ひとりの患者から採取されたガラスプレパラート1枚を何時間もずっと見ている病理医がいて、もう診断は終わっているはずなのに何を飽きずにずっと見てるのかなーと思ったら、診断とはあまり関係がない部分がどうやら気になっている様子。「どうしました?」とたずねると「なんか、ここの血管の周りに何ごとか起こっているようなんですよね……」などと、ほかの病理医が気づかない異常をピックアップして見せたりする。
はぁー、もう病気自体は見つけてるのに、それ以外の部分も見てるってわけか。
犯行現場で派手に割れたガラスを見て終わりにせず、戸棚の食器の並び方とか、庭の盆栽の鉢なんかもきちんと見て回って、推理をすすめる名探偵、みたいな感じだ。
すごいなと思う。集中力というか、執念というか、ひとりの患者の中に潜り込んでいくブレスの長さというか。
いっぽうで、プレパラートを見るのにそんなに時間をかけず、しかしカルテとか教科書とかをしょっちゅうめくっているタイプの病理医もいて、おもしろい。診断において大事な「勘所」を、短時間にきちんと拾い上げて、そこを資料でずんずん確認していくやり方だ。こういう病理医は見ていて気持ちいいし、かっこいい。
おそらく、前者のように、ゆっくりじっくり全ての細胞を見ている人のほうが少しだけ丁寧ではある。しかし、長く細胞を見ていればいいというものでもなく、多くの患者を診断しなければいけないキャパというのもあるから、当たり前のことを言うけれどバランスが大事なのだと思う。それに、顕微鏡ばかり見ていると、遭遇頻度がひくい(まれな)病気の勉強は進まない。
何十万人、何百万人、何千万人に一人しか発症しないようなレアな病気・病態に出会ったとき、たとえ臨床医が診断できなくても、病理医がいればなんとかなるかもしれない。病理医は病院の中の秘密兵器だ。「あいつがわからないならもうわからんだろう」くらいのポジションでいたい。
となると、顕微鏡ばかり見ているわけにもいかないのである。
病理医は、誰もがみんな、あるていど似たような「育ち方」をする。特に修行の初期には。
大腸とか胃の検体など、わりと細胞の性状を掴みやすい臓器を担当し、顕微鏡を見て考え、病変のマッピングを行い、拡大をあげて細胞の挙動や性状をしらべて、診断文を下書きする。
このとき、顕微鏡だけをずっと眺めていてはだめだ。自分の感覚だけでいくら顕微鏡を見たところで、「どこが異常でどこが正常なのか」はよくわからない。「お手本」となる成書をしっかり読み込み、目の前にある細胞がどれに対応するのかを照らし合わせる。
つまり、初学者の目線は、「患者の検体」と、「教科書の像」との間を何度も往復する。どちらかばかり見ていても勉強が進まない。
まあこれは当然のことだ。
しかし、勉強をすすめていくうちに、だんだん、個性が出てくる。
「顕微鏡と教科書をそれぞれきちんと見る」という最低ラインは保った上で、「それでもやっぱり顕微鏡を見続けてしまう人」というのが出てくる。
教科書を見て、顕微鏡を見て、「あっこの異常な細胞と似たやつが、顕微鏡の中にもいるぞ。」と気づくところまではいっしょなのだが、そこで顕微鏡から目を離さずに、「この異常な細胞といっしょにいるやつらは、どんなやつなのかな?」とか、「この異常な細胞はたくさん連なっているようだけど、どこまで続いているのだろう?」といったように、さらに一段、二段、深く顕微鏡にのめりこんでいくのだ。
これはもう性格というか器質のなせるわざかもしれない。
そういう人は、往々にして、勉強のスピードが遅い。「狭く深く」をやる人は、「広く」勉強することが苦手だからだ。
しかし、たまに、すごい診断をする。病理医として最低限の「広さ」を手に入れたあとに、「よーし及第点の広さは手に入れたぞ、あとは深さだ……」と、細胞の奥深さにどんどんダイブしていくタイプの病理医。ぼくはかなり、尊敬している。