「リンパ球が浸潤する像を認めます。」
「炎症所見は認められません。」
こういう文章を書いたり読んだりするのが病理医である。うわぁー専門用語っぽいー。
長年書いているうちに、えー、型にとりこまれていくというか、肩肘がガチガチに張っていって、もともと普通の日本人としてもっていた違和感みたいなものもスレてなくなっているんで、日常的にこういう文章を書いて平気な顔をしています。
でも、よく考えるとこれらの文章、くどいよね。
「リンパ球が浸潤する像を認めます。」
くどい!
「リンパ球が浸潤しています。」でいいじゃないか! 「像」も「認める」もいらないよ! なんで無意識に「像」っていう客観視アピと、「認める」っていう主観的アピを混ぜて使ってるんだよ! 客観と主観どっちに寄せたいんだよ!
「炎症所見は認められません。」
くどい!
「炎症はありません」でいいじゃないの! なんで無意識に「所見」っていう「診断を確定させたいわけじゃなくて、そこにある姿を述べているだけだ」みたいなエクスキューズと、「認めません」っていう「でも認めてないだけで本質的にないかどうかはまた別の話です」みたいなエクスキューズを混ぜ込んでいるんだよ!
「高分化管状腺癌と考えます。」
くどい!
「高分化管状腺癌です。」でいいだろ!
「No evidence of malignancy.」(悪性の証拠はない)
くどい!
「Benign.」(良性)でいいんじゃないの!
……とね。
教育の現場を見渡すと、今みたいに、所見のくどさを指導していく病理医はけっこういらっしゃいますよ。講習会とかでも見たことがある。
若い病理医ほど、所見用紙にくどくどと「自分の思い」を書いたり、「間違っていたときの言い訳」を書いたり、「病理医にはここまでしかわからないんですから、これは限界があるんですから、そこんとこわかってくださいよ。責任を押しつけないでくださいね」みたいなニュアンスを書きがちです。
だから指導医もやっきになって直すんだよね。
「言い切るときには言い切りなさい!」「表現がねちっこい! 遠回しすぎる!」みたいな指導を毎日のようにすることになる。
でもねえ。
ぶっちゃけ、病理診断報告書って、コミュニケーションツールだからさ。
いつも自信満々な病理医が、「今日はなんだか歯切れが悪いな……」と思われるような、くどくて長い報告書を書いていたら、きっとその細胞は、いつもと何か違うんですよ。
一流の臨床医は、そうやって、我々の書く文章を読んでる。こっちの思惑まで見通すような眼力で。
今日の話はいつも以上にぼくの主観なんだけどさ、病理医として命ある報告書を書こうと思ったら、ときどき、
「検体内に悪性を示唆する像はみられない。」
みたいな文章を書いてもいいと思うんだよ。
指導医はこれを読むと「示唆!?像!?……みられない!? もっと直裁的に書け! 悪性なし!」って指導したくなると思うんだけど。
ああ、なんとなく病理医が、表現をぼかしたい細胞だな、ってニュアンスも、たまには報告書に書いていいと思うんだよな。AIが診断してるんじゃないんだ。人が人に向けて診断してるんだからさ。
でもまあそこはバランスとセンスなんだけどね。いつもいつも「像」ばかりでは、やっぱりねえ。「所見」ばかりこねくりまわされても、それはそれで、困るわけよ。