2020年3月19日木曜日

藤やんとうれしーを見て考えてみた

ローカルテレビ番組「水曜どうでしょう」のディレクター陣ふたりがやっている、「水曜どうでそうTV」というイカした名前のYouTubeチャンネルがある。

https://www.youtube.com/channel/UCLPelMHFSPTVzeZudKsIxzQ

まったくふざけた名前だ。

いまや登録者数は30万人越えである。ぼくはこれがはじまったころからずーっと見ているがやはりディレクター陣ふたりはコンテンツ能力が高いなーと思う。すでに世にある「水曜どうでしょう」という番組の底力であることはいいとしても、その番組を露骨に匂わせながらも微妙に違うことをやりつつ、新たにこうして何十万という人々のワンクリックを引き起こした彼らは、やはり「やり手」だ(プロのYouTuberとタッグを組んでいるにしても)。

そういえば、「チャンネル登録者数が少ないときから見ていたでかいYouTuber」というのを、ぼくははじめて体験しているんだなあ、と気づいた。ぼくは、ヒカキンもはじめしゃちょーもでかくなってから知ったし、そもそもでかいYouTuber以外はほとんど目にすることがない(唯一あるとしたらそれはVtuberくらいのものだ)。

そのため、「すでにでかくなっている人のやりくち」はマネはできないにしろある程度わかる。しかし「YouTuberがでかくなるまでに歩んできた道のり」は全く見たことがなかった。このたび、水曜どうでそうTVで、ぼくはその過程をずっと目にしている。

これが、楽しい。

ああ、地下アイドルを追い掛け続けたらその人がテレビに出ました、みたいな感覚ね、と理解されるかもしれない。「大きくなる前から知っていたマウント」というのもある。しかしぼくが「水曜どうでそうTV」の歩んできた歴史をみておもしろがっているのは、「古参ぶる」という感情とは少し違うようにも思う。

なんというか、職業モノのノンフィクションを読んでいるような楽しさがある。

ぼくは自分の歩む道の先にYouTuberという選択はない。でも、YouTuberというひとつの「職業人」が、どういう手段、どういう進路を歩んでいるかというのを眺めるということは、興味本位の好奇心を強く刺激してくれるのである。




ぼくはYouTuberを見ることを自分の仕事に活かそうとは思っていない。まるで違う職業だから、リスペクトしつつ他人事として見ている。ただ、偶然参考になったこともいくつかある。

そのひとつは「居場所」というものを再考するきっかけになった。

テレビやラジオの世代からすると、デジタルネイティブ世代がYouTubeで登録しているチャンネルの数は何倍も、何十倍も多い場合がある。ものすごい数のチャンネルの、どこに熱心に所属するでも無く、あたかもチャンネルとチャンネルの間に蜘蛛の巣のように糸を張って、その中心にふわっと暮らして、ときおり糸を伝って次々とチャンネルを飛び石ジャンプしていくような感覚……。これが現代的な「居場所」のありかたの一つなのかな、と気づいた。

その一方で、一部の人々は、「ある時期はとにかく同じYouTubeばかり見ている」ということをする。ブームがあるのだ。いったん何かにはまったらとことんそのチャンネルに登録してある動画を見続ける。ストックがなくなるまで! ストックがなくなったら、なんとチャンネル登録を解除して、また次のチャンネルを登録しにいく。こちらは蜘蛛というより、ヤドカリのような雰囲気だ。

これらはぼくら40越えのおじさんが「居場所」と聞いて連想しているものとは少々異なるように思う。

蜘蛛とヤドカリ、まるで違う視聴体系だが、共通する点をあえて上げるならば、「情報がフローし続ける中で暮らす。決して一箇所のストックに依存しない」点だろう。

シェアハウス、シェアオフィス、民泊。ぼくらはすでにシェアインフォメーション、シェアライブラリーの暮らし方をしている。特に若者たちにその傾向は顕著だ。親や教師のような「絶対となるよりどころ」を決めずに、ふわふわと日替わりのセンセイにその都度必要なものを学ぶ暮らしに突入している。

彼らのそういう雰囲気を肌で感じ、自らとの断絶を強く察しながらも、ぼくは世にこれからも融け続けていくしかない。融けないわけにはいかない。世と断絶して仕事が出来る医療人なんて研究者くらいのものである。まあ病理医といっても半分研究者だ、と言う事もできるが……ぼくはできれば世に融けるほうをえらびたい。

そして今とうとつに、まるで違うことを考えた。

かなり強烈な仮定の話をする。もしこの先、ふしぎな制度改革や信じられないほどの大変化が起こって、大半の人々が「金を稼ぐ」という目的をうしなったとしたら……つまり、金を稼がなくても生きていけてしまうとしたら……らんぼうな仮定だけど「if」だから許して欲しい。

もし「金を稼ぐため」という活動をまったくやらなくてよくなったら、若者でなくとも、ぼくら大人も、「一箇所に依存して、準拠して暮らすこと」をやめてしまうのだろうか。

職場にいかなくていいのだ。

どこにいてもいいのだ。

だとしたらぼくら中年はやっぱりネットワークに融けるだろうか。




それとも、なお、どこかひとつの依り代みたいなところを求めるのだろうか。たとえばそれは「金の稼げない、居場所としての仕事場」みたいなことに、なり得るのだろうか。

YouTubeを見ながらそんなことをずっと考えていた。藤やんとうれしーは未だに人件費で赤字だ、ぜんぜんもうかっていないという。しかしそこそこ楽しそうである。