2022年5月12日木曜日

タイムマシンの価値

昔に戻りたいと思ったことは残念ながら一度も無い。ただ、忘れてしまいそうな昔の風景を、もう一度目に焼き付けて、これ以上忘れないようにしたいと思うことはある。そのためにならタイムマシンに乗りたいと思う。


大学時代によく通っていたのは、札幌市北区、地下鉄南北線・北18条駅から徒歩2分の「カネサビル」である。客のほとんどは北海道大学の学生、通称北大生で、ほかに近隣の大学や専門学校の学生も出入りしていたとは思うが、基本的に北大生、雑居ビル内のどの飲み屋にも北大生がパンパンに詰まっていた。ビルとは言うが2階までしかなく、エレベーターもなく、1階には入ったことのないカラオケスナックや居酒屋、飲み屋があって、でも当時は1階の店には一度も入ったことがなかった、店の名前も茫漠として全く思い出せない。狭く危険な階段を上がった先に、さらに4軒の飲み屋があって、その4軒にはそれぞれ入ったことがあった。どこがどこだったのかは一部記憶がおぼろげであるが、右奥にあった通称「つくし」と、左真ん中にあった「ばっぷ」の2軒に私は居着いていた。剣道部の先輩たちに連れられて入った「つくし」は、ママさんが一人で切り盛りしているメニューの多い居酒屋で、カウンターよりも畳の小上がりが人気で、かますチャーハンや米米チーズ、ナスときのこのチーズ焼きなどを好んでオーダーしていた。基本的にはビールをビンで飲んでいたが場が温まるとなぜかよく「一の蔵」を飲んでいた記憶がある。


金曜日の夜、剣道の稽古が終わるのが夜9時、そこから片付けて「つくし」にたどり着くとスタートは9時半。晩飯を食い酒を飲むと当時11時半だった終電までにお腹がいっぱいになることはなかった。先輩達はほぼ全員が大学のそばで一人暮らしをしていたが、当時まだ実家から通っていた私は途中で帰らなければいけないのが嫌で、実家から通えるにもかかわらず大学周辺に貸間を見つけて、家賃17000円の部屋で暮らすようになった。風呂なし、シャワー・トイレ共同、8畳一間で水道しかついていない小さな流しがあり、ドアにはボタンをプッシュするタイプの、いまどきトイレでも見なくなったチープなカギがついていた。貴重品は絶対に部屋の中に置いておけなかったが、貴重なものを持ち込めるほど金のある人間はあそこには住まなかったと思う。そんな部屋でできることなど何もないから私は次第にカネサビルへ足を向ける頻度が増えた。


剣道部員と行くときはとにかく「つくし」、それに対して一人で飯を食って酒を飲むときはもっぱら「ばっぷ」であった。「ばっぷ」はとにかく小さい店だった。引き戸をあげるとすぐ小上がりになっていて、その奥に「掘りごたつ」のように足をつっこむカウンターがあって、カウンターの向こうはマスターの作業するスペースだ。客がいていいスペースはせいぜい8畳程度だったのではないかと思う。そこは小さな秘密基地だった。明かりが必要以上に暗くないのがよかった。入り口に小さな靴置きスペースがあり、そこで靴を脱いで少し高くなった床の小上がりスペースには四角い座卓が2つあって、座卓にはそれぞれ4人ずつ座るともう店はいっぱいだ。たまに友人が友人を連れてくると貸し切り状態であった。私は部活の稽古がなかった火曜日や木曜日の夜、あるいは稽古があっても家に帰りたくない水曜日の夜遅くに「ばっぷ」を訪れ、小上がりをやりすごしてカウンターに一人で座って、マスターの作るキムチチャーハンを食ったあとはマイヤーズ・ラムをひたすらコーラで割りながら何時間もそこにいた。マッドマックスの1作目を見たのも、水曜どうでしょう・西日本カブを見たのも、NYのツインタワーに旅客機が突っ込んだのを見たのも、一人目の妻と出会ったのもすべて「ばっぷ」の店内だった。私は大学4年のときに東日本の大会で団体優勝し、その後、秋に剣道部の主将になるのだが、大晦日の直前あたりで医学部剣道部に稽古をしにきていた近隣の女子大の学生に反旗を翻され、「もっとゆっくり明るく楽しい剣道をする部活にしてほしい、ついては主将の稽古は厳しすぎるから剣道部をやめてほしい」と言われて何かどうでもよくなってしまい剣道部をやめた。その際、歴代の主将たちが私をなぐさめてくれたのも「ばっぷ」の店内だったし、明るく楽しくなった剣道部からなぜか女子部員たちが大量に辞めた次の年の春、私が主将だったときに副主将だった、今は新しい主将となっていた後輩が私と話したいと言って、「もう一度剣道部に戻ってきてくれませんか」と言ったのも「ばっぷ」だった。


「ばっぷ」のマスターはずっと「ばっぷ」をやっていたが、その後、とつぜん隣にあった「多良福」という店をなじみのママから買い取って、軽く改修して「タラフク食堂」という名前で新たに居酒屋をはじめた。旧「ばっぷ」は誰か知らない人に引き継いだのだようで、その後も長いこと「ばっぷ」のまま営業していたが、私は店には憑かず人に憑くタイプだったので「タラフク食堂」に通うようになった。このあたりの時系列はもはやよく覚えていない。私は「タラフク食堂」でもたまに朝まで飲んだりしていたと思うのだけれど、どの話が「ばっぷ」時代で、どれが「タラフク」時代なのかがこんがらがってきている。


大学院を卒業するころには次の人生が待っていた、荒波に揉まれているうちに波濤に洗われるように20代の記憶は失われてしまった。唯一こうして語れる「ばっぷ」とその周囲のことについても、じつはもうほとんど忘れてしまっていて、上に必死で書き起こしてみた内容以外、多くのことが脳から散逸してしまった。こんな、1日でブログに書ける程度のことしか経験しなかったわけではないのだが。