多。

E) 人体をプログラムしている遺伝子がおかしくなることで、細胞の制御がくるう

 がん。
 I型糖尿病。



 だいたいこれで網羅できるかな。ほか、流れがあるはずの場所で流れが悪くなって詰まってしまう系の病気に胆石症や尿管結石などが存在するが、これらはC)の(経年)劣化に入れてしまう。子宮内膜症みたいに「本来いるべきはずの場所に細胞がいないことで起こる病気」は分類が難しいが、D)システムバランスの異常と捉えるといいかもしれない。

 分類したからいいことがあるかというと、その病気にまさに苦しんでいる患者にとってはあまりうれしいことはないのだが、多くの患者・多くの病気を日替わりでみていく医療者にとってはけっこう役に立つ。読んでいておもしろいブログ記事ではないよね。ごめんね。でもたまにやりたいの。

2021年5月11日火曜日

トッピング

ふと、「なんにでも感情が乗る時代だなあ」、と思った。


この「ふと」は少々雑で粗い。自分の脳からスッと出てきた言葉ではあるが、そのまま咀嚼すると骨が多くて飲み込めない。わかっているけれどそのまま書き続ける。


きっかけはこのような短いセリフだった。「エビデンスだけ伝えられたって響いてこないんだよな」。


そうか? と思った。


情念をのっけないと情報は届かないんだ、とか、自分事にしてもらわないと大事な話は広まっていかない、とか、まあ言いたいことはわかるんだけど、「エビデンス」というのはほんらい、感情を乗せずに組み立てるからこそ信頼できるものである。


感情をたっぷり用いて解釈するものとは別に、感情と関係なく建っているものもあってよいと思う。それは当たり前のことだと思っていた。


でも、なんか、最近、そうではないようだ。


科学だろうが医学だろうが、とにかく「感情が乗っかっていないと」使えない。広まらないのが科学側の罪だとすら言われたりもする。





みすず書房『感情史の始まり』を読んでいた。かつて、ニューヨークのツインタワーに航空機が突っ込むという信じられないテロが起こったが、「その映像を伝えるメディアがあり、その感情を拡散するシステムがあったからこそ、テロリストもこういう手段を取ろうと思い付いたのだ」という意味のことが書いてあって、思わずあっと小さく声を上げてしまった。

感情を増幅するシステムが変われば、その感情にドライブされる人間の行動が変わり、感情を用いて人を動かそうという人たちの行動も変わる。


9.11から20年経ってさらに世界は変わっている。SNSによって個々人の感情が情報に乗っかるようになり、これまで公の場で共益していた情報すべてに、うっすらと感情が乗っかった状態が当たり前になっている。「公的情報」が存在しづらくなっている。「石板に書いてある絶対の事実」がなくなる。


そうか。と思った。

感情の乗っていないエビデンスが役に立たない時代がやってきた。学問というくくりも元の通りではあり得ないだろう。ぼくは今さらだが学者になりたい、と感じた。

2021年5月10日月曜日

病理の話(532) 病気はその人だけのもの

「昨日、ぼく、ケガしたんですよ~」


「えっ、私もですよ。へえ偶然ですねえ。一緒ですねえ」


「ほんとだ、一緒ですねえ。じゃあお互いになぐさめ合いましょう」


「もちろんです。ちなみにぼくは突き指をしたんですよ」


「えっ、私は膝をすりむいたんですが」


「まるで違いますね」


「違いますね」


「ぼくは冷やしてます」


「私はバンソーコーをはりましたよ」


「やってることも違いますね」


「違いますね」


「「おなじケガとは言ってもね」」




世の中に「病名」というものが存在するばっかりに、「あなたの病気と私の病気は同じですね」みたいな勘違いがあちこちで生じる。


上の例はなんとなく笑い話的に読むことができるかもしれないが、これがたとえば「かぜ」になるとどうだろうか?


「あなたの風邪はどこから? 私はノドから」


というCMもあるように、かぜと言ったっていろいろあるのだ。


「がん」だって同じである。


大腸がんと子宮頚がんでは、関与している細胞も、必要な治療も、将来どうなるかという予測もまるで違うし、


さらにいえば「ステージIの大腸がん」と「ステージIIIの大腸がん」もまるで別モノで、


……ここまではけっこう知ってる人も多いと思うんだけど、次のはどうだろう?


同じ「ステージIの大腸がん」であっても、かかっている人が違えばそれはまるで違う病気なのだ。


大腸の中でも、横行結腸と直腸に出るがんではタイプが異なるし、


高齢者の上行結腸に出るがんは比較的若い人のS状結腸がんとは違うし、


「同じ年齢、同じ性別、同じ場所に出た同じステージの大腸がん」であっても、「組織型」と呼ばれるものが違えばふるまいは変わってくるし、


「組織型」が全く一緒だったとしてもがんの中にある遺伝子まで検索するとどこかは違っている。


このまま極論まで持っていこう。


仮に、遺伝子変異までまっっっっっったく一緒のがんがあったとしてもだ。


かかっている人間が違えば、人体内の「がんに対する防御機構」が異なるので、そのがんによってその人がどうなるかは変わる。




おわかりだろうか。世の中におなじ病気というのは一つとしてない。


病気と患者は一期一会だ。究極的なことを言うと、その病気、その患者ごとに、将来どうなるかは毎回違うし、有効な治療だって異なる。


でもそれでは医療なんてできない。患者が病院に来るたびに、一回一回ちがう対処をしていたら病院はパンクしてしまう(というかそもそも調べる内容が多すぎて治療までたどり着かないだろう)。


そこで、我々は、「ひとまずここまでは共通の手段で対処できるよね」というラインを見極め、段階を踏んで病気を分類していくことになる。



「がんと言ったっていろいろあるんだけど、ひとまず大腸のがんであれば大腸に詳しい医者が担当すればいいね。だからまずは大腸のがんであることを確認しよう。」

「大腸がんと言ってもいろいろあるんだけど、ひとまずS状結腸のがんだったらやれることはこれとこれってわかっているから、場所を確認しておこう。」

「S状結腸がんだってわかったら、そのがんがどこまで進行しているかを確認して、進行の度合いによって治療を変えよう。」

「S状結腸がん、ステージI相当ってわかったら、その病理組織像がどういうものであるかを確認してさらに細かく治療をアレンジしよう。」

・・・



なんかそういうことをやっている。「がん」だけで話が進むことってないんだよなー。

2021年5月7日金曜日

つなぎは洗いづらい

なんつったっけ、地味ハロウィン?

えーと画像あったかな。探します。


https://dailyportalz.jp/kiji/jimihalloween2020_pictures


あったあった。以下、上記デイリーポータルZより、一部引用する。


・ハロウィン定番の仮装ではなく、仮装の対象にならないような人たちの仮装をする
・年にいちどのとんちを競い合うイベントとして定着


下の「年にいちどのとんち」を一瞬「いのちのうどん」に空目したところで話を先に進めると、まあスナック芸というか、いわゆるフフッ系お遊びである。



こないだ、「市原は毎日、地味ハロウィン」と言われて納得した。どれだけ早く歩いてもバンドのところがちぎれない中国製の黒のクロックス(ただし穴が異常に多い)を履き、腰のところをヒモで留めるイージーパンツ(GU)にベルトを合わせ、シャツ工房で7年前に買いためたワイシャツ、ノーネクタイ、ジャケットなし、サージカルマスク、ネックストラップにつながった病院支給のiPhoneとIDカード。これで病院内をビュンビュン歩き回っていたら某部門で「用務員さんが競歩してる」とうわさになっていた。


用務員さんをリスペクトするならパンツはもう少し灰色系に近づけたい。足はスニーカーがいいかもしれない。腰から手ぬぐいをぶら下げるとそれっぽい、というツイートを目にした。それはまたずいぶんと昔の用務員さんだなあ。つなぎを着ると似合うだろう。でも感染対策的に病院職員が毎日洗えないものを着るのはだめだと思う。


『フラジャイル』の病理医・岸京一郎は、スーツのジャケットを羽織り、ネクタイもしている。でも一度だけ、ジャケットを脱いでネクタイの先っぽをワイシャツのポッケにぶっ刺しているシーンがあった。放射線科医・高柴が昔使っていた古いCTを起動するために汗をかいていた(かいていなかった)シーン。ほかならぬぼくが「おっ、病理医っぽくない格好してるな」と思ったくらいで、やはり病理医は全身スーツで勤務するのが似合う。そしてぼくは似合いの格好で仕事をするのがきつくて照れてしまうタイプだ。

2021年5月6日木曜日

病理の話(531) 警察官たちの出動の誤差

人体の内に、異物・敵・エイリアンが入ってきたとき、それをぶっ倒す仕組みが「炎症」だ。


敵・エイリアンとしては細菌、ウイルス、カビ。あるいは、このような生き物(ウイルスは生き物かどうか難しいが)に限らず、そういうのがくっついている可能性がある砂とかホコリとか花粉とか、あとは酸とかアルカリとか、要は「ほんらい体の中にないもの」を、基本的にヤベーヤツとして認識し、攻撃する。


敵を攻撃するための、「警察」に相当するシステムを人体は「常時」備えている。常時というのがポイントだ。「泥棒を見てから縄をなう」ということわざ(?)があるように、敵が入って来てから防御システムを作っていては間に合わない。

ではその「警察」は普段どこにいるのか?




社会では、何かトラブルが起こると近隣の交番や警察署から警官が駆けつける。ときには巡回中のパトカーが偶然トラブルの現場を目にするということもあるが、ひごろから道にパトカーが大量にうろうろしていたらなんか目障りだし、いかにもぶっそうだし、そもそも、邪魔であろう。用もないのに道を塞がれても困る。


人体も似たようなところがある。体の中を、「警察」にあたる免疫細胞たちが巡回しているわけだが、公道(=血管の中)をうろうろしていることは思ったよりも少なくて、どこかに集まって身を隠していることのほうがどうやら多いらしい。

ではどこに身を隠しているのか?

人体における交番(あるいは臨時派出所)にあたるものとして、二次リンパ小節とか三次リンパ組織とよばれるものがある。ただ、このリンパ組織だけが待機スペースではないらしい。免疫細胞たちは「道ばた(歩道?)に座っている」ことが多いようである。人間社会の例え話だけで人体の仕組みをすべて言い表すことには無理があるのだけれど、ま、だいたいそういうイメージだと思っていれば間違いはない。


体の外側がダメージを負って、体内に敵が入ってくると、まずは道ばたに座っていた警官たちがその場に急行する。そこで一悶着している間に、もよりの交番や所轄警察署(リンパ節)から、長期戦に備えたガチの警察官や、調書をとりにくる部隊などがわらわらと出動してくる。今の数行は、炎症の急性期に好中球やNK細胞、マクロファージがあらわれ、そのあとでリンパ球がやってくることを言い表しているのだけれど、ま、このへん、マンガ「はたらく細胞」を読んでいた方がイメージしやすいことは間違いない。ほんとあれはすばらしいマンガですよ。