気が散る。
歌詞があるのがよくない。口ずさんでしまったりする。文章を目で追いながら、気もそぞろになって、いつまでも同じ行を何度も行き来していたりする。
Lo-fiのchillならいいか、みたいに途中で切り替えたりもする。この「音楽の切り替え」の時間でまた、集中が途切れてしまう。
そもそも、読書の最中には音楽は必要ない。
しかし、最近はつい音楽をかけてしまう。どうしてだろう。
もともとは車での移動中に音楽を聴いていた。けれどもちかごろはあれもこれも、聴きたいPodcastがいっぱい増えてしまって、移動中はほぼフルでPodcast漬け。だから、音楽らしい音楽を聴かなくなった。
「読書に使えるくらいの自由時間」があると、本を手に取りながらも、つい、「音楽聴くのだって今しかできない」みたいな気持ちが湧いてくる。
「今この瞬間はこれだけをやろう」という時間の使い方ができない。
ある種の貧乏性だ。せっかくの空き時間だから、あれもこれも……。
こうして考えているうち、ぼくは、昔から脳内にすごくわかりやすい「あこがれイメージ」があったことに気づいた。
大柄で引き締まった体型の老人。ログハウスにいる。暖炉の前でアームチェアに座っている。小さなテーブルに、ロックグラスが置いてあって、氷は入っていなくて、中にはウイスキーか何かが少し注がれている。横に大型犬が寝ている。老人はカバーのついていない文庫本を読んでいる。それはきっと五大陸がまだ踏破されていなかった時代の冒険記か、もしくは戯曲の台本だ。
椎名誠なのか、高倉健なのか、元は武闘派だったはずの大きな男性が黙って本を読んでいる姿に、ぼくはずっとあこがれていた、しかもそれにあこがれていたことを今日までずっと忘れていた。今を去ること二十年ちょっと前、ログハウスではなく、アームチェアもない、一人暮らしの安いアパートで、毛足のやや長い安物のラグを買い、座椅子を置いて背もたれにして、何かちょっと「そういう格好」がつくような時間を過ごすためにどうしたらいいかと若いぼくは試行錯誤を始めた。ラグと座椅子を同時に使うとほこりがたまって面倒だ、ウイスキーを飲みながらの読書だとすぐに眠くなってしまうとか、暖炉の火がはぜる音の代わりになるのは何だろうとか、どういう本を読むと一番絵になるのだろうかとか、そういう微調整をし続けているうちに、いつしか、心の芯の部分にあった根源的なあこがれみたいなものの周りに大量の蔦が生えて、ログハウスは森に飲まれて見えなくなってしまった。
あこがれを満たすための読書。内容を必要としない読書。ガワから入ったぼくは、しかし、あれもこれも試し、あこがれからの遠ざかりを自覚することもなく、多忙にかまけて本を全く読まなかった日々をまたいで、元のあこがれを忘れて、惰性で本そのものに没入することにいつしか小さく喜ぶようになっていた。しかし、おそらく、根っこの部分がまだ欲望を失っていなくて、ぼくはおそらく言語化する前の粗い感情の部分で、本を読むときに暖炉の火がパチパチはぜる程度の音がないのは「あのイメージに反する」とぼんやり感じているふしがある。いまだに戯曲の台本は読む気がしないし、冒険記も、古い翻訳ものだと途中で文体にゆさぶられて眠ってしまうのだが。