2023年8月16日水曜日

病理の話(806) ホルマリン固定論

胃や腸などを取り出す手術のことを考える。


体の中から取り立てホヤホヤの臓器は「筒状」、つまりパイプのかたちをしている。胃は中が少し膨らんでいて、入り口(噴門)と出口(幽門)のところがしっかりと絞られており、そう簡単に中身がもれないようになっている。腸は「長袖のシャツの袖部分」のようにフニャフニャしている。

これらを手術で取ってくるからには中に病気があるわけだ。病気はたいてい、筒や袖の内側の部分に存在するので、筒をハサミで切り開く。

長軸方向(タテ)に切って開いたあと、そのまま放置しておくと胃腸の壁にはりめぐらされた筋肉の弾力によってグニュンと縮んでしまう。

そこで、専用のコルクボードに虫ピン的なピンで、胃腸の壁をしっかり伸ばして貼り付ける。このときピンはなるべく潤沢に使う。ピンをケチって少しだけしか使わないと、四隅だけ引き延ばされて間の部分がたわむ。


十分に引き延ばした状態でコルクボードに貼り付けてから、板ごとホルマリンの中に漬ける。「10%中性緩衝ホルマリン」という溶液が今は好まれており、細胞内部のDNAを損傷しづらい成分比となっている。ただし、昔使われていた20%ホルマリンに比べると、液体の浸透力が弱く、臓器の中までホルマリンがしみ込むまでに時間がかかるので注意が必要だ。


ホルマリンは1日に5 mmくらい浸透する。1 cm程度の厚さの臓器ならばそのままドボンで十分内部まで固定処理できる。胃腸ならきちんとコルクボードに貼り付けてシワをほどよく伸ばしておけば大丈夫だ。逆に言うと、臓器をきちんと伸ばさずにホルマリンの中にドボンとやってしまうと……これはシャツをくるくるまるめて洗濯機に詰めこむような感じだけれども……内部までホルマリンが入りきらないから注意が必要である。

たとえば肝臓とか膵臓のような、中身が詰まっている臓器の場合は、内部までホルマリンがなかなかしみ込まないために、細胞が融解・変性しやすい。このため、ホルマリンに漬ける前に、隠し包丁的に切れ込みを入れたり、いくつかに分割して厚さを減らしたりする。



こうして、ホルマリンに漬けて1日くらい経つと、臓器は文字通り「固定」される。ピンを外してももうそこまでぐんにゃりとしない。ただしガチガチに凍るようなかんじではない。細胞ひとつひとつが強固になって、持っても弾力があってしっかりしている、といった雰囲気である。

この固定によって、臓器を取り扱うのが楽になるし、保存が利くようになる。腐敗もしないし、血流がない(酸素や栄養がおくられていない)にもかかわらず細胞が崩壊しない。


ちなみに、ホルマリン固定していない細胞をとりだしてきて、なんらかの手段で色を付けて観察することは十分可能だ。しかし、病理の歴史150年の中で編み出された最強の染色であるヘマトキシリン&エオジン(H&E)染色は、しっかりホルマリン固定された状態のほうがはるかに発色がいい。ケミカルな相性まで考慮した上での「ホルマリン固定」→「パラフィン置換」→「H&E染色」の流れが最強なのである。

そして、昔の「20%ホルマリン」で染めたときのほうが今の「10%緩衝ホルマリン」よりもさらに発色がいい。逆にいえば、顕微鏡で見たときの色味を多少犠牲にしてでも、今はDNAの損傷が少ない固定液を選んでいるということだ。「がんゲノム時代」(病気の診断にゲノム≒遺伝子の検索を大活用する時代)というのは、そういうところを気にする。




細胞を見て診断をつける、などというとわりとスマートというか知的というか(病理医が言うとうるせえかもしれないが)、とにかくじっと黙ってスッと見るみたいな印象を与えてしまうわけだが、実際にはたくさんの薬品と先人達の検討結果に基づく緻密な処理を通過する必要があり、「細胞の色味がいつもとちょっと違う……」みたいなこまかなニュアンスまで検討することができるのも固定や染色技術があってこそなのである。そういうテクニックを毎日使いこなしている検査技師は偉い。