2020年4月9日木曜日

ブログ:脳だけが旅をする 休止のおしらせ

本気で取り組みたいプロジェクトの中心メンバーになりました。

#SNS医療のカタチTV
「やさしい医療の世界」~もう、ひとりで、病まない~





このウェブサイトは、今後、どんどん情報が追加されていきます。



その情報を編集するスタッフのひとりが、ぼくです。



これがけっこうな量になります。



・SNS医療のカタチメンバーたちのこれまでの講演資料

・プロジェクト参加者たちのこれまでの実績



これらを今後、毎日執筆します。できれば3日に1回くらい新しい記事を出したい。それも、おもしろくてさくっと読めるやつを。



……かわりに、本ブログの更新を停止します。



9月になったらまた再開できると思います。どうもすみません。一番好き勝手に書けるスペースだったので、好き勝手に休止して、好き勝手に再開します。

もしかしたら9月以前にさみしくなってまたはじめるかもしれません。ツイッタラーにはよくある行動理論です。

これまでありがとうございました。またよろしくお願いします。

2020年4月8日水曜日

病理の話(432) 酸素いただきますテイッ

さっきまでゴリゴリの記事を書いていたのだが、ここまでフクザツなものを早朝に読むとお腹痛くなりそうなので、一気にゆるく書き直す。



人体ってめっちゃかしこいよ。



……だめだゆるすぎる、もうすこしなんとかしよう。




人体のかしこさ、調べれば調べるほどすごいのだが、たとえば「ヘモグロビン」を調べていると本当におどろく。

(さっきはここをゴリゴリ書いたけど、単純にします)

ヘモグロビンというのは赤血球にふくまれている物質だ。健康診断でも名前が出てくる(HbA1Cというのはヘモグロビンの一種)、だから知っている人は多いだろう。

赤血球を構成する成分の1/3がヘモグロビンである。なあんだ、それだけか、と思ってはいけない。だって残りの2/3はほぼ水分。つまり、赤血球とは事実上ヘモグロビンの入れ物である。

赤血球のはたらきをご存じか? 「酸素を運搬する」。そのとおり。

ヘモグロビンというのは酸素と結合できる。だから赤血球は酸素の運び屋になれる。

赤血球は、肺で酸素を拾って、血管を移動して、全身の細胞に酸素を届けるのだ。




でもちょっと考えてみてほしい。



赤血球、もっというとヘモグロビンは、いったいどうやって「ここで酸素を拾おう」「ここでは酸素を手放そう」と考えているのか?



そんな都合のいい化学物質があるのか?







赤血球がぼくらと同じように意識をもっていて、「酸素はここからここまで運べばいいんだな、OK」と理解しているならいいけれど、たんなる化学物質が、「肺では酸素を拾います」「それ以外の組織にたどり着いたら酸素を手放します」「血管の中を移動しているときには酸素は手放しません」と判断しているというのはちょっとブキミである。






で、ここがまあ人体ってのはほんとにかしこいなとおどろくポイントなのだけれども。

ヘモグロビンというのは1つの化学物質であるかのように書いたが、実は、フォーマンセル……4つの高分子のユニットなのである。これを仮にNEWS(ジャニーズ)に例える。

そして4人のメンバーがそれぞれ酸素分子1つとくっつくようになっている。すなわちヘモグロビン1ユニットで4つの酸素を運べるのだ(効率がいい)。

さて、NEWSの4名のうち、手越くんが酸素を拾う。すると、なんとそれ以外の3名はただちにシフトを変化させて、「俺も俺も」と、酸素と結合しやすいフォーメーションをとる。

「1箇所でも酸素がくっついたら構造が変化して残りの3箇所にもすぐ酸素がつく」ようになっている。

肺にたどりついたばかりのNEWSは酸素をもっていない(全身の細胞に渡したあとだから)。そして、肺には酸素がいっぱいある。酸素がひとつでもNEWSに衝突する。すると手越くんは手がはやいのですぐに酸素とくっつく。するとほかの3名もすぐに酸素を拾う。

そして、NEWS全員が酸素をもったまま、全身をめぐり、酸素をほしがっている細胞のもとにたどり着く。

「酸素をほしがっている」すなわち、酸素濃度が低い環境で、増田くんがぽろっと酸素を落とす。そういうことがある。まわりに酸素が薄ければ薄いほど落としやすい。たぶん視聴率が低い状態だったのだろう。うっかりと酸素を落とす。

するとそこでNEWSはふたたびフォーメーションを変化させる。「増田くんが酸素を落とすと周りに喜ばれるらしい」と感じて、手越・加藤・小山はすぐに酸素を手放す。文字通り空気を読むのだ。



NEWSのたとえばなしでかえってわかりづらくなってしまったが、ヘモグロビンは、「1つでも酸素がくっついたら、そこからすぐに4つくっつけるように、酸素くっつくモードにフォーメーションチェンジする」し、「1つでも酸素を手放したら、そこから全部の酸素を手放すように、酸素手放すモードにフォーメーションチェンジする」のである。これはひとえに、ヘモグロビンが、ヘム1つでできておらず、ヘム4つを含む「高分子化合物」であるからできる荒技だ。

この「フォーメーションチェンジ」をすることで、周囲の酸素濃度に応じて空気を読む戦略がとれる。なんてかしこいんだ!





個人的には増田くんがピンで出てくるとつい応援してしまうのだが、一番いい仕事をするのはやはりNEWSの4人が集まっているとき……だと思う……手越ピンのほうが稼ぎはいいかもしれないが……まあそれは……。

2020年4月7日火曜日

未来の便所がぼくのことをよく知っている

1年に1回、検診をうける。職場の義務とされている。便の表面をブラシでなぞったり、尿をカップに入れたりするのがめんどうくさい。

日本のトイレは世界一というのだから、はやく光学系の簡易キットとAIと便器を組み合わせて自動検針便所を作ってくれればいいのに……

ということをまじめに考えて、検査の特性上どのようなデメリットがあり、これによってどれだけの数の人がまじめに病院にかかるか、あるいは逆にトイレがオオカミ少年化することによってどれだけの数の人が病院をさぼるか、というところまでじっくりと考えて、結果、トイレに余計なものはつけないに越したことはないな、というところまでたどり着いているのが今。

まあでも将来はなんらかのかたちでトイレに検診機能がつくだろうな。きっとそれは、毎日血圧をはかるとか、毎日体重をはかるくらいの効果「しか」もたらさないものだろうけれど……。科学はどっちの方にはげしく転がるかわからない、ちょっと酒癖が悪くてめんどうくさい性格をしたサークル系大学生のような側面をもっている。




検診のときに行う便潜血検査、胸部X線検査、胃バリウム(もしくは内視鏡)検査。ぼくは男性なので子宮がん検診と乳がん検診はない。ひとつ行うごとに頭の片隅によぎる「これで見つかったらラッキーなのかアンラッキーなのか」という脳内押し問答が、男性であるというだけで2つ少ないのだ。ありがたいことである。そして、これはまったく全員にあてはまる話ではないのだけれど、ぼくを含めた一部の男性は、女性よりも10歳くらい早く死ぬのかな、ということを一生背負ってやっていく。これで「とんとん」だとは言わない。人と人とは比べられない。みんな、誰よりも自分が一番たいへんだ。なぜならば自分の苦しみは自分が一番わかっているような気になっているからである。





何度も何度も書いてきたことだけど、人は何がわからないって、自分のことが一番よくわからない。鏡を見なければ顔のほくろの数を知らない。足を裏返さなければ靴のうらに何がくっついてぺとぺと言っているのか確認できない。「自分のことは自分が一番よく知っている」というフレーズはなぜか古今東西さまざまな人の口から発せられるけれども、そんなの大嘘だから、検診があるのだ。自分のことを他人によく見てもらう。上下動をくり返す血液検査の数字に一喜一憂するとき、ぼくは、普段医師免許をもったぼくが「数字の上がり下がりをいちいち気にする意味はないですよ」と、非医療者をさとしているときのことをすっかり忘れている。そういうものなのだ。

忘れられがちだが医者もみな患者なのである。非対称性がある。患者はみな医者ではないのに自分のことは自分が一番よくわかるといいがちなポジショントークをする。医者はわりと患者を上から目線でああだこうだと区分けしがちだが医者もひとたび自分の血液を一滴採ればたちまち患者になる。だれもが他人をみることで、あたかも自分をみているような気になる。だれもが関係性の中で、主役は結局自分なのだと脇役くさいセリフを吐く。だれもが自分の便をこするだけのことで少しだけ日頃使わない部分の想像力をはたらかせる。みんなバカなのだ。みんながバカでよかった、ぼくもいっしょだよと言える。

2020年4月6日月曜日

病理の話(431) そのためにスーツを着てました

これから書くことは、決して多くの病理医がスタンダードな手法としてやっていることではない。あくまでぼくのスタイルである。だから、特に若い病理医のみなさまは、これが普遍的なやり方であるとは思わないほうがいい。

「病理診断」という「絶対」を毎日出力し続ける専門医として、果たしてそのようなやり方が、患者や主治医をはじめとする多くの人々にとって良い結果をもたらすのかどうかを、じっくりと吟味してもらいたい。

ぼくは10年吟味した。

しかしあなたが同じ結論に至るとは限らない。



***




ぼくの場合。

病理診断報告書を断定して書くケースと、断定できずに書くケースとがある。




【断定口調で書く報告書の例】

「胃生検 2片。悪性。腺癌(せんがん)である。」

(※実際の報告書は英語をまじえてもう少し違う書式で書きますが、ブログなのでちょっとわかりやすく改変します)


【断定できずに書く報告書の例】

「胃生検 2片。良性か悪性かの判断がつかない。おそらく癌であるが、癌ではない可能性が少し残る。再度検査したほうがいい。」

(※実際の報告書は英語をまじえてもう少し違う書式で書きますが、ブログなのでちょっとわかりやすく改変します)




だいたいこういうかんじだ。この二つ、かたや「がん」と確定していて、もう片方は「がん」だと決められない、という文章なのだが、ここで注意してほしいことがある。

どちらもやけに堂々としているのだ。特に後者。

「判断がつかない」

と言っているくせに、「再度検査したほうがいい。」と、かなり強めに、患者と主治医の行動を縛っている





これはぼくのポリシーなのだが、ぼくらが「判断がつかない」と言ったところで病院内にいるすべての関係者の思考が止まってしまい判断ができなくなるようではだめなのだ

今回の検査で判断がつかないならば、次にとりうる選択肢は限られている。

・もう一度同じ検査をする

・次は違う検査をする

・少し時間をおいてあらためて後日検査をする(経過観察をする)

ぼくは、「今回の検体を使ってがんと判断することはできない、決められない」とは思っているが、「だからこのあとどう行動したらいいかも判断できない」とは書いていない。

「検査でがんと決められないのだから、ただちに次の行動にうつれ

と断定している。






このやり方を嫌う病理医もいる。病理医のやることはあくまで細胞をみて意見を言うこと。判断というのは主治医がやるべきだ、という考え方もある。

しかしぼくはどちらかというと、「病理医は判断をする。それも、臨床医の判断を手助けするために、能動的に意見を述べる」ほうの立場をとる。





このやり方をするうえで、ひとつだけ、ぼくが絶対に守らなければいけない「報告書の外でやるべきお仕事」がある。

それは、「いつでも主治医からの電話に出ること」だ。





主治医「せんせえ! 見たよさっきの病理。やっぱり癌とは言い切れませんか」

ぼく「言い切れませんね。いろいろやってみましたがこれでがんと言い切るのは難しいです」

主治医「やっぱり再検しないとだめかなあ」

ぼく「したほうがいいですよ」

主治医「でもなあ」

ぼく「おっ、何か事情が?」

主治医「ええ……実はあの患者、飲んでいる薬の関係で、あまり何度も胃カメラやって胃をつまみたくない人なんですよね」

ぼく「なるほど……でしたら、拡大内視鏡の写真をもってきてください、一緒に考えましょう」

主治医「すみません、よろしくお願いします。内視鏡写真みたら病理の結果は変わりますか?」

ぼく「病理組織診断の結果は変わりません。でも、病理の再検なしでより積極的な内視鏡治療に持ち込むだけの情報がそろう可能性はあります。つまり、先生の今後の判断をもう少し具体的にいじれる可能性はある。付き合いますから、写真もってきてください」

主治医「わかった! ありがとう先生」




その後の行動指針にまで口を出す病理診断をするならば、主治医がその方針に違和感を持った場合に、継続して相談に乗れる状況を作っておかなければいけない。


病理報告書に強めの文章を使うならば、電話や対面のアフターサポートを万全にする必要がある。






今回の例では、ぼくは、自分が「断定をする側の立場」になることを想定した。

しかし実際の臨床現場では全く逆のこともある。

主治医が「絶対がんだ!」と思って検査に出したときに、「まて、決断するな。ここは慎重になれ」という内容のレポートを書くこともある。

しかしこのときも、「慎重になったほうがいいかもしれない」ではなく、「即断しないべきである」という強めの表現を使うことが多い。







***





さて本記事のタイトルである。「そのためにスーツを着てました」

ぼくは、大学院を出てすぐ今の病院に勤め始めた。当時はまだ29歳。

29歳で、30代、40代の臨床の大エースや、還暦を越えた大ベテランたちに、「その判断ちょっと待つべきである」「この診断は難しいから〇〇したほうがよい」的な、強い口調の病理診断報告書を書いて、果たして実感をもって受け止めてもらえるのだろうか、という懸念があった。

そこでぼくは多くの先輩たちの話を聞き、

まず、

かたちから入った。




毎日きちんと上下スーツで出勤する。

病理診断報告書はすべて敬語で書く(そのほうが丁寧に見える)。

電話は1コールでとる。

迅速組織診のあいさつははきはきと。

切り出しに立ち会ってもらうときもなるべく敬語で元気よく。





こうして、「ぼくはとことんあなたがたのために身を粉にしてがんばるが、病理診断の文章だけは強く書くぞ」というキャラクタに、自分を作り替えていった。

その結果……がうまく行ってたのかどうかは……実は自分ではあまりわからなかったのだけれども……。

少なくとも最初の5年間くらい、まだぺーぺーだったぼくを温かく受け入れてくれた多くのドクターたちは、みなにこやかで、やさしかったので、そう大きく外していたわけではなかったろうなと、今では思う。

近頃のぼくは少し診断書の口調をやさしめに変えてきている。だんだん偉くなってきたぼくが、強い口調を使うと、若い主治医たちが萎縮してしまうかもしれないな、なんてことを少し気にし始めているのである。

2020年4月3日金曜日

学びや気づきをニコニコブログに書く人たちへ

学びを重ねることにより自分の知性が「積みあがっていく」と考えていたのは20代までだ。30代になると、知識を得るために時間をかけて何かに没頭することで、代わりに同じ時間だけかけて何かを忘却したり、何かが混線したり、何かが脱線したり混濁したりすることがあるのだ、ということに気づいた。

それでもなお、学ぶことにより、少なくともある一面において知識は堆積していくものなのだと、まだ信じていた。

それが最近だいぶ変わってきた。少なくとも40代のぼくにとって、学ぶことは、何かを積んでかさをましていく行動とは限らないなあという実感が出てきた。

あるいは、主客転倒、「何かを積み上げてその高さを眺めて、ああ学んだなあと納得することができなくなった」という言い方もできる。




最近何かにつけて、繰り返しあちこちで書いているうちに、だんだん「自分のことば」として使えるようになってきた、他人のアイディア。こりずにまた書いておく。

どうやら知識というものは、純粋に自分の持ち合わせにプラスしていくような性質のものではないようだ。

知識は、ぼくがすでに持っているもの、抱いているなにものかを、ガシャガシャと揺るがせることがある。

そのまま何もしなければ、黙って積みあがっていたであろうジェンガの塔、あるいは崩し将棋の駒たちに、指をつっこんで何かを抜き出して、「動かさないように気を張りながら、結局のところは崩れてガシャンと壊れることを期待する」こと。

こういう知識が世の中にはある。




「新しいことを知りました、学びました」ということばを、RPGで新しい剣やクエスト用アイテムを手に入れたかのように語ることが難しい場面をしばしば経験する。

知らなかったことを知ることで、これまで無意識に「この程度だったら見通せる」と思っていた世界の辺縁に、あるいは中心部であっても標高がかなり高いところに、何か思ってもいなかった風景がガシャンと増える。

すると「一瞥」できなくなる。それまでの自分の能力で世界を「俯瞰」できなくなる。視野角度を超える。




井の中の蛙は学ぶことで井戸の外に出ることができる日がくる。

それはきっとある種の絶望を伴うと思うのだ。

水場の広さ。空の青さ。夜空の星の数すらも、限られた景色の中で見ていたときのほうが、まだかわいげがあったと気付く。

おまけに蛙はこのあと飛行機に乗って地平線の向こうを見に行くことも、ロケットに乗って違う銀河に飛び立つことも、過去や未来に自分を飛ばして違う空を見ることもできる。

それが学ぶということだ。「学び」をニコニコと語れなくなる日が必ずやってくる。




その上でなお学ぶかどうか、ということなのかもしれないがこれはもしかするとマッチョな思考かもしれない。

2020年4月2日木曜日

病理の話(430) ペラッペラの具体例

たとえばあなたがこれから、手元にある「みかん」を顕微鏡で見ようとおもったとき、みかんをそのまま手で掴んで顕微鏡に載せようと思っても、乗らない。

でかいからだ。


レンズの下には(レンズの種類にもよるが)スキマがあまりない。試しに測ってみたけど、2 cmに満たないくらいだ。

そこで、あなたはみかんをむくことにする。ちょっと減量させよう。

ひとふさとる。

これなら、対物レンズの下に入るだろう。あっ、でもまだちょっとでかいかな……。

そこで、みかんのひとふさの、薄皮をさらにむいて、中に詰まっている「涙のツブのような形をした、なんかちっちゃい実みたいなやつ(あれなんていうの?)」をひとつ取り出す。

これなら対物レンズの下に入るぜ!

ところがそれを置こうと思うと下に落っこちてしまうのだった。なんでや。


穴があるからや。

レンズの真下に穴がある。この穴の下からライトがあたる。

けっきょく、穴を橋渡しするような「ガラスプレパラート」の上に、みかんのつぶをのっけてみることになる。

よし、これで、みかんのツブをガラスにのっけて、あとは見るだけだ!

顕微鏡を覗く……。

すると、下から当たった光がツブにあたって……完全にシルエットになっている。

涙滴状のシルエットだ。ぴちょんくんクイズです。

これでは、なにがなにやらわからない。




病理診断で用いる顕微鏡は、「透過光型」である。下から光をあてて、上から覗き込む。

これだと観察する試料はふつうシルエットになってしまうのだ。中身がまるで観察できない。

上から光をあてて、反射光をみればいいじゃん、と思いがちである。しかし、新聞の文字や虫の羽をみるならばともかく、細胞を観察しようと思うと、反射光では光量が足りなくて、細かいところをうまく見られない。

下からの透過光で強くライトアップしないと見えない。

そこで……。




「みかんのツブ」ですらでかすぎる、というか、分厚すぎるのだ。もっとぺらっぺらに薄くすればいい。「向こうが透けて見えるくらいに」。

どれくらい薄くするかというと……。

4μmくらい。

髪の毛の細さがだいたい50~80 μmくらいとグーグルに書いてあった。

だから髪の毛よりもはるかにうすい。

細胞の大きさは、赤血球で6~8 μmくらい、皮膚の最表層付近にある有核扁平上皮がだいたい20 μmとかそんなもんかな(これらはググってないので多少ずれてるかもしれません)。

すなわち、レンズの下に置く試料を4 μmの厚さにするということは、ほとんどの細胞をまっぷたつにできるくらいうすくする、ということだ。

そこまでしてはじめて、「透過光で細胞の輪郭が観察できる」ということになる。



ちなみにこの「組織をペラッペラに切る」ことを薄切(はくせつ)という。

かんなのオバケみたいなミクロトームという機械を使い、訓練を受けた臨床検査技師が組織をペラペラに切る。実はぼくはこのミクロトームがうまく使えない。技師さんがいないとぼくは病理診断なんてできないのである。

かんなのオバケだぞ。すごいんだかんな(ギャグ)。

2020年4月1日水曜日

あるいはマツコデラックス

ペリスコープを2倍にするとペリペリスコスコープープなんだけど、ともあれ、ペリスコープをはじめて見たときにはけっこう微妙だなと思っていた。

でも、いざ使ってみると、動画をみながら同時にツイートするツールとしてはかなり優秀だ。アクセスも楽だし。

最近は、けっこういいツールだなと思っている。やるじゃん、ペリスコ。




近頃いろいろと興味があって、さまざまな動画配信ツール……というか……ライブ配信ツールをチェックしている。YouTubeも、今のぼくにとっては、ストックされた動画よりLIVEのほうがおもしろい。

金儲けの人たちは口々に、動画がきちんとストックされることで検索で引っかかり、再生回数が累積し、広告効果が出て収益に結びつきやすい……という。

けどぼくは金儲けの人じゃない。だからそこはどうでもいい。

いち視聴者として、ストックされた過去の動画を見るのがつらくなってきた。

「アーカイブを掘る楽しみ」はよくわかる。けれども、目の前にアーカイブリストがありすぎて、目移りしているうちに結局どれも再生しないケースが増えた。




効果音と字幕付きの編集されたYouTube動画は非常に見やすい。その点、いわゆるトップ・ユーチューバーとされる人々の動画は本当によく出来ている。

しかしいまやトップ・ユーチューバーたちは完全に物量作戦に入っている。

「見やすい動画が毎日積み上がっていくせいで、追いかけるにはハードルが高くなりつつある」

これは本末転倒な状態なのではないか……と邪推してしまう。

でもそれでいいらしいのだ、なぜなら、トップ・ユーチューバーたちの動画が毎日積み上がっていくことは、興味・関心の向かう先が少ない人にとってはメリットだからだ。

数個のチャンネルを追いかけていれば、毎日のように新しいコンテンツが注ぎ込まれ、おまけにそのクオリティが安定して高い。

……今思ったけど、これってつまりテレビだよね。




まあYouTubeがテレビ化してようがしてなかろうが、おもしろければいいじゃん、という考え方はわかる。時代にあわせて手法もアップデートされているわけだし。

でもぼくのようなタイプの人間は、接続するチャンネルの数が多い。これは自慢とかじゃなくて、そういうものだと思う、だって中年なんだもの。

いいと思ったものごとが、生きるたびに増えていく。

Twitter, YouTube, Facebook……。加えて、リアルの世界にも書籍があってテレビがあって映画があって。もちろん友人との会話があって。これらをチャンネルとして足し合わせたら、どれくらいになるだろう。スカパーの全チャンネル数? そんなもんじゃぜんぜん足りない。たぶん、1000とか2000というレベル。

現代に生きるぼくらは、桁違いのチャンネルに接続している。

YouTubeのチャンネルごとに、毎日、上手に字幕を付けてジャンプカットを多用してポヨンパインと効果音を付けた短くて見やすくて笑える動画が更新されていく。ぜんぜん追いかけきれない。選択肢がほとんど無限なんだ。

ぼくらはなんらかの方法で有限化しないと、遊興できない。

ポケモンをいくらもってても、サトシはいう、「君に決めた!」と。

チャンネル1000個の中から「君に決める」にはどうするか?




有限化のやり方は人それぞれだろう。

ぼくの場合は、増え続けるストックすべてに目を向けることをあきらめて、[LIVE]という価値が上乗せ(?)されたコンテンツを中心に見るようになった。

なぜ[LIVE]がいいのかはわからない。

編集されていない分、つっかかったり胃もたれしたりすることもある。

でも、これはたぶん理屈じゃない。ぼくは有限化する手段を[LIVE]にしたのだ。

そういえばTwitterも、かつては「あとからタイムラインを追う」ことをしていたけれど、フォロー数が10万を超えて、リスト内にも数百のアカウントがひしめいている今、過去ツイを追いかけることはほとんど不可能に近い。

もちろんこれはぼくが望んでそのような状態にしただけだ。

たとえば、お気に入りの俳優やバンドマンだけをフォローしている人、フォロー数が少ない人であれば、タイムラインをあとからさかのぼることはできるだろう。これは有名な話だが、Twitterは「今どうしてる?」のツールとは限らない。「さっきまで何してた?」というモチベーションで有名人のツイートを探しに行くことが可能だから。

けれども、ぼくは自分でも気づかないうちに、Twitterでも[LIVE]を重視しはじめていた。「今どうしてる?」どころか、「今ここにいるやつは何を言ってる?」という使い方に、どんどん偏っていく。





もちろんぼくだって、ラーメンズのお笑い動画や一流の落語、公式の音楽PVのように、何度も見て楽しめるコンテンツも、もちろん知っているし、たまに見ることはある。紅の豚のDVDを持っているし、水曜どうでしょうのDVDも持っているし、映像研には手を出すなのブルーレイも予約した。

一切ストック情報から足を洗ったわけではない。

けれども、脳のインデックスに溜まった「いい動画」を、だんだん覚えきれなくなりつつある。コンテンツが充実しすぎてかえって死蔵状態。





情報源に対する接続が過剰だと、結局どれも摂取できない状態になる。

HDDに大量にとりためた昔のお笑い番組の録画も、こないだすべて消してしまった。もう見ることもないだろうと思ったのだ。この先どうしても見たくなるほど優秀な作品は、いずれサブスク的にどこかにアップロードされるだろう。

「ばかだなあ、そうやって見られなくなった番組がどれだけあると思っているんだ」

そういうオタクの意見はとてもよくわかるけどさ、見られなくなった動画が無数にありすぎて、もはや覚えていられないんだよ。





「過去をみかえす」よりも、今この瞬間にどこかでやっているんだよと、[LIVE]の文字が躍る放送をみたほうが、なにか新鮮でうれしい気分になる。

世間を見渡してみれば、インスタライブなんてのはまさにそういうツールだ。

1日でデータが消えてしまう。ストックを一切考えない。

「たまたまヒマな人が同期して時間を共有する」。

「同期」がキモなのだと思う。




こういうことを考えるよりも少し前、ぼくが以上のことを言語化する前から、ぼくのツイート数は多くてさかのぼりにくいと文句を言われていた。

最近はそうでもないけれど。

「せっかくいいことを言っても、ほかのツイートが多すぎてさかのぼれないんですよ」なんてことを、よく言われた。

けれどもぼくがやりたいことはそういうことじゃなかったのだから仕方がない。

ぼくは[LIVE]の使い方をしてしまっている。




ああ、そうかそうか、じゃあ情報をどこかにストックするやり方もやらんとなあ、なんて思って、毎日ブログを書いてしまっている。複数のnoteを作ってしまっている。

……これじゃストック過剰なんだよな。あはは、結局、一番新しい情報しかアクセスされない。




ぼくはつくづく、ストックがマッチしないタイプなのだ。

となると情報発信で狙うべきは、毎日顔を見るけど、本人が大事な情報を放つわけではなく、しかし、その人が紹介したものがけっこう世の中に浸透するという、そういうタイプのポジションなのだと思う。





タモリか……。つまりテレビの覇者なんだな……。