「仕事の中身は何でもいい、とにかく多忙でさえあれば、充実できる」。
ぼくはたぶん、そういう気持ちでずっとやってきた。
最初は違った。「とにかく忙しければいい」なんてことは思っていなかった。当たり前だけれど、はじめは、「いい仕事がしたい」と思っていた。
あっ、これだと語弊があるな。もう少し正確に思い出そう。
かつてのぼくは、
「優秀だと言われたい」
と思っていた。単にいい仕事がしたかったわけではなく、「こんなにいい仕事をするなんて、誰よりも優秀だね~」と言われたかったのである。
でも、少なくともぼくは、「自分の優秀さを認めてもらえるほど抜群にいい仕事」はできなかった。そこまで優秀ではなかった。
恥を忍んで言うと「ああ、ノーベル賞がとれなかったなあ」と、本気でがっくり来たことがある。
思ったほど優秀ではなかったぼくは、「いい仕事」をあきらめて、代替的に、
「仕事を大量にやっていて、偉いね~」
と言われるほうを選んだ。
それがいつしか、仕事の質よりも多忙であることを価値と考えるような、短絡的なメンタルにつながっていった。
あれもこれもと仕事を抱え込んで、ずっと高回転で回し続けていくと、ある種の「適者生存の論理」のようなものがはたらく。ぼくは多忙の中で次第に最適化され、「それなりにいい仕事」ができるようになっていく。外科医のタマゴが何度も何度も糸結びの練習をしているうちに、指が勝手に動いて糸を結ぶようになるように、ぼくもまた、仕事の軽重を問わずに大量に鍛錬を積み重ねることで、「脊髄反射で思考できるように」なる。
このことに気づいたとき、ああ、いやだなあと思った。脳だけを使って働くはずの仕事で、ぼくはまるで体育会系の行動を取っている。早素振りを朝に100本、昼に100本、夕方に200本……。
ぼくは未来の自分が、「反復練習」で、「匠の脊髄反射」を磨いて、修業しなければできないことを長年やってプロを気取っている姿を思い浮かべた。
それはすごくいやなやつだった。
おりしも、これまでのリクルート活動が功を奏し、春からは常勤病理医が一人増える。大学からの出張医も受け入れ始めており、病理を学ぶ研修医もいる。
多忙から距離を取るなら、今しかない。
誰でも同じように仕事ができるような環境を整備して、ぼくでなければ判断ができない部分をなるべく取っ払うのだ。
ここ最近のぼくは、近い未来に自分を含めたスタッフ全員がほどよくヒマになるためのシステムを考えている。
うまくいけばいい。たぶんうまくいくと思う。
ただし、その先には一つ、悪いことも待っている。
それは、「多忙であれば充実できる」ようにチューンナップされてしまったぼくの脳が、きっとポンコツになるだろう、ということだ。
もちろん、患者のためを考えれば、どうするべきかは明白である。
「忙しすぎてたまに取りこぼしがあるけれど、病理医は充実しています。」などという医療はごめんだ。
したがって、このまま業務改革を進めていくわけだが、そうするとぼくはきっと、満たされなくなるだろう。
それだけでなく。
ぼくはおそらく、世界とアクセスするのが今よりずっとヘタクソになる。
ここ最近のぼくは、世界とアクセスするためのインターフェースとして、「仕事」以外をほぼ使っていない。人と出会うことはもちろん、新しい概念との出会いもほぼ仕事経由だし、きれいな風景を見るきっかけも、おいしいご飯を食べる理由も、暇つぶしのために読む本だって、ほとんどすべてが仕事という正面玄関から入ってくる。ぎりぎり勝手口としてSNSがあるのだが、最近はツイッターでも仕事のことをつぶやいていたりする。
思考を組み立てている言語やその構成も、仕事の影響をかなり受けている。ぼくの頭の中には「仕事用の水路」ができている。日中、仕事をしている最中はそこに職能を用いてタスクという水を流して循環させることであちこちを潤す。仕事を終えて帰宅してから、タスクのかわりに趣味や個人的な興味を「同じ水路に」流す。流れる液体こそ変わるが、その水路のかたち自体はなにも変わっていない。自分を興奮させて報酬系を作動させるためのやり方が、仕事のときのそれと同じなのである。
多忙による選択圧は、ぼくを、「仕事にだけ飛びかかって血を吸うノミ」にしてしまった。
半日時間が空いたら半年先の講演資料を作ろうかなという気持ちになってしまうから映画を長いこと観ていない。ゆっくりお酒を飲むくらいなら、さっさときりあげて朝すこし早く出勤して、日中のメール処理を楽にしてみようかな、そのほうが安眠できるな、なんてことを考えて休肝日が増えた。感染症禍になったことすらぼくは言い訳にしている。外出できないからしょうがなく仕事をしている、と、周りに伝えて、安心させようとしている。
ぼくがこのまま業務のありようを変えて、後に続く人たちに楽しく働いてもらうのはいい。
でも、ぼくは、ぼく自身に対する責任をきちんと取らなければいけない。
仕事を感覚器にし、仕事を運動器にもして、世界から仕事に関係のあるものだけを取り込み、また、世界に返していく動物。
未来のぼくが、充足に飢えてほとんど冬眠状態になっている姿は、すこし滑稽ではあるが、哀れだとも感じる。
となれば、今からぼくは、よく考えて、探しにいく。
まずは久々に映画でも観に行こうと思っている。この感染症禍が終わりを告げたころに。