2019年11月29日金曜日

毛玉

気に入った服があると、あれこれといいわけをしながらもその服をひいきして、結果的に他の服よりもはやくボロボロにしてしまう。

駅やイオンの中に入っている店で買った、ベルトを通す穴はあいているがウエストにヒモも通っているので、ジャケットスタイルにも合わせられるしカジュアルにも着られるタイプのパンツ。

だいぶ伸縮性がいい。よくストレッチする。膝が楽だ。尻も楽である。座っている時間が長いのでありがたい。

ああこれはいいなあ、と思い、色違いを2本買って着回していた。そして秋口になると、中にワタの入った厚手のバージョンが出るのだ。これがとにかく最高なのだ。驚喜して3本買った。

もう、ひたすら着回している。職場に履いていく、休日に本屋に行くときに履く。出張のときもスーツとは別に持っていって履く。移動もラク。革靴にも合う。ほかのパンツをすっかり履かなくなった。

あまりに極端にこればかり履いていたせいで、3本買ったにもかかわらず早くもそのうちの1本が毛玉まみれになってきた。デスクでふと太ももを見たら違和感があり、目をこらすと無数の毛玉がこっちを見ていた。目玉みたいにいうな。




あれこの話書いたかな?

あちこちで文章書いて忘れている。

たぶんこのパンツの話はぼくにとって「気に入ったストーリー」なのだろう。

語るポイントがいくつかあり、誰も傷つかず、少し情景が浮かびやすく、共感も得られ、失笑も得られる。便利すぎる。ラクだ。

だから一度書いてもまたつい書いてしまう。

これって気に入ったパンツを履き続ける構図とそっくりだな。

となるとこの文章の中にもおそらく毛玉ができている。

毛玉ができて、知らず知らずのうちにクオリティが下がっている。けれどもぼくはそれを見てむしろ、「毛玉があるとなんだか暖かそうに見えていいじゃん?」などと本質を外した擁護をしたりする。




せっかくなので毛玉を仕込んでみた。

冒頭の6段落の最初の文字……の、アルファベット部分をならべると毛玉になる。

知らず知らずのうちに毛玉がそこにいて、黙ってこっちを見ている。

2019年11月28日木曜日

病理の話(389) 病気の話を書きました

照林社のエキスパートナースという雑誌に、「ヤンデル先生の病気の話」を書いた。

……いや、「ヤンデル先生の病気」の話ではなくて、ヤンデル先生の「病気の話」である。

別にぼくが病気にかかってその身の上話をしたというわけではないので安心してほしい。

https://www.shorinsha.co.jp/detail.php?bt=1&isbn=1208312119

上記リンクから、特集記事の序盤が試し読みできるのでお試しください。



企画書が届いたのが去年の8月、書き終わったのが去年の11月なので、書き終えてからまる1年が経過している。なので自分で読んでも新鮮な部分があった。よくできたと思う。それよりなにより、イラストレーターの熊野友紀子さんの世界観がめちゃくちゃいいので皆様にお勧めしておく。



今回の記事の内容は「病気ってそもそもなんなの?」という一本の太い骨、とその周りに肉付けされたもの、である。

「病気ってなんなの?」すなわち「病(やまい)の理(ことわり)」であり、これは病理学そのものだ。ぼくがこのブログでずっと書いてきた「病理の話」も同テーマで書いている。

書くのがすごい楽だった。なぜなら、最初から頭の中に風景があるので、その風景の中を歩いて見えたものを文章にしていけばそのまま原稿になるからだ。




なんでも、小説家の中にも、考えて書いているのではなくて、頭の中にできあがった世界を順番に描写していけばそれが小説になる、というタイプの人がいるという。

この話を聞いたときにふと思ったのは、

「ああ、つまりぼくの頭の中には、病理というナラティブがあるのだな」

ということだった。



ナラティブという言葉がずいぶんいろんな使い方をされるようになったが、この言葉はつまり「物語化する」ということだ。客観的に・論理的に組み上げた学問にも、実は客観的観測結果の時系列や、論理同士のつながりがあって、そこには一種の物語性がある。

ぼくの場合は自分の専門とする病理学にのみ、脳内でこの物語化ができている。だから病理学を語るときに、歴史とか、なれそめとか、あらすじとか、そういった語り方ができる。となると、導入部さえ編集者に決めてもらえれば、あとはストーリーをたどっていけばいつの間にか教科書の皮をかぶった随筆ができあがるのだ。これは助かる。



「なんだそりゃ、査読もされずに学問の話を書くなよ、論文を書けよ」

という反論が出るのはわかるのだが、医療情報発信はどちらかというと診察室を拡充する医業のひとつだと思っている。「外来に出てないで論文を書けよ」という人もいるので自分が免罪されるとは思わないが、たいていの人は、「そうか、病理医として外来に立とうと思ったら、本を書けばいいんだね」とわかっていただける。

外来で患者と話すこともナラティブ同士の突き合わせだろう?

だから患者向けに、あるいは医療者向けに本を書くときにもナラティブ・ベイストのやりかたはあると思うのだ。そしてそのナラティブというのは、「科学の持つ物語性」であるべきだ。




これから4冊本を出す。1冊は看護師・看護学生向けに書いた「病理の話」の教科書。1冊は中学生が読める文体で書いた「病気の話」の新書。1冊は消化管病理学のゆるめの専門書。1冊は肝臓の画像・病理対比の本。最初の2冊は単著、後半の2冊は共著(だがぼくが9割書いている)。

これらはすべて「病理の話」であり、ぼくの専門ど真ん中であっていずれも、脳の中にある風景をただ写し取っていけばいいだけだったので、原稿はたいそう楽だった。

なお、脳内遊覧を本にしていく作業は、これで一段落とする。




40歳前後でこれだけ本を書かせてくれたのは本当にありがたかった。しかしそろそろ後進に道を開くべきだろう。自分が専門とする領域について、日々の仕事の中で頭の中に組み上がった風景をライトな文体でまとめていくとき、大事なのは

「頭の中にきちんと何かを組み上げていること」

だ。つまりは自分の中にちゃんと学問を組み立てようとしていること。

でもこんなことはわりとみんなやっている。

ならばあとは、デスクに向かう時間さえあれば誰もがぼくと同じような仕事をできる。

もっとも、40歳前後の医療者というのはそもそもデスクに向かう時間が取れない。だからたいていの医者はそう簡単には本を出せない。脳内に科学があってもアウトプットする時間がない。

けれども今の時代、SNSによって、デスクに向かわずともスマホに向かえば小刻みに文章を残せるようになった。脳内風景を断片的に切り出して世に出す作業は、前よりもずっと簡単である。

となるとこれからは、ぼくより若く、活気があって、脳内にぼくとはまた少し違った風景を構築している人が、ライトな文体でどんどん本を書くだろう。それはたとえば腎臓の話でも子宮の話でも、甲状腺の話でも骨折の話でも、脳の話でも、なんでもありえる。



ぼくはもう十分にやらせてもらった。次はおじさんにしかできない、おじさん以外はやりたがらない、おじさんであればやっていても不思議はない仕事にシフトしていこう。

科学のナラティブをライトに語る切り口はぼくの持ち味のようだ。ここを純文学みたいに重厚にしていくのは、たぶん求められていない。けれども、ライトに書きながらも、読んだ人に何かを思ってもらうような文章というのも世の中にはある。

このとき求められるのは、ナラティブに詰め寄っていく解像度の高さと、今まではとにかく早く多く書いてきたものを、じっくり、少しずつ、丁寧に書き取っていこうという心がけなのではないか、というのを今は考えている。

2019年11月27日水曜日

師団と索敵が一致している

これから商売をはじめようという人だとか、日々に悩んでいる勤め人であるとか、家族との仲がよくない人を相手に、こう考えたらラクになる、こう行動したらうまくいく、みたいなことを強く伝えるタイプの文章が、たまに苦手で読めなくなる。

そういう文章にはある程度おきまりのフレーズが出てくる。

「手段と目的が逆転している」

なんてのがその最たるものだ。

「それは手段と目的が逆転しています。手段はあくまで何かを成し遂げるためのもの。手段をこなすこと自体が目的になっていませんか? 目的をきちんと見据えましょう」

こういう話は何にでも言えるうえに、書いておくと読んだ人が「ハッ」と自分を振り返って胸に手を当てる効果がある。だから汎用される。

けれどもよくよく考えると、「手段と目的が逆転しているよ」という文章の趣旨は実際には「手段イコール目的になっているよ」と言いたいだけであって、手段と目的が完全に逆転しているわけではなかったりする。だいたい、手段と目的がほんとうに逆転しているならば、かつて手段だった目的をターゲットにして、かつて目的だった手段を用いればいいだけの話であって、それは別に問題でもなんでもない。単に道程を順方向に歩くか逆方向に歩くかの違いだ。順方向に進んだ先に明確な栄光が待っていると信じている人にとってそれは耐えられないことかもしれないが、しばしば人生は、とりあえず足を動かしていれば健康になるという側面をもつ。方向がどっちであっても歩き続けていればなんとかなる。もっとも、止まっていてだめということすら、ないのだけれど。

文章を書く人はなぜか「手段と目的が逆転している」というフレーズを使いたがる。

そうすることでたぶん「受け止められ感」が得られるからだろう。

そういうことに気づいた瞬間からもうだめだ。つまんねえ文章だな、と思う。

そこからは4行くらいいっぺんに目に入れて急いで流し込み、あるいはこの文章のどこかにまだ驚くほどみずみずしいフレーズが潜んでいるかもしれないと、淡い期待を持ちながら残りの文章を読むのだけれど、たいていそんな見事なことばは出てこない。




「使い途のない文章」を読む日が増えていく。それはもしかしたら同人誌あたりにいっぱい眠っているのかもしれないし、あるいは純文学の中に潜んでいるのかもしれない。でもジャンルしばりでそういう文章を探しにいくこと自体が「目的指向」なので、なかなか一本釣りはできない。

自然とタイムラインに頼ることになる。アイコンがかわいいとか、ツイートが短すぎるなどの微妙なフックに釣り上げられてクリックした先にある、noteですらない微妙な媒体の短文を読んで、ほうっと網膜の裏側に色彩が浮かぶことがある。そういう文章はたいてい、「これを読んだからと言って何も、どうしようもない」ものだ。

しかし今こう書いていて思ったが、ぼくはもしかすると、文章の技巧にだけ癒やされているのだろうか? 手段と目的が一致してしまったのだろうか?

2019年11月26日火曜日

病理の話(388) エビデンスのナラティブ

病理の話というよりは医学の話をする。

西洋医学はよく「エビデンス」がだいじだという。エビデンス、すなわち証拠なのだが、もはやこの言葉は独り歩きして意味がいろいろとくっついて、雪山をかけおりていく小さな雪玉がいつの間にか大玉転がしみたいなサイズになっているように、複数の意味とニュアンスをあわせもつ化け物みたいな言葉になっている。

医学界における「エビデンス」: 先人たちが病気の診断方法や治療方法、処置の方法などについて、無数の結果を掛け合わせて、統計学的に「このやり方でやるのが現時点でおそらく一番いいだろう」と確認しているもの。

これで簡単に説明したつもりなのだが、ちっとも簡単じゃない。



たとえばぼくが、過去に、「山になっていた木の実を口に入れてみたら甘かった」という、素敵な経験をしたとする。

この経験自体は真実だ。某山に生えていたとある木に、鈴なりになっていた実を食べた。少なくともぼくは甘いと感じた。どこにも間違いはない。

ならばぼくは今後、「山に歩いているときにその木を見つけたら、あなたも実を探して、ひとつ手にとって、食べてみましょう、ぜったい甘いから」と、言いふらしてもいいかどうか?

「ぼくの経験」という一つの証拠(エビデンス)をもって、ほかの人にも、この木になる実を食べてみてよと言いふらしていいものかどうか?

たとえばそれはぼくにとっては甘いと感じられる味だけれども、子供がたべたらむしろすっぱいと感じるかもしれない(中年の味覚は子供とは違う)。

また、同じ木にいつも甘い実がなるともかぎらない。実はその実が熟するのにはとても多くの時間がかかるかもしれない。たいていは未熟なまま木になっているかもしれない。

そして一部の人にとっては強いアレルギーを引き起こすかもしれない。

実が甘いかすっぱいか、ほかの人にも安心しておすすめできるかというのは、たとえぼくの経験が真実だとしても、そう簡単に「誰にとっても真実だよ」とは言えない。




西洋医学というのは常にこの「食べてもいい実、食べたらいいことがある実」を探す学問である。

ある薬を飲んだら病気が治った、というひとつの経験をもとに、だからこの病気に対してはいつもその薬を投与すればいい、と結論するためには、とても多くの手間と時間がかかり、いっぱい頭脳が関与しなければいけない。その手間と時間と頭脳の結果こそが「エビデンス」。

これは常に確率や統計の話とセットで語られる。経験を1から10、100、1000と増やしていって、100万人に使っても、1億人に使っても、デメリットよりメリットの方がたいてい大きいよと予測できてようやく、「臨床応用」される。

100%病気を治す薬はない。がんにかかっても10年後に生きているか死んでいるかなんて誰にもわからない。人によってまるで違う。これらの「いかにも学者がいいそうなセリフ」というのも、すべてこの、エビデンスが膨大な数字の末に組み立てられた結果であることからやってきている。




エビデンスのことを、「無味乾燥だ」と言いたくなる人が、けっこういる。

「そういう数字の話じゃなくてさあ、もっと患者によりそって、一人一人の物語をケアしてくれよ!」

お説ごもっとも。

しかし、エビデンスを数字のマジックであるとか、学者の冷たい理屈であると考えて忌避するのは、ちょっと待ってほしい。

そもそも、強固なエビデンスを積み立てていったのは、別にコンピュータとかAIではない。エビデンスを作ってきたのもまた人なのだということを思い出してもらいたいのだ。

多くの医者や学者が関与した。少しでも世界の医療がよくなるためにと、多くの患者と向き合い、さまざまな治療の効果を検討し、考えて、学会で発表し、論文を組み上げて、教科書にまとめ、ガイドラインを作った。

エビデンスは無数の人々の努力の結果であり、英知の結晶だ。今や数行の冷たい活字になってしまったエビデンスにも、歴史を紐解けば、知性を積み上げるために奮闘した人々の物語(ナラティブ)が、きちんと隠れている。




スーパーでリンゴをみると、ぼくは最近、妙な想像をする。

大昔の人間……ホモサピエンスになる前の類人猿あたりが、野山でみつけたリンゴや、リンゴに似ているけれどあまりおいしくない実、口に入れるとよくないことがおこる未熟なリンゴなどを、次々と食べて失敗を繰り返しながら、少しずつ、「この色のリンゴなら大丈夫だ」と納得するまでにかかった長い時間。

ぼくらはその先に生まれて、親や絵本やテレビから、「リンゴおいしいね」という物語を安心して享受している。

けれどもきっと、リンゴはおいしいよ、というエビデンスが生まれる前に、類人猿たちが無数に試行錯誤したからこそ、今こうしてぼくらの手元に、野山ではなく誰かが育てたリンゴが毎日のように届くのだ。




それこそ、「最初にウニホヤナマコ食ったやつ勇者だよな」みたいな話でもある。

2019年11月25日月曜日

午前2時の暗中模索

最近は出張ばかりしているけれど来年はあまり出張しないことになっている。

対外的な仕事のほとんどを断っている。

なぜかというと、ぼくが出世するからだ……と書けば、多少はポジティブなイメージが出るかな?




来年の春、上司が退職する。定年を前にして、ほかの病院にうつる。

そのために来年度からぼくの仕事が増える。いつかはこうなるはずだったわけで、5年くらい早まったところで大差はない。粛々と対応していくしかない。

人が減り、責任が増え、あまり外に出歩けなくなる。

加えて、ぼくが長年師事してきた方の大ボスも、もうすぐ退職する予定だ。

あと2年くらいで、一気に「上」が2名抜ける。いよいよ、もう、あまり出歩いてもいられないのである。

来年ぼくは42だ。そろそろ管理職であってもおかしくない年齢。もっとも、病理医の世界はベテランがかなり多いので、42だと若造なのだけれど。社会的にはいいタイミングだろう。




今年、あちこちの学会や研究会に、「そろそろ出られなくなります。」とお別れをいう機会が増えた。着々と病院にこもる準備を進めてきた。

人々はいう。

「まだ若いのに、引っ込むなんて」。

「これからって時なのに」。

確かにね、ぼくは外でいっぱい仕事をしたけれど、何を成し遂げてきたわけでもない。もっと専心すべきなのかもしれない。外で働くなら、まだまだ、これから達成すべき点は山ほどあった。

けれども病理医は必ずしも外で働くべき仕事ではない。

もっと、1年に1報ずつ症例報告を丹念に積み上げていくようなスタイルで、きっちり仕事をしてくるべきだ。

落ち着いて、自分の足場を固める。加えてこれからは後輩を育てることも大事だろう。

病理の世界にはめったに後輩がこないので、今までは育てようにも人がいなかったのだけれど、最近はフラジャイルのおかげで病理医の人気も上々だ。何人か仲の良い後輩もできた。

つまりもう引っ込むべきなのだ。

何度も何度も自分に言い聞かせている。書いた方がいい論文がいくつかある。事務仕事も山積み。ひとつひとつ丹念に片づけていく。正直、外に出る暇はもうない。

けれどもなんなんだろうなあこのよくわかならいむずがゆさは……。






定期テストをひかえた中学生が勉強もせずにゲームに没頭しているのと何が違うのか、と言われたら、確かに、ぼくは、なんとなく遊びたいだけなのかもなあ、と思わなくもない。

けどぼくけっこう外でしゃべる仕事をまじめにやってきたんだ。

今更、ほんとうに今更だけど、「しゃべって伝えるほうの職能」が、それ以外のぼくの「寡黙なほうの仕事」を支えていたのだなあということに気づく。

まあもうどうしようもないところはあるんだ。

けれども、なんか、裏技のように、今まで以上に外で仕事をする方法はないものかなあ、と、暇で暇でしょうがない夜更けにぼんやり考えてしまうこともある。

2019年11月22日金曜日

病理の話(387) 細胞診専門医という限界マニア

ぼくの職業は病理医といって、顕微鏡で細胞をみて病気の正体をときあかし、病院では主にがんなどの病気の診断を手助けしている。

この仕事をするためにそこそこ必要な資格(絶対に必要とまではいわない)がある。病理専門医という。

この資格をとるにはそれなりの苦労がある。病理診断や病理の研究ばかりやっている、日本病理学会というところに所属した上で、訓練を5年くらいやって、その間に必要な経験を積んで、最後には試験を受ける。そうすると資格がとれる。

必要な経験というのはつまり実務経験なのだが、その中には

・迅速組織診



・病理解剖

が含まれている。これらの詳しい話は省くけれど、きわめて専門的な経験が必要なので、自分ひとりで病院の中で今日から病理の勉強をしますと言ってもまず達成できない。つまりは経験するために師匠が必要になる。だからどこかに所属しないといけない。そういう大変さがある。



ということでそれなりの苦労をして病理専門医になるわけだが、まあ、病理専門医という資格については、医学部に入って医師免許までとった人であれば、なんとかなる。まじめに4,5年勉強すればたいていとれる。

けれども実はこれのほかにも、細胞をみる専門資格があるのだ。

細胞診専門医、という。病理専門医とは微妙に異なる資格だ。もっとも、両方持っている人はかなり多いのだけれど。




病理専門医は、人体の中で細胞が作り上げている構造や、細胞ひとつひとつの形態などを、総合的に見極めるための資格。

これに対して細胞診専門医というのは、たとえていうならば

「ひたすら細胞の中身ばかりを見ていく仕事」

である。

病理専門医よりも、さらにミクロな世界で戦う。

ほかにも違いはいっぱいあるのだけれど、一般向けのブログでそこを細かく説明してもしょうがないのでここでは書かない。



あえて例え話にするとしたら……なにがいいかな、野球に例えようか。

病理専門医は、野球というスポーツのだいたいすべてを知り尽くしている。バッティング、ピッチング、フィールディング、走塁のしかた、ベースカバーのしかた。サッカーのことはわからないけれど野球だったらだいたいなんでもわかる、監督であり総合コーチみたいな存在だ。

これに対して、細胞診専門医は、例えるならばセカンドの守備に特化している。

ゴロのさばき方、ショートとの連携の仕方、バントのときにどう動くか、については、総合コーチよりもはるかに詳しい。セカンド専用コーチみたいなものだ。

打ち方は問わない。外野の守備も関係ない。しかし、セカンドの守備にだけ言えば、誰よりも詳しい存在。

細胞診専門医は職人的だ。病理専門医も十分職人なんだけど、それに輪をかけて。





この、細胞診専門医、若手の間ではあまり人気がないようである。

それはそうだろうな。病理専門医さえあれば、飯のタネには困らないのだから。

顕微鏡を駆使して細胞のあれこれに詳しい人間であるとアピールできれば、それ以上にマニアックな資格がなくても普通の病院では大活躍できる。

この上あえて苦労して、病理専門医以外の資格をとらなくてもいいじゃないか、と思う若手は多い。

けれどもぼくは、この、細胞診専門医資格のことが大好きなのである。理屈じゃなくて単に好き嫌いなんだけどね。




ぼくが病理専門医として働くためのスキルはかなり多い。細胞に詳しいことは職能の中心だ。でも、それ以外にも、臨床医がどうやって診断をしているか、病気の原因はどこにあるか、多くの医者がどういう検査をしているか、遺伝子解析にはどのような意味があるか、統計学、解剖学、分子生物学といった数多くの知識をなんとかかんとかやりくりしている。

これらの複数の知識は、必ずしも病理医だけがもっているものではない。

腫瘍内科医や、放射線診断医、外科医などは、ぼくらと同じような知識をそれぞれに持っている。

そのうえで、病理医はほかよりも「細胞に関する知識」が多い分だけ、病院の中で特殊性を発揮することができ、給料を稼ぐことができる。



で、この、「細胞に関する知識」については、病理専門医として勉強をするよりも、細胞診専門医として勉強をするほうが、さらにパワーアップできる。これはあくまでぼくの経験なのだけれども、ぼくは細胞診専門医を取得したあとのほうが、病理専門医としての仕事のレベルが確実に上がった。

セカンドの守備を知ることで、ショートにもファーストにも詳しくなるし、守備全体のリズムがよくなって、ひいてはバッティングにもいい影響が出て、結局チームが勝ちやすくなる、みたいな感じかなあ……。





今日はたとえ話ばかりしているけれど勘弁してほしい。この世界、マニアックすぎて、説明できないんだよな。けれどひとつ言えることがある。

「細胞診専門医の資格はいらないかな、病理専門医さえあれば働けるし。」

そうやってうそぶいている若い病理医がたまにいるのだが、もったいないな、と思う。

野球ってもっと深くかかわった方が楽しいと思うよ。まあ、無理強いはしないけどさ。

若いときからDHだけでがんばろうとするのはちょっと早計なんじゃないかなあ……あ、いや、おじさんのたわごとだと思って、聞き流してくれていいけどね。


2019年11月21日木曜日

小説は2回読まない

先日、「いんよう!( https://inntoyoh.blogspot.com/ )」の第65回収録で、ぼくが小説を2回読まないという話をしたら、先輩もリスナー(?)もけっこう驚いていた。

エッセイだと2回読むんだけど小説は読む気がしない。

どんな名作であっても。自分がどれだけ感動していてもだ。



小説のストーリーがわかってしまうと、基本的にもう読む気がしない……という気持ちに中学生くらいのときになってしまった。それっきり、小説は読み返すものではないと思っている。だらだら理屈を書いてもいいがこれはもう刷り込みみたいなものだ。

創作物全般を2回見ないと決めているわけではない。そもそもマンガは何度も読み返すし、一部の映画も(特にアニメであれば)何度か見てもちっとも苦にならない。

小説だけを2回読まない理由はよくわからない。先輩にも、「描写とか設定とか伏線とかを楽しもうと思ったら展開がわかった上で2回読まないとわかんないんじゃないの?」とつっこまれた。



収録が終わり、音声を聞き、自分の本心みたいなものを探って精神の中に潜り込んでいくと、ぼくにとって小説を2回読まないのは結局、自分が「文字による表現の深さ」に対してあまり興味を持てなかったからなのではないか、という結論に達する。

マンガを何度も読み返すときには、かっこいいシーンの構図や描写を何度でもみかえす。ドラゴンボールの13巻で悟空がピッコロ大魔王の腹を突き破るシーン、あそこを何度も読み返さなかったマンガ少年なんていただろうか?

紅の豚を何度も見た。セリフはほぼ覚えているけれど、見ることはちっとも苦にならなかった。小粋な音楽と美麗な映像にいつものようにひたることをよしとした。

でも、小説では、一切そういうことをしなかった。

今になって少し後悔している。




世にいる数多くの本読みは、あの本のあのフレーズがよかったよねというけれど、もちろんぼくは小説のフレーズなど全く覚えていない。

たとえば京極夏彦には、作品が変わっても登場人物が変わらないシリーズがある。そういうものは、シリーズを順番に読み進めていくうちに、お決まりのセリフとか表現が、自然と頭に入ってくる。

京極夏彦が好きだと言っておいてあれだが、結局はきっかり一度ずつしか読んでいないのだよ関口くん。

――りん、

風鈴が鳴った。

とかこういう表現は当然覚えている。

けれども細部は全く覚えていない。誰かと京極夏彦の思い出について語り合おうと思ったらこっそりスマホで感想サイトなどを探してフレーズを拾ってこないと、語れない。

ただ、おもしろい場所に連れて行ってもらったという記憶だけが残っている。





なんなんだろう。

これはもう理屈じゃない。そうやって進んできた結果、小説の技巧とか表現の妙味、もっといえば作文技術とか構成技術みたいなものが、大雑把にしか身につかなかった。




自分が昔書いた小説は、今にして思えばすべて、登場人物の「心情をどこに連れて行くか」ということしか考えずに書いた。

常に表現は雑で一直線だった。まるで学術論文のようだと言われたこともある。それが味だと言ってくれる人もいたが、ホネにだって味があるのといっしょで、つまりは肉の付いていない骨付き肉だった。

そもそも4000字以上のものはどうしても書けなかった。それは、よく使っていた投稿サイトが4000字以内というしばりをもうけた超短編小説会だったからかもしれないが、単に情景を盛り込んで文章を肉付けしていく作業に全く興味がなく、だから文章が長くならなかったからに過ぎない。





生まれてこの方小説を一度も読み返したことがない、と先輩には言った。

でもはるか昔の記憶を探っていくと、きっと小学生のころだろう、何度か読んだ本の記憶がある。

タイトルは「魔法のつえ」だ。

うろおぼえの記憶をたよりに、「魔法の杖 まほうのつえ 海外小説」などで検索をしてようやくたどり着いた。ジョン・バッカンという人が作者らしい。全く覚えていない。

たしかステッキの根元のところをひねるのだ。そうするとどこかへ行ける。

それを使って少年はどこへ行ったのだったか……。

検索してみると、あらすじ的なものとともに、藤子不二雄(A?F?)が子どものころに愛読していた本であるという情報が出てきた。ドラえもんなどのモデルになったのではないか、などとも書かれている。本当だろうか?

ぼくはこの「魔法のつえ」や、「果てしない物語」や、「ドラえもん」を、何度も読み返していた時期が確かにある。部屋に何冊か転がっていた本のうち、これらだけをときおり開いていた。決して本をいっぱい読むタイプの子どもではなかった。





この記憶にたどり着くまでにだいぶ時間がかかったが、思い出すことができた。

しかしなぜだろう。蘇ってきたイメージが不穏だ。

「魔法のつえ」が、灰色と黒の中間くらいのもやの向こうにぼんやりと浮かんでおり、子どものころのぼくはそのもやの手前で暗いベンチに一人で座って泣きながら怯えている。なぜかこのような映像がセットで浮かんでくるのだ。

ぼくはこれらの本がとても好きだったと思う。

でも記憶のぼくはなぜか怯えている。

どうもぼくはこの部分をあまり掘り返す気がない。



過去の体験を元に現在の行動を語ることを好む精神学者と、好まない精神学者がいる。フロイトとアドラーで例えればわかる、という人もいるだろう。

最近のぼくは、今の自分を過去の行動と結びつけるやりかたをしない。これは別にアンチフロイトだとかアドラー賛美でやっているわけではなくて、昔の自分は記憶の奥底に隠れてしまっているのが当たり前で、そこまでわざわざ戻る方法がよくわからないからだ。フロイトがぼくを過去に戻らせてくれるなら一度くらい戻ってみてもいい。けどそこまでしないしフロイトは死んでしまった。

そんなぼくがたわむれに、子どものころのぼくを記憶から無理矢理引っ張り出してしまったから、彼は怯えて泣いているのか。

かわいそうだ。自分の頭をなでる。




「魔法のつえ」をKindleで買うべきかどうか、ずっと悩んでいる。この本をもう一度読んだら、ぼくは今まで読んだありとあらゆる本を再読しなければ出られない時空の狭間に閉じ込められてしまうかもしれない。見返すのはマンガや映画だけでいい。

ぼくはたぶんこれからも、小説を2度読むことはないと思う。

2019年11月20日水曜日

病理の話(386) プレパラートを見て患者の年齢が当たるか

タイトルどおりの質問がきたのでここで答えます。

「プレパラートで患者の細胞をみるだけで、患者の年齢などを当てられるか?」



ぼくの場合は……2割くらいのケースでは「けっこう当たる」。

2割くらいのケース、というのは主に臓器によるものです。

胃だったらかなり当たる。

リンパ節は部位によるけどときどき当たる。

子宮は当たるのが前提。

肝臓は……自分が勤務してる病院だったら当たる。

乳腺はそこそこ当たる。

前立腺とか大腸は……自信がないな。




えっけっこう当たるじゃん、って感じかもしれないが、病理医はほかにも多くの臓器をみる。膵臓や胆管、胆嚢の場合は(生検だと)まず当たらない。食道は難しい。通算すると2割のジャンルに絞れば8割当ててる、くらいのイメージ。

なぜそんなことができるのか?



組織は老化とともに構成が変わっていく。

ピロリ菌存在下の胃は加齢とともに萎縮を起こすので、逆にいえば萎縮の度合いをみればおよその年齢はわかる。どんな腺管がどのように萎縮しているかを丹念にみて、ついでに間質とよばれるスペースの変化も丁寧にみると、勘だけど、たいてい年齢は当たる。

乳腺や子宮はもっと簡単だ。これらはホルモンの影響を受けてドラマチックに像がかわるので、ホルモンの影響がどれくらい加わっているのかをみれば、閉経しているかしていないか、閉経前だとしたらどれくらい前か、はなんとなくわかる。

ほかにも、さまざまな臓器で、「細胞が何度か入れ替わっているか、それともまだフレッシュか」を見分けることは十分可能だ。まあ、年齢当てっこゲームをしてもしょうがないんだけれど(だって依頼書に全部書いてあるし)。



もっとも、この「年齢当て」は、遊びでやってるわけじゃない。副次的な産物がある。

たとえば依頼書をみて、「60歳の女性」と書いてあることを確認して子宮内膜を観察したときに、内膜が「まるで60代にはみえない」ことがある。

異常にみずみずしくて、30代くらいではないか、と思ってぎょっとする。

この「不一致」から、ただちに直感を働かせるのが病理医だ。

「年齢に不相応な若々しい内膜。女性ホルモンの分泌が低下しているはずの60代にはとても見えない。ということは、女性ホルモンを異常に産生する腫瘍がどこかにあるのではないか?」

ただちに、CTなどの画像が撮られているかどうかを確認し、主治医に問い合わせる。これにより、別部位にある(今回の検査とは直接関係ないはずの)卵巣に腫瘍を見つけることができた――――

なんてことも実際に起こりうるのだ(もちろん今のはぼくが適当に作り上げたフィクションであるが)。だから、単なる年齢当てゲームではない。

胃の上のほうから採取してきた検体が「異常に老化」しているとする。この場合、ピロリ菌による変化であるとは考えづらい。これは自己免疫性胃炎と呼ばれる特殊な病態ではないか? みたいなことは日常的に行われているのだ。



ただ、この「年齢当て」、普段自分が務めている病院以外のプレパラートをみると、けっこう外れる(あくまでぼくの経験であるけれど)。

これはなぜなんだろうなあと考えていた。そしてある仮説にたどりついた。

たぶんぼくは、自分の病院の主治医が「どういうときに病理検査を提出するか」が身に染みついている。

「このような異常をもつ患者をみたら、こうやって病理検査をオーダーしよう」みたいな流れは、主治医や、その病院のスタイル、さらには病院に集まってくる患者の事情などさまざまな理由によって偏っている。

だからぼくは、自分の病院のプレパラートについては、HE染色の情報をみた瞬間に、多くのマスクされた情報を自動的に連想している。紐付け情報をあらかじめ脳内で統計解析しているのだろう。

したがって、普段働いていない別の病院のプレパラートをみると、背景に存在する条件が一気にかわってしまい、予測が当たらなくなる……。




ちょっと難しいことを言った。ひとつ思い出話をしよう。

かつて、ある南の島に行ったときの話。

現地の人が「ここでは天気はあちらの空から変わっていくよ」と言った。その方向は西ではなく、東南のほうだった。ぼくは不思議に思って聞いたのだ。

「天気って西から変わっていくんじゃないんですか?」

すると現地の人は応えた。

「そういえば本州からきた漁師が、昔、この島では天気の予測がつかねぇって言ってたなあ。たぶん雲の動き方が本州とここでは違うんだよ」




他院のプレパラートをみるといろいろ予測がはずれる、というのも、なんだかこれに近いような気がする。年齢当てゲームはほどほどに。もちろん、診断に役に立つ脳の訓練は、怠ってはいけないのだけれど。



これで答えになったかな? 質問者の方。ちなみにぼくは十二指腸もそこそこ年齢は当てられる。元ネタはフラジャイルでしょ? 知ってる。

2019年11月19日火曜日

レセプター理論

職場に歯ブラシを置くことで、午後、口の中がすっきりした状態で仕事ができる。

たった一行で言い表せるのに、長年やってこなかった。生活をいい方向に一歩進めることができる、魔法の一行だった。

こういう一行がいっぱいあるんだろうなと思ってツイッターをやっていた。けれどもすぐに気づいた。

「魔法の一行」は、一行しかないので、読み飛ばしてしまうことが多い。



冬のデスクは寒い。だからひざかけがあると快適だ。

たったこれだけのことに気づくのに何年もかかった。だって自分の脳に「ひざかけ」に対する受容体がなかったのだ。「ひざかけ」という言葉を見てもまったく心が動かなかった。意味はわかるのに。どういう役割を果たすかも知っているのに。

一行しかないライフハックは、そう簡単には心に刺さらない。心の方が欲しないと、受け止めることができないのである。




という話を、仏教の「慈悲」とか、医療の「問診」みたいな場面を念頭において、近頃はよく考えている。

受け手の側に準備がない情報を伝えるにはどうしたらいいのか。

それは「伝える」という行為で行うべきものなのか。

そういったところを洗い出す作業は哲学に近い。

だからよく哲学書を読むようになった。こんな何千行もある本、昔は全く読める気がしなかったのだが……。まあ……。心が欲しているのだろうな。

2019年11月18日月曜日

病理の話(385) すみません病理の写真がないんです

東海地方「スクリーニングCTC研究会」に出席するため、名古屋市内のホテルにいる。あと30分くらいしたらチェックアウトしなければいけない。

今回の研究会は、名古屋市内で朝から夕方までみっちり開催される。このプログラムだと、札幌に住むぼくは日帰りでは参加できない。なので久々の前泊である。

最近は福岡とか大阪の出張であっても日帰りだった(それもどうかと思うが)。

一泊できると、これだけラクなんだなと今さら感動している。ブログだって書けちゃうぜ。




研究会前日の夜、懇親会に参加することになった。10人ほどが集まる場所で飲み食いをしていたら、翌日に症例を提示する人が、圧強めに謝罪してきたので驚いた。彼いわく、

「先生すみません! 明日、症例検討で提示する病理の写真が、しょぼいんです……」

ぼく「しょぼい、とはどういうことでしょう? 解像度が甘いということでしょうか?」

人「いえ……臓器の肉眼写真はあるんですが……顕微鏡写真が足りないかも知れなくて……」

ぼく「えっ肉眼写真があるんですか? ならそれでほとんど大丈夫ですよ!」

人「あっ、そうなんですか? 顕微鏡写真いらないんですか?」




いらないわけじゃないけど、どっちかというと、臓器を直接カメラで撮影したマクロ写真(肉眼写真)のほうが大事だ。

これはけっこう勘違いされるのだけれど、CT、超音波、バリウム、内視鏡など、あらゆる画像検査をまじめに考える上で、病理の写真で顕微鏡像を重要視する必要はない。

細胞の核がどうしたとか、細胞質にどのような模様がみえるのかという情報は、あまりにミクロすぎて、現場の医者や放射線技師などが使うにはマニアックすぎるのである。核がでかいからCTで白く染まるというものでもない。

つまりは見ているもののスケール感の問題だ。CTや超音波で見えるものならば、それと同じ画角で撮影した肉眼像(マクロ像)を横に並べた方が理解が進む。





だったら病理医が顕微鏡で細胞をみる意味はなんなんだよ、と言われたりもする。細胞をみることは、臨床の画像とあわせるためではなく、よりスケールの小さい場所にひそんでいる情報をクローズアップするためなのだ。よりスケールの小さい場所というのはどこかというと、DNAであり、遺伝情報である。そう、生命科学に肉薄するためには細胞をどんどん拡大していくのがいい。CTや超音波で直接DNAを見ようというのは、それこそスケール感を無視した言い草なのだ。だから、遺伝情報まで探りたければ、サイズ的により近い、細胞の強拡大情報を集めるのがいい。


ひとつの病変をみる上で、各人が異なるスケール感で仕事をすると役に立つ。病理医はたまたま、マクロからミクロまで仕事があるので、マクロに仕事をしている放射線技師たちと、ミクロに仕事をしている生命科学者たちの間に立っている、ということなのである。



というわけで翌日の研究会はうまくいった。けっこうきれいなマクロ写真を提出していただいたので、よいディスカッションができたと思う。いつもこうだといいなあ。

2019年11月15日金曜日

ハイウェイトリプルエックスリビジッテド

大学時代に所属していた剣道部には、「剣吉」という名前の部誌があった。一年に一回、原稿を書くように言われ、なにかを書かなければいけない。

四つ上の代のキャプテンは、服がおしゃれでDJのバイトをしており話がとてもうまくて頭が激烈によく卒業後は脳外科医になった。あらためてこう書くと、自分がつらくなるほどにスペックの高い先輩であるが、部誌に投稿する記事までおもしろかった。とんでもない先輩だ。

20年以上昔だから詳しい内容は忘れたけれど、確かそれは「友人の話」みたいなしょうもないタイトルで、しかし今でも一部を覚えている。「友人はよく、小さないい間違いをする。自分で撒いた種、と言おうとして、自分で炊いた豆、ときれいに意味の通じるいい間違いをしていた。」みたいな、とるに足らない、しかしその経験をしたらまず多くの人が「ねえねえこんなことあったよ」と周りに言いたくなるような絶妙の小ネタが書かれていた。

もちろんぼくも剣吉に何かを書いた。しかし何を書いたかはまったく覚えていない。

うまく書けなかったのかもしれない。だからこそ余計に、先輩の書いたものが心に残っているのだろう。そんなとこだろうと思う。

いずれ自分でもなにかこうして自由にちょろい文章を書けるようになるものだろうか、ぼくは確かそこで少し成長したいと思ったのだ。確か。

ちょうどそのころ、ホームページを作った。世に自作のホームページが流行りだしていたころだった。「魔法のiらんど」のようなレンタル型の無料ウェブサービスをちらほら目にしたが、へたなりに自分で絵を描いてトップ画像を作り、ニフティのサーバーを借りてホームページビルダーというソフトを使って自分のホームページを作るほうがいいと思った。

自分の書くものは雑文と呼ぶべきだろうなと思った。随筆とか随想という言葉を使うには自分の文章に随意性は感じられなかった。自意識は羞恥心の殻の内部にパンパンに閉じ込められていた。しかし、「これはいつか世に届く」と言えるほど自分の文章が世にとって価値があるものだとは思えなかった。「ひとつの文章は常に15分以内で書く、だから多少稚拙でも仕方ない、これは即興芸なのだから」と、誰に対して用意したのかわからない言い訳を掲げて、毎日のように何かを書いていた。

大学を出て、大学院を出て、社会人になってもまだぼくはホームページに何かを書いていた。少しずつ頻度は減っていた。ツイッターを始めたときに、ツイッターはブログやmixi、Facebookと連動させようと思って一気に媒体を増やしたが、パソコンを買い換えていくうちにどこかのタイミングでホームページビルダーをインストールし忘れ、そのまま更新しないでいた。

あるとき、うっかり、インターネットのプロバイダーを変更するときに、ホームページのサーバーの契約ごと解除してしまった。一年以上経ってアッと気づいたときにはすべてのデータがなくなっていた。ホームページを作っていたときのノートパソコンもどこにあるかわからず、データのサルベージもやっていない。

日記帳を紛失するように、ぼくは自分のホームページをいつの間にか失っていた。ウェブアーカイブスを使えば一部の痕跡くらいは見つけることができるが、ま、いいかな、と思いそれっきりにしている。

思えばあの稚拙な日々は、文章講義を受けるわけでもなく、名著にどっぷりひたったわけでもなく、ただ竹刀を振ったり居酒屋で眠ったり、およそ研鑽と呼ぶには半端な、振り返ってみればなるほどモラトリアムとしか呼べない雑な積み重ねであった。それが今のぼくを形作っているのだからぼくは自分を笑って肯定する気にはなれないが、当時のぼくにひとつ言いたいことがあるとしたら、「どうせ無理だ」と思いながら毎日キータッチしていたそれは確かに文章力をつける上では役に立たなかったけれど、なぜかツイッターで全リプする根気となって今に残っているよ、ありがとう、みたいな感じである。あと結構本が出るよ。よかったなお前。



2019年11月14日木曜日

病理の話(384) 説明と同意は何も患者に対してだけ行うものではない

インフォームド・コンセントという言葉は頻用されすぎて、もはや人々の注意を集めることも少なくなった。そりゃそうだ、という話だからだ。

「患者に対して、今の状態や今後の治療選択についてきちんと説明をし、理解してもらい、その上で同意してもらって、二人三脚で診療を進めていこう。」

これがインフォームド・コンセントの概念である。何をいまさら、当たり前ではないか、と、誰もが思っていてほしい。



……昔は違った。



医者は治す人。患者は治る人。そこには主従というか能動と受動の関係があって、患者は全てを知る必要などないし、知ろうと思ったって素人だからどうせわからない。だから説明なんてなくていい、圧倒的なカリスマ性で引っ張っていってくれよ、先生! 

これが昔の医療だ。今これをやったらだいぶ寒いと思う。



これは別に理念とか倫理の話をしているわけじゃない。単純に、西洋医学は、患者がきちんと「当事者」であったほうがいい。自分の体に今起こっている状況をきちんと理解することは、天気予報をみて傘を持つかどうか、カーディガンやストールをバッグにしのばせていくかどうか、厚手の靴下にするか薄手の靴下にするかと悩んでその日のコーディネートを決めることと変わりがない。知らずに飛び込んでいけば変な汗をかいたりふるえたりして困る。薬をなぜ飲まなければいけないか、飲むとしたらどういうタイミングで飲むべきか、いつまで飲んでいつ飲み終わっていいのか、そういったことを理解しないで投薬だけ受けても病気は治らない。

すなわち、インフォームド・コンセント(説明と同意)というのは、患者と医療者が視点を共有すること、みなが当事者となるために必要なことなのである。決して裁判対策などではない(実際には裁判対策だから、皮肉で書いている)。



そして最近思うのだが、インフォームド・コンセントは何も主治医から患者にだけ向けて行われるものではない。たとえば、病理医から主治医に対しても行われるものである。病理診断というのは非常にマニアックで高度に専門化された知識なので、主治医たちは病理医に病理診断を依頼すると、あとはのんびり結果が出るのを待ち、レポートに書かれた文章を機械的に読んで行動指針とする。しかし本当はそれではだめなのだ。病理医がなぜこのように診断したのか、この診断が何の意味を持つのかを、主治医が「きちんと説明を受けて、納得していること」が、その後の診療において大きな意味を持つ。



つまり病理医もまたインフォームド・コンセントの達人でなければいけない。しかしこのことはしょっちゅう忘れられているように思う。何も医者同士仲良くしろって言ってるんじゃない、言葉をつくしてお互いに当事者であろうとしているか? ということだ。

2019年11月13日水曜日

思考がとろけるとき宇宙はどうなっているか

持続可能なかたちで社会をいい方に変えていこうと思ったとき、参考になるのは、単細胞生物がどうやって進化したかという過程を丹念に追いかけていくことである。


……うそだ、それはさすがにこじつけだ。


でもまあ思う。

人間社会の変化と、生命の進化とはわりと似ているはずだよなあ、と。

根底にあるエネルギー法則とかエントロピー法則とか複雑系の原理とかはそうそう変わらないはずなのだ。サイズ感は違うにしても。情報伝達の過程で社会が変容していく姿は、哺乳類がサルを経由して(?)人間が現れるまでの間に脳がどう変わっていったかを見るのとそんなに違わない、かもしれません(弱め)。



細胞同士が、最初は相互にくっつきあって、一部の栄養などを共有したりした。たぶんした。

そのうち、液体の中に情報を混ぜこんで共有することがはじまった。一部のタンパク質とか、あるいはmiRNA(マイクロRNA)みたいなものは、細胞間で情報をやりとりするのに用いられたんだと思う。

多細胞生物のやりとりにおいては、物理刺激(細胞骨格などを介して隣の細胞と直接やりとりする)、パラクライン(近くの細胞に対して何かを分泌して連絡するシステム)などだけでは情報の拡散ができない。そこに化学波の伝搬をもちいたやや広めの液相情報伝達が取り入れられ、さらに、血管と血液の導入によってホルモンという「最強の飛脚」が手に入った。

そしてこの前後でじわじわ登場したのが神経だ。

神経伝達物質というのは神経と神経の間にあるタンパクだけれども、神経の何がすごいかって、「神経内においては基本的に電位を用いて情報をやりとりする」ってことだ。詳しくは書かないけれど、電気のスピードでやりとりできるわけではない。しかし、カタチある物質でウニャウニャゆっくりやりとりするのに比べれば、神経内の伝達速度はだいぶ早い。




……以上の過程はきっとそのまま、社会にそっくりトレースすることができる。

手渡しでの情報のやりとりから、文字とかわら版を介した近所への伝達、そして道路と輸送システムによる遠方との連絡、そこに出てきた電気的な通信インフラの整備。



こうして並べて比べてみると、社会がインターネットを整備することで、世間に情報が爆発的に増えた、みたいな現象は、サルと人とで思考が爆発的に進化した、みたいなのとそっくりだなあと思う。

人間社会はようやく人の脳に追いついて、今まさに追い越そうとしているのだろう。




で、社会が脳化したら、次は地球外生命体と惑星間でのネットワークができて……となるだろうか? あるいは地球は、宇宙に対しての頭脳の役目を担う唯一の星なのだろうか?

ぼくらが知性だと思っている地球の社会は、実はトリケラトプスの腰のあたりにある「第2の脳」に過ぎず、ほんとうはどこかに宇宙の脳が別に存在するということはあるだろうか?

ぼくらがときおりブラックホールとか宇宙背景放射に興味を示すのは、ぼくらが自分の肌とか髪の毛に気を配るのと同じで、宇宙が自分の体をすみずみまで認識するために地球という脳を用意したからなのだろうか?




……これって病理の話として書いたほうがよかったかな? でも病理じゃなくて物理の話だな。

2019年11月12日火曜日

病理の話(383) 交通量を考える

高速道路のサービスエリアに、フードコートを出店することを考える。

一日に来店する人の数に応じて、レジのバイト人数を決めなければいけない。

その際に参考にするべきはまず、高速道路の通行量だろう。

車に何人くらい人が乗っているか。男女の比率。子どもや老人の数。

こういったものも、細かいメニューを考える上では参考になるだろう。またトイレの数を決める上でも避けては通れない。

そう、トイレ! トイレは重要だ。

トイレが汚いサービスエリアには誰も止まらない。

女性トイレが混雑するサービスエリアは、男性エリアを一時的に縮小して、個室を一部女性エリアに変更するような特殊な仕切りがあると聞く。いろいろやってるなあ。

いずれにせよ、サービスエリアというところは、いくら素晴らしい商品を揃えていても、いくらトイレをきれいにしていても、高速道路が過疎ってては売上げがあがらない。

高速道路あってのサービスエリアだ。まあそりゃそうだよね。






さて、今日は「病理の話」なので、人体の話をこれからする。

人体には血管が張り巡らされていて、中には血球やらコレステロール製品やら栄養やらが入り交じった血液がギュンギュン流れている。もちろん酸素も流れている。

酸素を体中に行き渡らせることですべての臓器は生き延びるのだが、このとき、酸素だけではなくて、栄養とか老廃物も一緒に輸送している。まーうまくできているわけだ。

そして、たとえば、腎臓というフィルターは、血液の中に含まれる老廃物を体外に除去する役割を担っているのだが……この腎臓のはたらきっぷりを考えるときに、腎臓だけに目を向けていてはいけない。

腎臓を通過する血液の量がとても大事なのだ。サービスエリアがいくらすばらしいメニューを取りそろえていても、客が来なければ意味がないだろう?

というわけで全身の血流量が腎臓の機能を考える上では大事になってくる。

なんらかの理由で血が足りなくなると、腎臓の機能もがくんと下がる。高速道路が通行止めになればサービスエリアは閑古鳥だ。

そして、ここがなかなかよくできてるなあと思うのだが、腎臓は座して待つだけのサービスエリアではなく、「血圧を調整する機能」を持っている。レニン・アンジオテンシン・アルドステロン系というメカニズムが腎臓にあって、血圧を保つ役割を果たす。サービスエリアが人気になることで高速道路自体が活性化されるかんじかなあ。

今は血流と腎臓の話だけをしたけれども、ほかにも、食物が流れることと消化管との間にある蜜月関係とか、けっこう「流れるものと留まるもののやりとり」が体の中には多い。人体は街に似ているなあ。

2019年11月11日月曜日

SNSとやさしい医療情報について

めったにこういうことしないんですけれど、こないだ連続でツイートした内容について、これから自分で何度も気にかけていくことになるな、と思っていますので、以下にツイート内容をそのまま転載します。すんません。決して病理学会出張のせいで忙しいから手抜きしたいとかいうわけではないです。ほんとうです。


----(自ツイの引用をします)----

誰かが言ったことをみんなくり返しているのだろうか、と思うのだが、ここ2年くらいで急に「ツイッターはほかのSNSと違って、間違えた情報が出ると専門家が袋だたきにするから情報の信頼性が高くなる」みたいなことを言う人が増えた。特に専門家自身がこういうことをよく発言する。気持ちはわかる

しかし、自分が専門としていない分野(歴史とか、軍事関係とか)をツイッターで眺めていて、いわゆる不正確な情報がバチボコ叩かれている姿は、素人であるぼくからすると「専門家同士が殴り合っている」ように見える。たぶん叩かれている方が間違いなのだろうが、いじめの構図とも似ているし不安になる

「多くの人にとってやさしい情報を、多くの人が安心して手に入れられるようにすること」を目指すならば、悪いと思った情報を叩くよりも、よいと思った情報を言葉を尽くして拡散するほうが強いのではないかと思う。手間はかかるし、拡散者は(誰かを叩くのに比べると)評価されにくいが……

できればこれから半年くらいの間に、「ツイッターはほかのSNSと比べても、やさしい情報が出たときに専門家たちがいっせいに拡散を手助けしてくれるから、いい情報が自分のもとに届く頻度が高い」という空気がうまくできあがったらいいのにな、と思う

この視点において、ツイッター以外のSNSでどう行動するかはツイッターとはだいぶ違う考え方が必要になると思う。一例だが、インスタグラムは発信者が「やさしい日常を送っています」というメッセージを送るためのものに特化させたほうがいいかもしれない。さらには「書影」を出すのもありか

Facebookはエコーチェンバー現象の温床みたいなところがあるが、専門家からするとわかりきっているような情報をいかに世間に伝わりやすい言葉でうまく表現するか、という「表現方法コンペの場」として使うといいかもしれない。コミチがマンガに対してやってることの一部は、Facebookでできると思う

複数の人が同じ話題に対してすこし長いものを書き、それをマガジンというかたちで人々に届けるプラットフォームとしてはnoteが優れている。おそらく、少なくともこれから1,2年の間は、SNSの中でnoteを使いこなしている人の発言力が一番強くなると思う。Twitterで拡散させるならnoteがいいだろう

その上でいかにYouTubeにつなげていくか、という話なのだが、YouTubeのメソッドについてはぼくはたぶんほとんど歯が立たないので、識者の発言を待ちたい。今ある医療系YouTubeはほぼワークしてない。切れ味するどい商売人がこっちを向いてくれることを待ちたい

なおぼくが絶対にNHKに出たくない理由は、ぼくの職能が「Twitterで人を集める」→「ぼくを許してくれる医療者の情報拡散を手伝う」だからで、拡散したいと思っていた人たちがNHKにつながった時点でぼくのできることはないし、ワクワクチンチン×おはよう日本は控えめに言ってもやばいと思う


----(自ツイ引用おわり)----


ツイッターをそのまま貼り付けると見たかんじ全然かわるのうけるね。

なお、元ツイはこちらからスタートします。

https://twitter.com/Dr_yandel/status/1189676857118998528


2019年11月8日金曜日

病理の話(382) 工場と道路の話

最近は出張のことばかり書いていたが、思い出したように「組織学」の話を書いておく。




人間の体の中には大量の「工場」がある。工場はたいてい液体を作っている。ねばねばする粘液(ねんえき)、さらさらする漿液(しょうえき)。あるいは液体に溶けるタイプの製品……消化酵素みたいなものを作っている。

こうして作ったものは、当たり前のことだが、適切な場所に運んで使わなければいけない。

人間社会といっしょだ。洋服を作ったまま工場に置いておいたらユーザーには届かない。輸送する必要がある。

工場で洋服が作られたらそれをトラックに乗せて、工場の敷地を出て、県道を走り、大きな国道に出て、人がいっぱいすれ違う渋谷のお店に運ぶ必要がある。

まったく同じ事を人体内でもやっている。

人体にある工場はいろいろあるが、たとえば「腺房(せんぼう)」というのがある。膵液(すいえき)を作る腺房、唾液(だえき)を作る腺房、乳汁を作る腺房などいろいろある。これらは洋服を作る工場やソファを作る工場や東京ばな奈を作る工場があるというのと同じ事だ。場所によって違うものを作る。

腺房で何かを作ったらそれを「導管(どうかん)」に流し込む。腺房の周りにはりめぐらされた導管は、工場の周囲を走る小道のようだ。それをたどっていくと、小道がだんだん集まって、大きな目抜き通りに繋がっていく。

たとえば膵液は、膵臓(すいぞう)の腺房で作られて、末梢膵管(まっしょうすいかん)と呼ばれる管に流し込まれ、それが寄り集まって主膵管(しゅすいかん)に合流する。まるで川が源流から大きく集まっていくように、一級河川である主膵管は堂々と膵臓のど真ん中を流れて、最後に十二指腸に開口する。

唾液は唾液腺導管に流れ込んで口の中へ。

乳汁は乳管に流れ込んで乳頭へ。

とにかくこういう構造がいっぱいあるのだ。胃液も、大腸の粘液も、それぞれサイズというか規模はいろいろ異なるんだけれど、基本的に「作って、流し込む」構造に沿っている。よくできている。

人体は工場と道路の組み合わせなのだ。



なおホルモンという物質を作り上げる工場を内分泌臓器(ないぶんぴつぞうき)という。これは導管とは連続していない。代わりに血管と連続する。ホルモンは血管の中に流れ込まなければいけない。だって血管の中で働く物質だからね。




なーんてことを知らないと実は人体の科学や病気のりくつがよくわからなくなる……と信じて勉強してきた……のだが、実はそれほど知らなくてもいいのかもなーということを最近考えている。テレビの仕組みがわかんなくてもテレビは見られるよ、的な。

でもまあ知っといてもいいよね。オタクはそういうのが大好き。きっとオタクに限らない。

2019年11月7日木曜日

ミニオンズのこたえ

「盛り上がり」の度合いをはかろうと思ったら、何をみるべきか?

普通に考えて、ステージをじっと見ている人々の表情をみるべきだと思う。

ステージ上でドッカンドッカン盛り上がってても、客席がしらけきってたらそれはスベってる。

内輪ネタ系のお笑いをみるとついツイッターをチェックしてしまう。「これ、内輪でだけ盛り上がってるんだとしたら、この番組で笑うのはなんかくやしいな」と思ってしまうからだろう。

盛り上がっているのがステージだけ、というのはいやなのだ。できれば客席こそ盛り上がっていてほしい。




何かを盛り上げたいと思ったら客席に回り込むほうがいい。

ぼくがまず盛り上がる。声を上げて笑う。そしたら周りも釣られて……。

でもサクラになるのはどうなんだろう。それもつまんねぇな。

客席に回ってみて、おもしろくないなと感じたら、そのときはステージに駆けよって、「スベりそうだよ」と伝えてみようか。

客席じゃなくても、ステージ裏に回り込んで小道具とか大道具とかをそろえて手伝いながら、ときおり客目線でゲラゲラ笑うのもアリだとは思う。

ただそれも客席からみると「アメリカのホームバラエティ風の作られた笑い」に見えるかもしれない。




そもそもステージと客席の区別はつくのだろうか、という気もしてきた。

大学の小劇団サークルみたいに、客席にいるのも全員関係者、というのが、人生劇場の本来のスタイルだったりはしないだろうか。





「盛り上がり」の度合いをはかろうと思ったら、何をみるべきか?

なんとなくだけれど、以上のようなことをつらつら考えた末にぼくは今、「自分がどこに立っていても笑って盛り上がれているかどうか」がポイントなのかもな、という気がしている。複数の目線をもつのではない、複数の居場所にいる自分を想像して全部たのしそうかどうかを探るということだ。




こういう抽象的な話を書く場所がほかにないので書いておく。

2019年11月6日水曜日

病理の話(381) 分類マニアの興味と熱意

出張先で買ったおみやげの味がだいたい似てくる。この鹿児島みやげ、仙台行ったときに買ったな、とか、この福岡みやげ、札幌でも買えるな、とか。

たぶん舌が雑なのだ。ぜつがざつなのだ。どうでもいいけど舌は「ぜつ」と読む。「した」とは読まない。医者だから。

うそだけど。



こういう話をすると、「おみやげは全国で一律に作ってるもののパッケージだけ変えて各地で売ってるパターンがあるんですよ」というご注進をいただくのだが、ま、そうなのかもしれないけれど、そこを言いたいわけじゃない。だって全国各地にベーグル屋さんとかドーナツ屋さんあるけどそれ全部中央で作って配分してるわけじゃないじゃん? 各地で同じお菓子を違うふうに作ることもあると思うんだ。千秋庵のチョコマロンとL'UNIQUEひよ子が似てるなーと思ったけど、これらは絶対に別々に作ってるし、たぶん食べ比べるとまったく違うものだ、けれどもぼくの「おみやげ分類学」が雑すぎるから同じ引き出しに入れてしまってしまう。

正直にいうけれどぼくはロッテリアとマックのポテトをブラインドで目の前に出されたとして、どっちがどっちか当てることはできないと思う。そこまで興味ないし……いや……興味はあるけど……熱意がない……。



興味はあるけれど熱意がないものがタイムラインにあふれかえっているので、タイムラインでマニアックに区分けされていたものに対して、「熱意はないが興味をもったときの自分の反応」がどういうものかはよくわかる。

「へぇーそうなんですね。よかった、今いっしゅん楽しかったですゥ」

こうである。ざんこくだ。だからもうすこし心を豊潤にしたいなーと思って、最近はこのように言い換えている。

「これをきちんと見分けてくれる人が世の中にいるのってすごいステキやん?」

なぜ方言化したのかはわからない。方言といえば、大阪と兵庫と京都と奈良の方言が少しずつ違う、みたいな話、ああいうのにも興味はあるのだがとにかく熱意がわいてこないので放置したままになっている。




病理学の分類について皆さんがどういう感想をもっているだろうか、という話をすごく遠回りに書いた結果が以上である。病理についてはぼくらが熱意もってやっときますんで。はい。たまに興味くらいもっていただければ。はい。

2019年11月5日火曜日

NEO-GEOのすごい社長感

かつて『本の雑誌』にベストセラー温故知新というコーナーがあり、ベストセラーなんて怖くない、というタイトルで書籍化もされた。芸能人本みたいなのから、トットちゃん、ビジネス書、とにかく100万部近く売れた本を懐古する企画で、入江敦彦さんの文章がとにかくうまいので楽しく読んでいた。

今、そういうのをたまに思い出している。



大型書店で平積みになっている本を少々信用しすぎた。ここしばらく、平積み系の本が立て続けに自分に合わなかった。立て続けに、というのを具体的に書くならば4冊連続。ただしその前に又吉直樹の『人間』を読んでこれはとてもおもしろかった。

そういえば母も『人間』を読んだそうなのだが、母はつまらなさそうにしていた。つまり本というのはそもそもそういうところがある。合う人と合わない人がいて当然である。だからぼくが平積み型読書に4回連続で失敗したからといって本屋が悪いわけじゃない。

ベストセラーったって、今や1億人が暮らす中で10万部も売れれば大ヒットであり、つまり1000人に1人にぴったりハマれば「世の中で流行っている本」ということだ。1学年に150人くらいが暮らすいまどきの小学校であれば、1年生から7年生(?)まで集めてきて校庭にならべて「この本好きな人~」と言ってひとりが手を上げるならその本は大ヒットする可能性がある……まあ今のたとえは年齢がすごく限られているから本当は不適切なのだけれど。それ以前に7年生とか言ってる時点で不適切だけど。



それにしても。

実際に売れてる数はともかくとして、出版社とか書店が大盛り上がりしながら「世でバカ売れしていると言いたくなるタイプの本」になんらかの特徴があるのだろうかと調べることはそこそこ楽しい。仮に1000人に1人、2000人に1人程度のバカ売れであっても、平積みにまでたどり着いた本にいったいどういう魅力があるのだろうか。ベストセラー温故知新を読むことでいくつかの知見は得たが、インターネット文脈がここまで書籍の世界に混じり込んでしまうと、今は今で別の事情が加わっていそうである。

最近ひとつ、昔は考えていなかった「売れている本の理屈」を考え付いたのだが、あまりに雑な考え方なのでここで書いておく(すばらしいアイディアだったらきっと大事にあたためて人前で発表しただろう)。



今は、「社長になりたい副社長」に向けて書いた本が売れているのかなーと思う。



具体的には、読者として一般市民を想定して書くのであっても、ある副社長がこのメソッドによって成功して社長になったよ、みたいな「副社長エピソード」を選んで濃厚に書く。一般市民に売るために一般的なエピソードを選ばない。ただし教訓だけは微妙に一般向けにしてある。

こないだ読んだビジネス書がまさにそういうやつで、鼻からへんな息がもれた。ときおりむやみに「これはPTAの会合でも使える」みたいに不自然に話を拡大するフレーズが挿入されるのでかえってよくわかった。副社長(になるくらいの能力があって運があって金周りもいい人)が社長になるための技術、夢と成功の臭いがする。(おそらく自分は副社長にはなれるだろう、しかし問題はその先にあるんだ……)なんて、ひそかに自負するまでは人間だれでもやるだろう。「副社長まではなれること前提」とはなかなかすごい話だが、人前で吹聴するのでもない限りは誰もが似たようなことをちょっっっとだけ夢想したことはあると思う。知ってか知らずか、最近の売れる本(の一部)はそういう書き方をしているように思えた。




なお、こういう書き方をした本は、副社長とか社長が読むとぴったりハマルことがある。すると彼らはSNSで言うわけだ、「いい本だった」。それはわりと本心だろう、だって元来、副社長が社長になったときのエピソードを書いているわけだから……。で、どこぞの社長がいい本だと言ったらそれは売れるポテンシャルがひとつ上がる。イチローが本を書いたとしてそれを巨人の坂本が読んで「おもしろかった」とどこかで言ったらバク売れするだろう。でもイチローの言葉を坂本が噛みしめるのと、それをぼくが読んでおもしろいと思うかどうかは本当は別の話なのだけれど……イチローについても坂本についても興味があるぼくはそういう本を買ってしまうと思う。



でもぼくは結局社長でも副社長でもないので、副社長→社長メソッドについてはあまり興味がもてないのだった。なおいまどきの本はあまり副社長とか社長とか書きません、たいていCEOとかCOOとかCO2とか書きます。

2019年11月1日金曜日

病理の話(380) 専門医番号をみるナースと所見の話

訪問看護の現場で働いている友人からメッセージが届いた。

友「病理の専門医番号って、あれ、専門医になった順番のことなの?」

意図はよくわからないが質問にはすぐ答えられる。すぐに返事をする。

ぼく「そうだよ。基本は合格した順。俺は2700番台だ」

友「そうかありがと」

一往復半でやりとりは終わったが、しばらくして追加のメッセージが入っていた。

友「たまに現場で病理のレポートを見るんだけど、その専門医番号が書いてあって、番号が若い方が書き方が丁寧でわかりやすいように思う」

ぼくはこの短いメッセージを読んで虚を突かれた。

ぼく「番号が若い方? つまりそれはだいぶ年寄りだってことだ」

友「そうなんだ、紙のレポートしか見てないからそれはわかんない。けど番号が3ケタだったりすると、だいたい読みやすくて、私が読んでも意味までよくわかる」

すこし考えて、このように答えた。

ぼく「昔、病理医は、臓器や細胞をみたら、そこで起こっていることをすべて文章にしてレポートの中に書いていた。その後、『取扱い規約』などが出てきて、現場のドクターたちがわかりやすいように、かつ、必要な情報が毎回同じ書式で手に入るように、記載が箇条書きになっていったんだ。」

すると彼女はほとんどノータイムで答えた。

友「箇条書きよりは説明の文章があったほうがわかりやすいわなあ。私たちは患者が持って帰ってきたレポートを見るだけだから、治療の方針を決めたりしているわけじゃないし、医者が読みやすいかどうかはともかく、患者からしたらきちんと文章で説明されていたほうがわかりやすいと思うけど。私の場合ね」





ぼくはメッセージのやりとりが終わった後もしばらく考えていた。

病理医は患者と会わない仕事だ。コミュニケーション相手は基本的に医者。主治医の採ってきた検体を顕微鏡でみて、主治医に答えを返す。だからレポートの内容は、専門の医者が読んで役立てることを前提として書く。

世界中の医者や統計学者たちが積み上げてきたエビデンスを有効に使うために、がんの診断をするときには、TNM分類や取扱い規約分類の様式に従ったレポートを書く。がん以外でも、診断基準項目を羅列してチェックマークを入れていくようなスタイルを選ぶ。そのほうが、主治医にとっては便利で、喜ばれるからだ……。

でも。

ま、わかってはいたけど。

患者もレポートは読むんだよなあ。

昔ながらの病理医のほうが、レポートの文章が読みやすかったというのは、昔の病理医たちは今よりもずっと細胞の性状を「描写」する訓練を受けていたからだと思う。ぶっちゃけ今の病理診断は細胞ひとつひとつのカタチをいちいち書くほどの余裕はない。けれども、昔取った杵柄、言葉のはしばしに、「伝わる表現」があるのだ、きっと。



温故知新とはこのことか。

ぼくはさっき自分が書いたばかりのレポートを読み返していた。

箇条書きのスキマを縫うようにちょっとだけ書き添えた、「所見」の数々。

所見とは細胞の所信表明演説みたいなもので。

そういえば、マンガ『フラジャイル』には、「岸京一郎の所見」というサブタイトルがついていたっけなあ。

うーん。