2020年3月31日火曜日

病理の話(429) わずかな引っかかりに心を止めて診断するということ

顕微鏡をのぞく。

これは胃生検だ。胃カメラを用いて、胃の粘膜をつまんでとってきたものだ。

「なぜ、消化器内科の医者は、ここをつまもうとしたのか?」

まずこの違和感をきちんと抱えておく必要がある。何もない胃粘膜をつまむことは(「シドニー分類評価」や「潰瘍性大腸炎の上部消化管フォロー」などの特殊な目的を除いては)基本的にない。

理由なくつまんでくることはない。

だからぼくは、消化器内科の医者が病理医に向けて書いた依頼書の文章を読む。

「つまんだ理由」がいろいろ書いてあるからだ。

・そこだけ色が違った

・そこだけ盛り上がっていた

・そこだけわずかにへこんでいた

・そこを中心に引きつれていた

・そこを中心に引きつれていて、さらに引きつれの周りにぼんやりと色調の異なる領域がみえるように思えた

……どれもこれも似たようなことを書いているように思えるが、この文章をみた時点で、思い浮かべる「顕微鏡像」の種類が変わる。




たとえばこんなかんじだ。

・そこだけ色が違った
 →粘膜の中にはうっ血があるのではないか?
 →あるいは粘膜の中に炎症細胞が詰まっているのでは?
 →あるいは粘膜の中に炎症細胞以外のものも詰まっているかも?

・そこだけ盛り上がっていた
 →粘膜が分厚く変化しているはずだ
 →粘膜の中の何が分厚くなっているかはともかく

・そこだけわずかにへこんでいた
 →粘膜の成分のいずれかが失われているのだろう

・そこを中心に引きつれていた
 →粘膜や粘膜の下に、「線維」があればそこは硬く、厚くなり、引きつれてくる

・そこを中心に引きつれていて、さらに引きつれの周りにぼんやりと色調の異なる領域がみえるように思えた
 →まわりと比べてなにか違うものがそこにはあり、さらに「線維」もできているのではないか……?




このように、依頼書に書かれているものから、あらかじめ「どのような顕微鏡像が出てきうるか」を考えて、脳内に仮想顕微鏡風景みたいなものを浮かべておく。

そしてあらためて顕微鏡をみる。




そこで出てくる違和感こそがほんものだ。絶対に逃がしてはならない。






たとえば、依頼書は「へこんでいる」と書いてあるのにもかかわらず、顕微鏡をみると粘膜の中に何かが増えているように見える場合。

それが仮に、一見して、がんのような「やばいもの」ではなさそうに見えても、予想したものと現実に見えたものの間に違和感があれば、そこは必ず言語にして突き詰めておくべきなのである。



「粘膜のへこんだところを採ったのに、つまり、へこんでいるというからには成分が減っているはずなのに、なぜこの粘膜の中には、ある種の細胞が均質に増えているのだろう……?」

「ある種の細胞はぱっと見、リンパ球、すなわち炎症細胞だ。炎症があってへこむこと自体はあっていい。だって、炎症があれば粘膜は削れることがあるからね。でも……ぼくは今、この顕微鏡像をみて、いつもの炎症とは異なる印象を得た。なぜかわからないけれど、リンパ球がただあるンじゃなくて、すごく増えているような第一印象だった……。」



「なぜぼくは違和感をもったのか?」




「ああ、そうか、均質すぎるんだ。普通の炎症であれば、リンパ球はほかの炎症細胞、たとえば好中球とか好酸球などと一緒に出現しているはずなのに、ここにはリンパ球ばかりが見える。」

「しかも、粘膜のへこみから普段採取されるときのリンパ球の出方じゃなくて、なんとなく、周りの粘膜成分よりもあきらかにリンパ球の方が優勢な見え方をしている。これが普段だとあまり出てこない違和感の正体だ」




「よし、免疫染色を追加して、この違和感の正体を徹底的に探ってやろう。」






と、だいたいこのようなかんじで、病理診断は進んでいく。ちなみに今の例は、胃の悪性リンパ腫(なかでも消化器内科医がリンパ腫とは気づかないことがあるタイプ)を想定して書いたフィクションである。








さて本日の記事の中に、違和感をいれておいた。1箇所だけ、「ん」が「ン」になっている場所があった。気づいた人もいただろう。ぼくは普段、ブログではそういう書き方をしない。

病理医になってまだ日が浅い人は、顕微鏡で見つけた違和感を、「なんかここだけカタカナだなー、なんでか知らんけど」で流してしまいがちである。

病理医になっていろいろ経験していくと、「なぜここに突然カタカナのンが出てくるんだろう。何か理由があるのか?」と、周りに目を向けたり、日頃のぼくの書き方を思い出したりと、思考をさまよわせて、自分のつまづいた違和感を放置しないようになる。




思い込みで一心不乱に思考をするときほど、病理診断がうまくいかなくなる。

わずかな引っかかりに心を止めること。

違和感を言語化して、なぜ自分がそこに引っかかったのかを追い求めること。

これは病理医にとっての必須能力とすら言える。うそだと思うなら周りにいる病理医に尋ねてみるといい。






周りに病理医なんていねえよ、とつまづいた人はぜひ、思考をさまよわせてみたらいいと思うのだ。

2020年3月30日月曜日

おさつどきっ

病理学会はウェブ開催になった。4月の出張は(診断のための釧路出張を除き)すべてなくなった。

3月、4月とあらゆる出張がなくなったので、航空券のキャンセルや宿泊のキャンセルをした。自分でとったチケット分のお金は、ぼくの元にほぼ全額返ってきた。一方、ぼくの代わりに出張先が確保してくれたチケット分のお金はぼくの元には返ってこない(当たり前です)。

でも、せっかくだからそういうお金も一括でぼくの元に返してくれていいのになー、と思ったりした。事務的にそのほうがらくじゃん? どう?




経済にも誤差があったらいいのに。

税金とかうっかりぼくだけ取り忘れてくれていいのに。

なんとか交付金みたいなものがなぜか5000人分まちがって振り込まれていてもいいのに。

でもそういうことがあると、きっとその分、まちがってお金をもらい損ねる人が出てきてしまうのだろう。

日銀がまちがってお金を5兆円くらい余計に刷ったらいいのに。

そしてうっかりしたなーこれどうしようー経済が壊れちゃうよーって困り果てた人が、無意識にミスを隠蔽しようという逃避の情動によってうっかりパチョコンを誤操作してぼくの口座に5兆円を全額ふりこんでしまい、ぼくの口座がある銀行の側もそれに驚いてなんかたまたま担当者がめんどうな案件を4つくらい抱えている時期でいろいろと面倒だったから表面上はそういうのがなかったことにして処理して、でもせっかくなのでぼくが5兆円を少しずつ分割して引き出すぶんにはかまいませんよ、みたいな特例打ち出の小槌システムみたいなものをぼくだけに付与してくれれば、いいのに。




よくはないか……国家予算渡されると正義のために使いたくなっちゃってめんどうだ。

だったら1万円くらいでいい。





あーどっかに1万円札落ちてないかな! それにはふせんがついていて、「交番には届けないでください。」と書いてあるのだ。偶然だけれども。

2020年3月27日金曜日

病理の話(428) 病気の分類が時代と共にうつりかわっていくワケ

病理医向けの専門雑誌を見ていると、記事にはいくつかのパターンがあると気づく。

1.すでに知られている病気を診断する「お得テクニック」について
 (診断が難しい病気でも怖くない! こうすれば診断できる!)

2.知名度が低い病気の情報
 (これを知っておかないと見逃す! おぼえておこう!)

3.病気の新しい分類方法
 (今までAと呼んでいた病気の中には、実はA-1というタイプと、A-2というタイプがあって、これらは治療法が違うんです! これからはわけて考えようぜ)

4.新しい病気の概念・2
 (そもそも今まで名前がついていなかった病気があるんです! Bと名付けます!)

ほかにもいっぱいあるけど、これくらいにしておこう。



今あげた例のうち、1と2については、ぼくは受験勉強みたいな読み方をする。「こういう情報があるよ! 知ってた? 知らないと点がとれないよ!」ってことだから、ちゃんと覚えて仕事に活かす。

しかし、医者が読む雑誌というのは、「誰かがすでに知っていた情報」だけを扱うわけではない。

実は3とか4がすごく重要なのである。



たとえば大腸がんという病気がある。この病気のことを全く知らない、という人は少ないと思う。詳しいことはともかくだ。

そして、医療系の知識をよく集めている人だと、同じ大腸がんと言っても、ステージ(病期)によって、治療法はまるで違うし、体に与える悪影響の度合いも違う、ということをご存じだと思う。

ステージ0の大腸がんは大腸カメラで取り除けば、それだけで治癒することが多い。

しかしステージIIaの大腸がんは基本的に手術によって治療されるし、ステージIVの大腸がんでは抗がん剤を含めた多くの治療法を考慮することになる。

ステージによって大腸がんのふるまいが異なるからだ。ふるまいが異なれば対応も変えなければいけない




このような、「病名はざっくりと一緒だけれど、医療者と患者がそれに立ち向かう際に対応を変えていかなければいけないグループ分け」のことを、俗に病気の分類と呼ぶ。

病気の分類は、テナガザルとチンパンジーの顔は違うよねーみたいな、「違うから分ける」というものではない。そこは注意して欲しい。見た目が違っていても対処方法が一緒だったら、わざわざ分ける意味は少し減る。対処だけでなく、たどる経過(その後何日かけてどうなるか)までも一緒ならもはや分類する意義はかなり減る。

対処方法や、未来がどうなるかという予測の結果によって、細かい分類をするかしないかを決めるのだ。




そして……時代がすすむと、この、「対処方法」が増えていくのである。なぜかというと科学が進歩するからだ。ひとことで「抗がん剤」と言っても、15年前に使えた抗がん剤と今とでは、使える薬の種類がまるで違う。今の方が圧倒的に多い。科学の進歩ってすごい。

進歩した科学を存分に発揮するためには、「新しく使えるようになった薬が、効きやすい病気か、効きづらい病気か」を、どんどん分類していくべきなのである。

最近の大腸がんは、ステージだけではなく、たとえば「大腸のなかでも肛門に近いほうにできたがんか、あるいは小腸に近いほうにできたがんか」で分類する。

さらに、「ある遺伝子に異常が起こっているかどうか」でも分類する。

はたまた、「顕微鏡でみたときに、がんが正常ソシキにしみ込んでいく最前線で何が起こっているか」でも分類する。




分類は時間軸が進むにつれて永遠にフクザツになっていく!

だから病理医の読む雑誌の記事は決してなくならないのだ!





で、まあ、人間の知能には限界があるので、分類がフクザツになればなるほど覚えられなくなっていく。だからそこを工夫するための技術というのも次から次へと出てきて……。

「フクザツになりすぎてわけわからなくなった診断手法を、こうしたらもう少しカンタンになるよ!」

というテクニックが生まれ……

それもまた雑誌に載る(笑)。

2020年3月26日木曜日

誤字ひとつを膨らませる話

自分の誤字をまじまじと眺めている。


異なる出版社から2つの教科書をほぼ同時に出すにあたり、特別企画として「2版元連携POP」を作ることになった。ぼくの手元に小さな紙が届き、そこに手書きでぼくが何事かを書く。すると、デザイナーさんがPOPにアレンジしてくれる。そういう手はずだった。

「買いたくなる」を「いたくなる」と誤記していたことには、最後まで気づかなかった。

POPのデータを数案送ったら、笑いと共に返信が来て、「ここ間違ってます」と教えられた。ぼくも笑ってしまった。(しかもこの誤字バージョンがほぼそのままデザインされて店頭に並ぶことになった。手練れか)




このミスは、ぼくの脳が普段どうやって働いているんだろうと思いを馳せる絶好の素材でもある。



そもそも、「書く」という言葉に個人の願望をのっけた場合の正しい日本語は「書きたくなる」だ。「書いたくなる」という表現は存在しない。だからこの誤字はかなりやばい誤字に思える。

ナチュラルに誤字したときのぼくの頭の中は、あくまで「買いたくなる」という音と「買いたくなる」という意味で満ちあふれていた。「書」という言葉が書き記されてしまったのは単なる混線、完全に無意識だった。「買」と書いたつもりだった。それなのに、「書」という漢字自体は、画数、書き順ほかすべて正確に記されている。まずこのことがとても不思議だ。

バッターが高めのボール球に思わず反応してしまうときにもスイングは途中まで完全な軌道をとってしまう、的なものか?

ちょっと違うか……。でも途中から反射で書いているというセンはありそうだ。




「買」という文字と、「書」という文字は、横線が多いから似ているといえばそうかもしれないが、実際のところ、全然似ていない。

発音が同じ「か」だというだけ。

「かう」と「かく」。送り仮名からして違う。音読みに到っては「ばい」と「しょ」。ぜんぜんかぶってない。

となるとぼくは、この2つの文字を、無意識では「か、の箱の中」にまとめてあって、それらを「指先のあたりで」「反射的に」誤選択したということににある。

うーんぼくの脳内インデックスって音で分けてるのか!

あるいは……小学校2年生くらいのときに習う漢字という共通点もあるか……。





ぼくの無意識を、もっと意識的に探っていく。

いったいどういうメカニズムで「書」という漢字が出てきてしまったのか。



1.頭の中には「買いたくなる」というイメージが浮かんでいる。「買いたくなる」というフレーズを紙に書こうとして指先を起動させる。

2.「買」という漢字を書くために、脳内ストック「か」を検索してすかさず飛び付いた字、これが間違っていた。しかし頭の中はすでに「~いたくなる」以降のことを考えていて、POPにほかにどういう字を書き込もうかなということで思考が占められている。つまり「買」を書くことについては、あっという間にチェックがおざなりになる。

3.「書」の書き順や運指は指先にしみ込んでしまっている。だから、すでに意識がそこになくても無意識で書き終えることが可能。

4.「買いたくなる」と書いたつもりでいるので、間違いに気づかない。

5.そういえば、直後に「教科書」というフレーズがある。もしかしたらこの「書」に引っ張られたのかもしれない。買いたくなる教科書、というフレーズを書き始めたときにはすでに「教科書」くらいのところを脳内では書き終わっていた可能性もある。だから混線したのか?




アハハハ変だなあゲラゲラゲラ。

「書いたくなる」という言葉の違和感がすげぇなあ。味わいがあるなあ。

「見たことない言葉の浮ついたかんじ」に直面する魅力が出てきたなあ。

雑だけどこれって記号論でもあるなあ。





人はたまに、間違いの理由をうまく解析できないようなミスをおかす。

そのときの脳はおそらくいつもと同じようにぐちゃぐちゃ働いていて、たまたまいくつかの偶然が重なりつつも、ある程度「妥当なつながり」によって変な発火が連続して発生してミスが完成する。

今の書き間違いを105歳のぼくがやっていたら「ボケた?」と言われるかもしれない。

でもこれってボケなのかな? どうももうちょっとフクザツな……ていうとなんだか偉そうだな、でも、「複雑系の隠し子」みたいな現象なんじゃないかなあ。

ていうかそもそも、脳はなぜ普段はこういうミスをしないのか、というほうが魅力的な問いではある。うーむ誤字ひとつでここまで混迷するとは……。あ、誤字だから混迷するのは、あたりまえか。

2020年3月25日水曜日

病理の話(427) 苦手な臓器の診断を担当しなければいけなくなったら

病理診断医の仕事はいたってシンプルで、臓器をみて細胞をみて、診断名を決めて分類をして、臨床医と会話してキャッキャウフフしてればいい。

あ、でも、病理医と呼ばれる者の中には、細胞を顕微鏡でみて診断するのではなく、もう少し学者的な……細胞を研究して病気の理(ことわり)を解き明かすほうが得意な医者もけっこういる。そういう人たちはそういう人たちで、実験室でキャッキャウフフしている。

どちらもキャッキャウフフしていることにかわりはない。……ただし。

細胞を顕微鏡で見る派の病理医と、実験室で細胞を相手にする派の病理医は、外面が同じキャッキャウフフに見えても、やっていることがまるで違う。

IT企業で営業をやるのと、青果卸売り業者で営業をやるのとでは、同じ営業といってもノウハウも人脈も飲み方もまったく違うだろう。それといっしょだ。





今の例では、病理医を「細胞の診断が得意なタイプ」と、「細胞の実験が得意なタイプ」にわけてみた。病理医にもいろんなタイプがいる。

顕微鏡診断と基礎実験を両方やろうとする、二刀流タイプにあこがれる学生もいる。実際に両方やっている病理医も多い。ただ、顕微鏡と実験を両方やろうという人は、実はある裏技を使っていることが多い。それは、

「得意な臓器のときだけ顕微鏡をみて、自分が苦手な臓器の診断はそもそも担当せずに人に任せてしまう」

ということだ。

マジで多い。

というか現在の病理医はほとんどこうである。マンガ『フラジャイル』の野球回(なんのこっちゃと思うかもしれないがそういう回がある。温泉回の次に酷……人気がある)でもこの話が出ていた。




人間の知性には限界がある。病理診断は複雑化しすぎていて、ひとつの臓器のひとつの病気を勉強するだけでも人生が終わりかねない。まして、顕微鏡診断と、遺伝子解析を両方やろうなんて……。

だから専門ごとにきっちり分けていけばいい。

というかそうせざるを得ない。実際そうやって今の診断は回っている。

ここでの問題は、専門ごとに病理医を細かく割り振るほど、病理医の頭数が足りない、ということにある。

専門ごとに病理医を細かく分けてしまうと、現場で病理診断をする人の数が足りなくなっていく。胃の病理の専門家は大腸をみません、とか、肝臓を専門にやっているので子宮はみません、だと、まるで日常の仕事が回らない。

臓器の種類だけ病理医がいては困るのだ。もう少しかけもちをしてくれないと。

おまけに、「ぼくは肝臓の中でもがんじゃない肝臓の病気が専門です」みたいな病理医も実は多い。肝炎にめちゃくちゃ詳しいけれど肝臓がんの診断はそこまで詳しくない病理医。肝臓だけで何種類の病理医が必要なのだろうか!




と、まあ、この構造というか問題点はほとんどの病理医はよく理解している。そこで、すでに改善点も考えられている。

1.自分が専門としていない臓器の診断であっても、専門家に正しくつなぐべきケースを見極められるように、あらゆる臓器に対して最低限度の勉強をしておく。自分でも診断できそうな「典型例」と、自分だけでは診断が難しそうな「非典型例」を見分けられるようになる。

そもそも「病理専門医試験」では全臓器の病理知識が問われる。つまり、病理専門医の資格を取るくらいの勉強をしていれば、少なくとも一度は全臓器の病理を覚えたはずなのだ。

まあ人間はすぐ忘れるから、がんばって勉強をし続ける。そうすると、絶対に専門家じゃないと診断できないような難しい例を除けば、だいたいどんな臓器でも診断できるようにはなる。

……スキルとして求められるのは、「絶対に専門家じゃないと診断できないような難しい例」を見極める能力だと思う。自分が無知のあまり、「なーんだかんたんじゃん」とてきとうな病理診断を下してしまう超難解例、みたいなのがあるとめちゃくちゃ問題になる。「珍しいものを珍しいというための知識」を集めておかないといけない。


2.オンラインを駆使して専門家と常に横の繋がりをたもち、自分がわからない臓器の診断がきたらすかさず得意な人に丸投げする。

このほうが現代風でよさそうに聞こえるだろう。ただしこの方法には大きな弱点がある。自分の仕事を他人にばかり投げていたら、そいつはいったい病理医として雇われている価値があるのだろうか、ということだ。他人に頼るためには自分も誰かに頼られなければならない。「全臓器をみないかわりに、一つの臓器・病気についてはいつでも頼ってもらえるくらいすごくなる」ことが必要なのだ。これってけっこうプレッシャーだと思う。





最近の病理医はだいたい1と2を併せ持っている。ぼくは市中病院に勤務しているが、1と2を併せ持たないと、医学の進歩においていかれて診断で重大なミスをしてしまうだろう。とにかく自分が成長する。そして人に頼りまくる。おまけに人から頼ってもらう。そこまでやってようやく「顕微鏡診断で中堅どころ」といえるくらいのポジションだ。

もはや基礎研究についてはコメントできない。ジェネラルな病理医を目指してはいたが、いつのまにか、病理学の一部については全くついていけなくなっているのである。なかなか悲しいことだ。まあ勉強は続けるけれども……。

2020年3月24日火曜日

後生

あとから追い掛けて追い掛けて、しばらく追い掛け続けてはじめて「前に走ってる人のすごさ」に今さら気づくことがある。

第一印象でうわぁすごいなーと思っていた人を長年フォローしているときに、しばしば起こることだ。

最初気づかなかったすごさが後から後から湧き出てくる。いつまでも感動を更新することになる。

すごい人のすごさに、初対面ですべて気づけるわけがない。

当たり前なのだけれど、知れば知るほど感心してしまう。





人間だれしも、長く付き合えばその人の見えていなかった一面がどんどん増えていく。もっとも悪いところばかりどんどん見えてしまうケースも多いとは思う。

いいところを探そうと思ってずっと見続けていると、いいところばかりが目に入ってくる。

悪いところを探そうと思っていると、どんどんその人のことが嫌いになる。

好悪それぞれ順繰りに増えていくということはまずない。どちらかに偏る。

人間が何かをみるときには、その対象の一側面しか見えない。だから、一度見始めると、どこまでも片面ばかりを見てしまうのだろう。




サイコロを3面以上同時にみるためには、鏡のような道具を使わないといけない。6面いっぺんに見通すことはできない。

この、「できない」ということに自覚的ならばまだいいのだが、人間というものは、

「3面見られれば十分だよ、だってサイコロは、反対側にある2つの面の数字を足すと必ず7になるんだから。2の裏は5。1の裏は6だよ。全部みなくても大丈夫」

という言い訳を用意しがちだ。そして、サイコロの目をぜんぶ確認することを怠るようになる。




そこにある立方体の3面に、それっぽい○がいくつか穿たれていたとして、それがサイコロである保証などない。

でもぼくらは無数の情報に囲まれて生きているから、自分が目を向けた方にある物体の一側面以外を見て回る余裕なんて、本当はないのだ。





昔ドラえもんに書いてあった問い。

「なぜ人の目は前についているかわかるか?」

これの答えとして、のび太の学校の先生はこう言った。

「前へ前へと進むためだ」

のび太はジーンとする。






「なぜ人の目は前についているかわかるか?」

「いっぺんに全部はみられない、だから片方につけておく。目がついている方を前とする。それで納得して進めるならいいじゃないか」






うん、のび太の先生のほうが教育的だな。さすが先生だなあと思う。医者はそういうところを見習ってもいいのかもしれない。先に生きると書くくせに、おいかけてばかりだ。

2020年3月23日月曜日

病理の話(426) 違いが判る人のネスカフェ

人体の中にカビが生えることがある!

と書くとげげっと思ってしまうが、人体の表面にカビが生えるのが水虫なので、ま、中にだってカビくらい生えるよね、と言いたくなってしまう。けれどまあやっぱりカビが生えるのはよくないのだ。

朝から水虫の話もいやなのだが、こういう話は昼でも夜でもいやなものなので、早朝に読んでしまうに限る。

さてカビが生えるとなにがよくないかは本稿の主眼ではないのだけれど、ぶっちゃけてなにが悪いのかという質問に答えると、「カビはただ生えるだけじゃなくてその辺を壊す」のがまずい。人体が秩序をもって作り上げた構造をプチプチ壊すので、やはり放っておくわけにはいかない。

ただ、このカビ、足に生えていれば見てわかるのだけれど(まあ皮膚科医じゃないとわからないことも多いけれど)、食道とか、肺とかに生えている場合、どうやって見ればいいのかという問題が出てくる。

食道だったら胃カメラを入れればまあ見える。けれども「バンジージャンプのときに出川哲郎の頭に取り付けられているタイプのCCDカメラ的な胃カメラ」をもって、食道の粘膜をぐぐっと拡大してみたところで、それがほんとうにカビなのかどうかを判断するのはちょいちょい骨が折れる。

そこで、カビかもしれない部分を、カメラの先端から伸ばしたマジックハンドによってつまんでとってくる。これが「生検」である。

そこにうまくカビがつかまっていれば顕微鏡でわかるだろう、という話だ。

しかし……。

実はカビというのは顕微鏡で見ても直ちにわかるという類のものではないのである。

なんだかゴミみたいに見えることもあるし、別の細胞と勘違いしやすいシチュエーションというのもある。食道ならまだいいほうで、肺のカビ(まれに生える)だとそのまま見てもよくわからないことはざらにある。

「黙って見るだけでわかる」というのは実際難しい。カビに限らない。慣れていても見逃しやすいケースもけっこうある。木が森の中に隠れている感覚、というか……。

そこで、ぼくら病理医は技術をもちいる。ほかの細胞と入り混じってしまってわかりづらくなったカビであってもビシッと見つけ出すために、「特殊な染色」を使うのだ。

ふだんぼくらが顕微鏡をみる際に、細胞が見やすくなるようにハイライトすべく用いている染色は、HE染色という。H&E染色と書く方が多いかな。ヘマトキシリン・アンド・エオジン染色。ヘマトキシリンという色素とエオジンという色素を用いるのだが、この染色は、DNA(が含まれている核)が陰性荷電しているという性質を利用して、核だけを青紫色に染め分けることができる。通常の病理診断では細胞の「核」を最重要視するから、核をハイライトしてくれるHE染色は最強なのであるが……。

ぶっちゃけると、人体の細胞とカビ(真菌)との違いは、核をみていてもあまりよくわからないのだ。だから核をハイライトするタイプの染色だと、似たような染まり方になることがあってまぎれてしまう。

そこで、人体の細胞とカビとの「大きな違い」に着目して、そこを狙って染め分ける染色を別に用いる。その「大きな違い」とは……。

カビには細胞壁がある

これだ。

細胞膜(まく)ということばと、細胞壁(へき)ということばを、我々が最初に知るのは中学校の理科の授業である。しかしそれっきり使わなくなる。細胞壁などということばは、ぼくらがカロリーを気にしながらご飯をたべたり好きなスポーツをみて暮らしたり確定申告にうんざりしたりホワイトデーにカップルを狙撃したりする役にはまったく立たないので、人口の99%くらいがどうでもいいと思っていてみんな忘れてしまう。しかしここではじめて人間の役に立つ。ことばや知識というのはなんとも味なものだ。

人体の中にある細胞は絶対に細胞壁をもっていない。しかしカビには細胞壁がある。ということは、細胞壁をうまく染める染色を用いれば、紛れ込んでいるカビだけをハイライトすることができる。

たとえばGrocott染色というのがそれである。銀を用いて染色をする、鍍銀(とぎん)染色の一種。染色に用いるときの銀成分はピカピカシルバーに光るわけではなくて、酸化してまっくろになる。顕微鏡で人体の細胞を観察する際に、Grocott染色を用いることで、そこに黒っぽく浮き上がってくる物質があったらそれはカビの細胞壁ではないかとあたりをつけることができるのだ。





細胞の中にまぎれた「へんな細胞」「やばい細胞」を見出すためには病理医の工夫が必要となる。その工夫の多くは、「違いに着目してそこをハイライトする」というものだ。そして、ハイライトするのは病理医というよりは臨床検査技師の役目である。Grocott染色は発色に1時間近くかかるめんどうな染色で、実は技術が下手だと標本が真っ黒になってしまってうまく観察できなくなる。病理診断は極めて高度の知性を必要とする……なんて病理医がときどき偉そうに言っているのだけれど、臨床検査技師の技術がきちんとしていなければ我々はなにもできない。違いを知り、違いを染め分ける。ここに病理診断のアナログかつ味わいぶかい特性が潜んでいる。

2020年3月19日木曜日

藤やんとうれしーを見て考えてみた

ローカルテレビ番組「水曜どうでしょう」のディレクター陣ふたりがやっている、「水曜どうでそうTV」というイカした名前のYouTubeチャンネルがある。

https://www.youtube.com/channel/UCLPelMHFSPTVzeZudKsIxzQ

まったくふざけた名前だ。

いまや登録者数は30万人越えである。ぼくはこれがはじまったころからずーっと見ているがやはりディレクター陣ふたりはコンテンツ能力が高いなーと思う。すでに世にある「水曜どうでしょう」という番組の底力であることはいいとしても、その番組を露骨に匂わせながらも微妙に違うことをやりつつ、新たにこうして何十万という人々のワンクリックを引き起こした彼らは、やはり「やり手」だ(プロのYouTuberとタッグを組んでいるにしても)。

そういえば、「チャンネル登録者数が少ないときから見ていたでかいYouTuber」というのを、ぼくははじめて体験しているんだなあ、と気づいた。ぼくは、ヒカキンもはじめしゃちょーもでかくなってから知ったし、そもそもでかいYouTuber以外はほとんど目にすることがない(唯一あるとしたらそれはVtuberくらいのものだ)。

そのため、「すでにでかくなっている人のやりくち」はマネはできないにしろある程度わかる。しかし「YouTuberがでかくなるまでに歩んできた道のり」は全く見たことがなかった。このたび、水曜どうでそうTVで、ぼくはその過程をずっと目にしている。

これが、楽しい。

ああ、地下アイドルを追い掛け続けたらその人がテレビに出ました、みたいな感覚ね、と理解されるかもしれない。「大きくなる前から知っていたマウント」というのもある。しかしぼくが「水曜どうでそうTV」の歩んできた歴史をみておもしろがっているのは、「古参ぶる」という感情とは少し違うようにも思う。

なんというか、職業モノのノンフィクションを読んでいるような楽しさがある。

ぼくは自分の歩む道の先にYouTuberという選択はない。でも、YouTuberというひとつの「職業人」が、どういう手段、どういう進路を歩んでいるかというのを眺めるということは、興味本位の好奇心を強く刺激してくれるのである。




ぼくはYouTuberを見ることを自分の仕事に活かそうとは思っていない。まるで違う職業だから、リスペクトしつつ他人事として見ている。ただ、偶然参考になったこともいくつかある。

そのひとつは「居場所」というものを再考するきっかけになった。

テレビやラジオの世代からすると、デジタルネイティブ世代がYouTubeで登録しているチャンネルの数は何倍も、何十倍も多い場合がある。ものすごい数のチャンネルの、どこに熱心に所属するでも無く、あたかもチャンネルとチャンネルの間に蜘蛛の巣のように糸を張って、その中心にふわっと暮らして、ときおり糸を伝って次々とチャンネルを飛び石ジャンプしていくような感覚……。これが現代的な「居場所」のありかたの一つなのかな、と気づいた。

その一方で、一部の人々は、「ある時期はとにかく同じYouTubeばかり見ている」ということをする。ブームがあるのだ。いったん何かにはまったらとことんそのチャンネルに登録してある動画を見続ける。ストックがなくなるまで! ストックがなくなったら、なんとチャンネル登録を解除して、また次のチャンネルを登録しにいく。こちらは蜘蛛というより、ヤドカリのような雰囲気だ。

これらはぼくら40越えのおじさんが「居場所」と聞いて連想しているものとは少々異なるように思う。

蜘蛛とヤドカリ、まるで違う視聴体系だが、共通する点をあえて上げるならば、「情報がフローし続ける中で暮らす。決して一箇所のストックに依存しない」点だろう。

シェアハウス、シェアオフィス、民泊。ぼくらはすでにシェアインフォメーション、シェアライブラリーの暮らし方をしている。特に若者たちにその傾向は顕著だ。親や教師のような「絶対となるよりどころ」を決めずに、ふわふわと日替わりのセンセイにその都度必要なものを学ぶ暮らしに突入している。

彼らのそういう雰囲気を肌で感じ、自らとの断絶を強く察しながらも、ぼくは世にこれからも融け続けていくしかない。融けないわけにはいかない。世と断絶して仕事が出来る医療人なんて研究者くらいのものである。まあ病理医といっても半分研究者だ、と言う事もできるが……ぼくはできれば世に融けるほうをえらびたい。

そして今とうとつに、まるで違うことを考えた。

かなり強烈な仮定の話をする。もしこの先、ふしぎな制度改革や信じられないほどの大変化が起こって、大半の人々が「金を稼ぐ」という目的をうしなったとしたら……つまり、金を稼がなくても生きていけてしまうとしたら……らんぼうな仮定だけど「if」だから許して欲しい。

もし「金を稼ぐため」という活動をまったくやらなくてよくなったら、若者でなくとも、ぼくら大人も、「一箇所に依存して、準拠して暮らすこと」をやめてしまうのだろうか。

職場にいかなくていいのだ。

どこにいてもいいのだ。

だとしたらぼくら中年はやっぱりネットワークに融けるだろうか。




それとも、なお、どこかひとつの依り代みたいなところを求めるのだろうか。たとえばそれは「金の稼げない、居場所としての仕事場」みたいなことに、なり得るのだろうか。

YouTubeを見ながらそんなことをずっと考えていた。藤やんとうれしーは未だに人件費で赤字だ、ぜんぜんもうかっていないという。しかしそこそこ楽しそうである。

2020年3月18日水曜日

病理の話(425) 病理医になるにはどうしたらいい

……という質問をぼくが受けることは、実は少ない。あいつ病理医じゃないから、ツイッタラーだから、くらいの立ち位置なのでしょうがない。ツイッターにはほかにも病理医がいます。

でも、ちょっと書いておく。今日は覚え書きっぽくする。最近、病気の話を直接書きまくっていたので、箸休めだ。かるーく書こう。



【病理医になるにはどうしたらいい?】



1.病理医になりたいと思うその気持ちはなんなのか。そこを深く考えると病理医じゃなくてよくなってしまう。なぜなら、病理医のやりがい、生きがいは、他の仕事をしていると絶対に感じられない類いのオリジナリティあふれるものではないからだ。だから考えないでほしい。どうかそのまま。ふわっと病理医にあこがれていてほしい

2.ああ、もうこの1つめで、えっ、病理医ってそこまで特殊な職業じゃないの? とか、あるいは病理医ってそこまでおすすめされない職業なの? とか、考えて迷ってしまった若者がいるかもしれない。申し訳ない。先に言っておこう。この仕事は、迷わない人にはおすすめできない。常に思考が何かに衝突して、どうしよう、なぜだろう、どうなってるんだろう、どうしたらいいんだろうと考え続けるタイプの人にこそ向いている職業……いやまあ向き不向きはそこまでがしっと決まってるものじゃないからどうでもいいや。今の文章は読まなくてもいいです(先に書け)。

3.でも、まあいったん向き不向きの話をしてしまうとまずはそこを気にしてしまう人もいるだろう。大人はすぐに「向き不向きじゃないんだよ」とかいう。でも多くの人が気にしてるってことは、やはり「向き不向き」という話に何か人を惹き付ける命題みたいなものがあるんだと思う。だからやっぱり、病理医に向いているキャラクタというのは何か、というのをおおまじめに考えることにしよう。そのキャラクタとは、たぶん、「おおまじめに考え続けることができる」ということだろう。実際、病理医は臨床医と組んで、ヤマイの理(ことわり)をずっと考え続けていくポジションである。病理医は将来AIによって駆逐されるのではないかという都市伝説をたまに聞くのだが、AIは答えを確率で提示してくれるだろうけれども、臨床医と共に考え続ける相方の役割まで果たす日がくるとしたらそのときは世の中に先にドラえもんが爆誕しているはずだ、そこまで現行のAIに期待するのは酷である。当座、AIは話し相手にはなりづらいはずだ……まあ今でもすでにSiriと対話することは可能だけれど、それにしてもだ。というわけで、病理医はまず対話の相手として重要だ、という前提を共有してもらいたい、かつ、ここに職能としてもうひとつ加えなければいけないものがある。それが「考え続ける」ということ。相方として役に立つためには、病理医はとにかく考え続ける必要がある。だってそれこそが役割なのだ。そしてこれは、病理医が病院の中ではほとんど唯一といっていい「患者に手を施さなくてよい医者」であり、「手技をしなくていい分ずっと考え続けることを許された職業医師」だからこそ可能になる職能でもある。職業の性質として考え続けることが可能になる。今ぼくがシレッと「可能」と書いたところをもう少し深掘りしたい、そのためには、古来より問われ続けている次の命題、「考え続けることは才能だろうか」を先に解く必要がある。考え続けることができるというのは才能だろうか? ぼくはそうは思っていない。むしろ考え続けるために必要なのは才能よりも環境のほうだと確信している。そもそも、考えるヒマもなく何かをこなしていかなければいけない人は、どれだけ才能があろうとも考え続けることはできないのだ。人は誰もが考え続ける能力を持っているが、それなりの環境に置かれないと、「考えるための環境整備努力をすることに疲れてしまい、思考が停止する」のである。災害時などに頭が真っ白になった経験はないか? 死ぬほどめんどうな事務作業をこなしているとだんだん脳が平坦になっていく感触を覚えたことはないだろうか? その点、病理医は非常にめぐまれたポジションにいる。細胞のことを勉強したり、病気のことを勉強したり、診断や分類のことを勉強したりすることがそのまま給料に結びつく特殊な仕事。傷を縫わなくて良い、電子カルテにサマリーを書かなくてよい、患者と話さなくてよい、抗がん剤を選ばなくてよい、手術をしなくてよい、ここには考えるための環境が整っている。さあ病理医、存分に考えたまえ、という場所でぼくらは毎日顕微鏡を見たりパソコンをバカスカ打ったりツイッターに魂を売ったりできる。ここにいれば、さほど大きな才能がなくても、誰もが考える環境を手に入れることができる! ああそうかつまり、自分で書いていて思ったが、この職業に向き不向きなどやっぱりないのだ。必要なのは圧倒的に「この環境に収まる覚悟」。「考え続けることがどういうことなのかを想像しながら、考え続けることができる環境を選んでそこに足を踏み入れること」なのだ! ああ、そういうことだったのだ! ぼくは長年の疑問がひとつ解けた気がする。ぼくは向いているから病理医になったのではなかった。めぐりめぐってこの環境に流れ着いたから考え続けることができるようになったのだ! ではどうやってこの環境に流れ着いたかというと、

4.医学部に入って考えた。そしたら一定の割合で、ここに流れ着く。偶然であった。

2020年3月17日火曜日

2倍にすると歩いて次々装着

先日、キングジム公式さんの書いた本を読んだ。文章ににじみでる、「キャラの硬度」みたいなものが、頭の中で音声に変換される。ああ、これはキングジムが書いているなあとわかる文章だ。

そういうことはよくある。

かつて、NHK_PRというアカウントが書いていた文章は、ある種の色とやわらかさ、一定の温度をもってぼくの脳に入ってきた。

東急ハンズの関連アカウントであるハンズネットや、ヴィレッジヴァンガード、ムラサキスポーツ、OKウェーブなど、企業公式と呼ばれていたアカウントたちはいずれも、ツイートの文章を読むだけで、あたかも人間の声がひとりひとり違うように、文章にまとわりついて五感に訴えかけるテクスチャのようなものが違って感じられたものだった。

そういえば、「NHK_PR 1号」の中の人は浅生鴨だったわけだが、浅生鴨があそうかもとなって現在ツイートしている文章から感じる色彩や感触は、NHK_PRのそれとはかなり異なっているように思う。不思議なものだ。彼はそういうことを狙ってやっていそうだ。





長くツイッターをやっていると、自分のツイートを見た人から「変わったね」と言われることがある。それはわかる。だってぼくは実際にどんどん変わっていくからだ。9年経って変わらない人がいるか? 加齢するのは皮膚や髪の毛だけではない。声も変わっていくし文章も変わっていく。なぜなら脳がどんどん変わっていくからだ。

だから「変わったね」という人を見ても、当たり前じゃんとしか思わないし、「そうですね」としか返事しない。「晴れましたね」「そうですね」てなもんだ。

しかし、おもしろいのは次のような感想だ。

「変わらないね」

うそぉ!?

変わってるじゃん!!




でも実際、変わっていない部分もあるのだろう。それは、たとえばぼくがキングジムの本を読んで感じた「キングジムとしての感触」のような部分と同じようなヤツだ。NHK_PRと浅生鴨が異なるテクスチャを持つように、アカウントが変われば用いる「分人」もかぶるペルソナも変わる、しかし、同じアカウントを使い続けていたら、そこにはある種の「梁」のような、「コア」のようなドグマが……いや、そんな大仰な話ではないかな、何年経っても「あなただ」とわかる感情温度のようなものが、ずっとアカウントの周りにふわふわ漂っているものなのだ。





どれだけ心を入れ替えようと、どれだけ文章表現を磨こうと、ぼくらの周りにひとたび漂ってしまった色彩や温度、手触りのようなものは、おそらくそうカンタンには入れ替わっていかない。だからその人はいつまで経ってもそういう人だ。



ただし、自分のまとっているテクスチャーを「変えたい」と努力している人というのは、見ていてわかるものだし、「変えたいと努力している」という雰囲気自体はおおむね他人によい感触を与えるものである。

2020年3月16日月曜日

病理の話(424) むずかしい病気を見る

臨床医が困り果てて、病理検査室に電話をかけてくることがある。

頻度としては月に2回くらいかな。最近みんな困ってないなという日が2か月くらい続くこともあるし、毎日誰かが顔に深いシワを刻んで考え込んでいる週もある。ならして平均すると月2回といったところだ。

先に言っておくけれど、あまりいいことではないよ。だって、臨床医が困っているということは、患者も困っているのだから。

そうとう、診断が難しい、ということだから。あるいは治療選択がナイーブすぎて悩むということもある。




臨床医は基本的に、病理診断をぼくらに依頼するとき、いちいち電話などしてくる必要はない。

ちゃんと「病理診断依頼書」というのがあって、そこに必要事項を書き込んでおけば、あとは患者から採取した検体をホルマリンに入れて(※ごく一部の病気の場合にはホルマリンに入れないで)病理検査室に届ければよい。会話する必要はない。流れ作業でいい。

それでも、なお、電話がかかってくることがある。どうしても伝えたい思いがあるのだ。あふれて止まらないのだろう。

停滞して鬱屈した思いを受け止めて、衝突した思考をどちらかに流して、再び臨床医の創意工夫が回転するように仕向けること。

これこそが、病理医の最も大事な仕事のような気がする。気がしただけです。




トゥルルルルル

電話が鳴る。

……今くらいの音が鳴るのは、ぼくがそうとう調子が悪いか、あるいは別に電話をとっているときだ。

普段はこう。

トゥルガチャ「はい病理市原です」。

ぼくのデスクの横には電話があるから、鳴ったらすぐとれる。昔の卓上電話というのは、鳴る前に「ン……」と少しなにか「予感」を漂わせるんだよね。中年ならわかるかなその感覚。ぼくはこの「ン……」で電話だとわかるのだが、そこで受話器をとると高確率で先方にキモがられるので、いちおうコールが1回鳴るまでは受話器を取らないようにしている。

というわけで。




トゥルガチャ「はい病理市原です」

臨床医「うわっもう出たキモ……あっすみません市原くんですね、今いいですか」

キモ「いいですよ(院内電子カルテを開いて、患者IDの検索画面を出しておく)」

臨床医「IDが、○○○○○○○……」

キモ「はいこちら、○歳の男性、受診契機が……ええと……」

臨床医「腹痛なんですよね。いろいろあってCTとったら全身に△△があるんですけれど、皮膚の△△は~~で、肝臓のほうはそうでもなくて、縦隔はたぶんべつもので。なんかしっくりこなくて……それで皮膚生検をすることにしました」

キモ「病名としては何を疑ってますか?」

臨床医「正直に言っていいですか?」

キモ「感情を込めて言ってください」

臨床医「……わ か ん な い で す(棒読み)」

キモ「俺に丸投げかよ」

臨床医「いや、感情の込め方がです。疑い病名はあります。しかし、しっくりこない。だからもう、病理で皮膚を見てもらった方が早いかなって」

キモ「ではその疑い病名聞かせてください」

臨床医「A……。あと、B……。そして、悪性のC……。」

キモ「……そのセットであなたが疑うシチュエーションということは、Dもかんがえておいたほうがいいのではないでしょうか

臨床医「あっ、D、そうですね、D、そうか、D……あれ? D……これ、Dか?」

キモ「それはたぶん皮膚生検でわかるでしょうね」

臨床医「あれ、Dか、だったら皮膚生検いらないな、Dですねこれ!」

キモ「いやたぶん皮膚生検はしたほうがいいと思います。だってCとDは結局生検しないと区別できませんよ」

臨床医「あっそうか、じゃ、やります。そういう検体が今日届くんで、よろしくお願いします」

キモ「……念のため聞きますけど」

臨床医「はい」

キモ「あなたそれぼくに考えさせて、病理診断を早く出させるために、芝居うってません?

臨床医「まさかーはははそんないやいや鑑別診断あげるのは臨床の仕事ですからハハハ別に市原くんにそこまで事前情報与えてどうこうしようなんてhahaha考えてました」

キモ「すごい感情籠もってた」






診断がむずかしい症例というのはある種のレアケースなので、特定の例をモデルに今の話を書いたと思われたくなくてあちこち伏せ字にしてしまったが、ぼくは実際に、「臨床医が芝居を打ちながら病理医を診断行為に巻き込もうとしたケース」を何度か経験している。実際にはこの会話ほどフランクではなくて、もう少し、コスい。あるいはテクい。おそらく臨床医は今日も、病理医に向かって「いつもお世話になっております」と呼びかけながら、その実、病理医をお世話している。病理医に情報を流して、病理医に顕微鏡やプレパラートだけを見てもらうのではなく、臨床医と同じ情報を違う視点から見る次郎冠者としての役割を担わせようとしている。



それにのっかるのが病理診断医の仕事のひとつである。ある意味、楽しくダマされるつもりでやっていったらよいのではないかと思うのだ。顕微鏡だけ見られれば病理医になれるわけではない。もっとも、顕微鏡すら見られない病理医には誰も用はないのだが。

2020年3月13日金曜日

脳だけが旅をする

あとから今のことを振り返ったら、どういう気持ちになるだろうな。

きっと、具体的に困っているあれこれのこと、細部については時間とともに忘れてしまって、ただ、不自由で動きづらい感覚だけが、うっすらと消しカスみたいに残り続けるのではないかと思う。



思い出すのは阪神大震災のことだ。あのときぼくは知人が被災した。ぼくにとっては大学受験より前のできごとだったが、知人はもともと同級生で、成績がよくて関西方面のすごい高校に入って、そこから東大を狙うつもりだという話を風のうわさに聞いていた。

ある日、被災地で撮影された報道写真に、その知人がたまたま映り込んでいたのでぼくは声をあげてしまった。うわあ! Rくんが! うつってる!!




……ところが阪神大震災についてぼくが思い出すのはたったこれだけなのだ。どうかしていると思う。「そんな日々ではなかったはずだ」。でもぼくに残ったのはただひとかけらの、「自分の喉からでた声におどろくぼくの感情だけ」なのである。

なぜそんなに残酷に忘却してしまうのだろう。




こういうことはほかにもいろいろある。大事な人間の死、誰もが眉をひそめた大犯罪、テロ、戦争、災厄の数々。

その都度、誰かが悲鳴をあげ、日常は非日常へと変わったはずなのに、時間が暴力的にそれらを整地して、「非日常がたまに訪れるという日常」みたいなことになってしまっている。





あるいは世の人々は、そうやって忘れていくのがこわいから、怒ったり、なじったり、強い感情を周りに刻み付けることで、自分の脳から失われそうになっても、周りにぶっぱなした拳銃のあと、さらには跳弾の痕を、ときどき忘れたころに目にすることで、自分が少しでも忘却しないようにしているのではないか。





Rくんはその後ふつうに東京大学理科三類に合格してしまったのでぼくは笑った。お互いが中学を卒業したあとは一度も会っていない。塾で出会った相手だったから、同窓会で会うこともない。おそらく死ぬまで会わないだろう。

でもぼくの放った弾丸はそれ一発だった。ぼくはRくんが合格した際に浮かべたであろう笑顔と、阪神大震災の記憶とを、同じフォルダの隣同士に並べてしまっている。

……Rくんが合格したときにぼくは彼の横にいたわけではないから、彼の笑顔なんて、これは一切、見たことのないうその記憶だ。

つまりぼくは、阪神大震災についての思い出を、「うその記憶」ひとつでなんとか今につないでいるということになる。

いったい脳とは何をやっているのか。

本当に脳とはなぜそういうことをしてしまうのか。




これから何年かあとに、振り返って2020年を思い出すとき。

ぼくは今のこの大騒ぎを、何に紐づけて思い出すだろう。Twitterの世論斬り? マスメディアの人たちの口元に浮かんだ泡? 

なんとなく、であるが、このころはよく本を読んで、フェアとかやったなー、でも一部のイベントは中止になっちゃったんだよなー、そこで動画配信とかしたなー、よくやったよ、芸能人でもないのにさ、汗をかいて、なーんて記憶で紐づけてしまって、混沌と絶望の記憶なんてすっかり忘れてしまっているのではないか、と思う。

本当に全く脳とはいったい、なぜそういうことを、やってしまうのだろうか。

2020年3月12日木曜日

病理の話(423) 胃生検を見る

病理の話でたまに出てくる「生検」ということば、ご覧のとおり生きた検査と書く。

ただ生きたというニュアンスはあまり含まれていない。

「生体の中から一部をつまんできてその細胞をみる」検査をいう。英語のbiopsyということばの「bio」を「生」で翻訳したんだろう。

生検にもさまざまなやり方があるが、たとえばあなたが胃カメラを飲み込んだときの話を例にとろう。

胃カメラというのはよく曲がるチューブみたいな形状をしていて、その先端部にカメラがついている。これで体の内部を観察することができる。

で、その先端部にはカメラのほかにも「穴」が空いている。カメラをもった医者は、手元からチューブ内の穴を通して、いろいろな便利道具を先っぽにぴょこんと出現させることができる。

この穴の中から、極小マジックハンドみたいなものをピヨッと出すことで、胃カメラの場合、食道や胃、十二指腸など、カメラが見られる場所にある粘膜をつまんでとってくることができるのだ。

このときつまめる量としては、小指の爪を切ったときに出てくるカケラくらい、あるいはその半分とか1/3くらいである。たったそれだけなのだが、顕微鏡で20倍、40倍、100倍、200倍、400倍、600倍まで拡大していくと本当にいろいろなことがわかる。

そうやってとってきた、胃生検の話。




胃カメラで胃の中身を見るだけでもすごいことだと思うのだが、そこから何かをつまんでくるといったい何がわかるのか?

通り一遍の病理の説明をするならば、そこにあるカタマリが、がんか、がんではないのかを検査する上で役に立つ、という解説ができる。

しかし実は、病理医は胃生検をみてもう少しフクザツなことを考えている。



胃というのは、口から入った食べ物が停滞する場所であり、胃酸によって体外から来た食べ物ほかの異物をこなごなのとろとろにしてくれる。

ここで外から紛れ込んだ細菌なども滅ぼされる。なにせ胃酸はpHが1.0に近いくらいの強い塩酸だ。たいていの微生物は胃酸環境では生きていられない。もっとも、食べ物の奥深くにまぎれたまま小腸に流れていくこともあるのだが(そうやって食中毒は引き起こされる)。

この強酸環境をものともせず、人の胃に長期間寄生し続ける特殊な細菌がいる。それがかの有名なピロリ菌だ。



このピロリ菌は、胃がんの原因になるという事実のインパクトが強いため有名になったのだが、ほかにも胃にさまざまな影響を及ぼす。

特に、胃炎の原因になり、かつ、胃の粘膜を時間をかけて改変していく作用がある。萎縮性胃炎とか腸上皮化生などという言葉が、内視鏡室の壁に貼ってあるような啓発ポスターに踊っているが、難しいことはともかく、ピロリ菌がいると胃の雰囲気はだんだんかわっていくのだ。不良のいる学校ではだんだん校舎の見た目が変わり、勤めている先生も不良の対処に手慣れた人ばかりになるイメージ……。



で、病理医は、胃の細胞をみるときに、胃がんがあるかないかだけではなく、胃自体にどのような変化が及んでいるのかを細かく見ていく。これは数ある細胞診断の中でも、日本人が特に真剣に取り組んできた分野のひとつで、1950年代よりこっち、70年近くにわたり、胃がピロリ菌でどのように変化していくのかについてはめちゃくちゃ細かい「見所」が積み上げられてきた。

胃粘膜の表面に並んでいる腺窩上皮(せんかじょうひ)という細胞は変化しているか、いないか。

胃酸のうち塩酸成分を作る壁細胞(へきさいぼう)は残っているか、いないか。

消化酵素・ペプシンの元となる物質を作る主細胞(しゅさいぼう)は残っているか、いないか。

粘膜の中に炎症細胞(えんしょうさいぼう)がどれだけいるか。その炎症細胞にもいろいろ種類があるわけだが(※「はたらく細胞」に詳しい〕、どの細胞がどれだけ出現しているか。

粘膜を支える床の部分、すなわち粘膜筋板(ねんまくきんばん)は、保たれているか、それともボロボロになって今にも崩れそうなのか、あるいはすでに崩れ去ったあとなのか……。

こういったことをチェックすることで、細胞の面から、人体に起こっていることを類推していく。がんか、がんじゃないのか、その2択だったら別に病理医じゃなくてもできる。でも人体はもう少しフクザツで、私たちはそのフクザツに立ち向かうべくここまで訓練してきたのだ。それこそが、病理医の仕事、だった。





「だった」のである。実は過去形になりつつある。





ピロリ菌はもともと、井戸水や共用の生活用水などを飲むことで人に感染していたらしく、上水道が整備されていない時代(特に戦前)には、感染率は極めて高かった。人々の実に70%とか80%はピロリ菌に感染していたという(1992年にAsakaらが残した論文によるデータ)。

しかし、上水道が整備され、都市の衛生環境が改善すると、ピロリ菌の感染率はドンドン下がり始めた。近年の報告によると、小児の感染率は平均して5%程度らしい。

するとどういうことが起こるか?

「胃においてピロリ菌の影響があらわれる人の数が減る」のである。

胃炎が減ってハッピー、もう胃カメラやる人もいなくなるね、だったらこちらも仕事が減ってうれしかったのだが……。

実は……話はそうカンタンではなかった。

ピロリ菌による胃炎がなくなると、今までピロリ菌にばかり関わってきたことで見えていなかった、「ピロリ菌以外の原因による胃の病気」が、割合は少ないながらも見られるようになってきた。

ピロリ菌がいる胃を戦時中に例えるとしよう。胃が戦闘モードで、世の中が荒廃し、凶悪な犯罪と破壊が蔓延していた時代には、主に「戦争による犯罪」をチェックする必要があった。

しかし、戦争が起こらなくなったらすぐ世の中が平和になるかというとそうでもなかったのだ。まあ割合としてはかなり平和な部分が増えたのだけれど、今度は、金融とか投資関連の知的な犯罪だとか、オレオレ詐欺や転売ヤーなどのこしゃくでむかつく犯罪のような、「それまでもあったのかもしれないけれど、戦争に比べると目立たなかった犯罪」がはっきりと顕在化してきたのである。

ピロリ菌と胃の関係もこれといっしょだ。一部の痛み止めなどによる「薬剤性の胃炎」の影響や、自己免疫性胃炎(A型胃炎)と呼ばれる特殊な胃炎などが、思ったよりも世の中には存在することがわかってきた。

このため、「戦時下ではこのようなことがおこり、がんが出てくる」という、過去に積み上げた知見が、うまく使えない場面が出てきたのだ。

科学が発展し、衛生環境がよくなったのは誰にとってもいいこと。しかし、環境が変われば犯罪のスタイルも変わる。警察官が現代型の犯罪のために取り締まりのやり方を変えていくように、病理医もまた、今までとはちがった「ヤマイの理」にあわせて、取り締まり方法を変えていかなければいけない。




胃生検のみかたはどんどん難しくなっている。患者の人生がかかったことだ、こちらも気合いを入れて取り組むわけだが、ここだけの話、「難しい診断」に燃えるタイプの(ややめんどくさい性格の)医者というのもいて、ぶっちゃけ、そういう人は病理医にもいっぱいいて、だからまあなんとかなると思うよ。

2020年3月11日水曜日

鼻毛萌え

友人からのLINEにあったのだが、なんで鼻毛って抜くと痛いんだろうなということを考えていた。この話は「病理の話」でやってもいいんだろうけれど、くだらないのでこちらでやる。

たぶん「抜かせたくない」んだろうな。

今のところそういう結論になる。「誰が」抜かせたくないかというとそれは……ええと……自然の摂理というか……遺伝子にとってそっちのほうが有利だったというか……

ここまで書けばピンとくる人もいるだろう。鼻毛を抜いても痛く感じない人類と、鼻毛を抜いたら痛い人類が昔いたのではないかと思う。なぜその2つにわかれたか? いや、2つだけじゃなくて、きっといろんな人がいたのだ。ちょっと蚊に刺されるだけでも激痛で動けなくなってしまうタイプの人間(?)もいたと思うし、髪をぜんぶひっこぬいても平気な顔をしているタイプの人間もいたんじゃないかな。

でもそういう人たちはみな、生き残るうえでちょっとだけ不利だったのだろう。あくまでちょっとだけだ。でも長い時間をかけてそういう「ちょっと不利な人」は淘汰された。

髪の毛がないからといって直ちに生命に危険が及ぶモノではないということは、世の中にこれだけ坊主頭の人やはげ頭の人が平気で暮らしている事実を思えばだれもが理解できるだろう。それでも、長い年月の中で、「髪の毛を抜くことに抵抗感のない人類」は、ちょっとだけ生き残りにくかったのではないか。

それは頭部に対する物理防御的な意味かもしれないし、あるいは、保温とか保湿とか、顔面を含めた頭部のメンテナンスの意味でも不利だったのではないかと思う。常在菌、体感センサー、いろいろな意義があったのだと思う。別にかみさまが意図を持って生やしたわけではなくて、生えていることでけっこう有利なことが「結果的に」多かった、というのが現代の科学が考えている「説」である。

で、ま、鼻毛も、できればそのまま生やしておくべき機構だったのだ。だから抜くことはあまりいいことじゃないんだよという意味でアラームセンサーを残しておいたのだろう。





しかしこのことをさりげなくツイッターに書いておいたら一通のクソリプがきた。

「痛みだけではなく涙も出るのはなぜでしょう?」




……知らない……わかんない……たしかに、鼻毛を抜いたときの痛み、さらにはほかの痛み(小指を机の角にぶつけるとかひじをテーブルの角にぶつけるとか)も、痛いだけではなくて涙が出るね。あれはなぜだろう。

悲しいから泣いているというわけでもないよね。

痛み刺激が加わったときに涙が出てくるのはなぜ? 単に顔がゆがむから? うーん。それにも実は合目的な理由があるのだろうか? 痛いと涙が出る人の方が、歴史の中で生存しやすかったとでもいうのだろうか?



痛くて涙を流している人に対してほのかに浮かぶ「萌えの感情」みたいなものが、あるいは、社会を存続させていく上では有利だった、とか……。

わかんないけど……。

2020年3月10日火曜日

病理の話(422) 子宮筋腫を見る

子宮筋腫という病気はちゃんと調べるとかなりいろいろなことがインターネットだけでもわかるようになっている。なぜならありふれているからだ。

こうやって書くと、実際に子宮筋腫で苦しんでいる人はあまりいい気分はしない。ありふれているからなんだっていうのか!

でも「頻度」というのはとても大事なのである。頻度、すなわち世の中にどれくらいその病気にかかる人がいるか、というのは、その病気を診断する上で超絶大事な情報なのだ。だから医療者はつい数字にこだわってしまう。申し訳ない。

さて子宮筋腫がどれくらいありふれているかというと、だいたい成人女性の3~4人に1人は持っている。それってもう病気じゃなくて個性じゃん、と言いたいレベルの頻度である。当たらずとも遠からずで、子宮筋腫という病気があるからといって一生それに不都合を感じずに生きていく人も多い。要は程度問題なのだ。

子宮筋腫という言葉を解体すると、子宮+筋+腫 となる。子宮の筋肉が、腫(できもの)としてカタマリをつくって大きくなる病態をさす。できものというとがんを思ってひやひやしてしまうが、子宮筋腫は良性(がんではない)の腫瘍(しゅよう、できもの)である。だからソレ自身が転移したり臓器の機能を大幅に下げたり体の体力をめちゃくちゃに奪ったりはしない。

しかし、良性腫瘍であってもできものとして大きくはなる。そもそも子宮のサイズは、握りこぶしをつくったときに折りたたんだ親指以外の四本の指の体積くらい(こんな例え話はじめて使った)だが、子宮筋腫は人間の頭より大きくなることもあって、つまり元々あった子宮よりもできもののほうが大きいこともままある。すると、子宮が傾いたり、内膜の部分を押しつけたりして、ちょっとめんどうなことになる場合がある。

めんどうというと、たとえば月経痛が激しくなるとか、月経時の出血量が多くなるとか。妊娠しづらくなるなどをさす。

で、まあ、あまりに大きいとか、具体的に症状があって不都合だというときには、手術によって筋腫をとりのぞくことがある。子宮そのものをとらなければいけないケースもあるが、筋腫の部分だけをけずりとってくることもある。また、子宮筋腫は元が子宮の筋肉で、女性ホルモンの影響を受ける性質をもっているので、女性ホルモンをとめたり、女性ホルモンの影響を失わせるようなクスリを用いると、子宮筋腫もしなしなと縮むことがある。ホルモン療法だ。

かようにいろんな治療法がある中で、手術によって筋腫をとられたばあい、とったものはすべて病理医が見る。ようやく病理医が出てきた!



良性のできもの。ときにパイナップルくらいの、ときにレモンくらいの、ときにドリアンくらいのサイズの……ドリアンのサイズよくわからないけれど……カタマリを、ぼくらはまず、目で見る。

目で見ると、子宮の筋肉が一様にもこもこ増えている様子がわかる。一様に増えているからナイフで切ると断面もだいたい一様だ。

だからその一部だけを切り出して来て、プレパラートに加工して顕微鏡でみる。

顕微鏡でも、子宮の筋肉によく似た細胞が、やっぱり一様に増えていることがわかる。

そこまでいけば診断は確定だ。「子宮筋腫です!」

……まあ臨床医も患者も「知っとる」となる。当たり前のことを当たり前と確認する仕事……。




なのだけれど。ごくごくまれに。

断面が一様ではない場合がある。多様というか多彩というか。部位によって見た目が異なるというか……。

そうすると病理医の心拍数が上がる。むっ、断面に違う性状が見てとれるぞ。

肉眼で見た目が違うのならば、顕微鏡で見てもきっと違う細胞がいるに違いない!

そういう場合は、プレパラートを作る場所を増やす。普通の一様な子宮筋腫なら、せいぜい1枚とか2枚とか作っておけば十分なプレパラートを、5枚とか10枚とか作ることにする。なるべく広い範囲の細胞を確認するのだ。

そうして細胞をみる……。

単に血の巡りが悪くなって、筋腫の細胞がへたって死んでしまっているようなケースが多い。この場合はひとあんしんである。「変性した筋腫です!」でおわりだ。

しかし、まれに、まれに、「がんの性質をもった細胞」がいる場合もある。この場合は診断名が「子宮筋腫」ではなく、「子宮・平滑筋肉腫」と変わる。がんの一種だ。

こうなると再発や転移のリスクを考えながらかなり複合的な戦略で治療に望まないといけなくなる。




こう書くと、まるで子宮筋腫の病理診断は「あたってほしくない宝探し」みたいな雰囲気をおびてしまうが、実際に子宮筋腫をとってみたら実はがん(子宮平滑筋肉腫)だった、という「診断の逆転」が起こる可能性はかなり低い。

そもそも病理医が断面をみて「あっ、多彩だ」と気づくケースは、手術の前にCTやMRIですでに「断面の多彩さ」が予想されている。だから病理医ができものをナイフで切るまでの間に、産婦人科医が「もしかしたら低確率でがんかもしれない」と情報をくれるのだ。その情報は患者にも共有される。だから病理診断をやってみてはじめてわかる、あけてびっくりタイプのがんというのは近年は激減している。臨床医がCTやMRIでまったくがんを疑っていない子宮筋層のカタマリが、顕微鏡診断によってはじめて「がんと判定される」ことは極めて珍しい。

大多数のケースでは、病理医がいちいち子宮筋腫の細胞を確認しなくても、CTやMRIが良性だろうと判断していればそれはほぼ間違いなく「良性」である。

そして、この「ほぼ間違いなく」を、「間違いなく」に近づけるために必要なのが、顕微鏡ではなく、「病理医が目で断面を見ること」である。

病理医にとっての武器は顕微鏡ではなくて自分の目なのだ。ぶっちゃけぼくらは顕微鏡を見る前に診断の9割を終えていることが一般的である。顕微鏡は「念のための確認」に使うものなのだ。一般的な話として、だけれど。

2020年3月9日月曜日

ランボー怒りの誤ふぁぼ

誰かを罵倒・叱責するときの心には、批難する相手を下に見る感情が潜んでいるように思う。

自分よりもがんばっている存在、自分よりもいい性格をしている人、自分よりがんばって働いている人をけなすことは難しいだろう。

あるいは、自分と同じくらい、あるいは自分が理解できる範囲でその人なりにやろうとしている人のことも、悪く言えないものだ。

相手が自分と対等で、別個で、互いが孤高の存在であると感じていれば、まず、他人に対して強く当たることはできないはずなのだ。




最近よくタイムラインで目にするのだけれど、

「相手を下に見たいから、相手のことを悪く言うために、相手の悪さを探す」

という行動がある。

許せない事実があるから怒るのではない。

下に見たい人がまずいて、怒ることでその人より上に立ちたい。

その人がそれまでにとってきた行動、あるいはとっていない行動の中から、怒りに合致するようなできごとを組み上げて怒る。だから、対象の行動が変化し、あるいは心を入れ替えたとしても、怒りは決して収まらない。

その人が自分よりも上にいること、あるいは自分と対等にいることが許せないという感情なのだ。

その人を自分より下に引きずり下ろすために、ナンクセをつけて感情を投げつける。



ぼくはネット上に存在する怒りのほとんどが、何かを是正したいという目標を持っていないと思った。ネットの人々が怒るのは、いつだって、相手より上に立つことを目的としている、という仮説を立てた。




ところがこの仮説は間違っていた。




「ネット上に存在する怒りのほとんど」ではなく、「この世に存在する怒りのほとんど」だった。仮説は不十分であり棄却された。申し訳なかった。また仮説から立て直さなければいけない。腹立たしいことである。

2020年3月6日金曜日

病理の話(421) 膵管生検を見る

先日小学生に取り囲まれた。「おいちょっとジャンプしてみろ」と言われたのでジャンプした(チャリンチャリン)。「何かおもしろいこと言え」と言われたので一人で四千頭身のコントをやった。すると何が気にくわなかったのかはわからないが拳や足でめったうちにされた。そのあとアンパンマンに出てくるカバオのマネをしたら少し許してくれた。

つまりはそうやっていじめられていたのだが、一人の子どもが「医者なら体の中にある全部のナイゾウを今から言え、言えなければ靴紐をへんな結び方にする」と極めて残虐なことを言った。そこで頭頂部から足のつま先までを思い浮かべながら考えられるすべての臓器を口にしたら小学生たちはちりぢりになって逃げていった。世に言う長坂橋の戦いである。なお靴紐はひそかに解かれていた。

さてこのとき、子ども達が「おおー」と反応した臓器としては、下垂体や副甲状腺などがある。逆に、心臓や肺は驚かれなかった。腹の中にあるたいていの臓器のことはみな知っていた、小学生はなかなかあなどれない。胃とか肝臓などと言うと、つまんねえと殴る蹴るの暴行に及ぶなどした。しかし、あまり知名度がなかったのは膵臓(すいぞう)。あることは知っているが何をしているかはしらないという子どもが多かった。膵臓にはロマンがあるらしい。

膵臓はかなり強力な酵素を作る臓器である。また、酵素とは別にホルモンも作る。専門的な用語でいうと、外分泌臓器と内分泌臓器がフュージョンしている。……今の一文の中ではフュージョンという言葉がもっとも専門的に見えるが実はこれはぼくがちょっとかっこいいかなと思ってまぜた非医学用語なので気を付けて欲しい。専門的なのは外分泌と内分泌のほうだ。フュージョンは天下無敵の合体おとうさんである。……その話は今日はしない。

膵臓が作る酵素は、タンパク質を消化するはたらきがあって、膵液(すいえき)というサラサラの液体に含まれている。体の真ん中、胃の後ろやや下側に位置する膵臓は細長くて、小樽にある「かま栄」で売っているある種のカマボコにやや似た形状であり(わからない人はわからないまま人生を歩んでください)、中身がしっかりと詰まっているが内部には直径2~3 mm程度の膵管(すいかん)と呼ばれる管が貫通している。まあたいていの臓器には何かしらが貫通している。なぜかというと、カタマリを作っている臓器が作り出した物質を外に出すための通路が必要だからだ。肝臓の中にも胆管が貫通しているし、副腎の中には血管が貫通しているのである。ちなみに貫通している、と書くと医学めいてくるので専門的な文章が書きたい人はひたすら何かを貫通させるとよい。よくない。



膵臓は十二指腸という臓器に頭から突っ込んでいて、膵液を作っては十二指腸の中に流し込む。もちろん、膵管を通じてだ。大変に重要な臓器だが、低確率でがんが出現する。たいていのがんは膵管から出てくる。なので、膵臓のがんの検査を進めるときには、膵管の中から細胞を採取してきて、病理医にみせる必要がある。ようやく病理医が出てきた。



さて膵管というのは先ほども書いたが直径が2 mmそこそこしかない。

そこに極めて細いマジックハンドもしくはブラシ的なものをつっこむ。膵臓自体をぶち壊さないように気を付けて。そして採ってくる細胞……これが……そうそういっぱいあるわけはないのだ。

イメージでいうと、インスタント珈琲を飲み終わったあとにカップの下に沈んでいる沈殿物があるだろう。あれを指でそっと触る。そしたら指先に粉っぽいものがいくつかくっついてくる。だいたい膵管から採取してくる細胞なんてのはああいう粉に近い。たまにでかい粉もある、くらいのものだ。粉ごときで、がんか、がんでないのかを判断しなければいけない。そういう仕事がある。

で、その粉を、ただガラスの上に載っけて顕微鏡でみる細胞診という検査もあるのだが、病理医は粉をさらに斬鉄剣でうすぎりにして、ペラッペラにしてから断面を見るということをする。こちらの断面観察のほうが一般的だ。

ちょっとしか採れてないから細胞の性状がわかりにくいこともある。すると、病理医はときに以下のようなレポートを書かねばならない。

「不十分な検体(insufficient material)。診断できません」

でもね、患者からすると、苦しい思いをして膵臓から細胞を採ってきて(膵臓まで到達する際に、胃カメラを十二指腸まで押し込んで、十二指腸から膵臓に向かってアプローチすることが多い)、その結果が「不十分」と言われるとくやしいではないか。

実は内科の主治医もくやしいのである。くやしいどうしがぼくのほうを見て、すねを蹴ってくる。

だからここで病理医は必殺技を使うのだ。これは本当に強力だから覚えておくといい。まあ病理医以外が覚えたところで活用する機会はないけれど。

それは、「再度斬鉄剣」である。

「斬鉄剣リターンズ」だ。

「斬鉄剣 2nd season」でもいい。

要は、プレパラートを作り足すのだ。




粉のように細かい標本を斬鉄剣で斬って断面を見る、といった。しかし斬った粉がそれで完全になくなってしまうとは限らない。粉がさらに粉微塵になったものがまだ残っている。それをさらにプレパラートにするのである。Deeper serial section(深切り連続切片)などという。

粉を再度斬ったところで粉じゃねぇか、と思うかもしれないが、細胞というのはそもそも直径が数ミクロンしかないものなので、粉を切り直すだけでもけっこう様相が変わるのである。そうやって病理医は必死で、微小な検体から情報を増やす。「もし、がんがそこにあるのなら、絶対に見逃さない」ために。

限界はある。しかし限界を決めるのが我々であってはいけない。




靴紐を結びます。

2020年3月5日木曜日

非日常って雑な言葉ですよね

あらゆる出張がなくなっているのでちまちまと論文を書いたりしている、それでもまだ時間は空くのだ。思ったよりも外出するタイプの仕事が多かったのだな、とあらためて気づく。

これだけ家にいる時間が長くなったらブログなんていくらでも書けそうなものだが、いつもと暮らし方が変わってしまったせいか、ブログの書きためストックはぐんぐんと減っていく一方だ。ひまだから書けるというものではまったくないらしい。そういうのは作家のサボりの言い訳だと思っていた。ぼくは作家ではないのに同じ気持ちを味わうことができる。一種のVRだ。違うけど。

ぼくはそもそも書く職業ではない、と言うべきなのかもしれないが、病理医というのは結局のところ文章で人を納得させる仕事なので、一周回って本職は書く仕事だと言い切っても差し支えない。先日、先輩と話していて、ぼくはおそらく1か月に10万字くらいの文章を作り続けているという話になった。まあそんなものだろう、この仕事をしていれば。とにかくキーボードを壊す。

医師免許を取ってもうすぐ17年目の春がくる。博士課程の4年間を除けば、病理医として没頭して13年目だということだ。干支が一回りするくらい書き続けているのだから、そろそろ、脳がいやよいやよと言っていても指が勝手にブログを書くくらいでちょうどいいはずなのだけれど、そうはならなかった。たぶんこの先もそうはならないだろう。本職は書く仕事だ、しかし、本能で書く人間ではないのだ。そんな人がどれだけいるのかぼくにはわからない。書く仕事と隠し事とは同じひらがなで作られているのだな、もう10万回くらいどこかで言われてそうな話だけれど今知った。

時間と内容に制限がかかっているときのほうが何かをきちんと書ける。時間は空いているし何を書いてもいいよと言われても立ち往生だ。立ち往生している最中の気持ちと向き合うことはけっこうおもしろい、だからだろうか、こうしてブログのような場所をずっと設けている。ホームページ・ビルダーの時代からだ、かれこれ20年くらい、句読点の打ち方と改行の仕方がわからないままに、

えんえんと誰にほめられるでもない文章を書いている。



世にはそこそこな割合で、Twitterを気持ち悪がる人がいる。誰にともなくつぶやいて何になるの、などと言われる。けれどもぼくはブログのほうが、ホームページのほうが、魔法のiらんどのほうがずっと気持ち悪かったのに何をいまさら、と思う。いまさらTwitterなんかを揶揄しているのか、世の人々は、遅れてるな。一方的に破裂して散っていく文章を直視しないから、その程度の浅い語彙で気持ち悪がっていられるんだ。見くびって欲しい。

2020年3月4日水曜日

病理の話(420) 胆石症でとってきた胆嚢を見る

手術で体の中からとってきたもののうち、「手で持つことができるもの」は、それが大きかろうが小さかろうが、とにかく病理医が顕微鏡でみることになっている。

「手で持つことができないもの」……たとえば血液とか尿とか腹水あたりは、病理診断されない「ことが多い」。なんにでも例外はあるけれど。

とりあえずカタチあるものを採ってきたら、ものの大きさを問わずに病理診断が行われる、と覚えておいてほしい。

胃カメラで胃粘膜をつまんでとってきた小指の爪より小さい粘膜のカケラも顕微鏡で見るし。

「胆石症でとってきた胆嚢(たんのう)まるごと」も顕微鏡で見る。

すなわち、外科で手術が1件行われたら、病理医の仕事は必ずといっていいほど1つ増える。

……ちなみに、整形外科でアキレス腱をつないだからといって、病理医の出る幕はない。なぜかというとアキレス腱をつなぐ手術のときに、体から何か病気を取り出すわけではないからね。

「修復」系の手術のときには病理医の出番はなし。

「摘出」だとまず間違いなく裏で病理医が暗躍している。

そう覚えておくといい。……いや、特にお得な情報ではないが……。





さて、胆嚢(たんのう)の嚢という字はフクロという意味である。

サイズとしては、手のひらに乗るくらい。ただしのびちぢみする。

形状としては、サンタさんのかついでいるフクロ。まさにあれ。

中には肝臓で作られた胆汁が詰まっている。子どもが喜ばなさそうなプレゼントだが、体にとってはとても大事だ。主に脂質の吸収に役立つほか、体内の鉄分の代謝にも関わっている。まあ詳しくは書かない。

この胆嚢を、体の中からわざわざ手術などというめんどうなことをやってとってくるのは、なぜか?

「なぜとってくるのか?」

このギモンをきちんと考えないと病理診断はできない。




胆嚢が手術でとられるきっかけとして最も多いのはおそらく胆石症だ。胆嚢の中に石ができてしまい、これがサンタフクロの入口を詰まらせてしまう。ずっと詰まりっぱなしならまだいいのかもしれないが、この石は動くので、胆汁が入ってくるときはずれて、胆汁がフクロから出て行こうとするときに詰まる。すると、だんだんフクロがパンパンに膨れてくる。

胆嚢は、食事のあとしばらくすると、ぎゅっとしぼんで胆汁を十二指腸の中に押し出すのだが、石が詰まっていると、この「しぼんでおしだす」ができなくなる。

買ったばかりのマヨネーズをいくらしぼっても中身が出てこないとき、あなたは気づくだろう。「アッ、中ブタはずしてなかった(笑)」

もしそのことに気づかずにマヨネーズをギュンギュン絞り続けていたらどうなる?



いや、マヨネーズならどうもならないけど。胆嚢の場合は痛みが出てくるのである。

これが「胆石症」だ。

ひどいときは、石による詰まりで痛みが出るだけでなく、胆嚢に炎症を起こす。

石をうまく砕くことができない場合には、胆嚢を手術でとる。




そうやって出てきた胆嚢を、病理医はみる。フクロを切り開いて中を見る。粘膜にへんな腫瘍(できもの)ができていないか? 滅多にできていないけれど、もし万が一見逃したらいやだからきちんと見る。とにかく病理医というのは、できものとかがんを見いだすことに文字通り命をかけているから、つい粘膜は細かめに見てしまう。

そして、無事、胆嚢の粘膜が、微細な顆粒模様で、ちょっと編み目のようになっていて、詳しく説明する気はまったくないけれど、何を言いたいかというと「石によってちょっと痛めつけられた粘膜だ」と思って安心するわけだ。そしたら次に、ナイフでフクロをさらにきって、割面(かつめん)を見る。

割面って断面と同じ意味なんだけどなぜかぼくらは割面という。なんでだろうな。医者は難しいことを言わないとくるってしまう病気なのかもしれない。

で、ま、割面をみたら、胆嚢の壁が厚くなっていたり、ときには壁の中にも石がはまりこんでいたりする。そういったものを逐一チェックして、胆嚢に何が起こっていたかを考える。

考えた結果が、臨床医や患者が考えているように、「胆石症」によるものとしてマッチするならよいのだ。そこにはなんの矛盾もない。




しかし……もし、胆嚢をみて考えて、「これは……何かほかに病気があるかもしれない」と思ったら、病理医はそこをとことん追究する必要があるのである。だってわざわざ入院してさ、麻酔かけて、手術でとってきた胆嚢なんだから、患者と医学のために思いっきり利用し尽くさないと、誰にとってももったいないじゃない。




その後、胆嚢の一部については顕微鏡もつかってじっくりと見る。偶然、まだ育つ前のがんを見つける確率もゼロではないのでしっかり見る。まあそれを見つけたところであまり意味はないかもしれないけれどね。でもちゃんと見る。

さぼらずに顕微鏡を見ていると、ときおり、新しい学術情報、たとえば、「胆嚢の粘膜をみるだけで、膵臓と胆管の関係が予測できるぞ」みたいなすげぇ話を耳にすることがある。

えっ、胆嚢を顕微鏡でみるだけで、胆嚢以外に何が起こっているかを見通すことができるんだって?

喜んでその目で胆嚢を見続けると、確かに、論文や教科書が言っているように、胆嚢をみるだけで胆嚢以外の情報が得られることがわかる。




なーんてことをずっとやっている。それが病理医であり、病理診断という仕事だ。

2020年3月3日火曜日

味方にリフレクをかけてサンダガを反射させるやり方かもしれない

応援して尊敬して深呼吸したらいいと思う。ぼくはそういうことをかつてつぶやいたのだけれど、あまりに、あまりにも、批判と軽蔑と怒声が多いのではないか、と思ったのだ。


そしてこれはもっぱら自戒なのである。


ぼくは10万人近くの人々をツイッターでフォローしている。これはひとつの町くらいの規模だ。テレビを見ながらタイムラインをぼうっと眺めていると(特に表示を選別しないサードクライアントがいい)、たいていのテレビ番組には誰かが反応している。人気スポーツの国際試合があれば多くの人が。マニアックなアニメを見ていても少数の人が。

だからなんとなく社会の縮図を見た気にはなっている。けれどもそれは間違いだ。

ぼくがフォローしているアカウントの大半は、「フォローされたこと」をきっかけにぼくからフォローを返している。

ということは、少なくともぼくがフォローしている人というのは、ぼくことを一瞬でもよいと思った人ばかりなのだ。

タイムラインが荒れているということは、かつてぼくの性質と近いものを感じた人が「荒れている」状態を指す。

そこが荒れているならば、ぼく自身も、いつ荒れてもおかしくない。




ぼくが「応援と尊敬と深呼吸をしたらいい」と思うとき、それは、ぼくに向かって言っている。ぼくの何かを反映した人たちにそれが必要だと思っているのだから。ぼくのことばはいつでもぼくに向けられている。

それを見て「そうだな」と思う人が、主にぼくをフォローしているはずなのだ。自戒すればおそらく人の役にも立つだろう。




そこまでである。そこまででしかない。



2020年3月2日月曜日

病理の話(419) 子宮頚部を見る

子宮頚がんについては、検診がある。ある年齢の女性にとってはおなじみの検査であろう。

「細胞診(サイボウシン)」という。

特に症状がなく健康な人にも行う検査なので、あまり強烈に痛いことをしてはメリットが消えてしまう。病気で血を抜かれるのもいやなものだが、健康なのに痛い思いをするのはもっといやだろう。

だから、子宮の入り口の部分をブラシでこすって、ブラシにくっついてきた細胞をみる。これだと、人体をむしりとるのに比べればはるかにダメージが小さい。検診向きなのだ。

ある意味、ほかの臓器のがん検診ではできないやり方だ。だって、たいていの臓器は「内臓」というくらいだから内部にある。ブラシなんて届かない。ブラシでこすろうと思ったら、胃カメラとか大腸カメラとか、気管支鏡みたいに、体の奥にチューブをつっこまなければいけないし、そもそも肝臓とか膵臓みたいな「中身の詰まった臓器」の場合はそもそもブラシのつっこみようがないのである。

しかし子宮頚部は、膣に向かって「開口」しているので、体の外からちょっとがんばればアプローチできる。「人の外壁部分に最も近い臓器」のひとつと言えるだろう。




さて、ブラシにくっついてきた細胞は、本来体の中にあったときの「整然とした並び方」を失ってしまう。UFOキャッチャーでひとつだけぬいぐるみをとってきたら、もうほかのぬいぐるみとどう並んでいたかはわからないだろう?

だからサイボウ診は、病理医が顕微鏡で細胞をみる仕事の中ではかなり難しい部類に入る。

もし仮に、ブラシではなく、子宮頚部を小さなマジックハンド状のものでつまみとってくれば、もうすこし、細胞と細胞が織りなす配列みたいなものがはっきり見てとれるのだけれど。ある程度のカタマリを採取したほうが、病理医は細胞のふるまいかたを見やすい。

病理医は、この「カタマリを見る」ほうがとくいだ。「組織診(ソシキシン)」という。

ブラシで細胞を1~10個くらいずつとってくるような「サイボウ診」は、ソシキ診に比べると正直苦手に感じる病理医も多い。ぼくはサイボウ診の指導医という資格も持っているので、いちおう両方とも見るんだけど、ソシキ診に比べるとサイボウ診のほうが少しハラハラすることはある。

でも、大丈夫!

サイボウ診については、臨床検査技師が詳しい。細胞診検査士という資格が別にあって(※めっちゃくちゃにとるのが難しい)、これを取得して毎日細胞診を見ている技師さんというのは、細胞1個1個のすがたを見極めるのがとてもうまい。

だから病理医は、サイボウ診の序盤から中盤にかけての仕事はほとんど技師さんにまかせている。彼らの方が圧倒的に得意だから分業をする。そして、ここぞというときには、ソシキ診の知識を持って病理医が介入し、診断に責任を負う。



さてそのようなサイボウ診で何をみるかというと、子宮頚部の細胞の「顔付き」をみる。具体的には、細胞核の異常や、核と細胞質の割合、細胞がきちんと働こうとしているかどうか(分化の異常がないか)などをみる。核の中にはDNAが入っており、細胞が悪性化しようとする際にはほぼ間違いなく核に変化が出る。それを見極めるのだ。




子宮頚部にはそこそこの頻度でがんが出るのだが、その発生の原因としてかなり大きなウェイトを占めているのが、有名なヒトパピローマウイルス(HPV)である。

子宮は、体の外壁部分に近いだけあって、さまざまな外敵の侵入と戦う臓器だ。そんな外敵の筆頭がHPV。

HPVは、基本的には性行為によって感染するのだが、実は非常にありふれたウイルスだ。あまり知られていないかもしれないけれど、HPVは、子宮頚部に感染してもたいていはそのあと消失する。かぜといっしょだ。ウイルスというのは人体にとりついても、そのうち倒されることの方が多い。

しかし一部は「持続感染」をする。棲み着いてしまう。その棲み着いたHPVが、たまたま「性格が悪い方のHPV」だと、長い時間(10年以上)をかけて、子宮頚部にがんが発生する。「性格がさほど悪くないHPV」だとがんまでは到らないとされる。

この「長い時間をかけて」というのがミソで……。

子宮頚部に限らず、ほとんどのがんは、「細胞ががんになろうとしはじめてから」、「実際に人間の生命に関わるような振る舞いをするまで」の間がとても長い。10年、20年という単位で変化することが多いのだ。

そして、子宮頚部は、HPVが原因としてかなりキワだっているので(ここまで原因がはっきりしているがんはほとんどない)、ある種のHPVの持続感染が生じて、子宮頚部ががんに向かって進んでいく間に時間の余裕がある。

それを外からブラシでチェックする。がんに向かって進んでいく細胞を見つけたら、がんの手前で治療してしまえばいい。





こんなにうまいこと行く臓器ってぜんぜんないんだよ!

あらゆる臓器にブラシが届けばいいか? いや、HPVほどはっきりしたリスクがわかっていないと、がんになるかならないかの事前予測が難しすぎて、検査の意義が不透明になってしまう。





数あるがんの中でも、子宮頚がんは「撲滅」……とまではいかないかもしれないが「大幅にかかる人を減らす」ことが可能なのである。とりあえずHPVワクチンがもっと一般に広がればなあ……。せめて検診だけは受けて欲しいと思うけれど……元を絶てばいいのになあ……。