2021年3月31日水曜日

病理の話(520) お互いが素人

ある日のカンファレンス。

数年来、診断がついていない患者について、各科の専門家が劇論を交わしていた。

この患者は数年前に一度、小さな手術をされていて、そこに病理診断が下されていた。


その病理診断は「特別なものではない」。

がんではないし、ほか、名前のついた病気でもない、という結果。手術をしたにしては煮え切らない返事だ。

がんと診断がなされればがんの治療がはじまる。また、名前のついた病気(炎症など)であったとしても、その病気ごとに治療方針は立つ。

しかし、「特別なものが見つからなかった」となると話はむずかしい。この先は、定期的に患者の体に起こっていることを観察することにして、また再発するようならそのとき考えましょう、という判断になった。


はたして患者は再発した。再発というか、治りきっていなかったものがそのまま少しずつ大きくなってきたという印象。

さて、こういうとき、医者たちはどのように考えるか。



多くの方が真っ先に思い付くのは、「かつての病理医の診断が間違っていた」であろう。この可能性は真っ先に潰しにいかなければいけない。しかし、話はそう簡単ではない。

ある意味、かつての病理診断が間違っていたというならば、(患者にとっては不幸だが)話は簡単なのである。ぼくが過去のプレパラートを見直し、たとえばそこに未発見のがん細胞を見つけたら、今の患者の身に起こっていることには説明がつくし、治療方針だってすぐに決まる。初回の病理診断を担当した病理医は「誤診した」ということになるかもしれない。もちろん、その時点では情報が足りなすぎて、そもそも医学の限界として診断できなかったという可能性もあるのだけれど。

しかし、何度見直しても、違う病理医が見直しても、これはがんではない。

そういうケースはある。というかそういうケースのほうが多いかもしれない。そういうケースのほうが厄介なのである。「だれもはっきりと間違っていないのに、誰も真実にたどり着いていない」ということだからだ。

さあ、どうする?


あらゆる検査を追加すればいい、というのは明確に間違っている。特に、検体を採取するタイプの検査には「患者の体への負担」がかかる。とりわけ、「カタマリを作るタイプの病気」のときに、そのカタマリを取り除いて検査に出すことは、いつも安全に行えるわけではない。大きな血管を傷つけてしまうリスクなどもある。軽々しく「もっと採ろう」と提案することは雑なのだ。まあ、どうしてもというときには「再手術」をすることもあるのだけれど。


それよりもまずは、数年の経過をおいて、病気がこのように進行したという「時間軸情報」を加味して、過去に一度診断された内容をもう一度よく考えなおす。洗い直す。この泥臭い方法が、結局はいい。刑事ドラマでも煮詰まったら最初から情報を整理するだろう。探偵の登場する番組の序盤には出てこなかった重要な情報が飛び込んできたあと、最初に聞いていた話の色彩が変わって感じられる、ということもある(コナン君がピキーンと気づくやつだ)。「この患者が年単位で少し悪くなった」という時間軸情報を手にした今、過去の検査データの解釈方法も、患者に対するアプローチの仕方も、変わってくる。



カンファレンスに出席していた外科医がこう言った。

外科医「そういえば過去に一度、同じようなケースを経験したことがあります。その人も、当初、がんではないと言われていて、病理診断がつかなくて、でも何年もよくならなかった。最終的にA病と診断されました。」

ぼく「なるほど。」

外科医「市原先生、今回もその病気ってことはないですか?」

ぼく「ではその目でプレパラートを見直してみましょう。」


A病は極めて珍しい病気だ。プレパラートをただ見ているだけでは診断にたどり着くことはまずない。外科医の経験がものを言うなあ、と思った。ぼくはその病気を診断するのに必要な「免疫染色」という追加検査をオーダーして、プレパラートをじっくりと見直した。


結果は、「A病ではない」。


ずっこける音が聞こえそうだ。えっ、ここまで意味深に盛り上げたらふつうはA病なんじゃないの?? でも実際の臨床現場はそう甘いものでもない。

ただしこのとき、ぼくは同時に、B病やC病の可能性も頭に思い浮かべた。なぜなら、外科医の言っていたこと、「昔もこういうことがあったんですよね」にひっかかりを覚えたからだ。


外科医が過去に経験したA病と、「臨床医が見る分にはよく似ている」病態で、かつ、「病理医から見るとA病ではない」というもの……。


ここまで情報が増えると、がぜん、B病とC病の可能性が頭に思い浮かぶ。


こうしてぼくはさらに細かい検討を加えて、最終的に病理診断をこのように更新した。


「前回の病理医の診断、『がんではない』は正しい。そして、それ以上のことがわからなかったが、数年経ってみて新たに検討を加えると、B病の可能性が残る。この病気は、今ここにある材料だけでは診断しきれない。B病であるかもしれないという前提で、追加の検査をしてほしい。それが患者の体にある程度負担をかけることであったとしても、B病という診断がつけば、患者にとってはメリットがある。患者と相談してほしい」


……こんなにフランクな書き方ではなくもう少し専門用語で書いている。でも大意はこういうことだ。診断が付けばいいというものではないが、ぼくは診断を付けた方がいいのではないか、と、個人的に感じているよという内容のことを書く。


臨床医は病理診断の素人だから、「A病じゃないの?」なんてことを言った。A病ではなかった。そして、それをヒントに、病理医は「B病じゃないの?」と言う。そして、病理医は臨床判断の素人なので、「だから追加検査してみたら?」という。検査を追加するというのはそう簡単ではないから、追加の検査はそもそも無理かもしれない。けれどもそれをヒントに、臨床医は今後の方針を立てていく。


お互いが、自分の領域でプロの仕事をし、相手の領域に対して素人ながらにコメントをつける。そうやって、ギリギリのラインで精度を高めていく。

2021年3月30日火曜日

暇は細部で潰す

本を読んでいるとする。そうだな、論考・論説的なものを思い浮かべる。その中には「章立て」がある。章ごとにキーワードというか、話題の芯となるような強い単語がある。

「ナラティブ」とか。

「ケア」とか。

「ギャップ」とか。まあそういうものだ。



その単語が同じ章の文中に何回出てきたかによって、読んでいるときの感覚が変わる。

1回しか出てこないとき。それが章のキーワードと気づかないことがある。あとで振り返って「ああそうか」と腑に落ちることもあるし、いつまでも気づかないまま通り過ぎてしまっていることもある。

2回しか出てこないとき。強い恣意を感じる。たとえば序盤に1回、終盤に1回だと、ああ、著者はこのキーワードを柱として書いたのだな、という印象がスッと思い浮かぶ。

3回出てくるとき。この単語ひとつから広げようとしたのかな、という企画段階の苦悩を感じる。

4回出てくるとき。反復によって印象づけようとしているんだろうけれどもしかすると読者を下に見ているのかな? などと思う。

5回出てくるとき。散文と詩の境界がわからなくなるタイプの人なのかしら、と考える。

6回出てくるとき。推敲で削ってなお6回なのかしら、それとも校正で指摘しない文化があるのかしら、と思う。

7回出てくるとき。ほんとうは6回だったんだけどなんか縁起が良い(?)から1回増やしたんじゃねぇかなって邪推。

8回出てくるとき。魔法陣でも書くつもりかよ、と笑う。

9回出てくるとき。なんかうまいこと言う文化圏の人だな、と結論する。



だいたいこういう感じで読んでるんだよね、と友人に話したところ、「単語の出てくる回数を数えながら読んでたら、話の筋なんて頭に入らないでしょう」と笑われた。それでわかった、逆だと思う。「話の筋が入ってこないからこそ単語の数をかぞえている」のだ。昔、サザエさんか何かの4コママンガで、つまらない話を聞きながらざぶとんの端っこをむしっている人というのが出てきたが、あれといっしょ。筋が入ってこないからこそ細部に目が行ってしまうということなのだ。さほど親しくない知人の結婚式に出たあとは料理のことをよく覚えているものであるが、たぶん、そういうことなんだと思う。

2021年3月29日月曜日

病理の話(519) 外科医は切る仕事ではなく病理医も見る仕事ではないという話

胃にできた病気を手術で取り除く。


肺の中にあるカタマリをくりんとくり抜いて取る。


膵臓の左半分を脾臓と一緒に摘出する。


こういった「手術」が、今日もどこかで行われている。主役は外科医だ。ま、ほんとは、婦人科医とか泌尿器科医、耳鼻科医、整形外科医、皮膚科医なんかもいっぱい手術をするんだけど、イメージとして、今日は「外科医」にご登場いただこう。


外科医は「切る仕事」と思われがちだ。しかし、実際には、「ならす」仕事であり、「焼く」仕事であり、「結ぶ」仕事であり、「整える」仕事である。手術の見学に入ると、目の前で外科医が何かを「切っている時間」は思った以上に少ない。「なんだ、外科医って切る仕事じゃないんだなあ。」という感想が漏れ聞こえてくる。


手術のあいだ、外科医は多くの時間を、血がにじみ出てきそうな小さい小さい血管を電気メスでじゅっと焼いて止血することや、切ったら確実に血がドバッと出るであろう血管を切断前に糸でしっかり縛る仕事に費やしている。

さらには、特殊なハサミをV字に開いて、それをチョキンと閉じるのではなく開いたままにして、ハサミの「刃」の側で、何かをずっとごしごしやっている。イメージできない人は、そうだな……「ゴボウの皮をハサミで剥く」ことを考えてみて欲しい。V字に開いたハサミをナナメに押し当てて、刃の部分で皮をこそげとっていく感じ。刃を立てたらだめだよ。ゴボウが切れちゃうから。

こうして、外科医はあまり切らずに、しかしここぞというときには電気メスでズバッと切って、体の中にある大事なものを「取り外してくる」。

さて、このとき大事なのは、取り出して両手に持っている「病気の入っているほう」だろうか?

まあそっちも大事だけれど、より患者にとって親身に大事なのは、体内に残ったほうだ。当然だよね。切って体内に出した方とは未来永劫の別れ。体の中に残った成分とは今後もしっぽり付き合っていくのだから、できれば居残り組の方に分厚い愛情を注いで欲しい。



さて、病理医が診るのは、「取り外したほう」である。病気の正体を見極めて、どれくらい病気が進行しているのかという程度も見定める。そして同時に、


「病気がとり切れたかどうか」


を確認する。


病気を全部取りきるというのは、外科手術の要点だ。体の中に病気が残っていては意味が無い。残党は必ず再起して、体に対して復讐のゲリラ戦を挑むだろう。反乱分子は一気に根絶やしにしないと遺恨を残す。手術では「取りきっている」ことが大事だ。


病理医はこの「取りきっているかどうか」をどうやって判断するかというと……簡単に言えば、外科医が切り取ったときの「切り口」の部分に、病気が顔を出していないかどうかをしっかり見る。


病気をまるごとくり抜く手術では、体の中にちょっと残ってしまうことがある。だから外科医は慎重に、「少し余裕をもうけて広い範囲を」切る。ただし、体内の血管の走行や、臓器の形などによって、どうしても余裕がとれず、病気と切り口との距離が、1mmくらいしかないこともある。英語ではmarginal resection(マージナルリゼクション)と呼ぶ。ギリッギリで取りきるということ。


こういうケースで、病理医が顕微鏡を見て、「見事に取り切れている」ときには、ああ、外科医やるなあ、うまいなあ、と感心する。


また、病気の形状が異常に複雑で、入り組んでいて、事前のCTなどの検査で「どこまでが病気なのか判定できない」ときもある。そういうときは、想定している病気の範囲よりも「気持ち広め」に臓器を切る。でもあまり切ってしまうと、その分多くの「正常の臓器」を失うことになる。画像診断の精度と、外科医の判断、そして若干の運までもがかかわる、非常に難しい部分だ。


こういうときも病理医は「切り口の部分」の評価を行う。慎重に慎重に顕微鏡を見て、切れ端の部分に病気が存在しないとき、またもや病理医は、ああ、外科医やるなあ、たいしたもんだなあ、と頭を下げる。


病理医は「(病気を)見る仕事」と一般に説明されるが、このように、「病気が見えないことを確認する」という仕事も行う。陰性の証明。そこになければないですね。こちらもまた、しびれる。

2021年3月26日金曜日

鉄人のコントローラも入っていてほしい

アタッシュケースが届いて、中にはGoProが入っていた。これから1年にわたって、とあるウェブセミナーの講師を担当するのだが、Zoomで撮影すればいいですよね、いいですよ、Zoomで行きましょう、と軽く引き受けたら「カメラはこれを使って下さい。ライトも入れときます。接続チェックも必須です」と、思ったより鼻息が荒い。


PDFで送られてきた接続用マニュアルに従って、職場の私用PCにGoProを接続する。プレゼンを見てもらいたいのに、ぼくの顔をこんなにきちんと撮ってどうするのか。演者の解像度を上げることで営業力が上がるのだろうか。いまいち飲み込めないところはある。しかしそれを飲み込むだけの咽頭力(いんとうりょく)が今のぼくにはある。のどは強くなった。


そういえばふと思ったのだけれど、アタッシュケース? アタッシェケース? どっちが正しい? 検索をかける。


するとなんとレタスクラブのホームページが出てきた。しかもそこに載っていたのはドラミちゃんだ。自分が振り回されていく感覚がある。


https://www.lettuceclub.net/news/article/214655/


なるほど、アタッシェというのはフランス語らしい。大使館・外交使節団で軍事や科学、経済などを担当する専門職員のことを言うのだそうだ。つまり、「アタッシュ」は間違いということになる。知らなかった。

「アタッシェケース」には軍事機密が入っていてほしいなと思うことがある。ちょっとゴツメの鞄の中には分厚い書類や金塊、ボタン類が入っていることがふさわしい。


じわじわと、「我々はなぜアタッシェをアタッシュと言いがちなのか」が気になってくる。まあ我々っていうかぼくが、だけど。

音便? 違うか? 「アタッシュのほうが合ってそうだと日本人(例:ぼく)が思いがちなのはなぜか問題」と読み解かせていただく。


ダッシュ、キャッシュ、ラッシュ、モッシュ、バッシュ、リセッシュ、アンジャッシュ、奪取、摂取、北原白秋。シュで終わる言葉って多いんだよな。それにくらべると、シェで終わる言葉は……。


マルシェ。フランス語だ。

フィナンシェ。これもフランス語だろ。あれイタリアだっけ?

ポルシェ。ドイツ。

クリシェ……フランス語かな。

パティシェ。つい日本語だとぱ・てぃ・し・えと発音してしまうけれどこれもシェ。

フランス語多いな。そして日本人が日常的に使う言葉は、この中にはあまりないような気がする。ポルシェなんて乗れんわ。



「語尾検索エンジン」というのを使ってさらに探す。するとようやく日本語が出てくる。ただし。



うつしえ(移し絵)。だましえ(騙し絵)。みたらしえ(御手洗会)。

シェじゃないじゃないか。

しえしえ(謝謝)は中国語だ。

しわばらよしえはまあ日本だけどそういうことではない。




日本では「シェ」の語尾があまり一般的ではないのだろう。そもそも、ケースって英語だし。フランス語+英語のセットは余計にしっくりこなくて、本能的に「アタッシュケース」と英語的な読みにしてしまう、なんてメカニズムもありそうだ。こういうのは本来、辞書編纂者がしっかりとやることなんだろうけれど……。


何の話だっけ。そうそうGoProだ。検索してみたら13ドルと出てきて「や、やっす!」と思ったら本体価格ではなくて株価だった。いろいろと勘違いしがちである。

2021年3月25日木曜日

病理の話(518) 生検体の処理

患者にとっては知る必要のないことだ……と書くと今どき語弊がある。自分の体に対することなのだから、医療の細部はすべて知るべきだと考える患者もいるからだ。ただし今日の話はさすがに「どうでもいい」と思われる可能性を感じる。例えて言うならば、「ATMでお金をあずけたあと、そのお金がどのように処理されているか」みたいな話なのだから。しかし、かまわず進もう。それがブログのいいところである。


手術で体の中から病巣を採ってきたとき、それをそのまま放置しておくと、「腐る」。当たり前だけれど腐敗してしまうのだ。だから我々は、大事な検体をダメにしないために、ホルマリンを用いて採ってきた細胞を「固定」する。10%緩衝ホルマリンはタンパク質に作用して架橋を起こし、細胞が変性しないように形態を留めてくれるし、これによってばい菌が繁殖することも防げる。


ただし、この「ホルマリン処理」は、検体内部にあるDNAやRNAといった「遺伝子情報のゆりかご」、「遺伝子情報からの手紙」をダメにしてしまう効果もある。細胞自体はカタチを保ってくれるので、肉眼で形態を見つめたり、顕微鏡で見る分には便利なのだけれど、細胞の内部にある遺伝子にアプローチするにはやや化学的処理が強すぎるのだ。


すでにそこで完成している「細胞のカタチ」を見るだけでも、病気の正体はかなりよくつかめるのだけれど……今は医療が進歩しているので、できれば細胞がそのような病気へとたどり着いた「理由」をきちんと見極めたい。


さらに言うと、DNAやRNAに起こった異常を見ることは、「正体を知る」という意味だけではなく、治療に直結するのだ。


Aという遺伝子変異がある病気にはこのBという薬がめちゃくちゃよく聞きます、とか。


Cという遺伝子の異常がある病気にはDという薬はあまり効きません、といったように。


遺伝子を見ることで治療の幅が変わる。となると、毎回患者から採ってきた検体を、同じようにホルマリンに漬けているだけでは困る。



そこで……病理部ではけっこう複雑なことをやる。


たとえば悪性リンパ腫とよばれる血液のがんを扱う場合。体の中からとってきた検体を、ホルマリンに漬ける前にいくつかに分割して、


・ひとつは液体窒素で急速に凍らせたあとにマイナス80度のディープフリーザーで保存

・ひとつは特殊な溶液にそのまま放り込んで、冷蔵保存して染色体検査やフローサイトメトリー検査に外注

・ひとつはホルマリンに漬けて通常の病理診断に


というように、それぞれ異なる保存法で、異なる検査に出すのである。こうすることで、

「フローサイトメトリーでlight chain restrictionが確認でき、染色体検査で特徴的な転座を見つけておいて、病理ではH&E染色と免疫染色を用いて形態診断。これでもまだわからない場合には凍結保存した検体を解凍してさらに別の検査へ……」

といった複合的な診断が可能になる。そして臨床医はその結果を見て、その患者に一番マッチする治療法を選ぶのである。



採ってきた検体を何も考えずにホルマリンにぶちこまずに、「生(ナマ)の段階でいろいろ処理をする」ことから、ぼくらはこれを「生検体(ナマけんたい)の処理」と呼んでいる。採ったばかりの検体は分単位で劣化していくので、ほかに業務をしていても、検体が提出されたらすぐにそっちに取りかかる必要がある。技師さんが遠くから「生検体来ましたあ~」と言ったらぼくはすぐに返事をしてデスクを立ち、歩きながら手袋をはめて検体の処理を始めるのである。患者にとっては知らなくてもいいことだ。たぶん。

2021年3月24日水曜日

そういう場所

20年以上前、ほぼ日で「まっ白いカミ。」を連載していたシルチョフ・ムサボリスキー氏が何かの拍子に「ジュンク堂をふらふらと歩いて」と書いたのを見て、大学生のぼくは「あっ、東京だ。これこそ東京だ。」と思った記憶がある、ぼくにとっての東京は長いこと「ふらりとジュンク堂に行ける場所」だった。

今や札幌にもジュンク堂がある。丸善ジュンク堂系列のTwitterアカウントもたくさんフォローしている。長い時を経て、ぼくにとっての東京は「ジュンク堂にふらりといける場所」としての輝きを失った。しかし、だからこそ、ぼくの中ではいまだに東京は「自分が若かったときにそこにいたら、ジュンク堂にふらりと行ったであろう場所」という輝きを失っていない。

大学二年生の夏。ラジオで異様なくらいに流れる「Time will tell」が、何度も何度も耳の前方を通り過ぎていった。それを歌っていた人が、有名な歌手の子どもであることも、R&Bを意訳して急速に日本に普及させようとしている立役者であることも、自分より年下であるということも何も知らないままに。ぼくはその日、東日本医科学生剣道大会に出るために横浜にいた。まだ団体戦のメンバーに入れなかった頃の話。団体決勝戦でぼくの先輩たちは昭和大学に負けて準優勝に終わった。いや、順天堂だったろうか。記憶があいまいである。泣き崩れる先輩たちを見ながらもぼくは自分が参加できなかったイベントにどこか他人事で、試合の打ち上げが終わって現地解散、首都圏が地元の先輩達は東京に向かい、札幌に帰る同期は羽田空港に向かって、ぼくはそのまま横浜に残り、国立大学に進んだ高校時代の同級生の家を訪れた。関内駅の近く、ラーメン屋の横を歩いているとき、早くも国民的歌姫の貫禄を発し始めていたその人のファーストアルバムのジャケ写が、工事現場横のような白壁に特大サイズで何枚も貼られていて、ぼくはその鼻の穴の大きさにびっくりし、目線に吸い込まれ、はじめて宇多田ヒカルという存在を知った。

横浜の友人の家を訪れると彼はもうひとりの同期を待ちながら音楽をかけた。ドラゴンアッシュ、ナンバーガール、ウーア、ゆらゆら帝国。当時「スペースシャワーTV」や「VIBE」でヘビーローテーションしていたJ-POP、オルタナ、エモ、そういったものを彼はよく聞いていた。タワレコで試聴して買った、と彼は確か言った。ぼくはそのとき、ああ、東京だ、と感じた。宇多田ヒカルの看板が凄かったんだよ、と言ったら、「そうだな、流行ってるよ」と彼は楽しそうに言った。そこは横浜だったけれど、ぼくはすかさず東京を感じた。遠く札幌に生まれ育って、東京とはジュンク堂に「ふらりと」立ち寄れる場所なんだよなと考えていたぼくは、その日、東京とはタワレコにふらりと立ち寄って新譜をヘッドホンで視聴できる場所なんだ、と自らのフロント(最前線部分)を更新した。



ミルククラウンの水滴は1発目が一番高く、2発目はその周辺に同心円状に広がってやや低く、3発目、4発目となるに従って範囲が広くなり高さは低くなる。いつしか波になりさざ波になり凪に戻っていく。



ぼくは1997年から2003年にかけて剣道の大会で何度も東京を訪れ、そのたび、「ぼくはここを遠くに眺めてうらやむ存在になる」という確信を強めていった。あのころはまさかぼくたちがSNSを通じてこんなにも境界をとろけさせてしまうなどとも、ましてやあらゆる興味・趣味・嗜好の類いが相対化されて個別化して分散化してエントロピーを高めてしまうとも思わなかった。「東京とは」を語る音楽をめっきり見なくなったのも、誰にとっても召喚獣として効力を発揮するような「共通イメージとしての東京」が失われたからなのではないかという気がする、それでもぼくにとって、今なお東京は「自分が若かったときにそこにいたら、ジュンク堂にふらりと行ったであろう場所」という輝きを失っていないし、たぶんぼくはこれからも東京の辺縁で何度も何度も宇多田ヒカルと出会い直してはどでかいカンバンの鼻の穴が気になってしまう。

2021年3月23日火曜日

病理の話(517) お前は罪を犯しそうだから逮捕する

今日はがんの話。


がんを見極めて退治する、あるいはがんを暴れさせないようにコントロールするために、医療者はタッグを組んであれこれ工夫を凝らして戦う。このとき、病理医は主に「そいつが本当にがんなのか」を探る役割を担う。


たとえば、ある場所を顕微鏡で覗いたときに、そこにある細胞が

・異常に増えていて

・異常なはたらきをしていて

・周りにしみ込んでいる(浸潤している)

とわかれば、「がん」と判定してよい。


専門用語では、異常増殖+異常分化+浸潤(しんじゅん)の3つが揃えばがんと診断できる。本当はここに「細胞の不死化」という用件も加わるのだけれど、普段あまり気にしていない。


この中で人体にとってもっとも嫌な「がんの性質」は、「しみ込んでいる」だ。元々細胞があるべき場所を乗り越えて、深く鋭くしみ込んで、ときには遠くに転移する。この性質によってがんを制御することがかなり難しくなる。


人類は「浸潤」と戦う。浸潤、英語ではinvasion。「インベーダー」と同じ系統の言葉である。浸潤とはすなわち侵略なのだ。




さて、一部のがんは、早く見つけてさっさと退治してしまえば治すことができる。だから人類は「早期発見」というのをときに大事にするのだけれど、この早期発見はある意味、犯罪捜査に似ている。


がんが周囲を激しく破壊し始めてから「逮捕」しても被害は防げない。


だから、できれば、「がんが周囲を破壊する前に」逮捕したい。


より詳しく言えば、「浸潤する前に捕らえたい」のだ。しかしこれは診断上の問題をはらんでいる。




くり返すけれど、

・異常に増えていて

・異常なはたらきをしていて

・周りにしみ込んでいる(浸潤している)

とわかってはじめて、我々は細胞を「がんだな」と判定できる。しかし「早期発見」の理念を追求するならば、「しみ込んでいる」を引き起こす前にがんを捕らえたほうがベターだろう。すると、

・異常に増えていて

・異常なはたらきをしていて


の段階で捕まえたい、ということになる。しかし条件を減らせば当然「誤認逮捕」の可能性が出てくる。



たとえば悪そうな顔をして特攻服のようなものを着て髪にそり込みを入れて腕にはタトゥーまみれの青年が歩いていたら即座に逮捕していいだろうか?

じつはその若者は「特攻の拓」のコスプレイヤーかもしれない。犯罪なんておかしていないかもしれない。家では猫を愛で、3日に1度ほど料理を担当し、祖母孝行にも余念が無いかもしれない。

しみ込んでいる=浸潤している≒侵略していることがわからない場合……「悪そうな顔をした細胞」が全部ほんものの悪人とは言い切れない。

そこで、警察……じゃなかった我々は、「状況証拠」を探しに行くことになる。

「家に大麻があった」(吸った形跡はない)とか。

「3Dプリンタで銃を作っていた」(まだ完成していない)とか。

いずれも、「それを持ってちゃだめでしょう」という意味で、逮捕の理由になる。ただしこれらの半端な悪人が、将来、ほんとうに売人になったり人を殺めたりするかどうかは、「まだわからない」。



このような議論と葛藤を、われわれ病理医は、「前がん病変をどこまでがんとみなすか」、あるいは、「非浸潤がんをどこまで診断するか」という命題として、日々議論している。基本的に、欧米の病理医は「明確に犯罪をおかすまではがんと診断してはいけない」という立場をとり、日本の病理医は「浸潤する前でもがんと診断できる」という立場をとっている……ということになっている。しかし実際に現場にいると、必ずしも欧米の病理医が慎重だというわけではないし、日本の病理医も逮捕に消極的であるジャンルも見る。子宮頚部の「異形成」などは洋の東西を問わず「前がん病変」と認められている。一方、胃における非浸潤性の腫瘍は、欧米ではがんと診断されないケースが半分くらいある。場合によって細やかに異なる。難しい話になる。

このように、「ある細胞が犯罪者かどうか」を細かく議論することも大事だが、実際には、「町が平和であり続けること」のほうがさらに上位のレイヤーで重要だと思う。だから、「がんかがんでないかはともかくとして、どちらであったとしても妥当な処置・治療」を求めるほうに医療は進んでいく。

すると、診断の担い手・病理医は、難しく細かい難問を解きながらも、臨床側の要請として「ま、だいたい決まればいいですよ」などと言われてしまうこともあり……つまりはハシゴを外されてしまうわけだが……そういうときも明るく真剣に、「あとは哲学の問題だなあ」などとうそぶきながら、細胞の「家宅捜索」をくり返して、何を持っていればがんとみなせるかというのを、ずっと研究することになる。悪い仕事ではない。

2021年3月22日月曜日

ろうかは走ってはいけません

かれこれ2週間ほど人差し指の先がしびれている。右手が特にそうなのだが全体的に両方とも上肢があまりよくない。これは頚椎症だろうとわかっている。5年ぶりくらいに再発した。


どうすればいいかもだいたいわかっている。姿勢を気にして生活し、枕を微調整する。ただし、今回の不具合は前回ほど簡単に治らないだろうなという予想もしている。なぜならそれだけ歳を取ったからだ。


「パイプのトラブル8000円」というCMがなぜすごいかというと、それで「なおる」ことがほぼ確実だという雰囲気を見るものに与えるからだ。実際には経年劣化しまくったパイプはクラシアンがいくら高圧噴射をかましても開通しないことがある。住宅トラブルですらそうなのだ、高度の情報の編み上げたものである人体をそれより簡単に修理できるわけがない。


けっきょく、体調不良というのは「うまく付き合っていく」こと以外の対処がない。そのことを自分の体をもって経験している。そうか、これが、ぼくが長年なりたいと熱望し、一直線に目指してきた「中年」というものなのか。





ぼくは20代の前半くらいから45歳を目指していた。もう少しはっきり書くと「45歳くらいのたたずまい、45歳くらいの言葉の力、45歳くらいの見られ方」に早くなりたいなと思っていた。そして今こうして45まであとえーと3年、いやもう3年ない、2年、に迫って思うのだけれど、体内にずれや炸裂を持った人間の言うことはみんなそれなりにしっかり聞こうとするものだ。おそらく風格とか貫禄というものは、劣化した素材からにじみ出る出汁みたいなものなのだと思う。それが自分に備わりつつあることを思う。


実際に40代に突入してみて、しびれても、痛くても、見えなくても、聞こえなくても、それでもなお今が一番「自分であるなあ」と感じる。このままどこまで自分の痛み・苦しみに対するガマン比べができるのかはわからないが、人生というものは常に過去の自分の上に何かを積算していった端緒の部分にのみ存在しているような感覚があり、振り返ってあの頃に戻りたいとは未だに一度も思ったことがないし、若いときの何かを取り戻したいとも一切思わない。後悔はあるのだが回帰願望がない。反省をしても強くてニューゲームモードに興味がない。だから痛くてもしびれていても今より前に何かを期待することはない。


そうやって、自分の最先端を……いや、最深部を過ごす。海溝を潜る。プランクトンの雪が降る。

2021年3月19日金曜日

病理の話(516) 人体内に波を作る

このブログは「病理の話」と「それ以外の話」を交互に更新するというスタイルでやっている。カレンダーで休みになっていない日(土日祝日正月以外)は毎日更新。


bloggerというサービスを使っているのだけれど(たしかGoogle系列だ)、1年弱前だったか、ユーザーインターフェースのデザインが変わって、著者としてログインするとこのような画面が現れるようになった。



記事の中に写真や画像を用いているとそれがサムネイル(左側のアイコンのような四角マス)に表示されるんだけれど、ぼくはこのブログであまり図版を用いない。図なしの記事の場合には、その日のタイトルの頭文字がサムネとして表示される。

すると、1日おきに「病」が表示される。病理の話とそれ以外の話を交互に書いているから、どうしてもそうなる。なかなかパンチのある見た目になる。いかにも「ヤンデル氏」の書いたブログではないか!



……と、このように、ジグザグ交互に何かを配置すると、ぼくらはそこに「規則性」であるとか「人の意思」を感じる。しかし、自然界にも……もっと言えば、人体の中にも、規則的に何かがくり返される構造というのは山のようにある。

たとえば、背骨。骨があるところとないところとが交互に接ぎ合わさっているだろう。背中が全部「骨だけ」で出来ていたら、前屈も後屈もできない。骨と骨の間に椎間板というやわらかディスクがあるからこそ、ぼくらはおじぎをしたり胸を張ったり、「見下しすぎて逆に見上げてる(ボア・ハンコック)」ポーズができたりするのだ。

ほかにも、腸の「ひだ」。粘膜がうねうねうねっている。全部が盛り上がるでもなく、全部が盛り下がる(?)でもなく、上がって下がってをくり返す。そうすることで食べ物に触れる部分の面積を増やして、吸収効率を高めている。

指の指紋も、毛穴と皮膚との関係も、肺に空気が入るスペースと細胞や血管があるスペースとの配置も、ざっくりとまとめるならば、「あるとないとが交互に配置される」ことによって成り立っている。



では、人体の中でプラスとマイナスを交互に配置するメカニズムとは、いったいどのようなものか? よく考えるとすごく不思議だ。

カミサマが人体に命令をくだして、「そこのお前は立て、そこのお前は座れ」と、広島カープのスタンド応援スタイルのように、全細胞を制御しているわけでもなかろう。




しばらく考えていると、自然にはそもそもこのデコボコが性質として備わっているのかもな、と思えてくる。

いい例は「波」だ。



海の波は誰に命令されるわけでもなく、物理法則に従ってデコボコを作って進んでいく。「波動」の性質。詳しくは書かないけれど、高まれば次の瞬間には反動で低くなり、低かった場所には周りから水が流れ込んでまた高くなる、というような、「フィードバック」的な現象が起こっている。

(※物理をまじめにやる人は、波をフィードバックのひとことでまとめんなよとお怒りでしょうが、このブログはそれくらいの書き方でご容赦ください)

そして人体をはじめとする生命も、発生の初期段階から、ある種の「波」にさらされている。

それは、受精卵が分裂する段階からスタートしている。細胞の一側にある「何か」が細胞の中を、さらには分裂して増えた細胞同士の間を波のように伝わっていくのだ。この波が、細胞が増えていく過程で「濃度の波」を作り上げる。体の中にたくさんの「波紋」が刻まれていく。

波打ち際では砂が波の模様になる。ぼくはかつて、あれが不思議でしょうがなかった。「海の波はずっと動いているのに、砂にはなぜ、ある瞬間の波を固定したかのような模様が刻まれるのだろう?」このギモンには物理学的に答えることが可能なのだろうが、少なくとも今のぼくがブログレベルできちんと回答を書くことができないくらいには難解だ。

しかし同様の現象が人体の中でも起こっていると想像することだけならば比較的容易である。最初に細胞を揺らめかせた「波」がどんな「海水」なのかはともかく、その波によって生命の各所に「砂浜の波紋」のような痕跡ができて、痕跡の濃淡によってその周りに集まる細胞や間質の種類が変わっていく。こうして、人体の中には規則的な構造があちこちにできあがっていく……。



生命の中で波動が決定的な仕事をしているという話は『波紋と螺旋とフィボナッチ』という本にも詳しいので一読してみてほしい。おお、生命は波だなあ、って思うこと幸いである。人体に含まれる液体の組成は海と同じだとか、「波だ」と「涙」は同じ読みだとか、いろいろ言いたいことはあるが、そういう話は「病理の話」とは違う回に回す。

波紋と螺旋とフィボナッチ (角川ソフィア文庫)   近藤 滋 https://www.amazon.co.jp/dp/4044004595/ref=cm_sw_r_tw_dp_GJRB9FDA1HGCMAKWPSYW 

2021年3月18日木曜日

ゴリゴリの宣伝回

スマホはAQUOSを使っている。カバーは適当に買った。どこで買ったんだっけ? 覚えていない。黒、無地、ポケットとか一切なしの扉型……と思ったら扉の内側にひとつポケットがあったけど使ったことがない。


パカッと文庫本のように開いて使う。ただし文庫本でいうとおしりの方から開ける向きだ(伝わるかな)。まあ左手で持って開ける分には問題ない。


カバーのへりのところはほぼ全周性にわたって「びらん」に陥っている。びらんびらんにハゲている。このカバーがなかったらスマホに衝撃が直接届いていたのか、と思うとCGJである。カバーグッドジョブ。


先日、離れて暮らす実の息子から、「アイパッヨがなおった」というLINEが届いた。けっこう長いこと画面がバキバキだった。1年以上バキバキだったのではないか? 4400円で直したと言っていたからAppleCareだか何かを使ったのだろう。いま、「あっぷるけあ」とキータッチしたら即座にアルファベットで変換されたのでATOKの実力を感じ入っている。べつにWindowsのPCでそこまでアップル用語に敏感にしてなくてもいいんじゃないの?


そういえば離れて暮らす実の息子のことをイメージしながら書いた小説が文庫に掲載されることになりました。



https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784991061462



発売予定日は5月。値段は1870円(高い)。ページ数は512ページ(多い)。厚さは35 mm(銃弾を防げる)。胸ポケットに入れて安心してください。


待ちきれない方は下記から先行予約が可能です。


https://asokamo.shop-pro.jp/?pid=157997252


燃え殻さんの本と缶バッジを一緒に買えば送料がタダになります。できたら息子にも送る。

2021年3月17日水曜日

病理の話(515) 指の角度が違う

昔、プロレスラーの冬木弘道が、「冬木スペシャル」という技を繰り出した。


ところがその技は、かつての盟友・川田利明の得意技、「ストレッチプラム」とほとんど一緒であった。


試合後に囲みの記者に「川田へのメッセージですか?」と問われた冬木は、「指一本角度が違えば別の技なんだよ!!」と吠えた。このセリフは伝説となる。


プロレス技では、指の角度が違えば別の技になるのだ!!(笑)




ところで、話は変わるが。

病理診断で「低異型度異形成(low-grade dysplasia)」と「高異型度異形成(high-grade dysplasia)」の区別をはじめて聞いた医学生は、「これ、指の角度の違いよりわかりづらいんだが……」と頭の上にクエスチョンをいっぱいならべるに違いない。





細胞核の大きさが大きい方がhigh-grade。小さい方がlow-grade。

核が細胞の「底の部分」におさまっていればlow-grade。細胞によって核の置き場がバラバラであればhigh-grade。

細胞核内のクロマチン(核質)の量がすごく多くて汚いとhigh-grade。

免疫染色という手法を使って、p53異常タンパクがめちゃくちゃ蓄積していたらhigh-grade。




なんだ、こうやって基準を書いてくれるなら安心だ。気を取り直した医学生は思い直す。

でも、実際には、「核は大きめだけれど、配置は揃っていて、クロマチンはへんだけど、免疫染色は別に正常と区別できない……」みたいな、どっちつかずの症例がいっぱい存在する。

そして医学生は再び驚く。「ええーこれ、どっちなの。結局区別付かないんだけど」



一方、病理医はこれらをいとも簡単に見分けていく(ように見える)。どうやって区別したんですか、と尋ねると、このように答える人がいる。

「長年の勘かなあ……」




えっ! 病理医って勘でがんかそうじゃないかを分けているんですか! みたいな噂が立つのも無理はない。だって当の病理医が、「なぜそれをがんと診断したのか」を必ずしも説明できない場合があるのだから。


ただ……これは「勘」という言葉を使った病理医がやや雑ではある。なぜなら、一流の教科書をひもとくと、「勘」は必ず言語化されているからだ。もちろん、言語化された内容を読み解くためには、膨大な背景知識と臨床経験が必要だし、多くの先人達の「知見の積み重ね(エビデンス)」に精通している必要があるし、さらには実験室的な手法にあかるく、遺伝子検索や統計解析などにも詳しくなければいけない。簡単ではない。でも、少なくとも「がんか、がんでないのか」は、きちんと体系化されている。


そもそも、「病理医が勘で決めている」というわりに、多くのがん診断の「ぶれ」は少ない。たいていの病気は「100人病理医がいれば100人ががんと診断する」のが当たり前で、ぶれない。

もちろん、診断の難しいケースというのはある。100人病理医がいれば50人はがんと診断するが、残りの50人は「がんになりかけている、まだがんではないもの」と診断するなんてこともある。えっ、がんかがんじゃないかが決まらないってことですか? それは大変なことでは? ……いや、そこは本質じゃないんですよ。

この場合、臨床医は、「がんになりかけ、もしくはがんになったばかり」という大枠の理解で、治療を進めることができるのだ。


「誰がどう見てもがん、なものをがんではないと診断する」のはまずいのだが、「がんかどうか迷うくらいの病変」という診断はそれで十分役に立つのである。


大事なのは診断をビシッと決めきることではなく、ある程度幅のある診断をしても患者に対する治療や処置などが決まること。「6割方がんになっている細胞」とわかれば、その細胞が将来がんになる前に取ってしまう(あるいは焼いてしまう)治療は妥当とされることが多い。


病理医の勘は、AかBかを勘で決めるわけではなく、AかA'かを勘で決めるというイメージだ。Aであることまではビシッと決まる。「その先」が難しいから、経験や知識を駆使して、多くの人々の意見を参考に、言語化できていないような知覚までも駆使して診断を決めに行く。





冬木弘道も、本人の中で言語化していない部分で、あるいは、冬木スペシャルとストレッチプラムは別の技だという確信があったのだろうか。……単に照れ隠しのアングルだったのかもしれないが。




なおプロレスラー・冬木弘道は42歳の若さで大腸癌によって死亡する。彼の死を惜しむレスラーは多く、リングでは敵対していたレスラーたちでさえ、葬儀の際には大粒の涙を流して彼の死を悼んだのだと伝え聞いている。

2021年3月16日火曜日

文句なんて一切ないが掃除はちゃんとしたほうがいいということ

学会のシンポジウムに参加するために出勤している。うちの職場はまだ職員がホイホイ出かけていくことを許していないので、今回の学会もZoomで参加する。Zoomはほんとうに便利だ。


しかし学会運営というのは大変だと思う。Zoomで100人も人が集まると、1人、2人くらいは自宅のネット環境のしょぼさで通信がカックカクになったりするものである。運が悪いと、聴衆が一番楽しみにしていた招聘演者のプレゼンが、通信障害でまるで聞こえない、なんてこともある。これではなんのために学会をやっているのかわからない。


そこで、最近の学会は、Zoomで参加する人は「事前にプレゼンを自前で収録する」よう求めてくる。今回のシンポジウムもそうだった。ほかの出席者は会場に集まっておりリアルタイムでしゃべっているのだけれど、ぼくだけは数日前に夜中の職場でひとりパワポに音声を吹き込んだmp4ファイルを事務局が再生することで発表に変える。


ではぼくは発表のときに何もしなくていいのかというと……自分の発表を画面で見たあとに、会場の方々からやってくる質問にZoomで、リアルタイムで答えるのである。15分の発表のあとに4分の質疑応答。15分まるまる自分の声を自分で聴いたあとに、4分だけ40代の疲れた顔を画面にさらして会場とコミュニケーションをとる。


……シンポジウムの総時間は2時間。スーツにネクタイで出勤して日曜日の職場。ここにいるのは4分のためだ。まったく不思議な時間の使い方だなあと思う。


ところで、普通のシンポジウムというのは、全員の発表が終わったあとに「総合討論」と呼ばれるセッションがある場合が多い。ひとりひとりが自分のデータを出したあとに、最後にみんなでわちゃわちゃしゃべるから面白いのだ。しかし、今回の学会ではそれがなかった。ぼくは自分の発表が終わった瞬間に、事務局側から接続を切られ、「演者」として発言できなくなり「視聴者」側に回された。うーむ、ほんとうに今日の仕事はこれで終わりなんだなあ。残りの演者のプレゼンを黙って聞く。



Zoomは本当に便利なので学会の参加数が4倍くらいになっている。飛行機に乗らなくていいから自腹を切る必要がない。こんなに忙しくなるとは思っていなかった。そして、「Zoom前」に比べると明らかに自分の実力が数倍以上になっている。いいことだらけなんだけれど、とにかく、細かく、なんでこうなのかなあ、ということが心の隅っこに綿ぼこりのように溜まる。なんでもそうなのだ。高校を卒業して大学に入ったとき、大学を出て大学院に進んだとき、学位をとったとき、環境が変わるたびに、「前よりあきらかにいいな!」と思うことばかりだったけれど、何かのカタチが変わってこすれて、研磨された自分から剥がれた粉のようなものがフワフワと舞って、形状の入り組んだ心の片隅、いかにもホコリが溜まりそうなところにそっと蓄積していくのである。

2021年3月15日月曜日

病理の話(514) 画像検査で何をみるのかという話

CTという機械で、肝臓や膵臓をみる。


目的は「そこに病気があるか」としよう。


だいたい、2センチとか3センチくらいの、カタマリを作る病気であれば、見つけることができる……だろうか?


実はそうとも限らない。




「草原の中に馬が数十頭ほど群れている」ことはヘリコプターに乗っていればすぐに気づけるだろう。


しかし、「渋谷の雑踏の中に日向坂のメンバーが数十人混じっている」ことは気づけるだろうか?


普通に考えて、「人の中に人」では見分けがつかない。病気を見つけるというのもこれに近いものがある。だから、いろいろと工夫をしなければいけない。




ひとつの手段として……「そこに異常があることで、まわりがざわめいていないかどうかを見る」というやり方がある。


渋谷の雑踏に日向坂のメンバーがいたら、ファンが押し寄せたり声を上げたりそれを警官が押しとどめたりして軽く「パニック」になるだろう。


ヘリに乗ってそこを見ると、「原因が日向坂のメンバー」かどうかはわからなくても、「誰かのせいでパニックがある」ことはわかる。パニックのせいで道路が封鎖されて、近くに交通渋滞が起こっていることもわかるに違いない。



これといっしょで、たとえば膵臓においては、病気が隠れている部位の周りの形が歪むことがある。

膵臓の中を通っている「主膵管」という管が病気によって「せき止められ」、本来そこを通るはずだった膵液という自動車が渋滞して、管がパンパンに膨れることがあるのだ。

すると、病気そのものは見えなくても、「主膵管のふくらみ」によって、ああ、どこかにパニックが起こっていて渋滞が発生したのかな、と予測することができる。



ほかにも、病気そのものはわかりづらいが臓器の変形や萎縮(小さくなる)、一部が飛び出ることなどで、「おそらく病気があるな」と気づけることもある。





「病気をみる」という言葉を書くとき、ぼくは「見る」という漢字を使わないことが多い。これは、病気が毎回「見えるもの」ではない、という感情によるものだ。「診る(=診断する)」という言葉のほうがマッチする場合もある。究極的なことを言うと、見るし、観るし、視るし、ときには看ることも必要で、そういったことをぜんぶひっくるめて診るので、「みる」としか書きようがない。


けど本を書いているとけっこう校正さんに「為念 ここは『見る』ですか?」みたいにチェックされる。ごめんね、性根がめんどうで。

2021年3月12日金曜日

いったいどれが夢なんだ

Zoomは誰かとコミュニケーションするツールであるが、やたらと「正面やや下側から顔をまじまじと見てしまうツール」でもある。


自分に話しかけている他人と、他人に話しかけている自分。


これほど顔を見る機会はこれまでなかった。


まず、画面のフレームと顔のサイズがぴったりマッチしていない人が山ほどいる。振り返ってみると、テレビってのは、見栄えがいい人を見栄えよく撮ることについての技術がすごいんだな。Zoomでは「撮る技術」がないので、とにかく、顔の写り方が雑である。


あなたは遠いよ。あなたは近いよ。あなたは頭が切れているよ。あなたは光量が変だよ。


意図せずにうつる人々はみな一様にだらしない。そしてこれが本来の人間なのだ。人間ってのはもともとだらしない。


しかし不思議である。対面するとここまでのだらしなさは感じないのに、Zoomになると全員の顔面クオリティが4割くらい落ちる。美男美女であろうが関係ない。個人でいくらライトで補正したところで無駄なのだ。


Zoomだとメイクが雑だから? いや、そうではあるまい。


おそらく、これまで人間の脳は、「対面で話す相手の顔」をなんらかの手段で補正していたのだろう。


何万年にもわたって、「細部を気にせず、コミュニケーションに必要な顔面の変化だけを敏感に取捨選択する」という回路が、視神経からつながったどこか、あるいは大脳基底核のどこかに、複雑なネットワークとして組み込まれているのではないかと思う。


それがたぶん崩れたんだ。Zoomという新興デバイスの、対面とは微妙に違う映り込み方によって、ぼくらは他者の顔を補正できなくなった。


「顔面というやたら凹凸があって複雑な気持ち悪いもの」を、なんだかフラットに見てしまうようになったのだと思う。





あと、もうひとつ。


「たいていの人間は無意識で自分の顔に手をやっている」ということが、これほど可視化されるとは思わなかった。


ぼくは仕事中に、こめかみのあたりにある水疱瘡のあとをコリコリかいていることがある。これもZoom以降に気づいたことだ。かゆくもないのにな。


「無意識で顔に手をやる」ことが生存の上で何の役に立つんだろう。


「思わず口に手をやる」なんて普通に考えると毒を口に入れかねないはずなのに……。


……逆か? 経口免疫寛容のシステムをゆるめに用いて、体を守っているのかな?




だんだん体が硬くなる。オンラインでは緊張したやりとりしかできない。だらしなくはなれない。ぼくがZoomでだらしないやりとりをしたのはたった一度だけ、しかも、それはぼくが自分でやったわけではなくて、自分で書いた小説の中で、登場人物にやらせた。もはやどこからが現実なのか。

2021年3月11日木曜日

病理の話(513) 誤診を防ぐための技術

タイトルの「誤診を防ぐための技術」は、きちんと読んで欲しい。心の目で読み、心の脳(?)できちんと考えて頂く必要がある。


誤診を防ぐための技術――を――身につけろ!


誤診を防ぐための技術――が――重要だ!


誤診を防ぐための技術――がないと――誤診するぞ!



……おわかりだろうか。



技術が存在するからには、「その技術が磨かれてきた歴史」があるわけで、なぜこれまで先人たちが技術を磨いてきたのかというと、それはもちろん、


「誤診をしてしまうから」


である。




そう、医者は誤診をするのだ。そのまま善意だけで暮らしていては。やむをえない。それくらい診断というのは難しい。

「人を救おう」という熱意に技術を乗せて、誤診をなるべく回避する。ありとあらゆる現代医学の粋を尽くしてもなお「誤診」するとしたら、それはむしろ現代医学の限界とでも呼ぶべきものであって、誤診と名付けることに問題が生じるが、もし、先人達の作り上げた技術を「知らずに」誤診をしてしまった場合……それは……ほんとうに悲しいことだが、ある程度、「医者本人の責任」になってしまう(ことがある)。





一例をあげよう。


30代の女性のリンパ節を顕微鏡で見ていたら、あきらかに素性のおかしいリンパ球が多数認められた。リンパ球のうしろに張り巡らされているこまかい血管の走行もめちゃくちゃである。数々の教科書をひっくり返して「絵合わせ」をすると、これはもう、どこからどう見ても「悪性リンパ腫」というがんの一種であろうと思われた。


病理医は慎重に教科書をめくり、「血管免疫芽球性T細胞性リンパ腫」という診断名を付けようと思ったが、ある「技術」によって、待てよ、おかしいぞ、と気づいた。


病理医は主治医に電話をかけた。


「この患者さん、てんかんのお薬を飲んでいませんか?」


すると主治医はびっくりして問い返す。「えっ? 腫れたリンパ節を見てもらいたかっただけなんですけれど、てんかんのお薬なんて関係あるんですか?」


おおありなのである。実はこの人は、「薬剤性リンパ節症」といって、とあるてんかんの薬(ヒダントイン、フェニトインなど)を飲んでいるときにたまにみられる、がんでもなんでもない、一切悪くないリンパ節の腫れだった。しかし、医者にとっては非常に難しいことに、この薬剤性リンパ節症、顕微鏡で細胞をみてもリンパ球系のがんだとしか思えない(区別がつかない)


ここで病理医が使った技術とは、何か?


それは、「血管免疫芽球性T細胞性リンパ腫という病気は、ほとんどが40歳以降、中高年の方に発症する病気であって、30代に出るというのはかなりまれである」という知識を前提としている。


30代で血管免疫芽球性T細胞性リンパ腫っぽい像を顕微鏡で見たら、「抗てんかん薬などの薬による、薬剤性リンパ節症ではないかと主治医に電話をかけて問いただす」というのが技術だ。



おわかりだろうか。誤診を防ぐための技術というのは、「慎重になる」とか、「複数の人とディスカッションをする」とか、「免疫染色を変える」というようなものばかりではない。「知っていること」も技術に含まれるのである。



(※今日の記事は、雑誌『病理と臨床』2021年3月号の竹内賢吾先生の記事を参考にして書きました。文中に登場した病気や架空の患者と現実の患者・あるいは医療現場とは一切関係ありません。相当いじりました。)

2021年3月10日水曜日

おじゃる丸もだめ

なんか美女にフォローされたなーと思ったら、たいていは業者のアカウントである。


(※業者=URLに誘導してお金かせごうとしてるかんじのアレ 【同義】悪人)


ぼくはTwitterでフォローされたらまずその人のタイムラインを見に行くのだけれど、業者の場合、そもそも過去のツイートを遡るまでもなく、アイコンの写真でなんとなく「業者だな」とわかる。

10年もSNSをやっていると、「業者が乱用する美女アイコン」のオーラ的なにかが感じられるようになる。解像度というか……構図というか……色合いというか……。

おなじ美女であっても業者の美女はなんか違う。

何が違うんだろう?



たとえばここに美しい人がいるとする。美しい人はTwitterをはじめる。

アイコンの設定をする。アイコンとは自分の「顔」にあたる部分だ。自撮りを使うにしろ、風景写真を使うにしろ、マンガ・アニメ絵を使うにしろ、顔の代わりになるようなイメージで選ぶ。


ところがこれが業者だと、アイコンの選び方がなんか違う。

業者は、アイコンを、担当者の「顔と思って」設定しているわけではなく、うーん、えげつない言い方をすれば、「胸や尻だと思って」設定しているフシがある。直接胸やお尻の写真を載せているという意味ではない。そうではなくて、なんか、写真なら写真の、イラストならイラストの選び方の中に、「いい表情を選ぼう」という気概が感じられないというか、本人が一番いい角度を選んだというメッセージが一切伝わってこないというか。

とにかく「美女であるという情報」しか提示されていない、そのアイコンに対する本人の愛着がないなと感じるのだ。


写真のうまさの問題ではない。本人ゆえの感情移入がない写真というものがあるのだ。どれだけきれいな色味、すばらしい素材であっても、「このサイズでここに表示されるアイコンに私はこのような意味を背負わせたい!」という願いがしみ込んでいない場合、アイコンの内包する情感は低下する。さらに、そこに「下心召喚魔法」みたいなものだけがかけられているとき……


「人でなさ」が一気に感じられるようになるのだ。「人でなしさ」もにじむことがある。





最近は業者のアイコン設定もうまくなっている。一見、アイコンだけを見ると、「あれっ本当の美女なのかな」と思わせるケースも0.5%くらいはある。でも、そういうときも、タイムラインを少し遡って、貼られている写真を見るとだいたいわかってしまう。「このアイコンにこういう情感を載せている人間のツイートではない」と、網膜が危険信号を発するのだ。もはや言語化は不可能な部分もあるのだけれど、きっと、ディープラーニングなら追いつけるのではないかとも思う。この話は完全に「回数を重ねることで身につくド直球の経験側」なので、機械学習との相性はばっちりだろう。


本物の美女のアイコンはさりげなさがすごい。それがわかっていない業者など恐るるに足りないのである。なお、今のぼくが、今のツイート内容そのままに、実は中身美女……ということはあり得ないのだけれど、アイコンだけ美女偽装するならば、候補としては「カッパのイラスト」が上位に上がる。はなかっぱでもいい。忍たまはだめ。

2021年3月9日火曜日

病理の話(512) 無意識に差別してしまうことがある

先日、雪道で車がスタックしたときにひさびさにJAFを呼んだのだが、ランクルを駆ってやってきたおっさんがぜんぜんタバコ臭くなかったので感動してしまった。

昔だったらこの見た目のこういうおっさんは100%タバコくさかったのに!





――みたいなことをぼくもけっこう普段から考えている。偏見まみれなので、あまりおおっぴらに言うべきことではない。ランクルの前方にフックとワイヤーをひっかけて、ぼくのはまった車を雪の中からズボズボ引っこ抜いてくれる腕利きのおっさんがタバコくさいはずだというのは完全にステレオタイプの押しつけである。こういうところにハラスメントが潜んでいるし、差別の根もおそらく存在している。





そういう目線、そういう視線、そういう心から自由であろうとするためにはたぶん言語化が必要だ。「自分が今、差別的な心象を抱えている」ということを自覚してはじめて修正ができる。ただし、自覚すれば必ず修正できるというものでもない、というか、基本的には無意識の偏見みたいなものはなかなかなくならないので、この修正は決して簡単ではないと思う。





……このような、「差別的な無意識」が、ときに、自分の仕事(病理診断)においても影響を及ぼす。難しいことだ、しょうがないと、あきらめているばかりでもいけない。

「この年齢、この性別、このような主訴の患者から採取されてくる検体であれば、顕微鏡をみたときにきっとこういう所見が得られるだろう」

みたいなことを、本当に無意識に、毎日思い込んでしまっているときがある。この主治医が、このようなスケッチを描いて、この瓶の数で出してくる大腸生検であれば、まず潰瘍性大腸炎で間違いないだろう、みたいに。

でもそういう思い込みは危険なのだ。これは病理検体に対する無自覚な差別と考えることができる。「どうせ○○だろう」の先には薬剤性腸炎の見逃しがあり得る。腸管スピロヘータを見落とすこともある。学生ですら気づけるアメーバ栄養体が目に入らないかもしれない。




自動車運転で「だろう運転はだめだよ、かもしれない運転でなければ」みたいな標語がある。あれはほんとうにそうなのだ。ヒヤリとすること、ハッとすることいつも、「どうせ○○だろう」という慣れの先におとずれる。

診断にもそういう側面がある。夜中にランクルから降りてくるがたいのいいおっさんがいつもつなぎを着たタバコ吸いで尿酸値が高く土日に場外馬券売り場にいるとは限らない。冗談めかして書いているけれどこのような「差別」に自覚的でないと、診断はほんとうに、取りこぼすことがある。

2021年3月8日月曜日

何の役に立つんだ

右手の親指の爪を、「右手の中指の側面」、第一関節と第二関節のあいだあたりに、知らず知らずに押しつけていることがある。

親指と中指でOKサインを作ってみてほしい。

そのOKから親指を、中指の横にそって根元側に少しすべらせた感じだ。

よく、そのへんをコリコリかいている。

特に意識してやっていることではない。くせなのだろう。



さっき手を見ていたら、中指のその部分だけが硬くなっているので、「ああ、そういえばそういうくせがあるなあ」とわかったのだ。

実は左手にもある。完全に対称ではないけれど似たような位置の皮膚が硬くなっている。

今こうして、ブログに「くせ」のことを書いていて、余計にわかったことがあって、それは、ぼくはキータッチをバカスカしている最中、手が止まると、自然と親指で中指の横をコリコリかいているのだ。

つまりはキータッチと関係するくせだったのである。書いているときに自分の手にそれほど注意を払ったことがなかったのでわからなかった。






どこかの星から宇宙人がやってきて、ぼくとそっくりに擬態したとする。

そしてやつは職場に潜り込む。ぼくがある日出勤すると、ぼくそっくりのニセモノが先にデスクに座っていることに気づく。

びっくりする。完全にぼくなのだから。

あとから出てきたスタッフたちのうち一人は失神し、一人は失禁し、一人は腹を抱えて笑っている。さあ、どちらが本物か、あるいはどちらも本物なのか、そしてこれから先、わが病理検査室はどう進んでいくのか?

ぼくは言う。こいつはニセモノである、と。

しかしヤツもいうのだ。「こいつこそニセモノだ。」くやしいが声帯まで完璧に似せられているので声では区別がつかないようである。

そこでぼくは一計を案じる。「こいつはニセモノだ。ぼくに固有の『クセ』をあらわす、中指の硬くなった部分がないはずだ。ほら、ぼくの手はこのように硬くなっている。こいつにはそれがないだろう!」





……まわりはキョトンとする。

いや~市原先生にそんなクセがあるなんて聞いたことないですし……。






えっ、クセって、「その人固有の何か」であるにも関わらず、本人確認には使えないの?






というわけでクセなんて発見してもいいことはないので今日の記事のことは忘れてけっこうです。

2021年3月5日金曜日

病理の話(511) 俯瞰はボランティアではできない

病気や健康についての情報をわかりやすく伝えることはとっても大事だと思う。


わかりやすさのためには、語る側の脳内に、人体の「地図」が叩き込まれていることが重要である。


どこに何があるかをすみずみまで知っていたほうが、よりよい案内ができるであろう。





……と、このような例え話を使うと、読んでいるほうは、「そうね、大事ね、地図」とうなずいてくれると思うのだけれど、たとえば観光名所を案内するにあたって、地図だけを暗記していてその地域のことをきちんと伝えられるものだろうか?


「地理マニア」が、その土地のグルメをさも美味そうに紹介するぴったんこカンカン的リポートができるものだろうか? 


「地理オタク」が、インスタ映えする観光名所を軽快なトークと共に案内するめざましテレビ的リポートができるだろうか?


ぼくにはそうは思えない。


やはり、地図を俯瞰して眺めて暗記するだけではなくて、実際にその土地を歩いて回って様々な経験をした、「現場感」みたいなものが必要なはずである。


つまり、医療健康情報を「わかりやすく伝える」ためには、地図だけあってもだめなのだ。


その世界を実際に巡礼するかのような「臨床経験」を積んでおかないと、言葉に熱が籠もっていかない。




では逆に、「現場感」だけあれば、観光名所の案内に上手になれるものだろうか?


もうおわかりだろうけど、その土地で暮らして歩き慣れているからと言って、上手な観光案内人になれるわけではない。


「それは住んでいるあなたの偏った意見ですよね」


みたいなズレがどうしても起こる。土地の人間にとって居心地がよい場所、おいしい食べ物が、一見さんの観光客にとってもフレンドリーであるとは限らない。



俯瞰だけでもだめ、接写だけでも足りないのだ。

この両者を同時にやる必要がある。そのためにはどうしたらいいか?



「手分けする」というのはひとつの回答であろう。つまりは人数を集めて分業する。そしてそれぞれの役割にグラデーションをかける。


「お前は地図を覚えるほうが得意そうだ、あなたはクローズアップした現場の熱量を伝えるほうが向いている」


と、役割ごとに微妙にやり方を変えていくのがいいだろう。


医療情報に限った話ではないけれど、これらを分業するにあたっては、誰かが音頭を取ったほうがいい。


地図を覚えるのがうまいタイプの人は、民放のリポーター的なセンスはよくわからないことも多い。逆もまたしかりだ。


両方を見通してバランスをとってくれる人が別にいないといけない。




ではバランスをとる人というのはどういうタイプか?


NHKのディレクターみたいなタイプ、という答えがひとつある。視聴率も多少は気にしつつ、番組の網羅性も、ひとつひとつの番組がもつメッセージ性にも気を配る仕事。


あるいは米国CDCやがんセンターのような、国家が気合い入れて作った公的機関がバランサーの役を担うのもいいだろう。というか、この膨大な仕事、とてつもない予算と人員が必要なので、本来は国家できちんとやらないとうまくいかない。




で、日本を含めた多くの国では、「そこまでやれてなかった」ので、情報の出し方やまとめ方がどうしても「個人の努力頼み」になっている部分がある。専門家向け、玄人向けの部分はわりとしっかりしているのだけれど、広く公衆のみなさんあてに情報が整備されているかというと、まだまだ頭数が足りない。


情報というのは「伝えきる」ということがあり得ない。どこまで整備しても、困った人たちのニーズに100%応えることは難しい。そういうときは、困った人の目の前にいる医療者たちがボランティア半分、職務半分で、一期一会の情報をやりとりするしかない。


ボランティアをSNSで連結させると、「擬似公的機関」みたいなものができあがる。「みんパピ!」などはいい例だ。あれはすばらしい。まるで国家機関のような網羅性を帯びている。


しかし、あくまで「疑似」であることには注意が必要だ。プロフェッショナルの善意に追いすぎているし、個人的には、俯瞰性が完璧ではないようにも思う。一方で、接写の力がこれまでにないほど強いので、今まで世の中に足りなかった情報をうまく補完していることも確かである。




最後に書くのはぼくが現時点で問題視している部分だ。


「俯瞰」の部分にカネがかかっていない。地図を整備する役割が足りていないと思う。医療は専門性が高いので、ボランティアのひとたちはたいてい、自分の専門領域のことだけ言及する。そこをつなぎあわせるシステムがまだまだ整備されていない。


「俯瞰」は基本的にボランティアではできないのだ。個人の能力を超えているし、かかるカネの金額が段違いである。そして何より、「俯瞰している人」が尊敬されづらい構造が、この世界にはある。


そしてぼくはこの、「俯瞰はボランティアではできない」の部分を疑おうとしている。かれこれ5年くらい。善意の医療者たちをSNSでつなぐことで「俯瞰」するシステムができないものか、と、ずっと考えている。

2021年3月4日木曜日

我に返るな

本を買うスピードを落としている。2020年はちょっと買いすぎた。冷静になるべきである。我に返る。


「我に返るな! 我を返せ!」


はい!


帰ってくれ! 我!


字が違うけど! もう帰ってくれ!


よーしこれで邪魔な我はいなくなったぞ。これで純粋に客観的に俯瞰的に狂うことができる。


本を買うのをガマンしてはいけない。本は絶版がありえる。本屋になくなってしまう。古書店でも手に入らなくなる。昔、読もう読もうと思っていた教科書、6000円もしないのに、「高いな、3DSのソフト買えるやんけ」と思って買わないでいて、最近買おうと思ったらもう出版社にも在庫がない。重版してくれ! たのむ! と虚空に吠えてももう遅い。電子化してくれ! と言っても医書系版元にはそこまでの体力がなかったりもする。これでもう古典的名著は二度と読めない、逃がした魚はシロナガスクジラだ。その本を読んで参考になったという人々の声が今さら聞こえてくる。「あれはいい本だったよねえ」なんて。もう俺はいい本を読めない。なんてことだ。買っておくべきだった。そのとき読まずとも積んでおけば今読めた。なんてオロカなんだ。メシを抜いてでも本を買っておけばよかった。メシが世の中からなくなることはまずないだろう。本はなくなることがある。優先順位を冷静に、客観的に、俯瞰的に見通しておくべきだった。なぜ躊躇したのか? それは「我」に負けたからだ。「我」の欲求の順序を読み違えたのだ。同じ値段で安易に楽しめるほうを選ぼうとした「我」が間違っていた。我を返しておけばこんなことにはならなかった。


年間の書籍額が150万を超えた。この一行を配偶者に読まれるとさすがに我に返らざるを得ない。だめだ! 我を返せ! もう来るな! なぜ読みもしない全集を買ったのか……いや、だめだ! 帰れ! 我思わない故に本あり。我破れて本棚あり。窮我本を買う。三十六計書店に費やす。

2021年3月3日水曜日

病理の話(510) カミサマホトケサマ炭素サマ

生命をつくるタンパク質、あるいはその設計図であるDNAの中には、それぞれさまざまな素材が含まれているが、けっきょくのところ、どんどん拡大していけば最終的には「原子」にたどりつく。

ま、そりゃそうだ。どんな物質であっても元の元の元の部分には原子があるからね。

生命を構成している原子が何かってことを細かく考えると、カギになっているのは「炭素」だなと気づく。

なぜかって?

や、ほんとに。炭素だらけなんだよ。

たとえば、「アミノ酸」のウィキペディアを見てみるといい。

タンパク質の元となるアミノ酸の構造式には、こんなにもいっぱい、炭素(C)が……




ん? ない? Cなんてどこにもないって?

いやいや冷静に。

構造式において、炭素=「C」はあまりに多いのでいちいち書かないというルールがある。

特に、炭素と炭素が結合している部分では、「直線だけを書いて、Cを省略する」のだ。

つまりは折れ線がひとつ折れ曲がるたびに、そこにはかならず炭素がいるということだ。

炭素だらけだ。




DNAのもととなるヌクレオシドもすごいぞ。すごいっていうか、ひどい。

ほとんど折れ線まみれやないか! ぜひ、ツッコんで欲しい。




なぜこんなに炭素が便利使いされているのか?

それは、炭素が、「腕をいっぱいもつ原子」だからだ。連結部分が豊富なのである。




ちょっと例え話をする。

レゴブロックでお城や車を作ろうとおもうとき、四角い物体を作るのはわりと簡単なのだけれど、球状のものを作るとか、ヘビみたいにくねくねしたものを作るのがけっこう大変だという経験は、誰にもあるだろう(ないかもしれんが)。


レゴで多彩な形を作ろうと思うと、どうしても個数が必要になる。ドット絵の難しさと似ている。レゴは小回りが利かない。数を稼がないと、複雑な形状を作れない。なぜなら、レゴブロックが、デコとボコをひとつずつしか持っていないからだ。つまりは連結のバリエーションがなさすぎる。

せめてレゴブロックの横側にもデコやボコがあったら、もう少し多彩な形状を作りやすくなるだろうに(でも子どもは混乱するから商品としてはポンコツになるだろう)。



ものをつなげて大きな形を作るときには、「連結部分」が多いと自由度が増す。手を繋いで大きく育つための「腕の数」と言ってもいいだろう。



さて、原子もぶっちゃけレゴブロックみたいなものだ。たくさん集めてくればなんでも作れる。

そして、「腕の数」は、原子によってだいぶ違う。



水素は腕が1個しかない。酸素は腕が2個ある。

水分子(H2O)では、酸素の両腕に水素がぶら下がっている。

水分子にさらに何かをくっつけるためには工夫がいるだろう。だって、みんな、腕がふさがっちゃってるからね。



腕1個の水素や、腕2個の酸素をコアに据えていては、多彩な形状を作り上げることは難しい。さまざまな形を作りたいなーと思ったら、腕がなるべく多い原子をコアに置くといい。

そこで最適なのが炭素だ。なんと腕が4本もある!

炭素の周囲にはさまざまな可能性が花開く。

先ほどのアミノ酸も、ヌクレオシドも、いわゆる有機化合物と呼ばれるものは、みんな炭素をコアにもっている。炭素のまわりに多彩な物質がしがみつくことで、いろんな形、いろんな電荷、いろんな特徴を示す。





だから生命は、タンパク質だとかDNAといった、「自分を作り上げたり、情報をやりとりするための物質」のコアに炭素を用いているわけだ。




さて、腕が4つある物質は炭素だけかというと、じつは他にもある。たとえばシリコンがそうだ。SFの世界では、DNAやタンパク質のかわりに、シリコンのコアをもった物質によって作られた地球外生命体が人気だそうである。

では地球上に、シリコンをコアにすえた生命はいるか?

いない。全くいない。

なぜだろう?




……シリコンは化学反応を起こすのが難しいんだろうな。少なくとも地球の環境下で、太陽光や地熱、植物の葉緑体などを使って、シリコンを加工するのに必要なエネルギーを得ることは難しい。でもまあSFならなんとかなるよね。うん。SFだからね。そういう想像をしていくのは楽しいことだなあと思う。

2021年3月2日火曜日

モータウン

「単位時間あたりで脳に取り込む情報量」をかんがえている。

たとえば、

・非常に美しい風景を見る

というのはどうだろう。グランドキャニオン的な場所で、ばっと全体を見渡す。数秒で終わるが、8Kテレビ以上の圧倒的な情報が一気に脳に流れ込んでくるだろう。

映像最強である。




……映像はほんとうに最強だろうか?




ぼくらは見たものすべてを脳で処理するわけではなくて、「注目」したものだけを解析する。だから、8Kだろうが16Kだろうが、走査線をどれだけ増やしたところで、そこに一人の美しい人が立っていたら、もう背景なんぞは目に入らなくなってしまう。

それに、映像で「物語」をやろうと思うと、ある程度、決まった時間を「消費」することを覚悟しなければいけない。

2時間の映画ならば2時間分、4時間の映画ならば4時間分、目と耳をそこに集中させておかなければいけない。

あれこれ忙しい日常に、そうそう映像の前で黙っておっちゃんこできるかというと、うーん、なかなかそうもいかないというのが実状だ。




情報を短時間に脳に叩き込もうと思うとき、洗練された文章の方が映像よりも雄弁なことはある。たとえば、YouTubeを文字おこししたものを読むのに、YouTubeの本編ほどの時間はかからないだろう。

となると映像よりも文章の方が「上」だということになるだろうか。




ちょっと考えればわかることだが、「文章でくどくどと説明するよりも現物を一目見たほうが圧倒的に伝わる」ということだってある。写真しかり、絵画しかりだ。

まったくこのあたり、混同しやすい概念がタテヨコナナメに走りまくっていて、映像と文章、甲乙つけることはできなくなっている。

そしてここに「音」が加わる。




ぼくは仕事中にインストゥルメンタルを聴いていることがある。「仕事に脳を全フリしている」最中に、微弱なインプットを「ながら」で続けることができるのは音楽くらいなものである。映像をチラチラ見ながらの仕事はなかなかうまくいかない。動画は集中力を持っていかれる。その点、音楽ならば……。




うーん。









先日、北海道のラジオ番組「ムジークバリスタ #MUSIKBARISTA 」の週替わりプレイテーマが、「urban」であった。アーバン。都会。

日替わりのプレイリスターたちが、「都会」にちなんだ曲を毎日かけまくっていた。ぼくの好きな事務員Gさんも、様々な曲をかけた。

月曜からはじまって、水、木とムジークバリスタを聴き、金曜日。

ぼくの頭の中では、ずっと、Number girlのインストゥルメンタル「モータウン」が流れていた。

ぼくにとっての「アーバン」は、「モータウン」だったのだ。





今から14年前、ぼくが築地の国立がん研究センター中央病院で研修をしていたとき、毎日、通勤の都営浅草線の中で、iPodで聴いていた曲。

「モータウン」という曲名の由来はおそらくモータウンレコードであり、名称自体には別にアーバン感は一切ないのだけれど。

ぼくは、この曲と共に東京にいたので、アーバン、と聴くとたちどころにモータウンのベースが架空の鼓膜を揺らし始めるのがわかる。

はじめて暮らす東京、地下鉄の振動、輻射熱、よりどころのない不安と孤独と多数の後悔、この先自分がどうなっていくか読めなくなってもがいていたころの、筋緊張、爪の食い込んだ痕、日曜日の真っ昼間に大森のマンガ喫茶で失神するように眠っていた記憶、そういったものを全部含んだ「初体験の都会」が、モータウンにはすべて含まれている。




単位時間当たりでもっとも情報量が多いのは音楽だ、ということだろうか?

芋づるになって引っ張り上げられる記憶を、「情報量」という概念にカウントしていいのかどうか、わからないのだけれど。

2021年3月1日月曜日

病理の話(509) どう考えてもマニアックでプロの病理医ですら理解していないこともある話

ここにスイカがあります。


スイカです。


切ります。まっぷたつに。ドカッ。横山光輝三国志みたいに。


すると割面(かつめん=切り口)には、種がありますね。




ではこのスイカを、さらに細かく切っていきましょう。食べやすい大きさに。


8等分でも10等分でもいいですよ。


で、切り口がいっぱい出てきますね。そこにある種を数えましょうか。




たとえば10等分に切ったスイカの、切り口のところを全部見て、種を数えたとして。


その数がどれくらいになるかなあ。足したら、200個くらいですかね? だいたい。




ところでそれ、スイカに含まれてる種の数と同じだと思いますか?


違いますよね。


だって、スイカの実の中にうずもれている種があるはずでしょう。


切り口にうっすら見えているやつとかをカウントしたとしてもだ。10等分くらいだと、完全に切り口と切り口の間に入り込んじゃってる種もあると思いますよ。



当たり前ですけれど、「断面でカウント」したって、実際にそこにある種を全部カウントすることはできないんですよね。ただし傾向くらいはわかるけれど


断面にめちゃくちゃ種が多いスイカだったら、きっと実の中に埋もれている種も多いでしょう。それくらいのことは、まあわかる。




で、切り方を変えるとね。たとえば8等分、6等分と、切る数を少なくすればですよ。


そのぶん、数えられる種は減るじゃないですか。


逆に言えば、スイカの種の数をおしはかるためにスイカを切るならば、「鬼のように薄く切ればより正確なカウントはできそう」ってことになります。



でも、あんまり薄く切ると食べられないね。

それに、あまりに切りすぎると、数える種の個数がばくだいになるね。

おまけに、種を真っ二つにしちゃうと、もともと一つの種だったものを2回カウントしてしまうかも……。つまりはミスが増えますね。






さて、以上が、「臓器を切って、プレパラートにして細胞をみる」ときにも起こっていることです。



細胞を観察して、その挙動を推測するとき……たとえば、がん細胞が「リンパ管」と呼ばれるものの中に入っているか、入っていないかを調べようとするとき。


ちゃんと臓器を切らないと、少ない断面だけ見たって、「ただしいカウント」はできませんよねえ。


かといって、あまりに細切れにしすぎても、困ることがあります。種と一緒でね。カウントしすぎ、ということも起こる。


つまり、「適度な分厚さ」に切って、「正確な種の数をカウントできているわけではないけれど、毎回おなじ基準で切れば、切り口を見てだいたい種の数は予想できるよ」ということをやりたい。





わかる? これ、めっっっっっっっちゃくちゃ面倒な話で、ほんとうは統計のことを書かないと説明したことにならないんだけど、スイカの話にしときました。ポピ。それはSuica。