2019年8月28日水曜日

初代マリオの無限1UPは結局うまくできなかった

あーマリオやりてぇーマリオやりてぇなあーと思ってNintendo 3DSをひっぱりだして、「ニュースーパーマリオブラザーズ2」をぽちぽちやってみたんだけれど、やーいいね、楽しい。

でも前ほど楽しめないなーとも思った。これって年とったからなんだろうなー。




なんてことを考えていた矢先に、これまでやったことがなかったNintendo Switch版マリオをやったらおもしろくておもしろくて鼻血が出た。そうか、マリオって、いつやってもおもしろい不朽の名作なことは間違いないけれど、ぼくの場合はマリオがマリオであること以上に、

「見たこともない面に突入していく楽しみ」

ってのがでかかったんだな。新しいマリオなら今やっても激烈におもしろい。年とってても楽しかった。




ゲームソフトが置いてある場所なんてのはだんだん少なくなってきて、今や、大型の家電量販店か、GEOの片隅くらいでしか見ない。あれだけあったおもちゃ屋さんはどこに行ったんだ? いやまあググればすぐ出てくるんだけど、そういうことじゃなくて、目に届く範囲にない店ってのは、検索するきっかけがないと存在ごと脳から吹き飛んでしまうものだよね、ってことを言いたい。量販店で面陳され、あるいは売上ランキングに入っているようなゲームの大半は、ネットで評判を読んだことがあった。でもいまいち食指が動かないのは「見たこともないゲームに突入していくこわさ」を、ぼくが知っているからだろう。




こうして、短いブログの中で、まずは「見たことがあるとつまらない」と書いておきながら、次に「見たことがないのは怖い」とも書いている。

このあたりの微妙なニュアンスは、うーん、なんだか、まだうまく言葉にしていない。

テレビや映画で例えるならば、役者が同じ人気シリーズの、違うストーリーをみて安心する気持ちに近いのかも。そういう番組はもはやNetflixや小さな劇場の中にしかなくなってしまったような気もするが。たまに映画館でもやるかな。




子どもの頃は外れをひくことも非日常だったので、「つまんねぇゲームだなあという楽しみ」があった。けれどいつしか、外れを引くことが日常になり、せっかく非日常を求めているのに外れかよ、みたいな気持ちが出てくるようになった。これって大人になったってことなのかもしれない。

今のぼくが本当に非日常を求めているのかどうかも、本当は、よくわからない。マリオがジャンプで飛び越えられるくらいのブロックは記憶に残らなくなった。




あの日、ジャンプボタンを長押ししないと届かないブロックがあることに気づかず、どうやったら上にのぼれるのか30分以上悩んでいたころ、ゲームは1日1時間なのに30分もAボタンばかり押していたぼく。起伏こそが日常であり、刺激は天井知らずで、ノコノコが壁にはねかえってから襲い掛かってくるのをどうエレガントに踏んで止めるかを考えることに忙しく、ノートに自作の無限1UP解析イラストをところせましと書き連ねていた。そこにはたいていマリオがあり、ゴエモンがあり、たけしの戦国風雲児があって、ドラクエIIIがあって、ぼくは弟といっしょに非日常と日常の境界をとろけさせていた。