2019年11月21日木曜日

小説は2回読まない

先日、「いんよう!( https://inntoyoh.blogspot.com/ )」の第65回収録で、ぼくが小説を2回読まないという話をしたら、先輩もリスナー(?)もけっこう驚いていた。

エッセイだと2回読むんだけど小説は読む気がしない。

どんな名作であっても。自分がどれだけ感動していてもだ。



小説のストーリーがわかってしまうと、基本的にもう読む気がしない……という気持ちに中学生くらいのときになってしまった。それっきり、小説は読み返すものではないと思っている。だらだら理屈を書いてもいいがこれはもう刷り込みみたいなものだ。

創作物全般を2回見ないと決めているわけではない。そもそもマンガは何度も読み返すし、一部の映画も(特にアニメであれば)何度か見てもちっとも苦にならない。

小説だけを2回読まない理由はよくわからない。先輩にも、「描写とか設定とか伏線とかを楽しもうと思ったら展開がわかった上で2回読まないとわかんないんじゃないの?」とつっこまれた。



収録が終わり、音声を聞き、自分の本心みたいなものを探って精神の中に潜り込んでいくと、ぼくにとって小説を2回読まないのは結局、自分が「文字による表現の深さ」に対してあまり興味を持てなかったからなのではないか、という結論に達する。

マンガを何度も読み返すときには、かっこいいシーンの構図や描写を何度でもみかえす。ドラゴンボールの13巻で悟空がピッコロ大魔王の腹を突き破るシーン、あそこを何度も読み返さなかったマンガ少年なんていただろうか?

紅の豚を何度も見た。セリフはほぼ覚えているけれど、見ることはちっとも苦にならなかった。小粋な音楽と美麗な映像にいつものようにひたることをよしとした。

でも、小説では、一切そういうことをしなかった。

今になって少し後悔している。




世にいる数多くの本読みは、あの本のあのフレーズがよかったよねというけれど、もちろんぼくは小説のフレーズなど全く覚えていない。

たとえば京極夏彦には、作品が変わっても登場人物が変わらないシリーズがある。そういうものは、シリーズを順番に読み進めていくうちに、お決まりのセリフとか表現が、自然と頭に入ってくる。

京極夏彦が好きだと言っておいてあれだが、結局はきっかり一度ずつしか読んでいないのだよ関口くん。

――りん、

風鈴が鳴った。

とかこういう表現は当然覚えている。

けれども細部は全く覚えていない。誰かと京極夏彦の思い出について語り合おうと思ったらこっそりスマホで感想サイトなどを探してフレーズを拾ってこないと、語れない。

ただ、おもしろい場所に連れて行ってもらったという記憶だけが残っている。





なんなんだろう。

これはもう理屈じゃない。そうやって進んできた結果、小説の技巧とか表現の妙味、もっといえば作文技術とか構成技術みたいなものが、大雑把にしか身につかなかった。




自分が昔書いた小説は、今にして思えばすべて、登場人物の「心情をどこに連れて行くか」ということしか考えずに書いた。

常に表現は雑で一直線だった。まるで学術論文のようだと言われたこともある。それが味だと言ってくれる人もいたが、ホネにだって味があるのといっしょで、つまりは肉の付いていない骨付き肉だった。

そもそも4000字以上のものはどうしても書けなかった。それは、よく使っていた投稿サイトが4000字以内というしばりをもうけた超短編小説会だったからかもしれないが、単に情景を盛り込んで文章を肉付けしていく作業に全く興味がなく、だから文章が長くならなかったからに過ぎない。





生まれてこの方小説を一度も読み返したことがない、と先輩には言った。

でもはるか昔の記憶を探っていくと、きっと小学生のころだろう、何度か読んだ本の記憶がある。

タイトルは「魔法のつえ」だ。

うろおぼえの記憶をたよりに、「魔法の杖 まほうのつえ 海外小説」などで検索をしてようやくたどり着いた。ジョン・バッカンという人が作者らしい。全く覚えていない。

たしかステッキの根元のところをひねるのだ。そうするとどこかへ行ける。

それを使って少年はどこへ行ったのだったか……。

検索してみると、あらすじ的なものとともに、藤子不二雄(A?F?)が子どものころに愛読していた本であるという情報が出てきた。ドラえもんなどのモデルになったのではないか、などとも書かれている。本当だろうか?

ぼくはこの「魔法のつえ」や、「果てしない物語」や、「ドラえもん」を、何度も読み返していた時期が確かにある。部屋に何冊か転がっていた本のうち、これらだけをときおり開いていた。決して本をいっぱい読むタイプの子どもではなかった。





この記憶にたどり着くまでにだいぶ時間がかかったが、思い出すことができた。

しかしなぜだろう。蘇ってきたイメージが不穏だ。

「魔法のつえ」が、灰色と黒の中間くらいのもやの向こうにぼんやりと浮かんでおり、子どものころのぼくはそのもやの手前で暗いベンチに一人で座って泣きながら怯えている。なぜかこのような映像がセットで浮かんでくるのだ。

ぼくはこれらの本がとても好きだったと思う。

でも記憶のぼくはなぜか怯えている。

どうもぼくはこの部分をあまり掘り返す気がない。



過去の体験を元に現在の行動を語ることを好む精神学者と、好まない精神学者がいる。フロイトとアドラーで例えればわかる、という人もいるだろう。

最近のぼくは、今の自分を過去の行動と結びつけるやりかたをしない。これは別にアンチフロイトだとかアドラー賛美でやっているわけではなくて、昔の自分は記憶の奥底に隠れてしまっているのが当たり前で、そこまでわざわざ戻る方法がよくわからないからだ。フロイトがぼくを過去に戻らせてくれるなら一度くらい戻ってみてもいい。けどそこまでしないしフロイトは死んでしまった。

そんなぼくがたわむれに、子どものころのぼくを記憶から無理矢理引っ張り出してしまったから、彼は怯えて泣いているのか。

かわいそうだ。自分の頭をなでる。




「魔法のつえ」をKindleで買うべきかどうか、ずっと悩んでいる。この本をもう一度読んだら、ぼくは今まで読んだありとあらゆる本を再読しなければ出られない時空の狭間に閉じ込められてしまうかもしれない。見返すのはマンガや映画だけでいい。

ぼくはたぶんこれからも、小説を2度読むことはないと思う。