2022年3月31日木曜日

祭りだ

2023年に開催される第31回日本医学会総会という学会のあれこれを手伝うことになった。といっても、ぼくは末端も末端、ものすごい数の人がかかわる中のいちばん末席で、ちょろちょろツイートすればいいくらいの楽な関わり方だ。たぶん、この学会の大会長はぼくのことを知らないし、協賛企業もぼくのことを知らないし、演題を発表する医師たちもぼくのことを知らないし、市民向けイベントを見に来る50万人(予定)の市民もぼくのことを知らないだろう。その程度のものである。大会ホームページはすでにできている。


http://isoukai2023.jp/

(↑現時点でhttpだ。httpsになってない。こういうところ早くなおしてほしい。)


このイベントを見に来る市民の数を50万人と書いたが、別に大きく見積もっているのではなくてふつうにこれくらいくるそうだ。前回、名古屋国際会議場という、アクセスがさほどいいとは言えない、レゴランドの隣あたりの開場でやった「第30回」の市民向けイベントには30万人来場したらしい。ぼくもその場にいたけれどすごい数の人が確かにいた。今回は丸の内を広めにジャックするから、普通に50万人、あり得る。


現時点で後援が決定している団体がすごい。

日本医師会、日本歯科医師会、文部科学省、厚生労働省、

環境省、経済産業省、国土交通省、総務省、東京都、

NHK、日本病院会、日本看護協会、日本薬剤師会、

日本病院薬剤師会、日本診療放射線技師会、読売新聞社、

朝日新聞社、毎日新聞社、日本経済新聞社、産経新聞社、

東京新聞、共同通信社。

ゲェー全部じゃん! と言いたくなる。さらに、企業展示というのがあり、すさまじい数の協賛がつく。ただし、このイベントはあくまで「学会」なので、運営にたずさわる医師たちは全員無償で働く。ぼくのような末端の兵卒だけではない、上層部も全員そうだ。学会活動というのはそういうものである。特に、主務機関としてあげられている、

東京大学医学部、東京医科歯科大学医学部、

慶應義塾大学医学部、東京慈恵会医科大学、

順天堂大学医学部、杏林大学医学部、

昭和大学医学部、帝京大学医学部、

東京医科大学、東京女子医科大学、

東邦大学医学部、日本大学医学部、

日本医科大学、国立がん研究センター、

国立精神・神経医療研究センター、国立国際医療研究センター、

国立成育医療研究センター、東京都医師会

あたりはものすごい物量の無料奉仕をするのだ。それがアカデミアの使命といえば使命ではある……しかしここでもまた、ゲェー全部じゃん! という感想が出る。



ぼくもこれまで、日本病理学会、日本超音波医学会、日本デジタルパソロジー研究会などさまざまな場所でいろいろ企画の手伝いをしてきたがそれらもぜんぶボランティアであった。学術活動は「業務」ではあるがそれ以上に「学術」であり、報酬がないことに不自然さは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ない。今、手首が痙攣してちょっと変なところを押してしまったけれど大丈夫です。なお、学会の場合、「講師としてまねかれたとき」には例外的に講演料をいただけるが、いただいたお金を講演の準備時間で割ると時給は数百円くらいになる。そして、他人の講演の準備をしたり座長をしたりする場合には一円ももらえない。まあ、学会は儲からない。でもみんなが目の色を変えてやる。そういうものだ。


日本医学会総会の準備にかんしても、ぼくは一円ももらうことはできない。でもいい。これは、医療者としての責務に含まれているからである。学会という場を通じて、

・医師(同業者)に学術情報を届け、

・市民に安心できる医療情報を届ける

ことは医師の義務だ。そして、これだけの団体・大学・公的機関がこぞって参加する「お祭り」を、自らが持つ専門性で楽しくワッショイできることは幸せなのである。



これは洗脳とか言いくるめではない。わりと本心だ。多くの名のある医療者たちに混じって、最新の医療の姿を、専門家にも素人にも、隣人にも遠方の見知らぬ人にも届けられるというのは人生の甲斐だと思う。そう思えない人はそもそもこのイベントに手を貸していないし、手を貸さなかったからと言っておとしめられることも一切ない。だから安心して欲しい。さきほど、「お祭り」と書いたが、まさにお祭りなのだ。浅草の祭がワッショイしているところを「よくやるぜ」と遠巻きに見ている人はいっぱいいると思うけれど、ああいうワッショイワッショイが日本のどこかにあること自体は悪くないと思わないか?



ということで、スパイス程度の自己犠牲感がないとは言わないが、ぼくはこの「 #医総会2023 」をニコニコしながらお手伝いすることに決めた。そういうツイートもちょっと増えるかもしれないが許して欲しい。なお、いろいろな人に広報を手伝ってほしい。お手伝いしてくださる相手が「非医療者であれば」本部からお金を出せる。プロの手を借りる気はまんまんだ。ぼくらは今回、お金があるが自分たちには使わず、多くのプロを巻き込んで、お祭りを成功させるつもりなのである。

2022年3月30日水曜日

病理の話(641) 偉い人がやらないといけないのではないかという話

今日はいつもの「病理の話」とは少し方向が違うのですが、一度書いておきたいと思ったことを書きます。海外の病理医、特にアメリカやヨーロッパの病理医は、日本の病理医とはツイッターの使い方が異なる、という話です。


海外の病理医は、プライベートではなく仕事の一環としてツイッターアカウントを取得している人が多いです。本名・顔出しあたりまえの、Facebook的な使い方です。

これに対して日本では、本名を絶対に出さない人や、本名がある程度ばれていても通名・あだ名で使い続ける人のほうが多いです。そもそも病理医であると公には明かしていない人が多い。かろうじて病理医であることを「におわせる」Bioやツイートも見かけますが、完全に職業をマスクしている人がそれ以上にいっぱいいます(あとでこっそり教えてくれたりする)。病理医の運用するアカウントのうち「自分が病理医である」と明かしている人はたぶん3割くらいではないかと思います。

もちろん、あそびでつぶやいていることを職場と紐付けられては困る、という感覚でしょう。SNSのリスクマネジメントとしては大事なことだと思います。

ただし、実名でツイッターをやっていない以上、自分の研究成果をつぶやくことはできません。このため日本人病理医の多くは、学術成果をあまりSNSでシェアできないのです。


本名でツイッターをやっている海外の病理医たちは、学会発表や論文掲載時にすぐにツイートします。ですから、そういう人たちをフォローしていると、毎日最新の学術情報が手に入りますし、学会や研究会などが開催されると本当に盛り上がります。

日本ではまだそこまでには至っていません。学会ハッシュタグでは、「あの演題がおもしろかった」というような感想ツイートは少しずつ増えてきていますけれども、「自分の発表を自分で盛り上げるムーブ」がない。論文の著者に対してリプライで質問が飛び交うということもめったにないです。



ここにはSNSをどのようにとらえているかの文化的な違いがあるのかな、と感じることがあります。日本では、「ツイッターというおもしろいものがあったぞ! 仕事には使えないかもしれないけれど、趣味としてやってみよう」というアカウントの作り方が多いですが、米国病理医は最初から「学術活動のためにツイッターアカウントを作ろう」と考えている。

日本人病理医も、本名のサブアカウントを作って、顔写真と所属をしっかり載せて、まじめなことだけをツイートすれば米国病理医と似たようなことはできると思うのですけれども……そういう人は少数派です。




ところで、海外の病理医は、日常的に難しい症例の写真をツイートして、世界中の人と診断について考えたりもしています。

「こんな珍しい症例を見つけたのでシェアする。診断を考えて欲しい」

だったり、

「症例クイズだ。この写真から何を考える?」

だったりを日常的にやっています。


この「症例の写真をツイートする」というのを、日本の病理医がそのまま真似することはできません。なぜなら、日本の病理医が症例の写真をツイートすると、それは、患者の個人情報を垂れ流す、いわゆる守秘義務に反する行為になりかねないからです。

えっ、守秘義務だったら、米国だっていっしょでしょ? と思われるかもしれません。じっさい、一部の日本人病理医も、「アメリカではやってるんだから日本でもやって大丈夫だろ」と思っているふしがあります。でもこれは非常に危険なことです。

これまでも、日本人の病理医で、気軽に自施設の症例写真をツイートしていることが職場に通報されて、アカウントを削除しただけではなく、患者(らしき人)と訴訟になりそうになった人がいます(実例を知っている)。


なぜ日本人病理医がやるとトラブルを招くのに、アメリカの病理医は平気で症例写真をツイートできるのか? ここには、日米の病理医の「働き方の違い」がかかわっていると考えています。


まず、アメリカの病理医のうち、症例写真をツイートしている人は、「ものすごい数の施設で採取された標本を診断している」人ばかりです。アメリカの病理医は、その人がニューヨークに住んでいようとシカゴに住んでいようと、症例はロサンゼルスの病院のものかもしれないしデトロイトの病院のものかもしれない。なんなら、パリかも、バンコクかも、北京かもしれない。


でも日本人病理医は、基本的に、「その人が所属している組織の病理標本しか診断していない」。日本人病理医が病理写真をツイートすると、「ああ、○○県の○○病院で診断された病気なんだな」と、個人情報が多めに伝わってしまうのです。



ところで、病理医は、全身ありとあらゆる臓器の病気を診断する……ということになっていますが、たいていの場合はそうではありません。高度化しすぎた医療の現場で、あらゆる病気の診断をひとしくやることはほぼ不可能ですから、どうしても得意・不得意が出ます。

基本的に「自分が所属している施設、担当している部署によって、得意な診断が自然と決まってくる」のです。

アメリカでは特に、「病理医の専門性」がはっきりしているので、基本的に、自分の得意な臓器の診断「しか」しません。脳腫瘍が得意だというなら脳腫瘍ばかり診断している。胃癌だけとか、膵臓癌だけとか、小児炎症性腸疾患だけを診断している。

では、「専門外の臓器の病理診断」はどうするか?

病理医どうしの横のつながり、ネットワークを駆使して、ほかの施設の病理医にお願いしたりするのです。

A病院に勤めている胃癌病理の専門家は、B病院の胃癌もC病院の胃癌もD病院の胃癌もみる。かわりに、A病院の大腸癌は、C病院の別の病理医がみる。

こうやって、ネットワークで持ちつ持たれつ、コンサルテーションをお互いにきかせまくっているのが、アメリカの病理医……特に、コンサルタントとして有名になっている病理医です。

そういう人たちは、全世界から病理診断の相談をうけているので、手元に無数の「勉強になる症例」を持ち合わせている。ほとんど「歩く教科書」みたいになっているんです。

彼らのツイートは「教科書の一部をリアルタイムで更新している」のですね。世界中どこの人の症例かわからないから、個人情報的にもけっこう安全である。



では、日本はどうか。

日本でも、一流の病理医たちは基本的に「自分の専門臓器」を決めており、アメリカの病理医とおなじように横のつながりでコンサルテーションをしまくっています。そういう人は、どんどん症例の写真をツイートしてくれていいと思うのですが……。アメリカの病理医とは違うポイントがひとつだけある。

それは、「日本の偉い病理医はツイッターをやっていない」んです。

日本の偉い病理医がツイッターを実名でやっていれば、と思うことが頻繁にあります。学会や論文の成果をどんどんツイートし、コンサルテーション症例の写真を教科書的にツイートしていただきたい。すごく役に立つと思います。

でも、日本でツイッターをやっているのは、匿名で、所属施設を隠してプライベート中心にツイートしているばかり。

しかも、「基本的には自分の施設の病理診断だけをしており、さまざまな臓器を相手に病理診断するタイプ」の病理医が多いのです。

こういう人たちは、症例の写真を載せることで患者の個人情報(住んでいる地域やかかっている病院の名前)がわかってしまうリスクが高い。だからツイートできない。してはいけないと思います。



今日の話をあえて敬語で書いたのはなぜかというと、「日本では偉い病理医こそツイッターをやらないと、ツイッター学会みたいな取り組みはうまくいきませんよ」ということを伝えたかったからです。やる気があって改革心の旺盛な、「若者」が取り組んでも、こればかりはうまくいかない。心意気はよくても実際に多くのコンサルテーション症例を診断していなければツイッター病理診断は盛り上がりませんし、いくらSNSに長けていて言葉が上手であっても学術成果を上げていなければツイッター学会だって活性化しないのです。



というわけで全国の病理学会コンサルタントや病理学講座教授はただちにツイッターをはじめていただけますと幸甚です。USCAP(北米病理学会)に置いてかれるよ。

2022年3月29日火曜日

いったん無線になってしまったら

ワイヤレスイヤホンの充電端子の調子が悪くて、うまく充電できない。冬にはたまにあることだ、静電気がたまっているのだろう。小さい精密機器が寒冷シーズンに誤作動を起こしたら、慌てずに静電気が放電するまで待つといい。

古いほうのイヤホンを取り出してみる。しかしこちらも長いことしまっていたので、充電しなおさないと使えない。結局、有線のアナログイヤホンを選ぶ。ひさびさにスマホと耳とを線でつなぐ。すぐに音が飛び込んで来る。手軽で気軽だ。音質にもなんの問題もない。


だからといって、「ワイヤレスはだめだ、有線がいい」と断言できるほどぼくの頭は一貫していない。ワイヤレスイヤホンの調子が戻ったらまたワイヤレスに戻すだろう。ここはもう、戻れないのである。

マウスをはじめて無線式にしたときにも、「電池が切れたらめんどうだから有線のほうがいいんじゃないか」と一瞬思ったが、いったん乗り換えてしまうとコードにしばられていたころのことをとても不便に感じるようになり、二度と有線に戻すことはなかった。

「便利」がひとつ生まれると、それまで当たり前にやっていたことが急にだめに感じられるから不思議だ。「便利」はいつも不可逆的である。腕時計は電池が切れるからだめだと言っていまだに日時計を使っている人がこの世のどこかにいるだろうか?




Facebookで投稿に「友人の紐付け」をする人たちをよく見る。同じイベントに出た人たちを投稿に登録することで、通知が飛んで、「ああぼくも出たよそれ、いいね!」とばかりに、いいねの連鎖が広がっていくシステムになっている。多くの人がFacebookの友人タグを「便利」だと思っているようだが、ぼくは「有線で紐付けして縛っている」ように見える。せっかくSNSで日常の縛りから解放されるチャンスなのに、なぜわざわざリアルの紐付けを復活させようとするのだろう、不思議でしょうがない。

このことを先日とある友人に言ったら(書いたら)、「そもそもFacebookは『有線の本数』を増やすサービスであって、無線化するためのものじゃない。SNS=social network serviceというからには、ネットの網目を増やすのが主目的だろう」と言われた(書かれた)。思わず黙り込んでしまう(元からだけど)。ぼくはSNSは縛りから解放されるためのツールだと思っていた。マウスもイヤホンもWi-Fiも線を切断する方向に進んでいるのに、人間関係だけは線を増やしているのか。ではこれは「便利」とは違うのではないか。ぶつぶつ書くと、友人はとどめをさすように書いた。


「SNSは『便利』ではないよ。もっと可逆的なものだ。糸電話だと思ったほうがいい。不便だが目新しくてやってて楽しい、というのが本質だ。大人は誰も糸電話なんかしないけれど、糸電話が楽しかったときのことを覚えている、SNSだってたぶんそっちのたぐいのものだ」


そうかなあ。ぼくはそれは「例え話すぎる」と思った。けれど、SNSの線を切っていったん無線になってしまったら、なぜあんなもので毎日自分を縛っていたのかと不思議に思い、二度と線の多いくらしには戻らないのかもしれない。職場のデスクの引き出しを開けると、どう捨てていいかわからなかった有線マウスや有線キーボードがいくつか出てきて、ああ、SNSもいつかこうしてノスタルジックに引き出しにしまわれるのかもな、と気がついた。

2022年3月28日月曜日

病理の話(640) 病理医の語りのわかりやすさ

しゃべりがうまい病理医と、しゃべりがあまりうまくない病理医がいる。


学会や研究会に出ていると、てきめんにわかる。


これは別にマウントを取ろうと思って言っているわけではない。本当に、残酷なくらいに差があるとしか言いようがない。誰がしゃべっているかによって、内容の伝わり方がまるで変わってしまう。




しゃべりがうまい病理医というのはどんなタイプか?


すらすらしゃべれる人? 噛まない人? たとえが上手な人? 名言を交える人?


たぶんそういう、「普通の人間が考えるしゃべりのうまさ」ではない。


病理医のしゃべりのうまさに関しては、「ある基準」が思い浮かぶ。その基準を満たしているか否かで、「うわーめちゃくちゃ伝わる」「うわーすげえ勉強になる」と感動できることもあれば、「努力してるのはわかるがぜんぜんわからない」と失望することもある。


その「基準」とはなにか?



話がうまい病理医は全員、「きちんと人の話を聞いている」。話す方がすごいというよりも、聞き方がすごい。

学会や研究会には、臨床医と病理医が順番にしゃべるセッションというのがある。このとき、自分より前にしゃべった臨床医の内容を踏まえて、自分のプレゼンを微調整することができる人の話はスッと頭に入ってくる。しゃべりがボクトツであってもいいし、つっかえてもいいし、パワポが見やすくアレンジされている必要もない。「しゃべる側としてだけそこにいるのではなく、聞く側としてきちんと場に参加している」ことで、その人の話はとても通じやすくなる。


逆に、プレゼンも完璧、原稿も完璧な病理医であっても、出番が来るまでの間にその会でどのような会話がなされたかをぜんぜん踏まえないで、「ただ準備してきた通りにしゃべる人」の場合は、話に柔軟性がなく、ありきたりで、「知る喜び」にまでたどり着かないことがほとんどだ。


ごくまれに、「ハイレベル・オタク」みたいなタイプの病理医が、聴衆の期待とは一切関係ないが異常に熱量の高いコンテンツをゴリゴリに詰めこんだ発表をして、それが妙におかしかったりすることもあるが……レアケースである。普通は空回りする。




「プレゼンターでありながらきちんと聞く」のは、言うほど簡単なことではない。病理医として、何かを発表したり解説したりする際に、事前にプレゼンを作り込んでくるだけでも大変なことなのだ。それを、当日の雰囲気を見ながら即興でうまく変奏していくには、とんでもない熱意と努力が要る。

でも、その大変なことを当たり前のように……学会や研究会を自分の発表の場としてとらえるのではなく、疑問と仮説が飛び交うコミュニケーションの場として考えている病理医は、会の流れや聴衆の期待にあわせて瞬時の微調整をする。



うーむ言語化してみたけれど、ここを目指すのは難儀である。でも言っちゃったからにはがんばるしかないか。

2022年3月25日金曜日

ワイルドワイルドだろうだろう

「ギスギスすんなよ」と言うときの「ギスギス」はぼくにとっては建物がきしむ音のイメージだ。


「社宅」的な古いアパートに暮らす夫婦が、些細なことで言い争いをする姿を、窓の外に浮遊しているぼくが眺めているシーンを思い浮かべてほしい。どんなシーンだよとつっこまれそうだがかまわずに話を先に進める。リビングで、お互いを見ないままに口論をしたあとに、片方が部屋を離れるときに、壁やドアがきしむ。ギス……ギス……。そしてもう一人はソファに沈み込む。ギス……ギス……。指先でつまんだ目頭からも音がする。ギス…………。ギス…………。


そんなイメージだ。でもこれなんかおかしいことになっている。

一般的にはギスギスとは表現しない場面ばかりだったな。たとえば家がきしむ音、普通はギシギシと表現するだろう。鼻の間を指で揉んでもギスギスとは言わない。グイグイとかググっという感じ。

「ギスギス」という音がするシチュエーションは別にある気がする。それっていつだ?

ぱっと思い付くのは、試薬などを郵送する際に使う、発泡スチロール製の箱。あれのフタをしめるときに「ギスッ」と言う。ぼくにとって一番ギスギスしい瞬間は発泡スチロールのフタをしめるとき。

あとは……なんだろうな。

単純にものとものとをくっつけて、摩擦で音をさせるだけだと、ギスとは鳴らないように感じる。主観だけど、こういうのは、同じ言葉を使っている者同士ではある程度共有できる感覚だろう。

石と石が擦れ合ってもギスとはならない。ガリと言う。紙をいっぱい積み上げたものがずり落ちるときの音はサアバササア。古くなった服を袋に入れて捨てるときはムギである。満員電車で人と人とが押し合いへし合いしているときはカワイソウだ。

何かと何かが押しつけ合って、そこにずれがあって、多少のひっかかりがありつつ、何度も接着面ですべって、有声音と無声音の間にあるような、鼓膜から鼠径に向かって不快感がおしよせるような高音域の音が出るとき、「ギスギス」という言葉を使いたくなるのだと思う。今のところ、発泡スチロール以外の物性でこれを表現できるものが思い浮かばない。




……今の、

「何かと何かが押しつけ合って、そこにずれがあって、多少のひっかかりがありつつ、何度も接着面ですべって、有声音と無声音の間にあるような、鼓膜から鼠径に向かって不快感がおしよせるような高音域の音」

をちょっといじって、

「誰かと誰かが意見を押しつけ合って、そこにずれがあって、多少のひっかかりがありつつ、何度も接着面ですべって、有声音と無声音の間にあるような、鼓膜から鼠径に向かって不快感がおしよせるような」

とすると、「ギスギスすんなよ」のニュアンスがけっこうきちんと伝わるのがおもしろいなあと思う。

2022年3月24日木曜日

病理の話(639) 犯罪者は生まれ育った町の方言を話す

体の表面を覆っているのは「皮フ」だ。


皮フは扁平上皮という細胞からなる。扁平上皮は、細胞同士ががっちり横に手をつなぎ、強固なスクラムを組むことができる。するとどういういいことがあるか?


扁平上皮で覆った部分は防御がとても硬くなる。水も漏らさない。われわれがお風呂に入ったときに、湯船からお湯を体内に吸い込まなくてすむのは、皮フが扁平上皮でおおわれているからである。


さて、この「防御最強」の扁平上皮は、体のどこまでをおおっているだろうか?


くちびる。色が赤い。ぱっと見、ここは違う細胞でできているような気持ちになるけれど、じつはくちびるも、皮フとさほどかわらない扁平上皮によっておおわれている。


そしてここからがけっこう驚くのだけれど、口の中の粘膜、すなわちほっぺの内側や舌、上あごなどもぜんぶ扁平上皮なのだ。皮フとはまるで違って見えるけれど、細胞を採りだして見てみると、「角化」のわりあいが異なるだけで、同じ扁平上皮なのである。


ちょっと考えるとこれはまあ納得できる。口の中には食べたばかりのかりんとうが突き刺さったりするし、ミルクもお酒もジャージャー入ってくるので、防御を最強にしておいたほうがいろいろいいのだろう。


ではこのまま消化管もぜんぶ扁平上皮でおおわれているかというと、そうではない。


食道は扁平上皮だ。食べ物がゴックンと飲み込まれる最中、穴が空いては大変だから、防御は強くしておく。しかし、胃に入ると、粘膜は扁平上皮ではなくなる。


「腺上皮」にかわるのだ。腺というのはにくづきに泉と書く。人体内では、泉のように粘液や消化液をふき出す必要があるのだが、扁平上皮のように防御が硬すぎると、体内で作った消化液を外に出すこともできなくなってしまう。そこで、細胞の性状を、もうすこし融通が効くやつに変えるのである。そのぶん、防御は弱くなる。

で、このまま、胃も小腸も大腸も、すべて腺上皮でおおわれている中を食べ物は進んでいってそのうち便にかわる。最終的に、肛門の絞られたところから外側が、また扁平上皮に覆われておしりの皮フにつながっていく。よくできている。


さてここからは「がん」の話をする。


口の中にも、食道にも、胃にも、大腸にも、がんが出る。がんというのは細胞のチンピラ、もしくはヤクザみたいなものだ。まわりの細胞と少し似ているのだけれど、攻撃的で、犯罪的である。そして、がんにもいくつかの種類がある。


口の中に出るがんは、もともと口の中にあった粘膜に似た性質を示す。口の中は扁平上皮におおわれているので、発生するがんも「扁平上皮癌」となる。


食道から出るがんの多くもまた「扁平上皮癌」だ。


そして、胃から出るがんは「腺癌」である。


このように、がんは、発生部位に存在する細胞の性質を受け継ぐのだ。「生まれ育った町の方言を話すヤクザ」みたいなものじゃけぇ。


応用問題。


「食道と胃の境界部」では、扁平上皮癌が出る場合も、腺癌が出る場合もある。両方がありえる。端境の部分は、がんも何でもアリだ。


「食道と胃の境界部から、少し食道側のところ」ではどうか? もうすぐ胃が見えてくる、くらいの場所。もちろんほんらいであれば扁平上皮癌が出るはずなのだが、このあたりは、胃から逆流してくる刺激により、粘膜が微妙に「胃っぽくなっている」ことがあるためか、けっこう、腺癌も発生する。



「だから何?」と思った人はいるだろうか? その知識が何かの役に立つの?


役に立ちますねえ。なにせ、扁平上皮癌と腺癌では、効く治療が異なるのだ。放射線治療の効き方が違うし、抗がん剤も別だ。手術でどれくらいの範囲をとるか、その判断をするにあたっても、「そのヤクザがどこの国の生まれか」を見極めることは重要である。生まれ育ちは大切なのだ。仁義なき細胞たちは映画のように名乗ってはくれないので、こちらがきちんと生国を見抜く必要があるのだけれど。

2022年3月23日水曜日

オタクのようになりたい

むかしはジャスミン茶のうまさはまったくわからなかった。

あるとき、息子と沖縄旅行をした際に、なにげなく買って飲んだ「さんぴん茶」に、普段と違うかんじ、いわゆる「沖縄み」を覚えた。うまいなーと思ったし、ああ、こういうのいいなーと思ったし、忘れなさそうだなーと思った。

札幌に帰ってきたあとにググってみたところ、さんぴん茶とジャスミン茶がわりと似ている(それなりに同じ)ということを知った。それからというもの、ぼくは急にジャスミン茶を飲むようになった。

今日、いつものように買い求めたペットボトルのジャスミン茶から、「沖縄み」をまるで感じなくなっていることに気づいた。

ここからは「職場の味」がする。

ちょっと飲みすぎてしまったのだろう。

この先、もしぼくがまた昔のように出張や旅行に行くようになったとして、沖縄でさんぴん茶を飲んだらきっと、「デスクを思い出す」ことになりかねない。

あちゃー、と思わなくもない。

でもまあそういうことはある。よくある。人生では何度も起こることだ。

近江神宮のお守りをデスクにかけてある。『ちはやふる』の縁で知った、百人一首関連のクラウドファンディングのリターン品だ。これを毎日目にした結果、ぼくは、家にいるときに百人一首のニュース等で近江神宮の姿がうつると、とっさに職場のパソコンを起動するイメージが喚起されるようになった。

へんな混線をしている。

混線して上書きされていく。

自分の自分らしい部分を覚えていたい。いい感情を覚えたときの自分であり続けたいと願う心。精神的なホメオスタシスを保とうという本能が、ものと自分との関連図に、何重にもニスを塗っていくことで、かえって下絵が見づらくなる。

かといって、心の中にあらわれた素晴らしい絵画を、あまり手垢がつかないようにと大事にしまい込むのも問題だ。その絵があったこと自体をまるっと忘れてしまうのが脳クオリティである。



オタクのようになりたい。鑑賞用、保存用、布教用と、気に入ったものを3つ用意する。自分がそれを気に入ったということを自分で鑑賞して思い出し、人にも見せてまわることで、いつしか語られ尽くした品はボロボロになっていくけれど、保存用があるから、最初の感動をそのまま残しておける、そういうタイプのオタクのようになりたい。

今、「鑑賞用」と入力したら肝小葉と変換されたので、ぼくはこれから「気に入った品を3つ買うオタク」を見るたびに肝生検のことを思い出すだろう。また混線してしまった。こうしてぼくの境界はどんどん外部にも内部にもとろけてわからなくなっていく。

2022年3月22日火曜日

病理の話(638) さじ加減の加わる部分

ある病気か、そうでないかを診断するとき、さまざまな理由により、その診断に「ぶれ」が生じる。我々はそのぶれを制御するために、ある工夫をしている。

説明のために模式図を作った。これを見てほしい。



とある「病気A」を考える。この病気Aは、


 ・放置しておくと命にかかわる

という特徴があるため、病気Aだと診断したら、治療をはじめるべきである


ただし、診断を確定することは思った以上にむずかしい。


「このような症状が出たら病気Aだ」とか、「検査でこの値が異常だったら病気Aだ」と、誰が見てもわかるような目安があればいいのだけれど、そういうのはない。


じっさいに、さまざまな患者を診察してみた。「これはもう誰が見ても病気Aだな」とわかる人もいるが、中には、「ちょっと病気Aっぽい」とか、「わずかに病気Aのふんいきがある」という人もいる。

たくさんの人に対して「病気Aらしさ」を調べていくと、グラデーションがあることに気づく。まったく病気Aではない人が図の一番左側。ぜったいに病気Aの人が図の一番右側だ。図をもう一度載せよう。



みなさんもちょっと考えてほしい。赤い矢印の部分は病気Aだろうか? 黄色矢印の部分は? 青はまだ病気Aとは言えない、だろうか?


「ちょっとでも色がついたら病気Aとして扱っていいんじゃないの?」と考える人もいるだろう。しかし、思い出してほしいのだけれど、病気Aというのは「放置しておくと命にかかわる」という問題があり、「診断したらすぐ治療」しなければならない。


ほんとうに「青い矢印の部分」はすぐ治療するべきだろうか?


「すればいいじゃん、悪いことはないでしょ」というのは話をかんたんにしすぎである。あらゆる治療には副作用がつきものだ。病気Aと確定していないのに治療をすることは許されない。

そもそも、治療というのは「患者の人生の時間を費やして行うもの」だ。入院したことがある人ならわかるだろう。たとえば2週間入院したら、その分、「病院の外で自由に使えるはずだった時間」が2週間失われる。病気で人生がちぢまなくても、必要のない治療で人生の自由な時間をちぢめてしまったら、本末転倒である。


「病気Aかどうか」を確定するのが難しいので、研究者はいろいろと調べてみた。すると、あることがわかった。

この病気Aは、右側に行くにつれて「命が奪われるまでの時間が短くなる」。色が濃ければ濃いほど命に影響するのだ。一番濃い右端だと、数年以内に命にかかわる。しかし、赤い矢印だと、仮に病気Aと同じ結果をたどるとしても、10年単位だ。青い矢印だと、「100年くらい経たないと命にかかわらない」。


このような「程度の重さ」は、病気を考える上で非常に重要である。「たしかに病気Aかどうか」にグラデーションがあるだけでなく、「その病気Aがどれくらい深刻か」にもグラデーションがある。


そこで、診断者たちは、思い切って、病気Aかどうかという二択をやめた


図自体はさっきと変わらないのだが、2箇所に線を引いた。そして、多くの人が「迷う」領域を、中間領域として設定した。


一番右の「病気A」には治療をすすめる。

一番左の「病気Aではない」は、治療をしない。

そして「中間領域」の場合には、

 ・すぐに治療はしないが、病院に定期的に通ってもらって、病気Aっぽさがもっと増してきたら治療をする
 ・すぐに治療をはじめる。ただし、病気Aにする治療とは違う、もうすこし副作用が低くて、もうすこし入院期間も短くて、ただし効果もやや弱い(もし病気Aだったとしたらちょっと足りない)くらいの別の治療をする

といった、中間的対処をするのである。



なんだ、あいまいさは残したままなのか、と思われるかもしれないが、3分割方法はかなり有用なので、現在の医学では多くの専門家がこのやりかたを取り入れている。「前がん病変」、「異形成」、「ディスプラジア」、健康診断の「要経過観察」と呼ばれるものなど、すべては「病気Aとは言えないあいまいな部分」に、医療者と患者が思慮深く対処するための中間領域なのだ。



最後に病理医の話をする。3分割法において、「病気Aと確定」する部分については、診断にさじ加減がくわわる余地がない。「誰が見ても病気Aだ」と確信できるような証拠が揃ったときに、病理医全員が病気Aと診断する。

しかし、中間領域はそうはいかない。白黒はっきりしない「グレー」の部分については、病理医ごとに微妙なずれが生じる。中間領域で「ずれがあること」は、主治医も織り込み済みだ。病気Aと確定できない、してはならない部分なのだから、むしろ、ずれ・ぶれがないほうが不思議なのである。

病理医は、病気か否かが確定できない中間領域においては、「さじ加減」を効かせながら診断書を丁寧に書く。それが医療のあいまいな部分をきちんと支える。このとき大事なことは、医療者と患者に、「なるほどこれは客観的に見ると『中間』なのだな」と伝わることだ。




以下、おまけ。

中間領域では本格的な治療がはじまらないことが多いため、「治療が生き甲斐」の医療者にとって、中間領域の診断はいやでいやでしょうがないらしい。一部の、手術や手技に人生をかけている人などは、病理診断の中間的な部分をみると露骨にまゆをひそめたりする。まあ、その気持ちはわかる。「結局これ、治療すんの、しないの、どっちなの!?」と、患者と一緒になって怒っている医者をみると、

あー、グラデーションの「あわい」の部分で戦うのが苦手な医者なんだな、

と思って、コンビニでシュークリームを買って届けてあげる。するとなんかわかってくれる。甘い物はだいじだ。

2022年3月18日金曜日

ワーカホリックの稼働原理

「仕事の中身は何でもいい、とにかく多忙でさえあれば、充実できる」。

ぼくはたぶん、そういう気持ちでずっとやってきた。



最初は違った。「とにかく忙しければいい」なんてことは思っていなかった。当たり前だけれど、はじめは、「いい仕事がしたい」と思っていた。

あっ、これだと語弊があるな。もう少し正確に思い出そう。

かつてのぼくは、

「優秀だと言われたい」

と思っていた。単にいい仕事がしたかったわけではなく、「こんなにいい仕事をするなんて、誰よりも優秀だね~」と言われたかったのである。

でも、少なくともぼくは、「自分の優秀さを認めてもらえるほど抜群にいい仕事」はできなかった。そこまで優秀ではなかった。

恥を忍んで言うと「ああ、ノーベル賞がとれなかったなあ」と、本気でがっくり来たことがある。



思ったほど優秀ではなかったぼくは、「いい仕事」をあきらめて、代替的に、

「仕事を大量にやっていて、偉いね~」

と言われるほうを選んだ。

それがいつしか、仕事の質よりも多忙であることを価値と考えるような、短絡的なメンタルにつながっていった。



あれもこれもと仕事を抱え込んで、ずっと高回転で回し続けていくと、ある種の「適者生存の論理」のようなものがはたらく。ぼくは多忙の中で次第に最適化され、「それなりにいい仕事」ができるようになっていく。外科医のタマゴが何度も何度も糸結びの練習をしているうちに、指が勝手に動いて糸を結ぶようになるように、ぼくもまた、仕事の軽重を問わずに大量に鍛錬を積み重ねることで、「脊髄反射で思考できるように」なる。



このことに気づいたとき、ああ、いやだなあと思った。脳だけを使って働くはずの仕事で、ぼくはまるで体育会系の行動を取っている。早素振りを朝に100本、昼に100本、夕方に200本……。

ぼくは未来の自分が、「反復練習」で、「匠の脊髄反射」を磨いて、修業しなければできないことを長年やってプロを気取っている姿を思い浮かべた。

それはすごくいやなやつだった。




おりしも、これまでのリクルート活動が功を奏し、春からは常勤病理医が一人増える。大学からの出張医も受け入れ始めており、病理を学ぶ研修医もいる。

多忙から距離を取るなら、今しかない。

誰でも同じように仕事ができるような環境を整備して、ぼくでなければ判断ができない部分をなるべく取っ払うのだ。

ここ最近のぼくは、近い未来に自分を含めたスタッフ全員がほどよくヒマになるためのシステムを考えている。

うまくいけばいい。たぶんうまくいくと思う。

ただし、その先には一つ、悪いことも待っている。

それは、「多忙であれば充実できる」ようにチューンナップされてしまったぼくの脳が、きっとポンコツになるだろう、ということだ。




もちろん、患者のためを考えれば、どうするべきかは明白である。

「忙しすぎてたまに取りこぼしがあるけれど、病理医は充実しています。」などという医療はごめんだ。

したがって、このまま業務改革を進めていくわけだが、そうするとぼくはきっと、満たされなくなるだろう。

それだけでなく。

ぼくはおそらく、世界とアクセスするのが今よりずっとヘタクソになる。




ここ最近のぼくは、世界とアクセスするためのインターフェースとして、「仕事」以外をほぼ使っていない。人と出会うことはもちろん、新しい概念との出会いもほぼ仕事経由だし、きれいな風景を見るきっかけも、おいしいご飯を食べる理由も、暇つぶしのために読む本だって、ほとんどすべてが仕事という正面玄関から入ってくる。ぎりぎり勝手口としてSNSがあるのだが、最近はツイッターでも仕事のことをつぶやいていたりする。

思考を組み立てている言語やその構成も、仕事の影響をかなり受けている。ぼくの頭の中には「仕事用の水路」ができている。日中、仕事をしている最中はそこに職能を用いてタスクという水を流して循環させることであちこちを潤す。仕事を終えて帰宅してから、タスクのかわりに趣味や個人的な興味を「同じ水路に」流す。流れる液体こそ変わるが、その水路のかたち自体はなにも変わっていない。自分を興奮させて報酬系を作動させるためのやり方が、仕事のときのそれと同じなのである。

多忙による選択圧は、ぼくを、「仕事にだけ飛びかかって血を吸うノミ」にしてしまった。




半日時間が空いたら半年先の講演資料を作ろうかなという気持ちになってしまうから映画を長いこと観ていない。ゆっくりお酒を飲むくらいなら、さっさときりあげて朝すこし早く出勤して、日中のメール処理を楽にしてみようかな、そのほうが安眠できるな、なんてことを考えて休肝日が増えた。感染症禍になったことすらぼくは言い訳にしている。外出できないからしょうがなく仕事をしている、と、周りに伝えて、安心させようとしている。



ぼくがこのまま業務のありようを変えて、後に続く人たちに楽しく働いてもらうのはいい。

でも、ぼくは、ぼく自身に対する責任をきちんと取らなければいけない。

仕事を感覚器にし、仕事を運動器にもして、世界から仕事に関係のあるものだけを取り込み、また、世界に返していく動物。

未来のぼくが、充足に飢えてほとんど冬眠状態になっている姿は、すこし滑稽ではあるが、哀れだとも感じる。

となれば、今からぼくは、よく考えて、探しにいく。

まずは久々に映画でも観に行こうと思っている。この感染症禍が終わりを告げたころに。

2022年3月17日木曜日

病理の話(637) なるべく新陳代謝したいマン

うまくできてんなー、という話をひとつ。


体の一番外側にある「ひふ(皮膚)」は、常にさまざまな刺激にさらされている。蚊が飛んできて刺したり、雨や牛乳が降りかかったりする。ばい菌も付着している。


これらのうち、異物、もしくは敵にあたるものを、体内に駐屯している「警備隊」によって締め出して打ち倒すのがみなさんご存じの「免疫」である。が、じつは「免疫」には、よりシンプルな仕組みがある。細胞を動員するだけが防御システムではない。


「定期的に皮膚を剥がして張り替える」のだ。


皮膚に付着したさまざまな悪いものを、古くなった皮膚ごと捨ててしまえばいい。免疫細胞を毎回出動させるまでもない。人の経営するお店だって、壁紙が汚れて汚くなったら張り替えるだろう。


そう、新陳代謝は免疫の役割を担っている。傷や汚れのついた古い細胞をどんどん捨てて、下から新しい細胞で覆い続けていればよい。ただ、このやり方には重大な弱点がある。


それは、新たな細胞をつくりだすのにエネルギーが必要だということだ。まあそりゃそうだよね。


体内のあらゆる場所の細胞を全開で取り替えまくっていたら、きっと人間はもっと大量に食べて栄養を補給しなければいけなくなる。また、皮膚のように、古くなったらそのまま外に捨てられる部分はよいとしても、体の奥まった部分でどこにも捨てる場所がないところの細胞は、捨てるにも苦労する。


そこで、人体は、新陳代謝をする回数を、場所や細胞によって細かく変えているのだ。


たとえば皮膚、さらには胃腸の粘膜のように、外からやってくる刺激(蚊やばい菌など)と頻繁に触れる部分では新陳代謝を激しくする。胃腸の粘膜に蚊はやってこないジャン、と思うかもしれないが、食べ物は人体にとって間違いなく異物であるし、食べ物の中にばい菌が入っていれば食中毒になるかもしれない。それに、都合のいいことに、消化管の粘膜を新陳代謝でどんどん入れ替えるとき、古くなった細胞はそのまま便として体外に捨てることができる。


一方で、皮膚や粘膜の向こう側にある、脂肪や筋肉、神経、血管などは、そうそう頻繁には新陳代謝させない。外界と刺激と触れる機会は少ないし、古くなった細胞を処理するにはダストシュートだけでなく特殊な機構が必要となるからだ。


人体はどの場所にいる細胞を新陳代謝させまくるかを厳密にコントロールしている。体の表面や消化管などの粘膜で、外部とコミュニケーションしながら日々入れ替わっていくタイプの細胞を、総称して「上皮細胞」と呼ぶ。皮膚には重層扁平上皮細胞が、胃には胃底腺粘膜上皮細胞が、小腸には絨毛/陰窩上皮細胞が存在する。胆道には胆管上皮が、膵臓には膵管上皮が、乳房には乳管上皮があるのだ。「上っつらを覆って外部とやりとりする」という意味で、上皮と言うのだろう。いやーよくできてんな。

2022年3月16日水曜日

ときめきがなくてもとっておくもの

いつの間にか「繁殖」していたクリアファイルを捨てたところ、本棚に少し余裕ができた。油断しているとやつらはすぐにスキマにはびこっていく。

クリアファイルは、かつては人に資料を渡すときに重宝していたし、論文を印刷してカバンに入れて持ち歩くようなときにも必須のアイテムだった。しかしメール・Slack・PDFのやりとりが多くなった今、ぜんぜん使わなくなった。郵便で書類のやりとりをするときは未だに使うが、あまりゴテゴテとデザインされたタイプのクリアファイルだと、他人に渡す目的には使えない。無地以外はだめだ。製薬会社や薬の名前が入っていたりするとどうにもならない。

生命保険会社が契約更新の際に書類を入れてよこすクリアファイルなども、かわいいキャラクタがついているので何かに使えるかなと思って、書類を取りだしたあとは取っておいていたのだが、では実際、40代なかばにさしかかろうというぼくが、かわいいキャラクタのついたクリアファイルをいったいどの業務に使うというのか? 結果、無意識に手の届くところにある本棚にクリアファイルを挿してそれっきり忘れてしまっていた。本棚の一角には半透明のペラペラがぎっちぎちに詰まってしまっており、もはやどれがアトムでどれがスヌーピーでどれがポケモンかはわからない。おそらく二度と使わないだろう。

どんどん捨てた。

ところで、クリアファイルと言えばクラファンの返礼品の定番でもある。最近はクラファンの趣旨に同意はするけれどグッズは要らないと思うことも多く、いや、ま、デザインが悪いと言いたいんじゃなくて、もうクリアファイルそのものがさほど要らない。たまたまクラファンのデザインにぼくの推し絵師が関与しているというなら話は別だが、そうでない場合、「返礼品を辞退する」という項目にチェックを入れてお金だけを振り込んで終わりにする。

しかし毎回「返礼品要りません」が通用するわけでもないので、本棚からはクラファン返礼品もぞろぞろ出てきた。たいていのものはなんのクラファンだったか由来を覚えているが、いくつかは「これ、何の寄付だっけ?」となってしまった。そういうのも全部捨てた。

残ったのは、おかざき真里先生のイラストが入ったやつとか、映像研には手を出すなのやつとか、『カンデル神経科学』の本文中に出てくる名言をあしらったものなど、デザインが特に気に入っている少数のものだけ。ほかは全部まとめてプラゴミに出した。

けっこう本棚が空いた。たすかる。行き場がなくて共用スペースにはみ出していた自前の教科書をいくつか引き取った。もっと早くこうしていればよかった。



片付けの余勢を駆って、デスク周りのこまごまとしたものも捨てはじめる。なんだっけこのバッジ。記憶にないなこのステッカー。応援する気持ちは今も変わらないけれど、君らの団体はもう違うデザインのロゴを使っているはずだよな、というシール。捨てずに残したのは、ぼくが子どものころに遊んだ(そして息子も遊んだ)古いトミカを数個と、出張先で買ったストラップの一部。こうして棚の一角をきれいにしたら、奥から2000円札があらわれたので笑ってしまった。

たしかこれは、ずいぶん前に息子といっしょに沖縄に行った際に、ATMでお金をおろしたら出てきたものだ。2000円札は当時すでに珍しかったので、息子に向かって「見て、これ2000円出てきた!」と言ったら、「お金おろしたんだからお金が出てくるのはあたりまえでは?」という顔で見られた。結局沖縄ではそのお札を使うことがなく、帰ってきてからぼくは財布から2000円札を抜き取って、デスクに置いておいた。なんの記念になるわけでもないが、このお札は両替せずに取っておくことにする。そもそも、「両替しないと使えないお札」という時点で少しおもしろい。



デスク周りをきれいにして、はーやれやれ、と顔を上げたら、壁にマグネットで無造作に貼った絵はがきの数々が目に留まった。ほとんどが仕事相手の編集者から送られてきたものだ。編集者の中には、ゲラのやりとりをするときなどに、連絡事項を絵はがきのうらに書いて送ってくるタイプの人がいる。かっこいい建物やきれいな景色よりもアニメ系が多いので、編集者という職業にもそういう偏りがあるのか、あるいはそういう偏った編集者とばかり仕事をしているということなのか、としばらく考える。

絵はがきを壁からはずしてファイルしていく。手紙は捨てない。付箋やメモ用紙の類いもふくめ、あらゆるお手紙はぜんぶ取ってある。でも、もらったときの彼我の気持ちはもはや思い出せない。やりとりをしたときの記憶は薄れ、紙とメッセージだけが残る。それはわりといいことなんじゃないかな、ときめくまではしないけど、と思いつつ、コクヨのフォルダに絵はがきを次々ほうりこんでいく。途中で、絵はがき1枚だけをより分けて、デスクの引き出しの中の、いちばん目につくところに入れる。たまにここに入れる絵はがきを入れ替えたら、気分が変わって楽しいだろうな。でもたぶんこういう気持ちもどんどん忘れていってしまうのだろう。

2022年3月15日火曜日

病理の話(636) 診断書には書いていない部分の相談

突然だが、サッカーの試合結果を伝えるニュースのことを考えてみてほしい。まず、ニュース番組の後半の短いスポーツコーナーや、あるいはラジオなどだと、下記のような伝え方であることが多い。


「ホニャララ競技場で行われた○○FC 対 □□SCの試合は、3-1で○○FCの勝利。○○FCは4位のまま、□□SCは12位に後退しました。」


基本的に、点数と順位を伝える。これが一番重要な情報であり、視聴者も最低限知りたい情報だ。


では、わりとスポーツコーナーが充実しているタイプの番組なら、どうか?


「○○FCと□□SCのカードは今年の5月以来。期待のダービーマッチです。開始から両サイドを中心に攻撃の起点をつくる○○FC。前半22分、右サイドをオーバーラップしたAがこの日3度目のクロスを上げ、ここにフォワードBが走り込んでヘディングで先制点。勢いもそのままに前半39分にも、今度は左サイドからCがわざありのアーリークロス、これにまたもBが合わせて追加点。2点リードで前半を折り返します。巻き返したい□□SCは後半33分、後半から交代で入ったDがペナルティーエリアすぐ外で倒されてホイッスル。フリーキックをEが直接決めて1点差としますが、反撃はここまで、2-1で○○FCの勝利、□□SCはホニャララ競技場では4年間勝ち星がなく、苦手意識を払拭できませんでした。」


最初のと比べると、だいぶ濃厚になった印象である。とはいえ、これでもまだ、「実際にサッカー場で見ていた人が感じ取ったニュアンス」には届かない


今の試合では、○○FCが何度も「サイド攻撃」を仕掛けていた。特に、先制点のきっかけになったのはサイドバックというポジションのAさんであった。彼がすごく目立つプレーをしたのは間違いないが、じつは、Aさんのチームメイトで、ボランチというポジションにいるベテランのFが、Aさんのプレーの1つ前に、うまくボールをさばいてAさんがプレーしやすいような場所にボールを出していた。相手の□□SCは、Fさんにプレッシャーをうまくかけられず、彼に自由にボールを持たせてしまったために、FさんはAさんにいつもいいパスを送り、そのおかげでAさんも何度もサイド攻撃ができて、前半のうちに3回もセンタリングできて、結果、先制点につながったのだ。しかし、Fさんによる玄人向けのボールさばきは、夜のスポーツニュースでは取りこぼされてしまった。

また、□□SCがどのように攻撃していたのかにも全然触れられていない。まるで一方的に○○FCが攻め込んでいるかのような印象を受ける。ニュースだけを見ていると、「○○FCが前半に2点も取っているから、きっと□□SCはやられ放題だったのでは?」と思いがちだが、往々にして2-1くらいのサッカーの試合では、けっこうどっちのチームも攻めたり守ったり忙しいものだ。サッカーって得点シーン以外でも惜しい部分やはっとするプレーがけっこうあるものなのである。

さらに言えば、前半に2点も取ることができた○○FCは、後半、1点も取れていない。ニュースだと全然触れられていなかったけれど、じつは敵側の□□SCの選手交代が効いていた。前半は、○○FCのボランチ・Fさんが思い通りにプレーしていて、右サイドも左サイドもすごく活性化していたので、□□SCの監督は後半に「Fさんを厳しくマークするD選手」を投入したのである。このD選手のプレッシャーが強く、Fさんは前半ほどうまくボールを回せなくなった。いらついたFさんは後半33分に、マークについたD選手を強く押してしまってファウルをとられ、フリーキックを与えてしまうのである。

こうして細かく解説すると、この試合は、良くも悪くもFさん劇場だったのだな、とわかる。

前半はFさんが縁の下の力持ちとなり、両サイドを活性化させて2点を奪った。ただし、Fさんはシュートしたわけではないし、シュート直前のセンタリングをしたわけでもないので、スポーツニュースでは写らない。

さらに、後半はFさんを自由にプレーさせないことで試合が膠着し、疲れのたまったFさんがファウルをして相手に1点を与えた。ただしこのファウルよりも、やはりニュースを見る視聴者が着目したいのは「誰がゴールを決めたか」なので、ファウルのシーンがFさんであったかどうかはあまりナレーションで語られない。


こういうことはしょっちゅうあるのだ。いい、悪いと評価したいのではない。「勘所をある程度長い文章で伝えたとしても、本当にその全貌を眺めていた人が見る風景に比べれば、伝わる情報はごく微々たるものだ」ということを言いたい。




で、本題に入るけれども(ずいぶん長い前置きだった)。



病理医の仕事は、プレパラートを見て病理診断を書くことだ。

このとき、「見て考えたこと」と、「実際に文章にして人に伝えたこと」の間には差がある。

どれだけ病理診断を細かく書いて、臨床医がその文章を念入りに読んでも、伝わらないニュアンスというものは確かにある。

そういうとき、臨床医はどうするか?


実際に試合を生で見ていたサポーター、じゃなかった病理医に、「ダイジェストはよくわかったのですが、実際、ふんいき、どうですか?」とたずねるのだ。


ここで病理医は、たとえば「がんと人体とのせめぎ合い」であるとか、「病気とは関係ない部分だけど、治療をした外科医などがここで少し苦労したろうなーという部分」などを、事細かに、まるで実況中継するかのように、答えられると……カッコイイ。



たとえ話のほうが長いというのもどうなのかという気はするけどまあよいでしょう。

2022年3月14日月曜日

雑用論

現実が錯綜し、仕事は雑用ばかりだ。しみじみと、ああ、自分は成長したんだなと感じる。

ぼくは今管理職である。医師としてのキャリアはそろそろ20年目。専門技能を磨いてきて、職能は年相応に高い。自分の責任で仕事ができ、案件を解決するスピードも経歴相応に速い。

だから今のぼくは雑用を一手に引き受ける。

偉くなればなるほど仕事が早く正確にこなせる。そうすれば、空いた時間で雑用をこなせる。

雑用をするなら偉くなってからだ。

若い頃は、そうはいかない。

病理医は、「医者修業」の初期において、きちんと病理診断を書くために、目の前の標本に集中し、資料を次から次へと調べていかなければいけない。ひとつの案件を解決するために注ぎ込む時間も体力も膨大である。顕微鏡や教科書、論文に何時間も、あるいは何日も集中する必要がある。

一方で今のぼくは、1時間何かに集中するということはまずない。ほとんどの病理診断に1時間かけることがない。というか、1時間以上考えなければいけないならば、そのときはいったん小括(しょうかつ)をして、他人の助力を仰ぐべきである。ひとりで長時間抱え込んで悩んでいるよりもそのほうが解決の速度が早く、結果的に患者の利益につながる。

正確さとスピードを両方手に入れると、診断と診断の間に「切れ目」が細かく生じるようになる。5分とか10分ごとに、前の診断を一端忘れて、次の診断に雪崩れ込んでいくスタイルだ。細切れの短く深い集中をパルスのようにくり返す。すると、パルスとパルスの間に、雑用をするすきまが生まれる。

そこだ、そこで雑用をするのだ。

雑用をするなら仕事ができるようになってからがいい。



雑用によって、若い研修者たちの集中を途切れさせてしまうことはもったいない。

若者に雑用をさせてはならない。

雑用とはまさに雑多な用事だから、ひとつひとつの案件同士にあまり関連がなく、ある雑用を片付けてもそれが次の雑用に役立つスキルとして備わるとは限らない。つまりは成長効率が悪い。

逆に言えば、一件雑用っぽく見える仕事であっても、「これは若手にとっては成長のチャンスだな」と思えるものなら、それを上司が奪ってしまってはいけないとも思う。

ただしそのときは、若手に与える仕事には「雑用」などと言う名前はふさわしくない。成長するためという立派な目的を帯びているのだから、きちんとタスクとして、誠意をもって発注すべきだ。「ちょっとやっといて?」などという投げ方をしてはだめである。



「主治医に送る手紙を書いてくれますか? 診断は用意してありますが、この場合、きちんと手紙を添えるところまでが病理診断だと思っています。私が書いてもいいのですが、せっかくなので、先生ならこの症例を申し送る場合にどのような言葉を用いるか、考えてみてください」


「外注の処理をしてください。検体の量があまり多くなく、医師が確認して適切な部位を選ぶ必要があります。参考資料は以前に読んでいると思いますが、わからなかったら呼びに来てください。」


「資料の印刷? そんなことを先生がする必要はないです。ぼくがやります。」


「コンサルテーション先の先生に対するメールの文面は先生が考えてみてください。ぼくと連名で出しましょう。」



いわゆる雑用うち、成長に繋がりそうなものは若手に送る。たとえばそれが「脳より手を動かさないと進まないタイプの仕事」だとしたら、ぼくは若手にはやらせない。それはぼくが病理医だからである。ほかの医療者は、「脳より手を動かすことが必要な局面」はあるのだけれど、病理医の仕事にかんしてだけ言えば、それはほとんどない。脳を鍛えない仕事を若手にやらせてはいけない。医師免許を取ってまで、病理医になるということ、それは、脳だけで働く決意を決めるということなのだから、その意気を汲み、その努力にこたえなければ意味が無い。

2022年3月11日金曜日

病理の話(635) 病理の5W1H

「この臓器、お腹の中ではどっちに向いていたのかなあ……」


みたいなことが、たまにある。


病理医は全身あらゆる臓器に詳しい。胃とか肝臓とか肺などが手術で採られてきて、目の前にジャンと置かれたら、それがお腹の中でどういうふうに収まっていたのかは当然わかる。しかし……。


胃がんを「胃カメラで、粘膜の部分だけ切り取ってくる」という治療法がある。内視鏡的粘膜下層剥離術(ESD, endoscopic submucosal dissection)という。ESDはお腹に傷をつけずに、胃カメラの先端から特殊な電気メスを出すことで、がんの部分だけをくりぬいてくる手技だ。すごく便利である。

しかしこの、「がんと、その周りだけをくりぬいてくる」をやられると、さすがの病理医であっても、「もともとこの粘膜が胃の中でどのような場所にあったのか」はわからない。


これは、「日本の都道府県が切り取られたジグソーパズル」に例えるとわかりやすいかもしれない。群馬とか石川とか、高知とか宮崎などのピースが置いてあると、我々はそれが日本のどこにあって、どっちが北を向いているかがわかる。しかし、「公園の中にチンピラが集まって集会をしているところです」という一場面だけをホイと渡されたところで、それがいったいどこの風景なのかはわからない。たとえ、「住所」が書き添えてあったとしても、「チンピラの親玉が公園の北側に立っていたかどうか」まではわかるまい。


病理診断のだいじな仕事のひとつに、「病気が、体の中でどのような場所に、どれくらいのボリュームで存在したかを事細かにマッピングする」というのがある。今は、札幌市内に存在する町中華すべてをグーグルマップ上でチェックできる便利な世の中であるが、それと同じように(?)、臓器のどこにどれくらい病気があるのかをマッピング(=地図に印を付ける)することで、より効率的に病気に対処することができる。


病理診断というのは、Whatだけに答える仕事ではない。「それががんか、がんじゃないか」を決めることを俗に質的診断というのだけれど、「質」以外にも、どこにどれくらい存在するか(where)や、周りの臓器にどのように影響しているか(how)を解析する必要がある。

これは、現代の医療が、「がんなら薬Aを使いましょう、がんじゃないなら薬Aは使いません」では終わらず、「がんがどれくらい広がっているかによって、薬A、薬B、薬Cを使い分け、場合によっては手術が一番いいですし、はたまた放射線治療のほうが効く場合もあります」みたいに、めちゃくちゃ細かくパターン分けされているからだ。

そして、究極的なことを言うと、病理診断では、このがんはいつからここにあったのか(when)を検討することもできるし、そもそもなぜこのようながんが発生したのか(why)にすら言及することができる。


5W1Hのほとんどを担うのが病理診断だ。唯一使っていないものは……「どれにする?(which)」だけである。でも、病理診断を受け取った主治医は、その結果をみながら、どの治療がふさわしいかと考えることになるので、ま、結局、5W1Hすべてにかかわることになるのだね。

2022年3月10日木曜日

忙しすぎる人たち

人間の精神と肉体というのはほんとうに、かなり密接に関係していて、いや、これ、ほんと、マジでそうなんですよ。


「ストレスでカラダ壊した」みたいなセリフがカジュアルすぎるんですよね。そもそも。しょっちゅう聞くでしょうこのフレーズ。でも、実際にマジで壊れるからね。


たとえば円形脱毛症なんてまさにそうでしょう。ストレスがきついときに毛根が活動を止めるわけですよ(たぶん)。すごいよね。そこに来るのかよって。


あと腰。あれは単に座りすぎというか、長時間の凝り固まった姿勢の問題では? と思う人もいるかもしれないけど、いや、違うと思うんだよね。メンタルが疲弊しているときって、体のあちこちの痛みを感じやすくなるのは事実です。ぎっくり腰なんかもそうだし、ヘルニアとかもそうなんだけど、椎間板が多少ずれただけ(?)でも、メンタルが落ちてるとめちゃくちゃにしびれるからね。やはりメンタルというのは体のあちこちを「補正」しているんだなと思う。


なおぼくの場合はほんとうにきついときには腰や首、そして腸に来る。でも最近は大丈夫です。おかげさまで。





ぼくより10個くらい上の人(50代なかばくらい)の中で、それは死んじゃうでしょうという顔、それは死んじゃうでしょうというメールを送ってくる人がたまにいる。ぼくの仕事相手の場合、そういう臨死体験的なメールは、9割くらいの確率で大学に勤めている人からおくられてくる。大学以外の職場に勤めている人の仕事がラクだという意味ではないのだけれど、どうもメールを読み込んでみると、


本職

+人の世話

+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用+雑用

みたいな感じで、比率としては完全に雑用のせいで精神を削られている。「鬼滅の刃・無限雑用編」、マジで大学に特有だ。ぼくも決してヒマではないけれど、大学のマジもんの多忙人から見たらハナクソみたいな量の仕事しかしていない……いや、より正確に言えば、「ぼくは大学の人ほど雑用をしないで済んでいる」のである。差は雑用の部分にあるのだ。同じ量の実績を上げている大学の人と市中病院の人とを比べると、大学の人のほうがHP表示が黄色に変わっている率が高い。



なぜ大学のスタッフたちにばかり、雑用が今年の札幌の雪のように激しく降り積もるのか?

それは、ぼくが仕事をしたいなと思うような「優れた大学のスタッフ」が、揃いも揃って、


・有能

・いつもいる

・いい人


だからだな、と考えている。要は三拍子揃っているのだ。有能な人と仕事をしたいのは人の常である。ただし、有能な人になかなか声をかけられない、なぜなら忙しくてあちこち飛び回っているからだ。そういう人とはそもそも仕事がしづらいはずである。しかし、中には、有能なのに「いつ見てもいる、いつ連絡しても返事が来る」というタイプの人がいる。そういう人はとにかく重宝される。おまけに性格がいい人だと、何を頼んでも「オッケーやってやらぁ」と二つ返事だ。こういう人だからこそ、雑用が無数に降りかかってきて大変なことになるのである。有能で、いつもいる、いい人。


ここで、冒頭の話につながるのだけれど、ぼくが一緒に仕事をしたいなあと思う大学スタッフ(教授、准教授、講師、助教)は、手で摘まむと髪の毛が抜けてしまう状態になっているか、腰がひどくてデスクで動けなくなっているか、ガリガリに痩せているかのいずれかだ。かわいそうすぎて、あまり一緒に仕事をしようと言い出せない。でも、優秀なので、いい仕事をしたいなあと思ったらつい以下のようなメールを送ってしまう。


「ご多忙のところ大変おそれいりますが……」


決まり文句の社交辞令? いや、彼女らは本当に忙しいので、本心からこう付けている。でも、忙しい人に長いメールを読んでもらうのもしのびない。結局は時候の挨拶もそこそこに、型どおりの恐縮だけを示してから要件だけを短く送る。するとたいてい、数時間以内に返事が来る。とんでもないことだ! 仕事相手の多くは臨床医であり、患者の前にいる時間だって超長いはずなのに、いつデスクでメールしているんだろう。答えはiPhoneなどでその場で返事をしているのだよね、なぜなら、数時間以上PCから離れると大量のメールに押しつぶされてしまうから、どこにいてもメールを返事できるようにしている。いい人である。メールなんて無視していいのにな(したことないけど)。




今、無意識に、「彼女らは」という代名詞を使っていた。そこではたと気づいたのだが、最近ぼくが仕事をしたいと感じる大学スタッフの過半数は女性であった。なぜだろう?

ぼくが観測する限りでは、大学スタッフの「有能さ」は男女ともさほど変わらない。「いい人」かどうかも、「いつもいるかどうか」も特に差はない。なのに、ぱっと思い浮かぶ仕事相手に女性が多かった。その理由はなんだ?


答えは簡単だ。


「偶然」である。


歴代の仕事相手を思い出してみると、「彼らは」と言いたい年も、「彼女らは」と言いたい年もある。今年はたまたま女性比率が高くなっているにすぎない。

あらためて、仕事をする相手の性別は何の判断基準にもなっていないなと感じた。彼ら・彼女らのような言葉を使わざるを得ない日本語の構造にだけ問題があったのだ。今後は、「やつらは」と呼ぶことで、theyの代わりにしてみよう。忙しいthemにこれからも仕事を頼みたい、その仕事が、なるべくならばやつらにとっての「雑用」以上であることを望む。円形脱毛症も腰も下痢も大変だからね。みんな健康になろう。

2022年3月9日水曜日

病理の話(634) 手術の前の判断と手術の真っ最中の判断

外科医などが手術をするにあたっては、(あまり知られていないが)事前にとても綿密に患者の体内のことを調査する。CT, MRI, 超音波, 内視鏡などの画像診断で、病気がどのあたりにどういう形で存在するかをしらべ、さらには「手術で切って良い場所と、切ってはいけない場所」をもめちゃくちゃ見る。さらっと見るのではない。めちゃくちゃ見る。

そうやって、病気や臓器の場所を覚えるだけではなく、「どこをどのように血管が通過しているか」を頭の中に叩き込む。安全な手術をするためには極めて重要なことだ。

人間は誰しも、だいたい似たような形で血管が走行している。経験を積んだ外科医ならば、どこにどういう血管が走行しているかをかなり覚えている。しかし、血管走行にはときおり「バリエーション」があるので、毎回同じ暗記だけで乗り切れるほど甘くはない。いつもと同じように肝臓を切り進めていったら、普通の人ならこんなところには走行していないはずの、切ってはいけない大きな血管を切ってしまった、なんてことが万が一にも起こっては困る。

だから、手術の前には、とにかく本気で患者の体内の構造をがっちり見て、その人固有のカラダの構造を覚える必要がある。手術前に入院した患者は、しばしば、「CT撮ったなら早く手術してくれよ!」と感じることだろうが、そういうわけにはいかないのである。事前の準備なくして安全な手術はあり得ない。ベッドサイドに主治医がなかなかやってこないからと言ってあまり怒らないであげてほしい。外科医は手術をしているとき以外にも、患者の体内のことをめちゃくちゃ調べていたり、手術が終わったあとの患者の治療計画を立てていたりで忙しいのである。


さて、周到な準備をして手術に望んだ外科医は、予定通りに手術を進める。しかし、手術の中盤あたりで、「事前にはどうやっても確認しきれない、重大な情報」が必要になることがある。


それは、「病気が細胞1個のレベルでばらばらと散らばっていないかどうか」だ。


ある場所に病気があるとして、それを「取り切る」ことが手術の大テーマである。テーブルの上にこぼしたミルクをすべて拭き取るように、手術では病巣を完全切除(完全に取り切る)ことが前提なのだ。しかし、こぼしたミルクはしばしば飛び散って、テーブルのはしのほうにもぴとっと残っていたりするだろう。このような「取り残し」があると、病気が再発するリスクは高くなる。

ミルクの水滴のように「ちりぢり・ばらばら」に病気が広がっている場合は、事前に外科医がいくら熱心にCTを見ても、その範囲を追い切れない。画像には解像度という限界があるためだ。したがって、どれだけ周到に準備をしたとしても、「この手術で病気を取り切れたのかなあ……」という疑問は残ってしまう。

このとき、「念のため」ということで、臓器を大きめに切り取ってくれば、病気を取り残すリスクは減る。でも、そうすると今度は、「採らなくてもいい臓器まで採ってきてしまった」というデメリットが生じる。なんともない臓器は残しておきたい(もしくは、残しておかないと生きるのが大変になったりする)。



そこで病理医が手を貸すことになる。手術の中盤、標的となる臓器を取り終わった外科医は、切った場所を縫って閉じる「前に」、切り取った臓器の切り口の部分(断端、という)を、病理検査室に提出する。

そして、待つ。

患者のお腹の傷はこのとき、開いたままである。

病理検査室では、いそいで切り口部分のプレパラートを作成する。日ごろは1日かけるプレパラート作成を、なんと10分ちょっとで終わらせる。その分、じつはプレパラートのクオリティが低いのだが、患者のお腹が開いた状態で1日待つわけにはいかないので仕方がない。

そして、病理医はただちに、それまでやっていた仕事をいったん止めて、たった今患者から取られてきたばかりの「断端」を顕微鏡で観察する。

切り口の部分に病気があれば、それは、事前の見立て以上に病気が細かく周囲に広がっていて、「切り取った範囲を超えて病気が広がっていた」ことを意味する。

病理医はただちに手術室に電話をかけて、「断端に病気がありました。」と伝える。

すると、外科医は、ちきしょーもっと広がってるのか、と少し悔しがりながら、臓器をさらに追加で切り取るのだ。

逆に、切り口の部分に病気がなければ、「断端に病気はありません。」と伝える。すると外科医や麻酔科医、手術室看護師は喜んで(実際に拍手されたことがある)、手術を予定通り先に進めて終了させる。



手術中に、患者のお腹が開いたままの状態で行う病理診断を、「術中迅速診断」という。手術の最中に急いで標本をつくるから、迅速診断だ。しかし、実際には、ここに病気があるかないかという判断で手術の方針が大きく変わってしまうわけで、しかも、あとでもう一度見直すという「念のためのチェック」が一切できない一発勝負なので、病理医的には「いつもの診断よりもむしろゆっくりと時間をかけて、確実性をより高める努力をする」。マニアックな仕事です。

2022年3月8日火曜日

ビットも便利だ

「この量のルーティンをこなせるようになるのに何年かかるんですか……?」


若い病理医のタマゴが小刻みに震えながら問いかけたのでぼくは、


「ルーティンこなす、という言葉の中にティンコが入ってるね」


と答えようとして、やめた。今年44歳になるしさすがにしんどい。より具体的に言うと、自分が一人で言う(あるいはツイートする)分にはしんどくないけれども(それもどうかと思うけれども)、社会的にしんどい。これは気のせいかもしれない。あるいは気にしすぎなのかもしれない。いや、むしろ、これまで気にしなさすぎたのか。


話は変わるが、日本語が第二外国語の人は、

・気がする

・気のせい

・気にしすぎ

の文字列をぜんぶ違う意味で的確に理解できているだろうか。冒頭の「気」が共通してこそいるけれど、実際に含まれるニュアンスは微妙に別方向である。気という共通項がある単語たち、とは普段考えていない。「キガスル」「キノセイ」「キニシスギ」でひとかたまりであろう。言葉というのは難しい、切り分けるのもまとめるのも、意識ではなく無意識の部分が自然とやっている。


ああ、だから、言葉をときどき入れ替えて、ダジャレみたいにして遊ぶんだな。固着したイメージ同士での会話、定着した脊髄反射を軽くうらぎるための文字遊びなのだろう。そういうことがいっぺんに腑に落ちた。



「この量のルーティン」と呼ばれた仕事たちも、ぼくから見るとある種のカタマリを形成している。もちろん一つ一つには生きて思い通りにうごめく患者が対応しているわけで、そこには無限かける人数分の人生があるわけだけれども、こと、病理診断という仕事で取り分けられたときには、ぼくという一人の診断者の前で、プレパラートたちは「つかず離れずの水分子のようなカタマリ」になって見える。この感覚を若者に伝達するにはまだ言葉が足りず、言葉遊びも足りないのだが、仕事をたくさんしようと思ったら、多くの人生になにかしらの貢献をしようと思ったら、ぼくらは目の前にあるものごとたちを、ときにくっつけ、ときに分離して、自在に、あたかもR-typeのフォースを発射したりまた戻したりするようなイメージで、その都度カタマリにして把握していくというのは一つの手なのではないかと、わりとマジで考えている。

2022年3月7日月曜日

病理の話(633) 抽象的な部分で診断をしているようだ

今日の話は具体的ではないのでフワッフワしています。そのつもりでどうぞ。



モンゴルの病理医が、「難しい症例があるのでプレパラートの写真をおくります」とメールをしてきた。PDFが添付されていて、プレパラートの数カ所を撮影した写真が載っていた。

PDFはぜんぶで7ページくらいしかない。含まれている写真は少数だ。モンゴルの病理医は「この診断はAだと思うのだが、Bの関与がどれくらいあると思いますか?」という、非常にマニアックな質問を書き込んでいた。


ぼくは少数の写真を拡大して眺めながら、「Bの関与はないと思います」というメールを書いた。メールを返信する直前になって、PDFのほかにも「バーチャルスライド」へのリンクが埋め込まれていることにふと気づいた。


バーチャルスライドは、プレパラートをすべてデジタル画像に変換したものだ。顕微鏡にセットしなくても、パソコン上で、拡大縮小自由自在である。海外へのコンサルテーションにこれほど便利なシステムはない(ただしファイルサイズが大きいのが難点だが)。


PDFに「より抜いた写真」が添付してあったけれど、バーチャルスライドがあるならそれを見たほうが、写真に撮られていない部分もすべて見て考えることができる。

ま、いちおう見ておこう、「勘所」はきちんと写真に撮ってくれていたけれど、やはり全体像を見ておいたほうがいいだろう。そう思って、バーチャルスライド閲覧様のアプリを開き、送られてきたファイルを展開した。



検体の全体像を見る。少し拡大して、スクロールしながらつぶさに観察していく。すると、先ほどたしかにPDFで見たはずの風景が、少し変わって見える。もう少し「ニュアンス」が多いのだ。

うっ、となった。これは診断が変わるかもしれない、と気が引き締まる。

あらためて、さっきのPDFの写真を見返してみる。たしかにこの「スナップ写真」にも、同じ情報は写ってはいる。しかし、より広い視点で周囲を眺めたあとに一部を拡大して見るのと、周囲の情報が一切ない状態で「勘所」の部分だけを見るのとでは、目に同じものが映っていても、脳がピックアップする情報の量が異なるのである。

くそっ、そういうことはあるよなあ……と思う。


ほとんど書き終えていたメールを消去して新たに書き直す。

「あなたのAという診断は問題ないと思います。そして、Bの関与はあまり考えなくていいでしょう。ただし、あなたが気になった部分はよくわかりました。Cという病態が関与しているかもしれません。あなたが写真に撮った部分の違和感は、ほかの部分と合わせて考えると、きっとC、もしくはDのような病態で説明しなければいけないものです。」


メールを出し終えて、背中の冷えに気づく。変な汗をかいていた。


PDFの少ない写真だけだと、AとBについては検討できたが、先方が考慮していなかったCやDについての検討は不可能だった。バーチャルスライドで全体を見ることで、ぼくは突然、CやDの可能性に思いが至った。送ってきたメールをきちんと見直していなかったら、あぶないところだった。

数カ所の写真と全体像とで診断が変わるのは当たり前だろう、と言いたい人はいっぱいいると思う。たとえば、「CやDのことを考えていない人が写真を撮って質問をしてきたら、回答者がCやDについて思いを巡らせるのはむずかしいだろう」という意見は、当を得ている。

しかし、たぶん、写真撮影のうまさの問題ではないのだ。ぼくら病理医は、病理診断の際に、「どこかを拡大した止め絵」で診断をしているのではなくて、顕微鏡で標本を端から端までスキャンする、その動的な過程全体で診断をしているのだと思う。モンゴルの病理医が撮影した写真はたしかに「勘所」だった。でも、その、ある種「決め台詞」的な部分にたどり着くためには、ニュアンスが必要なのだ。この写真を勘所だと思ってただしく全体像を評価するためには、ぼくら病理医の目がそこにたどり着くまでの過程で拾い挙げている、「道中のニュアンス」がないとハマらないのである。ドラマの決め台詞だけを総集編的に放映されても感動はできないのと似ているかもしれない。




たまーにツイッターで、患者の病理写真を勝手にアップロードして世界の病理医に診てもらおうとしている若い病理医がいる。ああいうのは個人情報の漏洩にあたるのでやってはいけないのだが、そう指摘すると、「組織像の拡大をのせて個人を特定するのは無理だろう」という反論がくる。

しかし、ぼくは前から、それ以前に、「ツイッターに載せられる程度の写真で診断をすること自体が間違いを生みやすいのでやめたほうがいい」となんとなく思っていた。でも言語化に成功したのは今日のことだ。モンゴルからのメールでPDFとバーチャルスライドを別々に見て、あっ、これ、部分だけ見てもだめなんだな、ということがはっきりわかった。


病理診断というのは「勘所の画像当てクイズ」ではないようなのである。患者から採取されてきた検体のすべてを、意味があるかないかわからないところまでじっくり見て、その上ではじめて浮かび上がってくる「疾病のオーラ」みたいなものを、少なくともぼくはかなり参照しているようなのだ。病理診断はつねに「診断名」という白黒はっきりした結果をアウトプットする仕事なのだが、そこにたどり着く前の、ふわっとした抽象的な部分をバカにできないのだな、ということをあらためて思った。病理診断、奥が深いな。

2022年3月4日金曜日

這進

毎月購読している『本の雑誌』は書評がいっぱい載っていて、本にかんするコラムも山ほど読めるいい雑誌だ。鏡明、青山南、円城塔あたりの連載は胸を張っておすすめできるし、毎月の特集がいちいちおもしろい。かれこれもう何年も読み続けている。何年もというのが具体的に何年なのかはわからなくなってしまった。ただ、ハヤカワ文庫版の『ペルディード・ストリート・ステーション』を読んだきっかけが本の雑誌だったはずで、ペルディードは2012年の発行とあるから、少なくとも10年前には本の雑誌を購読していた、あるいは不定期にでも買い求めていたのだろう。

本の雑誌は読み応えがあり永久保存版として取っておいてもぜんぜんおかしくないすばらしい雑誌だ。しかしなぜかぼくは昔から「雑誌は読んだら捨てる」というムーブを崩しておらず本の雑誌も例外ではない。ジャンプやナンバーを読み終わるたびに捨ててきたのと同様、本の雑誌のバックナンバーもすべて捨ててしまって手元には一冊も残っていない。それも、しばらくとっておいて捨てるのではなく、出張先の空港とかホテルに持っていってそこで読み終えて捨てるのだ。旅行先でどんどんモノを捨てていく、というのも確か椎名誠の受け売りだった気がする(彼の場合は古い下着だったような気もするが)。履きつぶした靴下を旅先で捨てるように本の雑誌も各地のゴミ箱に入れてきた。今となっては少しもったいなかったなと思わなくもない。

そんな本の雑誌を今月も読んでいたら、西村賢太の文章が普通に載っていて、遠い目になってしまった。西村賢太が亡くなったのはついこの間、2月5日である。本の雑誌には彼の日記がずっと連載されており、今月号の日記は12月14日から1月7日までだ。死の直前の彼は不規則な時間に起き、熱心に藤澤清造の古書を購め、夜食の最後には納豆を2パック、ふらりと新宿三丁目で飲んだり電車の旅に出たりしていていた。その姿はいつもと何も変わらなかった。ただ、今月号の日記でひとつだけ、本当にひとつだけ、『雨滴は続く』の執筆にかんすることだけが出てこなかったことはいつもと異なるなあと感じた。たしか前回の日記では『雨滴は続く』の最終回がまだ書き終わっていなかったはずである。そこから1か月、さらに書けなかったのだろうか。そのことがずっと気になっている。

ぼくは彼の作品のファンとは言えない、なぜなら全然読んでいないからだ。それでも「一私小説書きの日乗」シリーズはなぜかすごく気に入っており、いつか西村賢太の本はまとめて読もうと心に決めていた。ただし、もう何年も前だけれど、次は西村賢太の本を読もうかなと思っていたタイミングでツイッターのとある老書評家が西村賢太のことを「賢太は」「賢太が」と呼び捨てにするのを見て、なぜか鼻白んでしまい、読もうと思っていた気持ちがすっと萎えてしまった。機会を逸したのだ。そうこうしている間に、彼は生活習慣が心臓に直撃して夭逝してしまった。享年54歳。後悔しても遅いのだが、彼が生きているうちにいろいろ読んでじっと考えることができるものだと思っていた。もうそれはかなわない。

ぼくから西村賢太の読書の機会を奪ったあの書評家のことを、ぼくは今も許していない。逆恨みだと言われてもかまわない。無論、その書評家を直接害してやりたいなんてことは思わなくて、ただ心根の部分で「あいつは許さない」とノートの端にメモ書きしておこうと決めた。理性の部分は「知らない人たちの知らない関係性が、少し言葉使いのヘタな人によってツイッターに露悪的に噴出しただけではないか、ほうっておけ」ときちんと納まっているが、仮にも書評家を名乗る人間が、ある本を未読の「読者候補」に対して、「なんかこの作家は今はやめとこう」と思わせるような言動をとったことをぼくはどうしても許せない。そして、瞬間的に視線を胸の裏側に内反させて思う。ぼくも誰かの読書の機会を奪っているのかもしれないと。それはとても、罪深いことだろうな、と。呆然としながら思うのだ。ぼくもまた、誰かの心のノートに、「許さない」と殴り書きされているのだろうと。結句、這って進むしかない。這って進むしかないのだ。

2022年3月3日木曜日

病理の話(632) 医学生は今どういう順番で勉強をしているのか

ぼくは今年44歳になるおじさんである。2003年に医学部を卒業したので、なんと、この4月で卒後19年目に突入する。

まあそれはいいんだけど、ブログ書こう~と思ってブラウザを立ち上げている1秒にふと思った。これだけ時間が流れると、医学部のカリキュラムなんてずいぶん変わっちゃってるんじゃないかな、ってこと。

「ぼくは昔この順番で習いました」は今でも空で言える。6年間の医学部の授業では……


①1年前期~2年前期の1.5年間:「教養」

(医学と関係ないことを学ぶ。自動車免許を取り、バイトに慣れる。必修科目が意外と多いので気を付ける。)

②2年後期~3年前期の1年間:「基礎医学」

(解剖学、組織学、生化学、生理学、医療統計学など。人体の正常を学ぶ。解剖実習がある。)

③3年後期~4年前期の1年間:「応用基礎医学」

(病理学、薬理学、微生物学、統合腫瘍学、免疫学など。やや病気寄りの知識が増える。科学と病院医療の「架け橋」みたいな時期。)

④4年後期~5年前期の1年間:「臨床医学」

(呼吸器内科、循環器内科、血液内科、消化器内科、一般外科、整形外科、皮膚科、耳鼻咽喉科、産婦人科、小児科、精神科など。病院内の各科の勉強をする。)

⑤5年後期~6年前期の1年間:「病棟実習」

(基本的に大学病院の中で2週間くらいずつ全ての科を回る。ときどき地域実習と言って、地方の病院に行ったりもする。)

⑥6年後期の半年間:「卒業試験と国家試験の勉強」

(約半年間かけて卒業試験を受ける。たしか30科目くらいある。落ちると卒業させてもらえないことが普通。卒業試験を受けつつ国家試験の勉強もする。)


だいたいこんな感じだった。でも、現代の医学だと、これでは足りないはずなんだよね。



こないだ聞いて驚いたことだが、今の高校生物の教科書には「免疫」の項目があって、そこで覚えるべき項目の中に好中球、Bリンパ球、Tリンパ球、NK細胞、マクロファージ、樹状細胞などが出てくるという。えっそこまで細かくやるの!? ぼくらが大学で習ったことじゃん! と思った。ぼくのときはたしか白血球・赤血球・血小板の3分類で終わりだったはずなのに。

マンガ『はたらく細胞』のおかげでこれらの分類を苦もなく覚えられるようになったからじゃ……という邪推もあるのだが、ありとあらゆる勉強科目が細かく複雑になっているようにも思う。




というわけで、ネット経由で、今の医学部のカリキュラムをいろいろ調べてみた。昔と比べて変わった点だけをざっとあげてみる。太字が変更点、その下に書いてあるのがぼくの感想である。


・1年半あった教養が1年に短縮。しかも1年後期からけっこう専門的な講義がはじまる

 車の免許とるヒマないな バイトしてるヒマないな

・基礎医学の生理系・病理系が1年の後期から2年生いっぱいまでに終わる

 これ昔は4年の前期までかけてたヤツだよ! どこを短縮したらそうなるんだよ! 解剖はやらなきゃいけないはずだし……生化学や生理学を高校でやってる分を短縮してんのか? えっ病理は2年目でもうやってるってこと? マジ?

・3年生から4年の前期までの1年半(+一部は2年の後期も使って2年間)、臨床医学をどっぷりやる

 まあそういうことなんですよね。そんなに急いで基礎医学終わらせてどうするの、と思ったら、臨床医学が膨大になったからここが増えている。現場の医者であることをやるためのより実践的な医学知識を、過去の倍くらいの時間かけてやらなきゃいけない。あと、大学によるけれど、この時期に統計学をわりと真剣にやるみたい。必要だからなあ。

 あ、それと、臨床医学を学び終えるのも昔より1年弱早いです。ということは……?

・4年の前期の終わりから、CBTやOSCEと呼ばれる「ベッドサイドで働くための手技のテスト」が行われ、これに合格するとStudent doctor(学生だけど病院にいていいという資格!?)が得られる

 実技ですね。病棟を回る前にしっかり実技をやる。

・4年後期の途中から6年前期まで、1年半ちょっと病院実習

 ここが長くなってます。これだね。だから基礎をあっという間に終わらせるんだ。ほんとうに「病院で医者をやるために必要な実習」を伸ばしているんだなあ。基礎を勉強する「学者の時間」が昔よりずっと短い。

・自主性を重んじるって明記してある

 これはぶっちゃけ「自習もしないと国家試験なんてぜんぜん受からんし、なんなら実習前のOSCEで落ちるよ」ってことです。まあ医学部生が勉強会とかやりまくってるのは昔もそうだったけど、今は質量というか圧が違う感じだなあ。



以上はぼくが卒業した北海道大学のカリキュラムを見て感じたことなので、大学が違えばやることも違うとは思います。でもひとつ言えることがある。どう考えても今の若者のほうが優秀だ。私たちの時代とは比べものにならない。

となると、今のぼくたちは、学生時代以上に(もしくは今の学生以上に)勉強しないと、いざというときに彼らの防波堤になれない。うわー大変だ。がんばろう。

2022年3月2日水曜日

わがままな客

小説やマンガなどの新刊はAmazonの順位が高い方がいい。書店もランキングを参考にして本を売ることができる。したがって、Amazonで書影を宣伝するのはみんなにとってwin-winだ……みたいな話を最初に耳にしたとき、「虫が良すぎる」と思った。

それはどこで売っても利益が得られる作家や出版社側の論理である。売る側(書店)にとってみれば、誰かがAmazonでポチっとするたびに、客が書店を訪れる機会がひとつ失われていると考えたくなるだろう。

「もともと書店に行けない人たち」にとっては本を買う手段がAmazonしかないってこともあるじゃん……というのも言い訳である。それは社会インフラの話であって、書店にとっての「これまで来てくれた客がこなくなった」の悲しさに変わりはない。

本の紹介記事にAmazonのリンクが貼っていれば、自然とAmazonで買うようになる。「1冊だけ探したい本があるなあ」と思って書店に歩いて行く人は、その1冊をAmazonで買ってしまえば、しばらくの間は本屋に行かなくて済むだろう。

売上げというのは往々にして、「ある1冊だけを買うために、家から所定の棚まで直線的にダッシュしてくるような人びと」によって支えられているものだと思う。アメトーーク読書芸人を見て買いに来ました、みたいな人たちを抜きにして、ベストセラーは語れまい。


一方で、書店員さんの中には、「Amazonで人気!のポップを描いて今までに何冊も本を売りましたよ」とにこやかに語る人もいる。

ある本屋は次のように言った。

「毎日ほんとうにたくさんの本が出ますからね、読む人たちはもちろん、売る側だってそんなの選びきれないわけですよ。だったら、Amazonのランキングを参考に、『この棚を見ておけば、いい感じに偏った本が手に入りますよ(笑)』という感じで、セレクトショップを目指してやっていくという方法です。この場合、Amazonは敵じゃなくて、本棚作りのための資料を作ってくれるボランティアさんみたいなもんですよ」

また、読者の側にも、たとえば持病などの理由で外出するのがいやになり、本屋にも図書館にも行かなくなったけれど、Amazonのおかげで出版文化を支え続けることができる、と喜んでいる人は多い。「またよくなったら本屋に行くんだ、それまではAmazonでがまんだ」という人の声を聞くと、ああ、いろいろあってよかったなあ、多様って人を救うなあ、と感じる。




視点を変えればストーリーが語る。良し悪しは多面的だ。「真実はいつもひとつ! でも角度によって見え方が変わります」というやつである。Amazonと書店の関係なんて話、ほんとうは、統計を引っ張ってきて「本屋の売上げが上がった、下がった」を調べれば、Amazonが良かったか悪かったかわかりそうなものだ……と思うが、実際にはもっとはるかに複雑で、真実はひとつかもしれないが解釈はひとつではない。ストーリーは語り手の好みによって好きなように後付けできる。




ある頃からぼくは、Amazonが書店にとっていい/悪いという話や、作家や版元にとっていい/悪いという話をするのをやめた。どう語ってもそれは「ぼくのためのストーリー」にすぎない。外向けに吹聴して回る話ではない。ぼくはぼくの視座から書店を応援するが、考え方は人それぞれである。ぼくはe-honやhontoを使うことで、ネット経由であってもリアル書店にお金を落とせることを便利だと思う。でも他人に強要するような話でもない。

そんなことを考えた末に、数年前くらいから、本を紹介する際にはなるべく「版元ドットコム」のリンクを貼ることにしている。


https://www.hanmoto.com/


版元ドットコムには、本一冊ごとに、さまざまなネット書店・リアル書店通販サイトへのリンクが貼られており、e-honもhontoも含まれているがAmazonだってちゃんとある。書籍ごとのちょっとしたポータルサイトになっているのだ。

あるいは、本を出してくれる出版社の書籍ページが、版元ドットコムのように「いろいろなネット書店・通販サイト」のリンクを貼ってくれている場合もある。自著の新刊の場合は、本を出してくれた版元に敬意を表して、版元ドットコムではなく版元そのもののサイトを貼ることも多い。


https://www.daiwashobo.co.jp/book/b595197.html



このやり方なら、イヤな思いをする人は(ぼくが考える範囲では)少なくなるんじゃないのかなあ、と考えている。幸い、各方面もそれをわかってくれているようである。

ツイッターを見ると、ぼくの本を買って感想を述べてくれる人たちは、「近場の書店で買いました」とツイートしてくださっていることが多い。かつて、自著のAmazonリンクを貼っていたときは、「即ポチです!」みたいなリプライをもらったこともあったが、そういうのは今はほぼなくなった。代わりに書店で買ってくださっているのなら、(ぼくのポジションからの身勝手な感想ではあるが)うれしい。

もっとも、Amazonでポチるのは、自分では未だによくやっている。応援している作家の本がいっぱい売れたらいいなと思うときに、あえてAmazonリンクを貼ることもある。このへんは理屈ではなくて、「わがまま」だ、それは自分でもわかっている。「わがまま」だからけしからん、と言われたら返答に困る。「わがまま」のうち、「それなりに無害」なものについては許容していただけないだろうか、という気持ち。


自著に関してAmazonリンクを貼らないことによる弊害は、今のところさほどない。本を出してくれた版元からすると、「もっとツイッターを使ってAmazonリンク貼ってがんがん宣伝してくれよ」と内心思っているのかもしれないが、実際にそのように言われたことは一度もない。ありがたいことだと思う。

あえて一つ言うならば、信頼できる本読みたちがAmazonでぼくの本を買わなくなったために、Amazonにレビューを付ける人の数が減った(Amazonリンクを貼っていたときと比べると歴然としている)。結果、アンチの低評価レビューだけが相対的に残ってしまって、評価が低評価寄りになるという現象は起こっている。ただし低評価レビューの文章から感じる「奇妙さ」を見ると、ぼくの愛する本読みたちであれば普通に「この人の言うことは何かおかしい、信用できない」と感じるはずで、実害はさほどないだろうと思っている。

2022年3月1日火曜日

病理の話(631) 考察のしかた

医師免許をとったあと、たいていの人は「初期研修医」と呼ばれるステータスで2年間過ごす。この研修期間では、将来何科の医師になりたいかにあまり関係なく、医師としての基本的な手技や病院のシステムなどを学ぶために、かなり複雑なカリキュラムをこなす必要がある。

「内科系」「外科系」「救急」「産婦人科」「地方医療」「精神科」などをローテーションして、電子カルテのオーダー方法や、病棟や外来のシステムを体に叩き込み、採血、血液ガス、縫合、各種の診察法などなど、無数の仕組みとともに手技を学んで行く。聴診器の当て方も、膝の腱をハンマーで叩く方法も、このときに本格的に学び始めるのだ。「医師としての最大公約数の技術を身につけましょう」という意義がある。短い2年間で、やることが多い。

実際に研修中の人たちに話を聞くと、2年間は「さまざまなものの表面をなぞっているような時間」で、自分が今医者なのかどうかもよくわからない、という感想がぽろぽろ出てくる。あれよあれよと言う間に時が過ぎていくのだろう。


で、この間に。


じつは「医学的に考察するための基礎」もやっている。でも、あまりみんなに認知されていないし、話題にも登らない。

その最たるものが、「病理解剖のカンファレンスに出席して、そのカンファレンス内容をレポートにしろ」というやつだ。たいてい、研修医の大事なモノリストの100番にも入っていないマイナーな課題である。そもそもレポート形式なのもよくない気がする。つい、居眠り学生感覚で取り組んでしまうのだろう。



いきなり出てきた「病理解剖」の流れを簡単に説明しておく。


1.患者がいて、その家族がいて、主治医がいて、医療スタッフがいる。

2.診療をする。紆余曲折がある。

3.最終的に患者が亡くなる。

4.死亡までの経過で、「いつもと違った経過を辿った」「普通ならば効くはずの治療が効かなかった」「珍しい病像が観測された」などの疑問が出てくる場合がある。

5.この場合、主治医と患者家族(あるいは亡くなる直前の患者自身)が相談をして、解剖をオーダーする。

6.病理医が出てきて、死後2時間~24時間くらいのあいだに病理解剖を行う。

(※刑事事件がらみとか、病院到着時にすでに亡くなっているなどのケースでは、病気の理由(病理)をあきらかにする病理解剖ではなく、司法解剖などのべつの制度を用いる)

7.病理解剖のあと、病理医は臓器の一部をプレパラートにして顕微鏡で診断をすすめ、解剖後だいたい3か月~半年くらいをめどに報告書を作成する

8.その報告書をもとに、医療者たちは生前の患者に起こった疑問を解き明かす



まとめると、解剖は、ベッドサイドでの疑問に答えるためにやることだ。

 疑問 → 解剖(という手技) → 解決

を目指している。

この解剖の流れを学んでレポートを書くという課題が、研修医にとってどういう意味を持つか?

病理解剖を知ってもらうことができる? まあそういう理由もないではないのだが、ぼくはもう少し大きな意義があると思っている。

「医療現場で出た疑問を解決するために考える(考察する)というのはどういうことなのか」を、実地できちんと体感してもらいたいのだ。


科学的な「考察」は、一般に言われている「よく考えること」とはちょっと毛色が異なる。そこを指導医がきちんと教えられるかどうかがカギになる。

たとえば……そうだな、具体的な例を取り上げるわけにはいかないので……とっぴな例をあげよう。


「あまり治療がうまくいかなかった患者は、亡くなる直前に、超高級なお肉を食べていた」


ことがわかったとする(※解剖では普通わかりません)。


ここで、


「患者の治療がうまく行かなかった原因として、超高級なお肉を食べたことが可能性として考えられる。」


と書いただけでは、医学とは言えない。それは単なる「ふとした思いつき」である。

誰でもわかると思うけれども、思いつきには根拠が必要だ。そこをきちんと埋めるのが「医学的な考察」であろう。

では、研修医を真似して「考察」をしよう。理由をちゃんと考えてみるのだ。たとえば、根拠を以下のように記してみるとする。


「患者の治療がうまく行かなかった原因として、超高級なお肉を食べたことが可能性として考えられる。なぜなら、胃の中に超高級なお肉が入っていたからだ。」


……これもだめである。「胃の中にお肉が入っていたらなんなの?」と、すぐに質問されてしまうだろう。根拠として「そう見たから、そう思いました」「そこにあったから、そうだと思いました」は、偶然じゃないの? という質問に対して無力すぎる。

さらにもう少し考えてみよう。


「患者の治療がうまく行かなかった原因として、超高級なお肉を食べたことが可能性として考えられる。なぜなら、胃の中に超高級なお肉が入っていたからだ。普通こんな肉は高くて食べられない。普通の患者はこんなお肉食べてない。でもこの患者は食べた。だからだろう。」


……「比較」をしたようである。おわかりだと思うがこれも根拠になっていない。「だからそれ、たまたまじゃないの?」と言われたら反論のしようがないのである。

これらはいずれも「だめな考察」の例だ。

えっ、考察にいいとか悪いとかあるの? と疑問に思う人もいる(研修医もよくそういうことを言う)。

でも、ある。医学領域における考察とは、個人的に考えて察することだけでは足りない




たとえば、ある医療行為をしたあとに雷に打たれた人がいたとする。ではその人が医療者に対して、「俺に雷が落ちたのは前日に受けた医療行為のせいである!」と言ったとして、納得する人はいないであろう。(同情はするしサポートもしてあげたいとは思うが。)

「たまたま」を「関係あるんじゃないの?」と疑いたくなるのは人情だ。でもそれは「ふとした個人的な思いつき」であり、医学の考察とはならない。

https://www.cov19-vaccine.mhlw.go.jp/qa/column/0002.html


人間は、なにか特殊なことがあったときに、別のことと「紐付け」したくなる本能がある。サッカーのピッチに右足から入ったらゴールを決められたから、毎回右足から入るようにしているんです、というような「験担ぎ」も含めて、そこに因果関係はないけど、気持ち的には関係あるってことにしときたいよねー! みたいな気持ちにはなる。

でもそれはあくまで「気持ち」のレベルの話だということ。

医学の「考察」はそれでは足りない。



医学的な考察とは、以下のようにあるべきだ。


「患者の治療がうまく行かなかった原因として、超高級なお肉を食べたことが可能性として考えられる。なぜなら、Yandelらによれば、超高級なお肉を食べた人に限って、あるA病の治りが悪くなることが示唆されているからだ(参考文献:Yandelらの2019年の論文○○)。彼らは、超高級なお肉を食べるときにかなりの頻度で用いられているB社のデミグラスソースに含まれているある果物の果汁が、治療薬と結合して、効きが悪くなるのではないかと考察している。」


何が加わったかおわかりだろうか?


 ・先人がすでに考察している内容を引用している


のである。えっ、引用? 人の考え方のパクリじゃん! ……ではない。他人がすでにある程度の確実性をもって証明した内容を用いて、今目の前にある新たな疑問を解決しようと考えることこそが考察なのである。



医学の考察とは、9割くらいは引用からできている。

※これを演繹という言葉で説明する人もいるが、ぼく自身は演繹と仮説形成法とを使いこなした考察のほうがキレ味があると感じており、医学論文の考察内容をすべて演繹だけで説明するのは微妙だなと思う(個人の感想です)。

人がすでに言ってることを探してくればいいんだから楽勝でしょ、ではない。自分がふと思い付いた、疑問を説明できそうな仮説にぴったりとマッチした過去の論文を探し出すのはけっこうな手間である。

誰かが同じような疑問に答えてくれてないかなー、と探す能力が高い人ほど、医学の疑問を解決する精度も高い。

引用すべき論文を検索する能力こそが求められるのだ。

文献がまるで見つからないときには、探し方が悪いか、探すこと自体になれていないかをまず疑う。その上で、「もしかしたらこの疑問、世界ではじめてボクが気づいたのだろうか? だったら、世界に先駆けて、ボクがこの先の推論を組み立てなきゃいけないな……」と身を奮い立たせる……ことができたら……それはもう立派な研究者である。



でも9割9分9厘9毛はどこかに書いてあるし、誰かがすでに考えているよ。がんばって探してね。大変だろうけど。