2023年8月31日木曜日

アクション大魔王

「リアクションではない原稿」をひとつ書き終えた。ほっとしている。まだ提出はしない。何度か読み直してから送る。とはいえ数日は待たない。数時間後には送信する予定である。


この連載のテーマは、ほぼ自由。縛りがない。ぼくはどちらかというと特定のテーマを与えられてそれについて書く(リアクション的に書く)ことの方が多いのだが、こちらからテーマを出していい原稿は、このブログを除けばわりと珍しい。


2ヶ月にいちど〆切がくる。というか、2か月間はほぼ放置されていて、執筆〆切の10日くらい前に「今回のテーマどうしますか?」という連絡が来て、1日くらいテーマを考えて先方に伝え、OKが出たら書き始めて数日で〆切、というサイクルである。もう少し早くリマインドしてもらうこともできるのだけれど、なんとなく1か月半くらいだらだらと「次はあんなことを書くのかもしれないなあ。」みたいなことを考え続けて、それがいい感じで煮詰められたギリギリのタイミングで「そろそろどうですか」という連絡が来る今のペース、わりとちょうどよいと思う。


ただしいつも楽勝で書いているわけではなくて比較的苦労する。1か月半かけて考えた内容は結局のところぼんやりとしか頭にないので、実際にキーボードを通じて書いてみないと、どっちに転がっていくかわからない。最初の数行が一番難しい。書いては読み、書いては読みして、目にうつる単語や漢字のバランスがおかしいとそれ以上先に進めず、しばらくは冒頭の部分をずっといじっている。いくらいじっても正解パターンが見えないが、しょうがないので少し先に進み、もう少し先に進み、まだまだ規定の文字数までにはだいぶあるなあ、くらいのところであらためて最初から読み直して、またチマチマ表現をいじったりする。序盤の三分の一くらいを書くのに一番時間をかけている。


その後、なにか急に「乗り越える」感覚があってあとはゲレンデをスキーで滑り降りるようなかんじで一気に書き進めて予定の文字数を少し超過する。確実に超過する。ここで文字数が足りないことはまずない。超過したままだとかっこわるいので、いったん最後まで書いたらまた最初に戻って読み直す。ただしここでいったん、少し時間をおく。


数時間くらい時間をおいてからあらためて読み直す。記憶がうっすらと抜けて「読者の気持ち」に少し近くなったタイミングで冒頭から読むと、さっきまでどっぷり浸かって直しまくっていた原稿のあちこちに、要らん表現というか、くどい表現というか、そういうのが必ず潜んでいるのでそういうところをバッサバッサと落としていく。同じことを別の場所に二回書いていたりもするのでそういうのも削る。そうやって削り込んでいくとだいたい文字数ちょうどの文章ができあがる。


最後にまた最初から読む。すると、「さっき思い付きたかった表現」みたいなのがぽろぽろ思い付く。これはおそらく、「自分で書き上げた文章に対するリアクション」みたいな効果なのだと思う。やはりぼくは基本的にはリアクションで書いていくほうが得意なのだ。自由テーマで自らアクションを起こすときにはとにかくエンジンがかかって動き始めるまですごく苦労する。しかしいったんほぼ完成品が出るとすかさずそれにリアクションできるようになるからおもしろいものである。たいていの人もきっとそうなのではないかと思う。ただしリアクションすればいいというものではない。


自分でいちから書いた文章をあとから読んで「こう直したほうがさらにいいだろう」というリアクションの半分くらいは、いわゆる「クソリプ」なのである。そんなこと言わなくても通じる。そんなにこねくり回さなくても文章はもうできている。ここで「良かれと思って」余計な手を入れたくなる自分をぐっと押しとどめ、数日寝かせてもう一度読んで、編集部に送る。だいたい、書き始めてから書き終わるまでが(間をあけつつの)1日、寝かせたりなんだかんだして正味で4日くらいかけてひとつの原稿を書き終える。


この書き方のキモはどこだろう? おそらく、「1か月半ぼんやり考えていること」だと思う。これがないとけっこう大変なんだよな。リアクション方式ならともかく。

2023年8月30日水曜日

病理の話(811) これは癌だろうか

病理医が細胞をみるにあたって、常に頭の中に入れているフレーズは「これは癌だろうか?」である。


額装して脳の一番いいところに貼ってある。


たとえば、炎症でぼろぼろになった粘膜を顕微鏡で見て、ヨレヨレになった細胞の顔付きをチェックするとき。細胞の核がはれあがり、細胞質の形状もおかしくなっていて、ああ、周りで炎症(東京リベンジャーズ的な集団でのケンカをイメージするとよい)が起こっているから、この細胞もくたびれているんだなあ、と判断するわけだが、ここで必ず、


「……まさか、癌じゃないよな?」


という発想で細胞をよく見る。なぜなら、癌細胞というのも、炎症でやられた細胞と似た感じでヨレヨレになることがあるからだ。


シチュエーション的に、ここに癌があるわけはないのだとわかっていても念のため。


主治医も医療スタッフも全員が「この人は炎症です。」と断言していても念のため。


この念入りさは、「校正」をやっている人のそれに近いかもな、と思ったりもする。著者や編集者たちが愛する作品に「まさかの間違い」がひそんでいないかどうかを、念のため確認していく大事な仕事。


確率は低いのだが、顕微鏡で見た細胞が「なにかに似ている」ときには、絶対に間違いがないように何度も何度も確認する。この作業は病理医以外には不可能だ。そして、見逃したときに各方面に大ダメージがおよぶのがほかでもない、「癌」なのである。




さて、どんな細胞を見ても「癌ではないか?」と考えるのが病理医の仕事なのだが、少し経験を積んでくると、さらにここが複雑化する。


「あきらかに癌細胞だ!」と思えるタイミングでも、「まてよ、癌に似た別の病態ではないか?」と、逆に癌の診断にブレーキをかけることもある。

さっきとは逆だ。

炎症が「癌」のように見えることがある。

そして、ほかにもさまざまなパターンがある。

病理医として勉強を重ねていくうちに、「癌のモノマネをする細胞」があることを知る。

類上皮血管内皮腫とか。

血管筋脂肪腫とか。

悪性黒色腫(これもがんだけど一般的な癌とはタイプが違う)とか。

Anaplastic large cell lymphoma(これもがんだけどタイプが違う)とか。

Epithelioid GIST(これもがんみたいなものだけどタイプが違う)とか。

Ewing sarcoma family of tumors(これもがんだけどタイプが違う)とか。

Alveolar soft part sarcoma(これもがんだけどタイプが違う)とか……。


最初に私は、「これは癌だろうか?」を額装して脳内に掲げていると言った。その同じ部屋には、癌と似て非なる病気の名前を書いた「掛け軸」がいっぱいぶら下がっている。毎日、顕微鏡を見るとき、プレパラートを左手で摘まむたびに、上記のモノマネ集団のことを何度も何度もくり返し唱えている。これはおおげさではなく本当にやっている。マジである。それくらいしないと、20年に1回、誤診するかもしれないからだ。

2023年8月29日火曜日

通勤3時間

羽田空港6:25発の新千歳空港行き(ANA)に乗り、千歳からJRを乗り継ぐとだいたい9:05くらいには職場(札幌駅のひとつとなり)に着く。定時は8:30始業なので、すこしだけ遅刻することになってしまうから、このパターンで出勤するときには午前中に半休をとる。半休をとったからにはお昼までのんびりしてもいいのだけれど、そも、朝イチで東京から帰ってくるような旅程のときにはメールの返事が溜まっているので、さっさと出勤して、午前中いっぱいかけて各方面に「返信が遅くなってごめんね」の一報を入れて回る。

この出勤、そろそろやめたい。理由は簡単だ。疲れるからである。そりゃそうだ。6:25発の飛行機に乗るからには、もろもろの準備を考えると前日はよる9:00にはスヤスヤ寝ておくべきだろう。しかし、そうまでして東京に行くようなケースの場合はたいてい夜中まで激論やら日本酒やらを交わしていたりして、寝るのは結局1時過ぎくらいになる。目を閉じて開けたらじゃんじゃんアラーム。とびおきてシャワーをあびて、前日にコンビニで買っておいたパンを食って弱めの血圧の薬を一錠飲んで、歯磨きまでしたら髪もろくに乾かさずに移動して空港ロビーをずんずん歩く。雲上ではひたすら追加の睡眠、JRの中でも睡眠、そうやって失った安息をちょっとでも取り戻してようやく元気に診断の場に帰ってこれる……元気ではない。元気なわけがない。

これはいわゆる過剰労働とかにあたるのかというと、まあそういう見方もあるとは思うんだけど、若いときのぼくがこういうやり方をしていた理由は別にボスからそうしろと言われたとか、そうしないと仕事が回らないからだとか、医療業界の闇に染まっているからだといった話「ではなかった」気がする。人より多くやりとげないと自分がここにいる意味が無い、という脅迫のような観念にずっととりつかれていた。やりたくてやっていたことと言うとまたちょっとズレるのだけれど、「そうでもしないとあとでチヤホヤされないじゃん」みたいな感覚ではなかったかと思う。狂ったようにギターの練習をするとか朝までかかってゼルダをやりこむとかいうのと似ていた。自分こそは過剰な負荷をかけても生き延びれるはずだという希望なくしてチャレンジなんてできないと考えていた。

「そこまでしなくてもわりと頼りになる人間になれるんだよ」というメッセージを、若い人たちにどう伝えていくか。たぶんだけど、ぼくは何もしなくていい。そもそも若手を「育てる」という考え方自体がおこがましいのだ。若者はかってに育つのである。我々ができることはせいぜい「よくない見本」としてそびえ立つことくらいか。夜討ち朝駆けでモーレツに働いた結果、この程度のところにしかいないんですよぼかぁ、真似したいですか? やめときなァ。眠気覚ましにブログかかないと指がかたまってうまく動かない中年になっちまうんだぜ。誰もこんなオッサンを目指そうとは思わないか。

2023年8月28日月曜日

病理の話(810) 像とか所見とか

「リンパ球が浸潤する像を認めます。」

「炎症所見は認められません。」


こういう文章を書いたり読んだりするのが病理医である。うわぁー専門用語っぽいー。


長年書いているうちに、えー、型にとりこまれていくというか、肩肘がガチガチに張っていって、もともと普通の日本人としてもっていた違和感みたいなものもスレてなくなっているんで、日常的にこういう文章を書いて平気な顔をしています。

でも、よく考えるとこれらの文章、くどいよね。


「リンパ球が浸潤する像を認めます。」

くどい!

「リンパ球が浸潤しています。」でいいじゃないか! 「像」も「認める」もいらないよ! なんで無意識に「像」っていう客観視アピと、「認める」っていう主観的アピを混ぜて使ってるんだよ! 客観と主観どっちに寄せたいんだよ!


「炎症所見は認められません。」

くどい!

「炎症はありません」でいいじゃないの! なんで無意識に「所見」っていう「診断を確定させたいわけじゃなくて、そこにある姿を述べているだけだ」みたいなエクスキューズと、「認めません」っていう「でも認めてないだけで本質的にないかどうかはまた別の話です」みたいなエクスキューズを混ぜ込んでいるんだよ!


「高分化管状腺癌と考えます。」

くどい!

「高分化管状腺癌です。」でいいだろ!


「No evidence of malignancy.」(悪性の証拠はない)

くどい!

「Benign.」(良性)でいいんじゃないの!



……とね。


教育の現場を見渡すと、今みたいに、所見のくどさを指導していく病理医はけっこういらっしゃいますよ。講習会とかでも見たことがある。

若い病理医ほど、所見用紙にくどくどと「自分の思い」を書いたり、「間違っていたときの言い訳」を書いたり、「病理医にはここまでしかわからないんですから、これは限界があるんですから、そこんとこわかってくださいよ。責任を押しつけないでくださいね」みたいなニュアンスを書きがちです。

だから指導医もやっきになって直すんだよね。

「言い切るときには言い切りなさい!」「表現がねちっこい! 遠回しすぎる!」みたいな指導を毎日のようにすることになる。



でもねえ。

ぶっちゃけ、病理診断報告書って、コミュニケーションツールだからさ。

いつも自信満々な病理医が、「今日はなんだか歯切れが悪いな……」と思われるような、くどくて長い報告書を書いていたら、きっとその細胞は、いつもと何か違うんですよ。

一流の臨床医は、そうやって、我々の書く文章を読んでる。こっちの思惑まで見通すような眼力で。



今日の話はいつも以上にぼくの主観なんだけどさ、病理医として命ある報告書を書こうと思ったら、ときどき、

「検体内に悪性を示唆する像はみられない。」

みたいな文章を書いてもいいと思うんだよ。

指導医はこれを読むと「示唆!?像!?……みられない!? もっと直裁的に書け! 悪性なし!」って指導したくなると思うんだけど。

ああ、なんとなく病理医が、表現をぼかしたい細胞だな、ってニュアンスも、たまには報告書に書いていいと思うんだよな。AIが診断してるんじゃないんだ。人が人に向けて診断してるんだからさ。



でもまあそこはバランスとセンスなんだけどね。いつもいつも「像」ばかりでは、やっぱりねえ。「所見」ばかりこねくりまわされても、それはそれで、困るわけよ。

2023年8月25日金曜日

ブログは徒歩

ちょっと短めに書く。


このブログでは「病理の話」とそれ以外の話を交互に書いており、土日祝日・12月30日~1月3日くらいにお休みしてあとは平日の朝5時~6時に更新している。記事を書くのはだいたい公開の1週間くらい前で、ストックが5本を切らさないようになるべくしているが、たまにゆるんで残りストックが3本くらいになったときはがんばって1日に3本とか書いて元に戻している。

このペースでブログを続けられているのは、ひとえに、「病理の話」という専門性縛り記事と、「フリー」の記事とを交互に書いているからだ。

病理に関連する話だけを毎日書いていたらたぶん半年くらいでしんどくなっていたと思う。

フリーのほうにも言えることだ。ぼくはもともと20歳くらいからホームページの更新をずっとやっていたのだけれど、毎日更新はしんどいので3日に1度くらいのペースで記事を書いていた。つまりはそれが随意に筆を走らせるときのぼくの適度な間なのだと思う。フリーだけでブログを更新していたらもう少しはやめに飽きていただろう。

どこかに歩いて行くときにぼくらが基本的に2本の足を使っているということを思い出す。さまざまな進化のかたちがあったはずだ。蛇のようにいざりいざりと這い進んでいくこともできたろうし、タコのように数本の足でうねりうねりとぬめ進んでいくこともできたろう。昆虫、イヌネコ、クラゲ、火星人。移動に用いるデバイスの数にはさまざまなバリエーションがある。そして人間はたまたまこうして2本の足を交互に動かすことで移動を細やかかつフレキシブルに行える。持続力もすごい。ほんらい生命というものは、訓練したからといって42キロとか100キロとか走れるほどのエネルギー効率を有さないはずなのだ(大移動する生物が非常に少なく例外的であることを考えてほしい)。なのに2本足でそれをやってしまうというのは、つまり、人間が神様に設計されているからとかいうのではなしに(まあ最終的にはそうなのかもしれないけれど)、持続的に何かを動かす上で「交互」というシステムが運動量的にも熱力学的にもすぐれているから、適者生存のことわりの中でしっかりとそこに収斂していった、ということなのではないかと思う。

何かを書くときのぼくも結局この「2本足を交互にはこぶ」というシステムに落ち着いている。なんというか、脳内のエネルギーをほどよく消費しながら遠くまで一歩一歩足を進めることにあまり苦を感じていないのは、たぶんそういうエネルギー効率的にこのやり方がいちばんいいからであって、そうか、このブログというのは徒歩の旅なのだ、ということを考える。だいぶ短く書いた! これでも1本の記事なのだから気楽な旅である。

2023年8月24日木曜日

病理の話(809) ホメオスタってる

えー、人体には秩序があるんですね。ととのってるんですよ。いろいろ考え抜かれている。誰の考えかって? 神様? いや、そう言っちゃうとスピっぽいかな。

うーん、なんていうかな、「高位の存在によって考え抜かれている」っていうニュアンスでとらえるといろいろ腑に落ちる感覚もなくはないんで、ついこういう言い方をしてしまいますけどね、実際には、長い時間が生命という存在を研磨した……というか、「このような複雑な細胞配置と相互作用を一定の期間に安定させることで、生命が生命として維持できた」というか、「この組み合わせのもとでエントロピーが増大しない系が持続している」という感じです。今書いたことはぜんぶいっしょのことです。「神様的な存在がそのように定めた」と言い表すことで理解しようとするか、「選択圧の末にそういう系が残存した」と考えるかの違いですね。そういう違いでしかない、とも言えるけどちょっとらんぼうかな。

ともあれ、人体には秩序があるんですよ。ではその秩序、どうやって保たれているか。これがけっこう難しくて、複数のイメージで考える必要がある。



まずは……ケミカルな部分から行きましょう。

レモンがすっぱい、パイナップルで口の皮がちょっとだけ溶ける、みたいに、自然界には酸性の物質とかアルカリ性の物質とかが、たくさんあります。ある液体の中に、どのようなモノが溶け込んでいるかによって、酸性だとかアルカリ性といった性質が決まります。酸性度が違うと何が起こるかっていうと、溶液中での化学反応が進んだり進まなかったりする、そこが重要なんですね。

化学反応です。ケミストリー。理科の実験です。フラスコ。ビーカー。アルコールランプ。水上置換法。いろいろやったでしょう。あの先にある話ですよ。

あるものが違うものにかわる、とか。二つのものがくっついて一つになる、とかね。電気が発生したり、塩分が沈殿したり、燃えて光が出たり。なんとなく覚えているでしょう。私も全部は覚えていないんですけど。理科です。

「ものが化ける」反応は、体の中でも常に起こっています。そして、うまいこと、必要なものが必要なだけ生成され、要らないものがその都度分解されていくことで、人体は長く安定して保たれる。

となると、人体が人体であり続けるためには、何が必要だと思いますか?

酸性とかアルカリ性のバランスがある程度狭い範囲で保たれている必要があるんです。

生きるための化学反応がいい感じで起こるように調整されているべきである。


でね、化学反応ってのはね、いったんはじまると再現なく最後まで進んでいってしまうタイプのものと、いったりきたりをくり返して「平衡」に達するタイプのものがあるわけです。

薪をあつめて燃やすなんてのはあれ、一方通行です。燃え始めたら灰になるまで止まらない。

人体にもそういう仕組みはあります。糖分をほどよく分解してエネルギーを取り出して細胞の活力にする、みたいなのは、わりと一方通行でガンガン進んでいく。このとき酸素もたいてい必要になります。

で、これだと、常に薪をくべていないと火は消えてしまう。だから人間ってのは毎日ごはんを食べないといけないし、四六時中呼吸をしていなければいけない。

しかしね、人体の全ての反応が、「火が燃えるように一方通行」だと大変なんです。ありとあらゆるものを補充しないと保てないから。

そこで、一方通行なだけじゃなくて、安定していったりきたりをくり返している部分ってのもきちんと用意されているんです。そういった部分には、「まわりの環境にあわせて、あたかも柳の枝のように、ゆるゆるとストレスを受け流すような化学反応」が潜んでいます。「平衡」を保つしくみ。

ここで活躍するのは「緩衝液」です。高校のときの知識を覚えている人は思いだしてください。忘れた人は……そうね、溶液をなんかうまいバランスに整えると、そこに多少酸やアルカリを加えても、なんかうまいことバランスとってpHがあまり狂わなくても大丈夫になる、「不思議溶液」のこと。

人体には、外界からくる刺激をうまく受け流すシステムがいっぱいあるんですよ。



今はケミカルを例にあげたけれど、フィジカルな部分でもバランスはいっぱいあります。

たとえば、腕には二頭筋と三頭筋ってのがあるでしょう。力こぶのほうと、遠くに向かって手を振るとプルプルふるえるほう。これらは対立関係にあって、かたっぽが収縮するともう片方は伸びます。両方がほどよく引っ張りあうことで、「ほどよい場所」に腕が落ち着くようにできていますね。これ、バランスですよね。

ほかにも、腸の筋肉なんてすごいんですよ。腸を輪っかのように取り囲む内輪筋と、縦方向をちぢめようとする外縦筋とがあってね。内輪筋がしぼりこめば、腸の中のスペースがほそーく、狭くなって、ただし腸自体は長くのびるわけです。イメージできます? 巻き寿司を押しつぶしたらお米が長軸方向にムニュって伸びるでしょう。

で、逆に、巻き寿司の断面の部分を手で抑えてフンッってつぶしたら、こんどは、巻き寿司の断面は広がるじゃないですか。

腕の二頭筋と三頭筋の関係といっしょなんですね。内輪筋と外縦筋は互いにバランスをとっている。

腕の二頭筋と三頭筋が交互にちぢめば腕はフンハフンハと曲がったり伸びたりします。腸の内輪筋と外縦筋が交互に縮むと腸はフンハフンハとシャクトリ虫みたいにうねるんです。「ぜん動」ですね。



まだまだいっぱいあるんですよ。バランスは。酸素分圧もそうだし、体温もそう。常在菌と免疫の関係もそうだし、細胞の増殖活性と寿命(新陳代謝)だってバランスなんです。

これらがぜーんぶいっぺんに保たれているのが生命。ときどきあちこち崩れつつも、がんばって元に戻す仕組みをはたらかせているのが生命。病理学用語で「ホメオスタシス」といいます。恒常性の維持。同じ状態であり続けること。そのために、いったりきたり、平衡を保ち、バランスをとり続けること。病理学で一番さいしょに習う用語の話でした。これまでいくつかの本に書いてきた内容だからまあくり返しなんだけど、同じ事を何度もくり返すというのもある意味、メタ的に、生命っぽい。

2023年8月23日水曜日

マスクをし忘れた

8月16日(水)、この日ついに、朝起きて身支度をととのえ、カーテンと窓を少し開けて空気を入れ換え実家からもらったパンを焼いて食い、ひげそりと歯磨きをし、起きてきた妻に挨拶をして車に乗り込み、スマホを開いてYouTubeで米粒写経の談話室を流し、運転して職場に向かい、車を降りて、駐車場をわたり、IDカードを玄関にかざし、廊下と階段を歩いて自分のデスクにたどりつくまでの間、マスクをし忘れた。

ああ、マスクをし忘れた。

誰ともすれちがわなかったからいいんだけど、もし病院の外来に患者がいる時間だったら、病気や治療の影響で免疫が落ちていて感染をおそれている患者がいる時間だったらと思うと、申し訳ない気持ちになった。

感染防御という意味ではさほど問題はない。早朝だ。患者用の玄関は開いてないし、同僚だって出勤していない。ほんとうはこんな時間にマスクなんてしなくていいのだ。

しかし、問題はないけれど、落ち込む。なぜならぼくは「しなくていいや!」と思ってマスクをしなかったのではなく、「いつものようにマスクをしていたつもりなのに忘れていた」のだから。


どうして忘れてしまったのか。

車を停めたあとに、米粒写経の談話室の続きを聴こうと思って、セミワイヤレスイヤホンを首にかけてスイッチを入れたところで、「耳にかかる重さ」をマスクのそれと誤認したのだろうか。イヤホンとマスクとでは圧のかかる方向がぜんぜん違うんだけど。


庭の物置のカギを手にして、「家のカギを持ったつもりになって」ドアをあけて外に出て、戸締まりをしようと思ったが家のカギがなくて、あっ……と気づいてもういちど家の中に入らなければいけない、みたいなことも、たまにある。物置のカギと家のカギとでは重さも形状もまるで違うのだから、丁寧に五感を探っていれば「必要なものを持っていない」ことがわかるはずなのだが、なんとなく手がふさがっているだけで満たされてしまっており、本当に大事なものを置き忘れてきてしまう現象。マスクとイヤホンだってぜんぜん違うんだけどなんか納得しちゃったんだろう。「耳に負荷がかかっているから大丈夫だ」というかんちがいみたいなもので。



なんとなく手がふさがっているからそれでいつも通りと勘違いしてしまう、ということは、寓話的でもある。まあいちいち寓話にするの嫌いだけど。

スマホでコンテンツを次々見ているうちになんとなく時間が過ぎていき、振り返って見ると「何も見ていなかったのと同じ」になるのも、たぶん似たようなメカニズムなんだろうと思う。

だらだらお菓子を食べ続けてお腹がふくれてしまい夕飯が入らなかったときの気分もいっしょだ。

余計なものを手にしてはいけないのだと思う。それで満たされてしまうからだ。



ぼくは常に手にTwitterを持っていた。

それを手放したことで、もっと違うものを持つだけの余裕が生まれた。

Twitterとは手にかかる負荷の方向性が違う。

さて、この場合、Twitterとは物置のカギだろうか。それとも、マスクだろうか。



2023年8月22日火曜日

病理の話(808) 断面図で3Dを脳内再現する訓練

病理診断というものは一種の断層診断である。


体内から採取してきた細胞を、4 μmという非常にうすいペラペラの状態に「薄切」して、それに色を付けて下から光を当てて上から顕微鏡で覗く。4 μmという厚さは髪の毛(50 μmくらい)よりもはるかに細く、白血球や赤血球(5~10 μmくらい)よりも薄いので、ほぼすべての細胞は断面にて観察することになる。


このため、細胞が織りなす三次元の構造をそのまま観察できない。断面しかわからないのだ。となるといろいろ想像力が必要になる。


たとえば。

胃の粘膜の中では、細胞が「試験管」のような配列をとることがある。細胞が作り出した粘液や胃酸、ペプシノーゲンなどを、試験管の中に放出して、それをピッピコピッピコ胃の中に分泌(ぶんぴつ)するわけだ。

この「試験管のような構造」のことを陰窩(いんか)という。陰窩がひとつだけ粘膜の中に存在するとき、顕微鏡でそれを見ても、すぐに「ああ試験管のかたちだな。」とはならない。切れ方による。

横切りに切れていれば、細胞が輪っかのように並んでいることがわかるだろう。斜めに切れていれば楕円に配列するはずだ(下の図の1)。そして、試験管は粘膜の中に1つだけ存在するのではなく、無数に満ち満ちているわけだから、断面で観察すると、視野の中に輪っかがいっぱい並んでいるということになる(下の図の2)。



最後の「3」は、細胞配列が乱れて、試験管のならびがくずれて、へびのようにうねってしまった状態を指す。このとき、断面の角度がうまくハマると、楕円状の構造が次々連なって観察できるのだが、「2」との区別には工夫がいるだろう。ひとつひとつの輪っかが、楕円の長軸方向(長い方の向き)に並んでいれば、元はうねった一つのへび型試験管だなと想像できるし、長軸・短軸関係なく満ちていればそれはきっと試験管自体がたくさん存在するのだ。


「2」の試験管の量とか密度といったものは、細胞の増殖活性、すなわちどれだけ増えようとしているかと関係がある。


「3」の試験管の構築の乱れといったものは、細胞の増殖場所のムラや、細胞の機能と関係がある。


これらを見極めながら、なるほどこの細胞にはこういう異常があるのだな、と推論を重ねていく。



細胞がレンコンのように、ひとつの塊の中に多数の穴を持つ構造に配列したら、断面ではどう見えるか? 角度によってどう変わるか?


細胞がカーテンのように、うねるシートの形で配列したら断面ではどう見えるか?

血管の周りに細胞が並んでいるというのはどういう状態か? ジグソーパズルのように平面を埋め尽くすような配列にはどんな意味があるのか?



そういったことを見て考えながら、どの病気にどういう細胞が出現するのかを照らし合わせていくのだ。けっこう想像力を使う仕事だなと思う。

2023年8月21日月曜日

鴨ほどではないので

熟したミニトマトが雨に当たってパンパン割れていた。じっさいのところは、割れた瞬間を見ていたわけではないので、「サクゥ……」とか「ぬるっ……」と割れたのかもしれないけれど、ま、見た感じ、鋭利にパックリ割れてるので、パンパンと割れたんだろう。

翌朝雨が降るとわかっていたのだから、昨晩のうちに多少小さくても収穫しておくべきだった。しかしうっかりビール飲んで寝てしまって、朝起きたら10数個は雨にやられていた。

いかんいかん。

それでもいちどに20個くらいは収穫できるのだから今年はすごい。毎日大量の野菜を食っている。なのにこの程度の肌つや……なぜ?



今年は暑いからか、いつもよりも野菜が育ちすぎる。きゅうりはズッキーニになったし、ピーマンはサンドバッグになったし、TwitterはXになった。迷惑である。そしてぼくは何にもなっていない。去年までいろいろとなりすぎた。今年は安定している。何にもなっていない。

強いていえば書店イベントをする人になっている。



なぜ書店イベントを好んで引き受けるのか。自分が前に出ることでだれかの著作が売れるというのがとっても気持ちいいからだ。自分の本が売れてもここまでうれしくはならない。こればかりは性格としか言いようがないので「なぜですか?」と言われても答えられないし、そこを細かく言語化するつもりもあまりない。書店イベントが好きなのだ。

書店イベントや出版イベントでは、基本的にお金をいただかない。むしろ書店で本を買う分お金を払っている。交通費が自腹になることもよくある。

こういうことを言うと、「業界にとってよくないですよ! タダでイラストを描く人がひとりいると、プロのイラストレーターにもタダで描かせようっていう不届き者が出てきて迷惑って言うでしょう! それと一緒です!」みたいなことを言う人がいる。でもそこをいっしょにしてどうするのだ。「プロの書店イベント出演者」なんてこの世にはいないのだから気にしなくていいだろう。仮に作家とか芸能人が書店のイベントに呼ばれたとして「無償でお願いします」なんていう面の皮の厚い交渉をする書店や版元がいればそのときその人がキレればいいだけの話だ。ぼくは別にいい。もちろん、その書店がそもそも好きな感じかどうかにはよるけれど。


30代でこれをやっているとイキリと言われたかもしれない。しかし今は「ああ、そういうへんな人なんだね」ということで周りがほぼ納得してくれる。それに、ぼくの周りにはもっともっとへんな人が数人いるのであまり気にならない。

2023年8月18日金曜日

病理の話(807) 細胞増殖の現場

病理医が細胞を調べるとき、一般的に使っているのは「H&E染色」という染め物をほどこしたプレパラートである。

H&E染色では、細胞の核や細胞膜などをハイライトさせ、細胞質に色味を与えることで、細胞の形だけではなく機能(分泌しているか、消化用の顆粒を持っているかなど)を見ることができる。

でも我々の使う武器はH&E染色ひとつではない。

「免疫染色」とよばれるやりかたがある。なにやらテクい名前がついているが、細胞の中にある特定のタンパク質に「タグ」をくっつけて、そのタグを特殊な色素で染めるという二段がまえの技法である。

細胞のすべてを一度に見るのではなく、細胞の中にあるタンパク質があるかないか、あるとしたらどこにどのように分布しているのかだけを見る。イメージとしては、空港にある金属探知機。人やカバンの輪郭だけが見えて中身が透けており、その中に重火器などの金属があるとピカッと光るアレ。免疫染色もああいう感じである。

免疫染色の中で最も一般的に用いられているのが、Ki-67というタンパク質に対するものだ。ケーアイろくじゅうなな、ではなく、キーシックスティセブンと発音する。キール大学の開発した67番目の抗体だからキーと発音せよ、とベテランの病理医に教わったことがある。


このキーを用いると、細胞が今、「分裂しようとしているか、それとも分裂はいったんやめて自分の機能をまじめに果たそうとしているか」がわかる。

Ki-67免疫染色をやって、ビカッと細胞核の部分に色が付いていれば、その細胞は「細胞分裂しようとしています」という意味である。


さまざまな臓器からとってきた組織にKi-67を施行すると、あちこちの細胞が「今、まさに増えンとす!」みたいな状態であることがわかる。

たとえば食道の重層扁平上皮粘膜では、粘膜の底のあたりにKi-67陽性となる細胞がずらりと並んでいる。粘膜の下のほうで細胞が分裂し、できた細胞は粘膜の上のほうにせりあがってきて機能を果たすわけだ。

筋肉の組織でKi-67を染めても陽性となる細胞はあまり多くない。筋肉は新陳代謝で入れ替わるよりも、分裂せずに筋肉としての機能を発揮することが求められているので、平時にはKi-67が染まる細胞はあまり多くないのである。



「がん」の組織でKi-67を染めるとどうなるか? 普通の細胞にくらべて、はるかに陽性となる細胞が多い。異常な増殖を示しているのだ。

でもKi-67は染まった数だけを見る染色ではない。

「どこに染まったか」を見るほうが役に立つ。

さきほど、食道の粘膜では、細胞は「底のほう」で増えると書いた。正確には一番底の部分じゃなくて、底の一段だけ上の部分なんだけど、ま、それはいいとして。

「食道がん」の場合、細胞は粘膜の底だけじゃなく、至るところで増える。粘膜の表面付近でも細胞が増えようとたくらんでいるわけだ。

「増殖の現場」が狂っている。異常を来している。だからがんだなとわかる、という寸法である。



つらつらと書いていて思うのだけれど、ぼくはかなり、「細胞がどのようにふるまっているか」を診断のときに気にしている。「こいつは今、増えようとしているな」みたいに、あたかも「細胞の気持ちを読む」かのような考え方をする。

病理医の中には、「安易に細胞を擬人化すべきではない。細胞にはそんな『つもり』はないのだから。」と言う人もいる。

でも、なんだろうな、ぼくがやっている仕事というのは、細胞が「どんなつもりなのか」を代弁する仕事なのではないかと思うんだよな。多少、本人の気持ち以上に、言い過ぎてしまうこともあるんだけど。

「Ki-67をみるとこいつはだいぶやる気になってることがわかるんですよ」、みたいなことをぼくは言う。クセなのでもうやめられないだろうな。

2023年8月17日木曜日

さようならの準備

黒歴史という言葉があるが、実際には白目になる歴史すなわち白歴史だ! みたいなことをスレッズでやりとりしている。

くだらない話はもっぱらスレッズでやっている。

スレッズのフォロワーは5000人を越えてそろそろ6000人といったところだがこれ以上はそんなに増えていかないだろう。

検索機能とハッシュタグがないことを嫌って、ほとんどのインフルエンサーたちはスレッズを去った。ナチュラルボーンSNS廃人であるぼくとか有吉弘行みたいな人間だけが今も元気にしている。

ここは元気になる場所だ。いままでのSNSの中でいちばんぼくに合っている。



スレッズの座標は、「下品さの少ない2ちゃんねる」と「映えないインスタ」を結んだ線分に、「情報商材の伸びないツイッター」から垂線を落として交わった場所、といった表現で通じる。




ちなみにタレスの定理を用いることでこういう説明も可能になる。




解説: ツイッターとインスタの2点を直径とする半円の円周のどこかに「次のSNS」を置こうと考えるとき、ツイッターからやってくる人、インスタからやってくる人それぞれが感じる理想のスレッズというのは微妙に異なる位置にあるのだが、ぼくの場合は「下品さの少ない2ちゃんねる」という場所からまず補助線を引いておくことが条件の決定において重要だったのだということ






ツイッターでは告知しかしなくなった。8月いっぱいでアカウント名とアイコンを変えようかと考えている(8/14 追記:このブログを書いた直後にもう変えました)。今月のあいだは「病理医ヤンデル」や「ヤンデル先生」として引き受けた仕事がけっこうあるため、それらの表示や告知に影響が出ないようにアカウントを保持しておいたほうがいいだろうという判断(8/14追記:別にいいやという判断)。どうせアカウントIDの @Dr_yandel とか @dr_yandel あたりはいじらずに残すわけで、見る人が見れば今後もああヤンデルなんだなってことはわかるから困らない。例のアオミドリのアイコンも12年使ってもうそろそろいいかなという気持ちで、現在どの「真顔のアイコン」にするかを検討しているところだ(8/14追記:キテレツ大百科風にしました→9月1日追記:色以外なくしました)。「そういうことでしたら、私はこれで失礼いたしますね」→「左様でしたら、私はこれで失礼いたしますね」→「左様でしたら」→「左様ならば」→「さようなら」の流れ。おせわになりました。ありがとうございました。

2023年8月16日水曜日

病理の話(806) ホルマリン固定論

胃や腸などを取り出す手術のことを考える。


体の中から取り立てホヤホヤの臓器は「筒状」、つまりパイプのかたちをしている。胃は中が少し膨らんでいて、入り口(噴門)と出口(幽門)のところがしっかりと絞られており、そう簡単に中身がもれないようになっている。腸は「長袖のシャツの袖部分」のようにフニャフニャしている。

これらを手術で取ってくるからには中に病気があるわけだ。病気はたいてい、筒や袖の内側の部分に存在するので、筒をハサミで切り開く。

長軸方向(タテ)に切って開いたあと、そのまま放置しておくと胃腸の壁にはりめぐらされた筋肉の弾力によってグニュンと縮んでしまう。

そこで、専用のコルクボードに虫ピン的なピンで、胃腸の壁をしっかり伸ばして貼り付ける。このときピンはなるべく潤沢に使う。ピンをケチって少しだけしか使わないと、四隅だけ引き延ばされて間の部分がたわむ。


十分に引き延ばした状態でコルクボードに貼り付けてから、板ごとホルマリンの中に漬ける。「10%中性緩衝ホルマリン」という溶液が今は好まれており、細胞内部のDNAを損傷しづらい成分比となっている。ただし、昔使われていた20%ホルマリンに比べると、液体の浸透力が弱く、臓器の中までホルマリンがしみ込むまでに時間がかかるので注意が必要だ。


ホルマリンは1日に5 mmくらい浸透する。1 cm程度の厚さの臓器ならばそのままドボンで十分内部まで固定処理できる。胃腸ならきちんとコルクボードに貼り付けてシワをほどよく伸ばしておけば大丈夫だ。逆に言うと、臓器をきちんと伸ばさずにホルマリンの中にドボンとやってしまうと……これはシャツをくるくるまるめて洗濯機に詰めこむような感じだけれども……内部までホルマリンが入りきらないから注意が必要である。

たとえば肝臓とか膵臓のような、中身が詰まっている臓器の場合は、内部までホルマリンがなかなかしみ込まないために、細胞が融解・変性しやすい。このため、ホルマリンに漬ける前に、隠し包丁的に切れ込みを入れたり、いくつかに分割して厚さを減らしたりする。



こうして、ホルマリンに漬けて1日くらい経つと、臓器は文字通り「固定」される。ピンを外してももうそこまでぐんにゃりとしない。ただしガチガチに凍るようなかんじではない。細胞ひとつひとつが強固になって、持っても弾力があってしっかりしている、といった雰囲気である。

この固定によって、臓器を取り扱うのが楽になるし、保存が利くようになる。腐敗もしないし、血流がない(酸素や栄養がおくられていない)にもかかわらず細胞が崩壊しない。


ちなみに、ホルマリン固定していない細胞をとりだしてきて、なんらかの手段で色を付けて観察することは十分可能だ。しかし、病理の歴史150年の中で編み出された最強の染色であるヘマトキシリン&エオジン(H&E)染色は、しっかりホルマリン固定された状態のほうがはるかに発色がいい。ケミカルな相性まで考慮した上での「ホルマリン固定」→「パラフィン置換」→「H&E染色」の流れが最強なのである。

そして、昔の「20%ホルマリン」で染めたときのほうが今の「10%緩衝ホルマリン」よりもさらに発色がいい。逆にいえば、顕微鏡で見たときの色味を多少犠牲にしてでも、今はDNAの損傷が少ない固定液を選んでいるということだ。「がんゲノム時代」(病気の診断にゲノム≒遺伝子の検索を大活用する時代)というのは、そういうところを気にする。




細胞を見て診断をつける、などというとわりとスマートというか知的というか(病理医が言うとうるせえかもしれないが)、とにかくじっと黙ってスッと見るみたいな印象を与えてしまうわけだが、実際にはたくさんの薬品と先人達の検討結果に基づく緻密な処理を通過する必要があり、「細胞の色味がいつもとちょっと違う……」みたいなこまかなニュアンスまで検討することができるのも固定や染色技術があってこそなのである。そういうテクニックを毎日使いこなしている検査技師は偉い。

2023年8月15日火曜日

野球場欲


写真の日付には96.3.24とある。手元で調べると日曜日。時期的に春休みである。

真ん中に写っている私は高校2年生を終えたばかり。右にいる弟は中学を卒業した直後。

写真を撮ったのは父だ。

うしろには西武・巨人戦の途中経過。つまりは野球のオープン戦。

場所に関する情報が得づらい写真だが、巨人戦の経過が書かれているのだから東京ドームだ。

私たちはこのとき、3連続で野球を見た。

東京ドーム、千葉マリンスタジアム、阪神甲子園球場。

千葉マリンと東京ドームは同じ日に見ているかもしれない。

とにかく野球観戦旅行をした。

一度きりの、しかし決定的な旅行をした。




それまで市原家の旅行といえば、父と母、祖母、私、弟の五人そろってのバスツアーが定番であった。会津若松やら南紀伊勢志摩やら、やや裏日本気味なところを訪れ、ガイドさんのうしろについて観光地をめぐる。夜は宴会場で固形燃料であたためた陶板焼やら鍋やらを食べる。あれは家族旅行という意味合い以上に祖母のための旅行であったのだと思う。具体的にどこに行ったかはもうほとんど覚えていないが、脳内の残響は美しい。

乙部(おとべ)町に遊びに行くのも夏の風物詩だった。「鮪(しび)の岬」の背中を駆け上がっていった先に明和小学校が建っていて、その向かいが母方の祖父母の住む家だった。土曜日スタート日曜日終わりの9日間滞在する。父親がさいしょの土曜日に札幌から乙部まで5時間半かけて母と私と弟を車で送り、父は1泊だけして日曜日にひとり札幌に帰って、一週間普通に勤務し、次の土日にまた乙部までやってきて私たちを札幌に帰す。コトの重大さを一切理解しなかった私たち兄弟は、毎日海や山で好きなように遊んでいたけれど、今にして思うと30~40代男性の体力が長距離ドライブでひたすら奪われる夏の苦行であったろう。まったく偉い父親である。

このようにして、だいたいは母といっしょに、たまに父や祖母もあわせて旅行に行っていたわけであるが、父と弟との三人で旅行したのは、冒頭の「野球旅行」だけだ。この一回の印象が、27年経った今も私の中に鋭く残っている。




この年、確か、父がそれまでやってきた仕事の総決算的な発表が東京あたりで執り行われた。私たち兄弟は一度も父親が働いているところを見たことがなく、仕事の内容も一切理解していなかったのだが、せっかくなので一度父親の仕事を見に行こうという話になった。

そこで、なぜか父は、「だったら野球観戦もしよう」という話をしてくれたのだと思う。あまり覚えていないがたぶんそういういきさつだ。自分の仕事を見るためだけに東京まで行くのは航空券的にももったいないから、旅行をセットにしてくれた、ということなのかもしれない。ただし首都圏の球場だけでなく甲子園まで訪れている。けっこうな出費だったはずだが、それが結果的に私の中にずっと刻印される春休みの思い出になったし、父もおそらくは楽しんでいた。

当時、札幌でプロ野球観戦といえば、北海道神宮のとなりにある円山球場という小さな市民球場で、年に数回、巨人戦や西武戦をやるのを狙い澄まして見に行くしかなかった。毎日テレビでナイター中継を見るばかりだった私たちはたしかに球場の雰囲気に興奮した。東京ドームは「ドームだ!」という喜び以上のものをあまり覚えていないのだけれど、強風ふきすさぶ千葉マリンのバックネット裏で、初芝のファンがずっと「初芝サーン!」と黄色い声援を飛ばしていたのを今も思い出せるし、その女性が代打で出てきた堀に「ギャー堀サーン!!!!」と信じられないくらい大きな声を出したときに、ああ初芝はそこまででもないのか、と笑ってしまったのもよく覚えている。

そして極めつけは甲子園だ。駅からどうやって球場までたどり着いたのか全く記憶にないが、スタンドに向かう通路に漂う便所の臭い、3月なのにまるで真夏のように照りつける日差し、外野スタンドの応援団の人いきれと、最前列で応援旗をふりあげる胸鎖乳突筋が異様に発達した高齢男性の「ケーッ!」という金属を切るような掛け声、石井一久の前にまるでヒットを打てない阪神打線となぜかそれでも打点を挙げてしまう八木(後の代打の神様である)。

試合が終わった後どうやって宿に向かいどうやって帰ったのかは完全に忘れた。狭い居酒屋のような店で何かを食べた記憶がないわけではないのだが、これは後年おとずれた出張先の記憶とかぶってしまってノイズが強くてうまく再生できない。



今にして思えば父はかなり野球が好きだった。私たちもテレビで野球を楽しんでいたけれど、実際に野球をやったり見に行ったりしたいとは言わなかった一方で、父親は本当に野球が見に行きたかったのだろうし、あるいはやりたかったのかもしれないと思う。

私たち兄弟が習い事をはじめる前はよく父親とキャッチボールをしていた。その後、私は剣道、弟は卓球をはじめ、父親とまともに野球をすることはなくなった。野球帽は応援するチームではなくデザインで選んでおり、紺地に白くWと書かれた大洋ホエールズのキャップを小学校の頃のぼくはよくかぶっていた。中学、高校になると、ゲームで野球選手の名前を覚えたが、実際にプレーしたり観戦したりする欲は特に育たなかった。

その程度の野球愛だった私は、しかし、押しつけるでもなく父が用意した「野球旅行」によって、心の奥底でしなびる程度に生えていた野球への愛情に変化を与えた。

高校3年になった私は、同級生が全国高校野球の全道大会に出場して負けていくところを、「全校応援」で見たのだけれど、前の年に比べてあきらかに球場への興味が増していた。野球はこれまで通りにおもしろかったのだが、それをはるかに上回る勢いで、「野球場」が好きになっていた。しかし札幌在住の私にとって、「野球場欲」を満たしてくれる機会はそうそう簡単には訪れなかった。



日本ハムファイターズが北海道にやってきたのが2004年だ。私は喜び、ついに札幌でも頻繁にプロ野球が観戦できるなと小躍りしたのだが、いざふたをあけてみると、私が札幌ドームに試合を見に行くことは数えるほどしかなく、高校時代の欲求は果たされないままであった。

札幌ドームが悪いというわけではない。有機的でとてもかっこいい球場だ。しかし私にとっての札幌ドームとは、野球場ではなくサッカー競技場のイメージが強い。

札幌ドームは日韓ワールドカップのために建設された球場であるが、ワールドカップの前年(2001年)にはすでにコンサドーレ札幌のホームゲームが札幌ドームで開催されていた。ちなみに日本ハムファイターズが北海道にやってきたのは2004年である。

2002年、大学5年生、私は札幌ドームで開催されたコンサドーレ札幌の試合を見に行き、ディフェンダーであり確かキャプテンでもあった曽田雄志のハットトリックを目撃した。曽田はひそかに高校の同期でもあり(話したことはなかったが)、コンサドーレ自体にも愛着があった。そんなこんなで私にとって札幌ドームはもっぱらサッカーの場として記憶された。



こうして、父親の努力(?)むなしく私の野球場への愛着はいったん沈静化したかに見えた。しかしその後、思わぬ方向からふたたび私の心の中の「苗木」に水をやるようなできごとが起こる。

2014年、月刊アフタヌーンで『フラジャイル 病理医岸京一郎の所見』の連載がスタートし、私はアフタヌーンを購読するようになった。そして2016年ころ、『球場三食』というマンガが連載される。


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「野球を見に行くときには、球場で三食メシを食う」というポリシーを持った30代男性(予備校教師)が、毎回ひたすら野球場を訪れてそのすばらしさを語るという「だけ」のマンガなのだが、これが本当にたまらないのだ。私は毎月フラジャイルを読みつつ必ず球場三食を読んで感想をツイートしていた。私が内にため込んでいた「野球場欲」をそのまま燃焼させているマンガがここにはあったのだ。臆せずに言うが私はおそらく日本で一番このマンガの更新を楽しみにしていた読者の一人であるし、後日、某関係者から、

「アフタヌーンの編集長が、『ヤンデルは球場三食を好きだって言ってるからいいヤツなんだな』って言ってましたよ」

と謎のタレコミを受けたこともある。



そして私はことあるごとに、「仕事が落ち着いたら野球場に行きたい」というおじさんになった。ポッドキャスト「いんよう!」でもときどき口にして、よう先輩から「いっちーはそれほんと言うよね」と笑われていた。ただし札幌ドームがサッカー競技場である以上、私にとっての野球場欲を満たせるのはあくまで内地にあるスタジアムだけであり、なかなかその欲望は果たされないでいたのだが、ここにやってきたのが皆さんご存じエスコンフィールドである。



エスコンフィールドについては、その建設をめぐるあれこれを書いたノンフィクション『アンビシャス 北海道にボールパークを創った男たち』(鈴木忠平)があまりにすばらしいのでぜひ読んで欲しい。

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鈴木忠平といえば落合博満を書いたノンフィクション『嫌われた監督』や、清原和博のルポである『虚空の人』で今や時代を代表するスポーツノンフィクションライターであるが、本書を読んだ「本の雑誌」のスタッフが、『鈴木忠平は沢木耕太郎の再来だ』と発言するほどで、私はいくらなんでもそれはないだろうと高をくくって読んだのだが読了後には確かに再来だと納得してしまった。

ただ、まあ、その、本で読んだからどうこうというのではなくて、エスコンはいい。私は2度ほど見に行ったのだがあそこにはまさにボールパークとしての雰囲気がある。確かに「野球場」なのだ。いやー長かった。私が欲望をぶつける場所にたどり着くまでに、四半世紀もかかってしまった。来季は仕事を減らしてシーズンチケットを取る。

2023年8月14日月曜日

病理の話(805) 没個性な細胞をみる

むずかしい、むずかしい、診断である。

細胞があまり見たことのない形態をしていた。パッと見で、顕微鏡の拡大を上げる前の時点で、「あーこれ決着させるの時間かかりそうだなー」とわかった。そして実際に拡大を上げて「ほらやっぱりー」とひとりごちた。

どうも細胞の性格がわかりづらいのだ。とりたてて特徴がないというか……。





ぼくら病理医は顕微鏡を見て「細胞の特徴」を見極める。

カタチ(輪郭)や色合い・色ムラ、細胞同士の配列。

たいていの細胞は、病気だろうが正常だろうが、なんらかの特徴をもっている。それは主に、細胞が「どういう仕事をしているか」によって決まる。

警察官と消防士とセブンイレブンの店員がそれぞれ違う制服を着ているようなものだ。農家で畑を耕す人はクワを持ったりトラクターを乗り回したりする。ゴミ収集車に乗る人は汚れを防ぐためのツナギを着ている。見た目でだいたい仕事がわかるようになっている。

細胞だっていっしょなのだ。ふつうは。

しかし、今回の診断では、細胞の特徴がいまいちわからない。うーん、形質細胞に似た細胞質を持っているといえば持っているんだが……でも形質細胞と違って隣同士すこーしだけくっついているなあ……。核の大きさが不揃いな点は気になるけれど、ふだん見ている悪性腫瘍と比べると、迫力がないというか、核小体もあまり目立たないし、クロマチンの量も増えてないんだよなあ……。

細胞に特徴があれば、我々は、「おそらくアッチ系の細胞なのだろう」とわたりを付けることができる。粘液を持っていれば腺系の細胞だろう、神経内分泌顆粒がみられれば神経内分泌腫瘍のどれかだろう、といったように。

これはたとえば、今そこにいる人の身体検査をして、拳銃が見つかった場合に、「警察官か、自衛隊の人か、ヤクザか」のように、その人のおよその属性に目星をつけるようなものだ。警察官とヤクザでは正反対じゃないか、と思われるかもしれないが、二択や三択まで絞り込んでしまえばあとは丁寧に調べればいいだけなのである。

しかし今回の細胞にはそういう特徴がない。まいったなあ。とっかかりがないから、どの教科書を開けばいいのかもわからない。



一度悩み始めると診断はどんどん遅れる。

こういうときには、他の人の目も借りるとよい。「診断の達人」に相談できればベストだが、いわゆる「普通の病理医」に複数見てもらうのも役に立つ。自分だけで見ていると気づかない「所見」があるものなのだ。誰かといっしょに顕微鏡を見て、細胞の様子を口に出しながら語り合っているうちに、「あっそういえば……」と、

視野には入っていたのに見えていなかったもの

や、

見えてはいたけど意味を取り出せなかったもの

に気づくことがある。



「たしかにこの細胞、個性がぜんぜんないけど、逆にいうとこの個性のなさで、これだけ増えてるって時点でかなり異常だよね」

「たしかに……」

「あと、この没個性な細胞だけじゃなくて、同時にこう……別の細胞もまぎれこんでないかい?」

「言われてみればそうだな。こんなに炎症細胞がまぎれこむということは、あの高悪性度の腫瘍ではないのかもしれない」

「そしたらむしろこれから免疫組織化学で検討すべき内容は絞られてくるんじゃないの?」

「おっそうだな」




抽象的すぎて誰の参考にもならないことを書くけれども、細胞の診断においては、「わかりやすい所見」があるに越したことはないけれど、「わかりやすい所見が一切無い」というのも立派な個性である。ある程度経験を積んだ病理医がいくら顕微鏡を見ても「没個性なやつだなあ。」と感じる時点で、それはじゅうぶんに特殊なのだ。

さらに、細胞の細かな性状を調べよう、見極めようと、やっきになればなるほど見逃しやすい情報というのもある程度決まっている。細胞同士の距離感とか、背景に増えている炎症細胞の割合とか、間質の成分とか、多彩性の有無とか……。「あっ、わかりにくいな」と感じた瞬間に、頭を切り替えて、「瞬間的にわかりにくいと感じるタイプの病気にありがちなこと」を探しにいく感覚が重要だ。




……また、ほかの領域にはまったく応用できないマニアックなことを書いてしまった。まあいいか。「病理の話」だし。

2023年8月10日木曜日

手が滑ってバズった

ここ最近でいうと、「積ん読と献本が嫌いすぎて嫌いすぎて」というタイトルで書いた記事の視聴者数が、いつもの3倍くらい多いのを見てなんだかがっくりしてしている。なるほど、タイトルに「強い感情」を書くとこうして読む人が増える。だからみんなああやってウェブ記事に爆発力の強い言葉を冠するようになるのだ。

「ウェブ出身」のライター・記者が本を出すと書名でわかる。「なぜ~~のか?」みたいなタイトルばかりだからだ。そういう記事が一番PV数が多かったという体験がしみついており、書店に似たようなタイトルの本が何百冊も置いているにもかかわらず、自分の渾身の著作に埋没必至の名前を付けてしまう。

なんというか、あわれだなあと思う。

自分が何かを世に出すにあたって、自分にしかひねり出せない言葉をこれでもかこれでもかと積み上げて、一枚一枚紙を束ねて丁寧に作った本に、最後の最後に「売れ筋」の看板を付けて平気な顔をしている。

あわれではないか。


「それでも手に取ってもらって読んでもらわないと何もはじまらないのだ」という考え方もあるが、TikTokくらいからこっち、「手に取って捨てる、手に取って捨てる」というサブスク消費が全盛になっており、手に取って読んでもらって、はじまったと思ったら次の瞬間にはもう終わっているのだから、「手に取って読んでもらってもはじまらない」ことをもっと真剣に考えたほうがいいとぼくは思う。そもそも手に取らなければ戦えない、というのは、「竹槍でも持っていないよりはマシ」というのとニュアンスとしては一緒だ。その程度の心意気でどうするのだ。「タイトルの段階ですでにおもしろい」と言わせずしてなんの書籍か、と思う。


しかしひるがえってぼくはこれまで、自分の書いてきた書籍のタイトルを自分で付けたことはほぼない。どんなオチだよ、と全員ずっこける音が聞こえるようだ。ただし、ぼくの本のタイトルはどれも「売れ筋になりそうにない、丁寧な名付け」だったからぼくは気に入っている。だからこそ、この記事の最初に述べた、「積ん読と献本が嫌いすぎて嫌いすぎて」のタイトルはちょっと手がすべったな、あーあ、PV増えちゃったなあ、とがっくりしているわけである。

2023年8月9日水曜日

病理の話(804) フレックスの範囲

病理診断には、「プレパラートが手元にあがってきたらすぐに診断しなければいけない」といった制限時間の縛りはさほどない。


病理医になろうと思って勉強している人は、ボスからたいてい一度は、「急がなくていいからゆっくり見てね」と声をかけられていると思う。


わりとぼくらはゆっくり診断できるのだ。


救急診療だとそうはいかない。カップメンにお湯を入れた直後に患者が運び込まれてきて、当番医が「あと3分待ってから7分で食べるから10分後に行きますね」とか言っていたら、その間に患者は死んでしまうかもしれない。

内科の外来にたくさん患者が待っていて、なんか疲れたからここから先は明日来てくださいというわけにもいかない。Twitterでもたまに医者が「今日は100人診療しました。だいぶお待たせしてしまって申し訳ない」みたいなことを言っていて、そうなんだよな、お待たせしてしまうのはつらいよな、それでも自分のご飯とか休憩をあとまわしにしてその日のうちに診療してしまわないといけないんだから大変だよな、とお察しする。

でも病理診断なら、今日見きれない標本を明日見てもそんなに問題はない。

少なくとも数時間後にあらためて見直す、くらいのことは日常的である。

ご飯をジャマされることはめったにない(迅速診断というのがあるにはあるが。

あらかじめ主治医が、患者に向かって、「病理検査の結果は2週間後に聞きにきてください」と説明してある場合、我々病理医が検査の翌々日くらいに結果を出そうが、4日後に出そうが、6日後に出そうが、患者の説明日は変わらない。

病理診断にさまざまな経過がありえることをわかっている主治医は、「結果の説明は2週間後にしましょう」というやや余裕をもたせた診療の設定をしている。病理医にとってはありがたい話である。



そんな病理医の仕事は、よくフレックスと言われる。子育て中の医師が、夕方に子どもを園にお迎えに行き、ご飯を食べてパートナーの帰宅を待ち、パートナーが帰宅したあとにあらためて出勤して顕微鏡の続きを見る、もしくは早朝に出勤して診断の続きを行う、といった話を聞く。


ただし、ぼくは病理診断をかなり早く仕上げるほうだ。プレパラートができたらその瞬間にまずすべての検体を一気に見る。プレパラートは患者ひとりずつ作成するのではなく、1日の中でまとめて数百枚を処理するので、同時にたくさん仕上がるが、その全部をとにかく最初の2時間、3時間でガッと見る。「とにかくいそいで一見する」というのがかなり大事だ。

これは個人的な感覚なので、すべての病理医がこうするべきとは全く思わない。もっとゆっくり仕事をしてもぜんぜん通用する。しかしぼくはとにかく「第一手」を急ぐようにしている。

できれば第一手の段階で診断を瞬殺で付けてしまう。しかし、診断が難しい検体は、さすがに一瞬で決着がつくとは限らない。そういうときはじっくり時間をとって考える必要がある。

この、「じっくり考える時間」をもうけるためにも、まずチラ見するというのが重要である。



プレパラートがどさっと仕上がってくる。そこでつい「まあ翌朝でいいか」と気をゆるめてしまい、帰宅して、日をまたぎ、翌日ちょっと別の仕事で忙しくなって、プレパラートをしっかり見るのが夕方になって、1日おくれでようやく顕微鏡を見はじめ、たくさんの患者の検体を見ながら1時間半ほど経過したところで、ひとりの患者の細胞をみて「あっ、これ珍しい病気だ!」となって、追加の染色をオーダーしようと思ってもその日の検体処理業務はもう終了していて、追加染色のオーダーを通せるのが次の日の午前中になり、新たにプレパラートがやってくるのにさらにもう一日(最初のプレパラートがあがってきた3日後)……みたいなことを一度でも経験すると、あるいは未遂であっても体感してしまうと、もう、「しばらくおいとこ」という考え方にはならない。



では、ワークライフバランスを大事にしたい人はどうすればいいか。

「上がってきた標本をまずはちらっと見る」の時点での精度を高める。これは時間がかかりそうだな、という症例を早めにより分ける。業務のスケジュールのどこに「診断の難しい患者」をはめこむか、という段取り力を鍛えておく。

初見時の段取りさえうまければ、子育てをしようが旅行に行こうがゼルダをやろうが、患者や主治医を本来の待ち時間以上に待たせることなく、うまく診療を進めていける。




言い忘れたけど珍しい病理診断をするときには、「主治医がその診断名をみてぎょっとするかもしれない」ことをきちんと想定しておきたい。

自分の手元を離れたら病理診断はそれでおしまい、ということはない。

病理医が付けた診断が現場で走り出すときの時間感覚も持ちたい。

何十万人に一人しか遭遇しない病気の診断がついたら、主治医だって患者だって、その後の対応をいろいろ考えなければいけない。○○病? なにそれ? となることは十分にあり得る。

診断名を見たときに主治医が十分に勉強し、最新の医学に対応した医療の準備を整えられるように、病理医は診断をなるべく早めに出す。

「明後日患者が来て説明するんですよね? なら診断は明日までに出しますね」は、病理医の都合としてはまあわかるのだが、それを見て主治医が対応する時間を一切考慮していないということになる。それではいかにも不親切だろう。


……というのがぼくの考え方なのだが、これは別に共感を得たいとは思っていない。

誠実にやろうと思ったら早いほうがいいに決まっている。まあでもケースバイケースである。診療は仕事量が多く、複雑で、人生は短く、ひとりの人間がほどこせる業務にも限りがあり、理想と現実の間にはギャップがある。それでもまあ……いや、ぼくの考え方はしょせん、ぼくだけのためにあるので、あまり気にしなくてもいいと思う。

2023年8月8日火曜日

思索のろうひ

ポタージュってあきらかに「ポタ……」って垂れると思うんだけど、フランス語で「pot」は鍋、「age」は中身だそうで(クソ適当ググり知識)、かつフランス語の「ポト」に垂れる意味合いはたぶんないので、音の響きがポタポタしているのは偶然である。でもこれいい偶然だなと思う。

マリネもあきらかにマリマリ練ってる感じがするけどこれもぜんぜん関係ない。マリネはマリーネであり「海」くらいのニュアンスなのだそうな。酢とは関係ないんだな。

カルパッチョは命名がぜんぜんだめだ。軽くもないしパッチョくもない。

カルパッチョはぜんぜんだめだが、同じカルでもカルガモは許せる。普通の鴨より軽いんだろ? 検索をしてみた。「カルガモはマガモより小さくて軽いからカルガモ」ほらほら~~~~なんでコガモにしなかったんだろう~~~~あっ子と間違われるからか~~~~。

カルダモンはどうか。軽いんだもんという雰囲気がある。しかし検索してみると香りの王様とかスパイスの女王とか呼ばれているらしく(語源までたどりつくまえにそこがおもしろかった)、王と言ったり女王と言ったり忙しいなという印象が新たに付着した。ところで俳優と女優をわけるかわけないかみたいな話で、王と女王もこの先分けなくなっていくのかもしれないな。

カルガリーオリンピックではきっと軽々とメダルを取った選手がいるだろうと思って検索したら、こちら冬のオリンピックであり、跳躍系となると当然スキージャンプだろうと思って検索を続けると、日本選手でメダルをとったのは主にスピードスケートだけであった。スケートで軽々というのはちょっと合わないかなあ。太ももとかすごい重そうだしなあ。




このように、まとまった記事を書くほどのモチベーションがさほどないとき、あれについて短く書き、そこからつながるそれについてさらに書き、ぎりぎり連想できそうなこれについても書き、と紙幅を埋めていくやり方があると思う。椎名誠が「新宿赤マントシリーズ」でよくやっていた。

毎週なにか商業レベルのことを書かなければいけない人の大変さを思う。燃え殻さんはSPA!から新潮へ場所を変えつつ、延々と毎週更新を続けている、ほんとうに偉い、毎回「捨て記事」になっていなくてきちんといつもおもしろいから心底尊敬する。



ところで大学時代に飲み屋で誰かと会話していたころ、ヤマやオチがあるサーガを用意して「これを語るぞ」と意気込むとむしろ興ざめであった。「語りたいんだね~」と突っ込まれたりもした。そういうのは文章でやるからいいのだ、会話でやることではない。

だらだらと繰り広げられる連想の渦にのっかって流されていかないと場の空気に自分をマージできない緊張というのは大阪文化圏の人がよく指摘する。自分がその場にいていいと承認を受けるために必要な手続きとしてのボケ→ボケ→ボケの連鎖というのがある。

飲み屋での体験がその後何かの役に立ったかというと、まったくそんなことはひとつもなくて、しかし当時、たしかにぼくは「いていい」という気持ちを得ていたのだと思う。今日こうしてブログで芋づる方式の連想をつらつら書いて記事にしてしまうとき、なぜか大学時代のラムコークやらタバコやらの臭いを思い出すことがある。思索を浪費することでなんらかの癒やしを得ようとする本質がぼくの中にあるのかもしれない。

2023年8月7日月曜日

病理の話(803) ディープダイビング病理医

ひとりの患者から採取されたガラスプレパラート1枚を何時間もずっと見ている病理医がいて、もう診断は終わっているはずなのに何を飽きずにずっと見てるのかなーと思ったら、診断とはあまり関係がない部分がどうやら気になっている様子。「どうしました?」とたずねると「なんか、ここの血管の周りに何ごとか起こっているようなんですよね……」などと、ほかの病理医が気づかない異常をピックアップして見せたりする。

はぁー、もう病気自体は見つけてるのに、それ以外の部分も見てるってわけか。

犯行現場で派手に割れたガラスを見て終わりにせず、戸棚の食器の並び方とか、庭の盆栽の鉢なんかもきちんと見て回って、推理をすすめる名探偵、みたいな感じだ。

すごいなと思う。集中力というか、執念というか、ひとりの患者の中に潜り込んでいくブレスの長さというか。


いっぽうで、プレパラートを見るのにそんなに時間をかけず、しかしカルテとか教科書とかをしょっちゅうめくっているタイプの病理医もいて、おもしろい。診断において大事な「勘所」を、短時間にきちんと拾い上げて、そこを資料でずんずん確認していくやり方だ。こういう病理医は見ていて気持ちいいし、かっこいい。


おそらく、前者のように、ゆっくりじっくり全ての細胞を見ている人のほうが少しだけ丁寧ではある。しかし、長く細胞を見ていればいいというものでもなく、多くの患者を診断しなければいけないキャパというのもあるから、当たり前のことを言うけれどバランスが大事なのだと思う。それに、顕微鏡ばかり見ていると、遭遇頻度がひくい(まれな)病気の勉強は進まない。

何十万人、何百万人、何千万人に一人しか発症しないようなレアな病気・病態に出会ったとき、たとえ臨床医が診断できなくても、病理医がいればなんとかなるかもしれない。病理医は病院の中の秘密兵器だ。「あいつがわからないならもうわからんだろう」くらいのポジションでいたい。

となると、顕微鏡ばかり見ているわけにもいかないのである。




病理医は、誰もがみんな、あるていど似たような「育ち方」をする。特に修行の初期には。

大腸とか胃の検体など、わりと細胞の性状を掴みやすい臓器を担当し、顕微鏡を見て考え、病変のマッピングを行い、拡大をあげて細胞の挙動や性状をしらべて、診断文を下書きする。

このとき、顕微鏡だけをずっと眺めていてはだめだ。自分の感覚だけでいくら顕微鏡を見たところで、「どこが異常でどこが正常なのか」はよくわからない。「お手本」となる成書をしっかり読み込み、目の前にある細胞がどれに対応するのかを照らし合わせる。

つまり、初学者の目線は、「患者の検体」と、「教科書の像」との間を何度も往復する。どちらかばかり見ていても勉強が進まない。

まあこれは当然のことだ。

しかし、勉強をすすめていくうちに、だんだん、個性が出てくる。

「顕微鏡と教科書をそれぞれきちんと見る」という最低ラインは保った上で、「それでもやっぱり顕微鏡を見続けてしまう人」というのが出てくる。

教科書を見て、顕微鏡を見て、「あっこの異常な細胞と似たやつが、顕微鏡の中にもいるぞ。」と気づくところまではいっしょなのだが、そこで顕微鏡から目を離さずに、「この異常な細胞といっしょにいるやつらは、どんなやつなのかな?」とか、「この異常な細胞はたくさん連なっているようだけど、どこまで続いているのだろう?」といったように、さらに一段、二段、深く顕微鏡にのめりこんでいくのだ。

これはもう性格というか器質のなせるわざかもしれない。



そういう人は、往々にして、勉強のスピードが遅い。「狭く深く」をやる人は、「広く」勉強することが苦手だからだ。



しかし、たまに、すごい診断をする。病理医として最低限の「広さ」を手に入れたあとに、「よーし及第点の広さは手に入れたぞ、あとは深さだ……」と、細胞の奥深さにどんどんダイブしていくタイプの病理医。ぼくはかなり、尊敬している。

2023年8月4日金曜日

SNS論

ひと一人の限られた「可処分時間」をいかに奪うか、みたいなアプリ商売の流れに棹さしたい。

滞留せず、食い込まずにいたい。

動体視力チャレンジで壁と壁の隙間にふっとぶバナナやレモンのように、薄く、断片的な、自分のコアからなるべく離れた、爪の切りカスくらいのものを、情の湧かないレベルの他人の目の前に投げつけ、ヒット・アンド・アウェイで二度と出会わないようにしたい。

そうしたいと日々思っているけれど、実際は逆である。

自他の境界をとろけさせ、「特に何もいいことはなかったのだけれど、なんとなく世界と自分との共通点を見ていられる気がして、今日も8時間ほどスマホを見ていた」みたいなことになる。

8時間? いや、そんなに見てない。だって仕事をしているから。

とか言ってる時点でいっしょだ。仕事は実質SNSである。

八方にひそむ関係者たちと次々やりとりをしながら微調整しつづけるのが仕事の本質だ。つまりSNSなのである。ネットでだけ完結するアプリと違って現実のほうが規模が小さく速度が遅いだけだ。

スローライフとか言って速度だけで価値をはかろうとしているヤカラがいる。どうかしている。

ファストだろうがスローだろうが、取り組んだ内容次第ではないか。いうまでもない。しかし、再生速度だけいじればそのぶん「丁寧な暮らし」をしたことになる、と、こちらを騙してくる人びとが、Googleの検索結果の中にいっぱい潜んでいる。



今、「結果」をミスタイプして、「血管」が表示された。検索血管。まあそうだな、検索は固定した結果を返してくるわけではなく、常になんらかの流体を発生させるものであるから、検索血管という単語もあっていい。ダイナミズムを支えるパイプである。



検索血管を流れる思考が溶血しそうだ。




丁寧というのはゆっくりやることではなくて、ひとつひとつの所作に思考を噛ませることであろう。したがって、「速度を遅くすればいい」というのはポリシーとして弱い。

さらに言えば、丁寧ならばOKというのもへんな話だ。甘寧一番乗り。

「じっくり考えた結果、これが自分にとって最適だと思ったんです」と後悔を述べるかわいそうな人をあちこちで目にする。

考えればいいというものではないのだと思う。

どうせ時間をかけるのなら、思考にかけるのではなく、たとえばじっくり「鏡面」を磨いておいてはどうか。自分の周囲を覆う反射面を磨くのである。いざ、自分に何かが降りかかってきたときには、ぐだぐだ思考することなしに、鏡面で外界からの刺激を全反射する。脊髄反射ならぬ体表反射だ。きわめてファストな行動が可能になる。雑だなんてとんでもない、鏡をピカピカにするのにどれだけ「丁寧」な磨きが必要なことか。

そして、くり返すけれど、丁寧ならばOKというのではまったくない。アンチスローライフ、いや、ファストでもスローでもなく、雑でも丁寧でもない暮らし。甘寧は黄蓋といっしょにランチにでかけました。

2023年8月3日木曜日

病理の話(802) 処置と手技を磨くように分析としゃべりを磨く

病理医は、臓器を切ったり解剖をしたりといったごく一部の仕事をのぞき、およそ「処置」とか「手技」といわれる作業と無縁の職業である。顕微鏡とパソコンが仕事相手だ。

でも、普通の医者はそうではない。

傷を縫うのも、血管に点滴の針を入れるのも、超音波のプローブを体に当てるのも、耳の中に入り込んだ虫を鑷子(せっし:ピンセット)で取るにしても、指先の繊細な操作が求められる。患者を診察するにあたって、どこに手を置くか、どこを押すか、どこに光をあててどこを拡大するか、手さばきに習熟しなければ医業は進まない。

現代の日本で医者になるには、大学受験で好成績を残すことが必要だ。かつ、仕事を続けていく限りは勉強しつづけなければいけない。でも、実際に現場に出た若手は、陶芸家や木工職人に出入りしたかのような毎日を送ることになる。手先の技術を磨くことは、知識を連結していくムーブとはかなり違ったかたちで、シナプスをバチバチ発火させる。


昔、外科医のタマゴたちはカンファレンスの最中に、足を組んでサンダルに結んだ「手術糸」(手術に用いる糸)を何度も何度も結んで「糸結びの練習」をしていた。今は衛生上の観点から医者がサンダルをはく機会は減り、このようなシーンを見ることも減ったが、代わりに令和の外科医は「腹腔鏡」というマジックハンドをあやつって手術をするため、時間があればシミュレータで腕を磨いている。

外科医だけではない。気管内挿管も、動脈血採取も、膀胱内にバルーンを入れることも、胸水をドレーンで抜くことも、ぜんぶ訓練が要るのだ。これらにはすべて理論があり、知識なしで手癖だけ覚えても現場では使い物にならないのだが、知識だけあっても決して患者にほどこすことはできない。場数が必要だ。

このような訓練を毎日続けていると、高校から大学にかけて延々と座学をやっていたのはなんだったのかという疑問におそわれることもある、という。しかし、ぼくからするとそれはまったく意味が逆で、医者になってから存分に手技を練習する時間をとろうと思ったら、少なくとも医学生のうちに膨大な量の暗記・勉強を苦もなくできるような脳に仕上げておく必要がある、と言うべきだと思う。手技を学びはじめた研修医がもし勉強が苦手な場合、いくら糸を結ぶのが上手でもそもそも医者としての知識が足りないので現場では使い物にならない。

なんとなく、「サッカーの逆」だなあと思うことがある。サッカーのようなスポーツは、理論をきちんと知っていないとまずプロでは通用しない。しかし、小学生の段階ではまずリフティングやパスの練習をひたすらやって体に覚え込ませる。「まず手技ならぬ足技から入る」わけだ。そうやって、中学高校と練習していく過程で、足技の修得についてはお手の物だとなった時点であらためて戦術やトレーニング理論などを学ぶことになる。こちらは「いくらサッカー理論に詳しくても、リフティングが下手なら現場では使い物にならない」と表現することができるだろう。医者もサッカー選手も、頭と体、両方がなければいけないのだが、順番的にどちらかを先に鍛えていると考えればよいのだと思う。


さて、今日の冒頭に、病理医は処置や手技とは無縁と書いた。ぼくらはずっと手足を用いずに脳を鍛え続けている。その分、ほかの科の医師よりも理論の領域ではより高度なところまで踏み込むことができ、病院内の「コンサルタント」として活躍することが求められる。このことを医学生に説明するときには、「病理医ってのは脳だけで働く仕事だから、脳でほかの医者に負けたらアイデンティティが崩れちゃうよ」とうそぶくことにしている。

しかし最近、「あ、病理医も具体的に肉体を動かして訓練しないといけない部分があるかも……」と思い直した。それはなにかというと、「説明」だ。病理医は細胞から得た情報を主治医たちにきちんと伝えることが仕事であり、この部分には、「手技」を鍛えるときのような修練が必要だと思う。外科医のタマゴがカンファの最中ずっとサンダルの糸と格闘していたように、病理医のタマゴは学会や研究会の最中ずっと「知り得た内容を他人に説明する訓練」、すなわち理論の組み立てと言語化について、脳内で何度も何度もシミュレーションをしているべきなのではないか……と思う。

2023年8月2日水曜日

脳だけが旅をする

テラスを……照らす! をやりたかったのだがそもそもうちにテラスはなかった。朝起きてカーテンを開けようとするもカーテンレールのすべりが微妙によろしくない。湿気が高いのかもしれない。札幌の夏は基本的にカラッとしているのであまりこういう日は多くない。外を見るとはたして曇り空で、仮にテラスがあったとしても照らされなかったであろうふんいき。庭のきゅうりが少し湿気った空気の中で葉っぱをつやつやと輝かせている。今日は水やりはしなくていいかもしれない。どうせあとで降るだろう。テレビを付けて6チャンネルにする。onちゃん6ちゃんHTBである。イチモニをやっている。このへん特にどの局に思い入れがあるというわけではないのだがなんとなく最近はonちゃん6ちゃんにしている。天気予報を待っている。きのこの山のチョコを外したお菓子が期間限定で売られるのだというニュースをやっていた。


_人人 人人人人 人人_

> わりとどうでもいい <

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大谷翔平が5日ぶりにホームランを打ったというニュースをやっているが、大谷の場合、ホームランを打った日だけでなくその翌日のニュースでもホームランの話題が出たりするので、体感的にはほぼ毎日ホームランを打っている。5日も間が空くなんて、具合でも悪いのだろうか、と少し心配してしまったりする。テレビでは打球がバットに当たってからスタンドに入るまで3.99秒しかかかってないと言って盛り上がっていた。ふつうのホームランがそもそも何秒なのかがわからないのでその秒数がどれだけすごいものなのかピンとは来ないが、人間というのはおもしろいもので、「なんと3.99秒でスタンドイン!!」と言われれば、そうかすごいな、そいつは弾丸ライナーだな、と勝手に文脈を読みとる。この、「勝手に続きを引き取ってこちらで読みとってしまう能力」というのは、人間の脳が示す機能の中でもかなり高度な推論ではないか。なお、いちおう書いておくけれど、脳にかんしてはどんな雑な切り口でも「脳は高度な推論をやっている」と締めることで読む人が勝手に「おお、脳すげぇな」と納得してしまう。「スタンドインまで3.99秒」と「脳の高度な推論」はレトリックとして似ている。根拠がなくても、ボリューム感がなくても、こちらが「すごいだろ?」と書くだけで受け手が「それはすごいな」と勝手に盛り上がってくれる。だから脳にかんする記事を書くのは楽なのだ。


脳だけが旅をする。


飲食や雑貨、書籍などのポップに「大反響!」と書いてあるのを目にした。商品がどういいかを一切書かずに「売れてます!」と書くのが実際いちばん売れる。それにしても「大反響」というのはおもしろい表現だなと思う。反響が大きいというのはどういう意味なのだろう。反響が多い(多反響)ではなく大きいのだな。エコーでかえってくるものがでかいということはつまり、元々の声がすごく大きかったという意味になりはしないか。世の中からより大きな声がかえってきたよということが売り文句になっているけれどそれは結局売る側が大声で買って買って!と騒いだということの裏返しなのではないか。それはともあれ、「たくさんの人が受け止めてリアクションを返したすばらしいコンテンツです!」という売り方が本当に多くなった。「バズって売れる」なんてその最たるものだろう。たいていの人が想像するように、反響というのは必ずしもポジティブなものばかりではないのだが、炎上商法という言葉もあって、とにかく多くのリフレクタンスを得られればそれがヒットにつながっていく。これは売る側の都合というか感想であって、買う側にしたら、冷静に考えて、周りのみんなが反響を返したかどうかよりもまず自分にとっておもしろい/味わえるかどうかのほうが大切なはずだ。しかし言うまでもなくぼくらは「大反響!」を見てわりとあっさりその商品を試してみようという気持ちになる。大反響スマッシュブラザーズだったらもっと売れたのかもしれない。英語圏ではピンと来ないかもしれないが。


SNSは反響の場所である、発信ツールだと言ったり受信支援アプリと言ってみたりするけれど実際にやっていることの多くは反響させることなのだ。どこかの話題を打ち返す。3.99秒でスタンドに入れば気持ちいいだろう。でも実際にはキャッチャーフライだったりバックネット後方へのファールだったりする。うまくセンター前に抜けていけばよし、あるいは、ショートの正面に飛んで6,4,3のダブルプレーとなったとしても見るほうは盛り上がる。ノイズが次々と反射してプールサイドのような金属的な音が脳内に響き渡り、ドボンと水に潜ってみるとまた違う音が聞こえてくるんだけどそれも反響なのだ。自分も何かの「はね返し手」になれているだろうかということをしばしば考える。誰かに向き合う部分をつやつやに磨いて凹凸を取り除いておかないとうまく反射できない。一番つやつやしているのは眼球だろう。だからぼくらはよく、相手の顔を見て話を聞けと言われる。勘違いしてはいけない、相手の顔を見て話せ、なんてのは間違いなのだ。相手の顔を見たら話すな。聞け。聞いて反射するまででよいのである。

2023年8月1日火曜日

病理の話(801) 菌の勘

人間の体の中……というか体外との境界部分には、100%なんらかの菌がいる。かなりいっぱいいる。


しかし、病理検査で細胞をとってきてぼくら(病理医)が顕微鏡で見ても、それらの菌は見えないことが多い。


ああ、サイズ的に光学顕微鏡ならむりなんだね、と思った人はいるだろうか? そんなことはなくて、まあまあの顕微鏡を使えば普通に観察可能である。対物60倍レンズ×接眼10倍レンズで合計600倍くらいにすると、そこに菌がいればたいていわかる。菌の種類によるけど。


ではなぜ、ぼくらは普段ほとんど菌を見ないのか。


理由の一つとしては、「検体をホルマリンにじゃぼんとつけてしまう」というのがある。表面が洗い流されてしまう。


つまり、表面ではない部分に菌がいるとか、粘液などの中に菌が埋まっていて検体にぺとっとくっついているといった場合には、普通に菌が見える。


代表的なのはピロリ菌だ。胃にいるやつ。最近はだいぶ感染している人の数が少なくなってきたけど、まだまだいる。これらの菌は、胃粘膜の表面にくっついているのだが、粘液の中にはまりこんでいることがおおいので、ぼくらが顕微鏡を見るときに漫然と「すべての視野を丁寧に」探すのではなく、「あ、このふんいき、ここに菌がいそうだな」という場所をただちに見に行ってすかさず見つける、というイメージになる。



で、今日のブログは菌の話ではなくて、「だいたいこのへんにありそうだなというところをまず見に行く」という病理医のクセについての話なのである。

菌にしても、がんにしても、炎症細胞にしても、化生にしても、ぼくらは顕微鏡を見てすみずみまでくまなく探すというムーブよりも早い段階で、「あっこの雰囲気、この背景にこそアレがありそうだな」という目星をつけて一直線でそこを見に行く。そして実際に見つける。

さきほどのピロリ菌でいうと、菌体をきちんと確認したいときは400倍もしくは600倍まで拡大倍率を上げないとなかなかわからないが、実際には20倍や40倍くらいの「弱拡大」視野のときに、とっくに「あっこの検体、たぶんピロリ菌いるなあ」とわかっている。拡大を上げるのはあくまで「確認」が目的なのである。

顕微鏡診断ではそれくらい、「背景情報」が重要なのだ。異常な細胞はいるところにいる。いそうな場所にほぼいる。「ある」ではなく「いる」を用いてしまう(擬人化してしまう)のはあまりよくないのかもしれないが、細胞の異常は「(意図して)いる」としか言い様のないニュアンスでそこにあるのである。



でもぼくらは見落とさないこともだいじなアイデンティティなので、目的となる異常を見つけたあとに、ゆっくりと全体をくまなく見直すようにしている。この時点で非典型的な「ありかた」をしている異常を拾い上げる。万に一つのパターンで存在する異常を見逃してしまっては病理医を名乗れないからである。でもまあ先にメインと見つけておいたほうが気分的にはすごく楽だよ。