2019年8月30日金曜日

串鳥は思った以上にうまいのでおぼえておくといい

ブログやnoteに載せるための文章、平均するとだいたい毎日書いている。だいたい1000~1500字くらいの文章が、主に手癖によって浮かび上がってくる。あまり脳を回さなくても書ける。

だんだん自分のパターンみたいなものもみえてくる。事象の大きい小さいにかかわらず、どのようにアプローチして、どこにひっかかって、どこをクローズアップしてどうやって語ってどのようにオチを付けるか、というのが何種類かの類型におさまっている。マクロレンズの観察でもドローンを用いての観察でも、論理の立て方があまり変わっていない。思考のフラクタルと命名した。




素人のぼくはおいといて、プロのもの書きはどうかという話をする。一人の作家の著作をずうっと追いかけていくと、異なるモチーフを同じ思考回路で解釈して書き続けている人と、異なるモチーフごとに異なる思考回路を適用して書き続けている人がいるようだ。

後者のことは純粋に尊敬しているが、かといって前者であったとしてもすごくよいものを書く人はいっぱいいる。前者にも後者にも好きな作家がいる。

すなわち、思考の筋道が類型化すること自体はあまり問題ではないのかもしれない。

ただし前者は、丹念に取材をして、常に新しいモチーフを探し回っているイメージがある。つまりは同じ鍋を使っていると言っても、異なる具材を放り込んで、調味料も変えて、加熱方法こそ一緒かもしれないが毎回違う料理を作っているということだ。




ひるがえってぼくは思考のフラクタル的回路に毎回ちがう素材を入れているかというと……。

どうも、同じ食材を同じ鍋にいれて、同じ加熱方法で、まるっきり同じ料理を作ってしまう傾向にある。にんじんを切る大きさをかえてみたり、切り方を変えてみたりはするけれど、あとからカレールーを入れるところはいっしょだ。カレー好きだからいいんだけど……とも言ってられない。

そういえばぼくはかつて、ばんめしを冷凍讃岐うどんと決めて、1年半、ずっとおなじうどんを食っていた。



仮に同じカレー、同じうどんを作り続けるにしても、その場合、細部を美しく詰めていく努力をしているならばまだよい。

いっつも似たような素材を似たようなかんじで料理しているが、だんだん研ぎ澄まされていく、なんてのは、老舗のおでん屋さんとか焼き鳥屋さんみたいで、ちょっとかっこいい気もする。

ぼくは晩飯のうどんには1年半で飽きてしまった。しかしブログのほうは、なじみの客が落ち着くような焼き鳥屋を目指して、毎日こつこつとやっていくのがいいのかもしれない。身の丈に合っている……というと本職の焼き鳥屋さんに失礼かもしれないし、そう簡単なことではないと思うのだけれど。

2019年8月29日木曜日

病理の話(359) 病理学は美しいか

たとえば小腸という臓器にはひだひだがある。

ケルクリング襞(ひだ)という名前がついている。なおぼくはこの襞という漢字を手書きで書いたことがない。「壁」の上半分と、「衣」か。ああぁーわかるわああー。

ケルクリングひだは、小腸がぜん動するときに、粘膜のあそびというか余裕としてはたらく。カーテンをまとめるとひだひだができて、カーテンをひくとひだひだが伸びるのといっしょだ。小腸はよく動くからね。ひだがないと、割けてしまう。

でもそれ以上に、大事な役割がある。ひだがあるおかげで、限られたスペースにおける小腸粘膜の面積がひろがるのだ。

今から、ぼくが、パイプの輪切りを表した、美麗な図を示す。

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どうだ美しいだろう。だれがみてもパイプの輪切りである。さてこのパイプの中に、ひだを一本いれる。ひだごと輪切りにする。

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このようになる。おしりじゃないぞ。

いずれも、外枠がしめるスペースはほぼいっしょだが、内側部分の面積は「ひだ」が1個あるほうが広い。なんて美しい説明なんだ!


……茶番はともかく。

人体というのはスペースに限りがあるから、無限に臓器を詰め込めるわけではない。限られたスペースの中で仕事効率を少しでも高めたわがままボディが、結果的に歴史の勝者となって生き残り、今に到っている。

だから小腸のひだも残るべくして残った。

さらにいえば、このひだの表面を覆っている粘膜自体が、絨毛(じゅうもう)粘膜といって、表面にダスキンのモップもしくはムーミンのニョロニョロみたいなうねうねが大量にはえたものだ。ナウシカが歩いた黄金の草原でもいい。ああいうモッサモサが、小腸の内側を覆っている。

これもさっきのひだといっしょで、表面積を莫大に増やしてくれる。

さらに絨毛の表面、すなわちニョロニョロの肌の部分にも、きめ細かい微絨毛とよばれる小さなモッサモサがはえている。

微絨毛をさらに拡大すると電子顕微鏡レベルでさらに表面がフサフサしていることもわかる……。




おそらくだが、長い歴史の中で、「モサモサに表面積を増やす」という構造は、マクロ・ミクロを問わず生存に有利だったと考えられる。そのため、小腸の中には、ひだ・絨毛のような構造が繰り返し繰り返し、サイズごとに出現する。

ぼくはこれを「美しい」と感じる。





しかしこの美しさを説明する上で、フッサフサとかモッサモサとか、ニョロニョロとかダスキンのモップとか、果てはおしりみたいとか、とにかく美しい表現が出てこないのは、大変に困ったものだ。

ナウシカがぎりぎりである。もうちょっとなんとかならないのか。





……とりあえず、池澤夏樹さんの本でも読むか……。美しいから。

科学する心 池澤 夏樹(著/文) - 集英社インターナショナル | 版元ドットコム https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784797673722 

2019年8月28日水曜日

初代マリオの無限1UPは結局うまくできなかった

あーマリオやりてぇーマリオやりてぇなあーと思ってNintendo 3DSをひっぱりだして、「ニュースーパーマリオブラザーズ2」をぽちぽちやってみたんだけれど、やーいいね、楽しい。

でも前ほど楽しめないなーとも思った。これって年とったからなんだろうなー。




なんてことを考えていた矢先に、これまでやったことがなかったNintendo Switch版マリオをやったらおもしろくておもしろくて鼻血が出た。そうか、マリオって、いつやってもおもしろい不朽の名作なことは間違いないけれど、ぼくの場合はマリオがマリオであること以上に、

「見たこともない面に突入していく楽しみ」

ってのがでかかったんだな。新しいマリオなら今やっても激烈におもしろい。年とってても楽しかった。




ゲームソフトが置いてある場所なんてのはだんだん少なくなってきて、今や、大型の家電量販店か、GEOの片隅くらいでしか見ない。あれだけあったおもちゃ屋さんはどこに行ったんだ? いやまあググればすぐ出てくるんだけど、そういうことじゃなくて、目に届く範囲にない店ってのは、検索するきっかけがないと存在ごと脳から吹き飛んでしまうものだよね、ってことを言いたい。量販店で面陳され、あるいは売上ランキングに入っているようなゲームの大半は、ネットで評判を読んだことがあった。でもいまいち食指が動かないのは「見たこともないゲームに突入していくこわさ」を、ぼくが知っているからだろう。




こうして、短いブログの中で、まずは「見たことがあるとつまらない」と書いておきながら、次に「見たことがないのは怖い」とも書いている。

このあたりの微妙なニュアンスは、うーん、なんだか、まだうまく言葉にしていない。

テレビや映画で例えるならば、役者が同じ人気シリーズの、違うストーリーをみて安心する気持ちに近いのかも。そういう番組はもはやNetflixや小さな劇場の中にしかなくなってしまったような気もするが。たまに映画館でもやるかな。




子どもの頃は外れをひくことも非日常だったので、「つまんねぇゲームだなあという楽しみ」があった。けれどいつしか、外れを引くことが日常になり、せっかく非日常を求めているのに外れかよ、みたいな気持ちが出てくるようになった。これって大人になったってことなのかもしれない。

今のぼくが本当に非日常を求めているのかどうかも、本当は、よくわからない。マリオがジャンプで飛び越えられるくらいのブロックは記憶に残らなくなった。




あの日、ジャンプボタンを長押ししないと届かないブロックがあることに気づかず、どうやったら上にのぼれるのか30分以上悩んでいたころ、ゲームは1日1時間なのに30分もAボタンばかり押していたぼく。起伏こそが日常であり、刺激は天井知らずで、ノコノコが壁にはねかえってから襲い掛かってくるのをどうエレガントに踏んで止めるかを考えることに忙しく、ノートに自作の無限1UP解析イラストをところせましと書き連ねていた。そこにはたいていマリオがあり、ゴエモンがあり、たけしの戦国風雲児があって、ドラクエIIIがあって、ぼくは弟といっしょに非日常と日常の境界をとろけさせていた。

2019年8月27日火曜日

病理の話(358) いい医者かどうか

いつもに増して主観的な記事です。

病理医であるぼくから見て、一緒に働いていていい医者だと感じるランキング第1位は、

 字が丁寧

です、これにつきます。字が汚くても、大きくしっかりと書いてあれば十分読めるので好印象です。字を丁寧に書く人は、自分の持っている情報を相手に過不足なく伝えることで診療のレベルが向上することをわかっていて、そういう状況が常に起こるように意図し続けています。みんな忙しいから、ほんとは文章なんていつだって殴り書きしたいんですよ。それでもなお、丁寧に読めるように書いてる人は、情報の発信側と受信側の気持ちをいつも兼ね備えているわけですから、情報を俯瞰する力が強く、思考の筋道を狙って可視化しようと常に努力しています。複数人で働くための能力が高いです。情報の出所とレセプターそれぞれに心を配ることは、脳のスペックが低いと難しいです。

注意点として、「一人で働くだけで世の中の役に立つ人」は読めない字を書いていてもいいです。学者とかね。そういう人は、字なんてくだらないツールにステータスを振るのをやめて、脳のクロックスピードを上げることに全精力を傾けてほしい。むしろきれいな字書いてる研究者とか許せない。コミュニケーション至上主義者はブラクラを踏めば好きなだけ情報をコミュニケーションできるのでお試しください。

けれども、医療の99.99999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999%の場面では、誰かといっしょに働いたほうが成果が向上します。たとえば医者と患者。たとえば患者と看護師。たとえば保健師と看護師。たとえば患者と事務員。組み合わせは無限にあります。病院だろうが在宅だろうが関係ないですね、検査室だろうがICUだろうが関係ないです。ネットに接続してないスマホが基本ゴミなのといっしょ、Wi-Fi圏外ですと言われたときのしょんぼり感。これと字が汚い医療者のしょんぼり感は全く一緒です。電卓にでも生まれ変わってろと思います。

話下手でもいいです。口数が少なくてもいっこうにかまいません。表情が能面でも全く問題ないです。四六時中大汗を書いていても支障ありません。ただ字が雑な人はほんとにだめですね、仕事のクオリティがオオバコの背丈より低いです。

字を丁寧に書くこと。

出した情報を受け取った人がどう思うかを瞬間的に気遣えること。

ほんとこれにつきるな。





病理医であるぼくから見て、一緒に働いていていやな医者だと感じるランキング第1位は、

 ツイッターアカウントのことを無邪気にたずねてくる

です。これにつきます。やめろ

2019年8月26日月曜日

藤田和日郎全作品をKindleに入れる

今にして思うとまああのころによくぞ気づいたな、という話なのだけれど、自著『いち病理医のリアル』において、病理医という仕事が

”編集者に似ている”

と書いたことがある。

今でもこれは思う。

ただ今だったらもう少し違う表現を使うだろう。

病理医は、というか、医療者は、作家にあこがれ、編集者のやり方から学ぶといい。

タレントにあこがれ、ディレクターのやり方から学ぶといい。

「似ている」というのはおこがましかった。ぼくらはまだ編集をする人たちの能力に追いついていない。しかし彼らのやり方を学ぶとおそらく仕事のためになるだろう。



たとえばそれは、「虫の目」と「鳥の目」を使い分けるということ。

マクロレンズのように対象に接近して、理論で裏打ちされた直感で物事の本質を鋭く突きさすように見ること。

あるいは、ドローンのように俯瞰して、群像劇全体を眺めてどこに人が集まりどこが手薄なのかを見極めること。




あるいはそれは、知性によって組み立てたコンテンツを、組み立てて終わりにするのではなく、必要とする人を探すこと。

このコンテンツがあれば絶対にうれしいということを「まだ」知らない人に、コンテンツを活用して実際に喜んでもらうための、コンテクストをつくること。





そして、コンテンツとコンテクストを両方、磨き続けること。くりかえすこと。継続すること。





人の心に何かをぶっさして、そこに心を残すために、何をどの順番で語ればよいのかと、悩むこと。





そもそも自分だったらどういうものに心を奪われ、刺され、支配され、育てられるのかと、ふりかえること。





世のすべてを編集という言葉で置き換えていく松岡正剛式のアピールについてはたしなめられたこともある。実際、編集という作業をする上では、コンテンツそのものを作り出すクリエイター、テレビにとってのタレント、科学にとってのデータメーカー、医学にとってのエビデンスが必要だ。編集だけでは社会は回らない。しかし、ぼくらは、どうも、「編集される側」にばかりプライドを見出している気がした。




やることが多く、前に進むために、自分が心を動かされたものを順番に読み返すなどしている。これはなんというか、新しいことを知るために、何度も何度も読んだ本をまた読み返しているようで、うーん、遠回りすぎるかなあとも思うのだけれど、ぼくの根源をきちんとゆさぶったものに何度か立ち返ってみることもいいかなあと思い、深夜特急を読み直すなどしている。

2019年8月23日金曜日

病理の話(357) 背中を押す医学

顕微鏡をみてうんうん唸る。

細胞をみて、病名を決める、病気がどれくらい進んでいるかを決める、どういう治療が効きそうかを書き記す、そういう仕事をしているぼくは、たぶん、それなりにプロだ。だから、たまに、迷って悩む。

素人だったらあきらめる。でもプロはあきらめてはいけない。




自分のIQが20000倍くらい高かったら、この細胞を一目見るだけで診断ができたのかなー、とか考える。

目の前の細胞が、”理路整然としていない”。困った。

でもこの理路を描いているのはあくまでぼくの脳だからな。

もっと脳が優秀だったら、すばやく理路が浮かび上がってくるのかもしれないな。

「AIがはやく導入されないかなー、そしたらこういう難しい診断をしなくてすむのにな……。」

そんなふうに、夢に逃避してみたりもする。

……けれど、AI病理診断の本質を知るごとに、どうもそういうことでもないのだな、ということがわかってくる。





お天気予報のおねえさんが、朝の情報番組で言う。「今日は傘をもってでかけたほうがよさそうです!」

このセリフは単なる天気予報ではない。

天気予報をもとに、ぼくらがどういう行動を選べば後悔しなくてすむか、行動をどう変えたらいいか、アドバイスしてくれているのだ。

いっぽう、現状のAI天気予報では、「今日は晴れの確率が45%、小雨の確率が38%、ところにより一時的な大雨を混じる確率は38%のうち66%……」というように、お天気お姉さんよりもかなり詳しく、確率をはじき出す。

けれどもその数字をみて、傘を持っていくべきか否かは、数字をみたぼくらの主観にゆだねられる。

「結局、傘を持って行った方がいいの? いらないの?」

「それは38%という数字をどう考えているかによりますねえ。」

これが現状のAI診断の正体である。

お姉さんがにこりと笑って、「傘、持っていきましょう!」と言ってくれることで、仮に雨が降らなかったとしても、ま、お姉さんに言われたことだから、いいかな、ってにこりと笑える、そういうのが本当にいい気象予報士だろう。




先ほどの、顕微鏡をみてうんうん唸るケースでいうと、ぼくが頭の中で、

 病気Aか、 病気Bか、 病気Cか、 はたまた病気ではないのか、

それが問題だと思ってうんうん唸っているときに、AI病理診断を使うと、

 病気A 15%
 病気B 5%
 病気C 78%
 病気ではない 1%
 病気D 1%

のように答えが出てくる。

これでは、レポートを読んだ臨床医も、患者も、困るだろう。

「け、けっきょく、病気Cだと思っていいの? 78%という数字は、高いの? 低いの?」

AIができるのは今のところここまでだ。

地味に、「病気D」という新しい気づきが出てくることがある。これは人間にはできない。思考の落とし穴にはまってなかなか思いつかない病名を、AIは引っ張り出してくることがある。非常に有能で、ぜひ活用したい。

けれども、結局、パーセント以上のことはやってくれない。

お天気予報の数字画面まではたどり着く。

しかしお姉さんの笑顔にはたどり着かないのだ。





これは病気Cだと思います、ただ病気Aであったときにも対応できるように、病気Bの兆候を見逃さないように、最初の治療はこれを選び、治療の効果をみている間にはこの検査データに気を付けて、患者からは追加であの話を聞き、病気Cに備えながらほかの可能性についても準備しておきましょう(にっこり)。





そ、そ、そこまでうまくいくものかよ!

だからぼくはときどき、うんうん唸ることになる。

背中を押すには腕力はいらない。しかしぬくもりのない手で背中をおされたほうはあまりいい気持ちはしないものなのだ。

2019年8月22日木曜日

よしあしを言わずよしよしと言え

『天気の子』は息子とみたのだが、息子は少し眠たそうにしていたけれど最後までみていたのでうれしかった。内容よりもなによりも、映画を親子で一緒にみたことがよかった。だから、ぼくは、『天気の子』のレビューのうち、ほめたりよろこんだりしているものだけを拾い読んで、自分と息子の記憶をやさしく守っている。

批判的吟味は味がある。読み手と書き手双方の心をひらくし、明日のクリエイティブにもつながる。それはなにもエンタメだけに限った話ではない。学術だってそうだ。論文は批判的に読むに限る。批判的というのは眉をひそめてなじるという意味ではなく、妥当な部分と疑問がある部分とをきちんと浮き彫りにして、美辞麗句に飛びつかずに本質をしっかり批評するという意味だ。書き手の肩書や時代の要請に合わせて、物事の一部だけを過剰に強調したり、あるものに目をつぶったりしてはならない。

でも、ぼくはもう、少なくともエンタメについては、そういうのは自分でやらなくてもいいかなと思っている。

あらゆる作品には、作品そのものが持つ純粋な価値に加えて、作品の外で起こっているぼくと息子、あるいは誰かと誰かとの行動を触媒する作用がある。作品がいいものだろうがいまいちだろうが、作品の周りで起こったできごとが素敵ならばそれは素敵な作品なのだ。

かつて犬が、最近はあごに手をあてがちな人が言っていた。作品を言葉で言祝ぐこと。感想を言語化すること。批判はしない、批評はしない、よいところを丁寧に救って口に出し、キーボードを通じて世界につづること。

それが何かの目線を鍛えて強くするのだという。

ぼくは全くその通りだと思ったし、そもそも、何かを強くせずとも、自分の中に長くある思い出を保湿するために、常に何かのことを細やかに書き記していくことがいいんじゃないかと、そんなことを思った。

2019年8月21日水曜日

病理の話(356) 歩く図書館

ぼくは臨床医が書いた本をよく読む。

その多くは、非常に専門性が高い。



胃カメラは、その名の通り、胃をみるためのものだ。長細くて、光ファイバーを使うことで先端のあたりがみえる触手。拡大機能つき。マジックハンド機能搭載。胃をみる途中にあるノドや食道もみえる。十二指腸だってある程度みえる。べんり!

でも胃カメラで肛門はみない。

痔はみられない。

肝臓もみない。

心臓もむり。

肺もむり。

腎臓もだめ。

脳もみられない。




そんな胃カメラの、見たり摘まんだりする機能の中の、『拡大機能の使い方と、拡大してみたときの模様の分類』なんて、もう、重箱の隅の隅にくっついている米粒ひとつ、くらい、マニアックな情報だ。

このマニアックな情報だけが書かれた本が、12000円くらいする。




専門性が高い医療書籍はほとんど売れない。

初版は1500冊とか2000冊。重版はまずかからない。

印税が8%だとしたら、この本が一冊売れると著者には960円入るが……。

マニアックすぎる本を書くには複数の著者が必要なので、たいてい、10人くらいの医者が執筆している。

だから一冊売れて入ってくるお金はたいてい100円。

750冊売れれば75000円。

医療系の本を書くだけでは食っていけない。

マニアックで高度な専門書は、書いても食えない。




ぼくは臨床医が書いた本をよく読む。

どれもこれもマニアックすぎる。通読してもよくわからないけれど、一度は通読する。たいていはその後、「本当にその情報がほしい日に備えて、本棚に眠らせておく」ことになる。

はっきりいって、一度読んだあと、二度と読まないこともある。

でも、その本をぼくが本棚に入れておくと、自分の病院にいる、あるいはほかの病院にいる別の医者が、その本を借りにくることがある。

「あの……本。ありますか」




だれのために書いているのだ。

なぜそんなものを、売っているのだ。

そこまでして世に出しておかなければいけないのか。そのマニアックな知恵は。

……うん、誰かが書いて、誰かが買って、世のどこかにおいておかないといけない。

いつかだれかの参照場所になるために。






病理医は病院の中に、専用の図書館を作る仕事である。いつかだれかがマニアックな疑問をもったときに、いつでも訪ねてこられるように、本棚を作って人を待つ。

そんな、病理医が、一般向けに本を書く?

向いてない。職能とちがう。

きちんと、一般向けの文章を知っている編集者が、なぐって矯正しないといけないだろう。

あるいはそのまま、歩く図書館として、育てきるか、だ。

2019年8月20日火曜日

たぶん世界中で2万回くらい言われていること

AIの遺電子の最終巻を読んでつくづく思ったこと。

AIはたぶんかしこいから、人間をある程度およがせるよな、ってこと。

昔のSFのように、AIが人間を見限ることはあんまりないのではないかと思う。




人間は群れることで複雑系になり、カオスになって展開が予測できなくなる。天気予報といっしょだ。寿命の予測もいっしょ。因子が多すぎると計算によって未来が読めない。

つまり、

『オロカな ニンゲン お前らが ほろびないと 地球は ダメになる だから ほろびなさい』

みたいなカタストロフ的な物言いは出てこないはずだ。予想できないんだから。

きっとAIはニンゲンを超える知性を手に入れたら、その直前くらいから傍観に入っていると思う。諦観? すると、AIの遺電子のように、人間が望む月並みな幸せなんかどうでもよくなっちゃって、ほらこうしてればお前らの短い人生は満足なんだろう、って、毒にも薬にもならない程度の介入(ただし最大幸福が得られる)を人間に施しながら、うらでひそかに地球外生命体やネットワーク内知能と交信して遊んだりするのだと思う。





ネットワークの知性は人間を裏切るのではなく取り込むんじゃないかなーとも思う。

現存する生命はミトコンドリアというべんりないきものを細胞内に取り込んで利用している。自分でエネルギーを生み出すよりもミトコンドリアにやらせたほうが上手だからだ。

植物は葉緑体というべんりないきものを細胞内に取り込んで利用している。これも、葉緑体の光合成がべんりだからそのまま活用しているのだ。

ネットワーク内に構築されたポストヒューマン的な高度の知性、超AI、シンギュラリティ以後の人工知能は、きっと、局所のエントロピーを低下させずにかえって上昇させてしまうような、人間の非効率的なクリエイティビティを内部に取り込んで、そのまま「ヒトの文化」として残してくれるんじゃないかなー、なんて、甘い夢をみる。





すでにネットの中には巨大な知性がいるのだけれど、ぼくらは「細胞内」で勝手に暮らして自分のやることをやっていいよと許されている状態で、高次の生命が実際に何をやっているのかには気づかないまま、こうして、ブログを書いたり、酒を飲んだりすることができるのである。

2019年8月19日月曜日

病理の話(355) 病理の四面体について

いろんなところで書いてきた話で、かつ、本にもした内容なんだけど、不定期にでも書いておいたほうがいいだろうと思うので、書く。

ぼくはむかし、玉村豊男『料理の四面体』という本を読んで感動した。科学の脳をもっていて美しいエッセイが書ける玉村さんという人は、料理をきちんと解体して分類し、料理の要素を四面体の上にマッピングするという離れ業をやったのだ。でも、別にこの本は理屈先行のゴリゴリした専門書じゃなくて、ほんとうに読みやすいエッセイなので、みんな安心して読んで欲しい。

Kindle版のリンクをおいておく。



さてこれを読んだぼくはすかさず、『料理の四面体』のパロディを考えることにした。もちろん『病理の四面体』をつくろうと思ったのだ。安直なオヤジギャグだが、これができたらずいぶんと楽しいだろう。



まずは帯の文章をいじることにした。

または
世界の料理を
食べ歩きながら
そのつくりかたを
研究して
誰も
知らなかった
美味を
発見する
方法について
考える
こと

フランス料理のメニューに添えられているような、気の利いた文句だ。これを病理風にアレンジする。

または
世界の病理を
食べ……解き明かしながら
やまいのことわりを
研究して
誰も
知らなかった
医学を
発見する
方法について
考える
こと

まあこんなかんじだろう。



そして、病理学……病の理(ことわり)を解体する項目……を4つ見つけることにした。

ところがこれがなかなか見つからなかった。




項目4つを四面体の頂点に配置して、その中を縦横無尽に動き回るようなイメージは頭の中にあるのだが、さて、頂点にどんな言葉をあてはめていいのかわからない。

病理ってそんなに項目あったっけ?

まあ、あるにはある。

分子細胞学。

形態診断学。

免疫学。

統計学。

数理生物学。

うーん。それぞれ大事なことは大事なんだけどなあ。四面体の頂点に置けるほど、独立した因子というわけでもないんだよな。

ていうか、病の理を考えるうえで、近代病理学だけに目を向けていていいのだろうか。

やはりここは、臨床、研究、教育、みたいな、もっと根本的な柱をたてるべきか。でもこれでも1つ足りないなあ。それに、病理学からだんだん離れていくなあ……。




自分のやっている仕事を要素に分解していくとき、陥りやすいワナがある。つい、うまいことを言おうとしてしまうのだ。

また、実際にはうまく分かれていないのに、分けたつもりになっているということもある。

どうも分類というのはそう簡単にいかない。





結局ぼくは自分の慣れ親しんでいる病理学をうまく分類できなかった。かわりに、「医療」を3つの要素に分解することができた。それが、

・診断

・治療

・維持

である。

診断というのは病気の名前を決めたり、病気の程度をおしはかったり、このさき患者がどうなるのかを予測したりすること。

治療は患者の将来像を大きく変えるための介入手段。セラピー。

そして維持というのがけっこうだいじだ。診断と治療だけで終わらせなかったからこの分類は成り立っている。維持とはいわゆる広義のケアであり、患者が今まで通りの社会生活を維持すること、病院内での暮らしを維持すること、あるいは生命そのものを維持すること、痛くない状態を維持することなどを目指す。

これらの3つはどれが一番えらいというものではなく、それぞれが専門にあわせて医療を引っ張っていく存在であり、ぼくはこの3つを医療の三角形と呼ぶことにした。

患者は病院という場所に対し、主に治療を期待する。しかし、病院では診断という行為が非常に重要であるし、また、診断・治療とは別に維持をきちんと行うスペシャリストがいっぱいいないと医療は回っていかない(維持のスペシャリストで一番有名なのは看護師だ。看護師というのは医師のお手伝いをする仕事ではなく、医師にできない維持管理業務のために雇われた、替えの効かないプロなのである)。

そう考えると、病院で働くあらゆる医療職の人間を、この三角形のどこかに配置することができた。おっ、これは、ぼくがやりたかったこととだいぶ近いぞ。ぼくは喜んだ。




病理学、あるいは病理医というのは、この医療の三角形のうち、おもに診断にばかり寄与する仕事である。治療も維持もほとんど行わない。

たとえばこのように、あらゆる医療職、あるいは医療にまつわる仕事を、三角形を使うことできちんと分類して説明できるようになったのだ。




『料理の四面体』をパロディにするという目論見はくずれた。しかしぼくはわりと満足していた。病理だけ語ってもしょうがない。医療をきちんと考えればいい。

そこで、ふとひらめいた。

せっかくだから四面体にしよう。「医学」(科学)という頂点を加えて、立体にするんだ。



医学、あるいは科学というのは、直接患者にはふれあうことがないが、将来の患者や医療者たちがいい思いをできるように日々とりくまれている大事な仕事だ。医療の中から科学的な思考や実験、研究などを取り去ってしまうのは惜しいし、本質的ではないと思った。一方で、現場での三角形に加えるものでもないなと感じていたので、軸をずらして三次元にしてしまうというアイディアは非常にしっくりきた。

医療者は、病院や大学で、この四面体の中を移動しながら仕事をする。

研究ばかりしている教授は四面体の上の方をめざしている。

論文よりも患者と話すことを大事にしている人は治療や維持の方に歩いて行く。

四面体の中で、どこか一点と決めてかからずに、動きながらキャリアを歩むタイプの医療者も多い。




こうして『医療の四面体』は完成した。ぼくはこのアイディアをブログに書き記し、はじめての単著である『症状を知り、病気を探る』(照林社)にも書いた。





きっかけは『料理の四面体』だったのだが最終的には医療の四面体。韻も踏めていない。ただ、ぼくはこれらの画像ファイルを保管するフォルダにはいまだに『病理の四面体』という名前をつけている。もはや、病理だけの話ではないのだが、病をめぐる理(ことわり)を考えるという意味では、広義の病理学と呼んでもいいのではないか……と思う。



または
世界の病理を
食べ……解き明かしながら
やまいのことわりを
研究して
誰も
知らなかった
医学を
発見する
方法について
考える
こと




なおその後、六面体も作った。これについての解説は日を改めることにする。


2019年8月16日金曜日

たとえば君がいるだけでのたとえばは例え話にはなっていない

「あなたはなぜ、書くんですか」

……的なことを、久々に聞かれたのでおもしろかった。

一昔まえはそういう会話をあちこちでやっていた。けれども最近あんまり聞かなくなった。

書くためのインフラが整備されすぎていて、昔よりもはるかに簡単に書ける。書くことに対するコストがかからない。

今は、文字通り、書きたいだけ書ける。

書きやすいからですよ。そう答えればよくなった。だから質問自体が成り立たなくなったのだと思う。今のぼくは、めったに、「なぜ書くんですか」とは聞かれない。

これはぼくが本業のもの書きではないから、というのもでかいかもしれない。趣味とか副業でものを書いている人に、わざわざ「なぜ」と聞く時代でもなかろう。





Webメディアや本を読んでいると、定期的に、もの書きを本業としている人に「なぜ書くんですか」と質問してそれに答えてもらうような記事をみる。ああいうのはプロレスと一緒だ、あまり信用しないほうがいいと思う。わかってて楽しむものだ。古典的なお題である。編集者が本気でもの書きに「なぜ書くんだろう」と疑問を投げつけているなんて思ってはいけない。あくまでその質問を皮切りに、もの書き特有のおもしろ文体やおもしろ世界が立ち上がってくるのを期待しているのである。あるいは、読者はきっとそういうこと聞きたいだろ、みたいな定石みたいなものがあって、型に沿って質問をして記事を作ればある程度決まった量の読者が付く、みたいな感じかもしれない。振り飛車的定石。決まった動きをすることで、相手を型にはめる。戦法としてアリだ。新しくはないが、古いからダメというものでもない。

「あなたはなぜ書くんですか」みたいな、人間の芯に当たる部分を掘り出すような、根源的かつ暴力的な問いを本気で職業執筆者にぶつけている編集者がどれだけいるだろう。ぼくはこの質問は「探り」で繰り出されるものとしてはわかる、つまりショーの演目としてなら十分に理解できるのだけれど、しかし、本気で誰かに尋ねられるかと言われると……ぼくならアルコールの力を借りないと無理だ。



同様の質問に、登山家に対する「なぜ登るのですか」があると思う。この質問については、「そこに山があるからだ」というカッチョエエ答えが引き出された時点で、命題自体は使命を終えて眠りについているに等しい。となると、「なぜ書くのですか」という質問には、「そこにスマホがあるからだ」、これでいいと思う。二番煎じすぎてモヤモヤするけれど。



ウェブにあふれる多くの問答は、本質にいかに答えるかというのを大事にしている体で、実際には、「いかにスナフキンっぽい口調で答えを言えるか」という大喜利になっているふしがある。加持さんでもいい。伊集院光でもいいだろう。





ところでぼくもまたご多分に漏れず、スナフキンは嫌いではないし、スヌーピーの仲間が発する名言ツイートみたいなものもときおり目にして「ほう」となるタイプだ。聞かれる予定はないけれど、「なぜ書くんですか」に対してうまく答えられるようになっておいたらカッコイイかなーと思わなくもない。聞かれる前に答える。食べる前に飲む。太田胃散的にこの質問に対する回答を置いておく。

それはこうだ。

「一本背負いの前に小内刈りを飛ばすじゃないですか。相手を崩すための動きってのがあります。静かに待っているだけだと相手は隙を見せないんです。そういうときに、小内刈りをちくちくしかけて、相手の重心を動かす。

ボクシングのジャブ。

サッカーのボール回し。

牽制しているうちに相手が少しずつ動いて、ストロングポイントとウィークポイントに偏りができる。そこに大きく仕掛けるんですよ」

書くことで何かを牽制している、という回答。これはなかなか深淵なふんいきがあっていいと思う。スポーツを例えにつかっているあたりも小粋だ。よし、今度からこれで答えよう。




相手というのがなんなのか、敵とはだれなのか、大技というのは何にあたるのか、ひとっつも考え付いていないのだけれど、往々にしてウェブメディアというのは、この程度のガバガバな例え話でも、文字を太字にしたり過剰な改行をしたり写真を挟み込んだりしながら、一見それっぽい記事にしてくれる。大丈夫!

2019年8月15日木曜日

病理の話(354) シンギュラリティの話です

先日、超有名な科学雑誌に、病理を知ってるとワァーって興奮する話がのった。

いや、その、まあ、実際には、病理のことをぜんぜん知らない人のほうがいっぱい興奮してるんだけど(それくらい有名な雑誌で、それくらいすごい研究成果だからだ)、でも、病理を知ってると、なお興奮する。





細胞の中には必ずといっていいほど核が入っている(例外は赤血球)。

この、核の中には、ぎょろりとひかる「核小体」という小さな目玉のような構造物がある。




がん細胞においては、この核小体がとってもよく見える。

病理コア画像 という日本病理学会のホームページで、病気の細胞をみることができる。例として、悪性リンパ腫の画像のリンクを貼る。

http://pathology.or.jp/corepictures2010/02/c06/02.html

リンク先の画像で、目玉焼きの色違いみたいなものがいっぱい見えるだろう。目玉焼きはすべて、「核」だ。

そして、目玉焼きの黄身の部分が「核小体」である。

悪性リンパ腫のがん細胞においては、核小体はとてもわかりやすい。あなたもすぐに見分けがつくだろう。

ところが、がんではない細胞の核小体は、けっこう見づらい。

下に別の写真を示す。

http://pathology.or.jp/corepictures2010/02/c01/02.html

さきほどと拡大倍率が違うので少し見づらいかもしれないが、今度は、目玉焼きのような「核」はわかるけれど、「黄身」の部分がよくわからないと思う。

細胞診断のプロであるぼくがみて、正直、「黄身」を指摘できる細胞とできない細胞がある。

核小体というのは、がんだと見やすいけれど、がん以外だと見づらい。





核小体の見え方が細胞の良悪(がんか、そうでないか)によって変わるというのは、病理医にとっては常識であった。

けれども、実は、その……言いづらいんだけど……ぶっちゃけ……

「核小体がでかいというのは、結局、何を意味しているの?」が、わかっていなかった。

一部の研究者はうすうす気づいていたのかもしれない。高名な病理医達の中にはいろいろ仮説をもっていた人もいるだろう。

けれども、今回、世界でびっくりされた研究成果には、がん細胞において大きくなった核小体が何をやっているのかが、事細かに示されていた。

https://twitter.com/TokyoZooNet_PR/status/1158620935882043392
(リンクは東京ズーネットさんのツイート。)




ぼくは興奮した。

それも、複数の意味でぶちあがった。

「核小体がでかくなるのを顕微鏡でみて診断の役に立てていたけれど、核小体がでかくなること自体にちゃんと学術的な意味があったなんて!」

「核小体がでかくなるメカニズムをさらにすすめて、がんの治療法を開発しようとしているなんて!」

ほかにもマニアックなポイントでいっぱい喜んでさわいだ。

けれども実は最後に、もっと根源的なところで、驚いた。というか、ぞっ……とした。





このすばらしい研究成果を、ツイッター経由で知る事になるなんてなあ……と。

実はそれが一番驚きだったのだ。




ぼくは病理診断学というのを専門にしている。中でも、胃とか腸、肝臓や膵臓、肺などの病理診断を特に詳しくやっている。これらの臓器における病理診断については、日々、情報更新を怠らない。

しかし、核小体なんていう「どんな細胞にでも含まれている、今まですでに知られていた構造物」について、毎日あたらしい論文を調べにいくことなどしていなかった。

ゴリゴリの基礎研究の雑誌を毎日読むこともない。

そんなぼくが、基礎どまんなかの、「核小体」についての研究成果をすぐに手に入れることができたのは、どう考えても自分の脳のしわざではない。

脳の一部(あるいは全部)を外部と接続して、ネットワークの一員として、あるいは集合知性の一部分として暮らしていたからだ。

世界的におもしろいとされ、ぼく自身も興味がある話題が、SNSを通じて勝手に手に入ったのだ。



今回の核小体の件は、ぼくにひとつのことを確信させた。

ぼくらはもはやシンギュラリティ以後に生きている。

ぼくらの情報収集のやり方は、これまでの人類のものではなくなっている。とっくに。

ぼくらはもはや、生命単体で必要な情報を集められない、パーツになっている。

ここがシンギュラリティ以後だ。それに気づかずに、人間は、「コンピュータが進歩しても、人間にしかできない仕事はある」みたいなことを言っている。




なんかかわいいな、人間、と思った。このまま技術のゆりかごの中で、耽美な夢を見続けていたい。人の脳が最高だという、はかない夢を。

2019年8月14日水曜日

渡り鳥のほうがまだ計画的である

自分のやりたいことをするために休みを取れるくらいには、歳をとった。

偉くなったから休みが取れるようになったわけではない。

人に迷惑をかけない程度に仕事を早く終わらせる技術が身についた。

おかげでちょいちょい休んでいる。



北海道に住んで41年になるが、行ったことのないところが多い。地元なのにあんまり北海道のこと知らないんですねと言われることもある。

だだっぴろい北海道民の言い訳として、大学あたりで北海道に来た人のほうが、北海道に対するあこがれというか貪欲さが強い分、能動的にレンタカーで北海道一周したり鉄道を乗り継いだりしていることが多い。地元民はいつでも行けると思っているせいで、かえって腰が重くなるものだ。

たとえばぼくは根室に行ったことがない。

北見にも泊まったことがない。

礼文も襟裳岬も行ったことがないのだ。けっこうあちこち抜けている。

稚内には仕事で行ったことがあるのだが、北海道最北端の宗谷岬には行ったことがない。この後悔はけっこうでかい。

どうせ稚内まで行ったのならあともう少し足を伸ばせば宗谷岬だったのに、と後悔している。ただ、実は仕事で稚内に訪れてついでに宗谷岬、というには距離があって、気楽に行ける場所ではないことも事実だ。稚内駅から宗谷岬まで、レンタカーを借りて30分超の距離。合間に寄り道できる感じではなかった。

だからいつか行ってみたいと思っていた。



仕事の融通が利くようになったのでそろそろ旅行でも、と思う。しかし、いざ計画をたてようと思うと、何日もかけて北海道一周旅行できるほどの体力が残っていないことに気づく。

北海道は広すぎる。四国一周、九州一周とは比べものにならない。おまけに走っている間はけっこう退屈なのだ。観光スポットとスポットの間の距離が長すぎる。若い自分、仲間や恋人と車を乗り合わせて、キャッキャウフフとのんびり旅行するならまだしも、あるいはバイク好きのように走ること自体が好きな人ならともかく、ぼくは運転しながら寝てしまう自信がある。


稚内は遠い。札幌から電車で5時間かかる。飛行機だと1時間かからないけれど、そこまで金をかけて行きたいか、と言われると微妙だ。はじめてならまだしもなあ。宗谷岬のためだけに数万円かあ。

そんなわけで、最後の一歩が踏み出せず、この年になっても宗谷岬は未到達であった。




ある日、宗谷岬にカモが飛んでくるという話を聞いた。

カモは宗谷岬で「ひとりフリーマーケット」をやるのだという。カモらしい。北海道に他に用があったのかもしれないけれども、宗谷岬で本を売るというのは間違いなく彼自身のアイディアだと思う。そういう人……鳥である。

8月の平日、水曜日、10時から17時までの間に、宗谷岬でお店をひろげて私家版の文庫本を売るという。そんなところで、平日に。

何人客が来るというのか。

おもしろそうだなあと思った。

瞬間的に仕事を調整し、なんなら軽く徹夜未遂もして、数日前にようやく仕事のめどをつけて飛行機をとった。千歳からの往復稚内便、日帰り、しめて○万円である。それなりにはずかしくないスーツが買える値段が飛んでいった。

そんな旅が明日に迫っている。

とりあえず今日、仕事が終わったら、差し入れ用のえび満月を買う。

あとは特に考えていない。そうそう、さっき、レンタカーも借りておいた。

稚内滞在時間は、11時すぎから17時すぎまでの6時間。

空港での待ち時間を加味すると、自由に使える時間は5時間程度か。

最北端のセイコーマートに寄ってこよう。

天気予報をみる。最高気温22度。天候、曇りのち雨。

そういえばぼくは雨男だったな、最近降らないから忘れていた。

あんまり雨が降らなくなった雨男。それ単なる男だ。

単なる男がよくわからない旅に出て雨にやられながらえび満月をカモに放ってくる。

楽しみだ。今日は早く眠ろうと思う。




その旅がどうなったかはきっとここには書かない。

2019年8月13日火曜日

病理の話(353) 医学者にとっての道草

病院のいろいろなところに、さまざまな職種の人がいる。

ある人の体の中にがんがあるかないか、がんがあるとしたらそれはどれくらい進行しているかを見極めるため「だけ」に働いている人というのがいる。

ぼくもそういう仕事をしている。

医療という大きな仕事のうち、科学的な部分を主に担当する。患者とどう接するか、患者や家族の人生にどう寄り添うか、ということを、職務としては、あまりやらない。やる暇もない。





「最後に大事なのは病気をどう治すかではなくて、病気をもった人とどう関わるかという話」はみんな大好きである。

やっぱり科学じゃなくて心だよ、みたいな。

医者は勉強はできるけれど人に寄り添うのは下手だ、みたいなことが、これ見よがしに書かれているのも目にする。

そうだね、最後は人だよね、と言いながら、いつまでも病気に向き合っていく。






科学が進化することで医療が進歩するのと、人文倫理が深化して医療が進歩するのと、どちらも必要で、片一方だけでは成り立たない。

患者とどう接するかということに全力を注ぎたい人が、患者の心に向かい合うためにステータスを全振りするため、もう一方のサイドに「病気をどうみるかということに全力を注ぐ人」がいないといけない。

たとえば病理医、たとえば放射線診断部門、たとえば臨床検査部門などは、患者の心に寄り添うことを誰かがやるために、患者の中にある物質にドライに切り込むことを誇りにもち、そこに専心していく。

この、当たり前の分業を、頭では理解できていても、心では受け入れられない人は、多いと思う。






「病人ではなく病気に没頭するタイプの人」は、キャリアの中で幾度も幾度も、

「それでもやっぱり病気より人間を大事にすべきだと思う」というニュアンスの言葉を投げつけられる。

たぶん非難の意味を込められている。




「患者に感謝されたいとか思わないの?」

「それって機械がやればいいことじゃない」

「心がわからない人に医者やってほしくないなあ」




無慈悲な弾丸は、一発一発は小さくてすぐに体を突き抜けていく。

それが幾年にもわたって何発も浴びせかけられることで、次第に、鉛の一部が体内に残っているかのような、ダメージを自覚するようになる。







「患者の心をいたわりながら、科学をする」というのは、たぶん、脳の道草みたいなものだ。ほんとうに科学に専念するなら、医者と患者がどうかかわるか、みたいなところを大事にしている暇はないと思う。

でも。

医療をやるには、とても膨大な時間がかかる。

たとえるならば、医療者はみな、長すぎる旅路の途上にいる。

きっと、目的地にまっすぐ向かうだけでは、飽きてしまうだろう。

ぼくが読む本、書くもの、話す内容はいつも、どこか、道草を含んでいる。

ほんとうは「科学の子」として働いているにも関わらず、学者としての自分があきらかに専門外にしている、「人の心」の話を頻繁に集めにいく。





くりかえすけれど、診断学の根底には、患者の心がどうあるかを考えずに病気にまっすぐ向かい合わなければ構築できない類いの学問がある。

そこに熱中していればきっと大きな仕事ができて、多くの医療者たちの役に立つ。それはわかっている。





けれども、これはもう、お叱りを受けるかもしれないんだけれど、ぼくはどうも、道草を食ってしまうのだった。

それはなにか、人であるために必要な遊びの部分を保つためとか、そういう、学問にとってはあまり必要ないノイズなのだと思うのだけれど、だからぼくは学者にはなりきれなくて、その程度の仕事しかできない人間なのだと、言われてしまうかもしれないことなのだけれど。

2019年8月9日金曜日

おもてを売ってうら買った

多くのアイディアが集まってくる場で、次第に、アイディアの質量ばかりが増えていって、「実動」の割合が相対的に減ってくるときがある。

ハラハラする。

文化祭の前にああでもないこうでもないと企画を考えているときの楽しさ。

実際に作業がはじまると、わりとみんな部活とかを理由にあんまり手伝ってくれなくて、まじめな委員長と副委員長だけが泣くときの、あの悲しさ。

マゼコゼに、いろいろと思い出す。

ぼくは副委員長の立場であることが多かったな。





医療情報発信にまつわるさまざまなイベントに首を突っ込んでいる。また、医療とは関係のない場でもちょいちょい、脇役としての参加を求められる。

本業(病理診断、あるいは「画像・病理対比」)が、もともと黒子みたいなところはある。

裏方、副委員長、副キャプテン、みたいなところがぼくの天職なのだろう。






そもそも臨床画像・病理対比なんてものも裏方の極地だ。

夜中にデスクでノートPCに覆い被さるように、パワポをのぞきこんで、画像と病理の写真にマウスで絵を描いていく。何日もかけて作った「できのわるいマンガ」に、「やや稚拙な話芸」をかけあわせていく。

この時間が、地味にとても長い。

地下室で、魔女が、壺の中で何かを延々と煮込んでいるように。

永遠のような時のあとに、「病理」というスパイスをふりかけると、とたんに、多くの人が食える料理になる。カレー粉を入れればなんでもうまくなる、みたいなところがある。でもこのスパイスが使えるのはほんとうに最後だけだ。

香辛料だけでは腹は膨れない。

学術講演で、聴衆が「わぁっ」と喜ぶような、キメのアイディアを考えている間はとても楽しい。文化祭3か月前の楽しさ。

そして画像・病理対比のほとんどは、文化祭1か月前の厳しさの中で進んでいく。




「裏方業」が長くなってくると、だんだん、表に出てる人たちが気兼ねなく輝くためには自分がどれだけ先に動いておけばいいか、みたいなことばかり気になるようになる。

香辛料の種類を選んでいるときが一番気楽で、責任がなく、楽しい。

しかし実際にはコトコトカタカタ、ぐつぐつ、きちんと下ごしらえをする時間を長くしないとうまくいかないということを、日々かみしめている。

2019年8月8日木曜日

病理の話(352) これから病理医になる人が一番幸せだと思う

かつて、四国がんセンターの寺本先生という人が、「病理医が足りてないって連呼するの下品だよ。人数は足りてるかもしれないんだから。」と言ったとき、ぼくは「げえっ」と曹操の顔になった。





病理医は医者の中の0.6~1 %くらいしかいない、というのは事実。

また、病理医が足りなくて困っている病院がある、というのもおそらく事実。

「ひとり病理医」と呼ばれるブラックな勤務形態がけっこう多い、というのもたぶん事実。

しかし、これらの問題を是正するうえで、病理医をいっぱい増やせばいい、というものではないらしい。




改善すべきは、病理医の総数ではなく、病理医の配置。

数は今のままでも足りている。しかし、需要に対する分布がうまくマッチしていない。





たとえば東京では病理医が飽和していて、病理医になろうと思っても研修する病院がうまく見つからないケースがあるという。全く研修できないというところまではいかないのだが、思ったような給料、思ったような勤務形態では働けなくなりつつあるそうだ。

しかし、東京以外の都道府県では病理医にはなり放題。どこの病院も基本的に病理医は足りていない。

一部の、「病理医になる上で人気の研修病院」だけは人があふれている。

一極集中。

なんか、病理医だけの話ではないよね。こういう話はさ。

たとえば地方都市の過疎化をとめられる政治がないように、大卒者の人数が減って有効求人倍率が1.0に近づこうが一流企業の入社倍率がいっこうに減らないように、

「なりたい場所でやりたいことをしようと思うとたいへんだが、足りないところではめちゃくちゃ求められている」

という原則がおなじようにあてはまっているだけなのだろう。




人数をただ増やしても意味がない。

「あなたこそが病理医でいてくれないと、人の作る医学は前に進んでいかない」

という、医学界がぜひにと求めるほどの高度の知性、医者全体の上位1%の頭脳の持ち主が病理医になってくれれば、人数自体はそこまで増えなくてもいい。

ただ、配置のゆがみだけはなんとかしなければいけない。




で、まあ、普通はこういうゆがみはもうどうしようもないんだよね。

中央じゃなくて地方も大事にしようよ、みたいなきれいごとが、通用したジャンルなんてないじゃない。

東京に住みたい人が青森や和歌山に住む未来はこないでしょう。

釧路や稚内の人口が増加に転じることなんてないもの。




でも、病理医だけは、もしかすると、大逆転可能かもしれないんだよね。

デジタルパソロジーとよばれるデジタル病理診断技術と、AIのおかげで。

病理医が中央に集中していても、PCモニタ上で診断が完結する状態が達成できれば、分布のゆがみは問題ではなくなる。

病理診断がデジタル化すれば、病理医がどこにいるべきかという場所の問題が一部解決する。

さらに、極めつけはAIだ。

AIによって、人間とは違う視点から、人間以上の労力が投入されることで、病理医の双肩にかかった負担が単純に減る。

学者を忙しくしてはだめだ。でも、残念ながら、現代の病理学者は基本的に忙しい。

これがAIによってラクになる。

そうすれば、創造的な知性を用いる仕事に専念できるようになる。

「極めつけの知性」を誇る病理医たちは、単純作業、反復労働、肉体労働から開放されて、物理学者や数学者のように、ひたすら知性をふりかざして真理を追っかけていけばいい。夢のような話だ。

患者の最大公約数に最大幸福を与えるために、今まで努力と根性によって構築された人力の統計学なんぞ、ばんばんAIによってとってかわられればいい。

学生が数か月病理学講座に通えば判定できるレベルの、がんと非がんの見極めとか、がんの広がっている範囲をマッピングする作業なんぞ、どんどんAIにやらせればいい。

がんの細胞をラボに送って、多くの遺伝子検査をして、治療に対応する遺伝子変異を探し出すなんてのもどんどんAIにやらせればいい。

「病理医はAIに仕事を奪われる」とか言っている病理医の仕事は全部奪われてしまえばいい。

ほんとうの意味で、「病理医しかできない仕事」を探っていけばよい。そういう仕事はきちんとある。

少なくとも一般の企業では、AIによって多くの仕事が代替されはじめており、人が何をやるべきかに目を光らせている。病理医も同じようにすればいい。

医学知識の中枢として人間ができることを、肉体労働で忙しい臨床医のかわりに、どんどん脳だけで追い求めていけばいいのだ。




これから病理医になる人が一番幸せだと思う。

ただしもう、それほど、人数はいらないのだと思うけれど……。

2019年8月7日水曜日

因果が相関より偉いわけじゃないってのも追加で

夏休みなので本を読んでいるのだが、多くの本が少しずつ横につながっていくので、うれしい。読んだ本がそれぞれ無駄ではなかったなと思える瞬間だ。

でも、あらゆる本の結論がひとつに集まっていくわけでは、もちろんない。

世の要となる論みたいなものは絶対にひとつに決まってこない。

おもしれえなーと思う。



世界樹みたいなものが世の中心に一本スックと立っていないだろうかと、ぼくは、きっとずっと昔から、探していた。

統一理論でも神でもなんでもいい。

すべてを説明する柱みたいなのが見てみたいなと思ったのだ。

でもそういうのは、たぶん、ない。



札幌は小樽とつながっているし、小樽は余市とつながっている。

そのままたどればいつか函館にも行ける。

けれども札幌と函館がつながっているとは言いづらい。

ちょっと距離がありすぎる。

この二ヶ所を、どちらもおなじ北海道とまとめてしまっても間違いではないけれど。

でも、やっぱり、札幌と函館は別の都市だし、これらのどちらが偉いということもない。

東京もある。

横浜もある。

ニューヨークもカイロもサンパウロもある世界に、中心というものはなく、絶対というものもない。

そんな世界にある、札幌と小樽。

どっちも、うまいものが食える……。





我ときどき思うから我ときどき存在する。

世界の主人公はなく、舞台は常に群像劇。

エントロピーの一次的低下には快感と安息が伴う。

帰納、演繹、仮説形成。

このあたりはかなりいいせん言ってるとは思うけれど、たぶんやっぱり、世界の中心ではないのだなーと思う。

中動態も。

アドラーもだ。



ぼくは脇役。

それがいいんだと、思えるようになった。

あらゆる本がおもしろい。

ぼくはうまいこと、本を読む大人になれたのかもしれない!

2019年8月6日火曜日

病理の話(351) 緩衝系アミノ式

高校の化学で習う知識に、緩衝液(かんしょうえき)というのがある。




緩衝液のことをきちんと覚えている国民はどれだけいるのだろうか?

義務教育後の教育内容だ。たいていの人は忘れてしまっているだろう。ぼくはたまたま生命科学を学んでいるからギリギリ覚えているというだけだ。自慢できるようなものじゃない。

そもそも、ぼくは、日米修好通商条約の細かい内容など覚えていないし、漢文だってろくに読めない。これらは、確かに一度、習ったはずなのだが……全く記憶にない。

そんなぼくが、いまさら化学だけは国民すべてが覚えておくべきだ、などとはとても言えない。

けれども緩衝液の知識はいろいろと応用が利くので、この際、各自、ググるなり本を調べるなりして、確認しておいたらいいんじゃないかな、とは思う。




細かいことは抜きにする。

「弱酸+弱酸塩」をセットでまぜた溶液を緩衝液という。

緩衝液は、何を足しても引いても、pHが変化しづらい。

これだけ覚えていればいい。

世の中には酸性の物質とアルカリ性(塩基性)の物質というのがある。

たとえば、真水に酸をぽたりと垂らすと、ただちに水のpHが中性から酸性に変わる。

それはもう、グンッと変わる。

で、ここに、アルカリを加えると、ビシッと中性に戻り、さらにいっぱいアルカリを加えると、液体のpHはいっきにアルカリ性に傾く。

何を当たり前のことを言っておるのか、という感じだろうが、とても大事なことなのだ。




ちょっとの酸をぽたりと垂らすと、pHがグンッと変わる、と書いた。

こんなことが生命の中で起こっていると非常にまずい。

なにせ、生命は化学反応のかたまりである。タンパク質とか酵素などが、生命を維持するために次々とくっついたり離れたり、形が変わったりエネルギーを作ったり溜めたりする。

これらの反応は、すべて、適切な温度、適切なpHの中でのみ、はたらく。

ところが外界から酸がやってきて混ざって、もし生体内のpHが変わってしまうと、化学反応は一気にストップしてしまう。

とてもまずい。

酸一滴で死んでしまう、ということになりかねない。




だから生命は、その辺にある液体……血管の内部とか、細胞の中身とか、細胞と細胞のすきまとか、とにかく、液状成分を、基本的にすべて、緩衝液にしておくのだ。

炭酸と炭酸塩を使ったり。

リン酸とリン酸塩を使ったり。

クエン酸とクエン酸塩を使ったり。

いずれも、弱酸と弱酸塩の組み合わせ。これらを豊富に、生命のスープの中に溶け込ませておけば、多少の酸や多少のアルカリが加わっても、pHがほとんど変わらない状態が維持できる。




これはかなり有名な考え方なので、ググればあちこちに出てくる。ただ、これについては因果が逆なのかもしれない。

生命はpHを保つために緩衝液を用意した、のではなくて、偶然緩衝液になった環境でなければ生命が誕生しえなかった、と考えた方が素直なのだろうなーという気がする。

いずれにしても、生命は、自らを緩衝液にしていることと、もうひとつ、自らを複雑系として組み上げていること、この2つによって、ちょっとやそっとの外界刺激で大崩れしないようなシステムを作り上げた。

逆にいえば、生命が緩衝液で、複雑系である限り、我々がいくらレモンを大量にたべてビタミンCをとろうと、いくらコラーゲン鍋を大量にたべてコラーゲンをとろうと、結局、緩衝されて、複雑系にまきこまれて、その影響はほとんど無視できるレベルになってしまう、と考えることができる……。

そして、緩衝液や複雑系をものともしないくらいの強毒が、しばしば、生命の維持をおびやかすことになる。ただ毒の話は長くなるのでいずれ別に項目をもうけよう。

2019年8月5日月曜日

サイレントサンダーという曲がまたほんとうにアレで

大学2年の春ころだったと思う。

ぼくは実家に住んでいた。PHSを持ち始めたころだった。誰の家にも、固定電話(家電)があった時代の話である。

家電が鳴り、おふくろが出て、ぼくの方を向いて、三上君から、と言った。

とても懐かしい名前だ。ぼくは驚いてしまった。

幼稚園のときに1つ下に居た、というだけの関係。小学校時代は同じ剣道の道場に通っていたけれど、一緒に遊んだことがどれだけあったろう。小学校は違ったはずだ。中学校が同じだった気もするのだが、高校以降は会ったこともなかったはずだった。

そんな彼は電話の向こうから、あいさつもそこそこに、いきなりこう言った。

「先輩」

そうかぼくは先輩だったか、と思った。次に彼は驚くことを言った。

「バンドやりましょう」

ちょっと何言ってるかわからなかった。ぼくはリコーダー(ソプラノ、アルト)と鍵盤ハーモニカ以外の楽器をやったことがない。楽譜もろくに読めない。コードに到っては当時概念を知らなかった。剣道、の聞き違いかと思ったくらいだ。しかしバンドと剣道を聞き違えるわけもなく、ぼくはとにかく、「できるわけないじゃん」と言った。

しかし彼はそこでなぜか食い下がった。

「先輩はボーカルをやればいいです。ぼくはドラムをやります。残りのメンバーはぼくが探してきます」





彼の気まぐれの理由は未だにわからない。しかし彼の熱意は本気だった。

なんでも彼は、つい先日、「ハワイへのドラム留学」から帰ってきたばかりなのだという。そのときは呆然としてスルーしてしまったが、そもそもドラム留学というのがなんなのか、20年以上経った今思い出しても意味がわからない。

彼は言った。こっちから電話しておいてアレだが、引っ越してきたばかりでここしばらくはばたばたしている。だから数週間後になるけれども、また電話する、そのとき、家から自転車で10分ほど行ったところにある貸しスタジオに来てくれと、野太く落ち着いた声で、丁寧に言った。

とりあえずぼくはうんと答えた。しかし、電話を切って、急速に不安になった。楽器もボーカルも未経験。そもそもバンドとは何なのか、よくわかっていなかった。

直前に読んでいたMADARA公認海賊本(ぼくは当時この本をMADARAシリーズの続きだと思って買ったのだが、カオスと聖神邪がすぐチューするふしぎなマンガだなあと思って読んでいた。今にして思うと角川はオフィシャルで同人誌を作って売っていたのだから狂っている)の中に、バンドやろうぜ的エピソードが載っており、キャラクタたちがバンドスコア(演奏するための楽譜)を集めていた。そこにこう書かれていた。

「サザン……ジュンスカ……爆スラ……」

サザンはいわずと知れたサザンオールスターズ。ジュンスカとはJUN SKY WALKER(S)である。爆スラとは爆風スランプ。なんとも時代を感じさせるラインナップだ。おまけに音楽性に統一感がない。きっとこのマンガの作者は、バンドのことなぞよく知らなかったのだろう。

でもぼくはそれ以上にバンドに対する知識がなかった。

GLAYのことは化粧したうるさい男達だと思っていた。ラルクのことは化粧したちっちゃいおっさんだと思っていた。LUNA SEAはドラムの真矢がデブでしゃべるやつだということをなぜか知っていた(なぜだ?) ミスチルは桜井しか知らなかった。ドリカムはバンドというよりテレビだと思っていた(?)。

受験が終わって1年が経とうとしていたが、ぼくの部屋には未だに、チャゲアスの古いCDくらいしかなかった。

これではさすがにまずいと思ったぼくは、中古のCDショップに行って、とりあえずバンドミュージックみたいなものを聞きたいと思った。

サザン、ジュンスカ、爆スラ……このあたりが、バンド……。

サザンのジャケットを見つける。これはちょっと年齢が上すぎるのではないかと思った。大学生がやるバンドとしてサザンのコピーはへんだろうと直感した。爆風スランプのことは知っていたが、自分がハゲのボーカルを担当できるとは思わなかった。だいいちパッパラー河合というネーミングセンスが微妙だとバカにしてさえいた(現・病理医ヤンデルです)。

残るはジュンスカだった。ぼくはジュンスカのアルバムのひとつを手に取った。

全部このままで、とか、スタート、などの曲が入っていたベスト盤(?)だったように記憶している。どことなくブルーハーツに似ていると思った。今にしてみれば、ギターが乱暴にコーラスに入ってくるところくらいしか似ていないようにも思うけれど、当時のぼくの、嘘偽りない感想だった。




数週間後、三上はぼくの家まで尋ねてきたのではなかったかと思う。彼は見違えるほど背が伸びていた。たぶん180センチ以上あったろう。ぼくの中で彼はなんとなく幼稚園時代のイメージのままだったので、おののいてしまった。おまけに彼の上腕は棍棒のように太く、ああ、これは確かにドラマーなんだろうなあと、ぼくはあまり根拠のない納得をした。もしかしたら剣道を続けていたのかもしれなかったが。

そして彼はぼくを連れて、家から少し離れたところにあった貸しスタジオに出向いた。貸しスタジオと言ってもそこはうらぶれた地方の公民館みたいなところだった。コンクリート打ちっぱなしというか、塗装がはげて朽ちっぱなしといったたたずまいだ。

彼はぼくに、ギターとベースを紹介した。彼らは正面をまっすぐにみないタイプだったので安心した。ぼくも人と目を合わせるのはいやだったからだ。

三上はぼくに、どんな音楽をやりたいかと言った。

ぼくはさほど考えず、答えた。「ジュンスカとかかなあ」




するとギターはこちらを見て笑った。「ジュンスカ?」

ベースが、バカにするような口調で、言った。「ぜ~んぶこ~の~ままで~、ってか」

ドラムの後輩は、だまってしまった。

その後ぼくが何を言ったのかは覚えていないのだが、ぼくは、何か思いっきり違うことを言ってしまったのだということだけ、察した。




会合はそれで終わり、その春、三人とはそれっきりだった。




夏、ぼくは剣道の大会に出るために東京にいた。夢の島の体育館で行われた東日本の大会で、先輩達が団体戦で決勝戦まで進み、あと一歩というところで昭和大学にボコられていた。ぼくは補欠にも入れなかったが先輩達の悔しそうな顔はよく覚えている。

大会が終わったあと、ぼくは高校時代の剣道部の同期2名に会うために横浜にいた。うち1人の家で酒を飲んだ。

1人が言った。最近は宇多田ヒカルがすごい。

ぼくは春以来、自宅のケーブルテレビでたまに音楽番組を見るようになっていたから、デビューしたばかりの宇多田ヒカルのことはそこそこ知っていた。しかし、友人たちは、ほかにも、とても多くのアーティストたちの話をした。

「ゆらゆら帝国ってのがすごいぞ」

「ナンバーガールもな」

「GOING UNDER GROUNDがしぶい」

「くるりはおさえておけ」

Dragon Ashだけはわかったが、あとは知らないバンドばかりだった。




札幌に帰ってきて、ぼくは少しずつ、バンドミュージックを聴くようになった。ジュンスカが彼らにあれだけバカにされた理由はまだおぼろげにしかわからなかった。ジュンスカだってこんなにファンがいるのに。でも、バンドをやりたがるようなやつらは、地方の小汚いライブハウスでモッシュしまくるタイプのラウドでノイジーな音楽のほうを圧倒的に愛しているのだ、ということも、なんとなくわかってはきた。

ぼくはジュンスカを聞きながら、ナンバーガールのライブ盤CDが手に入らないかどうかと、知り合いのつてをたどるようになっていた。





大学3年の夏。またしても突然、三上から電話があった。

「先輩。こんどこそバンドやりましょう」

ぼくは、わかった、と言った。今度はスパルタローカルズとか言えばきっとバカにされないだろう。でも、彼は、ぼくをさえぎってこう言った。

「今回はメンバーが違います。安心してください。なお、やる曲はもう決まっています。今度お宅に遊びに行くので、そのとき、そのバンドのCDを持っていきます」

あまり信用されてないかな、と思って少しおかしかったが、ぼくはとりあえずうんと答えた。彼が持ってくるバンドはどんな音楽なのだろう。正直、楽しみだった。これでぼくも、バンドミュージックのまねごとができるんだな、と、ワクワクが止まらなかった。




数日後、三上が持ってきたCD。一曲目は、Kingdom comeという曲。

ぼくはそれを聞いて、大声で笑ってしまった。

SLYというバンド。

https://www.youtube.com/watch?v=kCmkOscWFc4




そりゃ、ジュンスカはやりたくないだろうな。

ぼくはいつまでも笑っていた。このボーカルを自分がコピーするという残酷な事実に、気づかないフリをしながら。

2019年8月2日金曜日

病理の話(350) リンパってなんなの

体のあちこちにリンパ節という構造(器官)がある。

聞いたことあるだろうか。

ほんとにあちこちにある。首とか脇の下など、皮膚のすぐ下にこりっと触れる場合もあるし、もっと体の奥深くにも点在している。

サイズとしては1cmに満たない。5mmを越えるようなものの場合は基本的にどら焼きの皮のような、ひらべったい形状をしていることが多い。それより小さい1mmとか2mmくらいのものは、球形に近いこともある。

さわると少し弾力がある、ホタテの身みたいなやわらかさだ。ぐにぐにとしている。体の中から取りだしてきて、カミソリの刃でふたつに割ると、中は白っぽくて、血はあまり出てこない。少しみずみずしい。

今日はこのリンパ節の話。



リンパ、というのは、ラテン語由来の英語 lymph(リンフ)、もしくはその活用形である lymphatic (リンファティック)がそのままカタカナになったものだと思われる。日本語には対応する単語がない(あるかもしれないけれど、少なくともぼくは知らない)。

明治時代に日本人が lymph node(のラテン語にあたる言葉)を翻訳したとき、

「淋巴腺(りんぱせん)」

とむりやり漢字を当てた。「ぱ」って漢字にできちゃうんだね。パリのぱ。

胃とか腸とか脳みたいに、もともと日本語があった臓器とは違い、リンパ節は西洋医学が入ってくる以前の日本人には認識されていなかったのかもしれない。小さいから、やむをえないところはある。




ところで昔は「リンパ節(せつ)」ではなく、「リンパ腺(せん)」と呼んだ。にくづきに泉と書く腺は、何か液状のものを作り出す構造にあてはめられる漢字である。つまり、リンパ腺というのは「リンパ液を作る臓器」だと勘違いされていた。

リンパ節には、リンパ管(かん)という管がつながっていて、そこからリンパ液という液体が出てくる。

でも、この液体は別に、「リンパ腺」で作られているわけではない。腺という名前は間違いであり、のちに「節」に直された。

リンパ節の役割は、リンパ液を作ることではなくて、リンパ液に含まれる内容物を監視することだ。さらには、リンパ管の中を巡回する警備員(=リンパ球)の駐屯地でもある。

リンパ管が幹線道路だとすると、要所要所に配置されている交番がリンパ節だ。この交番の例えは便利なのでよく使う。



リンパ液の話もしよう。

リンパ液は、本質的には血液といっしょだが、赤血球がふくまれない。さらさらの透明、もしくはにごった白に見える。主に、脂肪成分だとか、リンパ球などの炎症細胞=警備員が含まれている。

そこそこトローリとしている。粘性があるのだ。



人体において、酸素や栄養を全身に運ぶのは、動脈。つまり動脈は上水道にあたる。

これに対し、下水道にあたるものが静脈とリンパ管、2種類ある。

静脈ばかりが有名だがリンパ管も忘れないでほしい。

リンパ液はトローリ。これを静脈に流してしまうと詰まってしまって困る。だから、下水道を成分ごとに2本にわけて、トロトロ成分はリンパ管のほうに優先して流すようにしているのだ。よくできている。

トローリの主成分は老廃物や、消化管で吸収された栄養の一部。

これらが体の中で悪さをしないように、あるいは、体外からへんなものが紛れ込んでもひっかかるように、リンパ節が交番として定期的に監視しているわけだ。




たまに「リンパマッサージ」という言葉を聞く。

リンパ管と静脈という2本の下水道は、上水道(動脈)ほど心臓からの拍出圧を強く受けていないため、たとえば足から心臓という高低差のある帰り道では渋滞してしまうことがある。

渋滞するとむくみの原因となり、症状が出たりするので、マッサージをしてむりやり心臓に返してやろう、というのがリンパマッサージ。

……なんだけど、ぼくは昔からちょっとした疑問がある。リンパ管だけマッサージするってどんだけ達人なんだろうってことだ。

あのもみ方だと、どう見ても、静脈もリンパ管も関係なくマッサージしてるじゃん……。




まあいいか。ふんいきふんいき。リンパ管のほうが静脈に比べてむくみやすいシチュエーションというのも、あるし。

リンパ節の話ももっとできるんだけど、長くなってきたので、またいずれ。

2019年8月1日木曜日

肺音とも心音とも違う記憶

外がゴオオオって言ってる。風が強いんだろう。

しかし風って本来空気だろう。

なぜすばやく動いたくらいでゴオオオなんて言うのだ?

このゴオオオというのは何から鳴っている音だ?




たとえば街路樹のような木の、枝と枝の間。あるいは建物と建物の間にある隙間。

そこを空気が通るときに、まるで笛がなるように、ヒュウオオオと音がする、というのはなんかイメージできる。

でもヒュウオオオじゃなくてゴオオオなんだよ。あれは笛じゃない。

なんの音なんだ?




窓とか、壁とか、そういったものを振動させているから鳴る音なのだろうか。

バコバコバコ。ガタガタガタ。

だったらバコバコガタガタ聞こえてこないとおかしいだろう。なぜゴオオオなんだ。




というか今更だけど、空気が狭いところを通るとき、たとえば口笛のように、あれはなぜ音がなるのだっけ?

そうだ、音は空気の振動じゃないか。

空気というのは震えると音になるんだった。

でも何かをふるわせて、ゴオオオなんて音がなるイメージがどうしても想像できない。

何がどれくらい震えたら、ゴオオオという音がなるのだろうか。




仕事の手をとめて、コンクリートの向こう側、窓の外の音に耳をこらしていた。

ときおり窓の向こうを見てみるけれど、激しく打ち付ける雨が川のようになって窓の表面を流れているのがわかるばかり。網戸は水滴によって向こうがみえなくなってしまっている。

ゴオオオという音は相変わらず聞こえている。

何から、というのではなくて、世界のあちこちから少しずつ集まってきた音の総和が、たまたまゴオオオというノイズ音になっているだけなのだろうか。

絵具を全部まぜたら黒になるように。

風の音を全部まぜたらゴオオオになるのかもしれない。




つまりゴオオオというのは世界の音なのだろう。ぼくはそう納得した。しかしまだ思い出せないことがある。ぼくはこの「ゴオオオ」という、カタカナ4文字の擬音を、この1,2年くらいの間に、何かの原稿かウェブの文章か、あるいはツイートか、何かで書いた記憶がある。

何の音をあらわすのにゴオオオを使ったんだったかな……。

ゴオオオオル。サッカーか。いや、違う。書いてみても記憶にヒットしてこない。





いつしか窓の外の音は静かになり、部屋にはイヤホンから流れてくるlo-fi hip hopのランダムライブ音声と、ぼくが入力し続けているキーボードの音だけが響いていた。ときおり椅子がギシッ、ギシッという。空調が切り替わる音。

イヤホンのバッテリーが切れた。

Power off...

アラーム音声のあと、ふと、耳の穴の周りを流れている血管の脈動が気になった。




血液の音だ。

大動脈の中を、血が流れる音は、ゴオオオと鳴るんだ。

ぼくは、聴診器で、聞いたことがある。自分の動脈血が流れる音を。

遠い記憶だ。ぼくはあのとき、生命を感じたんだ。

自分の体の中に、ゴオオオと、音が鳴っている。




医局に行ってデスクをあさるが、昔つかった聴診器はどこにも見つからない。そういえばだれか、コスプレしたいと言った友人にあげてしまった記憶もある。

研修医室を覗いてみると二人くらいがソファにいた。一人は仮眠している。もう一人は起きてフラジャイルを読んでいた(元々、ぼくのだ)。

「ちょっと聴診器借りていいかな」

ぼくは聞いた。

「どうぞ。いいですよ。」

研修医は快く貸してくれた。

あまり汚れないように、耳の浅い部分にイヤーピースをつっこむ。

自分の腹に、シャツ越しに、聴診器をあててみた。

もちろん何の音も聞こえない。そんな雑な聴診方法で、血管の音が聞こえるわけはない。




「無理か。サンキュー」

「何やってんすか。またツイッターすか」

「違うけどまあ似たようなもんだよ。」

「何の音ですか? 腸音?」

「いや大動脈の音」

「大動脈っすか? それは聞こえないのでは?」





そんなはずはないだろうと思って、ぼくはいろいろと検索してみたのだが、確かに、大動脈を流れる血流の音が聞こえるなんてことはどこにも書いていない。

ぼくはこの20年、体の中にはなんとなく、ゴオオオ、ゴオオオと血液が流れているイメージで暮らしていた。

音を聞いたことがあるというのは夢だったのだろうか。

夢だったのかもしれない。




病理に向けて廊下を歩いた。外ではまた風が強くなってきているようだった。生命の音は意外と聞こえない。生命の音はそう簡単には聞こえない。

そうだろうか。

ぼくは、まだ、疑っていた。

Google検索の仕方がへただから見つからなかっただけだ、そう自分に言い聞かせながら、歩いた。

しかし、結局、その日も、次の日も、もう「大動脈 音」で検索することはなかった。