2021年5月14日金曜日

病理の話(534) 違う目でチェックして見つけるヤバみ

病理診断においては「ダブルチェックシステム」が用いられていることが多い。


あるひとりの病理医が、患者からとってきた組織・細胞をプレパラートにしたものを、顕微鏡でみて、診断を文章で書く。

この文章を主治医に送るまえに、「もうひとりの病理医」が、あらためて、違う目でプレパラートを見直し、診断文をチェックする。これがダブルチェックだ。



ダブルチェックでは背筋が凍るようなミスが見つかることがままある。

たとえば、診断文について。



「人食い的な炎症所見のみを認めます。」


ええっ! カニバリ! 怖ぁ!


ではなくてこれは「非特異的」の誤変換である。ほかにも管政権(肝生検の誤変換)、帰省中(寄生虫の誤変換)、関西ボウガン(肝細胞癌の誤変換)などが有名なところだ。こういうミスがおおまじめな診断文の中に入り込むことは、あってはいけないのだがよくある。そして主治医にとっても患者にとっても非常にいやな気分になる。絶対に防ぎたい。


でもこれ、病理医がたった一人でやってると思いのほか防ぎきれない。年間5000人以上のレポートを書く中で、ほんとうに、なぜ気づかなかったのだろうというミスが起こる。経験的には、レポートの中で改行されるタイミングに誤変換があるとスッと見逃してしまいがちだ。


昔は病理診断報告書を印刷して病棟や外来に配っていたので、印刷物を眺めて「あっ、ここ間違ってる!」と気づくことがよくあった。セルフダブルチェックである。一部の作家などがよく、いったん書き上げた原稿を印刷したり、横書きのWordファイルを縦書きにしたりすることで感覚を変えて読み直す、ということを言うが、病理診断もPCのモニタで眺めるのと印刷物で眺めるのとではやはり印象が異なり、誤変換にも気づきやすい。


ところが今の時代はペーパーレスで、PCモニタ上で入力して送信し、主治医もモニタ上で読むことがざらなので、このチェックの機構がはたらきづらい。やはり人力によるダブルチェックは大事である。




ところで、ダブルチェックについて今のように「誤変換・誤記載」の話をすると、病理診断をやりはじめたばかりの若い医者が、


「えっ、ダブルチェックって、小さながん細胞を見逃すのを防ぐためじゃないんですか?」


みたいなことを言う。まあ確かに、ふたりの医者がみることで、ひとりめの病理医が見逃した小さい小さい異常に気づけるということはある、「かもしれない」。


かもしれない、である。そういうことは(少なくともぼくの周りでは)めったに起こらない。なぜか?


それは、「ひとりめの病理医がまずめったに見逃さない」からだ。小さながん細胞を1つ見逃すというのは、職務の根幹にかかわる大事件なのである。1年に1度ペースでそういうことがあったらプロとしてだいぶヤバい。10年に1度、魔が差したとしかいいようがない感じで、ほんとうにスキマにはまり込んだかのように悪夢のような偶然が重なって見逃すということはありうる。でもそのときこそふたりめの病理医は絶対に見逃してはだめだし、そこで見逃すようならこの仕事で給料をもらっている意味はほとんどない。


「10年に1度の見逃し」をふせぐためにダブルチェックをかけていくことはとても大事である。それをわかった上で言うが、実際にダブルチェックをしていると、ひとりめの病理医が犯しやすいミスとしては圧倒的に「書き間違い」や「書き忘れ」が多い。見えてはいるんだけど書いてない、なんてのは、構造としてはかなりでかいミスなので、これだってきちんとチェックしないといけないけれど、ひとりめの病理医が「そもそもがん細胞を見落としている」ということは滅多に起こらない(起こったらまずい)。




あ、今の話は、ひとりめの病理医が「まだ経験5年未満の若手」の場合は別です。若手は毎日見落とす。それを正すのはチェッカーというよりも指導医の仕事である。