あとから今のことを振り返ったら、どういう気持ちになるだろうな。
きっと、具体的に困っているあれこれのこと、細部については時間とともに忘れてしまって、ただ、不自由で動きづらい感覚だけが、うっすらと消しカスみたいに残り続けるのではないかと思う。
思い出すのは阪神大震災のことだ。あのときぼくは知人が被災した。ぼくにとっては大学受験より前のできごとだったが、知人はもともと同級生で、成績がよくて関西方面のすごい高校に入って、そこから東大を狙うつもりだという話を風のうわさに聞いていた。
ある日、被災地で撮影された報道写真に、その知人がたまたま映り込んでいたのでぼくは声をあげてしまった。うわあ! Rくんが! うつってる!!
……ところが阪神大震災についてぼくが思い出すのはたったこれだけなのだ。どうかしていると思う。「そんな日々ではなかったはずだ」。でもぼくに残ったのはただひとかけらの、「自分の喉からでた声におどろくぼくの感情だけ」なのである。
なぜそんなに残酷に忘却してしまうのだろう。
こういうことはほかにもいろいろある。大事な人間の死、誰もが眉をひそめた大犯罪、テロ、戦争、災厄の数々。
その都度、誰かが悲鳴をあげ、日常は非日常へと変わったはずなのに、時間が暴力的にそれらを整地して、「非日常がたまに訪れるという日常」みたいなことになってしまっている。
あるいは世の人々は、そうやって忘れていくのがこわいから、怒ったり、なじったり、強い感情を周りに刻み付けることで、自分の脳から失われそうになっても、周りにぶっぱなした拳銃のあと、さらには跳弾の痕を、ときどき忘れたころに目にすることで、自分が少しでも忘却しないようにしているのではないか。
Rくんはその後ふつうに東京大学理科三類に合格してしまったのでぼくは笑った。お互いが中学を卒業したあとは一度も会っていない。塾で出会った相手だったから、同窓会で会うこともない。おそらく死ぬまで会わないだろう。
でもぼくの放った弾丸はそれ一発だった。ぼくはRくんが合格した際に浮かべたであろう笑顔と、阪神大震災の記憶とを、同じフォルダの隣同士に並べてしまっている。
……Rくんが合格したときにぼくは彼の横にいたわけではないから、彼の笑顔なんて、これは一切、見たことのないうその記憶だ。
つまりぼくは、阪神大震災についての思い出を、「うその記憶」ひとつでなんとか今につないでいるということになる。
いったい脳とは何をやっているのか。
本当に脳とはなぜそういうことをしてしまうのか。
これから何年かあとに、振り返って2020年を思い出すとき。
ぼくは今のこの大騒ぎを、何に紐づけて思い出すだろう。Twitterの世論斬り? マスメディアの人たちの口元に浮かんだ泡?
なんとなく、であるが、このころはよく本を読んで、フェアとかやったなー、でも一部のイベントは中止になっちゃったんだよなー、そこで動画配信とかしたなー、よくやったよ、芸能人でもないのにさ、汗をかいて、なーんて記憶で紐づけてしまって、混沌と絶望の記憶なんてすっかり忘れてしまっているのではないか、と思う。
本当に全く脳とはいったい、なぜそういうことを、やってしまうのだろうか。