2022年3月14日月曜日

雑用論

現実が錯綜し、仕事は雑用ばかりだ。しみじみと、ああ、自分は成長したんだなと感じる。

ぼくは今管理職である。医師としてのキャリアはそろそろ20年目。専門技能を磨いてきて、職能は年相応に高い。自分の責任で仕事ができ、案件を解決するスピードも経歴相応に速い。

だから今のぼくは雑用を一手に引き受ける。

偉くなればなるほど仕事が早く正確にこなせる。そうすれば、空いた時間で雑用をこなせる。

雑用をするなら偉くなってからだ。

若い頃は、そうはいかない。

病理医は、「医者修業」の初期において、きちんと病理診断を書くために、目の前の標本に集中し、資料を次から次へと調べていかなければいけない。ひとつの案件を解決するために注ぎ込む時間も体力も膨大である。顕微鏡や教科書、論文に何時間も、あるいは何日も集中する必要がある。

一方で今のぼくは、1時間何かに集中するということはまずない。ほとんどの病理診断に1時間かけることがない。というか、1時間以上考えなければいけないならば、そのときはいったん小括(しょうかつ)をして、他人の助力を仰ぐべきである。ひとりで長時間抱え込んで悩んでいるよりもそのほうが解決の速度が早く、結果的に患者の利益につながる。

正確さとスピードを両方手に入れると、診断と診断の間に「切れ目」が細かく生じるようになる。5分とか10分ごとに、前の診断を一端忘れて、次の診断に雪崩れ込んでいくスタイルだ。細切れの短く深い集中をパルスのようにくり返す。すると、パルスとパルスの間に、雑用をするすきまが生まれる。

そこだ、そこで雑用をするのだ。

雑用をするなら仕事ができるようになってからがいい。



雑用によって、若い研修者たちの集中を途切れさせてしまうことはもったいない。

若者に雑用をさせてはならない。

雑用とはまさに雑多な用事だから、ひとつひとつの案件同士にあまり関連がなく、ある雑用を片付けてもそれが次の雑用に役立つスキルとして備わるとは限らない。つまりは成長効率が悪い。

逆に言えば、一件雑用っぽく見える仕事であっても、「これは若手にとっては成長のチャンスだな」と思えるものなら、それを上司が奪ってしまってはいけないとも思う。

ただしそのときは、若手に与える仕事には「雑用」などと言う名前はふさわしくない。成長するためという立派な目的を帯びているのだから、きちんとタスクとして、誠意をもって発注すべきだ。「ちょっとやっといて?」などという投げ方をしてはだめである。



「主治医に送る手紙を書いてくれますか? 診断は用意してありますが、この場合、きちんと手紙を添えるところまでが病理診断だと思っています。私が書いてもいいのですが、せっかくなので、先生ならこの症例を申し送る場合にどのような言葉を用いるか、考えてみてください」


「外注の処理をしてください。検体の量があまり多くなく、医師が確認して適切な部位を選ぶ必要があります。参考資料は以前に読んでいると思いますが、わからなかったら呼びに来てください。」


「資料の印刷? そんなことを先生がする必要はないです。ぼくがやります。」


「コンサルテーション先の先生に対するメールの文面は先生が考えてみてください。ぼくと連名で出しましょう。」



いわゆる雑用うち、成長に繋がりそうなものは若手に送る。たとえばそれが「脳より手を動かさないと進まないタイプの仕事」だとしたら、ぼくは若手にはやらせない。それはぼくが病理医だからである。ほかの医療者は、「脳より手を動かすことが必要な局面」はあるのだけれど、病理医の仕事にかんしてだけ言えば、それはほとんどない。脳を鍛えない仕事を若手にやらせてはいけない。医師免許を取ってまで、病理医になるということ、それは、脳だけで働く決意を決めるということなのだから、その意気を汲み、その努力にこたえなければ意味が無い。