2021年3月25日木曜日

病理の話(518) 生検体の処理

患者にとっては知る必要のないことだ……と書くと今どき語弊がある。自分の体に対することなのだから、医療の細部はすべて知るべきだと考える患者もいるからだ。ただし今日の話はさすがに「どうでもいい」と思われる可能性を感じる。例えて言うならば、「ATMでお金をあずけたあと、そのお金がどのように処理されているか」みたいな話なのだから。しかし、かまわず進もう。それがブログのいいところである。


手術で体の中から病巣を採ってきたとき、それをそのまま放置しておくと、「腐る」。当たり前だけれど腐敗してしまうのだ。だから我々は、大事な検体をダメにしないために、ホルマリンを用いて採ってきた細胞を「固定」する。10%緩衝ホルマリンはタンパク質に作用して架橋を起こし、細胞が変性しないように形態を留めてくれるし、これによってばい菌が繁殖することも防げる。


ただし、この「ホルマリン処理」は、検体内部にあるDNAやRNAといった「遺伝子情報のゆりかご」、「遺伝子情報からの手紙」をダメにしてしまう効果もある。細胞自体はカタチを保ってくれるので、肉眼で形態を見つめたり、顕微鏡で見る分には便利なのだけれど、細胞の内部にある遺伝子にアプローチするにはやや化学的処理が強すぎるのだ。


すでにそこで完成している「細胞のカタチ」を見るだけでも、病気の正体はかなりよくつかめるのだけれど……今は医療が進歩しているので、できれば細胞がそのような病気へとたどり着いた「理由」をきちんと見極めたい。


さらに言うと、DNAやRNAに起こった異常を見ることは、「正体を知る」という意味だけではなく、治療に直結するのだ。


Aという遺伝子変異がある病気にはこのBという薬がめちゃくちゃよく聞きます、とか。


Cという遺伝子の異常がある病気にはDという薬はあまり効きません、といったように。


遺伝子を見ることで治療の幅が変わる。となると、毎回患者から採ってきた検体を、同じようにホルマリンに漬けているだけでは困る。



そこで……病理部ではけっこう複雑なことをやる。


たとえば悪性リンパ腫とよばれる血液のがんを扱う場合。体の中からとってきた検体を、ホルマリンに漬ける前にいくつかに分割して、


・ひとつは液体窒素で急速に凍らせたあとにマイナス80度のディープフリーザーで保存

・ひとつは特殊な溶液にそのまま放り込んで、冷蔵保存して染色体検査やフローサイトメトリー検査に外注

・ひとつはホルマリンに漬けて通常の病理診断に


というように、それぞれ異なる保存法で、異なる検査に出すのである。こうすることで、

「フローサイトメトリーでlight chain restrictionが確認でき、染色体検査で特徴的な転座を見つけておいて、病理ではH&E染色と免疫染色を用いて形態診断。これでもまだわからない場合には凍結保存した検体を解凍してさらに別の検査へ……」

といった複合的な診断が可能になる。そして臨床医はその結果を見て、その患者に一番マッチする治療法を選ぶのである。



採ってきた検体を何も考えずにホルマリンにぶちこまずに、「生(ナマ)の段階でいろいろ処理をする」ことから、ぼくらはこれを「生検体(ナマけんたい)の処理」と呼んでいる。採ったばかりの検体は分単位で劣化していくので、ほかに業務をしていても、検体が提出されたらすぐにそっちに取りかかる必要がある。技師さんが遠くから「生検体来ましたあ~」と言ったらぼくはすぐに返事をしてデスクを立ち、歩きながら手袋をはめて検体の処理を始めるのである。患者にとっては知らなくてもいいことだ。たぶん。