病理医が細胞をみるにあたって、常に頭の中に入れているフレーズは「これは癌だろうか?」である。
額装して脳の一番いいところに貼ってある。
たとえば、炎症でぼろぼろになった粘膜を顕微鏡で見て、ヨレヨレになった細胞の顔付きをチェックするとき。細胞の核がはれあがり、細胞質の形状もおかしくなっていて、ああ、周りで炎症(東京リベンジャーズ的な集団でのケンカをイメージするとよい)が起こっているから、この細胞もくたびれているんだなあ、と判断するわけだが、ここで必ず、
「……まさか、癌じゃないよな?」
という発想で細胞をよく見る。なぜなら、癌細胞というのも、炎症でやられた細胞と似た感じでヨレヨレになることがあるからだ。
シチュエーション的に、ここに癌があるわけはないのだとわかっていても念のため。
主治医も医療スタッフも全員が「この人は炎症です。」と断言していても念のため。
この念入りさは、「校正」をやっている人のそれに近いかもな、と思ったりもする。著者や編集者たちが愛する作品に「まさかの間違い」がひそんでいないかどうかを、念のため確認していく大事な仕事。
確率は低いのだが、顕微鏡で見た細胞が「なにかに似ている」ときには、絶対に間違いがないように何度も何度も確認する。この作業は病理医以外には不可能だ。そして、見逃したときに各方面に大ダメージがおよぶのがほかでもない、「癌」なのである。
さて、どんな細胞を見ても「癌ではないか?」と考えるのが病理医の仕事なのだが、少し経験を積んでくると、さらにここが複雑化する。
「あきらかに癌細胞だ!」と思えるタイミングでも、「まてよ、癌に似た別の病態ではないか?」と、逆に癌の診断にブレーキをかけることもある。
さっきとは逆だ。
炎症が「癌」のように見えることがある。
そして、ほかにもさまざまなパターンがある。
病理医として勉強を重ねていくうちに、「癌のモノマネをする細胞」があることを知る。
類上皮血管内皮腫とか。
血管筋脂肪腫とか。
悪性黒色腫(これもがんだけど一般的な癌とはタイプが違う)とか。
Anaplastic large cell lymphoma(これもがんだけどタイプが違う)とか。
Epithelioid GIST(これもがんみたいなものだけどタイプが違う)とか。
Ewing sarcoma family of tumors(これもがんだけどタイプが違う)とか。
Alveolar soft part sarcoma(これもがんだけどタイプが違う)とか……。
最初に私は、「これは癌だろうか?」を額装して脳内に掲げていると言った。その同じ部屋には、癌と似て非なる病気の名前を書いた「掛け軸」がいっぱいぶら下がっている。毎日、顕微鏡を見るとき、プレパラートを左手で摘まむたびに、上記のモノマネ集団のことを何度も何度もくり返し唱えている。これはおおげさではなく本当にやっている。マジである。それくらいしないと、20年に1回、誤診するかもしれないからだ。