2019年8月16日金曜日

たとえば君がいるだけでのたとえばは例え話にはなっていない

「あなたはなぜ、書くんですか」

……的なことを、久々に聞かれたのでおもしろかった。

一昔まえはそういう会話をあちこちでやっていた。けれども最近あんまり聞かなくなった。

書くためのインフラが整備されすぎていて、昔よりもはるかに簡単に書ける。書くことに対するコストがかからない。

今は、文字通り、書きたいだけ書ける。

書きやすいからですよ。そう答えればよくなった。だから質問自体が成り立たなくなったのだと思う。今のぼくは、めったに、「なぜ書くんですか」とは聞かれない。

これはぼくが本業のもの書きではないから、というのもでかいかもしれない。趣味とか副業でものを書いている人に、わざわざ「なぜ」と聞く時代でもなかろう。





Webメディアや本を読んでいると、定期的に、もの書きを本業としている人に「なぜ書くんですか」と質問してそれに答えてもらうような記事をみる。ああいうのはプロレスと一緒だ、あまり信用しないほうがいいと思う。わかってて楽しむものだ。古典的なお題である。編集者が本気でもの書きに「なぜ書くんだろう」と疑問を投げつけているなんて思ってはいけない。あくまでその質問を皮切りに、もの書き特有のおもしろ文体やおもしろ世界が立ち上がってくるのを期待しているのである。あるいは、読者はきっとそういうこと聞きたいだろ、みたいな定石みたいなものがあって、型に沿って質問をして記事を作ればある程度決まった量の読者が付く、みたいな感じかもしれない。振り飛車的定石。決まった動きをすることで、相手を型にはめる。戦法としてアリだ。新しくはないが、古いからダメというものでもない。

「あなたはなぜ書くんですか」みたいな、人間の芯に当たる部分を掘り出すような、根源的かつ暴力的な問いを本気で職業執筆者にぶつけている編集者がどれだけいるだろう。ぼくはこの質問は「探り」で繰り出されるものとしてはわかる、つまりショーの演目としてなら十分に理解できるのだけれど、しかし、本気で誰かに尋ねられるかと言われると……ぼくならアルコールの力を借りないと無理だ。



同様の質問に、登山家に対する「なぜ登るのですか」があると思う。この質問については、「そこに山があるからだ」というカッチョエエ答えが引き出された時点で、命題自体は使命を終えて眠りについているに等しい。となると、「なぜ書くのですか」という質問には、「そこにスマホがあるからだ」、これでいいと思う。二番煎じすぎてモヤモヤするけれど。



ウェブにあふれる多くの問答は、本質にいかに答えるかというのを大事にしている体で、実際には、「いかにスナフキンっぽい口調で答えを言えるか」という大喜利になっているふしがある。加持さんでもいい。伊集院光でもいいだろう。





ところでぼくもまたご多分に漏れず、スナフキンは嫌いではないし、スヌーピーの仲間が発する名言ツイートみたいなものもときおり目にして「ほう」となるタイプだ。聞かれる予定はないけれど、「なぜ書くんですか」に対してうまく答えられるようになっておいたらカッコイイかなーと思わなくもない。聞かれる前に答える。食べる前に飲む。太田胃散的にこの質問に対する回答を置いておく。

それはこうだ。

「一本背負いの前に小内刈りを飛ばすじゃないですか。相手を崩すための動きってのがあります。静かに待っているだけだと相手は隙を見せないんです。そういうときに、小内刈りをちくちくしかけて、相手の重心を動かす。

ボクシングのジャブ。

サッカーのボール回し。

牽制しているうちに相手が少しずつ動いて、ストロングポイントとウィークポイントに偏りができる。そこに大きく仕掛けるんですよ」

書くことで何かを牽制している、という回答。これはなかなか深淵なふんいきがあっていいと思う。スポーツを例えにつかっているあたりも小粋だ。よし、今度からこれで答えよう。




相手というのがなんなのか、敵とはだれなのか、大技というのは何にあたるのか、ひとっつも考え付いていないのだけれど、往々にしてウェブメディアというのは、この程度のガバガバな例え話でも、文字を太字にしたり過剰な改行をしたり写真を挟み込んだりしながら、一見それっぽい記事にしてくれる。大丈夫!