2020年1月29日水曜日

まだ生きていたかもしれない人

ちきしょう気に入ってはいてたボトムスが毛玉だらけじゃねぇか!

これも! これもだ!

……ネットに入れて洗濯するのを忘れたからか!

うう! 気に入ってたのに!




といいながら毛玉まみれのやつをはいて出勤している。どうせ誰も見てない。かまわない。おっさんのズボンなんて誰も見てないのだ。これは本当だ。たとえばお尻の部分にクマのアップリケをして1日過ごしてみたらいい。誰もつっこんでこないから。





と、まあ、この、「誰もつっこんでこない、すなわち、誰も見てない」というのは論理としてはおかしいのである。「みんな見てるけど、哀れすぎてつっこめない」可能性を考えていないからだ。「みんな見てるけど、会話したくないからつっこまない」も考えておかないといけない。

可能性可能性。

可能性のことをちゃんと考えよう。





こないだ読んでいた本に、偶然性とは「起こらなくてもよかったことが起こっていること」であり、可能性とは「まだ起こっていないけど起こるかもしれないこと」だとあった。

偶然性とは、「無であってもよかったのに有」であること。

可能性とは、「有になるかもしれない無」。

有と無に片足ずつ突っ込んでいる状態を、違う角度からみると、偶然とか可能性の話ができるんだ。なるほどな。




その本はとってもわかりづらい本だったのだ。なぜかというと、著者が、校正をかけるまえに亡くなってしまったからだ。『出会いのあわい』という。同じようなモチーフが何度も出てくるし、元が学術論文なのでしちめんどくさくて読んでいると眠くなってくる。

でもおもしろかった。偶然の話はおもしろい。それが可能性の話と表裏の関係にあると知ってぼくは少しだけ興奮してしまったのだった。