8月16日(水)、この日ついに、朝起きて身支度をととのえ、カーテンと窓を少し開けて空気を入れ換え実家からもらったパンを焼いて食い、ひげそりと歯磨きをし、起きてきた妻に挨拶をして車に乗り込み、スマホを開いてYouTubeで米粒写経の談話室を流し、運転して職場に向かい、車を降りて、駐車場をわたり、IDカードを玄関にかざし、廊下と階段を歩いて自分のデスクにたどりつくまでの間、マスクをし忘れた。
ああ、マスクをし忘れた。
誰ともすれちがわなかったからいいんだけど、もし病院の外来に患者がいる時間だったら、病気や治療の影響で免疫が落ちていて感染をおそれている患者がいる時間だったらと思うと、申し訳ない気持ちになった。
感染防御という意味ではさほど問題はない。早朝だ。患者用の玄関は開いてないし、同僚だって出勤していない。ほんとうはこんな時間にマスクなんてしなくていいのだ。
しかし、問題はないけれど、落ち込む。なぜならぼくは「しなくていいや!」と思ってマスクをしなかったのではなく、「いつものようにマスクをしていたつもりなのに忘れていた」のだから。
どうして忘れてしまったのか。
車を停めたあとに、米粒写経の談話室の続きを聴こうと思って、セミワイヤレスイヤホンを首にかけてスイッチを入れたところで、「耳にかかる重さ」をマスクのそれと誤認したのだろうか。イヤホンとマスクとでは圧のかかる方向がぜんぜん違うんだけど。
庭の物置のカギを手にして、「家のカギを持ったつもりになって」ドアをあけて外に出て、戸締まりをしようと思ったが家のカギがなくて、あっ……と気づいてもういちど家の中に入らなければいけない、みたいなことも、たまにある。物置のカギと家のカギとでは重さも形状もまるで違うのだから、丁寧に五感を探っていれば「必要なものを持っていない」ことがわかるはずなのだが、なんとなく手がふさがっているだけで満たされてしまっており、本当に大事なものを置き忘れてきてしまう現象。マスクとイヤホンだってぜんぜん違うんだけどなんか納得しちゃったんだろう。「耳に負荷がかかっているから大丈夫だ」というかんちがいみたいなもので。
なんとなく手がふさがっているからそれでいつも通りと勘違いしてしまう、ということは、寓話的でもある。まあいちいち寓話にするの嫌いだけど。
スマホでコンテンツを次々見ているうちになんとなく時間が過ぎていき、振り返って見ると「何も見ていなかったのと同じ」になるのも、たぶん似たようなメカニズムなんだろうと思う。
だらだらお菓子を食べ続けてお腹がふくれてしまい夕飯が入らなかったときの気分もいっしょだ。
余計なものを手にしてはいけないのだと思う。それで満たされてしまうからだ。
ぼくは常に手にTwitterを持っていた。
それを手放したことで、もっと違うものを持つだけの余裕が生まれた。
Twitterとは手にかかる負荷の方向性が違う。
さて、この場合、Twitterとは物置のカギだろうか。それとも、マスクだろうか。