3年ほど前に本屋で買ったとある哲学の本がある。読んですぐに挫折して、本棚に挿したままであった。
このたび、一念発起して冒頭から読み直して、数ヶ月かけてようやく読み終えた。この3年にほかにさまざまな本を読んで、多少なりとも哲学の本のスタイルに慣れてきたことが、今回読了できた理由ではあるだろう。
しかし、読み通したというのと、理解したというのはまったく別である。
かろうじて最後まで読めはしたものの、何を言っているのかは結局難しくてよくわからなかった。言い回しが難解なことにも理由があるのだということ、「困惑させられている今の自分の感情は、書き手・しゃべり手が狙って引き起こそうとしたものなのかもしれない」ということくらいまでは考えられるようになったけれど。
ま、最低限の読書はできた。何かを受け取ることはできたのだ。それはよかった。
読み終えた本を見ながら、この本はもともと、学生向けの講義なんだよな、ということを考える。さまざまなキャリア・立場の人が本のもととなった講義を受けたはずである。その中には、高校を出たばかりの10代の若者もいたことであろう。
その若者たちはいったいどうやってこんな難しい話を読めるのだろうか? 東大や京大で哲学をやっているような人たちのすごさに舌を巻く。まったく、地頭の違いにもほどがある。そういう人たちが「入門」と呼ぶような本を読むために、これだけ年を取らなければならず、これだけ挫折をくり返さなければならなかった自分の脳を、多少なりともいとおしく感じる。
合う・合わないの問題ではない。タイプ・指向性として片付けるべき話でもない。文系理系の別も関係ない。ぼくが決して100メートルを9秒台で走る過去がありえなかったように、ぼくはいつから何度やり直しても、20代でこのような本は読めなかったと思う。しかも、今も、「これを読める人はこうやって楽しむのだろうな」というニュアンスを理解している程度で、本当の意味で「読破」できたわけではない。ぼくがどうやってもたどり着けない場所に誰かが「いる」。
ぼくがどうやってもたどり着けない場所に誰かが「いる」ということに、ぼくはなぜか安心する。
「ぼくがどうやってもたどり着けない場所にいる人」の感じ取っているニュアンスが、たかだか数千文字くらいの漢字、かな、アルファベットで、「おおよそ届けてもらうことができる」ということに驚く。本というのはすごい。人間、おたがいに完全な他者であり、心のうちで感じ取っていることを完全に共有することは絶対にできないのだけれど、おたがいに完全な他者でありながらも、ある程度、「うわっつら」の部分くらいは、いちおう、やりとりできる状態になっているのがすごいと感じる。つまりは言語ってとんでもないなという話になるのだけれど、「言語ってとんでもないよな」ということを、哲学者たちはずーっと昔から、さまざまに変奏しながら言い続けているわけで、ぼくがそういった先人達の感動を、後追いで反復していくことに、小さな喜びとふしぎな嫉妬のような感情がわきでてくること、これこそが俗に言う「好奇心」の正体なのだろう。
病理AI研究のことを考えている。がんの細胞形態は、がんという現象の、一面の表現型でしかない。それを人が便宜的に、形態診断と称して、分類して、差異を見出して、一部のニュアンスについては省略・無視・切り捨てを行いながら、医療の役に立てようとする。H&E染色を用いて強調し、顕微鏡で観察し、免疫染色でさらにタンパク質の発現をピックアップして、これらを「病理学用語」を用いて表す。人はがんという概念を共有するにあたって、ものすごい数の記号を導入して、固有の特徴を記述して、医療の役に立てようとする。ところが病理AIは、人と一部は共通するけれど、一部はあきらかに異なる「記号」を用いるのだ。それを人は一方的に「ブラックボックス」などと言うけれど、病理AIがブラックボックスだと思っている人なんて最先端の研究者には一人もいない。病理AIというのは閉じた箱ではない、ただ、用いている言語体系が人のそれとは違い、あるいは、記号化すらせずにニュアンスだけを統計的に解析していることも、どうやら、ある。これはつまり……病理AIがヒートマップに出力していく結果を眺めていた深夜……これはもしや……「エクリチュールなきパロール」、もしくは、「シニフィエそのもの」なのではないか、いや、所詮は病理AIも、人が病理診断の役に立つように、人の言語で組んだプログラムなのだから、そんなことはあり得ないのだろうか……なんてことを考えながら、コーヒーを飲んで、舌をやけどした。