2020年3月9日月曜日

ランボー怒りの誤ふぁぼ

誰かを罵倒・叱責するときの心には、批難する相手を下に見る感情が潜んでいるように思う。

自分よりもがんばっている存在、自分よりもいい性格をしている人、自分よりがんばって働いている人をけなすことは難しいだろう。

あるいは、自分と同じくらい、あるいは自分が理解できる範囲でその人なりにやろうとしている人のことも、悪く言えないものだ。

相手が自分と対等で、別個で、互いが孤高の存在であると感じていれば、まず、他人に対して強く当たることはできないはずなのだ。




最近よくタイムラインで目にするのだけれど、

「相手を下に見たいから、相手のことを悪く言うために、相手の悪さを探す」

という行動がある。

許せない事実があるから怒るのではない。

下に見たい人がまずいて、怒ることでその人より上に立ちたい。

その人がそれまでにとってきた行動、あるいはとっていない行動の中から、怒りに合致するようなできごとを組み上げて怒る。だから、対象の行動が変化し、あるいは心を入れ替えたとしても、怒りは決して収まらない。

その人が自分よりも上にいること、あるいは自分と対等にいることが許せないという感情なのだ。

その人を自分より下に引きずり下ろすために、ナンクセをつけて感情を投げつける。



ぼくはネット上に存在する怒りのほとんどが、何かを是正したいという目標を持っていないと思った。ネットの人々が怒るのは、いつだって、相手より上に立つことを目的としている、という仮説を立てた。




ところがこの仮説は間違っていた。




「ネット上に存在する怒りのほとんど」ではなく、「この世に存在する怒りのほとんど」だった。仮説は不十分であり棄却された。申し訳なかった。また仮説から立て直さなければいけない。腹立たしいことである。