2022年5月31日火曜日

病理の話(661) カーブだったのかフォークだったのか

患者が病院や自宅で亡くなったとき、そこに「事件性がある」、もしくは「事件性があるかもしれない」ときには、法医解剖が行われる。これは警察の捜査にもかかわってくるので、やるとなったら基本的に患者の家族も医療者も断れない(※細部をめちゃくちゃ省略して書いていますのでご了承ください)。こういう解剖は昔からドラマなどで多く語られてきた。


一方で、患者の死が「病気によるもの」の場合、主治医と患者の家族、あるいは死ぬ前の患者自身が話し合って、上に書いたものとは別種類の解剖をすることがある。


それが「病理解剖」だ。


病理解剖にはさまざまな目的がある。病気を治療しながら患者とその家族と主治医・医療スタッフが、何か疑問に思ったことがあり、それが解決されなかった場合、あるいはなんらかの「モヤり」を感じた場合に、それを解き明かすというのが最も大きな目的だ。


「モヤり」は、わかりやすい例としては、「診断がうまくつけられなかった」とか、「診断はつけたが治療が思ったように効かなかった」なのだけれども、実際の臨床ではもう少し込み入っている。


あえてここで、たとえ話にスライドすることをお許し願いたい(実際の例はどうしても具体的な解剖症例のことを思い出してしまう)。




あなたはプロ野球選手で、バッターボックスに立っている。マウンドにはスゴ腕のピッチャーがいる。9回の裏だ。チームは2点差で負けているが、塁にはランナーが2人出ているので、ここであなたがホームランを打つと逆転することができる。


すごく大事な局面だ。


ピッチャーは直球のほかに、いくつかの変化球を投げられる。ここまでの試合で、カーブとスライダーはけっこう目にした。フォークも持っているが、今日はあまり投げていないようだ。


カウントは3ボール・2ストライク。次にストライクをとられたら三振、ボールをとれたらフォアボールというフルカウントだ。


ピッチャーが振りかぶって、投げるその瞬間、あなたはコーチから聞いていたある情報を思い出す。


(あのピッチャーは、変化球を投げるときに、アゴが微妙に前に出る)


クセだ。あなたはじつは、ピッチャーのクセを知っている。


ボールを投げる瞬間のピッチャーは確かにアゴが前に出ているように見えた。


(……変化球!)


直球に備えた構えから、とっさに重心をわずかに下げてタメを作り、タイミングを変化球打ちのそれに切り替える。


思った通り! 少し緩い速度の変化球だ! カーブ! そう思って、自分の「外角」に逃げるように落ちていくであろうボールにバットを……


と思ったら次の瞬間、ボールは内角低めに落ちてきた。あなたはぎりぎりのところでバットを止めた。


審判の判定は……ボール! 危ないところだった。思わず振ってしまうところだ。


あなたはフォアボールを選んだ。打てはしなかったが、まあいい。塁には出ることができた。




しかしあなたは……1塁に走りながら……モヤっている。

(今のはカーブじゃなくて、「シンカー」ではなかったか? そんな球、あいつ、投げられたか?)

モヤりながら、1塁につくと、ベースコーチも同じことを気にしていた。「おい、ちょっとタイムかけて、次の打者にサインで送るか? 今のシンカーだったよな? あのピッチャー、シンカーも投げるぞって。」



【選択肢】


A. うーん。それがわかったところで、なあ。こっちはもうフォアボールで塁に出たし。


B. そうしよう、このピッチャー、ここまで温存してたシンカーも投げ始めたっていう情報を伝えたら、次の打者はヒット打てるかもしれない。




ここで、「A.」を選ぶか、「B.」を選ぶかで、このチームの「微調整のうまさ」が異なる。


すでにフォアボールという結果で、ヒットは打てなかったけど、まあいいや、やれることはやったし、と満足してしまうのが「A.」だ。一打席ごとに「とにかくそいつが全力でやるしかねぇよな」みたいな雰囲気がチームに蔓延している。情報を次に申し送りしなければ、次のバッターは、あなたがひっかかりそうになった「カーブに見えるシンカー」に、今度は騙されてしまって三振に倒れるかもしれない。


一方、「B.」のほうは、試合の展開で出てきた「モヤり」をチームで共有しようとしている。場面ごとの結果がどうなっていようとも、その内容をチーム全体で分かち合って、経験を積んで、次の勝負でより精度の高い野球をしようと心がけている。





結局コーチは「A.」を選んだ。サインでは「こいつじつはシンカーもあるぞ!」みたいな複雑な連携は取れないと判断したのだ。そして次の打者は、結果的に、同じシンカーを投じられた。


そのシンカーもまた「ボール」となり、次の打者もフォアボールであった。連続フォアボール! 労せず1点が入って、これで1点差だ。チームは押せ押せである。相手ピッチャーも少し汗をかいている。


(なあんだ、わざわざ言わなくても大丈夫だったな。よかった、余計なことしなくて……)


と、あなたとコーチがほっとした次の打席。満塁で打席に望んだチーム最強のスラッガーは、「例のシンカー」であっさりと三振に倒れてしまった。これでゲームセットである。


結局、満塁からの押し出しフォアボールで1点を返すだけに終わってしまった。あなたとコーチは頭を抱えてしまった。


(あああ……なまじ次の打者が見極めただけに……あのシンカーのやばさをきちんと次に伝えられなかった……!!)






めちゃくちゃ長いたとえ話だったが、これと同じことが、病院の医療、そして病理解剖において起こりうる。


・今まで見たことのない変化球 → ある病気Aにかかった患者の検査結果が、普段あまり見たことのないかたちで現れること


・それはおそらくシンカー → その検査結果はたぶんこういうことだろうと説明は付くのだが、一度しか見ていないから確信が持てない。VTRで検証してみたいくらいだ。コーチや解析班といっしょに、みんなでじっくり見てみるしかない


・相手ピッチャーのクセはわりと見抜けていた → その病気に対してはエビデンスがあって、こう来たらこう対処する、というやり方もけっこう浸透している状態


・シンカーのせいでただちに三振したわけではない → ぎょっとする臨床経過にあわてて対処して、そのときはなんとかなった


・次の打者もシンカーにはだまされなかった → 医療者はさすがプロなので、多少予想外のことが起きても基本的にはうまく対処できる


・けれども次の次の打者はシンカーで三振してしまった → やはり情報が少ないパターンの病気にはうまく対処できないこともある


・経験者やコーチが、情報をチームで共有していれば……! → 主治医や病理医が、情報を病院内で共有していれば……!




まあこんな感じなんすよ。ほとんど野球の話になってしまった。

2022年5月30日月曜日

リアカーへの乗り換え

中年太り、中年たるみが進んでいる。

腕立て伏せや腹筋などはお金もかからないしスペースも要らない、なのになぜやらないのか? やればいいのでは? と思っていたが、最近ようやくわかった。筋肉が衰える理由。「筋肉を衰えさせたくない!」とがんばっている心がまず衰えるのだ。「ここで腕立て伏せをしたからと言ってなんなのだ」「ここで腹筋をしてお腹をしぼったからと言ってそれがどうだと言うのだ」という気持ちを着実に獲得している。結果、太り、たるむ。


老いに任せてゆるゆるとだめになっていく部分を許容しないと心がささくれだってしまうからしかたがない、くらいのスムースな言い訳がスラスラ頭から飛び出してくる。年の功というやつである。


そして老いには若さとは違う意味での金がかかる。10年以上前から買いそろえてきたスーツ、あれらが自分のハラ周りや尻周りとフィットしない。「太って入らない」というだけの話ではない(いちおう入りはするのだ)、シルエットがしっくりこないのだ。たるんだ体をおさめるためのスーツというのはおそらく型からして違うのだろう。30代前半のときに似合うと信じていたスーツはとっくにくたびれているのだが、それがくたびれた自分にうまいこと合うかというと、合わない。そろそろスーツを何着か新調すべきなのである。それも、青山のリクルートスーツではいかんのだ。つまりは金がかかる。


ハンカチやベルトも買い換えた方がいい。


ネクタイは……大丈夫かな……昔、祖母に誕生日ごとに2本ずつもらっていたネクタイが一生分ある。多少、流行りからずれてもいい。ネクタイはこれでいい。


時計をどうしよう。この10年で、時計を2本なくしてしまった。どちらもとても大切にしていたのだが。新しく買い換えてもまたなくすのではないかと思って、かれこれ5年くらい時計はしていない。スマホでいいといえばいいのだ、しかし、「老いにあわせて全身をコーディネートしなおす」にあたって、時計があったほうがよいのではないか、という気持ちはある。


ハットは? そんなのかぶったこともないからやめておく。


靴!


そうだ、靴だ。靴こそ買わなければいけないと思う。今にして思えばぼくはこれまでまともな靴を履いてこなかったし、それで何か苦労したことも、損したこともなかったけれど、今こそ、全身の老いを狭い表面積で受け止めているふたつの足裏のために、しっかりと選んだ靴を履くべきなのだ。あと、靴下。


これだけのものを買いそろえて維持し続けていくよりも、腕立て伏せや腹筋を毎日しっかりやって、「若い頃に揃えた服を長持ちさせる」とか、「若い頃とおなじセンスで服を選び続ける」ほうが、脳の負担は少なくて済むのではないか……と少しだけ思った。老いに抵抗することにはおそらく2種類ある。若かりしころの「初速の慣性」を失わないよう、トロッコの前方に伸びる線路をひたすらスイープして等速直線運動を試みることと、もうひとつ、「さっさとトロッコを降りて別のスケボーか何かに乗り換える」ことだ。スケボー? それは若すぎる、リアカーくらいで十分だろう。

2022年5月27日金曜日

病理の話(660) 2次元から3次元を予想する

病理医は、プレパラートという「ほぼ2次元」の情報から、細胞のありようを判断する。

しかし本来の細胞は、体内では「3次元」に配列している。

だからぼくらはいつも、「2次元の情報から3次元を予測する」ということを無意識にやっている。


図で説明しよう。



細胞を顕微鏡で見ると、「タマゴの断面」のように見える。黄身の部分が核、白身の部分が細胞質(しつ)、カラの部分が細胞膜(まく)である。

で、これらが並んでいるパターンを3つ用意した。

「A」では、白身のほとんどない細胞が押し合いへし合いしている。黄身同士は、互いが互いにはまりこむように、ほとんど接しているが、実際には黄身と黄身の間にうっすらと、白身やカラが見えている。

「B」では、黄身も白身も、重なっている。

「C」では、白身が幅広い細胞がくっついていて、黄身どうしの距離もすごく離れている。



これらは、プレパラートに乗っかった細胞を上から顕微鏡で見たときのイメージだ。では次に、「横から見たときのイメージ」を付け加えてみよう。




「A」と「B」との違いに着目してほしい。「A」では、横から見ても細胞は押し合いへし合いをしているのだが、「B」は、じつは細胞どうしが少しずれながら、縦に折り重なっているのである。


これらを、上から見ただけで想像できるものか? 人間の目や脳というのはよくできていて、ちょっと見方というか理屈を勉強すると、できるようになる。


「A」では、細胞の黄身どうしが「互いをへこませるように」接していた。そして黄身と黄身との間にはうっすらとスキマがあって、重なってはいない。

これに対して「B」では、細胞の黄身どうしが重なって見えているにもかかわらず、互いが互いを押し合っていない

押し合っているか、いないかの差が、上から見たときのニュアンスの違いとして現れている。




ついでに、「C」も見ると、おもしろいことがわかる。

「C」も、細胞同士が互いにぴたりと接しているという意味では「A」といっしょだ。しかし、「C」の場合は白身の部分がとても多いために、黄身どうしが接することはない。

「A」は、白身が少なすぎるという異常があるために、細胞が接するとあたかも黄身どうしが押し合うような像として見えているのである。よく考えてほしい。カラも白身もあるのに、黄身どうしが押し合う状態って……それ……相当白身が少なくて、カラもふにゃふにゃじゃないと、あり得ないよね? と。



このように、細胞の配列を頭の中で想像することで、細胞がどのように並んでいるかという「構造の変化」を見極めることができ、ちょっと頭を働かせると、「黄身と白身の比率(核・細胞質比)」にも思いを馳せることができる。


なお「A」は小細胞癌という病気に特徴的な構造だ。核・細胞質比が異常に高く、核がある程度やわらかく、かつ、細胞同士がぴったりと結合しているという条件が揃うと、この細胞像が出現する。「B」のように細胞が重積(折り重なること)する病気(たとえば腺癌)とは見え方が違う。細胞の性質による構造の違いを病理医は見分けて診断に結びつけるが、このとき、「ただなんとなく、経験的に、ぼくの主観で見分けています」だと診断されるほうは不安だ。見分けには絶対に根拠がいる。その根拠を言語化するのは、けっこう大変で、こうしてブログでも書きながら定期的に確認しておかないと、ときに、「あれ? どうしてこう見えるんだっけ?」と言いよどんでしまいがちである。言いよどむ病理医は信用されないので、わりとちゃんとトレーニングしておかないといけない。

2022年5月26日木曜日

じっくりコソコソ煮込みました

座り続けるためにも筋力が必要である。ふとももあたりが薄くなってきたせいか、長時間デスクにいると足先などがしびれてくる。できるだけ長く座って働くために、歩いたり走ったりを欠かしてはいけない。座業のためには下腿の筋力が必要なのだ。最強のデスクワーカーとなるためには定期的な運動をすべきなのである。


こういう「本末(?)の転倒」は、けっこうある。


患者と会わずに顕微鏡に向かう仕事をしているぼくは、「顕微鏡の世界」を解析して、他の医療者に解説する。「顕微鏡以外の何者とも会話せずに働く」ことがメインだけれども、その専門性をきちんと追求するにあたっては、自分がどれだけ独特なことをしているのかを周りに説明できる能力が必要だ。つまり、人とコミュニケーションせずに働くためには、コミュニケーション能力を鍛えるべきである。


まだある。


学会・研究会などで医療者相手に講演をする。講演が終わった後にアンケートをとり、どこがわかりにくかったか、というのをフィードバックしてもらう。ただしこのとき、「講演後にアンケートを書く人というのは、アンケートに何かを書いて伝えようという気持ちがある人」であることに注意が必要だ。アンケートを書いてくれた時点で、講演から何かを受け取って、感想がきちんと存在している人なのだ。逆に言えば、「講演を聞いてもなんかよくわからなかったし、どこがわからんのかもわかっていない人」は、アンケートを書かない。アンケートによって自分の講演を改良しようとするとき、アンケートを書かない人の話を聞くようにしなければいけないのである。


まだある。


あらゆる仕事はとにかくコミュニケーションだ。しかし、実際には、さまざまなディスコミュニケーションが存在する。人びとはみな、「自分なりのコミュニケーション手法」でしか世界と交われなくて、その手法というのはこの世にある言語の数よりも多い。「コミュニケーション能力を高めろ!」という目標はけっこうだが、自分なりの「言語能力」を高めたところで、そもそも違う言語で思考している人同士とは、いつまで経ってもコミュニケーションは良好にならない。極論すれば、「コミュニケーションなんか失敗したっていい、多少通じなくても仕事はできる」という状態にまでシステムを高めることのほうが大事ではないか。仕事がうまくいかない理由がすべてコミュニケーション・エラーに帰されてしまう状況こそ、あぶなすぎるのだ。すなわち、コミュニケーション効率を高めたい場面が発生したら、そこで真にやるべきは、コミュニケーションに頼らない部分でいかに仕事を盤石にすすめていくかと、コッソリ裏で考えておくことである。


まだある。


言葉を尽くして何かを伝えたいとき、できるだけ深い意図を知らしめたいとき、言葉を使えば使うほど読まれない。大量のニュアンスを伝えたいと思ったら短く書くに限る。



あるけばかっこういそげばかっこう(種田山頭火が登山をしながら読んだ句)

2022年5月25日水曜日

病理の話(659) 病理医の虚栄

臨床医に気軽に頼ってもらい、信用してもらうためのテクニック・ノウハウ。



1.電話はすぐ取る。


2.「○○科の○○ですが」と言われたタイミングで「おつかれさまです~」と言う。


3.「今いいですか?」と言われたら「もちろんです~」と言う。


4.不機嫌な声を出さない。自分の疲れは相手とは関係ない。


5.相談者の用件を優先順位の1位にしてその場で取り組む(どうしても手が離せない案件があるときは1位タイにして同時に取り組む)。


6.メールでの相談はまず「引き受けたこと」をいったんメール(プレリミナリーお返事)する。そして案件が解決したら本格的にメール(本報告)する。


7.デスクの向こうでひょこっと顔だけ出してこちらの忙しさを確認するタイプの人には最上級に優しく接する。


8.足音を立てて近づいてくる人には威勢良く立ち上がって握手でもするかのように正対して接する。


9.目の前で何かを相談されたとき、パソコンでID検索をする際に、キーボードを強く叩かない。いつも以上に静かに、かつ素早くキータッチする。「ダダダダ!ダン!」は威圧的なのでだめ。「ロロロロ、サロッ」くらい優雅に入力する。


10.コンサルトの根拠を述べたあとは教科書や論文の該当ページを追って知らせる。


11.相手の質問の難易度が「超簡単」なときには、「基本的なことをきちんと確認してくださって本当にありがとう」とお歳暮を贈るときの笑顔で答える。


12.相手の質問の難易度が「超絶難しい」ときには、「このような取り組み甲斐のあるクリニカル・クエスチョンをいただいたからには全力で悩んでしっかり考えるぞ」と千秋楽優勝決定戦で推しの力士が立ち会いをするときの真剣な顔で答える。


13.ここが一番重要かもしれないのだが、自分と話す相手となるべく「同じテンション」でしゃべるようにする。注文するたびに「はい喜んで!」を付けるタイプの居酒屋が嫌いな人もいる。ゆっくりしゃべる人ならこちらも一語あたりのニュアンスを強くしゃべるようにする。手早く要点だけを知りたい人には短時間に重要な情報を叩き込む。楽しそうに質問してくる人には楽しそうに答える。物静かにたずねてくる人には落ち着いて答える。


14.感染対策のためできなくなったが、研修医がデスクに来たときにはアメを渡していた。


15.いつも勉強をして、臨床医の最新の質問に対応できるようにがんばる。



2022年5月24日火曜日

カーテンのありがたみ

わりと身近に感染者が相次いだ。ぼく自身は、そのような人びとと接触歴があったわけではなく、旧来の濃厚接触の定義も満たさなかったので感染のリスクは低いと思った。しかし、短期間でけっこうな量の人が感染したので、念のために1週間程度の自主隔離生活をした。

自主隔離すなわち格安ホテル生活である。

幸いこの間、発熱したりノドが痛くなったりすることもなく、体調は変わらず、そのうちに周囲の感染状況も落ち着いたので、ホテル暮らしは短期間で終了とした。若いときなら「たまにはホテルもいいよね!」くらいのワクワク感があったかもしれないけれど、今回はぶっちゃけ辛かったので、周囲の感染状況が落ち着かずに延長とか、最悪自分が感染してさらに別のホテル生活とかなっていたらそうとうしんどかったろう。家に帰ったとき、久々に「自宅って最高だな」と思った。

もっとも、「どうみん割」というgo toキャンペーン的なものを使った結果、宿代はとても安かったので、それはよかった。クーポン(1泊につき2000円分!)も付いてきて、これがなんと飲食店だけではなくてコンビニで使えるので、これ幸いと三食の足しにさせていただいた。コンビニの飯で十分満足できる。ただ、ホテルに「周囲のおいしい居酒屋マップ」が置いてあったのは恨めしかった。

ホテルは相当狭かった。タオルはきれいだったが床は年期が入っていた。窓は外側に向かって開くタイプのよくあるやつで、カーテンがなく、木の板を閉めて遮光するタイプのものだった。この「カーテンなし、イチかゼロかの遮光(丸見えか、まったく見えないか)」というのが思いのほかストレスだった。安宿で布のカーテンを使わない理由は、火災対策とかクリーニングしなくて済むとか、客がロープ代わりに伝って窓から金を払わずに逃げるのを防ぐとか(?)、いくつか理由があるのだろう。

雨戸みたいな遮光しかできないと、夜、風を入れようと思って窓を開けただけで、明るい室内が外から丸見えになってしまう。普段そんなことは考えもしなかったが、「カーテン」というのは素晴らしい発明なのだと思い知った。グラデーションをかけることがだいじなのだ。もやっと区画することがだいじなのだ。全部見えるか一切見えないかの「間」にぼくはいつも救われていたのかもしれない、ということをあらためて感じた。

部屋の壁がどれだけ薄いかがわからず、最初、テレビやYouTubeの音を絞り目にしていた。でも何時になっても隣の音が一切聞こえてこないので、なんだ、壁は厚いのか、と思って、でもまあ仕事で疲れていたからさっさと寝たところ、夜中になって隣からすすり泣く声が聞こえてくる。最初はどうせ性的な声だろうと思ったのだけれど、聞こえてくる声はどう考えても嗚咽なのだ。やはりこのホテルは壁も薄かった、そして、寝る前のあの静けさは、単に宿泊者がみな息を殺していたからだったのだと気づいた。ここは宿泊者もゼロになることを強いられるタイプのホテルなのだ。隣が泣き止む前にまた寝直したら今度は朝までぐっすり寝られた。申し訳ないがぼくはメンタルが強いのである。ホテル生活中に2キロ太ってしまった。

2022年5月23日月曜日

病理の話(658) がんは一枚岩ではないということ

がんという病気にはいろいろな難しさがある。

その難しさを考える上で、必要な知識として、がんは「一枚岩ではない」ということを知っておくとよい。がんというのは体内で「一種類の病気」として存在しているわけではないのだ。

……と言うと、これまたちょっと語弊があるんだよなあ。

「えっ、じゃあ、がんの患者はいくつもの病気に同時にかかっているってこと?」と言われると、なんかそれとも違う。ここは丁寧に、ちゃんと詳しく説明しよう。

がんは、「ワルモノが徒党を組んだ」状態だ。ヤクザでもマフィアでも軍隊でもよいが、とにかく「複数の、ものをそれぞれ考える悪者達が、集まって悪さをしている状態」を思い浮かべて欲しい。


1.そいつらにはある程度共通のルールがあり:共通した遺伝子変異を持っており


2.そいつらは互いに協力しあうことがあり:がんはmicroRNAやサイトカインなどを使って相互に情報連携をしており


3.かつ、互いに、ちょっと他人同士である:がん細胞は場所によって少しずつぜんぶ違う



こういうのをイメージしないと説明のつかない部分がけっこうあるのだ。



たとえば、「理論上は効くはずの抗がん剤がイマイチ効かない」ときのことを考える。残念だがそういうがんはたまにある。このとき、がんを隅々まで観察すると、こんなことが起こっていることがある。


「あるがん細胞は、周りを強く破壊しながら、大量の血液を奪いとって栄養や酸素を手に入れ、ウハウハしている。しかし、同じ患者の別の場所にあるがん細胞は、たまたま血液があまり流れてこない場所にいたため、今にも倒れそうなヘロヘロの状態で、かろうじてそこにへばりついて生きている」


ここで、血液に恵まれているがん細胞と、血液をうまく使えていないがん細胞、どちらのほうが「あとあとまで生き残る」だろうか?


前者? 栄養が多い方?


ま、そう思いがちだよね。でもよく考えて欲しい。


抗がん剤というのは血液に乗ってがん細胞に届くのだ。日ごろから体の中の血液をうまくかすめとって生きているがん細胞は、ひとたび抗がん剤治療がはじまると、血液に乗ってやってきた高濃度の薬剤にさらされる。ひとたまりもない。どんどん倒されていく。


しかし、だ。がんの中には、「何が楽しいのかわからないが、すみっこで暮らしていて、栄養もろくにゲットせずにヘロヘロになっている謎の陰キャ」みたいなのもまじっている。こういうやつらは、なんと、「抗がん剤もあまりやってこない場所」にいるので、治療がはじまっても以外と生き延びてしまったりするのだ。


まったくとんでもないことだ。このような「同じがんと言っても、場所によってぜんぜん違うキャラ」が混じっていることが、がんの治療を難しくする一因となっている。人間社会は多様性を大事にせよとかいろいろ騒がしいけれども、がんはとっくに「多様性」を使いこなして、しぶとく存在感を出してきているのである。

2022年5月20日金曜日

ホテルの一室にいる。出張中だ。壁からせり出した細くて狭いテーブル的スペースの上にPCを置くと目の前に鏡がある。自分がPCを入力しているところがちらちら見切れている。髭が伸びている。汚いものだ。目の下が真っ黒だなと思って手が一瞬止まる。でも誰もそんなところ見ていないのだからどうでもいいなと思ってまた手を動かしていく。

TweetDeckのタイムライン、「病理医」で常時検索しているタブの中に、ある未成年の芸能人が病理医になるとかならないとか言うニュースが流れ続けている。「下品だ」と感じる。こうしてまた少しTwitterが、いや、Twitterで目立つために気軽に他人の人生にいっちょかみするやり方が嫌いになる。





かつて、古いドラマの番組宣伝の一環で、病理医になりたいと中学生が発言したとき、ぼくはとてもほほえましい気分になった。しかしそれ以上に、この話題で俺たち大人が必要以上にはしゃいで盛り上がるのはあさましいと感じた。

以来、Twitterでも現実の病理学講義や講演でも、くだんの芸能人のことには一切触れていない。

学生勧誘、病理・夏の学校、「病理医に耳目を集めたいタイミング」はいくらでもあったが、そこでぼくが芸能人の話を出したことは一度もない。それは「ハラスメント」に思えた。さまざまな未来がありえる未成年の発言ひとつをずっと「利用」し続けている大人たちを汚いと思う。なぜその汚さがわからないのか? 不思議だ。



未成年を利用して勧誘しようとしている姿。



相手が芸能人なら何を言ってもいいと感じている人間のありよう。






何度目かの芸能ニュース以来、まいにち、「病理医」や「病理学」の検索結果がおおにぎわいである。そこにはある種の打算があるように思える。例の芸能人はTwitterの裏アカウントも持っているかもしれない、もし本当に将来病理医になりたいのならば、きっとTwitterやInstagramで病理のことを検索するかもしれない、それにそなえて、病理学や病理診断についてのことを置いておけば、検索でひっかけて自分のことを見つけてくれるかもしれない。

というエロい下心。




有名な人が何かの病気で亡くなると、その病気で検索する人が増えることを見越して、一部の医者は「病名で検索してひっかかるだろう記事」をTwitterに張り付ける。その一部は、「芸能ニュースをきっかけにして不安になった当事者」を救うことにもつながるだろう、すべてを否定するつもりはない。けれども中には、あきらかに、「私はその病気に遭遇したことがあるぞ、どうだ、すごいだろう」くらいの内容しか含んでいないクソみたいな自己アピール100%のブログ記事も含まれている。





目の下が真っ黒だ。手が一瞬止まる。でも、うん、そうなんだ、そういうものなんだ。そこでどうやっていくか、ぼくがどう考えていくかということなんだ。怒りを透徹させるようなより強い知性が手に入ったらいいと思ってじっと自分の痙攣する指先を眺めて落ち着きを取り戻しにかかる。うまくいかない。でも、やっていくしかないのだ。

2022年5月19日木曜日

病理の話(657) 細胞は保険をかけている

こないだ教科書読んでて、へぇー! って思ったことがあったので、自分のために書き残しておきます。

細胞の中には、どの細胞であっても必ず、「DNA」が含まれている。……あ、必ずじゃないか、成熟した赤血球は核がなくなっちゃうからな。まあ例外はともかくとして、基本的にはDNAが含まれている。

で、このDNA、キズが付くことがあるんですね。めったにつかないけど、たまに傷つく。

DNAにキズがつくとまずいんですよ。DNAってのは細胞を「運用」していくためのプログラムなので。

プログラムに「バグ」があるままでパソコン動かしたらエラーになるじゃない。

だから、細胞は、「DNAにキズがついたらそれを直す仕組み」というのを、複数持っているんですね。



そう、


「複数」


持っているんですね。ひとつじゃないの。まずここをね、あらためてぼくは、「へぇー!」って思った。いちおう習ったんだけどな。あんまりそこ、気にしてなかった。でも今になって、それ、すげえなって思った。


株式会社「細胞」がね、プログラマーを雇っているわけですよ。それも、「バグ取り専用部隊」みたいなのを、複数。

幾人かで、それぞれ違うやりかたで、バグ(プログラムのエラー)を常に監視して、直してくれてるわけ。

ははぁー、そこまでしてようやく、この、精巧な人体というメカニズムが動いていくんだなあ、とね、ぼくはこんなにおじさんになってから、はじめて理解したような感じです。学生のときはなんだかここんとこあんまり感動しなかった。




でね。



「がん」という病気があるでしょう。あれ、DNAにエラーがいっぱいあるんですよ。だから、通常の細胞とは異なったふるまいをしてしまう。

がんって、バグった細胞なのよね。

ということは、ですよ。ここのところもぼくは習ったはずなんだけど、学生時代にはあんまり気にしていなかったんだけどさ。

「バグったがん」を直そうとする、体内の仕組みも、あるってことじゃないですか。

それもね、「複数」あるって言ったでしょ。



それだけ仕組みがあるのに、なお「がん」が、バグったままでいられるってのは、これ、なんかちょっとおかしいんじゃないの? って、気づいた人がいるんですね。


そして研究をした人がいる。偉いなあ。頭いいなあ。


研究の結果、「がん細胞は、バグ取り部隊の目をすり抜けるような仕組みをもっている」ってのがわかってるんですね。ひゃー! って感動するわ。すごい話だな。

「がんはDNAのエラーによって生じる」だけじゃないんだね。

「がんはDNAのエラーによって生じるし、そのバグを直す仕組みをも回避するような憎たらしいことをやっている」

って言う話だったんですよ。めちゃくちゃ頭のいい犯罪者みたいなことをしている。




でね。「抗がん剤」ってあるでしょ。

めちゃくちゃ種類あるんですけどね。

抗がん剤の中には、「バグとりシステムを逃れようとする細胞をたたく」やつがあるそうですよ。もうここまでくると「化かし合い」だなって思っちゃった。バカ試合じゃないよ。






細胞は、自分がバグらないようにいくつもの保険をかけていて。

がんは、その「保険」をも乗り越えてくるような憎たらしいことになっていて。

で、「保険を乗り越えてくるようなやつはろくなやつじゃねえ!」って判断で、薬を利かせようとする人のいとなみがある。

あーなんかもうほんと、勉強しよう、と思いましたね。今日は以上です。

2022年5月18日水曜日

この世で一番くだらないお金の話

新しい名刺を受け取った。他人のではない、自分のである。日本医学会総会の展示委員会WG(ワーキンググループ)という肩書きがついている。


この名刺を、学会などの際に、企業ブースに持っていって渡して学会協賛のお手伝いをしてほしい、ということである。


学会には金がかかる。その金は税金から出るわけではないし、学会員たちから徴収する1万数千円クラスの会費だけでもペイしない。要は、製薬企業、機器メーカー、医療系ベンチャー企業などが、学会に宣伝用のブースを出すかわりに多額のお金をくれるので、それを用いて医学の祭典を運営していくのである。そうやってできている。そうやって、長年やってきた。


でもその原則も、近年崩れ去ろうとしている。


感染症禍によって、学会はオンラインが当たり前になった。オンラインが中心になれば「展示場の企業ブース」は閑古鳥だ。学会場に人がわんさかいたからこそ、学会場に企業は金を出したのだ。人が来ない学会場には金をかけられない。オンラインになればそこに人は集まるのではないかって? わざわざ企業のCMを見るためにURLをクリックするような暇人はいない。スマホでニュースを読むときに端っこにポップアップする広告をまじめに読んでいるやつがどれだけいるだろうか? 学会であんなオンライン広告、できるわけがない。


学会の会場をそぞろ歩いて、目に留まった最新の装置がすごそうだなと思ってふらっと立ち寄る、というのがいわゆる「宣伝効果」。そういった「ふらふら歩く感覚」がインターネット上の学会では経験できない。これ、みんな、盲点だったのである。みんな、自分の興味があるセッションを、歩かずにデスクから直で見に行って、セッションが終わればすぐにブラウザを閉じて仕事に戻れて、オンラインサイコー! メリットしかない! とか思っていたが、これまで広告を出して学会を裏から支えていた企業は一律に頭をかかえていたのだ。


いいじゃん、お金もらわなくて。学術活動なんだから、自前でやれば。わざわざ都心のでかいホテルを借りようとするからいかんのだろう。いっそ、ぜんぶ、オンラインにしてしまえば安く済むんじゃないの?


……いや、オンラインも金はかかるのであった。多くの学会員たちにライブやオンデマンドで動画を配信するシステムは、既存のYouTubeなどを借用するだけではうまく成り立たない。学術発表内容の中には患者の個人情報なども(いくら綿密にマスクしているとは言え)含まれていることがあるし、学会参加者以外も自在にアクセスできるような場所に動画を置いてしまうと学会参加費の意味がなくなるし、抄録をつくり、告知をうち、参加者をつのって、検索システムを充実させて、という作業はいずれも無償のボランティアではむりだ。


学術だって金がかかるのだ。だって、人が生きてやることなのだから。


むしろ学会はオンラインにすると「余計に金がかかる」。Zoomのエンタープライズプランくらいで学会がやれれば苦労はないのだが、同時にいくつもの会場でたくさんのセッションをやるのが学会のいいところなので、既存のウェブミーティングシステムの、1つのIDで1つの配信、しかもせいぜい500人の同時視聴では話にならない。Zoomをはじめとするオンラインミーティングアプリ側もそれをよくわかっている。けっこうな額をかけなければ、最新の双方向ウェブ会議(しかも同時に7,8個のセッションを進行する)は達成できない。



学会にどのように、商魂をからませていくのか。患者のために、医療のために、無償で奉仕していく学求の徒、それらのボランティア精神とあくなき向上心とで確かに医療は成り立っているが、じつは、それだけではなく、箱代とか紙代とかネット代とか、ほかの人たちがこっそり支えていたのだ、お金で。

それを忘れて、「俺は金をかけずに学問をやれる」なんて言っている人たちは、単純に視野が狭い。というか、わかりやすく言えば、


「金をかけずにやれる研究だけでは、研究の多様性は担保できない」


のである。



というわけで今は過渡期だ。学術とお金の間をどう考えて行くのか、ウェブ会議システムがもたらした急速な波にどう対処していくかの答えはまだない。とりあえずぼくは、アナログな、じつにアナログな、「学会の名刺をもらって企業の人たちと仲良くする」という仕事を割り振られた。できることはがんばりたい。問題は、この先まだ当分、ぼくはどんな企業の人とも会う予定がないということだけだ。オンラインでぜんぶ済んじゃうからなあ。クラファン? やめろよ、そんな、いつまで続くかも予想できない寄付集めを毎年くり返して若い研究者たちの集まる場を作ろうなんて……考えるだけでも鳥肌が立つ。

2022年5月17日火曜日

病理の話(656) ショーではない病理診断の見せ方

神戸大学から学生さんが見学にいらっしゃった。見学と言っても1日、2日くらいの「観光的な見学」ではなくて、学外実習と呼ばれるわりとガチなやつで、2週間いていただく。


2週間あると、「病理診断」をやれる。


厳密な意味で言うと、まだ医師免許を持っていない学生が診断をしていいわけがないのだが、はたから見て「これ、病理の研修医が診断したのと何が違うの?」と思えるくらいのレベルには連れてくることができる。


ほかの臨床科の学生実習ではこうはいかない。患者さんの話を聞いてお腹を触らせてもらう(トレーニングと称して診療行為の一部を練習させていただく)ことは、実際に研修医がやっている「仕事」とは雲泥の差である。それはそうだろう、「患者に触ったり患者の内面に踏み込んだりしてもよい」という許可を得るために医師免許をとるのだから、資格がまだない人間が病院の中でやれることは少ない。


でも病理の場合は、「臓器の写真やプレパラート」という、患者から切り離された部分で診断を行うので、学生であってもやれることが多い。医師免許がないからといって「見てはだめ」ではないし、「考えてはだめ」ではない。やろうと思えば病理診断のかなり深い部分まで体験することはできる。


もっとも、深い部分まで体験することはできるが、病理診断学は浅い部分――これまで医学生が勉強してきた内容と地続きの内容――もかなり幅広くて、目新しくて、学べることが多い。「病理診断という世界の浅瀬を体験する」。湾になって外海の波があまり届かないところでダイビングの練習をするような感じだ。もちろん、水を舐めれば内海であっても溺れる。インストラクターなしでは怖くて潜れない。


というわけで、ぼくも学生さんに「浅瀬で泳いでもらう」わけだが、どのように研修をスタートすべきか?


今のところ、「見たものをすべて病理学的な用語で言語化する」ところがスタートラインだと思っている。


「言語化がスタート? そんなの決まってるジャン」


いやいやそんなことはない。かけだしの病理医はたいてい、言語化よりも先に、「絵合わせ」をやっているように思う。


たとえば、指導医(病理医)が学生さんに、選び抜いたプレパラートを渡して、

「この細胞が教科書のどの写真と似ているかを調べなさい」

とやるタイプの研修がある。この場合、まず学生は「教科書と首っ引きで似たもの探し」をする。

そして、見つけてきた写真をもって「仮の診断」をつける。

「Aという教科書に載っていたBの写真に似ているから、診断はBだと思います。」

それに指導医がつっこんでいく。こういう研修はありはありだ。


ただ、ぼくは絵合わせより先に……少なくとも絵合わせと同時に、言葉をきちんと学んでもらったほうがいい気がする。マンガ「阿・吽」で、中国に留学した空海が、密教を学ぶにあたってまずはサンスクリット語をマスターせよと命じられたシーンを思い出す。病理学で用いる言葉に早い段階で触れた方が、この世界をより縦横無尽に泳ぎ回れると思う。


だから研修は、「ぼくの言葉を仮OSとしてインストールする」ことからはじまる。



ぼく「一緒に手術検体の肉眼像を見ましょう。ここに消化管があって、パイプ状の検体が縦に切り開かれている。中に病変がありますね。ハウストラとよばれるひだがなくなって、塊状の病変が、このようなかたちで存在している。病変の辺縁の部分は隆起していて、ゴツゴツと外側に盛り上がるような形状で、内部には画然とした段差があって周囲よりも低くなっています。辺縁の隆起+内部の陥凹。このパターンを、取扱い規約では2型(潰瘍限局型)と呼びます。」

さらに、肉眼的に臓器をみて用いた言葉を、プレパラートで見る細胞の姿と照らし合わせていく。

この間、研修はずっと「受け身」である。



「受け身」を、どこから能動的な研修に切り替えてもらうかが、いつも難しい。黙ってぼくの話を聞いてもらうだけならば、それはYouTubeでやればいい。学生さんがわざわざ遠いところから当科に研修にやってくる意味が薄れる。

どこかの時点で、ぼくが言葉を叩き込むのではなく、自分で顕微鏡を見ながら言葉を探しに、学生さんが能動的に動けるようにしなければいけないと思う。仮インストールした「ぼくの言語というOS」を用いて、学生さんが「自分の言語というOS」にアップデートしてほしい。それを2週間でやってもらいたいのだ。



それをやろうと思うと、指導医がおもしろいと思う症例を、ショーアップして見せるだけではうまくいかない。それは「ぼくのOSがおもしろいと判定したもの」に過ぎないからだ。まあ、指導医がおもしろがってりゃ、研修医だって学生だっておもしろがるとは思うのだけれど、それではちょっと物足りないと感じる。気概的な意味で。



学生さんが自分自身で「これは……こういうことだろうか?」と、考えながら顕微鏡を見て、自分で顕微鏡を見ることで湧き上がってくる疑問をすかさず横にいる指導医に(自分の言葉で)質問できること。それに、その場で指導医からの回答がもらえるという状態。

これを作り上げることが必要になってくる。



ぼくがただしゃべるだけではなく、学生がただ座学をするだけでもない、指導医と研修者との関係が構築できるまでにかかる時間が最低2週間くらいだ。この2週間で、大腸癌の病理診断の「下書き」を、だいたい4例くらいできていると理想的である。2.5日かけて1例をじっくり見て、専門用語を覚え、診断のプロセスを覚え、もし将来自分が病理医になるとしたら、だいたいこうやって働けばいいのだなという「感覚」を掴んでもらう。


……と、理屈はまあ、固まってきたのだが……。実際には毎回四苦八苦だ。これでよかったのかなあ、ということをいつもブツブツ考えている。

2022年5月16日月曜日

好奇心の正体

3年ほど前に本屋で買ったとある哲学の本がある。読んですぐに挫折して、本棚に挿したままであった。


このたび、一念発起して冒頭から読み直して、数ヶ月かけてようやく読み終えた。この3年にほかにさまざまな本を読んで、多少なりとも哲学の本のスタイルに慣れてきたことが、今回読了できた理由ではあるだろう。


しかし、読み通したというのと、理解したというのはまったく別である。


かろうじて最後まで読めはしたものの、何を言っているのかは結局難しくてよくわからなかった。言い回しが難解なことにも理由があるのだということ、「困惑させられている今の自分の感情は、書き手・しゃべり手が狙って引き起こそうとしたものなのかもしれない」ということくらいまでは考えられるようになったけれど。


ま、最低限の読書はできた。何かを受け取ることはできたのだ。それはよかった。


読み終えた本を見ながら、この本はもともと、学生向けの講義なんだよな、ということを考える。さまざまなキャリア・立場の人が本のもととなった講義を受けたはずである。その中には、高校を出たばかりの10代の若者もいたことであろう。


その若者たちはいったいどうやってこんな難しい話を読めるのだろうか? 東大や京大で哲学をやっているような人たちのすごさに舌を巻く。まったく、地頭の違いにもほどがある。そういう人たちが「入門」と呼ぶような本を読むために、これだけ年を取らなければならず、これだけ挫折をくり返さなければならなかった自分の脳を、多少なりともいとおしく感じる。


合う・合わないの問題ではない。タイプ・指向性として片付けるべき話でもない。文系理系の別も関係ない。ぼくが決して100メートルを9秒台で走る過去がありえなかったように、ぼくはいつから何度やり直しても、20代でこのような本は読めなかったと思う。しかも、今も、「これを読める人はこうやって楽しむのだろうな」というニュアンスを理解している程度で、本当の意味で「読破」できたわけではない。ぼくがどうやってもたどり着けない場所に誰かが「いる」。


ぼくがどうやってもたどり着けない場所に誰かが「いる」ということに、ぼくはなぜか安心する。


「ぼくがどうやってもたどり着けない場所にいる人」の感じ取っているニュアンスが、たかだか数千文字くらいの漢字、かな、アルファベットで、「おおよそ届けてもらうことができる」ということに驚く。本というのはすごい。人間、おたがいに完全な他者であり、心のうちで感じ取っていることを完全に共有することは絶対にできないのだけれど、おたがいに完全な他者でありながらも、ある程度、「うわっつら」の部分くらいは、いちおう、やりとりできる状態になっているのがすごいと感じる。つまりは言語ってとんでもないなという話になるのだけれど、「言語ってとんでもないよな」ということを、哲学者たちはずーっと昔から、さまざまに変奏しながら言い続けているわけで、ぼくがそういった先人達の感動を、後追いで反復していくことに、小さな喜びとふしぎな嫉妬のような感情がわきでてくること、これこそが俗に言う「好奇心」の正体なのだろう。



病理AI研究のことを考えている。がんの細胞形態は、がんという現象の、一面の表現型でしかない。それを人が便宜的に、形態診断と称して、分類して、差異を見出して、一部のニュアンスについては省略・無視・切り捨てを行いながら、医療の役に立てようとする。H&E染色を用いて強調し、顕微鏡で観察し、免疫染色でさらにタンパク質の発現をピックアップして、これらを「病理学用語」を用いて表す。人はがんという概念を共有するにあたって、ものすごい数の記号を導入して、固有の特徴を記述して、医療の役に立てようとする。ところが病理AIは、人と一部は共通するけれど、一部はあきらかに異なる「記号」を用いるのだ。それを人は一方的に「ブラックボックス」などと言うけれど、病理AIがブラックボックスだと思っている人なんて最先端の研究者には一人もいない。病理AIというのは閉じた箱ではない、ただ、用いている言語体系が人のそれとは違い、あるいは、記号化すらせずにニュアンスだけを統計的に解析していることも、どうやら、ある。これはつまり……病理AIがヒートマップに出力していく結果を眺めていた深夜……これはもしや……「エクリチュールなきパロール」、もしくは、「シニフィエそのもの」なのではないか、いや、所詮は病理AIも、人が病理診断の役に立つように、人の言語で組んだプログラムなのだから、そんなことはあり得ないのだろうか……なんてことを考えながら、コーヒーを飲んで、舌をやけどした。

2022年5月13日金曜日

病理の話(655) 病理医にとっての緊急案件

患者さんからとってきた臓器の全部や一部に、さまざまな処理をしてプレパラートにして、顕微鏡で見るのがぼくら病理医の仕事である。


で、この仕事、「処理工程に時間がかかる」のが弱点だ。目の前で苦しんでいる患者がいて、そこから細胞を採取して、「オラッ すぐに見るぞ!」と言っても、プレパラートの準備には、薬品が浸透する時間などによって最低でも丸一日かかる。


だから病理診断は超特急の検査としては使えません。


もっとも、「丸一日」を短縮するための努力なら、ある。手術の最中に「迅速組織診」という判定を行うときは、普通なら薬品を使うところを「凍結処理」ですませてしまう。これによって1日かかるはずの工程がなんと15分程度で終わり、ただちに顕微鏡で見ることができる……。


……のだけれど、このときのプレパラートの質はとても低い。そこにがんがあるかないか、くらいはなんとか見分けられる(でも難しい)のだけれど、そのがんが「どのようながんか」は、判別できなかったりする。やはり、「本来必要な処理をぶっとばす」ことには無理があるのだ。


というわけで、原則的に、検体を採取してから病理医が顕微鏡で見るまでの間は1日くらい時間をかけたほうがよい。


ところで病理医は一度に何十人もの患者のプレパラートを相手にするが、これらをぜんぶ同時に見て考えられるわけではない。「検査室に持ってきた順番」にしたがって番号をふって、その番号順に顕微鏡を見ていくことになる。

たとえばぼくが月曜の午後に見るプレパラートの枚数は、150枚~250枚くらいだ。これだと、仮に、1枚30秒で見たとしても2時間かかる。しかも数枚見るごとに(=患者ごとに)「診断文を書く」必要があるからその時間も計算しなければいけない。もっというと、診断が難しい患者の場合は1枚30秒では到底おわらない。

したがって、ぼくが月曜の午後に仕上がったプレパラート(150枚~250枚)を見るのに、だいたい……平均して4時間くらいかかる。ちなみに10年目くらいの病理医だと、この量を見るのに12時間かかる。こないだ病理診断をはじめた研修医だと、プレパラート10枚見るのに2時間かかるから、250枚だと50時間かかる計算だ。

ここで言いたいのは「ぼくが早い」ということではない。医師20年目のぼくが診断しても、ある日しあがったプレパラートをはしからはしまで見るのに、「検体作成終了から4時間くらいかかっている」という事実のほうだ。「ぼくくらい早くても4時間かかる」ということを意識しないといけない。「プレパラートって1日でできるんでしょ?」というのは所詮は理論値にすぎない。実際にはもっとかかる。

で、ほかにもいろいろ、追加検査うんぬん、みたいな話があって、たいていの病理ラボでは「検体をとってから診断が帰ってくるまでに1週間くらいは覚悟してくださいね」という告知を出している。



ね。病理診断ってけっこう時間がかかる。

それがわかっているから、数日単位で急ぐようなケースでは、主治医はそもそも病理診断をオーダーしない。

正確には、病理診断を病理医に進めてもらっている裏で、診断が付く前にさっさと治療を開始している。だから病理医はそこまで急ぐ必要がない……ことが多い。

これが、俗に、「病理医の働き方はフレックス」と言われる理由である。平日の日中に、患者さんや主治医が病院にいる間にどうしても働かなければいけないわけではない。自分のライフスタイルにあわせて、夜間や、土日に、ゆっくり診断しても十分に人びとの役に立てるというスンポーなのである。




それはそれとして、ぼくは日ごろ、めちゃくちゃ急いで診断をしなければいけない案件を主に取り扱っている。

「病理診断に時間がかかるのはわかっています! わかっていますが! この病気は、病理診断で、○○タイプの□□病、というところまで決めてくれないと、治療がはじめられないのです! 数日単位で患者はどんどん悪くなる。ああ、1日でも、1時間でも早く、病理診断できませんか?」

というケースが、まれにあるのだ。逆に言えばまれにしかないのだけれど、まれにあるのだ。


Q. 「それって、がんってことですか?」


A. いえ、たいていのがんは、数日どころか、2か月くらい待つことも十分可能です。ただし、まれに、「数日単位で悪くなるタイプのがん」もある。さらに言えば、がんでなくても、数日単位でどんどん命に危険がせまる病気もほかにいくつかある。


そういうのは、主治医がピンとくる。で、ピンと来たらどうするかというと、真っ先にぼくに電話をかけてくる。なんなら外来で、患者さんの目の前で、ぼくに電話を……いや、さすがに患者さんは別室で待たせている(と信じたい)けれど。


主治医「あ、市原~? 今いい?」

ぼく「(タメかよ)いいよ~」

主治医「急ぎでさー」

ぼく「(病理診断用電子カルテを開いて待つ)あいよー」

主治医「IDが1234567の人なんだけどさーこれ40分後に検体出したらいつ結果出せる?」

ぼく「おk いい時間に検体出してくれてありがとう。ちょっと待ってね技師さんと相談する、どこまで結果ほしい? 主診断? サブタイプ?」

主治医「ベストはサブタイプ」

ぼく「おk」

主治医「じゃあとで電話ちょうだい」

ぼく「いやもうわかった 明日の午後に第一報 明後日の昼14時に第2報でファイナルレポート出すわ」

主治医「りょ」(ガチャ)



こういうことをたまーにやります。病理医がひとつの病院に常勤している意味ってこういうところにある気がする。あと技師さんいつもありがとうございます。なるべく時間外には働かなくて済むようにこれからもがんばります。

2022年5月12日木曜日

タイムマシンの価値

昔に戻りたいと思ったことは残念ながら一度も無い。ただ、忘れてしまいそうな昔の風景を、もう一度目に焼き付けて、これ以上忘れないようにしたいと思うことはある。そのためにならタイムマシンに乗りたいと思う。


大学時代によく通っていたのは、札幌市北区、地下鉄南北線・北18条駅から徒歩2分の「カネサビル」である。客のほとんどは北海道大学の学生、通称北大生で、ほかに近隣の大学や専門学校の学生も出入りしていたとは思うが、基本的に北大生、雑居ビル内のどの飲み屋にも北大生がパンパンに詰まっていた。ビルとは言うが2階までしかなく、エレベーターもなく、1階には入ったことのないカラオケスナックや居酒屋、飲み屋があって、でも当時は1階の店には一度も入ったことがなかった、店の名前も茫漠として全く思い出せない。狭く危険な階段を上がった先に、さらに4軒の飲み屋があって、その4軒にはそれぞれ入ったことがあった。どこがどこだったのかは一部記憶がおぼろげであるが、右奥にあった通称「つくし」と、左真ん中にあった「ばっぷ」の2軒に私は居着いていた。剣道部の先輩たちに連れられて入った「つくし」は、ママさんが一人で切り盛りしているメニューの多い居酒屋で、カウンターよりも畳の小上がりが人気で、かますチャーハンや米米チーズ、ナスときのこのチーズ焼きなどを好んでオーダーしていた。基本的にはビールをビンで飲んでいたが場が温まるとなぜかよく「一の蔵」を飲んでいた記憶がある。


金曜日の夜、剣道の稽古が終わるのが夜9時、そこから片付けて「つくし」にたどり着くとスタートは9時半。晩飯を食い酒を飲むと当時11時半だった終電までにお腹がいっぱいになることはなかった。先輩達はほぼ全員が大学のそばで一人暮らしをしていたが、当時まだ実家から通っていた私は途中で帰らなければいけないのが嫌で、実家から通えるにもかかわらず大学周辺に貸間を見つけて、家賃17000円の部屋で暮らすようになった。風呂なし、シャワー・トイレ共同、8畳一間で水道しかついていない小さな流しがあり、ドアにはボタンをプッシュするタイプの、いまどきトイレでも見なくなったチープなカギがついていた。貴重品は絶対に部屋の中に置いておけなかったが、貴重なものを持ち込めるほど金のある人間はあそこには住まなかったと思う。そんな部屋でできることなど何もないから私は次第にカネサビルへ足を向ける頻度が増えた。


剣道部員と行くときはとにかく「つくし」、それに対して一人で飯を食って酒を飲むときはもっぱら「ばっぷ」であった。「ばっぷ」はとにかく小さい店だった。引き戸をあげるとすぐ小上がりになっていて、その奥に「掘りごたつ」のように足をつっこむカウンターがあって、カウンターの向こうはマスターの作業するスペースだ。客がいていいスペースはせいぜい8畳程度だったのではないかと思う。そこは小さな秘密基地だった。明かりが必要以上に暗くないのがよかった。入り口に小さな靴置きスペースがあり、そこで靴を脱いで少し高くなった床の小上がりスペースには四角い座卓が2つあって、座卓にはそれぞれ4人ずつ座るともう店はいっぱいだ。たまに友人が友人を連れてくると貸し切り状態であった。私は部活の稽古がなかった火曜日や木曜日の夜、あるいは稽古があっても家に帰りたくない水曜日の夜遅くに「ばっぷ」を訪れ、小上がりをやりすごしてカウンターに一人で座って、マスターの作るキムチチャーハンを食ったあとはマイヤーズ・ラムをひたすらコーラで割りながら何時間もそこにいた。マッドマックスの1作目を見たのも、水曜どうでしょう・西日本カブを見たのも、NYのツインタワーに旅客機が突っ込んだのを見たのも、一人目の妻と出会ったのもすべて「ばっぷ」の店内だった。私は大学4年のときに東日本の大会で団体優勝し、その後、秋に剣道部の主将になるのだが、大晦日の直前あたりで医学部剣道部に稽古をしにきていた近隣の女子大の学生に反旗を翻され、「もっとゆっくり明るく楽しい剣道をする部活にしてほしい、ついては主将の稽古は厳しすぎるから剣道部をやめてほしい」と言われて何かどうでもよくなってしまい剣道部をやめた。その際、歴代の主将たちが私をなぐさめてくれたのも「ばっぷ」の店内だったし、明るく楽しくなった剣道部からなぜか女子部員たちが大量に辞めた次の年の春、私が主将だったときに副主将だった、今は新しい主将となっていた後輩が私と話したいと言って、「もう一度剣道部に戻ってきてくれませんか」と言ったのも「ばっぷ」だった。


「ばっぷ」のマスターはずっと「ばっぷ」をやっていたが、その後、とつぜん隣にあった「多良福」という店をなじみのママから買い取って、軽く改修して「タラフク食堂」という名前で新たに居酒屋をはじめた。旧「ばっぷ」は誰か知らない人に引き継いだのだようで、その後も長いこと「ばっぷ」のまま営業していたが、私は店には憑かず人に憑くタイプだったので「タラフク食堂」に通うようになった。このあたりの時系列はもはやよく覚えていない。私は「タラフク食堂」でもたまに朝まで飲んだりしていたと思うのだけれど、どの話が「ばっぷ」時代で、どれが「タラフク」時代なのかがこんがらがってきている。


大学院を卒業するころには次の人生が待っていた、荒波に揉まれているうちに波濤に洗われるように20代の記憶は失われてしまった。唯一こうして語れる「ばっぷ」とその周囲のことについても、じつはもうほとんど忘れてしまっていて、上に必死で書き起こしてみた内容以外、多くのことが脳から散逸してしまった。こんな、1日でブログに書ける程度のことしか経験しなかったわけではないのだが。

2022年5月11日水曜日

病理の話(654) いまどきの病理解剖

病理医って、あまり知られていないかもですけど、ときどき「解剖」をやります。


解剖って何をやるの、とか、何のためにやるの、みたいな記事をよく見ます。そこにはたいてい、「死因をあきらかにする」とか、「まれな病態を解明する」みたいなことが書いてある。その通りです。あってる。

ただし、実際の現場で行われている病理解剖はもっとはるかに豊かな意味を持つんですよ。今日はそういう話をする。



解剖は、「なんかちょっと診療がずれていったんだよなあ」の「ズレ」を補正するものである。




たとえば、ある病気だと診断が付きます。それは「がん」だったり、心臓・血管にかんするものだったり、脳神経にかかわるものだったり、ほかにもいろいろ、いっぱい。

「診断が付く」と、そこで治療法がぜんぶベルトコンベアーみたいに運ばれてきて、あとはなんか自動的に、ペッパー君が配膳するみたいに医療が進んでいくかというと、ぜんぜんそんなことはないわけ。

この薬は効くと言われてるよ~(かの有名な「エビデンス」があるよ)ということで、ある病気にある薬を使ったとしますね。

すると、その薬の効き方って、じつは毎回違うんです。めちゃくちゃしっくり効く(言い方)こともあるし、効きはいいんだけど副作用がけっこう強いなんてこともある。

なんかむくんでくるんですけど、とか。肌がかゆくなったわ、とかね。

そのつど、医療者と患者は相談をして、この薬よく効いてますけど少し減らしましょうかとか、似ているけど少しメカニズムが違う別の薬を試してみましょうか、とか、「副作用はそこそこつらいけどがまんできるからやってみたい」というなら、副作用を減らすためのコツをお教えしますので、このまま飲み続けてみましょうか、とか、そういうことをずっとやっていく。


「エビデンスを持ってきて何かをしました」で臨床は終わらないんです。昔、「恋愛はキスでは終わらないのよ」みたいな名言がありましたけどそれと似ています。「医療はエビデンス通りの処方では終わらない」のですね。すみません似てはいませんでしたけどね。

「その先」がある。

ずっと調整し続けることが必要。




医療現場でこのように、さまざまな「現在進行形の治療」が行われて、患者と医療者がずっと二人三脚でやっていくわけですが、そこで、どうやっても調整がうまくいかないことはある。

普通、この病気ならば、あの薬もこの薬も効くことが多いのに、今回に限ってはぜんぜん効きが良くないなあ、とか。

これまで順調だったのに急に具合が悪くなってしまった、医療者も患者もまるで予測できなかった、とか。

ときには、患者も医療者も診療の進み方にはすごく納得しているんだけど、検査のこの結果だけ、どう解釈したらいいかわからないまま、長年わりと無事にようすを見ている病気、なんてのもあるのです。


つまりはこう……ズレとか欠落みたいなものが、現場にはいっぱい存在する。


そして患者さんが亡くなるとする。そのとき、残された医療者は、生前の患者さんの意志を継ぐ意味でも、未来の患者さんに対してまた似たようなことが起こったときにどうしようかと考える意味でも、「ズレたこと、わからなかったこと、見えなかったこと」をそのままにしておきたくないんです。


だから病理解剖をする。


患者さんが生きている間、医療者は、患者の体内で起こっていることを、あたかも壁に耳を当ててとなりの部屋の音を聴くようなイメージで探ろうとします。臓器を直接手に取って見るのではなくて(それをやったら死んじゃう)、検査データや画像データ、診察の結果、そして何より患者さん自身のうったえをよく聞く。間接的に見て、間接的に触るのです。


それでわからなかったことを、解剖で深掘りする。臓器を直接手に取って見る。細胞を顕微鏡で拡大する。遺伝子やタンパク質の異常を深く調べる。壁を破って答え合わせをする。


このことを「死因をあきらかにする」とか、「まれな病態を解明する」と、ひごろは近似して説明しています。でも本当は、もう少し細かい疑問にも答えようとしている。



「なぜこの患者さんは生前、腎機能が、説明の付かないレベルでずっと悪かったのだろう?」


「なぜこのがんは、珍しい場所に転移したのだろう?」


「なぜこの病気は、治療にまるで反応しなかったのだろう?」






さてとまだまだ言いたいことはあるけれど、最後に「あるあるのエピソード」をひとつ。


病理解剖をしたからと言って何がそんなにわかるの? いまどき、CTもMRIも強力だから、わざわざ臓器を直接手に取らなくてもいいじゃん。みたいなことを言う人がいっぱいいますし、じつはぼくもときどきそう思っています。

ただ、ぼくらが解剖をやるとき、「非常によくある」のは……。

解剖がはじまって、臓器を取り出すためにぼくが手を動かしている最中は、主治医といっしょに患者さんのあれこれを振り返るトークをします。手術中の医者が周りと会話するみたいなかんじで。

この、トークの段階で、大きな疑問や小さな疑問が次々と解決していく、ってことがあります。まだ臓器を見る前に、会話だけで

臓器を取り出し終わるころには、臨床医も病理医も、なんというか、「一段進んだステージ」にたどり着いていることがある。本当によくある。

そしてぼくらはこんな会話をする。


「ああ、生前にここまで考えておきたかったなあ」

「いえ、でもそれは、先ほどもお話ししたように、生きているうちはどうやってもわからないことなんですよ」

「たしかになあ……だとしたら、生きているうちに、この考えにたどり着くためには、いったい何を検査すれば良かっただろう?」

「それを知るためにも、今から臓器を実際に見て、顕微鏡でも見て、体の中で本当に起こっていたことをより細かく明らかにしてから、後日、じっくりとカンファレンスをしましょう」

「そうしましょう」


何が言いたいかというと。

「病理解剖の一番のメリット」についてなんですけど。

「普段ちがう仕事をしている病理医という職業人が、主治医と患者の二人三脚の様子を、別の角度から俯瞰してコメントしようとすること自体に意味がある」

と思うんですよね。



会話するだけ? なら解剖しなくていいじゃん、会議でいいじゃん、と思いますか? いやあ、違うんですよ。臨場感がぜんぜん違う。言語化が届かないレベルの、「精細な臨床の絵面」を、死んだ後も患者を見るプロである病理医が実際に「診察」して「検索」していく。そうするとまるで見えてくるものが違うんです。

長くなるからこのへんにしときましょう。今日は疲れたね。だから最後に豆知識をどうぞ。



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2022年5月10日火曜日

マイクに直接イヤホンつなぐってなんか変じゃないっすか

職場でZoom会議をやる。症例検討会もやる。学会の準備もあるし、書籍にかんする悪巧みも多い。そういうのを今まで、安物のヘッドセットひとつでこなしてきた。


しかし今回、とうとう!


マイクを買った!


高いヤツだ。すごくよさそうなやつだ。オーディオテクニカのAT2020USB+、という。16000円以上する。ついでになんか吐息を防ぐシールドみたいなやつと、あと、万力でデスクに固定するアームみたいなやつも買って、マイクを目の前にぶら下げられるようにした。これを導入したのにはわけがある。「日本医学会総会」というでかい学会の準備にあたって、ぼくが何か、音声を使ったコンテンツをやらなければならない……かもしれない、ということで、今までよりも一段よい種録環境が必要になったのである。


で、実際に、このマイクを付けて、ためしにZoomの機能を使って音声のリハーサルをしてみた。すると。


背景のノイズがけっこう気になる。


というか、自分が動く時の衣擦れの音すら拾ってしまっている。なんだこれは、ぜんぜんだめではないか。どうしたんだこのマイク?


……と思っていろいろ調べると驚くべきことがわかった。このマイクは、ラジオ局のスタジオでも使えるほどの高性能で、非常に優れたマイク性能を持っているために、かえって、環境の音をバカスカ拾ってしまうのだという。


だったら安いマイクのほうがよかったではないか!


人に尋ねながらいろいろ聞いてみると、このマイクにはいちおう「この方向からの音ならよく拾うという指向性があるらしい。向きを微調整するのと、あと、Zoomの昨日でノイズを軽減させることで、なんとかきれいな音声が拾えそうな目処がついた。



考え込んでしまう。最近は、ものを選ぶときに、「一番安いやつじゃなく、それなりにいいものを買った方が、長い目で見たときにお得なことが多い」的なことばかり考えていた。外出をしなくなってモノを買わなくなった分、いざ、何かを買うときには多少奮発してでもいいものを買えばいいとばかり思っていたのだ。


でも、マイクという沼……ぼく程度のこだわりのない人間が、さまざまな用途ごとに細かく調整された、専門性の高い領域で、値段が高めであるという理由だけでマイクを選んではいけなかったのである。初心者は初心者らしく、エントリーモデルをもう少しきちんと選び抜くべきだったのかもしれない。だいたいこの16000円もするマイクなんて……



と、ここまで書いて、ふと思いたってマイクの相場を調べてみたところ、たしかにこれより安いマイクは山ほどあるのだけれど、今回のマイクも別に高級品ではなくて、わりとわかりやすいエントリーモデルであった。うーむ。こんなに考えることがいっぱいあるのに、初心者向け、なのか。ぼくは考えこんでしまった。



「わかりやすい医療情報」とかも、ふだん、医療にあまり興味のない人からしたら、ぼくから見たマイク情報なみに、細かくてよくわからん、ってことになっているんだろうなあ。

2022年5月9日月曜日

病理の話(653) ビョウリイングイレブン

いくつか並行して病理AIの研究をしている。うまくいったり、もう少し工夫が必要だったりする。


今や、病理AIの研究者の数は国内に数百人、いや、数千人くらいいる。誰もが使えるオンラインのプログラムで、めんどくさい部分をすっとばしていきなり研究を始められるから、昔ほど専門技術がなくても気軽に研究できる。Nintendo Switchで、子どもでもプログラムっぽい何かができるソフトが出ているのをご存じだろうか? 要は、ああいう感じに近い。学会で「AIを使って何かを成し遂げました」は珍しくもなんともない。ぼくが共同研究者と出している論文の数々も、AI研究に先鞭を付けた人の手間に比べれば、何十分の一くらいの時間しか使っていないし、内容は昔よりはるかに高度だが、同じようなことをしている人たちが国内外にいっぱいいるので、あと半年もしたら古い内容になる。

では、片手間でできるほどの仕事だから研究しない(若い人にまかせる)、とか、いずれ古くなるから研究しない(若い人にまかせる)、という選択肢はあるだろうかというと、ない。ぼくはこの研究をかなり楽しんでいる。

今やっているAI研究がそのままの形で未来の医療に組み込まれることはあり得ない。だから、直接的に「患者のために」やっているのとはちょっと違うようにも思う。それでもぼくはAIの研究を続ける。なぜならAI研究を通じて病理診断自体が深化していく、その過程を目撃することができる状況が、あまりに「おいしい」からである。

これ、何かに例えることができるだろうか。




サッカーのゲームでウィニングイレブンというシリーズがある。

ぼくはたしか大学生くらいのときにはじめてプレイした。今はもう複雑になりすぎていてついていけていないのだけれど、昔はだいぶやりこんだ。

ウィニングイレブンはとてもよくできたゲームだ。昔のサッカーゲームと違って、登場する選手たちにちゃんと個性がある。それも、足が速いとか、ジャンプが高いといった、わかりやすい個性だけではなくて、パスを失敗しやすいとか、トラップが大きくなりやすいとか、それ、どうやってプログラムしてるんだろう、という細かい部分がきちんと再現されている。

しかし、再現されているとは言っても、「所詮はゲーム」だ。昔、ぼくがウィニングイレブンをプレイしていたときには、人間ではあり得ない角度のドリブルを無理矢理させて、人間なら上がらないであろうタイミングでのクロスボールをあげさせて、人間ならそんな頻度ではできないであろうダイビングヘッドをめちゃくちゃやろうとしていたし、そういうことが実際にできた。

ところが、ウィニングイレブンがシリーズを重ねるごとに、そういう、「人間であればできないはずの動き」はゲームでもだんだんできなくなっていった。

おそらく、開発陣は、常に最高のサッカーゲームを作ろうと思ってその都度最新のプログラムを組んで、世に出して、みんながそれを遊んで、そこで出てきた「実物と比べたときの違和感」や、「ある程度ファンタジーだけどゲームでしか楽しめない部分」のバランスをずっととり続けてきたのだろう。

おかげで今のウィニングイレブンはかなり「リアル」である。もちろん現実のサッカーとはいつまでも別モノであるが、「ハァ? ゲームと現実は別じゃん」という評価では収まらなくなってきている。もうちょっとなにか、別種の、違う関係になりつつある。

「このディフェンダーの動きはゲームだからこうやって反応できるけど、実際には人間はこのタイプのドリブルに対してこういう反応は難しいよな」とか、「ゲームみたいにサイドバックがこの動きをずっと繰り返せりゃいいけど、実際には途中で心が折れたりするんだよな」みたいなことを、かなりリアルなゲームをやっている間中、たまに考える。これはサッカーの素人であるぼくが言うことではなくて、先日、小学校から社会人までずっとサッカーをやっていた同い年の友人が教えてくれたことだ。「ウィイレやってるとさー、自分のサッカーを振り返ることもあるんだよな。」


友人がそう言ったとき真っ先にぼくが考えたのが病理AIのことだった。「病理AIやってるとさー、自分の病理診断を振り返ることもあるんだよな。」

AIが行う診断のメカニズムも結果の出力方式も、ヒトのそれとは違う。違うが、一部、似ている部分がある。AIが進化するにつれて、だんだんその「リアルさ」がヒトに近づいて来た。ただし、近づいてはいるのだけれど、そもそも病理AI研究者は(ぼくもふくめて)ヒトの診断が最高のものだとは思っていない。よりよい治療、よりよい医療のために、AIを研ぎ澄ませてどのようなアウトプットをさせたら一番役に立つかということを考えていた結果として、「ヒトとは違う診断方法」を残したまま、AIはパワーアップしていく。そういうのをぼくは、研究をしながらじっと見る。見て、「うっ、これ、人間だったら絶対やらない方法をとっているけれど、それでこの精度で診断できちゃうのか……」なんてことをよく考える。

「人間だってこのやり方で診断しようと思えばできるはずなんだけど、現実的に、これをやると、現場でこれこれこういう不都合が起こりそうだから、人間はやらないんだよな、でも、AIはこれをやる、なぜだろう?」みたいなことも考える。

ウィニングイレブンをプレイしながら、実際のサッカー選手が自分のプレイを振り返るときのように、ぼくもまた、病理AIの研究をしながら、自分の診断の可能性を振り返っているのだ。これはちょっと楽しすぎてうけるぞ。みんなももっとやればいいのに。

2022年5月6日金曜日

紅歴史

ときおり本を読むのだけれど、最近はよくないことに、ついイヤホンを用意して音楽をかける。

気が散る。

歌詞があるのがよくない。口ずさんでしまったりする。文章を目で追いながら、気もそぞろになって、いつまでも同じ行を何度も行き来していたりする。

Lo-fiのchillならいいか、みたいに途中で切り替えたりもする。この「音楽の切り替え」の時間でまた、集中が途切れてしまう。


そもそも、読書の最中には音楽は必要ない。

しかし、最近はつい音楽をかけてしまう。どうしてだろう。

もともとは車での移動中に音楽を聴いていた。けれどもちかごろはあれもこれも、聴きたいPodcastがいっぱい増えてしまって、移動中はほぼフルでPodcast漬け。だから、音楽らしい音楽を聴かなくなった。

「読書に使えるくらいの自由時間」があると、本を手に取りながらも、つい、「音楽聴くのだって今しかできない」みたいな気持ちが湧いてくる。

「今この瞬間はこれだけをやろう」という時間の使い方ができない。

ある種の貧乏性だ。せっかくの空き時間だから、あれもこれも……。



こうして考えているうち、ぼくは、昔から脳内にすごくわかりやすい「あこがれイメージ」があったことに気づいた。

大柄で引き締まった体型の老人。ログハウスにいる。暖炉の前でアームチェアに座っている。小さなテーブルに、ロックグラスが置いてあって、氷は入っていなくて、中にはウイスキーか何かが少し注がれている。横に大型犬が寝ている。老人はカバーのついていない文庫本を読んでいる。それはきっと五大陸がまだ踏破されていなかった時代の冒険記か、もしくは戯曲の台本だ。

椎名誠なのか、高倉健なのか、元は武闘派だったはずの大きな男性が黙って本を読んでいる姿に、ぼくはずっとあこがれていた、しかもそれにあこがれていたことを今日までずっと忘れていた。今を去ること二十年ちょっと前、ログハウスではなく、アームチェアもない、一人暮らしの安いアパートで、毛足のやや長い安物のラグを買い、座椅子を置いて背もたれにして、何かちょっと「そういう格好」がつくような時間を過ごすためにどうしたらいいかと若いぼくは試行錯誤を始めた。ラグと座椅子を同時に使うとほこりがたまって面倒だ、ウイスキーを飲みながらの読書だとすぐに眠くなってしまうとか、暖炉の火がはぜる音の代わりになるのは何だろうとか、どういう本を読むと一番絵になるのだろうかとか、そういう微調整をし続けているうちに、いつしか、心の芯の部分にあった根源的なあこがれみたいなものの周りに大量の蔦が生えて、ログハウスは森に飲まれて見えなくなってしまった。



あこがれを満たすための読書。内容を必要としない読書。ガワから入ったぼくは、しかし、あれもこれも試し、あこがれからの遠ざかりを自覚することもなく、多忙にかまけて本を全く読まなかった日々をまたいで、元のあこがれを忘れて、惰性で本そのものに没入することにいつしか小さく喜ぶようになっていた。しかし、おそらく、根っこの部分がまだ欲望を失っていなくて、ぼくはおそらく言語化する前の粗い感情の部分で、本を読むときに暖炉の火がパチパチはぜる程度の音がないのは「あのイメージに反する」とぼんやり感じているふしがある。いまだに戯曲の台本は読む気がしないし、冒険記も、古い翻訳ものだと途中で文体にゆさぶられて眠ってしまうのだが。

2022年5月2日月曜日

病理の話(652) 昔より今のほうが大変なら昔話をしている場合ではない

かつての医学生が大学で習った「ゲノム」の知識。今や、中学や高校の理科で習うのだという。すごいな、将来生命化学をやらないであろう人が山ほど受講するカリキュラムで、ここまでやるんだ……。

「免疫」あたりもすごいぞ。B細胞とT細胞とNK細胞、そして樹状細胞やマクロファージの話が定期試験に出ると聞いた(YouTube動画でもそういう試験対策があったりする)。「はたらく細胞を読んでおかないと生物の試験が解けない」みたいなレベルである。


一方で、物理、化学、数学の教え方は、予備校が出している動画とか、書店に並ぶ参考書をぱらぱらめくってみる限り、昔とほとんど変わっていないように見える。細かいところでは、数学Cがなくなっているみたいな違いがあるのだけれど、ごく一部の超絶受験大学で扱う難問が変わったという話を無視すれば、昔も今もだいたい一緒だ。

英語や国語はどうかな……骨子は変わっていないが要素が変わっている、みたいな感じかもしれない。


こうして考えると生物は特別だなあと思う。必修レベルで求められる知識、その内容はもちろんだが、なにより量が20年前とは雲泥の差である。めちゃくちゃ増えた!

生命化学は、年単位でどんどん積算されていく情報を扱う分野だ。あたかもWindowsパソコンが20年前と今とでは搭載している容量が何千倍も違う、みたいな話である。



「理系科目だと生物かもしれないけど、社会はどう? 社会だって変わったじゃん、特に歴史とか。」

たしかに、歴史が積み重なれば、社会で習う内容も右肩上がりに増えていくよな。昔話だけど、高校で日本史を選択したとき、「近代」の項目が異常に多くてびっくりしてしまった。

「いくやまいまいかやおてはたかやき」。

伊藤博文、黒田清隆、山県有朋……頭文字で無理矢理覚えながら、「これって、総理大臣が増えるたびに、暗記する内容も増えるってことだよな」と呆然とした記憶がある。

その意味では生物は社会と似ている。証拠の積み重ね、経験の参照、過去をひもといて未来に備えようとする姿勢。



今日は「病理の話」なので、病理学とか病理診断の話をここにくっつける。病理医が習わなければいけない内容もまた、かつてより確実に増えている。「中学・高校生物」がどんどん複雑になっていくのと同じ事だ。

かつて、病理医になってから論文などで勉強した全エクソーム解析、エピジェネティクス、マイクロビオーム、これらはもはや医学生向けのテスト問題に出るのだからびっくりする。研究的な話だけではない。「自己免疫疾患と自己炎症疾患の違い」、「ピロリ菌未感染胃に出現し得る病変の鑑別」、「免疫チェックポイント阻害剤を使うにあたって必要な外注検査の種類」。ちょっと前まで学会・研究会で目にした内容だが、いまや、「ごく普通の病理医が知っておかなければいけないこと」だ。研修医・専攻医(専門医を取る前の人)のうちから勉強しておかなければいけない。さらっと言ったけど大変なことだ。


昔よりいっぱい勉強しなきゃいけないんだね~、で話を終わらせるつもりはない。


そもそも研修医や専攻医と呼ばれる「タマゴたち」が病院で過ごす時間は、昔より減っている。自分の生活や家族との時間を圧迫するようなブラックな勤務・研鑽がだんだん許されなくなってきた。それ自体はいいことだ、人生も華やかになるだろう。でも、当のタマゴたちは困惑している。

「覚える内容が多いのに勉強時間が減ってる、これ、どうしたらいいの?」

できるだけ早く独り立ちしたいけれど、病院がそんなに働かせてくれない……と、空回りしてしまう若者たちもいるようだ。


でも、焦ることはない。ていうか、もう、個人の努力でどうにかしようなんて、物量的に無理である。

はっきり言って、今の病理学は、2年(初期研修修了)とか5年(後期研修修了)とか、なんなら7,8年(専門医取得)ほど死ぬ気でがんばったところで、絶対に履修しきれない量になっている。

月に何回徹夜しようが、365日連続勤務を何年も続けようが、無理。

となれば……以前と同じ価値観で、専門を急いで極めようとしなくていい。

「病理専門医をとれば一人前、病理専門医をとるまえに必死に勉強してあとは悠々自適」みたいな考えで、自分のキャリアプランを狭めないほうがよい。



かつて、若いうちに急いで医学・医術を極めるにあたっては、休日出勤、夜討ち朝駆け、病院に泊まり込むくらいの気合いが必要だとされてきた。実際ぼくもそうやって、早く「一人前の病理医」になりたいと願った。10年そうやって頑張って、体も家庭もぼろぼろだが、ようやく一人前になれたかなー、と思わなくもなかった。

しかしそこには落とし穴があった。10年間徹夜で勉強している間も医学は進歩しており、技術もまた10年分先に進んだ。つまり、長い医者生活の「たかだか最初の10年」で体を壊すほどがんばって勉強をしてたどり着いた場所は、そもそも、「最新の病理学」のごく一部でしかなかったのだ。

じゃあ、さらに10年、同じペースで働けるか? 無理だと思った。思ったというか、体が追いつかなかった。20代のつもりで徹夜をしても効率はそれ以上あがっていかない。


じゃあ、どうする?


病理医という仕事は、脳だけでしっかり貢献することができる(立ち仕事・体育会系の仕事とは異なる)ので、70歳になってもキレ味衰えることなく働ける。「勤務寿命」が長い。そうやって、「上」が長く病院で働ければ、下の人たちの業務は程良い量に抑えることができる。ぼくはここにひとつの解決方法が見えると思っている。

そもそも、下の人たちがあわてて一人前になるなんてないのだ。「上さえきちんと働き続けてくれれば」。

しかも……。

病理医として最低限の知識を(古いとは言え)身につけている「上」こそ、最新の医学を常にアップデートすることにおいては若手よりも楽な環境にいる。

だったら。

若手よりも楽に勉強できるくらいに「上」になったのだったら。

若手が困っている雑用や、勉強にならないけれど必要な業務を、「上」がどんどん代わってやるべきだ。残業するべきは「上」である。若い人のタスクを引き受けて、少しでも若手が勉強できるように、「上」が汗をかけばいい。



大きく肥大した、病理診断という学問の世界。ここをそぞろ歩く上で、もっとも大事なのは、「自分ひとりの努力でどうにかしようとしない」ことだ。周り、特に「上」と連携して、知識や労力を補い合うことだ。いざというときにオンラインでもオフラインでもいいから「一番詳しい人」に秒で繋がれる環境にいることだ。

一人前になんて一生なれない、それが令和の病理学である。「みんなでスクラムを組んで一人(?)前」ということを、しっかりと理解する。

自分一人で学問をしょいこむような気持ちになって、自分ばかりが徹夜徹夜とやる必要はない。というか、やらないほうがいい。年を取っても長く働けるように、自分が一生勉強し続けられるだけのペース配分をするべきだ。

短距離走では42キロは走れない。徹夜と休日出勤で42年(28歳で大学院を出たぼくが70歳まで勤めれば勤務は42年である)はもたない。

マラソンの気分で一生勉強をする。膨大になった医学の知識を自分がすべて背負うなどというはかない夢を見ない。「俺一人では無理だが、俺たちなら別だぞ」という関係をきちんと作る、そのために必要なのは……。

いくつになっても勉強を続けるタイプの、若手の業務量に応じて仕事を調整して初期の勉強をしっかり整えてくれる、話のわかる上司。




その上でなお、徹夜したいという若手もいる。ま、わかるよ。やれるとこまでやってみな。でも、無理はしないで。