2020年4月7日火曜日

未来の便所がぼくのことをよく知っている

1年に1回、検診をうける。職場の義務とされている。便の表面をブラシでなぞったり、尿をカップに入れたりするのがめんどうくさい。

日本のトイレは世界一というのだから、はやく光学系の簡易キットとAIと便器を組み合わせて自動検針便所を作ってくれればいいのに……

ということをまじめに考えて、検査の特性上どのようなデメリットがあり、これによってどれだけの数の人がまじめに病院にかかるか、あるいは逆にトイレがオオカミ少年化することによってどれだけの数の人が病院をさぼるか、というところまでじっくりと考えて、結果、トイレに余計なものはつけないに越したことはないな、というところまでたどり着いているのが今。

まあでも将来はなんらかのかたちでトイレに検診機能がつくだろうな。きっとそれは、毎日血圧をはかるとか、毎日体重をはかるくらいの効果「しか」もたらさないものだろうけれど……。科学はどっちの方にはげしく転がるかわからない、ちょっと酒癖が悪くてめんどうくさい性格をしたサークル系大学生のような側面をもっている。




検診のときに行う便潜血検査、胸部X線検査、胃バリウム(もしくは内視鏡)検査。ぼくは男性なので子宮がん検診と乳がん検診はない。ひとつ行うごとに頭の片隅によぎる「これで見つかったらラッキーなのかアンラッキーなのか」という脳内押し問答が、男性であるというだけで2つ少ないのだ。ありがたいことである。そして、これはまったく全員にあてはまる話ではないのだけれど、ぼくを含めた一部の男性は、女性よりも10歳くらい早く死ぬのかな、ということを一生背負ってやっていく。これで「とんとん」だとは言わない。人と人とは比べられない。みんな、誰よりも自分が一番たいへんだ。なぜならば自分の苦しみは自分が一番わかっているような気になっているからである。





何度も何度も書いてきたことだけど、人は何がわからないって、自分のことが一番よくわからない。鏡を見なければ顔のほくろの数を知らない。足を裏返さなければ靴のうらに何がくっついてぺとぺと言っているのか確認できない。「自分のことは自分が一番よく知っている」というフレーズはなぜか古今東西さまざまな人の口から発せられるけれども、そんなの大嘘だから、検診があるのだ。自分のことを他人によく見てもらう。上下動をくり返す血液検査の数字に一喜一憂するとき、ぼくは、普段医師免許をもったぼくが「数字の上がり下がりをいちいち気にする意味はないですよ」と、非医療者をさとしているときのことをすっかり忘れている。そういうものなのだ。

忘れられがちだが医者もみな患者なのである。非対称性がある。患者はみな医者ではないのに自分のことは自分が一番よくわかるといいがちなポジショントークをする。医者はわりと患者を上から目線でああだこうだと区分けしがちだが医者もひとたび自分の血液を一滴採ればたちまち患者になる。だれもが他人をみることで、あたかも自分をみているような気になる。だれもが関係性の中で、主役は結局自分なのだと脇役くさいセリフを吐く。だれもが自分の便をこするだけのことで少しだけ日頃使わない部分の想像力をはたらかせる。みんなバカなのだ。みんながバカでよかった、ぼくもいっしょだよと言える。