2023年8月3日木曜日

病理の話(802) 処置と手技を磨くように分析としゃべりを磨く

病理医は、臓器を切ったり解剖をしたりといったごく一部の仕事をのぞき、およそ「処置」とか「手技」といわれる作業と無縁の職業である。顕微鏡とパソコンが仕事相手だ。

でも、普通の医者はそうではない。

傷を縫うのも、血管に点滴の針を入れるのも、超音波のプローブを体に当てるのも、耳の中に入り込んだ虫を鑷子(せっし:ピンセット)で取るにしても、指先の繊細な操作が求められる。患者を診察するにあたって、どこに手を置くか、どこを押すか、どこに光をあててどこを拡大するか、手さばきに習熟しなければ医業は進まない。

現代の日本で医者になるには、大学受験で好成績を残すことが必要だ。かつ、仕事を続けていく限りは勉強しつづけなければいけない。でも、実際に現場に出た若手は、陶芸家や木工職人に出入りしたかのような毎日を送ることになる。手先の技術を磨くことは、知識を連結していくムーブとはかなり違ったかたちで、シナプスをバチバチ発火させる。


昔、外科医のタマゴたちはカンファレンスの最中に、足を組んでサンダルに結んだ「手術糸」(手術に用いる糸)を何度も何度も結んで「糸結びの練習」をしていた。今は衛生上の観点から医者がサンダルをはく機会は減り、このようなシーンを見ることも減ったが、代わりに令和の外科医は「腹腔鏡」というマジックハンドをあやつって手術をするため、時間があればシミュレータで腕を磨いている。

外科医だけではない。気管内挿管も、動脈血採取も、膀胱内にバルーンを入れることも、胸水をドレーンで抜くことも、ぜんぶ訓練が要るのだ。これらにはすべて理論があり、知識なしで手癖だけ覚えても現場では使い物にならないのだが、知識だけあっても決して患者にほどこすことはできない。場数が必要だ。

このような訓練を毎日続けていると、高校から大学にかけて延々と座学をやっていたのはなんだったのかという疑問におそわれることもある、という。しかし、ぼくからするとそれはまったく意味が逆で、医者になってから存分に手技を練習する時間をとろうと思ったら、少なくとも医学生のうちに膨大な量の暗記・勉強を苦もなくできるような脳に仕上げておく必要がある、と言うべきだと思う。手技を学びはじめた研修医がもし勉強が苦手な場合、いくら糸を結ぶのが上手でもそもそも医者としての知識が足りないので現場では使い物にならない。

なんとなく、「サッカーの逆」だなあと思うことがある。サッカーのようなスポーツは、理論をきちんと知っていないとまずプロでは通用しない。しかし、小学生の段階ではまずリフティングやパスの練習をひたすらやって体に覚え込ませる。「まず手技ならぬ足技から入る」わけだ。そうやって、中学高校と練習していく過程で、足技の修得についてはお手の物だとなった時点であらためて戦術やトレーニング理論などを学ぶことになる。こちらは「いくらサッカー理論に詳しくても、リフティングが下手なら現場では使い物にならない」と表現することができるだろう。医者もサッカー選手も、頭と体、両方がなければいけないのだが、順番的にどちらかを先に鍛えていると考えればよいのだと思う。


さて、今日の冒頭に、病理医は処置や手技とは無縁と書いた。ぼくらはずっと手足を用いずに脳を鍛え続けている。その分、ほかの科の医師よりも理論の領域ではより高度なところまで踏み込むことができ、病院内の「コンサルタント」として活躍することが求められる。このことを医学生に説明するときには、「病理医ってのは脳だけで働く仕事だから、脳でほかの医者に負けたらアイデンティティが崩れちゃうよ」とうそぶくことにしている。

しかし最近、「あ、病理医も具体的に肉体を動かして訓練しないといけない部分があるかも……」と思い直した。それはなにかというと、「説明」だ。病理医は細胞から得た情報を主治医たちにきちんと伝えることが仕事であり、この部分には、「手技」を鍛えるときのような修練が必要だと思う。外科医のタマゴがカンファの最中ずっとサンダルの糸と格闘していたように、病理医のタマゴは学会や研究会の最中ずっと「知り得た内容を他人に説明する訓練」、すなわち理論の組み立てと言語化について、脳内で何度も何度もシミュレーションをしているべきなのではないか……と思う。