2020年1月31日金曜日

構図が一番きく

『それでも町は廻っている』というマンガには高校生たちが出てくる。彼女らが修学旅行に行く回がある。何度か読んでいるうちに、まったく不思議なことなのだけれど、ぼくは自分の修学旅行の記憶を思い出せなくなって、修学旅行といえば歩鳥たちが北海道にやってきてアイヌ民俗資料館に行ったりジンギスカンを食べたりした風景を思い出してしまうようになった。

ぼくは北海道の人間だから、そもそも高校の修学旅行先は京都だ。しかし、京都での記憶が一切ない。北海道旅行の記憶になってしまった。それは「記憶」ではないのだけれど。過去とか記憶というのは遡って定義するものなのだろう。正しい過去とか正しい記憶というのは存在しない。まるで仮説なのだ。よりそれっぽいものがある、というだけ。より妥当だろうと思うものがある、というだけ。




『H2』というマンガで国見比呂の母親だったろうか、誰かはもう忘れてしまったが、誰かが鼻歌を歌うシーンがあって、「あらこんなところに牛肉が」と書いてある。

これは知っている人ならすぐわかるだろうけれどCMのフレーズだ。たまねぎたまねぎあったわね、ハッシュドビーフ、デミグラスソースが決め手なの、と続く。

しかし問題はCMのほうではない。

たとえば静かな喫茶店や地下鉄の車内など、複数の人がいて本来ならあまり余計な話し声などは聞こえないはずの場所で、遠くから鼻歌が聞こえてくるようなことがあったとき、あとでそのシーンを思い出すと、実際に流れていた鼻歌が何であっても、その歌詞が「あらこんなところに牛肉が」に置き換わってしまうのである。曲も歌詞も違うのに。マンガで読んだ視覚的記憶が、聴覚的記憶を乗っ取ってしまうのだ。





たとえば、仕事でほかの病院や大学を訪れ、そこを辞するときに、日が暮れているとする。帰り道に、建物と建物のすきまにある狭い小道を歩くことがある。すると、見えていない月が頭上に見え、存在しないベンチがそこに見え、そこに少年が座って泣いているのが見える。ぼくは思わず数歩下がって、自動販売機のそばに体を隠す。もちろん自動販売機も存在しないのだがぼくの精神はそういうことになる。

もはや、過去の記憶ではなく、現在進行形の体験が、マンガによって書き換えられている。

元となったマンガは書かない。思い付いたとしてもリプライなど送ってこないでほしい。こういうのはナイショのままのほうがいいのだ。

2020年1月30日木曜日

病理の話(409) 読み手を想像する診断書の話

たいていの無口な病理医は黙ってやっていることなのだが、あまり知名度がない話なので書いてしまう。




プレパラートに乗った細胞を顕微鏡で拡大し、病気の正体を見極め、かつ、病気がどれくらい進行しているかを判断する。これが病理診断だ。

病理医がみた内容をレポートに書く。この紙切れを「病理診断報告書」という。

(「レポート」という言い回しは、もしかすると業界用語かもしれない。書籍・雑誌の校正で「リポート」に直されることがある。確かにテレビ中継ならリポート、リポーターという言葉を使う。けれども、病理の場合は慣習的にレポートと発音する。これはもうそういうものだとしか言えない。)

閑話休題。

病理診断報告書には、英語と日本語が入り交じっていることが多い。

日本人が診断して日本人が読むレポートなのに、なぜところどころに英語が用いられるのか? などと、ときおりイキった医学生に質問されることがある。

たとえばこのようなレポートを見てほしい。


****

粘膜層、粘膜筋板、及び粘膜下層の一部が採取された検体です。採取範囲で粘膜下層に達するtub1相当の腺癌を認めます。Desmoplastic reaction (+).

****

「tub1」というのは病気の分類の一種で、記号みたいなものなので、あまり気にしなくてよいとして、最後にいきなりdesmoplastic reactionという言葉が出てくるので驚く人がいる。何、突然英語でかっこつけてんだよ、的な。

驚かれるのもごもっともだ。しかし、ここで英語を使うか、日本語で揃えるかについては、実際の所、相当考えられている。




Desmoplastic reactionという言葉は、日本語だと「線維性間質形成」とか、「浸潤部の線維性間質形成」と呼ぶ。

なら日本語で書けばいいじゃん、と思われるだろうか?

でもここは英語がいいとぼくは思うのだ。

なぜかというと、このdesmoplastic reactionという言葉を、教科書や論文で調べようと思ったら、英語で探した方が精度の高い情報に届きやすいからである。

つまり業界内で英語で使われている頻度が高い言葉は、無理に日本語に直さずに英語にする。

そのあたりの判断を、病理医は、受け手である臨床医たちの顔を思い浮かべながら、勘と信念の交差する部分でやっている。





レポートに書いてある言葉はすべて、受け取った医療者たちが「検索する」「調べる」ものだと考えて用意する。

「病理医がこう書いてあることに何か意味があるのだろうか?」

「病理医がたまに書いてくるこの単語が出てくる患者だけを揃えて比べたら何か意味が見いだせるだろうか?」

レポートは読み捨てて終わりではないのだ。そこから何かを得ようとする人のために、何かを得られるように書くべきものだ。

知恵の宝庫である。もっと言えば、誰かの知恵が広がるための「とっかかり」になるように、狙って作成する。計算して単語を選ぶ。

すると自然と、「医療者がその後よりどころにしやすいような単語を選んで書く」ことになる。





Desmoplastic reactionの部分を単に「DR」と略して書いてしまうと、レポートを受け取った人が検索しようと思ってもうまく探せない。あるいは探すのに時間がかかる。

「浸潤部の線維性間質形成」と日本語で書くと、一見わかりやすくなるようだが、実は文献検索がしづらい。このことは実際に検索をしてみてはじめてわかる。

「リンパ球浸潤癌 (gastric) carcinoma with lymphoid stroma」のように、日本語と英語を併記するときもある。このときは瞬間的にこう考えている。

(もしこれを受け取った医者が学会報告するとしたら、英語と日本語両方使っていろいろ書くことになるだろうから、両方書いておこう……)




……仕事に慣れてくるとだんだんこのへんが雑になってくるので、定期的に、自分の書いたレポートを読み直して、独りよがりな文章になっていないことを確認していかないといけないのだけれど……。

2020年1月29日水曜日

まだ生きていたかもしれない人

ちきしょう気に入ってはいてたボトムスが毛玉だらけじゃねぇか!

これも! これもだ!

……ネットに入れて洗濯するのを忘れたからか!

うう! 気に入ってたのに!




といいながら毛玉まみれのやつをはいて出勤している。どうせ誰も見てない。かまわない。おっさんのズボンなんて誰も見てないのだ。これは本当だ。たとえばお尻の部分にクマのアップリケをして1日過ごしてみたらいい。誰もつっこんでこないから。





と、まあ、この、「誰もつっこんでこない、すなわち、誰も見てない」というのは論理としてはおかしいのである。「みんな見てるけど、哀れすぎてつっこめない」可能性を考えていないからだ。「みんな見てるけど、会話したくないからつっこまない」も考えておかないといけない。

可能性可能性。

可能性のことをちゃんと考えよう。





こないだ読んでいた本に、偶然性とは「起こらなくてもよかったことが起こっていること」であり、可能性とは「まだ起こっていないけど起こるかもしれないこと」だとあった。

偶然性とは、「無であってもよかったのに有」であること。

可能性とは、「有になるかもしれない無」。

有と無に片足ずつ突っ込んでいる状態を、違う角度からみると、偶然とか可能性の話ができるんだ。なるほどな。




その本はとってもわかりづらい本だったのだ。なぜかというと、著者が、校正をかけるまえに亡くなってしまったからだ。『出会いのあわい』という。同じようなモチーフが何度も出てくるし、元が学術論文なのでしちめんどくさくて読んでいると眠くなってくる。

でもおもしろかった。偶然の話はおもしろい。それが可能性の話と表裏の関係にあると知ってぼくは少しだけ興奮してしまったのだった。

2020年1月28日火曜日

病理の話(408) 詩のような絵画のようなクラシック音楽のような報告書

「表皮の外向性肥厚により形成された隆起性病変です。」

病理診断報告書の一部である。

実は、この一行で、いろいろと伝わる!

なんのこっちゃい、と思われるだろう。




今のは、皮膚の、脂漏性角化症(しろうせいかくかしょう)というできものを顕微鏡で見て、その結果を書いたものの一部分だ。

知識がないとまるで意味をなさないだろう。暗号みたいだ。

しかし、皮膚科医や、病理医にとっては、それなりに多くの情報が含まれている文章である。




隆起性病変というのは、盛り上がっているということ。

病変が盛り上がるためにはいくつかのパターンがある。

皮膚の表面(表皮)に、盛り上がりの原因がある場合。

皮膚の表面よりちょっと潜った部分(真皮)に、盛り上がりの原因がある場合。

皮膚の表面からだいぶ潜った部分(皮下)に、盛り上がりの原因がある場合。

原因のある場所が違えば、想定する病気が変わってくる。

そこで、ぼくは、まず最初に「表皮の肥厚による」と書いた。




この時点で、皮膚科医の頭の中にある「鑑別診断(診断の候補のことだ)」のうち、真皮や皮下から盛り上がった病気がズバズバ二重線で消される。




皮膚科医はこの病変をとってくる際に、表面をよく観察して、

「おそらく表皮に原因があるだろうな」

というところまでは読み切っている。だからこそ、ぼくも、病理報告書の中に、

「正解!」

というニュアンスのことばをきちんと書く。




この、「臨床医の予想」をある程度思い浮かべて、「それ合ってるよ」と肩を叩くようなやりとりを続けていくと、臨床医と病理医の関係は少しずつよくなっていく。

「あの病理医は、おれたちが知りたい部分をちゃんと書いてくれるなあ」

という評価が重なっていく。

逆に、説明文を一切書かずに、ただ顕微鏡を見て

「説明はなし、診断名は脂漏性角化症、以上」

とやってしまうと、「その程度の病理医」「その程度の病理診断」と思われてしまい、なんだか距離が遠くなっていく。





なので書く。忙しい臨床医が知りたい部分をなるべく外さず、簡潔に。

するとその報告書は「素人では意味がわからないもの」になる。

背景に知識が必要なのだ。

詩を読むのといっしょだ。ピカソの絵を見るのとも似ている。クラシック音楽を楽しむのとも近いだろう。





ときに、「おかあさんといっしょ」並みにわかりやすい報告書を書いてみようかなという気持ちになることもある。でもね、それ、臨床医が望んでいるかっていうと、そんなことはないんだよね。だってお互い、大人で、プロだから。

2020年1月27日月曜日

告知後だと思う

遠巻きにして眺めていた風景にぐっと近接するとあわててしまう。そういうことはある。

「ぱらのま」を読んでいたら「富士山は裾野が広い。そりゃサファリパークとか作りたくなる。」という表現があってなるほどなと思った。遠くから見ていると気づかなかった性質に、近づくことで気づいた一例であるが、結局、あまりに存在が大きいと、近づいても裾野の妙くらいしかしゃべることがなくなる。

でかすぎるものは遠くから眺めていたほうがいいのだ。それは俯瞰とかドローンとかそういう表現で表すべきものではなくて、なんというか、可視領域の広さをはみ出てしまうでしょう、という話だ。

ということでこのたび幡野さんと会って話すことになったのだが彼についてはあまりしゃべることができないと思う。でもそれでいいのだ。お題は「好きなものについて語れ」ということらしい。だからぼくが日頃からスキだなと思って遠巻きに眺めているものについて語ればいいのだと思う。あとはとにかく聞こう。好きな人の話を。

2020年1月24日金曜日

病理の話(407) エキスパートの意見

その道の大家みたいな人がどの世界にもいる。

病理の世界にもいる。

病理診断の対象となる臓器は全身だ。目の病理診断というのもある。皮膚も。胃腸も。肝臓も。精巣も。子宮も。膀胱も。脳や脊髄、神経もだ。あらゆる臓器に発生する病気に対して、病理診断が存在する。

そしてそれぞれの臓器ごとに、「異常に詳しい人」というのが必ずいる。日本全国に2300人くらいしか病理専門医はいないわけだが、これらのさらにごく一部が専門となる臓器をわけあいながら、エキスパートとして君臨している。

たとえば軟部腫瘍であるとか血液腫瘍の病理診断の専門家となると、日本には多くても20人くらいずつしかいない。

そしてその20人、特に経験豊富な上位の10人というのは、まあこれがとんでもない人間ばかりだ。

イメージでいうと、テレビのクイズ番組に「東大王」というのがあるだろう、なぜそのスピードで雑学をすかさず正確に答えられるの……? と見ていてこっちが不安になるアレ。あの「東大王」の病理診断バージョンみたいなのが、各臓器ごとに10名くらいいる、と考えればいい。




で、そういうエキスパートたちに診断の極意みたいなのを尋ねると、これがまたおもしろいくらいにみんな「日本語が達者」なのである。そこに見えている風景をすばやく説明する能力に長けている。まれに脳が完全にブラックボックスで途中何言ってるかぜんぜんわからないけれど診断だけは正確、みたいな人もいなくはないのだが、ほとんどのエキスパートは、目でみたものに対して説得力のある実況をする能力が高い。だからそばで話を聞いているとおもしろい。



「まずこうやってぼうっと拡大を上げずに全体をみるでしょう、するとやっぱり見たかんじが”青い”よね、そしてムラがあまりなくて……」

これは別に絵画の説明をしているのではなくてプレパラートの見た目を説明しているのだが、こういう口調をしばらく耳にしていると、それまで全くわからないで見ていたプレパラートに隠されている「生命の法則」みたいなものが整列して整理券をもってこちらに押し寄せてくるのだ。

そのストーリーみたいなものにあらがうことはまずできない。




エビデンス・ベースト・メディスン(EBM)などというと、個人の意見よりも統計学的な処理の結果を重要視するような風潮のことだろう、と思われがちだが、EBMの定義はそういうことではない。

「統計学的に得られた知識を、実践的な知恵として、ひとりひとりの患者に応じて適用すること」

がEBMなのだ。つまり最後は患者ごとにアレンジして、オーダーメードの診療まで結びつけることが求められる。この、「患者ごとのアレンジ」や、「症例ごとの細かい読み解き」が、エキスパートとされる病理医たちは格段にうまい。

だから彼らのいわゆる「プライベート・コメント」はときに医学の真髄みたいな色を帯びる。見ていると敬虔な気持ちになる。人間ひとりがここまで極められるものなんだなあ、と。ただ彼らはきっと早押しクイズは苦手だろう。これが正解だろうと読み切ったあとにさらにそこをウラから補強するところまで考えたくなるのが病理医というものだ。踊るように早押しをすることに価値を見いだすエキスパートというのは寡聞にして知らない。

2020年1月23日木曜日

郷愁

出張先の倶知安で、いくつか写真を撮ってインスタグラムに載せた。最近あんまり更新してなかった。東京や大阪など生き慣れた場所では、風景がへこんで見えてしまう。どれだけ珍しいものが目に映っても、それはまあ東京だからそういうのもあるだろう、と、脳からトップダウンした情報によって末端の感動が否定されてしまう。逆に、倶知安でみかけた風景は、それが轍であっても雲であっても新鮮であった。新鮮という字は新しくて鮮やかと書くが、特段目新しかったわけではないのだけれどどこかみずみずしく見えたのだと思う。田舎に対する同情みたいなものが自分の中にあることを否定しない。理由がなければ訪れない場所、というよくわからない上から目線がぼくの中に汚く陣地を貼っている。インスタグラムのフィルターがひどく陳腐に思えた。

早朝の電車に乗るために駅前の道を歩いていた。まだ朝日の気配すら感じられないのだが歩道はすでに個人サイズの除雪機によると思われる角張った排雪がなされていて、割面がつるつるてらてらと光っていて冬靴の先に緊張が走った。10メートルほど前を学生らしき女が早足で歩いていた。ぼくより10数秒早く駅舎に消えてゆき、あっという間に定期か何かを駅員にかざしてホームの向こうに消えた。ぼくは切符を買った。倶知安駅にはIC改札がないのだ。2100円で札幌までの切符。改札は手動で、駅員が丁寧に切符を手に取りスタンプで挟んでくれた。出口となる札幌駅は自動改札だから、ハサミを入れないのだ。

ホームに出ると目の前は空虚だった。電車がいなかった。いったん陸橋をわたって隣のホームに行かなければいけない。陸橋の先に、順逆それぞれの方を向いている電車が留まっていて、どちらがどちらを前方にしているのかすぐにはわからなかった。1両しかないほうの電車には、ニセコでスキーをしたのだろう、やや疲れた大柄の外国人が2名ほど座っているのが外から見えた。周りが暗いから灯りで照らされた車内がいつもよりよく見えた。車両の側面には長万部行きと書いてあった。ここから内陸を南下して噴火湾に出て行くルート。函館本線の函館方面というやつだ。オーストラリア人だろうか、あるいはヨーロッパから来たのであろうか、彼らはここからどこに向かうのか、興味はさほどないけれど少ない情報から推理してみてもいいなと少しだけ思った。

もう一方のホームに留まっている電車は3両編成で、まあおそらくこっちが札幌行きなのだろうと思った。車両の横には苫小牧行きと書いてある。札幌の先に苫小牧があるわけだが、倶知安からだと大きく時計回りのルートで、小樽方向にいったん北上してからぐるっと札幌方向に降りていくんだよな、と、あえてめんどうくさい方向確認をした。時計の9時(倶知安)から12時(小樽)を経由し、2時(札幌)までたどり着けばぼくはゴールである。その後6時くらいまでずっと乗っていると苫小牧に着くのだ。そのルートを完走するときっと少し楽しいだろうなと思ったけれど、ここまで、1両の電車が留まるホームにも、木造の陸橋をもつ古い駅にもあまり郷愁を誘われずにいたせいか、正直、函館本線だろうが冬の倶知安だろうがどうでもよかった。早く札幌に帰って今日の仕事をしないとなという気持ちが妙に強く押し寄せてきた。

ここはおそらくぼくの祖先が幾度となく通った路線だ。札幌からここ倶知安を通過し、長万部を経由してはるか八雲まで。そこで気動車を降りてから雲石峠の八熊線をバスで通過した先にある母親の実家に、ぼくは思いを馳せていた。あそこにはもう誰も住んでいない。祖父母が住んでいた家は祖父母の死後人手に渡り、おそらくもう処分されている。あの坂を下りたところのガードレール沿いで、ぼくは弟とふたりで生涯に3度ほど同じ構図の写真を撮っている。「函館本線」のひと言から奔流のように蘇ってくる記憶、あるいは混線した母親の記憶なのかもしれないが、見た記憶のない風景にぼくは脳を押し流されていて、もはや倶知安には何の興味もわかなかった。だからこそ、ぼくの前に座って既に眠り始めている先ほどの学生を見て、君の実家をくさしているわけではないんですよと少しばつの悪い思いをしたし、もういいだろう、と誰に言うでもなくつぶやいてあとは小説の世界に入り込んだ。2時間で札幌についた。

2020年1月22日水曜日

病理の話(406) 予測困難と病理解剖

ずいぶん前の話だ(しかし本当は最近の話かもしれない。要は、特定されないために時期をぼかす)。ぼくはまだ若かった(しかし本当はすっかり中年だったかもしれない。要は、特定されないために年齢をぼかす)。




ぼくは臨床医からの依頼に応じて病理解剖を行った。病死した患者に対して、主治医、スタッフ、ときに患者本人や患者の遺族などが、いまいち腑に落ちないことがある場合に、病理解剖が施行されることがある。といっても、今の時代、むやみやたらに解剖なんてするものではないわけで、そこにはけっこう崇高な意志が存在している。

「いったい何がいつもと違ったのだろうか?」

この疑問こそが、病理解剖というふしぎな医療行為のモチベーションとなる。

病院において医療者が病気を診断し、病人やその家族とともにヤマイをてなづけ、治療やケアを施しながら暮らしていく過程において、大事なのは「予測ができる」ということだ。この病気が今後どうなるか、というのをある程度見通すことができたときに人は安心する。

「じきに治る」と言われたら安心するだろう。

「治らない」ならばさらに詳しい予測が必要である。「治らないけれどもかかえたまま一生暮らしていける」ならば安心するだろう。「治らないしいつか死ぬ、けれども、その死は先延ばしにすることができる」だと、不安は完全には解消しないにしても、まったくわからないのに比べたら、ある程度心の準備ができる。

そして、この「予測」がいつもいつもうまくいくとは限らないのだ。さまざまな理由で予測ははずれる。あるいは、予測がそもそもできないこともある。




思ったよりも急に具合が悪くなって死んでしまった患者。

その「予想外」がどれくらい予想から外れてしまったかによって、残された遺族、さらには、患者を担当した医療者、もっといえば、患者本人が、いかに苦しみ、悩むかが違ってくる。




そういうとき、患者が亡くなったあとに患者の肉体のまわりにただよう「無念」は非常に大きい。

その無念を飲み込むために、あるいは取り込んで呼吸して別のものに変質させるために、あるいは無念を抱えて生き残った者たちがまた先に歩いて行くために、行われる、その患者にとっての最後の医行為こそが「病理解剖」なのである。

つまりは病理解剖のウラには多くの場合、強い困惑や後悔がひそんでいる。






ずいぶん前の話だ(しかし本当は最近の話かもしれない。要は、特定されないために時期をぼかす)。ぼくはまだ若かった(しかし本当はすっかり中年だったかもしれない。要は、特定されないために年齢をぼかす)。

ぼくは臨床医からの依頼に応じて病理解剖を行った。そこには多くの疑問が潜んでおり、そのうちのいくつかをぼくは死体からピックアップして、プレパラートを用いて解消に導いた。

医療者はある程度の納得をする。

医療者から説明を受けた患者家族もある程度は納得しただろう。

しょうがなかったのだ。偶然だったのだ。理由はあったのだ。

さまざまなかたちで、腑に落ちる。病理解剖は役に立つ。




そして解剖執刀医であるぼくのもとには後悔の残滓みたいなものが少しずつ蓄積していくのである。ぼくはそれらを眺めながら、また次の病理解剖に挑むことになる。世に霊魂が存在していたら大変だったろう、後悔だけでも質量があるのに、その上なお霊魂があったとしたら地球の質量はそろそろブラックホールに匹敵する重さになっていたに違いない。




何度か書いたことがあるがぼくは病理解剖が嫌いだ。それは死と直接向き合う行為だからである。死と向き合う行為を好きだという人もいて、まあいていいに決まっているのだけれど、ぼくはそういうのが端的に言っていやだ。おまけに、たぶん、ぼくは解剖や、解剖のあとに長い時間をかけて行われる病理解剖診断書の作成がけっこう上手なのである。好きこそ物の上手なれという慣用句を作った人は、きっと、解剖のことなんて頭に浮かべていなかったのだろう。

2020年1月21日火曜日

類は人ならず

何かを批評することによって人気になったアカウントには、ツイートを批評したがる人が群がってくる。

誰かを批判することで耳目を集めたアカウントには、そのアカウントのことを批判したがる人が群がってくる。

「類は友を呼ぶ」という、日本の成人であればほぼ全員が知っているであろう慣用句があるが(よく考えるとすごいことだ)、「あなたのもとには、あなたと同類の道具を持った友がやってくる」というニュアンスをうまいこと省略して表現している。しかし実際にやってくるのは友だけではないのだ。あなたと同類の道具を持った敵味方中立がみんな集まってくるのである。

「情けは人のためならず」という、日本の成人であればほぼ全員がなんとなく知っているであろう慣用句があるが(よく略)、「他人に対して情を深くして接していると、自分もまた他人の情に触れる機会が来る」というニュアンスをうまいことフック込みで表現している。しかし実際に人のためならずなのは情けだけではないのだ。敵意もまた他人に向けていると自分に返ってくるのである。



や、ほんと、そういうことだと思う。

人間性すべてを使ってリアルで他人と接するときもそうだが、自分の一部だけを用いて他者と接続する「社会」とか「コミュニティ」とか「ネットワーク」の中では、特に……。




そういえば、さくちゃん(あだな)あたりは周りにいい人が集まってきている。

自分の手にしっくりくる道具を丁寧に選んだ結果、「類」が友しかいなくなっているかんじだ。

ああいうのがいいな。




あと、鴨(本名)あたりは周りに変な人ばかりいるように見える。

あれも捨てがたいけど、あのレベルまで研ぎ澄ませた道具を手の中に持っていること自体がすごいのである。

まねはしたいけどな。





そういうぼくは、どういう人に囲まれているか?




「ダジャレと皮肉とコンテンツ課金が大好きな、社会に対して強気に出られず、推しに対する愛が濃い、攻撃性が低く無害だがときに突拍子がないオタク(男女とも)」







これはたぶん、並行世界(ありえたパラレルワールド)をみわたしても、最善に近いかもしれない。ありがたいことだ。うまくいっているのかもしれない。

2020年1月20日月曜日

病理の話(405) トランスフォーマー的発想で転移する腫瘍

がんが遠方の臓器に転移する際、いったんカタチをかえて移動して、そのあと転移先でふたたび元のカタチに戻る、という現象がみられることがある。

ワンピースをずっと読んできた人は、大監獄インペルダウンの(元)看守長、マゼランが、毒の道(ベノムロード)を移動するときに、ドロリと溶けて移動して、移動した先でまた元に戻るときのイメージを思い出してほしい。

あるいは、トランスフォーマーを見たことがある人は、ロボ型をしているやつが車に変身して高速移動した先でまたロボットに戻るだろう、ああいうイメージでもいい。

一部のがんは、発生した臓器から移動する際に、あるていどごつごつしていた細胞の骨格をいったんドロドロにして、角張っていた形状から流線型とか水滴状とか、とにかくなんだかふにゃふにゃした状態に変形させる。これをepithelial-mesenchymal transition (EMT), 上皮間葉移行と呼ぶのだ。横文字が出てびっくりしたか? 安心して欲しい、EMTというのはつまりマゼランがドロドロになったあれで、トランスフォーマーがグキョキョキョって車になったあれだ。

そして、リンパ管や血管の中を移動し始める。移動した先で「水が合う」と感じたがん細胞は、そこに足を下ろす。そして再度変形するのだ。Mesenchymal-epithelial transition (MET)と呼ばれている。さっきとはEとMが逆になっている。間葉上皮移行。でもこれは別におぼえなくていい、泥状になったマゼランがふたたび人のカタチに戻るあれだ。車だったトランスフォーマーがまたロボに戻った状態である。





で、移動の前後……もといた臓器でのがんの姿と、転移先でのがんの姿は、ふしぎなことに、たいてい似ている。変形できるのならば転移した先でまた新たにいろいろな顔に変わればいいのに、と思わなくもないが、細胞の性状、核の性状など、いずれも元いた臓器とけっこう似ている。マゼランが転移先でハンニャバルになることはあまりないのであった。だから、転移した先の細胞を採取することで、こいつが元はどこの臓器のがんだったか、というのを、病理医はある程度判断することができる。……まあ難しいことも多いのだけれども……。

2020年1月17日金曜日

鑑別診断

クイズ番組をみていて、南米の国の関係がいまいちよくわからないなーと思った。Google mapであれこれ調べ、アルゼンチンってブラジルと接してないんだなとか、ベネズエラとコロンビアの位置を鳥取と島根の関係に例える人はいるんだろうかとか、そういうことをつらつら考えていた。そしてパラグアイのことを考えていたらおなかがぐるると鳴ったので「これは腹具合だな」と思った。そのままパラグアイを拡大していくことにした。首都はアスンシオンだろうか? そこだけ太字になっているから、そう思った。わざわざググって確認するほど興味はなかった。周りに目をやると、国の真ん中当たりに、コンセプシオンという地名をみつけた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%97%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3_(%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%82%A4)

Concepciónというスペル。いかにも英語のconceptionと似ている。

英語のconceptionはコンセプトでおなじみ、つまりは思念とか概念みたいな意味をもつが、実は医学用語としてほかにも意味があることは、あまり知られていないかもしれない。"Products of conception" と書くと、直訳すれば概念の産物となるはずが、これを医療の世界では受胎産物と訳すのである。つまりconceptionは精子と卵子がであって受精卵になった証拠、という意味。思念と受胎とを同じ単語であらわしているのがかねがね不思議だった。

https://gogen-ejd.info/conception/

これによると、ラテン語のconceptioということばが、「とりこむ」とか「内側に存在させる」的な意味をもつようだ。

なるほど、そうかんがえてみれば、受胎も思考も内側にぽんと灯りが生じるような、ほとんど同じような意味にみえてくる。おもしろいな。






パラグアイのコンセプシオンという町あるいは県が、語源に受胎であるとか思考といった意味を持っているのかどうかは全くわからない。ちょっと日本語でググったくらいでは、町の名前がついた理由まではたどり着けない。スペイン語の知識があればもうすこし粘れたかもしれない。

Google mapでコンセプシオンをクリックしてみると町の観光名所になっていそうな写真がズドンと出てきて圧倒される。



これを見ているとどうもキリスト教系の処女懐妊とかに町の由来があるのかもなあと想像するのだけれど、確かめる術はないし、この疑問はいずれぼくが南米を旅行するときまで取っておいてもいい類いのものだろう。まあ、ぼくがこの先南米を訪れて、パラグアイに立ち寄って、首都ならぬコンセプシオンまでのバスに載ってこの風景を目にする確率は1%未満ではないかと思うが、ゼロと1%未満とでは大いに意味が異なる。こういうときに医療の世界では「可能性を否定できない」という便利なフレーズを用いる。

2020年1月16日木曜日

病理の話(404) たぶん民間医療ってもっとずっと複雑だよねって話

先日読んだ本に、

「ひどいアトピーに苦しんでいた人が、自然農業をはじめて試行錯誤するうち、いつしかアトピーがよくなっていた話」

が載っていて、考え込んでしまった。

この「自然農業」によって、食べる物や住む場所を変えたことがアトピーをよくなることにどれだけ寄与したのだろう。

本人も書いているのだ。自然農業を続けながら長く病気と戦ってきた、と。

つまり自然農業をはじめてからもずっとアトピーはよくなっていないのである。

長い年月をかけてよくなった、それはほんとうによかった、けれども自然農業をやっていなくても同じ年齢になったらやっぱりアトピーは治っていたかもしれない。

時間経過という別の要因によってアトピーが治ったかもしれない。




しかし患者の身になって考え直してみると、この、「自然農業を続けていくうちにアトピーが治って嬉しかった」という話には、つっこみのいれようがない。

だって、ここには、間違いがないのだから。

そもそも科学の話なんかしていないのだ。

「アトピーに苦しみながら自然農業でがんばってきた歴史」は患者にとって真実なのである。

自然農業が精神の支えになったこともあったろう。

つらい毎日だけではなくチャレンジする毎日もあったろう。よろこびだってあったろう。

自然農業というのはもはやアトピー療法なんかではなくて、この人にとっては、人生の一部そのものなわけで、それがアトピーに効いた「かもしれない」と思っている本人の気持ちは、子どもがクリスマスに枕元のプレゼントをみて「サンタさんだ!」と喜ぶのとどれくらい違うのだろう。

その上で、「自然農業がアトピーにいいぞ、だからうちの無農薬野菜を高額で買いなさい」とすすめる(アトピーではない)悪徳業者だけをぶっつぶせばいい。

……とは思うのだけれど、じゃあすすめる野菜が高額ではなくて安価だったら、神社のおまもりとかと同じように、「気休めは気の癒やし」として許容していいのか。





うーん。ぼくは考え込んでしまっている。

医学とか科学をふりかざして、暴力的にニセ医学を殴って回る医療者たちが分断を引き起こす姿を見てきた。

いっぽうで、やさしい医療情報をたずさえて、民俗セクター的医療(まじない、祈祷、おまもり、信仰を含む)と西洋医学とを融和させるタイプの医療者もちらほら見かける。

ぼくが考え込んでいることはきっと現場の医療者たちがずっと前から悩んできたことであるだろう。

きっとそのうち、ぼくの悩みによりそってくれるような本が出るはずだ。

たぶんそう遠くないうちに……。知らんけど……。(読んでないのでほんとに知らない)

2020年1月15日水曜日

はたらく細胞はかなり好意的な描写をしている

正月明けの仕事が一段落したところで、ふとツイッターとかnoteとかブログのアクセス具合をみてみると、年始の方が、年末よりも1,2割ほど訪れる人が多くなっていた。

たぶん年末、みんなどこかさみしかったんだろう。ネットワークからそこそこ離れたことが。

おそらくぼくらはもう、社会という大きな多細胞生物の中で小さな役割を個別に担当する細胞みたいな存在になっている。社会全体の体温にかなり依存している。一部の臓器から与えられるホルモンやとなりの細胞からパラクラインされる化学物質、間質とのイオンのやりとり、さらには遠方の脳神経から伝達されるデジタル電気信号で幾重にも調整されている。

だからそのどれかから切り離されるとすごく不安になるし、ヘタするとアポトーシスしてしまう。

年末はみんながちりぢりになった。いつもはヒトのかたちをしていた社会が、のっそりとねそべるネコみたいになった。

それが年始に再構築されて、またヒトに戻ったときに、お互い、そこにいるか、そこにいるんだな、と、いつもより多めに情報交換して、間主観性の中で輪郭をもう一度作り直そうとしているんだと思う。




そういえば赤血球という細胞がある。赤血球は酸素の運搬という仕事に特化しすぎている。ほかの細胞とは異なり、だいじなDNAを入れている核を欠いている。ほかの細胞と強い結合をすることもない。浸透圧以外での調整は基本的に細胞膜を介した少量のやりとり以外はやらない。

血管の中でずっとうろうろしている。ときに血管の曲がり角で休んでいるときもあるけれど。

そして人間の体の中ではもっとも寿命が短い。

社会の中でも赤血球になることはできる。しかしそのことを想像すると少々へこむ。そういえば赤血球も真ん中ががっくりと落ちくぼんでいる。すきまをすり抜けるためだ、と言いながら。

2020年1月14日火曜日

病理の話(403) 硬いものと柔らかいもの

一部の病気は硬くなる。

たとえばひざに水がたまって関節がパンパンに腫れたら硬く感じるだろう。

これは、「水」という柔軟性がないものが、限られたスペースの中に充満している状態を「硬い」と感じているのである。

溜まっているものは正確には純水ではないんだけれどもかたいことは言わないでほしい(今のはナチュラルギャグです)。




外から触るとなんとなくわかる。「ああ水が溜まっているなあ。炎症が起こっているんだろうなあ」。

体の表面から触れる部分の硬度が変わり、手で触って知ることができれば、診断の役に立つ。




では、たとえば「肝臓」になにかものができたときに、そこが硬くなったとか、逆に柔らかくなったとかを調べて、診断の一助にすることはできるだろうか?




肝臓の一部は外から手で触って感じることができる。右側の肋骨の下の方を探っていき、息をすってーはいてーとやりながら肋骨の裏側をぎゅーと押すと、肝臓のへりの感触をかんじることが……できると……されているが……自分で自分のお腹をさわってもどうせうまくいかないからやめたほうがいいですよ。だいいちなんか緊張するでしょう。

肝臓や脾臓ならまだしも、胃とか大腸とかね、硬くなったとか柔らかくなったとかさ、触ってわかるものなの? 

5センチくらいのしこりがドカーンとできていれば触ることがあるけれども。よっぽどうまく触らないとわからないと思う。

つまり、硬さとか柔らかさを直接手で触って診断に用いることは、体表から触れられる場所だけの特権みたいなものだ……。

ちょっと体の奥にあると、もううまく触ることができない。





では、「硬さ」という情報は、体の表面にある病気だけに用いるものなのだろうか?






胃カメラをやって、胃の中をのぞくときに、カメラから空気を出して胃をふくらませる。逆に、カメラの先から空気をバキュームして、胃のボリュームを減らすこともできる。

このとき、胃が大きくなったり小さくなったりする様子を、胃カメラで内部から見ることができる。

トンネルを中からのぞいているとそのトンネルがうにょうにょと広がったり縮んだりするわけだ。

ところが、トンネルの壁の一部の、「かたちがかわらない」としたらどうか?

ふつう、空気を入れてパンパンに広げれば、胃の粘膜はびよーんと伸びるはずである。

また、空気を抜いてしぼませれば、胃の粘膜はたわむ。

でもそういう伸び縮みがない部分があったら……そこは、「硬い」のだ! そう、硬さについては、直接手で触らずとも、「動きに対するリアクションがあるかどうか」で推測することができるのである。

胃粘膜の一部が硬くなっていたらそこには病気があるかもしれない。がんがあるか、それとも消化性潰瘍があるのかはもう少ししらべてみないとわからないけれど。





この、「移動に対する変形をみる」という技術を、一部の医者は「硬さをみる」と表現する。なかなか高度な言い方だ。実際、日本人の内視鏡医はこの「硬さ」をよく理解しているのだが、欧米や南米などで現地の内科医と話をすると、「胃の病気の一部が硬いとはどういうことだ? おまえら日本人の医者は胃を直接さわっているのか?」と疑問を投げかけられたりもするのだという。

ほかにも、臓器表面の不自然な引き連れだとか引き込みのような「形状の変化」を「硬い」と表現することもある。

形態学というのは言語センスとセットになっている。ぼくらはこういう言葉を日ごろから使いまくっているせいで、つい、あまりこの世界に興味関心がない人に、慣れ親しんだ専門的な形容詞を使って会話をしてしまって、あいまいにうなずかれることがあり、家に帰ってから反省しなければいけないことがある。


「粘膜や硬さの話をしてもぜんぜん伝わらなかったし、なんだか変な表情で見られちゃったなあ……。」


たしかに振り返ってみると意味深に聞こえる。しかしこっちはいたって真面目なのだ。

2020年1月10日金曜日

年初のほうふ

正月にな、1日に2,3回くらいツイッターひらくの。で、そのへんに流れてるおもしろそうなツイート2,3個RTして、また去るわけ。そのときに一言そえてもいいけど引用RTとかはしないのよ。後追いでちょろっとコメントしておわりにするのね。

あるいはnoteをときおり開いてかたっぱしから読んでスキ付ける。

で、それを2つくらいツイートしたのね。やったのはこれだけ。




そしたらもうーいつもの3倍くらいのペースでフォロワー増えるわけ。なんでだ。びっくりしたわ。でもすぐわかった。俺ふだんツイート多すぎるんだな。タイムラインが埋まるってやつだ。だからこれくらいの頻度で一気に好感度が上がるんだね。きっとね。




だから正月が終わるとゆるやかにフォロワーが減るはずなんだよね。まあこれ書いてるの正月なんで、まだ結果はわかんないんだけどさ。

こういう意味で「フォロワーの増減を気にする」のっておもしろいよ。増えろーとか減るなーとかじゃなくて、ただ単に、何をやったら増えたか、何をやったか増えないかをずっと見てるだけ。なんか複雑系とかカオスの性質をぼんやりとすりガラスの向こうから覗いてるような気分になっていくんだよねえ。





2019年はずっと複雑系の話をしてた気がする。下半期はそれに加えて偶然と以下性の話。あとは「流用」。すでにあるシステムを使って別の仕事をする、みたいな話……これは直接しゃべらずに自分の中で温め続けてきたテーマだった。

2020年はどうしようかな……テーマもう少しずらしたいんだよな。

「幸せの総量をベーシックインカム的にばらまくためのツイッター」みたいなことを考えたらどういうキーワードを掘っていったらいいのかなあ。

行動経済学?

うーん。

好感度とマスメディアの論理?

うーーん。

犬や猫?

うーーーーーーん。

ぺこぱ?

うーーーーーー、うん。全肯定な。それはあるかもな。

あとは……社会的処方かなあ……やっぱり……。




もうちょっと本読も。そしたらたぶんキーワードがみえてくる。なんとなく周りの人が強くおすすめしている本を読んでいけばもう当たるようになってる。これはほんとにツイッターやっててよかったなーと思ったことだ。エコーチェンバー現象に気をつけながら、だけれど。

2020年1月9日木曜日

病理の話(402) 年齢別にみた病理医の仕事

今日の記事、こういう書き方、こういう視点では書いたことないかもしれない。





病理医って、実は年齢とか職務経験によって、少しずつ仕事内容が変わっていきます。

ずーっと「顕微鏡で細胞みて診断する仕事」だけしていればいいわけじゃないんです。




いや、てか、ほとんどの社会人ってそうじゃん? ふつうみんなそうじゃん?

若い時の働き方のまま50代、60代ってならないじゃん? いわゆる管理職ってあるじゃん。

一般的な企業に勤めている人って、自分の仕事内容をざっくり説明するのって意外と難しいはずなんだよね。

20代とか30代ならまだしも。

年を取るとだんだん複雑になるものなんだよ。




でも、医療職って、どうもそうは思われてないふしがある。

たとえば医者のことを考えてほしい。あなたは、研修医も40代の医師も60代の医師も、みんな患者みて注射して電カル叩いて手術してると思ってないだろうか?

……いや、まあ、してるんだけどね。

国家資格をもった人間のサガだよね。

その資格を使わないとなんにもできないからね。



でも年齢を重ねると、ほかの職業と同じように、やっぱり立場が少しずつ変わっていくんです。

どんな医療職であってもね。



では病理医の場合はどう変わるか?




いろーんなパターンがあってこれと決めつけることはできないんだけど……。

基本的に、細胞をみてその性状を診断して、レポートに記すという一連の専門的な作業にかける時間は、ちょっとずつ少なくなる。

これは自分の能力が上がったり、職場環境に慣れたり、部下と仕事を分け合ったりするからです。

で、所要時間が短くなるにつれて、余った時間をどう使うか。

 ①その時間でさらに細胞をじっくり見るタイプ。

これだとやってることは若いときとあまり違って見えない。ずっと顕微鏡に向かい合ってるかんじ。細胞ってみればみるほど見どころが増えていくんだよね。

 ②細胞学や病理診断に関する論文を読んだり、教科書を見たりする勉強の時間を増やすタイプ。

だいたいみんなこういうことはする。若いころは仕事のやり方を覚えたり、基本的で古典的な技術を学ぶことで時間がどんどん溶けていくけれど、これらをある程度習得すると、そこからが長い医学の勉強のスタートなのだよね。

病理医というのは基本的にどこまでも脳だけで働く(手先の器用さがほぼ必要ない)ので、ずーっと脳を鍛え続けておくことが求められる。一生勉強してないとね。




で、ここまでは前提として、ここからは、やる人とやらない人がいますが、やる人に回ると、仕事のスタイル自体がどんどん変わっていきます。まるで顕微鏡を見ないタイプの病理医になっていったりもする。つまりは働き方が変わってしまうパターン。

 ③診断経験を活かして、所属している学会や研究会などで発言する回数が増え、「診断基準を作る側にまわる」

こういう場合があるんだよ。

細胞をみて診断はするんだけど、それ以上に、ほかの病理医、あるいは病理医以外の医療者たちが日常的に使うための診断の「手引き」、あるいは「評価するための虎の巻」を考える仕事が増えてくる。





たとえば弁護士って法律を覚えて仕事をするでしょう。

で、法律をいくつも使って案件を処理していくうちに、法の不備に気づく……ことがどれだけあるのかな。新しいタイプの裁判で、法の抜け道みたいなものが見つかったら、そのとき、弁護士が新しい法律をつくろうとして働くことはあんまりないと思う。だってそれは司法の仕事じゃなくて立法の仕事になっちゃうからね。三権分立ってそういうことでしょう。

でも病理診断の場合は、病理医が使う法律……というか法則……「ロウ」は、病理医が自分たちで磨いていかなきゃいけないんだ。

もちろん、病理医だけで磨くことはない。胃腸に関するとりきめは胃腸内科(消化器内科)や消化器外科のドクターたちといっしょに考えるし、肺に関するとりきめは呼吸器内科や呼吸器外科のドクターたちといっしょに決めるよ。

でも病理医もぜったいにその「法を作る場所」に参加しないといけない。だって細胞をきちんとみられる医者なんてほかにいないからね。



ということで、病理医は、みんながみんなキャリアの間中「司法」みたいなかんじではたらいてるわけじゃないんだ。途中から「立法」にも携わる場合がある。




さあぼくはどうなるだろう。ずっと「司法」側でいるのかな。それとも「立法」もやることになるのだろうか。




あるいはAI病理診断の世界で「行政」もふくめた新しいシステムを作る仕事をやるのかな。それはまだぼく自身にもわからない。

2020年1月8日水曜日

リンクとノードとたまねぎとひまわり

脳のネットワークと社会に広がる情報とが似ているよね、という話、ほんとうにすごい量の書籍によって言及されていることがわかった。鴨や谷本さんがリプライで教えてくれた本を読みながら、それぞれの人々が違う立場でさまざまにネットワークのことを語っているなあ、と、今さらながら知る。

で、議論の先に必ず立ち上がってくるのが哲学者の言なのだ。これがおもしろい。

哲学の何が楽しいのか、今まで全くわかっていなかったが、今なら少しわかる。

何かを極めようと思って勉強していて、思考がこんがらがった先にはたいてい哲学者がいて、先にごっちゃごちゃに絡まってぐっちゃぐちゃに悩んでくれている。

哲学者ってのはそういう存在だった。哲学がいまだに世にある意味が多少わかった。




なお順番が大事だ。

「まず哲学者」に出会ってもだめ。

その哲学者がなぜぐっちゃぐちゃになっているのかが自分の身に迫ってこない。世にさまざまなカタチで存在する、複雑で解決しがたい問題をどれでもいいから一つ選んで、「自分のこと」として実感していない状態で哲学書を読んでも、ほとんど心に響いてこない。哲学者の用いている比喩表現の「元ネタ」みたいなものが思い浮かばない。哲学者がなぜ死にそうな顔をして悩んでいるのかぜんぜん共感できない。

「まず」ではなく、「いざというとき」に哲学者と出会うべきなのだろう。

まずは自分で、なんでもいいから問題にぶちあたるまで深々と突き進む。そのあとで哲学者。それから哲学者。ようやく哲学者だ。





小学生が何かに興味をもったときに最初にぶちあたる疑問には、すでに答えがある場合が多い。ググれば出てくるというか。

大学生くらいであってもだ。ググってレポートを書ける。

けれども中には、世のドコを探してもその答えにまだ誰もたどり着いていない、というパターンがある。

そういうとき、哲学者を探す。どこかに必ずといっていいほど、似たような構造の問題に対してぐちゃぐちゃねちゃねちゃ悩み続けている変人がいて、奇書を残しているのである。

ぼくはそこに合流する。

ある程度の交通整理をしてくれている。助かる。

そして答えは出ない。






「なぜ人はわかりあえないの」「どうして正しい医療情報は伝わらないの」「どうやったら情報伝達は進化できるの」

生命科学、脳科学の末に今は哲学を読んでいる。この記事はおおみそかより前に書いているが公開されるのは正月明け。たぶん、休みを使って、いっぱい本を読んだと思う、2020年初頭のぼくは。

どうせそれでもひとっつも進歩はしていないのだろうが、多少なりとも、すでに世にいた哲学者たちとうすいリンクでつながってはいるだろう。今よりもう少し。淡くとも。

2020年1月7日火曜日

病理の話(401) お笑いネタならよかったのにという報告書

病理報告書には、病理医がプレパラートをみて、感じて、思って、考えたことが書いてある。



診断名: ○○(細胞をみてつけた病名)

所見: (採取された部分)が提出されています。(A)が豊富に存在する背景に、(B)細胞が、(C)という配列を形成して増殖しています。(D)という特殊な見た目や、(E)というあまり普通ではみないようすも見られます。なので、○○と診断します。



まあだいたいこういう感じのレポート内容が書かれている。

もうすこし文体はしかつめらしく書かれることが多いけれど。





この報告書を受け取るのは「主治医」だ。

患者に向かい合って、一緒に悩んで考えて、○○という病気だろうか、△△という病気だろうか、はたまた、■■という病気だろうかと思いを巡らせている。

あとは細胞さえ採れれば決着がつく、というシチュエーションにいることもある。

はたまた、細胞だけではどうにもならないけれど、細胞の結果も参考にしてもっとじっくり悩みたい、という考えでいることもある。

主治医は、さまざまな方向から仕入れた情報の中に、病理診断報告書の結果を差し込もうとしている。




さあ、病理診断報告書ができた!

このとき、主治医は、

診断名: ○○(細胞をみてつけた病名)

のところには、まず間違いなく、目をこらす。じっくり見る。

しかし、

所見: (採取された部分)が提出されています。(A)が豊富に存在する背景に、(B)細胞が、(C)という配列を形成して増殖しています。(D)という特殊な見た目や、(E)というあまり普通ではみないようすも見られます。なので、○○と診断します。

のところは、あまり見ないこともある。

そう、病理診断報告書は、きわめて大切な報告書であるにも関わらず、あまりきちんと精読されていないことがあるのだ。

えーー。せっかく書いたのに。読んでよ。






でもこれは別に、主治医が悪いというわけではない。






第一に、主治医にとっては、診断名のところさえ見れば用が足りることが多い。診断名というのはそれだけ重要なのだ。所見なんて読まなくても仕事に支障がなかったりする。そういうレポートが続くと、いそがしい主治医は、いちいちその下に書いてある「所見」(要は注釈みたいなものだ)を、読まなくなる。

まあ、それを読ませるのが「技術」だと思うのだけれど……。



第二に、「所見」は、けっこうな頻度で病理学の専門用語が用いられる。だから、そもそも、じっくり読んでも病理医以外には意味がわからないことも多い。そのため読み飛ばしてしまう。





第三に、所見の書き方があまり上手ではない……というか、所見が読むためには書かれていない(病理医自身が考えを整理するために書いている)場合がある。

たとえばこういうものだ。

「所見: Aを考えました。なぜならばAに典型的だからです。」

これは病理診断報告書を読みたくなくなる理由ナンバーワン(ぼく調べ)のだめな所見である。だって、Aと診断した理由がまったく具体的に書かれていないからだ。というかこれって日本語としても破綻しているよね。

ぼくは今日寝坊しました。なぜならばぼくは今日寝坊したからです!

みたいなのといっしょだ。最近どこかで聞いたような話だな。




あるいはこういうタイプのダメレポートもある。

「所見: 当初はAを考えました。しかしBの可能性もあるかと思いました。でもAのほうが可能性は高いのです。なぜならAを支持する理由があるから。でもBを支持する理由もあるんです。となるとBは否定できません。けれどもどちらかというとAかとは思います。しかしBを完全に捨てきれるわけではありません。」



ミルクボーイのネタかよ




でもこれ笑い事ではなくてほんとうにこういう病理診断報告書はあるのである。けっこうなベテランでもこれをやらかす。

このタイプのレポートをめったに書かない病理医が、1年に1回くらい、迷いに迷ったこういう文章を書くと、臨床医はぎょっとして、

「あのいつも冷静沈着な病理医がミルクボーイさながらに取り乱しているぞ! これは非常に難しいに違いない!」

とじゅうぶんに警戒してくれるのだが、問題は、毎日のようにミルクボーイってる病理医の場合である。こんなレポートばかり読んでいると、臨床医はまず、そういうレポートを読まなくなる。だって何言ってるかわからないんだもん。




で、最終的に、病理医が診断名には書かなかった、しかし所見の中で細やかに指摘した落とし穴(ピットフォール)に見事にはまって、診療が難航したりする。

そういうときに病理医が、

「あぁー、せっかくレポートに書いといたのに。ちゃんと読まない主治医はアホだな」

とか言っているのを小耳に挟むと、うーん、言語能力って大事だなあと、つつましく自戒したりするのである。

2020年1月6日月曜日

進路選択の正しさ

「来月しめきりの仕事が、もうすぐはやめに片付く」

「片付くとどうなる?」

「知らんのか」 「次の仕事がはじまる」




みたいなかんじの1年だった。




早くものを書いてもいいことはない。単に「早く書けるのだな」と認識されて無茶な量の仕事を追加されるだけの話だ。

だったらじっくりと締め切りぎりぎりまで粘って仕事のクオリティを最後まで上げきったほうが得である。




……という正論もまあわかるのだが……。




ぼくは、たとえば病理診断というのは早ければ早いほどいいと思っている。診断というのはその後の方針に影響するものだ。診断が早く付けば付くほど、次の行動が早くとれる。

実際には、病理診断が1日、2日早くついたからといって、その病気を征圧できる可能性がそれほど大きく変わるわけではない。診断というのはそこまで単純なものではない。

けれども、関係者一同が「どうなるんだろう」と気持ちを揺るがせている時間を、早く落ち着かせることはけっこう大事だと思う。

「診断がなかなか出ないこと」というストレスは、減らした方がいいと信じているのだ。





で、病理診断に限らず、ウェブの記事とか、インタビューのチェックなどの、あまり病理と関係ない仕事においても、ぼくはとにかく「締め切り通りに原稿がくるかなー」と揺らいでいる編集者の気持ちを早くラクにさせたいなという気持ちが前に出てしまう。

だからいつでも仕事を巻きまくる。

依頼メールを開いたまま原稿を書き終えたいくらいだ。誰かがかわりにチェックしてくれるならそうやって書きたい。




自然と、そのとき思ったことを書き殴るタイプの原稿ばかりが積み上がっていく。





ぼくのこの「スナップチャット方式の原稿」は、きっと、あまりよくないのだと思う。だから2020年はもうすこし、じっくりとものを読んで書きたい。ぼくはいつでもそうだ。あらゆる物事がコミュニケーションであることを忘れ、ツーの矢が飛んできたらカーと大砲で返事する、みたいなことばかりをやっている。




やっぱりぼく病理医でよかったんだろうな。

こんな臨床医はいやだ。ぼくなら。

よかった、どこまでもどこまでも病理医で居続けることにしよう。

今年で42になる。自分のやれることと役割を悟るにはちょうどいい年齢ではないか。